今回の考古学・歴史ニュースは
「ラオス北部に2,100基以上も残された巨大石壺が、巨人の酒壺ではなく、死者を何度も迎え入れる葬送施設だったかも、石壺が置かれてから千年以上後まで祖先祭祀が続き、ついにはひとつの石壺から、何世代にもわたる少なくとも37人分の骨が発見された!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰はじめに
ラオスの山中に立ち並ぶ、2,100基以上の巨大な石壺。
文字による記録はない。造った人々の名前も、話していた言葉も分からない。周囲には大都市も宮殿も見当たらず、残されたのは、人間の背丈を超える無数の石壺だけである。
地元の伝承では、巨人の王が勝利の酒を醸すために造ったという。
しかし2022~2024年に行われた発掘調査では、その石壺のひとつから、少なくとも37人分の人骨が発見された。
しかも彼らは、一度死んで埋葬された後、再び骨を集められて石壺へ納められた可能性があるらしい。
今回は巨人の祝宴から始まり、鉄器時代の東南アジア、1930年代の調査、日本人考古学者も参加した1990年代の発掘、戦争と不発弾による研究の中断、そして37人の骨が見つかった最新調査まで、ラオス「ジャール平原」の長い謎を追いかける!
↑確かにでかいし、たくさんあるなぁ( ・Д・)(「Wikipedia」の画像より転載)
🍶 巨人の王は、石壺で勝利の酒を醸した?
ラオス北部のシェンクワーン高原には、かつてクン・チュアンという偉大な王がいたと伝えられている。
クン・チュアンは人々を苦しめていた敵の王を倒し、その勝利を祝うため、巨大な壺を造らせた。そして壺いっぱいに米から造った酒を満たし、人々と盛大な祝宴を開いたという。
別の伝承では、この高原には人間よりはるかに大きな巨人族が暮らしており、彼らが酒を醸すために使った壺が、そのまま残ったともされる。
たしかに、目の前に高さ2~3メートルの巨大な壺が並んでいたら、「これは巨人が使ったに違いない!」と思ってしまうのも無理はない。
だが、石壺は焼き物ではない。
砂岩や花崗岩、礫岩、石灰岩などの大きな岩塊を削り、中をくり抜いて造られている。既知の石壺は2,100基を超え、世界遺産に登録された15の構成資産だけでも1,325基が含まれる。
「ジャール平原」という名前から、広い平地の一か所に壺が密集しているように思えるが、実際には120か所を超える遺跡が、盆地の周辺にある丘の斜面、尾根、鞍部、森林内などに分散している。
つまり、これは単なる「壺の置き場」ではない。
山々を結ぶように広がった、巨大な石壺の考古学的景観なのである。
⛰️ 30トンの石壺を、誰が8キロも運んだのか?
石壺の年代については、長いあいだ紀元前500年頃から西暦500年頃、すなわち東南アジアの鉄器時代を中心とするものと考えられてきた。
しかし2021年、石壺の下にある土を光刺激ルミネッセンス法で測定した結果、サイト2の一部の石壺は、紀元前1240~660年頃には現在の場所へ設置されていた可能性が示された。
この方法は石そのものの年代を測るのではない。石壺の下に閉じ込められた土が、最後に太陽光を浴びた時期を推定するものである。
したがって、すべての石壺が紀元前1240年に造られたという意味ではない。それでも、一部の石壺が従来考えられていた鉄器時代より古く、紀元前第2千年紀末まで遡る可能性が出てきたことは大きい。
さらにサイト1の石壺に含まれるジルコンを分析したところ、約8キロ離れたプーケンの採石場にある砂岩とよく一致した。そこには岩盤から切り出す途中で放棄された石壺や、荒削りのまま残された製品もある。
問題は運搬方法である。
現地の地形は平坦な道路ではない。起伏のある山地を越え、数トンから、最大級では30トンを超えるとも推定される石壺を運ばなければならなかった。
木製のそりや丸太を使った可能性は考えられているが、実際の運搬施設や道具は発見されていない。
これほどの作業には、多数の人間、石工の技術、食料供給、作業を指揮する仕組みが必要だったはずである。しかし、王宮や都市の跡は見つかっておらず、彼らが王国を形成していたのか、複数の共同体が協力したのかも分からない。
当時のシェンクワーン高原は、メコン川流域と紅河・トンキン湾方面を結ぶ交通路の途中にあった。農耕や金属器、土器製作などの技術が東南アジア各地へ広がるなか、この高原も孤立した辺境ではなく、人と物が通過する結節点だった可能性がある。
石壺を造った人々は、名前こそ残さなかったが、決して世界から切り離されていたわけではなかったのだ。
↑場所はここ!( ・Д・)(Skopal et al. 2026, Fig.1より転載)
🔎 1930年代に「死者の壺」を見抜いた女性考古学者
ジャール平原を本格的に調査したのは、フランスの地質学者・考古学者マドレーヌ・コラニである。
1930年代初頭、コラニはシェンクワーン高原の石壺遺跡を歩き、壺の形や位置を記録するとともに、壺の内部や周囲を発掘した。
そこで見つかったのは、焼かれた人骨や歯、ガラス玉、カーネリアン製の玉、土器、耳飾り、紡錘車、鉄器、青銅器などだった。
さらに石壺の周囲からも、土坑に納められた人骨や副葬品が出土した。
コラニは1935年に全2巻の大著『Mégalithes du Haut-Laos』を刊行し、石壺が葬送儀礼と関係していると論じた。その研究は、英訳版で800ページを超えるほど膨大なもので、現在もジャール平原研究の出発点となっている。
ところが、その後の現地調査は長く停滞した。
研究が本格的に再開されたのは1990年代である。1994年には鹿児島大学の新田栄治とラオスの考古学者トンサ・サヤヴォンカムディらがサイト1を調査した。
人形のような像が刻まれた石壺の周囲を掘ると、平たい石で覆われた7基の土坑が現れた。中には焼かれていない人骨や歯、鉄製の刀子、ガラス玉などがあり、別の土坑からは人骨を納めた高さ約60センチの土器棺も発見された。
この結果、石壺そのものが一人の遺体を納めた単純な石棺なのではなく、周囲に複数の埋葬を配置した「墓地の中心」や「祖先を示す記念物」だった可能性も浮かび上がってきた。
しかし、調査を阻んだのは古代の謎だけではなかった。
1960~70年代の戦争によって、シェンクワーン高原には大量の爆弾が投下された。地表に残る巨大な穴の一部は、考古学的な遺構ではなく爆撃の跡である。
不発弾は住民の生活を脅かしただけでなく、測量や発掘を行う考古学者にとっても大きな障壁となった。世界遺産に登録された構成資産では不発弾処理が進められたものの、周辺地域や新たに確認された遠隔地では、現在も慎重な調査が必要とされる。
ジャール平原の研究史は、考古学の歴史であると同時に、不発弾を除去しながら失われた文化を取り戻してきた歴史でもある。
⚱️ 墓なのに、なぜ石壺の中は空だったのか?
発掘が進むにつれ、石壺遺跡では複数の葬り方が行われていたことが分かってきた。
遺体をそのまま地中へ葬る一次葬、遺体が腐敗した後に骨を集め直す二次葬、骨を小型の土器へ納める土器棺葬、そして石板の下へ骨をまとめて置く埋葬である。
問題は、巨大な石壺の大部分が空だったことだ。
内部から焼けた骨片や歯が見つかる場合はあったが、成人の全身骨格をそのまま納めた明確な例はほとんどなかった。一方で、壺の周囲には人骨や土器棺が集中している。
そこで考えられたのが、石壺を使った多段階の葬送である。
まず遺体を別の場所、あるいは小型の石壺で腐敗させる。その後、残った骨を選び、大型の石壺へ移す。一定期間が過ぎると、骨を再び取り出し、石壺周囲の土坑や別の墓地へ埋葬する。
もしこのような儀礼が行われていたなら、現在の石壺が空であることも、壺の周囲から多数の人骨が出土することも説明できる。
さらに大きな問題が、石壺と埋葬の年代差だった。
サイト2では石壺の設置が紀元前1240~660年頃まで遡る可能性がある一方、サイト1周辺の人骨や木炭には西暦9~13世紀の年代を示すものがある。
つまり、石壺が置かれてから千年以上後まで、人々が同じ場所を葬送や祖先祭祀に利用していた可能性がある。
ジャール平原は一度造られて放棄された墓地ではなく、異なる時代の人々が、古い石壺へ新しい意味を与え続けた「生きた聖地」だったのかもしれない。
↑けっこう露出してるのね、そして確かに骨たくさん!( ・Д・)(Skopal et al. 2026, Fig.2, 3より転載)
🦴 巨大石壺の中から、37人分の骨が現れた!
長年の謎を大きく動かしたのが、シェンクワーン県サイト75の調査である。
サイト75はポーンサワンから北東へ約70キロ離れた山中にあり、これまで発掘されたジャール平原の遺跡では最も北東に位置する。
調査の対象となった「石壺1」は、礫岩から造られた大型品で、底部の直径は約2.05メートル、残存する高さは約1.3メートル。側面は崩れていたが底部が残り、内部の堆積物も大きく乱されていなかった。
2022~2024年の3回にわたる発掘で堆積物を少しずつ取り除くと、内部から大量の人骨が現れた。
骨は一体ずつ整然と並んでいたわけではない。
頭蓋骨は壺の縁に近い部分へ集まり、腕や脚の長骨は束のようにまとめられていた。小さく壊れやすい骨は少なく、全身骨格としてつながった状態のものもほとんどなかった。
歯の数から計算された最小個体数は、少なくとも37人。約1歳半の幼児から成人まで、さまざまな年齢の人々が含まれていた。
これは戦争や疫病によって37人が同時に死亡し、一度に投げ込まれた集団墓ではない。
人骨と歯の放射性炭素年代は西暦890~1160年頃に分布しており、石壺は最長で約270年間、何度も繰り返し使用された可能性がある。
骨の多くは、遺体が別の場所で腐敗した後に集められたものと考えられる。つまり彼らは一度葬られ、骨となった後、もう一度石壺へ迎え入れられたのだ。
ただし、一部では頭蓋骨と下顎骨が近い位置に保たれていた。完全に白骨化する前の遺体が納められた可能性や、二次葬の際に頭部を組み直して丁寧に置いた可能性も残る。
さらに少なくとも2人には、生前に特定の前歯を抜いた「抜歯」の痕跡があった。
意図的な抜歯は、先史・古代の東南アジアや中国南部でも確認されている。成人儀礼、所属集団、身分、身体装飾などとの関係が考えられるが、サイト75の人々がなぜ歯を抜いたのかは、まだ分かっていない。
🌏 死者と一緒に、インドとメソポタミアがやって来た
石壺1から見つかったのは、人骨だけではない。
土器、鉄製の刀子、小型の銅合金製鈴、石板、そして20点のガラス玉が伴っていた。
このうち12点のガラス玉を化学分析したところ、9点は南アジアで製造されたガラスと整合する組成を持っていた。別の2点はメソポタミア産ガラスに近く、濃青色の1点は中国南東部またはベトナム北部に由来する可能性がある。
もちろん、この結果だけでインド人やメソポタミア人がラオスの山中まで来たとはいえない。
ガラス玉は複数の商人や共同体の手を経て、長距離を少しずつ移動した可能性が高い。それでもサイト75の人々が、西アジア、南アジア、東南アジアを結ぶ広大な交易網の末端に参加していたことは確かである。
37人が石壺へ納められた西暦9~12世紀は、中国で唐が滅び、五代十国を経て宋が成立した時代にあたる。南方ではアンコールを中心とするクメール帝国が勢力を拡大し、陸路と海路の双方で人と物の移動が活発になっていた。
ラオス北部の高原は、巨大国家の中心ではなかった。
しかし死者に添えられた小さなガラス玉は、この山中の共同体が世界の動きと無関係ではなかったことを物語っている。
今回の発見によって、少なくともサイト75の石壺1が、複数世代の骨を集める納骨施設として使われたことは、かなり確実になった。
だが、ジャール平原すべての謎が解けたわけではない。
37人を納めた石壺1は、既知の石壺のなかでも特に大型で、形も珍しい。しかも遠隔地にあったため、盗掘や近代の攪乱を免れた可能性がある。ひとつの特殊な石壺を、2,100基すべての代表とみなすことはできない。
小型の石壺で遺体を腐敗させ、大型の石壺へ骨を移し、最後に別の場所へ再埋葬したという仮説も、現時点ではまだ検証途中である。
これから古代DNAの分析が進めば、37人が血縁関係を持つ家族だったのか、それとも血縁を越えた共同体の人々だったのかが分かるかもしれない。
ジャール平原の謎は、「石壺は墓だったのか?」から、「死者は石壺の間をどのように移動したのか?」へと変わり始めた。
空っぽに見える石壺は、使われなかった容器ではない。
人々が何世代にもわたって祖先を迎え、骨を選び、祈り、再び送り出した後に残された、葬送儀礼の抜け殻なのかもしれない。
巨人の酒壺ではなかったとしても、そこには千年以上にわたって、人間と死者が交わした物語が満たされているのだ!( ・Д・)
なにはともあれ……
考古学ミステリー、人気になれ!そんなに数はないと思うけど!( ・Д・)


























































