あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

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    2026ねん 8がつ19にち(すいよーび、晴れ)

    なんか暑いなぁ、やぱまだまだ暑い日続くなぁ!( ・Д・)
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    ↑考古学ファンを増やしたいね!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「ラオス北部に2,100基以上も残された巨大石壺が、巨人の酒壺ではなく、死者を何度も迎え入れる葬送施設だったかも、石壺が置かれてから千年以上後まで祖先祭祀が続き、ついにはひとつの石壺から、何世代にもわたる少なくとも37人分の骨が発見された( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに


    ラオスの山中に立ち並ぶ、2,100基以上の巨大な石壺。

    文字による記録はない。造った人々の名前も、話していた言葉も分からない。周囲には大都市も宮殿も見当たらず、残されたのは、人間の背丈を超える無数の石壺だけである。

    地元の伝承では、巨人の王が勝利の酒を醸すために造ったという。

    しかし2022~2024年に行われた発掘調査では、その石壺のひとつから、少なくとも37人分の人骨が発見された。

    しかも彼らは、一度死んで埋葬された後、再び骨を集められて石壺へ納められた可能性があるらしい。

    今回は巨人の祝宴から始まり、鉄器時代の東南アジア、1930年代の調査、日本人考古学者も参加した1990年代の発掘、戦争と不発弾による研究の中断、そして37人の骨が見つかった最新調査まで、ラオス「ジャール平原」の長い謎を追いかける!





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    ↑確かにでかいし、たくさんあるなぁ( ・Д・)(「Wikipedia」の画像より転載)


    🍶 巨人の王は、石壺で勝利の酒を醸した?

    ラオス北部のシェンクワーン高原には、かつてクン・チュアンという偉大な王がいたと伝えられている。

    クン・チュアンは人々を苦しめていた敵の王を倒し、その勝利を祝うため、巨大な壺を造らせた。そして壺いっぱいに米から造った酒を満たし、人々と盛大な祝宴を開いたという。

    別の伝承では、この高原には人間よりはるかに大きな巨人族が暮らしており、彼らが酒を醸すために使った壺が、そのまま残ったともされる。

    たしかに、目の前に高さ2~3メートルの巨大な壺が並んでいたら、「これは巨人が使ったに違いない!」と思ってしまうのも無理はない。

    だが、石壺は焼き物ではない。

    砂岩や花崗岩、礫岩、石灰岩などの大きな岩塊を削り、中をくり抜いて造られている。既知の石壺は2,100基を超え、世界遺産に登録された15の構成資産だけでも1,325基が含まれる。

    「ジャール平原」という名前から、広い平地の一か所に壺が密集しているように思えるが、実際には120か所を超える遺跡が、盆地の周辺にある丘の斜面、尾根、鞍部、森林内などに分散している。

    つまり、これは単なる「壺の置き場」ではない。

    山々を結ぶように広がった、巨大な石壺の考古学的景観なのである。


    ⛰️ 30トンの石壺を、誰が8キロも運んだのか?

    石壺の年代については、長いあいだ紀元前500年頃から西暦500年頃、すなわち東南アジアの鉄器時代を中心とするものと考えられてきた。

    しかし2021年、石壺の下にある土を光刺激ルミネッセンス法で測定した結果、サイト2の一部の石壺は、紀元前1240~660年頃には現在の場所へ設置されていた可能性が示された。

    この方法は石そのものの年代を測るのではない。石壺の下に閉じ込められた土が、最後に太陽光を浴びた時期を推定するものである。

    したがって、すべての石壺が紀元前1240年に造られたという意味ではない。それでも、一部の石壺が従来考えられていた鉄器時代より古く、紀元前第2千年紀末まで遡る可能性が出てきたことは大きい。

    さらにサイト1の石壺に含まれるジルコンを分析したところ、約8キロ離れたプーケンの採石場にある砂岩とよく一致した。そこには岩盤から切り出す途中で放棄された石壺や、荒削りのまま残された製品もある。

    問題は運搬方法である。

    現地の地形は平坦な道路ではない。起伏のある山地を越え、数トンから、最大級では30トンを超えるとも推定される石壺を運ばなければならなかった。

    木製のそりや丸太を使った可能性は考えられているが、実際の運搬施設や道具は発見されていない。

    これほどの作業には、多数の人間、石工の技術、食料供給、作業を指揮する仕組みが必要だったはずである。しかし、王宮や都市の跡は見つかっておらず、彼らが王国を形成していたのか、複数の共同体が協力したのかも分からない。

    当時のシェンクワーン高原は、メコン川流域と紅河・トンキン湾方面を結ぶ交通路の途中にあった。農耕や金属器、土器製作などの技術が東南アジア各地へ広がるなか、この高原も孤立した辺境ではなく、人と物が通過する結節点だった可能性がある。

    石壺を造った人々は、名前こそ残さなかったが、決して世界から切り離されていたわけではなかったのだ。




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    ↑場所はここ!( ・Д・)(Skopal et al. 2026, Fig.1より転載)


    🔎 1930年代に「死者の壺」を見抜いた女性考古学者

    ジャール平原を本格的に調査したのは、フランスの地質学者・考古学者マドレーヌ・コラニである。

    1930年代初頭、コラニはシェンクワーン高原の石壺遺跡を歩き、壺の形や位置を記録するとともに、壺の内部や周囲を発掘した。

    そこで見つかったのは、焼かれた人骨や歯、ガラス玉、カーネリアン製の玉、土器、耳飾り、紡錘車、鉄器、青銅器などだった。

    さらに石壺の周囲からも、土坑に納められた人骨や副葬品が出土した。

    コラニは1935年に全2巻の大著『Mégalithes du Haut-Laos』を刊行し、石壺が葬送儀礼と関係していると論じた。その研究は、英訳版で800ページを超えるほど膨大なもので、現在もジャール平原研究の出発点となっている。

    ところが、その後の現地調査は長く停滞した。

    研究が本格的に再開されたのは1990年代である。1994年には鹿児島大学の新田栄治とラオスの考古学者トンサ・サヤヴォンカムディらがサイト1を調査した。

    人形のような像が刻まれた石壺の周囲を掘ると、平たい石で覆われた7基の土坑が現れた。中には焼かれていない人骨や歯、鉄製の刀子、ガラス玉などがあり、別の土坑からは人骨を納めた高さ約60センチの土器棺も発見された。

    この結果、石壺そのものが一人の遺体を納めた単純な石棺なのではなく、周囲に複数の埋葬を配置した「墓地の中心」や「祖先を示す記念物」だった可能性も浮かび上がってきた。

    しかし、調査を阻んだのは古代の謎だけではなかった。

    1960~70年代の戦争によって、シェンクワーン高原には大量の爆弾が投下された。地表に残る巨大な穴の一部は、考古学的な遺構ではなく爆撃の跡である。

    不発弾は住民の生活を脅かしただけでなく、測量や発掘を行う考古学者にとっても大きな障壁となった。世界遺産に登録された構成資産では不発弾処理が進められたものの、周辺地域や新たに確認された遠隔地では、現在も慎重な調査が必要とされる。

    ジャール平原の研究史は、考古学の歴史であると同時に、不発弾を除去しながら失われた文化を取り戻してきた歴史でもある。


    ⚱️ 墓なのに、なぜ石壺の中は空だったのか?

    発掘が進むにつれ、石壺遺跡では複数の葬り方が行われていたことが分かってきた。

    遺体をそのまま地中へ葬る一次葬、遺体が腐敗した後に骨を集め直す二次葬、骨を小型の土器へ納める土器棺葬、そして石板の下へ骨をまとめて置く埋葬である。

    問題は、巨大な石壺の大部分が空だったことだ。

    内部から焼けた骨片や歯が見つかる場合はあったが、成人の全身骨格をそのまま納めた明確な例はほとんどなかった。一方で、壺の周囲には人骨や土器棺が集中している。

    そこで考えられたのが、石壺を使った多段階の葬送である。

    まず遺体を別の場所、あるいは小型の石壺で腐敗させる。その後、残った骨を選び、大型の石壺へ移す。一定期間が過ぎると、骨を再び取り出し、石壺周囲の土坑や別の墓地へ埋葬する。

    もしこのような儀礼が行われていたなら、現在の石壺が空であることも、壺の周囲から多数の人骨が出土することも説明できる。

    さらに大きな問題が、石壺と埋葬の年代差だった。

    サイト2では石壺の設置が紀元前1240~660年頃まで遡る可能性がある一方、サイト1周辺の人骨や木炭には西暦9~13世紀の年代を示すものがある。

    つまり、石壺が置かれてから千年以上後まで、人々が同じ場所を葬送や祖先祭祀に利用していた可能性がある。

    ジャール平原は一度造られて放棄された墓地ではなく、異なる時代の人々が、古い石壺へ新しい意味を与え続けた「生きた聖地」だったのかもしれない。




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    ↑けっこう露出してるのね、そして確かに骨たくさん!( ・Д・)(Skopal et al. 2026, Fig.2, 3より転載)


    🦴 巨大石壺の中から、37人分の骨が現れた!

    長年の謎を大きく動かしたのが、シェンクワーン県サイト75の調査である。

    サイト75はポーンサワンから北東へ約70キロ離れた山中にあり、これまで発掘されたジャール平原の遺跡では最も北東に位置する。

    調査の対象となった「石壺1」は、礫岩から造られた大型品で、底部の直径は約2.05メートル、残存する高さは約1.3メートル。側面は崩れていたが底部が残り、内部の堆積物も大きく乱されていなかった。

    2022~2024年の3回にわたる発掘で堆積物を少しずつ取り除くと、内部から大量の人骨が現れた。

    骨は一体ずつ整然と並んでいたわけではない。

    頭蓋骨は壺の縁に近い部分へ集まり、腕や脚の長骨は束のようにまとめられていた。小さく壊れやすい骨は少なく、全身骨格としてつながった状態のものもほとんどなかった。

    歯の数から計算された最小個体数は、少なくとも37人。約1歳半の幼児から成人まで、さまざまな年齢の人々が含まれていた。

    これは戦争や疫病によって37人が同時に死亡し、一度に投げ込まれた集団墓ではない。

    人骨と歯の放射性炭素年代は西暦890~1160年頃に分布しており、石壺は最長で約270年間、何度も繰り返し使用された可能性がある。

    骨の多くは、遺体が別の場所で腐敗した後に集められたものと考えられる。つまり彼らは一度葬られ、骨となった後、もう一度石壺へ迎え入れられたのだ。

    ただし、一部では頭蓋骨と下顎骨が近い位置に保たれていた。完全に白骨化する前の遺体が納められた可能性や、二次葬の際に頭部を組み直して丁寧に置いた可能性も残る。

    さらに少なくとも2人には、生前に特定の前歯を抜いた「抜歯」の痕跡があった。

    意図的な抜歯は、先史・古代の東南アジアや中国南部でも確認されている。成人儀礼、所属集団、身分、身体装飾などとの関係が考えられるが、サイト75の人々がなぜ歯を抜いたのかは、まだ分かっていない。


    🌏 死者と一緒に、インドとメソポタミアがやって来た

    石壺1から見つかったのは、人骨だけではない。

    土器、鉄製の刀子、小型の銅合金製鈴、石板、そして20点のガラス玉が伴っていた。

    このうち12点のガラス玉を化学分析したところ、9点は南アジアで製造されたガラスと整合する組成を持っていた。別の2点はメソポタミア産ガラスに近く、濃青色の1点は中国南東部またはベトナム北部に由来する可能性がある。

    もちろん、この結果だけでインド人やメソポタミア人がラオスの山中まで来たとはいえない。

    ガラス玉は複数の商人や共同体の手を経て、長距離を少しずつ移動した可能性が高い。それでもサイト75の人々が、西アジア、南アジア、東南アジアを結ぶ広大な交易網の末端に参加していたことは確かである。

    37人が石壺へ納められた西暦9~12世紀は、中国で唐が滅び、五代十国を経て宋が成立した時代にあたる。南方ではアンコールを中心とするクメール帝国が勢力を拡大し、陸路と海路の双方で人と物の移動が活発になっていた。

    ラオス北部の高原は、巨大国家の中心ではなかった。

    しかし死者に添えられた小さなガラス玉は、この山中の共同体が世界の動きと無関係ではなかったことを物語っている。

    今回の発見によって、少なくともサイト75の石壺1が、複数世代の骨を集める納骨施設として使われたことは、かなり確実になった。

    だが、ジャール平原すべての謎が解けたわけではない。

    37人を納めた石壺1は、既知の石壺のなかでも特に大型で、形も珍しい。しかも遠隔地にあったため、盗掘や近代の攪乱を免れた可能性がある。ひとつの特殊な石壺を、2,100基すべての代表とみなすことはできない。

    小型の石壺で遺体を腐敗させ、大型の石壺へ骨を移し、最後に別の場所へ再埋葬したという仮説も、現時点ではまだ検証途中である。

    これから古代DNAの分析が進めば、37人が血縁関係を持つ家族だったのか、それとも血縁を越えた共同体の人々だったのかが分かるかもしれない。

    ジャール平原の謎は、「石壺は墓だったのか?」から、「死者は石壺の間をどのように移動したのか?」へと変わり始めた。

    空っぽに見える石壺は、使われなかった容器ではない。

    人々が何世代にもわたって祖先を迎え、骨を選び、祈り、再び送り出した後に残された、葬送儀礼の抜け殻なのかもしれない。

    巨人の酒壺ではなかったとしても、そこには千年以上にわたって、人間と死者が交わした物語が満たされているのだ!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    考古学ミステリー、人気になれ!そんなに数はないと思うけど!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ18にち(かよーび、晴れ)

    今日は思ったより暑かったな!秋になれ!( ・Д・)
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    arukemaya_y979

    ↑発見は大事だけどさ、考古学研究ってどうあるべきなのかなって考えちゃうぜ!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    異常渇水によってドナウ川の水位が低下し、約1700年前の巨大橋の基礎列が再び姿を見せたよ!ニュースになってるけど元々あるのは分かってたよ!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに



    ただし最初に、大切なことを言っておこう。

    全長2.4kmの橋が、丸ごと新発見されたわけではない。

    橋の存在は、古代の記録にも近世の地図にも登場し、19世紀以来の発掘や測量によって研究されてきた。

    2026年に起きたのは、

    普段はドナウ川の水中に隠れている橋脚基礎が、異常な低水位によって見えやすくなった。

    地元の漁師がその場所を知らせた。

    考古学者がドローンを飛ばし、現在の状態と配列を記録した。

    という出来事である。

    「失われた巨大橋の発見」というより、

    「知ってはいたが、めったに直接見ることのできない橋が、短い時間だけ姿を見せた」

    ニュースなのだ!( ・Д・)


    🌊 ドナウ川は「国境」であり「道路」でもあった

    ドナウ川は、現代ではドイツから黒海まで流れるヨーロッパの大河である。

    しかしローマ帝国にとっては、ただの河川ではなかった。

    長い区間にわたって、帝国の北辺を形づくる境界だった。

    南岸には軍団基地、砦、監視施設、港、都市が並ぶ。

    その一方で、川の北側にも人々が暮らし、交易が行われ、ローマ軍が遠征し、時には北方集団が南へ侵入した。

    つまりドナウ川は、

    敵を防ぐ壁。

    物資を運ぶ水路。

    軍隊が進む回廊。

    文化と商品が行き交う接触地帯。

    という複数の顔を持っていた。

    川を守ることと、川を越えること。

    ローマ帝国は、この相反する二つを同時に実現しなければならなかったのである。





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    ↑まぁ見やすくなってこれかぁって気もする!( ・Д・)(「Impressio」の記事内画像より転載;credit: Регионален исторически музей - Плевен


    🏛️ 南岸には軍団都市ウルピア・オエスクスがあった

    橋の南側にあったのが、現在のブルガリア・ギゲン村付近に位置するウルピア・オエスクスである。

    この地には1世紀、第五マケドニカ軍団の基地が置かれていた。

    軍団が移動した後、トラヤヌス帝の時代である106~112年頃に、オエスクスはコロニアへ昇格したと考えられている。

    軍団基地の跡へ、都市が重なる。

    退役軍人、商人、職人、その家族が暮らす。

    神殿、浴場、道路、工房、広場が造られる。

    オエスクスは、軍事拠点からローマ市民の都市へと姿を変えていった。

    だが3世紀後半、ローマがドナウ川北方のダキア属州から撤退すると、都市は再び帝国最前線へ近づく。

    安全な内陸都市だった場所が、もう一度「国境の都市」になったのである。


    🛡️ 北岸のシュキダヴァは巨大橋の入口になった

    橋の反対側、現在のルーマニア・コラビア市セレイ地区には、シュキダヴァがあった。

    もともとはゲタイ・ダキア系集団の一つ、スキ族に関係する拠点だったとされる。

    ローマによるダキア征服後には軍事施設と民間居住地が発達し、3世紀後半には要塞化が進められた。

    コンスタンティヌス1世の時代には、要塞が再整備される。

    そして、その南側に巨大橋の北端が接続した。

    橋だけを架けても、敵に入口を差し出すだけである。

    そこでローマは、橋の両端を都市、要塞、道路網によって管理した。

    現在もシュキダヴァ側には、橋の北門を兼ねた橋台の基礎が残っている。

    古代の旅人は、ただ自由に川を渡ったのではない。

    門を通り、軍や役人の視線を受けながら、ローマ世界の内と外を移動したのである。




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    ↑橋の基礎ってこんな感じかぁ( ・Д・)(「BNR」の記事内画像より転載;credit: Regional Museum of History in Pleven)



    👑 コンスタンティヌス帝は、なぜ北へ橋を架けたのか

    コンスタンティヌス1世は、324年にリキニウスを破り、分裂していたローマ帝国の単独支配者となった。

    その直後から、ドナウ川下流域の軍事体制が再編されていく。

    シュキダヴァの強化。

    北方へ延びる道路の修復。

    新たな橋頭堡の建設。

    そして、オエスクスとシュキダヴァを結ぶ恒久橋の建設である。

    橋は328年夏に完成した。

    古代史料からコンスタンティヌス帝がオエスクスに滞在していたことが分かるため、7月5日に本人の立ち会いで開通した可能性が高い。

    ただし「7月5日」という日付は、完成を直接記した碑文から判明したものではない。

    皇帝の滞在記録と、橋に関する古代文献を組み合わせた推定である。

    同時代に近い歴史家セクストゥス・アウレリウス・ウィクトルも、コンスタンティヌス帝の業績として、ドナウ川に橋を架け、各地へ砦を配置したことを記している。

    橋は単独の記念建造物ではない。

    帝国が再び川の北側へ力を及ぼすための、巨大な軍事景観の一部だった。


    🌉 「全長2.4km」の半分は川ではなかった

    コンスタンティヌス橋の全長は、約2434~2437mと紹介されることが多い。

    古代世界最長の河川橋だった、ともいわれる。

    ただし、この数字には少し注意が必要である。

    従来の復元では、当時のドナウ川の河道上を渡っていた部分は約1137m。

    残りの約1.3kmは、シュキダヴァ側に広がる氾濫原を越える区間だった。

    つまり、2.4kmすべてが水面の上に架かっていたわけではない。

    通常時は草地や湿地に見える場所も、増水すれば水に覆われる。

    そこを低い道路にしてしまえば、橋へ到達できなくなる。

    そこでローマの技術者は、川本体だけでなく、季節的に冠水する広大な低地まで高架構造で越えたと考えられている。

    全長2.4kmという数字は、現在残る橋脚を端から端まで巻尺で測った結果でもない。

    20世紀の研究者ドゥミトル・トゥドルらによる地形、橋台、河道幅、古い測量記録をもとにした復元値である。

    しかもドナウ川は、1700年間に流路を変えている。

    現在の河岸線だけを見て、古代の橋の長さを測ることはできないのだ。





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    ↑復元模型は分かり易いね!( ・Д・)(リンク先の文字が読めないがきっと「bnt」!( -д-)ノ)


    🧱 石の橋脚に、木造のアーチと路面を載せた

    この橋は、2.4kmにわたって石造アーチを並べたものではなかった。

    川底に石造の橋脚基礎を築く。

    その上に木造のアーチと上部構造を載せる。

    路面も木材を主体としていたと考えられている。

    復元上の幅は約5.7m。

    地元研究者は、2台の馬車がすれ違える幅だったと説明している。

    路面は水面から約10mの高さにあったと推定される。

    橋脚の間隔は、おおむね30~35m。

    長大な木造部材を必要とする一方、橋脚数を減らして水流と船舶への障害を抑える設計だった。

    2026年に記録された基礎では、切石、煉瓦、水中で硬化するモルタルやコンクリート状材料が確認されている。

    水へ浸かることを前提とした建築だったのである。

    石材の一部は、ニコポルとグリャンツィ周辺の採石地から運ばれたという。

    建築用の大理石はヴラツァ方面から切り出され、筏でイスクル川を下り、オエスクスで加工された可能性も指摘されている。

    橋は、一人の天才技師がその場で造った奇跡ではない。

    採石場。

    森林。

    輸送船。

    軍の工兵部隊。

    都市の加工場。

    帝国各地の技術。

    それらをドナウ川の一点へ集中させた、巨大な供給事業だった。


    🐎 トラヤヌス帝の橋を、200年後に超えたかった?

    コンスタンティヌス橋の約220年前、トラヤヌス帝もドナウ川へ恒久橋を架けている。

    ダマスクスのアポロドロスが設計したとされるトラヤヌス橋である。

    103~105年に建設され、ダキア戦争へ向かう軍隊と補給物資を運んだ。

    全長は約1135m。

    石造橋脚の上に木造アーチを載せる構造だった。

    コンスタンティヌス橋は、このトラヤヌス橋を技術的・政治的なモデルとした可能性が高い。

    トラヤヌスは、ダキアを征服した皇帝。

    コンスタンティヌスは、その失われた北方領域へ再びローマの影響力を伸ばそうとした皇帝。

    橋を架けることは、単なる交通整備ではなかった。

    「自分もトラヤヌスに匹敵する征服者である」

    と示す政治的演出でもあったはずだ。

    設計者としてテオフィルス・パトリキウスという軍事技師の名が挙げられることもある。

    しかし、この帰属は確定していない。

    橋の規模は分かっても、その設計図と技師の署名は残っていないのである。

    🪙 小さなメダリオンにも橋が描かれた?

    この巨大事業は、貨幣やメダリオンにも表現された可能性がある。

    コンスタンティヌス帝の肖像を表面に置き、裏面に橋、皇帝、勝利の女神、屈服する異民族、ドナウ川の神を表した大型メダリオンが知られている。

    現存するのは、失われた金製原型から作られたとみられる青銅製品だという。

    この橋がオエスクス=シュキダヴァ間の橋である、という解釈も提案されている。

    しかし貨幣上の橋は、現実の設計図ではない。

    アーチの数。

    塔の形。

    人物の配置。

    すべてが帝国の勝利を伝えるために整理されている。

    別の橋を表した可能性もあり、研究者の見解は一致していない。

    それでも、橋と皇帝と征服が一枚の小さな金属面に集められていることは重要である。

    ローマ帝国にとって橋は、川を渡る道であると同時に、皇帝の力を見せる政治的イメージでもあったのだ。


    🔥 巨大橋は、なぜ数十年で消えたのか

    これほどの橋でありながら、使用期間は非常に短かった。

    報道には、

    355年に破壊された。

    367年頃に破壊された。

    約40年間使われた。

    約70年間使われた。

    といった異なる説明が並んでいる。

    だが、正確な破壊年を記した史料は見つかっていない。

    確実なのは、367~369年にウァレンス帝がゴート人と戦った際、別の場所で舟橋を使ってドナウ川を渡っていることだ。

    この時期の軍事記録に、コンスタンティヌス橋は登場しない。

    さらに376年、フン族から逃れてきたゴート人の大集団がドナウ川を渡った際にも、この恒久橋は使われていない。

    したがって、4世紀後半までに橋が使用不能になっていた可能性は高い。

    ローマ軍が、北方集団に利用されないよう木造部分を自ら撤去、あるいは焼却したという説もある。

    洪水。

    流氷。

    地震。

    木材の腐朽。

    戦争。

    複数の原因が重なった可能性もある。

    「367年に破壊された」と一点に決めるより、

    367年頃にはすでに軍事交通路として機能していなかった。

    と考える方が、現在の証拠には合っている。




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    ↑たぶんこれが一番高解像度!( ・Д・)(「Reuters」の記事内画像より転載;credit:  Martin Milev/Pleven Regional History Museum


    🗺️ 橋は消えても「銅の橋」の伝説が残った

    木造上部が失われた後も、石造橋脚の一部は長く残った。

    地元では、この遺構が「銅の橋」と呼ばれていたという。

    巨大な橋脚は、金属を鋳造して造られた。

    夜になると伝説上の支配者が橋を渡る。

    そのような物語も生まれた。

    17世紀末のワラキア地図には、すでに橋の位置が示されている。

    1718年の地誌にも、ギゲンとセレイの間を結ぶ橋が描かれた。

    ただし当時は、コンスタンティヌス帝ではなくトラヤヌス帝の橋だと誤認されることが多かった。

    古代の巨大建造物なら、何でもトラヤヌス帝の仕事に見えてしまったのである。

    18世紀初頭には、ルイージ・フェルディナンド・マルシーリがドナウ川のローマ遺跡を記録した。

    その頃には、複数の石造橋脚がまだ川の中に明瞭に残っていたらしい。

    川底の橋は完全に忘れられていたのではない。

    名前と建設者を変えながら、地図、船乗りの記憶、地域の伝説に残り続けていた。

    ⛏️ 漁師の「渦」から始まった近代的な橋探し

    19世紀になると、橋は考古学的な研究対象となる。

    1869年、ジャーナリストで考古学活動にも関わったチェザル・ボリアックが、ルーマニア側に残る石造橋脚を記録した。

    1873年には北側の橋門を発掘する。

    1898年には、グリゴレ・トチレスクと測量技師パンフィル・ポロニクが本格的な調査を行った。

    興味深いことに、調査を助けたのは地元漁師だった。

    漁師たちは1893年、川面に生じる七つの特徴的な渦を伝えていた。

    水中の橋脚が流れを変え、渦を作っていたらしい。

    見えない遺構を、水面の動きから探したのである。

    1933年、ルーマニア水理局の測深では三つの橋脚が捉えられた。

    1934年にはドゥミトル・トゥドルが、橋についての最初の総合的研究を発表する。

    1968年には北側橋門と周辺橋脚の再調査が行われた。

    研究方法は、

    漁師の記憶。

    水面の渦。

    発掘。

    測量。

    古地図。

    へと少しずつ積み重なっていった。


    📡 2017年、ソナーが川底に27の候補を並べた

    研究が大きく進んだのが、2017年のマルチビームソナー調査である。

    船から複数方向へ音波を放ち、反射時間を測る。

    それによって、川底の起伏を細かく三次元化する。

    FAST DANUBEプロジェクトの調査では、約820mの直線上に、橋脚とみられる27の痕跡が検出された。

    候補同士の平均間隔は約30m。

    古い記録や復元された橋脚間隔とも整合した。

    ただし、ここでも「27本の橋脚を確定した」と言ってはいけない。

    ソナーが見つけたのは、川底にある形状異常である。

    石造橋脚。

    崩れた基礎。

    自然地形。

    近代の構造物。

    それらを区別するには、追加調査が必要になる。

    2022年には、シュキダヴァ側の氾濫原を磁気探査した。

    すると北側橋門から約210mの範囲に、さらに七つの異常が並んだ。

    その方向と間隔は、川底で見つかった候補とほぼ一致した。

    川の中はソナー。

    陸上化した氾濫原は磁気探査。

    異なる方法で得た点が、一本の線へつながり始めたのである。


    🚁 2026年、水深70cmの基礎をドローンが捉えた

    そして2026年夏。

    ヨーロッパを襲った記録的な暑さと干ばつによって、ドナウ川の水位が大きく低下した。

    8月4日、プレヴェン地方歴史博物館のチームは、ギゲン村近くで橋脚基礎の撮影と記録を行った。

    きっかけを作ったのは、今回も地元の漁師だった。

    低水位の中で遺構に気づき、博物館へ場所を伝えたという。

    橋脚基礎は、完全に乾いた川底へ露出していたわけではない。

    報告時点では、なお水面下約70cmにあった。

    岸から眺めても、ほとんど分からない。

    しかしドローンを上空へ飛ばすと、浅い水を通して四角い基礎と、その並びが見える。

    ブルガリア側の入口から川へ延びる区間では、八つの基礎が約30~35m間隔で並ぶと報告された。

    写真からは、煉瓦を組み込んだ複数列の石積みも確認できるという。

    これまでソナー画面の凹凸として見ていたものを、実際の石積みとして観察できる。

    現在の損傷。

    基礎の向き。

    水流との関係。

    橋脚列が古代の河岸へ向かう角度。

    それらを記録できる、短い機会が訪れたのである。


    🔬 新しく分かったのは「橋の存在」ではなく現在の姿

    2026年の調査成果は、これから分析される。

    ドローン画像を接合し、位置情報を与える。

    2017年のソナーデータと重ねる。

    2022年の磁気異常と結ぶ。

    過去の測量図や古地図とも比較する。

    そうすれば、

    どの基礎が同じ建設段階に属するのか。

    橋脚がどの程度移動・崩壊しているのか。

    ドナウ川の流路がどのように変化したのか。

    近代の航路整備で失われた部分はどこか。

    を検討できる。

    ルーマニア側へ向かう橋脚の一部は、現在の航路より深い場所にある。

    浚渫や航路整備によって破壊された可能性も指摘されている。

    将来は、堆積物を透過する測深。

    水中橋脚からの材料試料採取。

    磁気探査範囲の拡大。

    川底と氾濫原を連続させた全経路の復元。

    などが必要になる。

    今回の渇水は、考古学者にとって貴重な観察機会だった。

    しかし農業、航行、電力、環境へ深刻な被害を与える災害でもある。

    「もっと水位が下がれば、もっと遺跡が見える」

    と単純に喜ぶことはできない。

    むしろ今見えるうちに記録し、川が戻った後も研究できるデータを残す。

    それが今回のドローン撮影の意味なのだ。


    🌊 川底に残ったのは、帝国を支えた「点」の列だった

    コンスタンティヌス橋の華やかな上部構造は、もう存在しない。

    皇帝が歩いた路面もない。

    軍団が渡った木造アーチもない。

    現在残るのは、崩れた石と煉瓦の基礎である。

    上空から見れば、それは川の中へ点々と続く暗い四角形にすぎない。

    しかし、その点を線で結ぶと、

    南岸の軍団都市。

    北岸の要塞。

    氾濫原を越える高架橋。

    ダキアへ向かう道路。

    採石場と森林。

    木材や石を運んだ川船。

    ドナウ川を越えた軍隊と商人。

    が見えてくる。

    ローマ帝国とは、皇帝と戦争だけではない。

    離れた場所から材料を集め、技術者と労働力を動員し、川幅1kmを超える大河の上に道を置くことができる組織だった。

    その巨大な組織は、数十年後には橋を維持できなくなる。

    木造部分が消える。

    石造橋脚が崩れる。

    川が流路を変える。

    漁師だけが、水面に生まれる渦の意味を覚えている。

    そして1700年後、別の異常気象によって川が退き、ドローンがその点をもう一度線へ戻した。

    新しく見つかったのは、全長2.4kmの完成した橋ではない。

    古代の都市と都市をつないでいた、橋の断片である。

    しかし考古学では、断片こそが重要だ。

    一つの橋脚。

    一列の煉瓦。

    水中で固まったモルタル。

    30mごとに続く川底の起伏。

    それらをつなぐことで、消えた帝国の巨大な道路が、再びドナウ川の上へ姿を現すのである!( ・Д・)



    なにはともあれ……

    水の中から何か出てくると何故か人はとても喜ぶよね!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ17にち(げつよーび、くもり)

    あ~!すげー連休は要らんけど、いい感じにいつも休み欲しい!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya_y972

    ↑LiDAR流行りは終わらんね~!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    世界遺産マチュピチュの東側、マンドルの城壁周辺をLiDARで調べたところ、密林の下から総延長2.5kmを超える先スペイン期の道路と、段々畑や基壇らしき地形が見つかった! そのうち少なくとも1.2kmの道には、ジグザグに斜面を上るインカ期の道路工法と整合する特徴があり、別の場所では未知の壁や段々畑を検出していた! マチュピチュは、私たちが知る“天空都市”より、はるかに広いのではないか?( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに


    緑。

    どこまで見ても、緑である。

    急斜面を覆う樹木。

    絡み合う蔓。

    シダ。

    低木。

    その下に何があるのか、上空写真を見てもほとんど分からない。

    ところが、樹冠の上から無数のレーザー光を放ち、樹木に反射した点を計算上で取り除いていく。

    すると、今までただの山肌に見えていた場所へ、細長い線が浮かび上がる。

    斜面を折り返しながら進む道。

    不自然に平らな場所。

    連続する段差。

    人間が山を削り、積み、歩いた痕跡である。

    2026年8月、ペルー文化省クスコ地方文化局は、マチュピチュの東側にある「マンドルの城壁」周辺で、LiDARを用いた予備的な考古学調査を行い、2.5kmを超える先スペイン期の道路区間を確認したと発表した。

    なかでも重要なのが、少なくとも1.2kmに及ぶ主要道である。

    この道は斜面をジグザグに進み、その線形にはインカ期の道路建設技術と整合する特徴が見られるという。

    周囲には、基壇、囲い、段々畑である可能性を持つ地形も検出された。

    一見すると、

    「マチュピチュの密林から、2.5kmのインカ道を大発見!」

    という話に見える。

    しかし、ここは少し慎重に読まなければならない。

    LiDARで見つかった道路区間の総延長――2.5km超。

    そのうち、現時点でインカ期の工法と整合すると判断された主要区間――少なくとも1.2km。

    この二つは、同じ数字ではない。

    さらにLiDARが直接測ったのは、土や石の表面形状である。

    レーザーだけで、道の年代も、用途も、誰が歩いたのかも分からない。

    つまり今回の発見は、

    「すべてがインカ道だと確定した」

    のではなく、

    「密林の下に、現地で詳しく調べるべき道路網が初めて地図として現れた」

    という段階なのである。

    でも、だからこそおもしろい。

    マチュピチュは、そもそも何のために造られたのか。

    なぜインカは、車輪による輸送を用いない社会で3万kmを超える道路網を必要としたのか。

    標高2430mの遺跡が、なぜ「密林」に覆われるのか。

    LiDARは、本当に植物を透視しているのか。

    そして、あれほど有名で100年以上研究されてきたマチュピチュで、なぜ今も未知の道が見つかるのか。

    今回のニュースは、単に「新しい道を発見した」という話ではない。

    絵葉書の中央にある石造都市から、周囲の山、川、畑、道、祭祀空間を含む文化的景観全体へ。

    マチュピチュ研究の視線が、いま大きく広がっているのである!( ・Д・)





    arukemaya_y977

    ↑マチュピチュ行ってみたいぜ!( ・Д・)(「VELTRA」の記事内画像より転載)




    🏔️ そもそも「マチュピチュ」は何だったのか?


    マチュピチュといえば、

    「1911年、アメリカ人探検家ハイラム・ビンガムが発見した失われた都市」

    という物語が有名である。

    だが、現在この言い方はかなり修正されている。

    1911年7月24日、ビンガムが現地へ到達したことは確かだ。

    しかし彼は、誰も知らない遺跡を一人で発見したわけではない。

    彼を案内したのは、現地住民メルチョール・アルテアガだった。

    遺跡周辺では農民が暮らし、段々畑の一部も利用されていた。

    さらに「三つの窓の神殿」には、ペルー人アグスティン・リサラガの姓と「1902」という年が木炭で書かれていた。

    つまり地元社会にとって、マチュピチュは完全に「失われた都市」ではなかった。

    ビンガムがした最大のことは、その存在を欧米の学術界と大衆社会へ大規模に紹介したことである。

    そして彼自身も、最初からマチュピチュを探していたわけではない。

    探していたのは、スペイン侵攻後にインカ王族が抵抗を続けた最後の都、ビルカバンバだった。

    そのため初期の研究では、

    最後のインカの都。

    インカ発祥の聖地。

    女性祭司の避難所。

    要塞。

    さまざまな解釈が提案された。

    ところが20世紀半ば、アンデス史研究者ジョン・ロウが16世紀の植民地期文書を検討し、この一帯の「ピッチュ」が皇帝パチャクティの王領だったことを指摘した。

    現在ではマチュピチュは、15世紀にインカ国家を急拡大させたパチャクティと、その王統集団であるパナカに結びつく王領、あるいは王族のための複合的な施設だったという見方が有力である。

    王族が季節的に滞在する場所。

    祖先祭祀を行う場所。

    政治的権威を山岳景観の中で示す場所。

    農業生産を管理する場所。

    各地から集められた従者が常駐する場所。

    単なる「皇帝の別荘」と呼ぶだけでは足りない。

    都市、宮殿、聖地、農業施設、支配の舞台が重なった場所だったと考えたほうがよい。

    しかも近年、その年代まで揺れ始めている。

    長いあいだ、パチャクティが即位したとされる1438年を基準に、マチュピチュの建設は1450年頃から始まったと説明されてきた。

    しかし2021年、遺跡から出土した人骨と歯の26試料をAMS放射性炭素年代測定した研究は、マチュピチュでの活動を西暦1420~1532年頃に位置付けた。

    従来の文献年代より、開始が約20年早い。

    これは、

    「パチャクティとは無関係だった!」

    と証明したわけではない。

    むしろ、スペイン征服後に書かれた年代記をもとに組み立てたインカ王朝の絶対年代が、本当にそのまま正しいのかを問い直したのである。

    さらに2023年、マチュピチュに埋葬された34人の古代DNAが分析された。

    その結果、彼らの祖先的背景はクスコ周辺だけにまとまらず、太平洋岸、アンデス高地、アマゾン地域にまで広がっていた。

    約3分の1には、アマゾン地域と結びつく祖先成分がかなり含まれていたという。

    豪華な石造建築の内側で、実際に水路を清掃し、食事を作り、畑を管理し、王領を維持した人々は、帝国各地から移動してきた多様な集団だった可能性が高い。

    ここで「道」の意味が変わる。

    道を歩いたのは皇帝だけではない。

    職人。

    農民。

    従者。

    飛脚。

    兵士。

    巡礼者。

    リャマを連れた運搬者。

    マチュピチュは孤立した天空都市ではなく、人間が絶えず出入りすることで維持された場所だったのである。

    そして名前さえ、完全には確定していない。

    2021年に発表された歴史資料研究では、インカ期の集落名は「ピッチュ」、あるいは近くの峰に由来する「ワイナ・ピッチュ」だった可能性が指摘された。

    現在の「マチュピチュ」という呼称が遺跡へ固定されたのは、ビンガムの紹介以後かもしれない。

    100年以上研究された世界遺産でも、

    いつ造られたのか。

    何と呼ばれたのか。

    誰が暮らしたのか。

    その基本問題が、いまも更新され続けているのである。








    🛤️ 3万kmの道で帝国を作った! カパック・ニャンと15世紀アンデス


    マチュピチュが本格的に利用された15世紀。

    アンデス世界では、巨大な政治変動が起きていた。

    クスコを中心とするインカ国家が急速に拡大し、北は現在のコロンビア南部、南はチリ中部とアルゼンチン北西部にまで影響を及ぼすようになったのである。

    インカの国家は、ケチュア語でタワンティンスユと呼ばれる。

    直訳すれば、

    「四つの地方が一つになったもの」

    という意味に近い。

    クスコを中心に、チンチャイスユ、アンティスユ、コリャスユ、クンティスユという四つの地方が広がる。

    この巨大な領域を結びつけた骨格が、カパック・ニャン、すなわちアンデス道路網だった。

    ユネスコが示す道路網の総延長は、3万kmを超える。

    現在のペルーだけではない。

    コロンビア。

    エクアドル。

    ボリビア。

    チリ。

    アルゼンチン。

    六つの国にまたがる大陸規模のネットワークである。

    ただし、これも「インカが何もない場所へ一から3万kmの道を造った」と考えてはいけない。

    アンデスには、インカ以前から交易路、巡礼路、地域間道路が存在した。

    インカ国家はそれらを取り込み、改修し、新しい区間を造り、クスコを中心とする行政・軍事・宗教体系へ再編した。

    だからカパック・ニャンは、一時代だけの建造物ではない。

    何世代もの地域社会が歩いた道の上へ、インカの国家制度が重なったものでもある。

    道路の役割も、単なる「交易」ではなかった。

    チャスキと呼ばれる飛脚が情報を運ぶ。

    軍隊が移動する。

    リャマの隊列が食料、織物、コカ、羽根、貝、金属を運ぶ。

    役人が人口や貢納を管理する。

    移住させられた人々が新しい土地へ向かう。

    巡礼者が山や神殿を目指す。

    沿道には宿駅であるタンボ、食料や物資を蓄えるコルカ、行政施設、祭祀施設が置かれた。

    道は、帝国の血管だった。

    しかもインカには、馬も牛もいない。

    大型の荷車を走らせる道路でもない。

    人間とリャマが歩く。

    そのため道路は、平らな舗装路ばかりではない。

    高地では石を敷く。

    砂漠では縁石で線を示す。

    湿地では路面を盛り上げる。

    崖では擁壁を積む。

    急斜面では石段やジグザグ道を造る。

    雨の多い場所では側溝と排水を整える。

    川には石橋、木橋、吊橋を架ける。

    一つの規格を自然へ押し付けるのではなく、地形と材料に合わせて道の姿を変えたのである。

    だから今回、マンドルで「ジグザグの線形」が注目された。

    急斜面を直線で登れば、傾斜がきつすぎる。

    雨水も一気に流れ、路面を削ってしまう。

    折り返しながら高度を上げれば、人間もリャマも歩きやすくなり、勾配と排水を管理できる。

    もちろん、ジグザグだから自動的にインカ道と決まるわけではない。

    路面の造り。

    擁壁。

    排水施設。

    石段。

    幅。

    沿道遺構。

    他の道や施設との接続。

    そうした特徴を現地で組み合わせて、初めて年代と系統を検討できる。

    今回の1.2kmが「インカ期の建設技術と整合する」と慎重に表現されているのは、そのためである。







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    ↑LiDAR使った範囲らしいよ!どこなのか専門外には分らんけどね!( ・Д・)(「Cultura Cusco」の記事内画像より転載)


    🌧️ 高山なのに熱帯雨林? マチュピチュを隠す雲霧林


    ここで、マチュピチュの景観をもう一度見てみよう。

    標高2430m。

    アンデス山脈。

    「天空都市」。

    そう聞くと、乾燥した高原を想像しやすい。

    しかしマチュピチュは、アンデス東斜面とアマゾン上流域が接する場所にある。

    高地草原から山地雲霧林、さらに低地熱帯林へと環境が急激に変化する、セハ・デ・セルバ、「森林の眉」と呼ばれる地域である。

    湿った空気が山へぶつかる。

    霧が発生する。

    雨が降る。

    植物が猛烈に育つ。

    そして地形は、信じられないほど険しい。

    ウルバンバ川が山々を深く削り、狭い尾根と急斜面を作る。

    ここで都市を維持するには、建物を建てるだけでは足りない。

    水を逃がす。

    斜面を支える。

    土壌を流出させない。

    人が歩ける勾配を作る。

    石を運ぶ。

    耕作地を確保する。

    マチュピチュの段々畑は、食料生産の場であると同時に、斜面を安定させ、水を排出する巨大な土木構造でもあった。

    道も同じである。

    道だけを一本造って終わりではない。

    擁壁、排水、段々畑、建物、広場、儀礼空間と結びついて、初めて山の中で機能する。

    そしてこの環境は、遺跡を守りながら隠す。

    スペイン植民地都市として大規模に再建されなかったこと。

    森林が再生したこと。

    近づきにくい急斜面だったこと。

    それらは石造建築を残す一因になった。

    一方で植物の根は石積みを押し、豪雨は路面を削り、地滑りは遺構を破壊する。

    「木に覆われているから保存されている」

    とも、

    「木を取り除けばすべて見える」

    とも単純には言えない。

    ユネスコ世界遺産の「マチュピチュ歴史保護区」は、有名な石造都市だけではない。

    山、谷、森林を含む3万2592haの複合遺産である。

    都市中心部には約200の建造物があるが、その周囲には多数の小規模遺跡、道路、水路、段々畑が広がる。

    これまで私たちが「マチュピチュ」と呼んできた景色は、その巨大な文化的景観の中心を切り取った一枚にすぎない。

    問題は、残りの大部分が緑の下にあることだった。





    🚁 木を伐らずに地面を見る! LiDARがマチュピチュへ来るまで


    そこで登場するのが、LiDARである。

    Light Detection and Ranging。

    日本語では、光による検出と測距などと訳される。

    仕組みを極端に簡単に言えば、

    レーザー光を出す。

    何かに当たって戻ってくる。

    戻るまでの時間を測る。

    その距離と、センサーの位置・姿勢を組み合わせ、三次元の点を作る。

    これを一秒間に何万回、何十万回と繰り返す。

    すると、樹冠、枝、低木、地面、石壁が、膨大な「点群」として記録される。

    ただし、よくある説明のように、レーザーが木を幽霊のように透過するわけではない。

    多くの光は葉や枝に反射する。

    その一部が、葉と葉の隙間を通って地表へ届く。

    最初に戻った反射。

    途中で戻った反射。

    最後に戻った反射。

    それらを分類し、植物らしい点を取り除き、地面と判断した点から数値地形モデルを作るのである。

    つまり重要なのは、レーザーそのものだけではない。

    どの高度で飛ぶか。

    どれほど多くの点を取れるか。

    急斜面で機体位置をどこまで正確に測れるか。

    何を「地面」と分類するか。

    どの陰影表現なら低い壁を見つけやすいか。

    最後は、人間が何を遺構らしいと読むか。

    データ処理と考古学的解釈がなければ、ただの点の雲である。

    マチュピチュ周辺でのUAV-LiDAR研究は、今回突然始まったものではない。

    重要な実験の一つが、2018年に行われたチャチャバンバ遺跡の調査だった。

    チャチャバンバは、マチュピチュへ向かう道沿いにあるインカ期の祭祀遺跡で、水路や儀礼的な水施設で知られる。

    研究チームは、長さ約930m、幅約200~400mの範囲をドローンで測量した。

    ところが最初、地表面だけに分類した点群では、既知の石壁さえ十分に見えなかった。

    密林では、地面まで届くレーザー光が少なすぎたのである。

    そこで地表から高さ0.5mまでの点も加えると、点密度は1平方mあたり約70点へ増え、低い壁や微地形が見えるようになった。

    そして2019年、研究者が現地を歩いて確認する。

    LiDARで遺構と判断した場所の多くに、実際の石積みがあった。

    それまで知られていた建物跡の数は、ほぼ倍に増え、祭祀中心部の周囲に居住区が広がっていた可能性まで見えてきた。

    同じ2019年には、インカラクアイ周辺でも、長さ約1.35km、幅約350mの範囲が測量された。

    インカラクアイは、六月至の太陽観測と関係した可能性が検討されてきた場所である。

    LiDARは、遺跡と展望地点エル・ミラドールのあいだに、建物や道かもしれない地形を検出した。

    ただし、こちらはパンデミックの影響もあり、十分な現地検証が遅れた。

    地図に線が出たことと、考古遺構だと確認されたことは違う。

    この教訓は、現在のマンドル調査にもそのまま当てはまる。

    さらにチャチャバンバでは、地上レーザースキャンとドローン測量で水路を三次元化し、水がどのように流れるかを流体力学的に再現する研究も行われた。

    その結果は、この水施設が大量の生活用水を効率よく配る設備というより、水そのものを見せ、流し、儀礼に組み込む空間だったという解釈を強く支持した。

    レーザー測量は、未知の壁を探すだけではない。

    既知の遺構がどう機能したのかまで、別の方法で問い直せる。

    そして今回のマンドル調査には、この蓄積を担ってきたワルシャワ大学アンデス研究センターと、ヴロツワフ工科大学のリモートセンシング研究者が参加している。

    2026年の発見は、数年にわたる試行錯誤の延長線上にあるのである。




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    ↑シンプルにしてもわからん!( ・Д・)(「Cultura Cusco」の記事内画像より転載)




    🧱 マンドルの城壁に、2.5km超の道がつながった


    そして2026年7月。

    クスコ地方文化局とワルシャワ大学アンデス研究センターの共同チームは、マチュピチュ遺跡中心部の東側、マンドルの城壁周辺で予備的な考古学確認を行った。

    なお、ここには報道上の小さくない混乱がある。

    一部の英語・日本語の二次記事は、現地調査を「2023年7月」としている。

    しかしペルー文化省系の公式発表と国営紙は、予備調査を明確に「2026年7月」としている。

    そのため本記事では、一次発表に従って2026年7月とする。

    3年違えば、「最新発見」の意味まで変わってしまう。

    こういうところ、地味だけど大事である!( ・Д・)

    ここで大切なのは、

    「マンドルの城壁そのものを今回初めて発見した」

    わけではないことだ。

    城壁は以前から知られていた。

    新しく見えてきたのは、その周囲の密林下に延びる道路区間と、道路に関係する可能性を持つ地形である。

    マンドルは、マチュピチュの有名な都市中心部、ペルー側が「リャクタ」と呼ぶ石造集落の東に位置する。

    険しい地形と濃い植生のため、地上から全体の配置を把握することが難しかった。

    LiDARで植生を除去した地形を読むと、道路らしい線は合計2.5kmを超えた。

    その中で最も注目されたのが、少なくとも1.2km続く主要道である。

    斜面をジグザグに進む。

    インカ期の道路建設技術と整合する線形を持つ。

    さらに周囲には、人工的な平場、基壇、囲い、段々畑かもしれない形が見える。

    もしこれらが現地調査によって同時代の施設だと確認されれば、城壁は単独で立っていたのではなく、道と生産空間、あるいは何らかの活動区画を伴う場所だったことになる。

    しかし、まだ「もし」である。

    道路同士は、本当に一つの網としてつながっていたのか。

    すべて同じ時期に使われたのか。

    インカが新設したのか、それ以前の道を改修したのか。

    城壁は通行を管理したのか。

    農業区画を分けたのか。

    儀礼的な境界だったのか。

    マチュピチュ中心部と、ウルバンバ川沿いの低地を結んだのか。

    現時点では分からない。

    だから公式発表も、今後の現地踏査、記録、年代、機能、保存状態の確認が必要だとしている。

    調査を率いたのは、ワルシャワ大学アンデス研究センターのヤン・クラプト。

    LiDARなどのリモートセンシングは、ヴロツワフ工科大学のバルトウォミェイ・チミェレフスキが担当した。

    アプ・スペースの建築家ジェフ・ロッキー・コントレラス・ソト、ヴロツワフ環境生命科学大学のパヴェウ・ドンベクも参加した。

    現地作業は、クスコ地方文化局でマチュピチュの考古学研究調整を担当するニノ・デル・ソラル・ベラルデが監督した。

    つまりこれは、人工衛星画像を眺めた誰かが偶然線を見つけた話ではない。

    考古学。

    測量工学。

    リモートセンシング。

    建築記録。

    文化財行政。

    複数分野と複数機関が、保存を前提に同じ景観を読んだ成果である。

    それでも報道では、「2.5kmのインカ道発見」という一文に縮められやすい。

    でも本当に重要なのは、その先だ。

    城壁は、何と何を分けていたのか。

    道は、どこから来て、どこへ向かったのか。

    周囲の平場では、誰が何をしていたのか。

    一本の線が見つかったことで、点として知られていた城壁が、景観の中へ戻り始めたのである。




    🇯🇵 同じ年、日本のレーザーも別の遺構を見つけていた


    そして今回のニュースを、さらにおもしろくする出来事がある。

    同じ2026年、マチュピチュの別の場所でも、日本のUAV-LiDAR調査によって未知の遺構候補が見つかっていたのだ。

    こちらはマンドル調査とは別のプロジェクトである。

    地域も違う。

    調査チームも違う。

    一つの発見を別の報道が言い換えたものではない。

    JICA、ペルー文化省、福島県の測量会社「ふたば」が進める、3D-SACURAという文化遺産保全事業である。

    事業期間は2025年2月から2027年1月。

    目的は、未知の遺跡探しだけではない。

    高精度三次元データを取得し、石積みの変形や劣化を継続的に監視し、保存計画、観光管理、災害ハザードマップへ利用できる体制をペルー側に作ることにある。

    2026年3月に公表された調査成果では、まずマチュピチュ北東部の大規模段々畑群「アンデネス・オリエンタレス」の全体像と、隣接する段々畑とのつながりが明らかになった。

    写真では木々に隠れ、段差の一部しか見えない。

    しかし点群から樹木を除去すると、山腹を加工した巨大な構造が連続して現れた。

    さらに北側の未調査区域、月の神殿付近では、奇妙な地形が複数検出された。

    一つ目。

    高さ約2.7m、厚さ約0.6m。

    約12.9m×6.4mのL字形をなす、二面の壁状構造。

    二つ目。

    左右対称に見える三段の段々畑。

    三つ目。

    長辺約2mの、平らな直方体状の石。

    背後には空洞らしき空間も見える。

    ただし、これらもすべて「遺構候補」である。

    L字形だから建物とは限らない。

    平らだから加工石とは限らない。

    自然の岩盤、崩落、地形の段差を、人間が造った構造と誤認する可能性がある。

    だから現地確認が必要になる。

    そして、この日本・ペルー協力には、不思議な歴史のつながりがある。

    マチュピチュ村の初代村長を1948~1950年に務めた野内与吉は、福島県大玉村の出身だった。

    彼は現地で水道、電力、ホテルなどの整備に貢献した。

    その縁から、大玉村とマチュピチュ村は2015年に友好都市協定を結ぶ。

    一方、ふたばは東日本大震災と原発事故後、人が立ち入りにくくなった福島の町並みや地形を三次元で記録する技術を磨いてきた企業である。

    見えなくなった故郷を記録するための技術が、今度は地球の反対側で、森林に隠れたインカの景観を記録する。

    これ、技術史としてもかなりすごい。

    マンドルでは、城壁周辺の道が現れた。

    北東部では、大規模段々畑の接続が現れた。

    北側では、壁、段々畑、加工石らしき地形が現れた。

    2026年の二つの調査は別々だが、同じ方向を向いている。

    マチュピチュを、一枚の有名な都市景観だけで理解する時代が終わりつつあるのである。





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    ↑類似の研究とは違って全然よくわからん!( ・Д・)(「Cultura Cusco」の記事内画像より転載)



    🔬 「発見」はまだ地図の上! これから何を確かめるのか


    LiDAR画像は、圧倒的である。

    緑を消す。

    道が出る。

    段々畑が出る。

    壁が出る。

    まるで考古学者が、遺跡を一瞬で透視したように見える。

    しかし考古学的には、ここからが長い。

    まず現地へ行く。

    本当に石が並んでいるのかを見る。

    道幅を測る。

    路面の断面を調べる。

    擁壁、石段、側溝、排水口があるかを記録する。

    崩落や地滑りで偶然できた段差ではないかを確かめる。

    周囲に土器、石器、建物、炉、埋葬、炭化物があるかを探す。

    必要なら小規模な発掘を行う。

    年代測定に使える試料を得る。

    既知の道や建物との高低差、視線、移動時間を分析する。

    そうして初めて、

    いつ造られたのか。

    誰が使ったのか。

    何を結んだのか。

    どれほど長く維持されたのか。

    を議論できる。

    特に今回のマンドル道路では、2.5kmを超える区間が一つの時期に機能したのか、それとも異なる時代の道が重なっているのかが重要になる。

    インカ以前の地域路。

    インカ国家が改修した幹線。

    農業用の作業道。

    祭祀のための道。

    植民地期以後に再利用された道。

    同じ山腹には、複数の時間が重なっているかもしれない。

    マンドルの城壁についても、魅力的な仮説はいくつも作れる。

    マチュピチュ東側への出入口を管理した。

    アンティスユ、すなわち東方低地へ向かう移動を統制した。

    農業区画と居住区を分けた。

    王領の境界を示した。

    山や水に関わる儀礼空間だった。

    しかし今の段階で、どれか一つを答えにしてはいけない。

    道の接続先と沿道施設が確認されて初めて、城壁の意味も見えてくる。

    さらに、発見後の保存も難しい。

    場所は急斜面の密林である。

    植物をすべて刈れば、遺構が見える。

    しかし土壌を覆っていた根や葉を失えば、豪雨による侵食が進むかもしれない。

    観光ルートとして急いで開放すれば、踏圧、落石、廃棄物、安全管理の問題が出る。

    だから公式発表は、調査と同時に保存状態を評価し、保護措置を検討するとしている。

    今回の道が、すぐ新しい観光コースになるわけではない。

    むしろLiDARの最大の利点は、森林を大規模に伐採せず、危険な斜面を全面的に歩かず、どこを優先して調べ、どこを触らずに守るべきかを判断できることにある。

    「見つける技術」は、そのまま「壊さずに管理する技術」になり得る。

    そして何年か後、現地調査の結果、LiDARで道だと思った線の一部が自然地形だったと分かるかもしれない。

    逆に、細い線一本だと思っていた場所から、石段、排水路、宿駅、儀礼施設が見つかるかもしれない。

    どちらでもいい。

    仮説を地図にし、現場で間違いを見つけ、また地図を書き直す。

    それが考古学だからである。






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    ↑やぱ青い空は映えるぜ!( ・Д・)(「Expedia」の記事内画像より転載)


    🌿 「天空都市」の外側こそ、マチュピチュだった


    マチュピチュの最も有名な写真には、ほとんど道が写っていない。

    石造都市。

    段々畑。

    背後のワイナ・ピッチュ。

    完成された一つの景観として切り取られている。

    だから私たちは、マチュピチュを山上に孤立した都市だと思いやすい。

    しかし都市は、道がなければ生きられない。

    食料が来る。

    人が来る。

    命令が来る。

    儀礼のための品が来る。

    石材が来る。

    そして人が去る。

    古代DNAが示した多様な人々も、空から降ってきたわけではない。

    太平洋岸、アンデス高地、アマゾン側の地域から、国家的な移動と道路網を通じてマチュピチュへ集まった。

    段々畑も、ただ都市を美しく縁取る背景ではない。

    土を留め、水を逃がし、食料を育て、斜面を人間の生活空間へ変える施設だった。

    城壁も、それだけでは意味を持たない。

    道とつながり、人の流れを分け、空間を組織して初めて機能する。

    今回レーザーが見つけたのは、2.5km超の線である。

    でも、その線が問い直しているのは、マチュピチュ全体の大きさだ。

    「都市はどこまでか」

    という問いそのものが、正しくないのかもしれない。

    インカにとって重要だったのは、石壁で囲まれた都市と、その外側にある自然を分けることではなかった。

    山。

    岩。

    水。

    森林。

    道。

    段々畑。

    建物。

    それらを一つの秩序ある景観へ組み込むことだった。

    そう考えると、密林はマチュピチュを隠していたのではない。

    私たちが、石造都市だけをマチュピチュだと思い込んでいたのである。

    LiDARは森を消した。

    しかし本当に消えたのは、

    「有名な都市中心部だけを見れば、マチュピチュが分かる」

    という古い見方なのかもしれない。

    1911年、ビンガムは密林の中に石造都市を見た。

    20世紀の研究者は、文書からパチャクティの王領を見つけた。

    21世紀の考古科学は、骨から帝国各地の人々を見つけた。

    そして2026年、レーザーは都市の外側に延びる道を見つけた。

    次に現地へ入る考古学者たちは、その線の上で、積まれた石、削られた土、排水の跡、歩いた人々の痕跡を探す。

    マチュピチュは、完成した謎ではない。

    森と石とデータのあいだで、いまも輪郭を変え続けている遺跡なのである!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    LiDAR流行の次は何かな!?( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ16にち(にちよーび、くもり)

    連休終わっちゃうぜ~!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    ChatGPT Image 2026年8月16日 08_20_51

    ↑ここ数年、ヨーロッパってずっと記録的干ばつでない?( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    イギリスで記録的な干ばつが続き、古城の湖の水位が下がったら、泥の中から錆びた剣がニョキッと出現! 金色の柄にはライオンの頭まで付いており、約200年前の軍楽隊員用の剣らしいことまでは分かったけれど、誰が、いつ、なぜ湖へ沈めたのかはまったく分からないぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに


    湖の水面から、何か細長い物が突き出している。

    木の枝だろうか。

    金属?

    いや。

    剣だ。

    2026年8月6日、イングランド南東部ケント州にあるチディングストーン城で、ボランティアのゴードン・プロクターとポール・フレッチャーが湖岸の倒木を片付けていた。

    この夏の異常な乾燥によって、湖の水位は普段より大幅に低下していた。

    枝を取り除いたところ、その下の浅くなった水面から金属製の刃が突き出していることに気付いたのである。

    二人はグラップリングフックを使って引き上げた。

    泥だらけ。

    刃は錆びている。

    一部は欠けている。

    ところが柄を見ると、ただの鉄くずではない。

    金色の金属で装飾され、端にはライオンの頭。

    その鼻先には輪まで付いている。

    「なんだこれ……剣じゃん!( ・Д・)」

    城の学芸員ナオミ・コリックのもとへ持ち込まれ、調査が始まった。

    そして現在もっとも有力なのが、

    「19世紀初頭頃の英国軍楽隊員用の剣、バンド・ソードではないか」

    という説である。

    報道ではさっそく、

    「Kent's Excalibur」

    ――ケントのエクスカリバー。

    なんて呼ばれている。

    たしかに湖から剣。

    絵面が強すぎる!( ・Д・)

    しかし今回、本当におもしろいのはアーサー王伝説ではない。

    この湖自体が造られた時期と、剣が作られたと考えられる時期が、ほとんど重なっている可能性があるのである。





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    ↑これがチディングストーン城の遠景、敷地は広い!( ・Д・)(「Historic England」の画像より転載)


    🏰 まず驚き、この「古城」は本当の中世城郭ではない

    チディングストーン城と聞けば、

    中世の騎士。

    石造城壁。

    何百年も前の堀。

    そんな場所を想像する。

    ところが現在の建物は、少し事情が違う。

    この場所にはテューダー時代までさかのぼる歴史があるものの、現在の建物の主要部分は17世紀のカントリーハウスを基礎としている。

    当時は「ハイ・ストリート・ハウス」と呼ばれていた。

    そして1803年。

    所有者だったヘンリー・ストリートフィールド卿が建築家ウィリアム・アトキンソンへ大改造を依頼。

    1803~1808年に、塔や胸壁を備えたゴシック様式へ改築され、

    「まるで中世の城」

    のような現在の姿になった。

    「チディングストーン城」という名前が定着するのも19世紀中頃である。

    そして、剣が出てきた湖も中世から存在していたわけではない。

    屋敷の大改造とほぼ同じ19世紀初頭、庭園を自然風のランドスケープ・パークへ作り替える際、小川をせき止めて造られた人工湖なのである。

    面積は約1.5ヘクタール。

    湖岸には洞窟風のグロットや滝まで設けられていた。

    典型的な英国上流階級の景観庭園だった。

    ここが非常に重要になる。

    仮に今回の剣が本当に1800年代初頭の品なら、

    「200年前の剣が、はるかに古い湖へ落ちた」

    のではない。

    剣が作られた時代と、

    湖が造られた時代が、

    ほとんど同じなのである。

    湖が完成して間もない頃に剣が沈んだ可能性さえある。




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    ↑立派である!( ・Д・)(「Historic England」の画像より転載)



    🦁 決め手はライオンの頭――かなり似た剣が博物館にある

    では、なぜ軍楽隊員用の剣だと考えられているのか。

    最大の手掛かりが柄である。

    今回の剣は、

    湾曲した刃。

    金色の柄。

    ライオン頭部形の柄頭。

    そしてライオンの口元付近に付けられた輪。

    という特徴を持つ。

    実は英国王立武具博物館、ロイヤル・アーマリーズには、非常によく似たバンド・ソードが複数収蔵されている。

    例えば1800~1860年頃に分類される「Band Sword Type B」。

    柄は真鍮系の銅合金を一体鋳造したマムルーク風。

    柄頭はライオン。

    口には輪を取り付けるための突起がある。

    さらに19世紀初頭の別タイプにも、

    「真鍮製の柄」

    「ライオン頭の柄頭」

    「口から輪」

    という組み合わせが繰り返し現れる。

    これ、今回の剣とかなり特徴が重なる。

    つまり単に、

    「なんとなく200年前っぽい」

    と言っているわけではない。

    19世紀英国の既知の軍用刀剣型式と比較した結果、

    「これ、バンド・ソードの仲間じゃない?」

    となっているのである。

    ただし、まだ正式な型式同定は終わっていない。

    刀身は泥と錆に覆われ、非常に脆い。

    メーカー刻印や王室モノグラム、連隊名などが残っている可能性もあるが、無理に錆を落とせば一緒に証拠まで失う。

    現段階では、

    「19世紀初頭頃のバンド・ソードである可能性が高い」

    程度にしておくのが安全である。




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    ↑これが見つかった剣だよ、完形だね!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Facebook/ Chiddingstone Castle)



    🎺 そもそも軍楽隊員が、なぜ剣を持っていたのか

    「軍楽隊なのに剣?」

    と思うかもしれない。

    現在の感覚では、軍楽隊といえば、

    トランペット。

    太鼓。

    クラリネット。

    演奏する人たちである。

    しかし19世紀の軍隊では、服装そのものが所属、階級、威信を示す重要な装備だった。

    軍楽隊員や鼓手にも独自の制服と装具があり、その一部として専用の剣が存在した。

    実際、英国の博物館コレクションには、

    Band Sword

    Band or Drummer's Sword

    として分類された19世紀の刀剣が多数残っている。

    1890年頃の軍楽隊・鼓手用刀剣には、通常の兵士の剣より軽量に作られた例も確認されている。

    だから今回の剣も、

    「200年前の兵士が死闘の末、湖へ投げ込んだ戦闘用の剣」

    とは限らない。

    むしろ式典や制服の一部として携行された、装飾性の高いサイドアームだった可能性がある。

    ライオンの頭も、実戦で相手を怖がらせるためというより、軍装を華やかに見せる意匠と考えた方が自然である。

    そして19世紀初頭という時代は、英国がフランス革命戦争からナポレオン戦争へ突入していた頃でもある。

    1803年には対仏戦争が再開。

    1815年にはワーテルローの戦い。

    軍隊は英国社会の非常に目立つ存在だった。

    一方、チディングストーンでは同じ頃、

    古い屋敷を「中世の城」に見えるよう改造し、

    人工湖を掘り、

    洞窟や滝を造っていた。

    軍事的なロマン。

    ゴシック趣味。

    異国風の装飾。

    そんな19世紀初頭の英国文化の中で、ライオン頭の剣と「古城風」の屋敷は、案外よく似た時代感覚から生まれているのである。




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    ↑確かに獅子である!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Facebook/ Chiddingstone Castle)


    🕵️ では誰の剣? 候補が多すぎる

    最大の問題がこれだ。

    剣の型式が分かっても、

    持ち主が分からない。

    現在、大きくいくつかの可能性が考えられている。

    まずストリートフィールド家。

    この一族は16世紀からチディングストーンを所有し、19世紀には城と庭園を大規模に改造した。

    もし剣が1800年代前半に湖へ入ったなら、家族、使用人、訪問者、あるいは敷地内で行われた何らかの催しと関係した可能性がある。

    次が第二次世界大戦。

    チディングストーン城は戦時中に軍によって接収され、兵士たちが駐屯していた。

    古い刀剣が軍施設内へ持ち込まれていた可能性はゼロではない。

    そして一番ややこしいのが、

    デニス・エア・バウアー。

    1955年に城を購入した最後の個人所有者である。

    この人が、かなり強烈なコレクターだった。

    古代エジプト。

    日本。

    仏教美術。

    ステュアート王家。

    ジャコバイト関係資料。

    武器。

    美術品。

    さまざまな物を集め、城そのものを自分のコレクション展示場として公開した。

    1940年代には美術商としても活動しており、専門家と手紙を交わしながら来歴を調査するほど収集へ熱中していた。

    現在の城には、日本刀や甲冑まで残っている。

    つまり、

    「昔の所有者が持っていたアンティーク剣が、何らかの事情で湖へ入った」

    という可能性も十分ある。

    この場合、剣自体は200年前でも、

    湖へ沈んだのは70年前、

    なんてこともあり得る。

    考古学では、

    「物が作られた年代」

    と、

    「その場所へ置かれた年代」

    は別である。

    今回の謎を解くには、まさにそこを分けなければならない。


    👻 そして候補その4、「湖で死んだ兵士の幽霊」

    そして地元には、もっといい話がある。

    湖には、

    兵士が落ちて死に、その幽霊が周辺をさまよっている

    という伝説があるらしい。

    今回、

    湖から剣が出た。

    兵士の幽霊伝説がある。

    完璧である!( ・Д・)

    学芸員のナオミ・コリック自身も、この伝説について言及している。

    ただし、

    「史実として確認できるかは分からない」

    とも述べている。

    ここは歴史研究として非常におもしろいところだ。

    もし今後、19世紀の新聞。

    死亡記録。

    地元教会の埋葬簿。

    ストリートフィールド家文書。

    城の使用人記録。

    軍関係文書。

    などから、

    「湖で兵士が死亡」

    という記録が本当に見つかったらどうだろう。

    さらに剣の型式年代まで一致する。

    すると単なる幽霊話だったものが、一気に歴史資料になる。

    逆に何も出なければ、

    後世に生まれた伝説が、今回の剣発見によって新しい物語を獲得することになる。

    こういう、

    物質資料と口承伝承が偶然ぶつかる瞬間

    は、歴史考古学ではかなりおもしろい。

    まあ現段階では、

    「幽霊の剣だった!」

    とは書けないけど!( ・Д・)




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    ↑博物館所蔵の類似の剣!( ・Д・)(「ROYAL ARMOURIES」の収蔵品画像より転載)


    ☀️ 剣を引き上げたのは、英国史上最悪級の乾燥だった

    そして今回の発見を可能にしたのが、2026年の異常な夏だった。

    英国気象庁によれば、2026年7月のイングランドの降水量はわずか6.5ミリ。

    平年の約10%しかなかった。

    1836年に統計が始まって以来、

    イングランド史上もっとも乾燥した7月

    となった。

    南イングランドに限れば降水量はわずか1.9ミリ。

    平年の3%ほどで、観測史上もっとも乾燥した「月」そのものになった。

    ケント州を含む19地域では、7月全体の降水量が1ミリ以下だった。

    湖の水位も大きく低下。

    普段なら水中に隠れていた刀身が、ついに地表へ顔を出したのである。

    皮肉なのは、干ばつが文化財を「発見させる」現象は、今回だけではないことである。

    乾燥によって草の成長が変わり、地下の建物跡がクロップマークとして見える。

    川や湖の水位が下がり、沈んでいた橋、船、武器、遺構が露出する。

    つまり異常気象が、

    一時的に考古学者の目を地下や水底へ通す窓

    になることがある。

    ただしこれは単純な幸運ではない。

    露出した瞬間から、遺物は別の危険にさらされる。

    🧪 200年間湖にいた鉄を、急に空気へ出すと危ない

    今回の剣も、すでに非常に脆い。

    城側では手袋を使用し、酸を含まない保存用紙で包み、通常のように持ち上げることを避けている。

    なぜ慎重なのか。

    鉄は水中にあるから絶対に安全、というわけではない。

    しかし水底の泥の中で長期間安定していた金属を掘り出すと、

    酸素。

    湿度。

    温度。

    塩類。

    環境が突然変わる。

    特に塩化物を含んだ鉄は、水分が存在すると腐食反応が継続し、表面が剥離したり粉状に崩壊したりすることがある。

    博物館の保存科学では、発掘された鉄製品について湿度管理と専門的な安定化処理が非常に重要とされている。

    だから、

    「泥を洗ってピカピカにしよう!」

    は最悪の場合、情報破壊になる。

    錆の内部に、

    刀身表面。

    刻印。

    装飾。

    製造痕。

    有機物。

    などが残っている可能性があるからである。

    今後X線撮影を行えば、錆の下からメーカー刻印や模様が現れるかもしれない。

    金色の柄についても、本当に真鍮なのか。

    鍍金なのか。

    鋳造方法はどうか。

    ロイヤル・アーマリーズのどの型式にもっとも近いのか。

    そこまで分かれば製造年代をさらに絞れる。

    そして製造年代が絞れれば、今度は城の記録から、

    「その時代に誰がこの剣を持ち得たか」

    を追える。

    考古学と文献史学の刑事ドラマが始まるのである。


    🧩 「200年前の剣」は分かっても、「200年前から湖にあった」とは限らない

    このニュースで一番注意したいのがここ。

    「200年前の剣が湖から発見」

    という見出しを見ると、

    1820年頃に湖へ落ち、

    そのまま200年間眠っていた

    と思ってしまう。

    でも、まだ分からない。

    仮に1820年製の剣でも、

    1840年に落ちたかもしれない。

    1900年かもしれない。

    第二次世界大戦中かもしれない。

    1950年代に収集家バウアーが落としたかもしれない。

    物の年代と、埋没年代は別なのだ。

    逆に言えば、

    湖の泥がまだ残っているなら、そこに答えがある可能性もある。

    刀身に付着した堆積物。

    植物。

    花粉。

    腐食層。

    周囲の地層。

    本来なら「どの層から、どういう角度で出たか」という出土状況そのものが重要な資料になる。

    今回は発掘調査ではなく、ボランティアが偶然引き上げた発見なので、その情報の一部はすでに失われている可能性がある。

    それでも写真、発見地点、当日の水位、刀身の向きなどが記録されていれば、ある程度は復元できる。

    現在、城側は地域のFinds Liaison Officerにも報告し、他の博物館や刀剣専門家へ協力を求め、城の文書も調査している。

    答えは、剣だけではなく、

    湖と文書の両方から探すことになる。


    🦁 湖へ沈んだのは、剣だけではなく「物語」だった

    約200年前。

    英国ではナポレオン戦争が続いていた。

    同じ頃、ケントの田園では古い邸宅がゴシック風の「城」へ姿を変えた。

    庭には湖が掘られた。

    滝。

    洞窟。

    橋。

    ロマンチックな景観が造られる。

    そして、その時代に作られた可能性のあるライオン頭の剣がある。

    誰かが腰へ下げていた。

    軍楽隊員だったのかもしれない。

    屋敷の所有者が収集したのかもしれない。

    後世の兵士が持ち込んだのかもしれない。

    ある日、それが湖へ入る。

    落とした?

    捨てた?

    隠した?

    ふざけて投げた?

    何かの事件があった?

    分からない。

    時間が流れる。

    ストリートフィールド家が去る。

    第二次世界大戦で兵士が来る。

    学校になる。

    美術収集家が住む。

    博物館になる。

    剣は泥の中に残る。

    そして2026年。

    歴史的な干ばつが湖を縮める。

    倒木を片付ける。

    水面から、一本の刃が姿を現す。

    湖から剣が出たから、

    「エクスカリバーだ!」

    と笑う。

    でも考古学的には、本物のアーサー王の剣なんかより、こっちの方がむしろおもしろいかもしれない。

    剣そのものは、博物館に類例がある。

    おそらく19世紀の英国製品。

    そこまでは分かる。

    しかし、

    誰が持っていたのか。

    いつ湖へ入ったのか。

    なぜ戻ってこなかったのか。

    この三つが分からない。

    考古資料には、名前が書いていないことが多い。

    だから型式。

    材質。

    錆。

    地層。

    古文書。

    土地の歴史。

    そして時には幽霊話まで集め、一つずつ可能性を消していく。

    今回見つかった「ケントのエクスカリバー」は、

    伝説の王を選ぶ剣ではない。

    約200年前の英国で生きた、

    名も分からない誰か一人を探し出すための剣なのである!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    エクスカリバーの響きはかっこいいぜ!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ15にち(どよーび、晴れ)

    うぉ~!急遽弟と遊べなくなったから今日も頑張る~!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y964

    ↑いつもより多くふざけております!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    約130年前に富山で見つかった隕鉄から、本当に日本刀『流星刀』を作った人がいる!ぼくのかんがえたさいきょうの『星のうんこ剣』も見て!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    ☄️ 約130年前、「宇宙の鉄」から本当に日本刀を作った

    富山県で見つかった隕石から作られた日本刀「流星刀」が改めて話題になっている。

    もう名前からして強い。

    流星刀。

    ゲームで入手したら終盤まで使えそうな名前である!( ・Д・)

    ただし、最初に一つだけ修正しておこう。

    「約130年前に富山へ流れ星が落ち、その直後に拾われた」ということが確認されているわけではない。

    材料となった「白萩隕鉄第1号」が発見されたのが1890年頃なのであって、実際に地球へ落下した時期は分かっていない。発見場所も現在の富山県上市町、上市川ダムより上流と考えられているものの、正確な地点までは不明である。重さは約22キログラム、U字形をした鉄隕石だった。

    当初は大阪造幣局へ持ち込まれたものの、ただの鉄塊と判断され、本格的な分析はされなかった。

    ところが1895年、農商務省地質調査所で改めて調べると、鉄隕石特有のウィドマンシュテッテン構造が確認された。

    こうして、

    「そのへんにあった変な鉄の塊」

    から、

    「宇宙からやって来た白萩隕鉄」

    へ昇格したのである。

    ちなみに現在の分類ではIVA型のオクタヘドライトとされている。

    つまり「流れ星を刀にした」という表現はロマンとしては大正解なのだけれど、科学的には、大気中で一瞬光る流星そのものを捕まえたわけではなく、燃え尽きずに地上まで到達した鉄隕石を鍛えた刀なのである。





    arukemaya_y961

    ↑美しいなぁ!( ・Д・)(「wikipedia」の画像より転載)


    ⚔️ 榎本武揚「ロシア皇帝が隕石剣を持ってる? じゃあ日本刀を作ろう」

    この妙な計画を始めた人物が、榎本武揚だった。

    幕末には幕府海軍を率いて箱館戦争を戦い、その後は明治政府で外交官や大臣を務めた人物だが、同時に科学技術、とくに鉱物学や製鉄にも強い関心を持っていた。

    榎本はロシア滞在中、ツァールスコエ・セロー宮殿でロシア皇帝が所有していた隕鉄製の刀剣を目にし、自分でも隕石から刀を作りたいと考えたと伝えられている。

    そして1895年。

    白萩隕鉄が本物の隕石だと分かると、榎本はこれを購入。

    刀工・岡吉国宗に渡して、

    「これで日本刀を作ってくれ」

    という、とんでもない注文をした。

    しかし隕鉄は、そのまま日本刀へ加工するには扱いにくかった。

    そこで試行錯誤しながら日本の鋼と組み合わせ、最終的に1898年、長刀2振、短刀3振の計5振が完成した。

    榎本はこれを「流星刀」と命名した。

    刀身には普通の日本刀とは違う、木目やまだら模様のような独特の肌が現れる。

    今回のニュースでも富山市科学博物館の流星刀について、その模様と「星鉄」の銘が特徴として紹介された。

    なお、これは「100%宇宙の鉄だけで作った剣」ではない。

    隕鉄と地球上の鋼を組み合わせて鍛えた日本刀である。

    でも、

    地球ができる以前から太陽系を漂っていた金属を、

    明治の日本人が火に入れ、

    叩き、

    折り返し、

    日本刀へ変えた。

    と考えれば、十分すぎるほどロマンがある。


    🌠 5振しかない「流星刀」は、科学実験でもあった

    完成した5振のうち、長刀1振は当時の皇太子、後の大正天皇へ献上された。

    もう1振の長刀は現在、東京農業大学に保管されている。

    短刀では富山市科学博物館が1振を所蔵し、別の1振は榎本家ゆかりの小樽・龍宮神社へ奉納されている。

    そして榎本は「珍しい刀できた! やったー!」で終わらなかった。

    1898年12月には「流星刀記事」をまとめ、隕石の意味、日本国内外の隕石、白萩隕鉄の分析、そして隕鉄を刀へ加工した経緯まで記録した。

    榎本にとって流星刀は、工芸品や珍品というだけでなく、

    「宇宙から来た未知の鉄を、日本の製鉄技術でどう扱えるのか?」

    という科学・技術上の実験でもあったのである。

    実際、残された白萩隕鉄そのものも国立科学博物館で保管・展示されている。

    宇宙物質、明治の科学史、日本刀製作史。

    この三つが一個の物に集約されている点が、流星刀のおもしろさなのだ。

    ……ということで流星刀の話はここまで!

    ちゃんとカッコいい話だった。

    でもですね。

    私はさらに強そうな名前の石器産地を知っているのですよ。




    arukemaya_y962

    ↑こう見ると確かに文様が特殊だね!( ・Д・)(「竜宮神社」の画像より転載)


    💩 長野県には本当に「星糞峠」という場所がある

    場所は長野県小県郡長和町。

    霧ヶ峰高原の北東部に、

    「星糞峠」

    という、信じられないくらい良い名前の峠がある。

    読み方はもちろん、

    「ほしくそとうげ」。

    そしてこの名前の「星糞」は、少なくとも江戸時代には黒曜石を指す言葉の一つとして知られていた。地元には、地面いっぱいに散らばるキラキラした黒曜石を「空から落ちてきた星のかけら」と考えたという伝承も残っている。

    つまり現代語の勢いだけで訳すなら、

    星糞

    星のうんこ

    黒曜石

    である。

    ならば黒曜石で刃物を作れば、

    「星のうんこ剣」

    が完成するじゃないですか!( ・Д・)

    ……とはいえ、ここには少しだけ真面目な注釈が必要である。

    昔の「糞」という字には、現在の排泄物だけでなく、掃き散らされたもの、屑のようなニュアンスもあったという説明がある。また江戸期の辞書では「星糞」を石の名称として扱い、隕石を指す用例もあったらしい。

    そして地元の黒耀石体験ミュージアム自身も、語源について完全に分かったわけではないとしている。

    だから、

    「縄文人が黒曜石を星のウンコと呼んでいた」

    と書くのはダメ。

    縄文人が何と呼んでいたかは分からない。

    歴史的に確認できるのは、後世に黒曜石を「星糞」と呼ぶ言葉が存在し、星のかけらが降ったという伝承が生まれていたというところまでである。

    でも「星のうんこ剣」というネタは捨てない!( ・Д・)





    arukemaya_y006

    ↑やぱマヤの黒曜石は一番だぜ!さすがずっと石器時代なだけある……( ・Д・)



    ⛏️ しかも星糞峠、ふざけた名前なのに中身はガチの縄文鉱山

    名前だけ聞くと珍地名で終わりそうだが、考古学的には相当すごい場所である。

    正式名称は、

    「星糞峠黒曜石原産地遺跡」。

    2001年に国史跡へ指定された。

    この周辺の黒曜石は約87万年前の火山活動によって形成されたと考えられている。

    旧石器時代になると、人々は麓の川などで黒曜石を集め、約3万年前から石器材料として盛んに利用した。

    そして縄文時代になると、地表で拾うだけではなく、ついに山を掘り始める。

    星糞峠から虫倉山にかけて、現在確認されている採掘跡は195基。

    範囲は約6.6ヘクタール。

    地表には直径10メートル前後のクレーター状の窪みが並び、その下には直径数メートル、深さ数メートルに達する採掘坑が複雑に重なっている。

    要するにここは、

    「縄文人がたまたま黒曜石を拾った場所」

    ではない。

    本格的な鉱山である。

    発掘では木製の掘り棒や土砂崩れを防ぐ施設まで確認されており、何度も同じ場所を掘り返しながら原石を採取していたことが分かっている。

    しかも黒曜石はここだけで消費されたわけではない。

    霧ヶ峰・和田峠周辺産の良質な黒曜石は、中部・関東を中心に、さらに遠方まで流通した。

    現在では黒曜石に含まれる微量元素などを比較することで、

    「この遺跡の石器は、どこの山から来た石なのか」

    まで産地推定できる。

    つまり星糞峠は、

    縄文時代の採掘、

    加工、

    搬出、

    交換、

    地域間ネットワーク

    を丸ごと研究できる巨大な資源供給拠点なのである。

    名前は星のうんこなのに!( ・Д・)




    arukemaya_y963

    ↑物理系ならこれ強そうだよね、これでFEの流星剣使えば確殺だよ!( ・Д・)


    🗡️ では「星のうんこ剣」は、本当に最強なのか?

    黒曜石は火山ガラスである。

    割れると非常に鋭い縁ができる。

    そのため旧石器・縄文時代には、槍先、鏃、ナイフなど非常に優秀な石器材料として使われた。

    星糞峠の麓でも旧石器時代の石槍が見つかっており、この地域から得た黒曜石が遠方へ持ち運ばれていた。

    だから、

    星糞峠産黒曜石を大量に持ってきて、

    巨大な剣を作る。

    名付けて、

    「星のうんこ剣」。

    流星刀に勝った!( ・Д・)

    ……とはならない。

    黒曜石は鋭い一方で脆い。

    長い日本刀のような形にすると、曲げや衝撃に弱く、金属剣のようにガンガン打ち合う武器には向いていない。

    だから実際の石器では、小さな刃や尖頭器としてその性質を活用する。

    「最強の切れ味」と「最強の剣」は別問題なのである。

    しかし考古学的には、むしろそこがおもしろい。

    流星刀では、

    宇宙から来た鉄

    明治の科学者

    刀工

    日本刀

    という物質の履歴がある。

    星糞峠では、

    火山活動で生まれた黒曜石

    数十万年後に地表へ現れる

    旧石器人が拾う

    縄文人が山を掘る

    石器へ加工する

    数百キロ離れた集落まで運ばれる

    という、とんでもなく長い履歴がある。

    流星刀は「宇宙の物質を人間が刀に変えた物語」。

    星糞峠は「地球が生んだガラスを、人間が何万年も追い続けた物語」。

    方向性は違うけれど、どちらも素材の由来まで知ると急にカッコよくなる。

    ということで、

    流星刀 vs 星のうんこ剣、

    私は後者を推したい!( ・Д・)

    名前だけなら圧勝である。




    ob.exentric_001

    ↑魔法系ならこっちかな!( ・Д・)




    🌽 おわりに――いや、やっぱりマヤのエキセントリックが最強だわ

    ……と思ったけれど。

    石器の「変なカッコよさ」で勝負するなら、最後に古代マヤを出しておきたい。

    古代マヤには「エキセントリック」と呼ばれる、とんでもなく複雑な形へ打ち欠いた燧石・黒曜石製品がある。

    人間の横顔。

    神。

    動物。

    ギザギザした刃。

    普通のナイフとして使うには明らかに変な形。

    実用品というより、儀礼や王権と結び付いた特別な石器と考えられている。実際、古典期マヤには人間や神々の横顔を幾重にも組み合わせた30センチ級の燧石製エキセントリックまで存在する。

    黒曜石製のエキセントリックも確認されている。

    ということで最終結果。

    流星刀。

    カッコいい。

    星のうんこ剣。

    名前が強い。

    マヤのエキセントリック。

    形がおかしい。

    ……うん。

    やっぱりマヤが最強だな!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    いくつになってもうんこって言いまくると何故かテンション上がるぜ!うんこ!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ14にち(きんよーび、晴れのち雨)

    うぉ~!昨日の分も頑張るんだぁ~!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y957

    ↑メソアメリカだとマスクとかめちゃ盗難にあってるよね、ワンチャン海外の博物館にある方がマシな説もある気がする!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    オランダの博物館で約60年間展示されてきた、トルコ石で覆われた先コロンブス期の人間の頭蓋骨がメキシコへ返還されたけれど、科学分析をしてみたら、人骨も石片も古代の本物らしいのに、それらを貼り合わせた接着剤だけは20世紀のものだった! いったいこれは古代遺物なのか、現代の偽物なのか?( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに


    これは、ものすごく美しい。

    そして、ものすごく不気味である。

    人間の頭蓋骨。

    その顔面を、青緑色に輝く何百枚もの小さな石片が覆っている。

    額には細長い蛇の姿。

    眉の上には赤や白の帯。

    眼窩には円形の装飾。

    蛇の目には透明な水晶。

    青い部分の大半はトルコ石で、貝、翡翠、石英など異なる素材が組み合わされている。

    2026年8月、メキシコ国立人類学歴史研究所、INAHは、この頭蓋骨がオランダからメキシコへ返還され、現在INAHの管理下で登録・調査されていることを発表した。額のモザイクは模式化された蛇を表し、青色部分はトルコ石、眉や目の周囲の赤白色部分は貝、左眼窩には翡翠、蛇の目には水晶が使われているという。

    一見すれば、

    「500年前のミシュテカ人が作った、驚異的なトルコ石の頭蓋骨が故郷へ帰ってきた!」

    という話に見える。

    ところが、この頭蓋骨にはとんでもない研究史がある。

    2011~2012年、オランダとフランスの研究者たちが徹底的に分析したところ、

    人骨――古い。

    トルコ石などのモザイク材料――古い。

    石を加工した痕跡――現代工具ではないらしい。

    しかし、

    それらを頭蓋骨へ貼っている主要な接着剤――近代のシェラック。

    という奇妙な結果になった。研究を率いたマーティン・ベルガーは、最も可能性が高い説明として「古代の本物の頭蓋骨と、本物の先コロンブス期のモザイク片を、近代になって組み合わせたもの」を挙げている。

    つまりこれは、

    「本物か、偽物か?」

    では済まない。

    本物の人骨。

    本物の古代石材。

    現代の接着剤。

    そして20世紀の美術市場。

    異なる時代の物質が、一つの「古代美術品」に組み立てられているかもしれないのである。

    しかも今回は、その物自体が人間の遺骸だ。

    だから真贋問題だけでは終わらない。

    なぜ頭蓋骨をトルコ石で飾ったのか。

    古代メソアメリカには本当に同じような例があるのか。

    誰の頭蓋骨だったのか。

    なぜヨーロッパへ渡ったのか。

    そして「現在の姿が近代に作られた可能性が高い人骨」を、それでもメキシコへ返す意味とは何なのか。

    これ、考古学・考古科学・博物館史・文化財返還問題が全部一つになった、とんでもなく面白い資料なのである!( ・Д・)


    🌧️ まず「ミシュテカ文明」とは何なのか?

    この頭蓋骨は長く、メキシコ南西部のミシュテカ文化に属するものとして扱われてきた。

    ミシュテカ、Mixtecという名称はスペイン語・英語圏で広く使われる呼称だが、現在の先住民社会では地域や言語によってÑuu SaviやÑudzavuiなどの自称があり、「雨の民」「雨の地の人びと」といった意味に訳される。文化圏は現在のオアハカ州を中心に、プエブラ州やゲレロ州へも広がっていた。

    日本ではアステカやマヤほど知られていないが、先コロンブス期メソアメリカ美術を考えるなら、とても重要な文化である。

    特に西暦1200~1521年頃の後古典期後期には、動物皮へ鮮やかな絵を描いた折本形式の絵文書、いわゆるミシュテカ絵文書、非常に精巧な金工品、トルコ石や貝を組み合わせたモザイクなどで知られる。

    金のロストワックス鋳造。

    細かな擬似フィリグリー。

    石を数ミリ単位の小片へ加工するラピダリー技術。

    異なる色と質感を組み合わせるモザイク。

    「石を削る文化」というより、素材そのものが持つ色、光沢、希少性を組み合わせて、権力や宗教的意味を表現する文化だった。

    ただし「ミシュテカ帝国」という一つの巨大国家が存在したわけではない。

    オアハカ周辺には多数の都市国家・領主国が存在し、婚姻、戦争、同盟によって複雑な政治関係を結んでいた。

    そして東方では、15世紀になるとテノチティトランを中心とするアステカ帝国が拡大する。

    つまり今回の頭蓋骨が想定される後古典期後期は、

    ミシュテカの諸王国。

    サポテカ系諸都市。

    アステカ帝国。

    そのほか多数の地域社会。

    が交易と戦争と政治関係で結ばれていた時代なのである。

    だからトルコ石一枚を見ても、

    「地元で拾った青い石」

    とは限らない。

    そこには、原料を採る場所。

    加工する職人。

    運ぶ商人。

    受け取る支配者。

    儀礼で使用する人間。

    という長い社会関係が隠れている。





    arukemaya_y958

    ↑考古学的な記録写真ではないんだけど、なんだかいいなって感じる撮り方、珍しいぜ!( ・Д・)(「INAH」の記事内画像より転載)


    💎 なぜ人間の頭蓋骨を、こんなに美しく飾ったのか?

    そもそも、なぜ頭蓋骨へ宝石を貼るのだろう。

    現在の感覚では、

    「死体を飾る」

    という行為に不気味さを感じる。

    しかしメソアメリカでは、人骨が単なる「死後の廃棄物」だったとは限らない。

    祖先。

    戦争。

    供犠。

    権力。

    神々。

    死者の身体は、さまざまな社会的・宗教的意味を持つ物質として扱われた。

    だから装飾頭蓋骨が存在すること自体は、あり得ない話ではない。

    しかも、決定的な考古資料がある。

    1932年1月9日、考古学者アルフォンソ・カソがオアハカの巨大都市遺跡モンテ・アルバンで発掘した「7号墓」である。

    モンテ・アルバン自体はもともとサポテカ人によって築かれた古代都市だが、古典期に造られた墓が後古典期になって再利用され、その内部からミシュテカ系の豪華な副葬品が大量に発見された。金、銀、翡翠、黒曜石、水晶、貝、真珠、琥珀、そしてトルコ石。現在INAHは、この墓の副葬品群を西暦1250~1521年頃に位置付けている。

    そこから、本当にトルコ石モザイクで装飾された人間の頭蓋骨が出ている。

    こちらは美術市場から買った物ではない。

    考古学者が墓の内部から発掘した。

    出土位置も分かる。

    一緒にあった遺物も分かる。

    つまり、

    「先コロンブス期メソアメリカでは、人間の頭蓋骨へトルコ石や貝を貼り付ける行為が実際に存在した」

    ことを証明する基準資料なのである。

    そして7号墓の頭蓋骨では、モザイクを固定するためにコーパル系の樹脂を含むペーストが使われていたことが研究されている。

    古代メソアメリカではほかにも松脂、コーパル、蜜蝋などがモザイクの接着に利用された。

    つまり職人は、骨へ石をただ並べたわけではない。

    数ミリほどの石片を切る。

    研磨する。

    色を選ぶ。

    図像を設計する。

    天然樹脂系の接着材を準備する。

    曲面である頭蓋骨へ、一片ずつ貼る。

    極めて高度な複合技術だった。

    今回返還された頭蓋骨の額にも、蛇が描かれている。

    INAHは模式的な蛇と説明し、過去の研究では羽毛ある蛇を思わせる図像として検討されてきた。

    ただし、これを即座にケツァルコアトルという特定の神格だと断定することはできない。

    問題は、この蛇が古代にこの頭蓋骨のために作られた図像なのかどうか、それ自体が分からないからである。


    🔵 トルコ石は、どこから来た? 研究史までひっくり返った「青」

    トルコ石は、後古典期メソアメリカで非常に重要な高級素材だった。

    長いあいだ研究者は、アステカやミシュテカのトルコ石の多くが、現在のアメリカ南西部――ニューメキシコやアリゾナ周辺から長距離交易で運ばれてきたと考えていた。

    実際、この説明は現在でも博物館の古い解説などに残っている。

    ところが2018年、トルコ石に含まれる鉛・ストロンチウム同位体を分析した研究によって、その図式が大きく揺らいだ。

    分析されたアステカ・ミシュテカのトルコ石は、アメリカ南西部の既知鉱床の同位体組成とは一致せず、むしろメソアメリカ内部の地質環境から採られた可能性が高いことが示されたのである。現時点でも具体的な古代採掘地は特定されていないが、「トルコ石=すべてアメリカ南西部から輸入」という古いモデルは維持できなくなっている。

    これも考古学のおもしろいところである。

    青い石そのものは、100年前から博物館にある。

    でも分析技術が変わると、

    「この石はどこから来たのか」

    という地図まで書き換わる。

    今回帰還した頭蓋骨でも、将来的に個々のトルコ石片を詳しく比較できれば、それぞれが同じ原料源から来たのか、それとも異なる古代遺物から集められたのかという問題へ近づける可能性がある。

    なぜなら、この頭蓋骨の場合、

    「美しいモザイクが一つある」

    という前提そのものが疑われているからだ。


    🇳🇱 1960年代、美しすぎる頭蓋骨がヨーロッパへ現れた

    問題の頭蓋骨がオランダの博物館へ入ったのは1960年代初頭だった。

    現在のINAH資料では1962年に美術市場を通じて取得されたとされ、博物館側の過去の研究記録では、アメリカ人美術商ロバート・ストルパーから1963年頃に持ち込まれ、1964年頃までに取得手続きが進んだ経緯が記録されている。

    つまり細かな年には資料差があるものの、確かなのは、

    「発掘によって博物館へ入ったわけではない」

    ということである。

    美術商が語った来歴では、メキシコ・オアハカ州北部、現在のテオティトラン・デ・フローレス・マゴン付近の墓から出たとされていた。

    しかし、それを裏付ける発掘記録はない。

    誰が掘ったのか。

    どんな墓だったのか。

    何が一緒に出たのか。

    頭蓋骨とモザイクがどの位置関係だったのか。

    すべて分からない。

    そして、これが考古学では致命的に大きい。

    なぜなら、同じ頃に非常によく似た「トルコ石モザイク頭蓋骨」が欧米の美術市場へ次々と現れていたからである。

    ダンバートン・オークス。

    サンフランシスコのデ・ヤング美術館。

    マルセイユ。

    個人コレクション。

    2013年の研究では、ライデンの頭蓋骨と同じように、顔面だけをほぼ完全な状態でモザイクが覆うタイプが約10点知られていた。

    ところが、こうしたタイプには信頼できる考古学的出土例がほぼない。

    さらに何点かを科学分析すると、

    古い人骨。

    古い石。

    現代の接着剤。

    という、同じ奇妙な組み合わせが何度も現れたのである。

    たとえばダンバートン・オークスでは、購入を検討した4点のうち1点から家庭用接着剤Duco Cementが検出され、購入が見送られた。

    デ・ヤング美術館の例についても、専門家ゴードン・エクホルムは、古代の人骨と古代のモザイク片を近代に組み合わせた物だと判断していた。

    マルセイユの頭蓋骨では、人骨自体は西暦772~900年頃と測定されたものの、接着剤は近代的なシェラックだった。

    つまりライデンの頭蓋骨だけが怪しかったのではない。

    20世紀の美術市場に、

    「古代メキシコらしく見える、極めて美しい装飾頭蓋骨」

    という一群が突然出現していたのである。





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    ↑迫力を感じるぜ!( ・Д・)(「HERITAGE DAYLY」の記事内画像より転載;credit: INAH)



    🔬 本物の骨+本物の石+現代の糊=これは何なのか?

    そこで2011~2012年、ライデンの国立民族学博物館とフランスのC2RMFなどが、本格的な科学調査を始めた。

    まずモザイク。

    X線回折、蛍光X線分析、PIXEなどを使って材料を調べる。

    その結果、モザイクの約97%はトルコ石。

    ほかに貝、翡翠、沸石類、水晶が確認された。

    顕微鏡で加工痕を見ると、石片には現代的な工具を使って作った明瞭な証拠がなく、材料と加工の両面から、多くのモザイク片は本物の先コロンブス期資料と考えられた。

    ところが貝片を調べると、おかしなことも分かった。

    一部には土中で形成されたとみられる付着物がある。

    しかし同じ材質の別の貝にはない。

    もし一つの完成品として同じ墓に置かれていたなら、同じような環境履歴を示しそうなのに、パーツによって履歴が違う。

    研究者は、

    「もともと別々の場所に埋まっていた古代資料を集めた可能性」

    まで考えるようになった。

    次に頭蓋骨。

    骨格形態と炭素・酸素・ストロンチウム同位体を調べると、この人物はヨーロッパ人ではなく、メソアメリカ先住民であることと整合する結果になった。

    歯の同位体からは、乾燥した高地・火山性地質を持ち、トウモロコシへの依存度が高い地域で育った可能性が示され、オアハカ周辺という想定とも矛盾しなかった。2013年の骨学的評価では男性、死亡年齢35~49歳程度とされた一方、現在INAHは既存分析を踏まえて約25~40歳の男性と紹介しており、年齢推定には幅が残っている。

    ここまでは、

    「やっぱり本物じゃん!」

    となる。

    最後に研究者が調べたのが、石と骨の間にあるもの。

    接着剤だった。

    紫外線を当てると、二種類の接着剤が見えた。

    一つは後の修復に使われたもの。

    問題は、モザイクの約99%を固定していた主要な接着剤である。

    GC-MSで分析した結果、それはシェラックだった。

    シェラックは東・東南アジアに生息するラックカイガラムシ類が分泌する物質から作られる。

    メキシコにも有名なコチニールカイガラムシはいるが、赤色色素を得る昆虫であって、シェラックを作るラックカイガラムシとは別物である。

    したがって、この接着剤が先コロンブス期メキシコで使われたとは考えられない。

    骨は古い。

    石も古い。

    しかし、それを現在の配置へ固定した行為は新しい。

    ベルガーは最終的に、

    「本物の先コロンブス期資料を近代に組み合わせた作品」

    である可能性が最も高いと結論した。

    ただし、ここにも考古学らしい留保がある。

    古代に本当にこの頭蓋骨へモザイクが付いていた。

    発見時には石が剥がれていた。

    近代の修復者が、それをシェラックで貼り直した。

    という可能性を完全に排除することもできない。

    発掘記録がないからである。

    だから研究者自身も「完全な偽物」と断言するより、

    「近代に再構成された可能性が非常に高い」

    という表現を選んでいる。

    ここ、本当におもしろい。

    「本物」と「偽物」は、二択ではなかったのである。


    ☢️ 炭素14で決着!……とはならなかった

    では人骨そのものを炭素14年代測定すればいい。

    そう考えるのは当然である。

    実際、2018年には頭蓋骨から少量の骨を採取し、グローニンゲン大学で放射性炭素年代測定が試みられた。

    しかし結果は出なかった。

    採取できた骨は約36ミリグラム。

    そこから得られたコラーゲンは約0.15ミリグラムしかなく、信頼できる年代値を得るには少なすぎたのである。

    2021年に発表された査読論文でも、この頭蓋骨について「信頼できる放射性炭素年代は得られなかった」と明記されている。

    だから、

    「炭素14で500年前と証明された頭蓋骨」

    と書くのは正確ではない。

    過去の報道にはそのような表現もあるが、現在の学術的な整理では、この個体そのものについて信頼できる直接年代はまだない。2016年の日本語報道でも当時は「放射年代測定で本物」と紹介されたが、その後の査読研究では頭蓋骨の年代測定は成功していない。

    そして2026年、メキシコへ戻ったことで、この問題に再び挑戦できる可能性が出てきた。

    INAHは、歯や側頭骨など保存のよい部分を利用した新たな放射性炭素年代測定や古代DNA分析を、今後の研究候補として挙げている。

    つまり帰還は、政治的なゴールだけではない。

    考古科学的には、

    「誰だったのか」

    を改めて調べ始めるスタートでもある。


    ✈️ 「偽物」でも、なぜメキシコへ返したのか?

    ここで非常に重要な疑問が出る。

    現在の形が20世紀に組み立てられた可能性が高いなら、

    なぜメキシコへ返還するのか?

    答えは、この資料が単なる偽造美術品ではないからである。

    中心にあるのは、本物の人間の頭蓋骨だ。

    しかも骨格・同位体分析から、メソアメリカ先住民男性の遺骨と考えられている。

    オランダ政府も2024年12月の返還決定で、「頭蓋骨と石そのものは古いが、接着剤は20世紀であり、現在の組み合わせは比較的新しい」と明記したうえで、それでも人骨には特有の倫理的問題があり、メキシコからの具体的な要請を受けて返還することを決めた。

    ここでは、

    「美術品として本物か」

    と、

    「誰の祖先の遺骨なのか」

    が別問題になっている。

    これは文化財返還を考えるうえで、とても大きい。

    絵画なら偽物と判明した瞬間、経済的価値は暴落するかもしれない。

    しかし人間の骨は、

    「モザイクの配置が近代だから、もう意味がありません」

    とはならない。

    その人物自身は実在した。

    生きた。

    食べた。

    育った。

    死んだ。

    そして何らかの経緯で墓あるいは乾燥洞窟のような場所から持ち出され、やがて美術市場へ流れ、ヨーロッパの展示ケースへ入った可能性がある。

    発掘記録を失ったこと自体が、別の歴史なのである。

    返還運動も突然始まったわけではない。

    2023年には、この「ライデンの頭蓋骨」を3Dプリントした複製を使い、オアハカ州サンタ・マリア・クキーラや米国カリフォルニア州のミシュテカ系コミュニティーの若者たちと、祖先の遺骨、博物館、返還について考える取り組みが行われていた。そこではÑuu Saviの研究者や芸術家自身が議論へ参加している。

    オランダ政府は2024年12月に返還を決定し、ハーグのメキシコ大使館へ引き渡した。

    頭蓋骨は2025年5月にメキシコへ到着。

    その後INAHが正式な登録、目録作成、保存処置、初の3Dデジタル記録を進め、2026年8月に現在の状況を公表した。

    現在はINAHの管理下にある。

    そしてオアハカ州ビジャ・デ・トゥトゥテペクのユク・サー共同体博物館が、将来的な保管・展示に関心を示している。

    ただし、移管が決定したわけではない。

    保存環境や安全性を含め、INAHとの協議が続いている段階である。





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    ↑美しい!完璧な横づら!考古学の写真はこうでなくちゃね!( ・Д・)(「HERITAGE DAYLY」の記事内画像より転載;credit: INAH)



    🧬 この人は誰だったのか?――「美術品」の裏から人間を取り戻す

    今後の研究で最も知りたいのは、モザイクより先に、

    この人が誰だったのか

    ということかもしれない。

    古代DNAを採取できれば、

    生物学的な系統。

    地域集団との関係。

    場合によっては親族関係。

    を調べられる可能性がある。

    より精度の高い放射性炭素年代が得られれば、本当に後古典期の人物なのかも分かる。

    歯のストロンチウム・酸素同位体をさらに比較すれば、幼少期を過ごした地域も絞れるかもしれない。INAHの人類学者も、物理的な分析だけでなく「トルコ石モザイクの向こうにいる人物」を明らかにすることが重要だとしている。

    そして、その結果によってはもっと奇妙なことも起こり得る。

    例えば、

    頭蓋骨は後古典期。

    トルコ石片も後古典期。

    貝片の一部は別の遺跡。

    翡翠も別の古代品。

    そして全部を貼ったのは20世紀。

    そんな結果になる可能性すらある。

    これはもはや、一つの「年代」を持つ遺物ではない。

    考えてみれば、この頭蓋骨には少なくとも三つの時間が重なっている。

    一つ目。

    先コロンブス期を生きた、一人の人間の時間。

    二つ目。

    トルコ石、貝、翡翠、水晶を採掘し、加工し、古代社会の中で使った人々の時間。

    三つ目。

    20世紀になって、人骨と古代の石片を「ミシュテカ美術らしい一つの傑作」へ組み立て、それを購入し、展示した美術市場と博物館の時間。

    そして今、

    四つ目の時間が始まった。

    メキシコへ帰り、

    「美しい古代美術品」

    でも、

    「偽物」

    でもなく、

    祖先の人骨であり、考古資料であり、20世紀の収集史を背負った物として、もう一度調べ直される時間である。

    考古学的には、接着剤が現代だった瞬間に価値がゼロになるわけではない。

    むしろ、

    なぜ本物の人骨と本物の古代石材が、20世紀になって一つの「理想的な先コロンブス美術」へ組み立てられたのか。

    なぜ博物館は、それを本物だと思ったのか。

    なぜ美術市場は、こういう物を欲しがったのか。

    そこに新しい研究対象が生まれる。

    モンテ・アルバン7号墓から出土した本物のモザイク頭蓋骨。

    そこから着想を得たかもしれない美術市場の作品。

    科学分析によって見つかった20世紀の糊。

    そして60年後の返還。

    この頭蓋骨最大の謎は、

    「本物か偽物か」

    ではないのかもしれない。

    本当の問いは、

    「私たちは、いつの時代のこの頭蓋骨を見ているのか?」

    なのだ。

    青いトルコ石の下には、古代メソアメリカだけではない。

    一人の死者、失われた出土地点、20世紀の古美術市場、博物館の欲望、科学分析、そして現代の返還運動までが重なっている。

    オランダから帰ってきたのは、500年前の美術品一つではない。

    何度も意味を書き換えられてきた、一人の人間の頭蓋骨なのである!( ・Д・)






    なにはともあれ……

    メソアメリカで最も一般ウケの良い美しい遺物はやはりモザイクなのかな!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ14にち(きんよーび、晴れのち雨)

    今日は頑張るぜ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y950

    ↑マスターキートンで文明の数はたくさんあるって知ってるよなぁ!?( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    イタリア・サルデーニャ島で、森に覆われていたヌラーゲ文明の巨大な集団墓を発掘したら、入口近くの内部空間だけが異例の“二つの高さ”に造り分けられていて、しかも周囲には原始ヌラーゲ、聖なる井戸、集落、さらに文明以前のドルメンまでそろっていたぞ! この一つの墓から、ほとんど文字を残さなかった地中海の謎の文明が、死者をどう扱い、巨大石造建築をどう発達させたのか分かるかもしれない( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    「巨人の墓」が見つかった。

    そう聞くと、

    身長3メートルの人骨でも出たのか?

    と期待してしまう。

    残念ながら、巨人はいない!( ・Д・)

    「巨人の墓(Tombe dei Giganti)」とは、イタリア・サルデーニャ島の青銅器時代に造られた、巨大な石造集団墓を指す伝統的な呼び名である。

    何十人、場合によっては何百人もの死者を一つの長い墓室へ繰り返し葬った巨大な墓だったため、後世の住民が、

    「こんな巨大な墓なら、巨人が眠っていたに違いない」

    と考えたことから、この名前が定着した。

    実際には普通の人間の共同墓である。

    ところが2026年夏、サルデーニャ島中北部のボルティガリにあるCarrarzu Iddia(カッラルズ・イッディア)遺跡で、これまで知られていなかった新しい「巨人の墓」が姿を現した。

    密生した植物を取り除くと、粗面岩の巨石で築かれた長い埋葬室と、その入口前に半円形に広がる巨大な前庭――エクセドラが現れた。

    そして内部を調べた考古学者が首をかしげた。

    入口付近だけ、床面が一続きではない。

    内部空間が、二つの高さに分けられていたのである。

    典型的な「巨人の墓」ではめったに見られない構造だった。

    だが、この発見がおもしろい理由を理解するには、まず、

    そもそもヌラーゲ文明とは何なのか?

    から始めなければならない。

    日本では本当に知名度が低い。

    しかし地中海考古学で見ると、とんでもなく巨大な石造文明なのである。


    🏝️ そもそも「ヌラーゲ文明」とは何者なのか?

    サルデーニャ島は、イタリア半島の西、コルシカ島の南に浮かぶ地中海第2の大島である。

    現在はイタリア領だが、青銅器時代にはもちろん「イタリア」という国家は存在しない。

    この島で紀元前2千年紀に発達した独特の文化を、現在の考古学者はヌラーゲ文明(Nuragic civilization)と呼んでいる。サルデーニャ州の文化財行政では広い意味で紀元前1800年頃からローマによる征服期までをヌラーゲ時代として扱う一方、石造塔を中心とする典型的なヌラーゲ文化が本格化するのは紀元前1600年頃以降とされる。

    「ヌラーゲ人」という民族名が古代文書に書かれているわけではない。


    文明名の由来は、島じゅうに残る巨大石造建築、

    ヌラーゲ(nuraghe)

    である。

    つまり、

    エジプト文明→エジプト人の記録

    ローマ文明→ローマ人の記録

    のように当人たちの文字史料を大量に読める文明ではない。

    主要な情報源は、塔、集落、墓、井戸、青銅器、陶器などの考古資料なのである。

    そして、ここはかなり重要なのだが、ヌラーゲ文明を一つの巨大王国や統一帝国と考えてはいけない。

    島全体で似た建築、儀礼、物質文化を共有してはいるものの、それを一人の王が統治していた証拠はない。

    強い首長層や社会階層の存在を想定する研究がある一方、地域共同体同士が緩く結び付いた、中央権力を欠く社会だったとみる研究もある。

    つまり「文明」と呼んではいるが、その政治構造そのものが研究テーマなのである。





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    ↑どうよ?古墳時代の石室みたいだぜ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🏰 島に何千基も立つ「石の塔」――ヌラーゲ

    この文明を象徴する建物が、ものすごい。

    巨大な石をほとんどモルタルなしで積み上げ、円錐台状の塔を造る。

    内部には石を少しずつ内側へ張り出しながら積むことで、偽ドーム状のトロスを形成する。

    単独の塔もあれば、中央塔の周囲へ複数の塔と城壁を追加し、まるで石造城塞のようになった複雑なヌラーゲもある。

    島全体では完全な悉皆調査がないため数字には幅があるが、古典的ヌラーゲだけでも7000~1万基程度が存在すると推定されている。

    もっと古い段階には、いきなり巨大円塔が現れたわけではない。

    紀元前1800~1600年頃のボンナナーロ文化からヌラーゲ文明へ移る時期には、低く横長で、内部に細い通路を持つプロトヌラーゲ(原始ヌラーゲ、corridor nuraghe)が造られた。

    そこから建築技術が発達し、紀元前1600年頃以降、巨大な円形塔を持つ典型的ヌラーゲが増えていく。

    つまりヌラーゲは、突然空から降ってきた建築ではなく、サルデーニャ島で長く続いていた巨石建築の伝統から徐々に発達したのである。

    有名なのが島南部のスー・ヌラージ・ディ・バルーミニ

    中央塔を複数の塔と城壁が取り囲み、さらに周囲には円形住居が密集する巨大複合遺跡で、1997年にユネスコ世界遺産へ登録された。

    ただしヌラーゲの用途は一つに決着していない。

    防御施設。

    首長の居館。

    食料や財の集積拠点。

    共同体の象徴。

    宗教施設。

    時代によって役割が変化した可能性もある。

    巨大建築なのに文字説明がないからこそ、考古学者は建築配置と遺物から社会を逆算しなければならないのである。


    ⚒️ 農牧民なのに巨大建築、青銅器、海上交易まであった

    ヌラーゲ文明の基盤は農耕と牧畜だった。

    しかし、それだけの孤立した島社会ではない。

    サルデーニャ島には銅や鉛などの鉱物資源があり、青銅器製作が盛んだった。

    小型の青銅人形、武器、船形模型、工具など、独特の金属製品が大量に残されている。

    そして島だから孤立していた、というイメージもかなり違う。

    サルデーニャ産黒曜石はヌラーゲ文明以前の新石器時代から地中海各地へ流通していたし、青銅器時代後半にはミケーネ世界、キプロス、東地中海の商人たちとの交流を示す資料が増える。

    紀元前9~8世紀頃になるとフェニキア人の拠点も沿岸部に成立した。

    つまりサルデーニャ島は、地中海世界の端ではなく、東西をつなぐ海上ネットワークの途中にあった。

    宗教建築も独特である。

    特に有名なのが、地下水へ向かって精密な石段を降りていく聖なる井戸(pozzo sacro)

    整然と切られた石を積み、地下の泉や水を祭祀対象とした。

    ヌラーゲ、井戸神殿、集落、墓が一つの景観の中に組み合わされる例もあり、この文明では巨大建築が居住・政治・宗教・祖先祭祀を分離せず、地域社会全体を形作っていたらしい。

    そしてヌラーゲ時代後半になると、もう一つ強烈な遺物が登場する。

    モンテ・プラマの巨人像である。

    高さ2メートル前後の石像で、戦士、弓兵、盾を持つ人物などが表現されている。

    紀元前10~8世紀頃の墓域と結び付くと考えられ、およそ150基の個人墓と、多数の巨大石像の破片が発見されている。

    ただし注意。

    今回の「巨人の墓」と、

    モンテ・プラマの「巨人像」は、

    別物である。

    巨人墓の中に巨人像が入っているわけではないし、巨大人骨も出ていない。

    サルデーニャ考古学には「巨人」が二種類登場するので、ここが非常に紛らわしい!( ・Д・)


    ⚰️ 「巨人の墓」は、共同体そのものを葬った巨大墓だった

    典型的な「巨人の墓」は、上空から見ると非常に特徴的な形をしている。

    中央に細長い石室。

    その入口から左右へ、石壁が弧を描いて広がる。

    その形から、巨大な牛の頭や角にたとえられることもある。

    全長30メートル近くに達する例もあり、高さ4メートルを超えるものも知られる。

    もっとも重要なのが入口前のエクセドラである。

    ここは単なる玄関ではない。

    半円形の空間へ人々が集まり、死者や祖先に関する儀礼を行ったと考えられている。

    低いベンチ状施設や石造祭祀物が伴う例もあり、墓は死体を収納する倉庫ではなく、

    生者が死者と関係を結び直す場所

    でもあった。

    そして墓室には、一人の王だけを入れたのではない。

    何度も開けて、多数の遺体を追加していく。

    2003年段階の集成では、サルデーニャ島に約800基の「巨人の墓」が知られ、一つの墓に多数の個体が葬られた例も確認されている。

    ここにはヌラーゲ社会のおもしろい矛盾がある。

    巨大な塔を建てる。

    特殊な青銅器を持つ。

    社会的な階層差もあった可能性が高い。

    なのに墓では、少なくとも長い期間、

    多数の人間を一つの共同墓へ入れる。

    王だけを巨大な墓へ一人で葬るエジプトやミケーネとは違う。

    死後には個人よりも祖先集団や共同体への帰属を強調したのかもしれない。

    だから「巨人の墓」は、ヌラーゲ文明の社会構造を考えるうえでも非常に重要なのである。





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    ↑こんなんだったら発見とは言わない!ってくらい綺麗じゃない?( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    📚 ただの「謎の石塔」から文明へ――研究を変えた1950年代

    ヌラーゲ自体は昔から地上に見えていた。

    古代ギリシア・ローマ時代にも、サルデーニャ島の巨大石造建築は知られ、後世には神話的な建築家ダイダロスや英雄イオラオスと結び付けられることさえあった。

    しかし、現在の意味で「ヌラーゲ文明」という文化体系が本格的に組み立てられたのは20世紀である。

    大きな転機となったのが、考古学者ジョヴァンニ・リッリウによるスー・ヌラージ・ディ・バルーミニの発掘だった。

    1950年代、土に埋もれていた巨大石造複合遺跡を系統的に発掘し、塔、城壁、集落、時期変化を明らかにした。

    この研究によって、島じゅうに点在する巨大建築を単独の「謎の遺跡」として見るのではなく、一つの長期的な社会・文化システムとして研究する現代ヌラーゲ考古学が大きく発展した。

    その後、巨人墓、井戸神殿、青銅小像、集落、交易品、古代DNAなどが加わり、現在では「戦士王がヌラーゲから島を支配した」という単純なモデルだけでは説明できないことも分かってきた。

    地域ごとに強い共同体を持ちながら、島全体で建築様式や祭祀を共有する。

    統一国家ではないのに、驚くほど共通した物質文化が広がる。

    むしろ、その仕組みこそヌラーゲ文明最大の謎なのである。


    🌿 そして2026年、植物の下から新しい「巨人の墓」が現れた

    今回の舞台、カッラルズ・イッディア遺跡は、単独の墓地ではない。

    サルデーニャ島中北部、マコメール近郊のボルティガリにあり、Crastu Littu台地の南端付近から周囲の平野や谷を広く見渡せる場所に位置する。

    以前からこの一帯には、

    二基のプロトヌラーゲ。

    集落。

    聖なる井戸。

    広い墓域。

    さらにヌラーゲ文明以前のドルメン。

    が確認されていた。

    つまり同じ場所が、ヌラーゲ文明が成立する前から長期間にわたり、生活と祭祀と埋葬の場所として選ばれ続けていたのである。

    今回も最初から巨大墓を探していたわけではない。

    濃密な植生を取り除き、既知の遺跡周辺を整備していたところ、石造構造が姿を現した。

    掘り進めると、粗面岩のブロックを整然と積み上げた埋葬室と、入口前の巨大なエクセドラが確認された。

    ただし遺跡は過去に盗掘を受けており、内部の一部は攪乱されている。

    それでも陶器片が残っており、墓の利用時期を考える重要な資料になっている。

    そして、この墓はボルティガリで知られる「巨人の墓」として3基目。

    近年周辺では墓の発見が相次ぎ、この地域が従来考えられていた以上に巨大な先史時代景観だった可能性が見えてきている。





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    ↑外観!元々こんな感じ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🚪 谷を向いた入口――そして、問題の「二層構造」

    墓の造りもかなり丁寧である。

    壁には粗面岩を比較的規則正しく水平に積む技術が使われ、入口は左右の縦石に横長の石を載せる三石式、いわゆるトリリトン構造になっている。

    墓は谷を見下ろす方向へ向けて造られていた。

    典型的な古いタイプの「巨人の墓」では、入口中央に巨大な立石――湾曲した頂部を持つ中央ステーレが立つものがある。

    今回の墓では、現段階でその典型的な中央ステーレは確認されていない。

    一方、石を水平に積み重ねて壁を造る方式は、巨人墓の建築が時代とともに変化していく過程を考える重要な材料になる。

    そして問題の二層構造。

    ここは報道を少し慎重に読む必要がある。

    今回確認されたのは、

    墓全体が二階建てになっている

    という意味ではない。

    公式発表の表現は、

    「入口付近で内部空間が二つのレベルに分けられている」

    というものだ。

    つまり現代住宅の1階・2階のように、上下に二つの完全な墓室が重なっているとは、まだ発表されていない。

    それでも珍しい。

    典型的な「巨人の墓」は基本的に一つの細長い埋葬空間を持つため、入口付近だけ床面や空間構成を変える理由が分からない。

    死者を置く場所を区別したのか。

    遺骨と副葬品を分けたのか。

    埋葬儀礼の途中で使う空間だったのか。

    古い墓を後から改築した結果なのか。

    あるいは施工上の事情なのか。

    現段階では、どれも仮説にすぎない。

    だが、だからこそ重要なのである。


    🧩 二つの高さは、「墓をどう使ったか」を残しているかもしれない

    考古学では、奇妙な建物ほどおもしろい。

    定型から外れている部分には、

    「なぜ普通と違うことをしたのか?」

    という社会の選択が残っているからだ。

    特に集団墓では、一度遺体を置いて終わりとは限らない。

    新しい死者を追加する。

    古い骨を端へ寄せる。

    一部だけ取り出す。

    副葬品を入れる。

    入口を閉じる。

    再び開ける。

    何世代にもわたって墓が使われる。

    そうした行為の積み重ねによって、内部構造そのものが変化する場合がある。

    だから今回の二つの高さが、最初から設計されたものなのか、使用途中で改変されたものなのかが分かれば、

    ヌラーゲ人が死者をどんな順序で墓へ入れ、墓を何世代使い続けたのか

    まで復元できる可能性がある。

    さらに「巨人の墓」自体にも建築上の変化がある。

    より古い例には、巨大な板石を立て、その上へ別の石を載せるドルメン的な構造が多い。

    後になると、切り整えた石を水平に何段も積み上げ、長い壁と天井を造るタイプが増える。

    この変化は、単なる建築技術の上達ではない。

    墓を利用する人数。

    儀礼を行う規模。

    共同体の人口。

    祖先を記憶する方法。

    そうした社会の変化と結び付いていた可能性がある。

    Carrarzu Iddiaの二層構造は、その建築進化の途中に存在する特殊例なのかもしれない。

    だから研究者たちは、墓を一個増やしたこと以上に、

    ヌラーゲ墓制の変化をつなぐ資料になる可能性

    に注目しているのである。






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    ↑元々はちゃんと埋もれてるぜ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)



    🕰️ 「3800年前の墓」なのか? 年代はまだ少し慎重に

    海外や日本のニュースでは、今回の墓を「約3800年前」と紹介する例もある。

    「巨人の墓」という建築伝統自体の起源を、紀元前1800年頃までさかのぼらせる研究があるためだ。

    ただし、今回のカッラルズ・イッディア遺跡の墓そのものが紀元前1800年に造られた、と年代測定で確定したわけではない。

    現地報道では内部から出た陶器について、中期青銅器時代末に属するものと説明されている。

    サルデーニャの一般的な編年では、中期青銅器時代はおおむね紀元前1600~1300年頃。

    したがって現段階では、

    「ヌラーゲ文明初期から使用された可能性がある墓」

    程度に考える方が安全である。

    さらに、陶器の年代=建物の建設年とも限らない。

    墓を建ててから何世代も使ったなら、内部には後の陶器も入る。

    逆に周囲から古い資料が混入することもある。

    今後、詳細な層位記録、人骨が残っていれば放射性炭素年代、陶器型式などを組み合わせて初めて、建設と使用の時間幅が見えてくる。

    だからこそ今回の発見は、「3800年前の珍しい墓を発見して終わり」ではなく、これから年代を組み立てる研究材料なのである。


    🌍 同じ頃、地中海では宮殿文明が栄えていた

    カッラルズ・イッディア遺跡の墓が使われた可能性の高い紀元前2千年紀中頃。

    エーゲ海ではミケーネ文明の宮殿社会が成長し、クレタ島ではミノア文明の文化を受け継ぐ世界が展開していた。

    エジプトでは新王国時代。

    東地中海では銅や錫、象牙、ガラス、陶器などが船で移動し、王宮を結ぶ巨大な交易圏が形成されていた。

    サルデーニャも、この広い海上世界と無関係ではなかった。後の青銅器時代になるほど東地中海系の製品や交流の痕跡が増えていく。

    しかしヌラーゲ文明は、ミケーネ文明の地方版ではない。

    島では島の石材を使い、巨大塔を造り、共同墓を造り、水の聖域を造った。

    外部と交易しながらも、建築や葬送は極めてサルデーニャ的だった。

    ここが面白い。

    古代地中海は、

    「先進的な東から技術が伝わり、西の辺境が真似した」

    という単純な世界ではない。

    各地域が外来品や技術を取り込みながら、それぞれ異なる社会を作っていた。

    ヌラーゲ文明は、その代表例なのである。

    そして紀元前1200年前後、東地中海の多くの宮殿社会が崩壊する時代を迎えても、ヌラーゲ社会がそのまま消えたわけではない。

    新しいヌラーゲ塔の大規模建設は次第に終わる一方、既存の塔の周囲では集落が成長し、聖域や祭祀施設が発達する。

    後にはモンテ・プラマの巨大石像まで登場する。

    つまり、

    塔を建てなくなった=文明崩壊

    ではない。

    社会の中心が、巨大塔建設から別の活動へ移った可能性が高いのである。


    🏺 一つの墓ではなく、「何千年も選ばれた場所」が見つかった

    カッラルズ・イッディア遺跡で本当に重要なのは、二層の墓だけではないと思う。

    周囲を見てみる。

    文明成立以前のドルメンがある。

    その後、プロトヌラーゲが造られる。

    集落ができる。

    聖なる井戸が造られる。

    共同墓が並ぶ。

    そして今回、さらに新しい「巨人の墓」が見つかった。

    つまり人々は、

    「空いている土地だから、ここに墓を造った」

    のではないかもしれない。

    すでに昔の墓がある。

    昔の巨大石造物がある。

    祖先が住んだ場所がある。

    そこへ次の世代が、新しい建物を追加する。

    さらにその次の世代も同じ場所を使う。

    そうして数百年、あるいはそれ以上の時間をかけ、

    土地そのものが祖先の記憶を蓄積した巨大な文化景観

    になった可能性がある。

    そして、その中で「巨人の墓」のエクセドラに人々が集まり、共同体の死者を何度も葬った。

    入口付近だけ二つの高さに造られた今回の墓は、そうした長期間の使用と建築変化を記録しているのかもしれない。





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    ↑こんなに綺麗になりましたっ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🪨 巨人ではなく、「共同体」が眠る墓

    数千年前。

    サルデーニャ島の谷を見下ろす丘に、人々が巨大な石を運んだ。

    一個。

    また一個。

    粗面岩を積む。

    左右に石壁を広げる。

    半円形の前庭を造る。

    中央へ入口を開ける。

    その奥に長い死者の部屋を造る。

    そして何らかの理由で、入口近くの床を同じ高さにはしなかった。

    二つのレベルを設けた。

    最初の死者が入る。

    次の死者が入る。

    何年か後、また墓が開く。

    骨が動かされる。

    新しい人間が加わる。

    前庭には生きている人々が集まる。

    死者は一人の英雄としてではなく、祖先の集団へ加わっていく。

    やがて墓は使われなくなる。

    植物が覆う。

    建物の意味が忘れられる。

    後世の人々は、その巨大さだけを見て考えた。

    「ここには巨人が眠っているのだろう」

    そして数千年後。

    植物を取り除いた考古学者が、入口を見つける。

    石室へ入る。

    すると床の高さが変わっている。

    たったそれだけの違いが、

    「この墓は、なぜ他と違うのか?」

    という新しい問いを生んだ。

    ヌラーゲ文明には、巨大な王の墓も、王名を書いた碑文も、征服戦争を記した年代記もほとんどない。

    だからこそ、

    石をどこに置いたか。

    墓をどう開けたか。

    死者をどこへ置いたか。

    何度建て替えたか。

    そんな小さな違いが、社会そのものを語る。

    今回発見されたのは、巨人の骨ではない。

    何世代もの普通の人間が、祖先と共同体をどう理解していたかを閉じ込めた巨大な石の記憶装置なのである。

    しかもその墓は、まだ掘り終わってすらいない。

    二層になった理由も、

    建設年代も、

    誰が葬られたのかも、

    まだ分からない。

    だからこそ、ここからがおもしろい。

    地中海の島に何千もの石塔を残しながら、自分たちの物語を文字では残さなかったヌラーゲ人。

    その失われた社会を読み解く次の一ページが、今、カッラルズ・イッディア遺跡の「巨人の墓」から開き始めたのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    巨人よりも、、、ミニチュアみたいな遺跡ないかな!?( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ13にち(もくよーび、台風?)

    昨日頑張り過ぎて今日午前死んでた!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y943

    ↑さすがに盛り過ぎだろ!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    ドイツ南西部のホーレ・フェルス洞窟から、約4万年前にマンモスの牙を削って作った、親指の爪ほどしかない2羽の鳥が発見されたけれど、その一つには目、嘴、さらに翼の羽毛まで細い線で彫り込まれ、しかも単なる“鳥の記号”ではなく、卵を抱く姿や翼を広げる一瞬まで表現したらしいぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    これは、写真を見た瞬間にちょっと言葉を失う。

    巨大な壁画ではない。

    黄金でもない。

    宝石もない。

    わずか2センチほど。

    手のひらですらなく、親指の爪の上に載ってしまうほど小さな鳥である。

    材料は、マンモスの牙。

    その小さな象牙片から、約4万年前の誰かが鳥の身体を削り出した。

    丸みを帯びた胴。

    頭を引いた姿勢。

    小さな目。

    尖った嘴。

    広げられた翼。

    そして翼の表面には、何本もの細い平行線が走っている。

    研究者たちは、これを羽毛を表現した刻線と考えている。

    しかも雑ではない。

    「鳥らしい何か」を作ったのではなく、「この鳥はいま何をしているのか?」まで議論できるほど具体的に作られているのである。

    個人的な好みを抜きにしても、この小像は本当に美しい。

    4万年前という途方もない年代を知らずに現代の小さな工芸品として見せられても、十分に魅力的だと思う。

    それが、ヨーロッパへ進出して間もないホモ・サピエンスが、石器でマンモスの牙を削って作ったものなのだ。

    しかも今回見つかったのは、一羽ではない。

    二羽だった。

    2025年の発掘で同じ地層から発見され、2026年7月29日、テュービンゲン大学によって「今年の発見」として発表されたのである。


    ⛰️ 舞台は「人類最古級の芸術工房」ホーレ・フェルス

    ホーレ・フェルス洞窟があるのは、ドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州、シュヴァーベン・ジュラのアハ渓谷。

    石灰岩台地を川が削り、その斜面に無数の洞窟が開いている。

    現在ここには、ホーレ・フェルス、ガイセンクレステルレ、フォーゲルヘルト、ホーレンシュタイン=シュターデルなど、旧石器時代研究史に名を残す洞窟群が集中している。

    この地域の洞窟では19世紀から発掘が続き、ホーレ・フェルス自体でも1870~1871年に最初期の科学的発掘が行われた。1970年代以降に近代的な調査が再開され、現在のテュービンゲン大学調査隊へ続いている。

    そして、この一帯が異常なのである。

    約4万年前の地層から、

    マンモス。

    洞窟ライオン。

    ウマ。

    魚。

    半人半獣の存在。

    人間。

    そして鳥。

    これらを象牙から彫った立体像が次々と出てくる。

    さらに装身具とフルートまである。

    ユネスコは2017年、6つの洞窟を「シュヴァーベン・ジュラの洞窟群と氷河期の芸術」として世界遺産へ登録した。そこから出土する彫刻群は世界最古級の具象芸術、フルート群は世界最古級の確実な楽器として評価されている。

    つまりホーレ・フェルスは、

    「昔の人がたまたま鳥を一個彫った洞窟」

    ではない。

    人類史上もっとも早い時期に、彫刻・装身具・音楽が一気に姿を現す、巨大な文化的ホットスポット

    なのである。


    🎶 ヴィーナス、フルート、そして最初の「水鳥」

    この洞窟を世界的に有名にした発見はいくつもある。

    2008年には、マンモス象牙製の女性像――いわゆる「ホーレ・フェルスのヴィーナス」が発見された。

    高さ約6センチ。

    初期オーリニャック文化に属し、少なくとも約3万5000年以上前、現在では約4万年前前後までさかのぼる最古級の人間表現として知られている。

    さらに、その発見場所からわずか約70センチのところでは、ハゲワシの骨から作られたフルートが発見された。

    長さ21.8センチ、5つの指穴を持ち、吹口まで残る。

    つまり約4万年前の人々は、ただ物を作っていたのではない。

    姿を彫り、身体を飾り、音楽を奏でていた。

    そして今回の鳥には、重要な先輩がいる。

    2001年にホーレ・フェルスで、小さなマンモス象牙製の鳥の胴体が発見された。

    翌2002年には頭部と首が見つかって接合され、全長約4.7センチの一羽になった。

    細長い首と身体から、水へ潜る鳥、カワウ、あるいはカモのような水鳥ではないかと考えられた。

    2003年、ニコラス・コナードはこの水鳥を含むホーレ・フェルスの象牙彫刻を『Nature』で報告。

    当時、この鳥は知られている最古の鳥類表現として大きな注目を浴びた。

    それから約四半世紀。

    同じ洞窟から、さらに二羽が出てきたのである。





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    ↑地盤ゆるいんだろうね、こんな洞窟掘ったことないけど怖そう・・・が楽しそうな顔しておる!( ・Д・)(「University of Tubingen」の記事内画像より転載;credit: Ralf Ehmann / Universität Tübingen, Grafik: urmu


    🧊 4万年前――ホモ・サピエンスがヨーロッパへ広がった時代

    二羽が出土したのは、ホーレ・フェルスのオーリニャック文化下層

    約4万年前に位置付けられている。

    オーリニャック文化は、およそ4万3000~3万3000年前のヨーロッパ初期後期旧石器時代を代表する文化で、一般にヨーロッパへ拡散した初期ホモ・サピエンスと強く結び付けられている。

    その少し前まで、この地域にはネアンデルタール人が暮らしていた。

    実際、ホーレ・フェルスのさらに下には中期旧石器時代の地層があり、ネアンデルタール人に関係する石器文化の痕跡も残っている。

    そして、その上に現れるオーリニャック文化では、石刃や骨角器だけでなく、

    象牙製装身具。

    彫刻。

    楽器。

    複雑な骨角製道具。

    といった新しい物質文化が大量に姿を現す。

    この「文化爆発」が、ホモ・サピエンスのヨーロッパ進出を助けたのではないかという議論は昔からある。

    歌や装身具や彫刻によって集団の結束を強めた。

    離れた集団同士で共通のシンボルを共有した。

    大規模な社会ネットワークを作った。

    そうした文化的能力が、変動の激しい氷期環境で生き残る助けになったのではないか――という考えである。

    2026年の『Nature』も、今回の鳥を、初期ホモ・サピエンスがヨーロッパで繁栄した背景を考える資料として取り上げている。

    ただし、

    「芸術を持っていたからサピエンスがネアンデルタール人を滅ぼした」

    と単純化するのは危険である。

    ネアンデルタール人にも象徴行動を示す資料はあり、その消滅には人口、環境、交雑、競争など複数の要因が関係する。

    重要なのは、約4万年前のシュヴァーベンで、少なくとも人々が生存に直接必要とは思えないほど手間のかかる物を、かなり頻繁に作っていたということだ。

    そして、その頂点の一つが今回の二羽なのである。


    🦣 マンモスの牙から、爪ほどの鳥を削り出す

    材料はマンモス象牙。

    現在なら象牙というと高級工芸品を連想するが、氷期ヨーロッパの人々にとってマンモスは、食料であると同時に巨大な原材料供給源でもあった。

    骨。

    牙。

    皮。

    脂肪。

    さまざまな部分が利用された。

    ホーレ・フェルスからも、マンモス象牙を加工した工具、装身具、彫刻、楽器、そして大量の加工屑が見つかっている。現在では古代DNAを象牙加工屑から抽出し、どのマンモスが利用されたかまで調べる研究も始まっている。

    しかし象牙は、粘土ではない。

    失敗したら、盛り直せない。

    石器で切る。

    削る。

    溝を刻む。

    磨く。

    少し削り過ぎれば、翼が折れる。

    嘴が消える。

    2センチの鳥なら、ほんの1ミリの失敗でも全体の形が変わってしまう。

    今回の翼を広げた鳥は、

    長さ約2センチ、幅約1センチ、厚さわずか約5ミリ。

    重さは、二羽それぞれ約1.3グラムと0.7グラムしかない。

    しかもこの翼を広げた個体は、シュヴァーベン世界遺産地域から知られる氷河期芸術の中で、現在確認されている最小の作品となった。一般的な同時代の象牙小像は3~9センチほどある。

    2センチ。

    500円玉より小さい。

    そんな象牙片へ鳥を収め、そのうえ羽毛まで彫る。

    これは「原始的」という言葉から、ほとんど正反対の技術である。


    ✨ 2025年、土の中から二羽の鳥が現れた

    二羽は2025年の発掘で発見された。

    同じオーリニャック文化層。

    距離は約1.5メートル。

    年代もほぼ同じと考えられる。

    ただし、同じ職人が作ったのか、数年あるいは何世代か離れた別の人物が作ったのかまでは分からない。

    一羽は、ほぼ完全な状態で残っていた。

    身体を低く伏せ、頭を胴体へ強く引き付け、脚を畳んでいるように見える。

    目は、はっきりと丸く表現されている。

    研究チームは、

    卵を抱いている鳥ではないか

    と考えている。

    これはもう、単に「鳥」という概念の表現ではない。

    鳥が巣へ身体を沈める、その姿勢を見ている。

    静かな一瞬を切り取っているのである。

    もう一羽は、一部が失われている。

    左翼は折れており、欠損部も見つかっていない。

    だが残った姿は、まったく違う。

    長く伸びた首。

    特徴的な嘴。

    そして大きく広げられた翼。

    その翼に、細い平行線が何本も刻まれている。

    羽毛である。

    わずか数ミリ幅の翼へ、羽根の方向まで意識して線を並べている。

    これが本当にすごい。

    リアルな動物像というと、私たちは大きければ大きいほど難しいと思いがちである。

    しかし、この鳥は逆だ。

    小さすぎる。

    指でつまんだら隠れる。

    なのに、輪郭だけで終わらない。

    4万年前の職人は、鳥を「鳥だと分かる最低限の形」まで単純化しながら、それでも羽毛、嘴、目、姿勢という、生命感を生む部分だけは残した。

    だから美しいのだと思う。

    細密だからだけではない。

    小さな象牙の中に、鳥の特徴を選び取る観察力がある。

    2センチしかないのに、ちゃんと生き物に見えるのである。





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    ↑もう美しいね!( ・Д・)(「University of Tubingen」の記事内画像より転載;credit: Ralf Ehmann / Universität Tübingen, Grafik: urmu





    🪶 飛んでいる? 求愛している? 卵を抱いている?

    そして研究チームが驚いているのは、二羽が動作を表現しているように見えることだ。

    シュヴァーベンの氷河期動物彫刻には、立った動物や歩く動物など、比較的静的な姿勢が多い。

    ところが今回は違う。

    一羽は身体を地面へ伏せる。

    もう一羽は翼を大きく開く。

    翼を広げた鳥については、

    飛翔中。

    水面へ着水しようとしている。

    敵を威嚇している。

    あるいは求愛のため身体を大きく見せている。

    複数の解釈が検討されている。

    鳥種も確定していない。

    伏せた鳥について有力なのが、ライチョウ類である。

    ホーレ・フェルス周辺の動物骨資料からもライチョウ類は多く確認され、氷期の開けた寒冷環境に適応した鳥だった。

    翼を広げた個体については同じライチョウ類のほか、キジ科の別種、あるいは猛禽類まで候補に挙がっている。

    つまり4万年前の彫刻なのに、

    「これは何の鳥?」

    だけでなく、

    「この鳥、何してる?」

    というところまで話が進んでいる。

    考えてみれば、異常な精度である。

    鳥という記号ではなく、鳥の行動を見ていたからこそ作れる像なのかもしれない。


    🎵 なぜホーレ・フェルスだけ、こんなに鳥が好きなのか

    そして今回、妙な偏りがはっきりしてきた。

    シュヴァーベン・ジュラの世界遺産地域では、マンモスや洞窟ライオンの彫刻が数多く見つかっている。

    ところが鳥は少ない。

    現在まで、鳥の小像が確認されているのはホーレ・フェルスだけ

    2001~2002年の水鳥。

    そして2025年の二羽。

    合計三羽になった。

    一方、周辺の主要な象牙彫刻出土洞窟では、今のところ鳥が一羽も出ていない。

    コナードたちは、この違いを重要視している。

    各洞窟には、単なる「オーリニャック文化」という大分類では見えない、固有の芸術的な特徴があったのではないか。

    ある集団はマンモスを好む。

    ある場所ではライオンが多い。

    ホーレ・フェルスでは、なぜか鳥が繰り返し選ばれる。

    洞窟ごとに活動した集団、職人、社会的伝統に、それぞれ異なる「好み」があった可能性があるのである。

    では、なぜ鳥だったのだろう。

    食料だったから。

    季節移動を知らせたから。

    危険を鳴き声で知らせたから。

    飛ぶこと自体が特別な意味を持ったから。

    護符だったから。

    特定集団の象徴だったから。

    答えは分からない。

    研究者は個人的なタリスマンや集団アイデンティティーを示す象徴だった可能性も挙げているが、直接証拠はない。

    ただ、ひとつ面白いことがある。

    この地域の人々は、鳥の骨でフルートも作っていた。

    鳥を見る。

    鳥の声を聞く。

    鳥の骨から楽器を作る。

    そして鳥の姿を象牙へ彫る。

    4万年前の人間にとって、鳥は今よりずっと身近な、景観の一部だったのだろう。


    🌏 「世界最古」ではない。でも、世界最古級の立体芸術である

    「世界最古級の芸術」という部分にも少し整理が必要である。

    現在、芸術表現全体まで含めれば、ホーレ・フェルスより古い例がある。

    2026年にはインドネシア・スラウェシ島の洞窟から、少なくとも6万7800年前の手形が報告された。

    また同じスラウェシ島では、動物と人間らしい存在を描いた具象的な場面が、少なくとも5万1200年前までさかのぼることが確認されている。

    したがって、

    「4万年前のドイツの鳥=世界で最初の芸術」

    ではない。

    しかし、話を立体彫刻に限定すると状況が変わる。

    現在知られるヨーロッパ最古の立体的な具象彫刻の中心が、まさにシュヴァーベン・ジュラである。

    初期オーリニャック文化、約4万~3万8000年前のマンモス象牙彫刻群には、これほど古い時代のまとまった立体芸術として、世界的にもほとんど並ぶ例がない。

    しかも今回の二羽は、ただ古いだけではない。

    最古級なのに、すでに完成度が高い。

    芸術史を、

    簡単な線

    粗い形

    少しずつ上達

    精巧な彫刻

    という一直線の進歩として想像すると、完全に肩透かしを食らう。

    現存する最初期の段階から、もう目を彫り、羽毛を彫り、動物の行動を表現しているのである。






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    ↑つるつるだけどなんでそんなにこの角度が好きなの!? 擦痕が明瞭なのが考古学的だから?( ・Д・)(「University of Tubingen」の記事内画像より転載;credit: Ralf Ehmann / Universität Tübingen, Grafik: urmu


    ✨ 4万年前の人は、「きれいなもの」を作る時間を持っていた

    この鳥は、狩猟には使えない。

    肉を切れない。

    皮を剥げない。

    寒さも防げない。

    槍の先にもならない。

    もちろん護符や社会的シンボルとして「役に立った」可能性はある。

    それでも、食べ物や武器のような直接的な生存道具ではない。

    それなのに誰かは、

    マンモスの牙を手に入れ、

    材料を切り出し、

    鳥の輪郭を考え、

    何度も石器を動かし、

    嘴を整え、

    目を刻み、

    翼を削り、

    最後には羽毛の一本一本を示す線まで入れた。

    2センチの鳥のために。

    そして完成したものは、4万年後の私たちが見ても美しい。

    ここがすごい。

    私たちは旧石器時代を、

    氷河。

    洞窟。

    マンモス狩り。

    飢え。

    寒さ。

    生き残るための毎日。

    という世界として想像しやすい。

    もちろん、それも事実だった。

    しかし、その世界の中に、

    「今日は鳥を彫ろう」

    と思った人間がいた。

    鳥を見て、

    あの丸い身体がいい。

    あの嘴を残したい。

    翼を広げたところを作りたい。

    羽毛の向きも彫っておこう。

    そんな時間があった。

    発掘に参加した研究者の一人は、この像を見たとき、4万年ぶりにそれを見る最初の人間になったことへ強い感慨を語っている。

    たしかに、この小像にはそう感じさせる何かがある。

    石器技術の高さだけではない。

    認知能力という言葉だけでも足りない。

    「美しいものを作りたい」と思う人間の気配が、そのまま残っている。





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    ↑やぱ現代考古学はデジタル大事だよね!( ・Д・)(「University of Tubingen」の記事内画像より転載;credit: Ralf Ehmann / Universität Tübingen, Grafik: urmu




    🐦 たった0.7グラムの中に、人間らしさが残った

    約4万年前。

    寒冷なアハ渓谷を鳥が飛んでいた。

    マンモスが歩く。

    トナカイが移動する。

    洞窟ライオンが獲物を狙う。

    そして谷のどこかに、人間がいる。

    一人の人間が鳥を見る。

    それがどんな鳥だったのかは分からない。


    ライチョウだったかもしれない。

    猛禽だったかもしれない。

    鳥が地面へ伏せる。

    翼を広げる。

    飛び立つ。

    求愛する。

    その一瞬を覚えていた。

    洞窟へ戻る。

    マンモス象牙を手に取る。

    削る。

    形が現れる。

    嘴を作る。

    目を作る。

    翼へ細い線を入れる。

    一本。

    もう一本。

    さらに一本。

    羽毛になる。


    完成した鳥は、親指の爪より少し大きい程度だった。

    重さは1グラム前後。

    持ち歩いたのかもしれない。

    身体へ付けたのかもしれない。

    誰かへ渡したのかもしれない。

    そして、いつか洞窟の床へ落ちた。

    土が積もる。

    人々がいなくなる。

    オーリニャック文化が終わる。

    氷期が終わる。

    マンモスが絶滅する。

    農耕が始まる。

    都市ができる。

    国家ができる。

    そして4万年後。

    土をふるっていた考古学者の前へ、再び鳥が現れた。

    人類史というと、私たちは巨大なものへ目を向ける。

    最初の都市。

    巨大な墓。

    王。

    戦争。

    文明。


    でも人間らしさの始まりを考えるなら、こういう物の方が雄弁なのかもしれない。

    たった2センチ。

    たった0.7~1.3グラム。

    けれどもそこには、

    観察する目。

    精密に動く手。

    動物への関心。

    何かを表現しようとする意思。

    そして何より、

    必要だからではなく、美しい形を残そうとした人間の心

    がある。

    4万年前のホーレ・フェルスで作られた二羽の鳥。

    世界最古の芸術そのものではない。

    しかし、人類最古級の立体芸術が、すでにここまで小さく、精巧で、生き生きとしていた。

    その事実の方が、ずっと驚異的だと思う。

    これは「原始的な芸術」ではない。

    4万年前に完成していた、美しい2羽の鳥なのである!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    お~!美しい!とさすがに感性あるかわからん私でもそう思ったよ!( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ12にち(すいよーび、台風!)

    お昼寝もしたのに眠い!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya_y938

    ↑水中考古学って羨ましいわぁ!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    イタリア・シチリア島西岸の海底46メートルで、約2100年前のローマ時代の沈没船と数百個ものアンフォラが発見され、その多くが古代のワイン輸送を代表する『ドレッセル1A型』だったけれど、船はどこから来て、どこへワインを運ぶ途中で沈んだのか、まだ全然分かっていないぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    海底探査装置に映ったのは、一つの大きな塊だった。

    岩だろう。

    最初は、そう思ったという。

    場所は地中海に浮かぶシチリア島西部、マザーラ・デル・ヴァッロ沖。

    漁師でフリーダイバーでもあるジャコモ・デ・モラは、イゴール・ビスッリと海底を調べていた。

    水深は、およそ45~50メートル。

    視界もよくない。

    それでも気になって潜ってみる。

    海底に見えてきた暗い塊へ近づく。

    すると――。

    岩ではなかった。

    縦長の壺。

    また壺。

    その隣にも壺。

    その奥にも壺。

    海底一面に、何百個もの古代のアンフォラが積み重なっていたのである!( ・Д・)

    二人は発見を当局へ通報。

    その後、パレルモの文化財保護カラビニエリ、シチリア州海洋監督局、メッシーナの潜水カラビニエリなどによる正式な調査が行われた。

    2026年8月8日、イタリア当局はこれを紀元前2~1世紀頃のローマ時代の沈没船と発表した。

    場所は海岸から約3マイル、約4.8キロ。

    水深46メートル。

    海底には数百個のアンフォラと、鉛製の錨桿2点、さらに別の鉛製構造物が残っていた。

    イタリア文化相は、この発見を「近年でも最も重要な水中考古学的発見の一つ」と評価している。

    しかし、この船の本当のおもしろさは、

    「ローマ船が見つかった!」

    だけではない。

    積荷の壺を一つずつ調べれば、

    2100年前の商品が、どこで生産され、どの港へ集められ、どんな航路を通って、どこの市場へ売られる予定だったのか

    という、古代地中海の物流網そのものを復元できる可能性があるのである。


    🏺 船を覆っていたのは、約500個の「アンフォラ」

    公式発表は「数百個」としているが、現地調査に関する報道では、およそ500個と推定されている。

    アンフォラの堆積範囲は約21メートル×6メートル、高さは場所によって約2メートルにも達するという。

    ただし、これは現段階では海底に露出した積荷の範囲として理解した方が安全である。

    「船体そのものが完全な形で21メートル残っている」と確認されたわけではない。

    木造船の船体は海水中で失われやすく、アンフォラの山の下や海底堆積物の中に船底材が保存されている可能性がある。

    今後の調査で、それが分かってくるだろう。

    そして日本語記事では「素焼き容器」と表現されているが、アンフォラは単なる植木鉢のような器ではない。

    粘土を焼いて作った古代地中海の規格化された輸送容器である。

    細長い胴。

    二本の取っ手。

    狭い口。

    そして多くの場合、尖った底。

    ワイン。

    オリーブ油。

    魚醤。

    オリーブ。

    果実。

    さまざまな商品を大量輸送するために使われた。

    液体用の器では、内面を松脂由来のピッチなどで処理して浸透を抑えた例も知られている。

    現代でいえば、

    段ボール箱+ペットボトル+商品ラベル

    を合わせたような存在である。

    形が違えば、生産地域や年代が違う。

    表面に工房印があれば、生産者まで分かる。

    墨書が残れば、中身や重量、商人名まで読み取れることがある。

    だから考古学者は、アンフォラの破片を見るだけでも興奮する。

    それが今回は、破片ではなく数百個単位で一つの船に積まれているのだ。


    🍷 そして大部分は「ドレッセル1A型」だった

    今回、公式に確認されている最大の特徴がこれである。

    アンフォラの大部分が、

    Dressel 1A――ドレッセル1A型

    だった。

    「ドレッセル」とは地名ではない。

    19世紀末のドイツ人考古学者ハインリヒ・ドレッセルの名前である。

    ローマで大量に発見されたアンフォラとその銘文を研究したドレッセルは、器形を番号で分類した。

    その分類表は1899年の『ラテン碑文集成』にも収録され、その後100年以上たった現在まで改良されながら使われている。

    つまり今回、

    「ドレッセル1Aが大量にある」

    というだけで年代と交易圏をかなり絞れるのは、19世紀以来積み重ねられた土器型式学の成果なのである。

    ドレッセル1は後期ローマ共和政を代表する輸送用アンフォラ。

    その中でも1A型は、おおむね紀元前140~130年頃から紀元前1世紀中頃まで使用されたと考えられている。

    主な生産地はイタリア半島のティレニア海沿岸。

    エトルリアからカンパニアにかけて多くの窯が知られ、ポンペイ周辺、コサ、カエクブムやファレルヌムといった有名なワイン産地も含まれる。

    そして容器に残された古代の墨書などから、

    ドレッセル1が主としてワイン輸送用だったことはかなり確実

    なのである。

    しかも分布はイタリアだけではない。

    スペイン。

    南フランス。

    ガリア内陸。

    ポルトガル。

    さらにはブリテンやドイツ方面まで届いている。

    ローマ共和政後期にイタリア産ワインが広範囲へ流通していたことを示す、代表的な考古資料なのである。





    arukemaya_y942

    ↑確かに大量にあるね!( ・Д・)(「AFP BB News」の記事内画像より転載;credit: ITALIAN CARABINIERI)


    🤔 では、この船は本当に「ワイン船」だったのか?

    ここはニュースの見出しより慎重に考えたい。

    可能性はかなり高い。

    しかし、まだ確定ではない。

    ドレッセル1Aが大量に積まれている以上、主積荷がワインだったという推定には十分な根拠がある。

    一方でアンフォラは、形が同じなら絶対に一種類の商品しか入れない、現代の専用容器ではない。

    実際、ドレッセル1系のアンフォラからはワイン以外に、樹脂、ナッツ、オリーブなどが確認された例もある。

    だから最終的には、

    内部に沈殿物が残っているか。

    器壁へ酒石酸などブドウ由来の化学物質が吸収されているか。

    松脂などの防水材が残っているか。

    蓋や栓が残っているか。

    といった残留物分析が必要になる。

    実際、ローマ時代のアンフォラでは、化学分析によってワインと松脂由来のピッチを組み合わせて確認する研究が進んでいる。

    つまり現在の正確な表現は、

    「ワイン輸送用として典型的なアンフォラを大量に積んだ船で、ワイン船だった可能性が高い」

    となる。

    「2000年前のワイン500本がそのまま入っている!」

    という意味ではない!( ・Д・)


    📦 なぜ壺の底は尖っているのか?

    アンフォラを見ると不思議なのが、底である。

    普通の壺なら平らにして、床へ置けるようにした方が便利に思える。

    なのに輸送用アンフォラの多くは、下へ向かって細くなり、先端が尖っている。

    これには船舶輸送との相性がある。

    船倉ではアンフォラを一列に並べ、その間へ上段の尖った底を差し込むように重ねる。

    縄や木材、植物性の緩衝材などで固定する。

    すると大量の壺を比較的密に積める。

    丸い船体が揺れても、平底瓶をただ床へ並べるより安定させやすい。

    さらに尖った部分は、壺を傾けて液体を注ぐ際の補助にもなる。

    アンフォラは、

    地上で便利な食器としてではなく、船と倉庫を移動する「物流容器」として形作られた道具

    なのである。

    だから沈没すると船体の木材が腐っても、陶器だけは残る。

    海底へ、

    「船の形をしたアンフォラの山」

    が現れることがある。

    古代沈没船が最初に発見される際、アンフォラの山が手掛かりになることが非常に多いのもそのためである。

    今回もまさにそれだった。

    ソナーに映った「妙な岩」は、2000年前に積み上げられた貨物の形だったのである。


    ⚔️ この船が沈んだ頃、ローマは「地中海国家」へ変わっていた

    紀元前2~1世紀。

    まだローマ帝国ではない。

    ローマ共和国である。

    しかし、この頃にはローマはすでにイタリアの一都市国家ではなくなっていた。

    紀元前264~241年の第一次ポエニ戦争でカルタゴと激突。

    最終的にローマが勝利し、シチリアの大部分はローマ最初の属州となった。

    そして紀元前146年にはカルタゴが滅亡。

    同じ年にはギリシアのコリントスも破壊される。

    スペイン方面でも征服が進む。

    紀元前1世紀へ入れば、マリウス、スッラ、ポンペイウス、カエサルらの時代へ向かう。

    つまり今回の船は、

    ローマがイタリア半島国家から地中海世界の巨大政治勢力へ変貌していく最中

    を航海していたのである。

    征服が進めば兵士が動く。

    移住者が動く。

    奴隷が動く。

    都市人口が増える。

    そして食べ物も動く。

    穀物。

    油。

    魚醤。

    そしてワイン。

    政治的支配の拡大と、商業圏の拡大は別々ではない。

    今回の沈没船は、ローマの「征服史」を軍団ではなく、数百本の酒瓶から見る資料なのである。




    arukemaya_y941

    ↑アンフォラ🏺しか写ってない!( ・Д・)(「AFP BB News」の記事内画像より転載;credit: ITALIAN CARABINIERI)


    🗺️ なぜシチリア沖なのか?――ここは地中海の交差点だった

    地図を見ると、シチリアの重要性がすぐ分かる。

    イタリア半島の先端。

    北にはティレニア海。

    東にはギリシア方面。

    南へ渡れば現在のチュニジア。

    西へ進めばサルデーニャ、スペイン。

    その中央に、シチリアが横たわる。

    今回のマザーラ・デル・ヴァッロは島の西岸にある。

    海を渡れば、かつてカルタゴが存在した北アフリカは遠くない。

    つまりここを通る船が、シチリア産品を運んでいたとは限らない。

    イタリア本土から北アフリカへ向かう。

    北アフリカからイタリアへ向かう。

    スペイン方面へ進む。

    あるいはシチリアの港へ寄港して積荷を積み替える。

    さまざまな航路が考えられる。

    しかも今回、一部報道では主要なドレッセル1A以外に、ランボリア2型、北アフリカ系とみられるアンフォラ、さらにネオ・ポエニ型アンフォラも確認されたと発見者が述べている。これはまだイタリア当局の正式な型式報告ではないため暫定情報だが、本当なら非常に面白い。

    異なる生産圏の容器が同じ船へ積まれていた可能性があるからである。

    一港で積んだ一種類の商品を運ぶ単純な直行便ではなく、

    港から港へ寄り、

    商品を積み、

    一部を降ろし、

    また別の商品を積む。

    そんな古代の沿岸交易を示す可能性もある。

    逆に空になったアンフォラを再利用していた可能性もある。

    この辺は今後、陶土の岩石学的・化学的分析によって産地を特定しなければ分からない。


    🔎 沈没船が「古代経済のタイムカプセル」になる理由

    陸上遺跡からアンフォラが100個出たとする。

    でも、それらが10年間で捨てられたのか、100年間で捨てられたのか分からないことがある。

    ところが沈没船は違う。

    船が沈んだ、その瞬間。

    船内の商品がまとめて海底へ落ちる。

    だから積荷は原則として、

    同じ航海で一緒に運ばれていた商品群

    になる。

    これは考古学的に非常に強い資料である。

    ドレッセル1Aが400本。

    別型式が30本。

    北アフリカ製が数本。

    調理土器が5個。

    ランプ。

    船員の食器。

    錨。

    もしそんな構成が分かれば、

    「この船の主要商品は何か」

    「船員はどこに文化的背景を持っていたか」

    「どの港を経由したか」

    まで考えられる。

    さらにアンフォラに刻印や墨書が残っていれば、生産者や商人の名前まで見える可能性がある。

    陶土を分析すれば窯場。

    内部残留物から商品。

    船体材の樹種分析から造船地域。

    木材が残れば年輪年代。

    鉛製錨の同位体分析から鉱山。

    一隻の船から、一つのサプライチェーンを丸ごと復元できる可能性があるのである。

    だから沈没船考古学では、「黄金があったか」よりも、普通の壺が何百個並んでいる方が、経済史的にはおもしろい場合さえある。


    ⚓ シチリアの海は、半世紀以上「水中考古学の研究室」だった

    今回の発見は突然始まった話でもない。

    シチリア西部は、水中考古学史そのものに重要な場所である。

    1971年。

    マルサラ沖で古代船の木造船体が発見された。

    調査を率いたのが、水中考古学の先駆者オナー・フロストだった。

    7年に及ぶ発掘、引き揚げ、保存によって復元された「マルサラのポエニ船」は、紀元前3世紀のカルタゴ系造船技術を伝える希少資料となり、水中考古学史上の画期的研究となった。

    さらにシチリア西方のエガディ諸島沖では、紀元前241年、第一次ポエニ戦争最後の大海戦が行われた。

    2005年以降の広域海底調査では、ソナー、ROV、AUVなどを使って海戦場そのものが特定され、2024年シーズン終了までに27点もの古代軍船の衝角が考古学記録へ加えられた。

    兜。

    武器。

    アンフォラ。

    船の衝角。

    歴史書に書かれた海戦が、海底の分布として再構成され始めている。

    面白いのは、今回の商船が沈んだのも、それと同じシチリア西部の海だということ。

    数十年前にはカルタゴとローマの軍船が戦っていた。

    その後には、ワインを積んだ商船が行き交う。

    戦争によってローマが海域を支配し、

    その海域を、今度は商品が流れる。

    軍事史と経済史が、同じ海底に重なっているのである。





    arukemaya_y939

    ↑こうしたアンフォラ内の内容物の分析研究もあるよ!( ・Д・)(Chassouant et al. 2022, Fig.1より転載




    🛟 なぜ500個のアンフォラを全部引き揚げないのか

    「せっかく見つけたなら、全部引き揚げて博物館へ!」

    と思うかもしれない。

    しかし現在の水中考古学では、それが必ずしも正解ではない。

    海底で2000年間安定していた陶器や木材を引き揚げると、環境が一変する。

    塩分。

    温度。

    水分。

    酸素。

    特に木材が残っていれば、保存処理なしに乾燥させると急激に変形・崩壊する可能性がある。

    そして500個のアンフォラを引き揚げれば、

    脱塩。

    保存。

    記録。

    保管。

    展示。

    それだけで膨大な費用と施設が必要になる。

    イタリア当局は現段階で船全体を引き揚げる予定はなく、まず詳細な記録と保存状態の評価を行う方針だとされる。必要に応じて一部資料を回収し、分析する可能性がある。

    今後の最大のポイントは、

    船体がどれだけ残っているか。

    アンフォラの正確な個体数。

    型式構成。

    原産地。

    中身。

    沈没年代。

    出航港。

    目的地。

    である。

    そして何より、

    なぜ、この船はここで沈んだのか。

    嵐。

    座礁。

    船体損傷。

    積荷の移動。

    衝突。

    航海事故。

    現段階では何も分かっていない。

    船底まで調査できれば、破損状態や積荷の崩れ方から沈没過程そのものを復元できる可能性もある。




    arukemaya_y940


    ↑植物の花粉、ブドウらしいよ!( ・Д・)(Chassouant et al. 2022, Fig.3より転載



    🍷 2100年前、届かなかったワイン

    紀元前2~1世紀。

    どこかのブドウ畑で、ブドウが収穫された。

    潰す。

    発酵させる。

    ワインになる。

    陶工は別の場所で大量のアンフォラを焼く。

    内側を処理する。

    ワインを入れる。

    蓋をする。

    商人が買う。

    荷車で港へ運ぶ。

    港では人夫たちが一本ずつ船倉へ積み込む。

    一段目。

    二段目。

    その上にも別のアンフォラ。

    数百本。

    船は港を離れる。

    行き先はまだ分からない。

    シチリアだったのか。

    北アフリカだったのか。

    イベリア半島だったのか。

    途中の港へ寄りながら、西地中海を巡る予定だったのかもしれない。

    だがマザーラ・デル・ヴァッロ沖まで来たところで、何かが起きた。

    船は沈む。

    船員がどうなったのかも分からない。

    木造船体はやがて海底へ埋まり、一部は失われる。

    しかし焼き物は腐らない。

    アンフォラだけが、積荷の形を残す。

    2000年以上経った2026年。

    ソナーを見た現代人が、

    「変な岩だな」

    と思って潜る。

    するとそこには、

    届けられなかった商品が、まだ荷物の山になって残っていた。

    今回見つかったものは、500本の古い壺ではない。

    ブドウ農家。

    陶工。

    商人。

    港湾労働者。

    船主。

    船員。

    消費者。

    そしてそれらを結んでいた航路。

    ローマ共和国が地中海へ広がっていく中で形成された、2100年前の巨大な物流システムが、航海の途中で突然停止した瞬間なのである。

    この船がどこから来て、どこへ行こうとしていたのか。

    それが解明されたとき、

    海底のアンフォラは初めて、

    「ワインが沈んだ場所」から、「古代地中海経済の一本の航路」へ変わるのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    大量のワインか、どれくらいの価格のワインを沈めたんだろうね?( ・Д・)








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    2026ねん 8がつ12にち(すいよーび、台風!)

    ずっと研究系の仕事に打ち込んでるのもつらいなぁ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya_y935


    ↑AIで生成される遺物っていい感じの時と明らかにおかしい時があると思う!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    イングランド北部の畑で金属探知機が反応し、掘り出した輪っかを最初は“牛の鼻輪”だと思ったら、実は約3000年前の金製腕輪で、しかも周囲からさらに2点が出土! 3点合わせて約518グラム、推定価値6300万円超と報じられているけれど、本当に面白いのは値段ではなく、なぜ青銅器時代の人々がこれほど大量の黄金を3本まとめて土の中へ置いたのかなんだぞ( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    ピッ、ピッ、ピッ。

    金属探知機が反応する。

    場所はイングランド北部、スコットランドとの国境に近いカーライル北方の農地。

    土を掘ったアンディ・クラモンドは、泥の中から輪状の金属を取り出した。

    最初に頭へ浮かんだのは、

    「牛の鼻輪?」

    だったという。

    農場である。

    輪っかである。

    それほど突飛な想像でもない。

    しかし、泥を払うと妙に黄色い。

    錆びていない。

    手に持つと、ずっしり重い。

    「いや、牛の鼻輪にしては光りすぎているぞ……?」

    そこで友人のアラン・ダニエルズを呼ぶ。

    そして、最初の一つが出た場所をもう一度調べると――約90センチほど離れたところから、二つ目。

    スタッフを呼んで周辺を封鎖し、さらに探すと、そこから数メートル離れた場所から三つ目まで現れた。

    約3000年前の金製腕輪が、3本まとめて出てきたのである!( ・Д・)

    発見日は2026年5月23日。現地報道ではハーカー周辺、後の報道ではブラックフォード近郊と表記されており、カーライル北方で行われた大規模な金属探知イベントの最中だった。イベントでは約470エーカーが探索され、ヴァイキング時代のブローチ、ローマ時代の貨幣、青銅器時代の斧など、多時代の遺物も確認されている。


    ✨ 1本で終わらなかった――黄金が3本並んでいた

    発見したのは、スコットランド在住のアンディ・クラモンドとアラン・ダニエルズ。

    二人は数年前から一緒に金属探知を楽しんでいたものの、それまで高価な発見とはほとんど縁がなかった。

    この日も最初の約2時間は、アルミ缶の破片などばかり。

    そこで別の畑へ移動した直後、クラモンドの探知機が反応した。

    一つ目を発見すると、ダニエルズは作業を止めて届け出ようとした。

    ところがクラモンドが、

    「念のため、もう一回この辺を調べよう」

    と提案した。

    これが大正解だった。

    二つ目は最初の発見地点から約3フィート。

    三つ目も近距離にあり、3点はおよそ20フィートほどの範囲へまとまっていたと報じられている。

    つまり、一人の人物が歩きながら三つを別々に落としたとは考えにくい。

    何者かが、意図的に複数の黄金製品を一カ所へ置いた可能性

    が、最初から浮上するのである。

    報道では3点とも「complete」、つまりほぼ完全な形を保つ個体として紹介されている。ただし1点には、後世の鋤が当たった可能性のある傷も報告されている。青銅器時代の金製腕輪は破片だけで見つかることも多いため、三つがまとまって形を保った状態で発見されたこと自体が非常に珍しい。


    ⭕ 「トルク」なのに首飾りではなく、腕輪?

    海外記事では3点を torc/torque と呼んでいる。

    「トルク」と聞くと、ケルト人が首へ着ける巨大な首輪を想像する人もいるかもしれない。

    しかし考古学上のトルクという名称は、必ずしも首飾りだけを指すわけではない。

    金属棒や帯を曲げ、両端を完全には閉じずに残した環状装身具には、首へ着けられる大型品と、腕や手首へ着けられる小型品が存在する。

    今回の3点は後者で、arm torcs、arm-rings、braceletsなどと説明されている。

    大英博物館にも、紀元前1100~750年頃の金製ペナニュラー・ブレスレット――両端が開いた腕輪――が複数収蔵されており、端部をラッパ状に広げた形は後期青銅器時代の装身具として知られている。

    だから、

    「牛の鼻輪に見えた」

    というのも、実物の形を考えるとなかなか納得できる。

    現代の宝飾品のような留め金もない。

    ほぼ太い金属の輪なのである。





    arukemaya_y931

    ↑立派過ぎるだろ!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Alan Daniels)


    🗓️ 紀元前1100年頃――鉄器時代になる直前の英国

    現在伝えられている暫定年代は、紀元前1100年頃。

    英国考古学の編年では、中期青銅器時代末から後期青銅器時代の入口にあたる。

    つまり、およそ3100年前である。

    当時のブリテン島には、ローマ人もアングロ・サクソン人もまだいない。

    もちろん「イングランド」や「スコットランド」という国もない。

    文字資料もないため、人々が自分たちを何と呼んでいたかさえ分からない。

    人々は円形住居を中心とする集落を営み、農耕と牧畜を行いながら、青銅の斧、剣、槍などを使用していた。

    鉄器製作が英国へ本格的に広がるのは、さらに数百年後となる。

    一方、海の向こうを見ると、地中海東部では紀元前1200年前後の「後期青銅器時代の崩壊」を経て、ミケーネ宮殿社会などが姿を消した直後。

    日本列島はまだ縄文時代である。

    そんな頃、英国北部では半キログラムを超える黄金が、誰かの腕を飾っていたらしい。


    🌊 辺境ではない――大西洋を金属が動いた時代

    現在のカーライル周辺はイングランド北端なので、「古代英国の辺境」を想像したくなる。

    だが青銅器時代の世界を、現代のロンドン中心の地図で考えてはいけない。

    西にはアイリッシュ海がある。

    海を渡ればアイルランド。

    北へ行けば現在のスコットランド。

    南西にはウェールズ。

    さらに海を越えれば大西洋岸フランスへつながる。

    青銅や黄金の装身具は、こうした地域をまたいで形や製作技術を共有していた。

    後期第2千年紀の金製トルク類は英国だけでなく、アイルランド、フランス大西洋岸、イベリア半島まで分布し、金属製品や原料が広範囲に移動したことが研究されている。アイルランドの青銅・金製品が英国やヨーロッパ大陸へ広く交換されたことも指摘されている。

    つまりカーライル周辺は、

    文明世界の端ではなく、アイリッシュ海を介した金属ネットワークの交差点

    として見る方が面白いのである。


    ⚒️ 半キロの黄金を、どうやって腕輪にしたのか

    3点の総重量は約518グラム。

    報道では少なくとも22金程度の高純度金とされている。ただし大英博物館による正式な分析報告はまだ公開されていないため、現段階では報道ベースの数値として扱う必要がある。

    22金なら金含有率は約91.7%。

    金は鉄のように赤錆を生じにくいため、3000年間土の中にあっても黄金色を保ちやすい。

    発見者が、

    「埋めたときとほとんど同じような姿で出てきた」

    と驚いたのも、この金属の性質による。

    しかし金は柔らかい。

    金塊を腕輪へするには、鋳造や鍛打を組み合わせて形を整え、表面を仕上げる必要がある。

    同時代の金製装身具を見ると、単純な輪だけでなく、棒を捩ったトルク、薄板を加工した品、端部を拡張した腕輪など、多彩な技術が使われていた。

    近年ではX線蛍光分析による合金組成研究や、加工痕の顕微鏡観察まで進み、「黄金を持っていた人」だけでなく、「黄金を作った職人」の技術体系そのものが研究対象になっている。






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    ↑前に見つけてすぐに専門家呼んだ人がいたけど、そういう法律も整備すべきじゃないかと思う!素人とは分かっていても掘り方汚ねぇ!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Alan Daniels)


    👑 では、これほどの黄金を誰が身に着けたのか

    「王様の腕輪!」

    と言いたくなる。

    ただし紀元前1100年頃の英国に、後世の国家王権と同じ意味での王がいたと証明されているわけではない。

    それでも半キログラム近い黄金を入手できる人物や共同体が、一般的ではなかったことは想像しやすい。

    金の産地へつながる交易関係。

    製品を作る専門技術。

    大量の黄金を社会から取り出して装身具へ集中できる経済力。

    それらが必要になる。

    したがって、高位者の威信財だった可能性は高い。

    しかし現在の研究では、トルクを単純な「金持ち個人のアクセサリー」とみなすことにも慎重になっている。

    特定の役職や儀礼の際に共同体から貸与された品。

    世代を越えて継承された家系財。

    特別な社会的立場を示す象徴。

    そうした可能性もある。

    実際、先史時代のトルクには長期間使用・修理された痕跡を持つ例があり、単なる消費財ではなく、人と人の間を移動しながら長い「履歴」を持った品だった可能性が指摘されている。


    💰 金の重さ=価値ではなかった?

    この3点が面白い理由の一つが、「金を価値としてどう考えたか」という研究につながることである。

    青銅器時代ヨーロッパでは秤や重量基準が使用され始め、金製品も一定重量で作られていたのではないかという説が長く議論されてきた。

    もしそうなら、腕輪そのものが装身具であると同時に、一定量の黄金を持ち運ぶ財産だった可能性がある。

    ところが2022年、英国・アイルランドの青銅器時代金製品約1000点を再分析した研究では、製品全体に統一的な重量規格が存在したという仮説は支持されなかった。

    似た重量が集まる例はあっても、それは通貨のような厳密な規格というより、

    「腕に着けるなら、このくらいの大きさになる」

    という身体寸法や製作上の都合でも説明できるというのである。

    つまり今回の3本も、

    金何グラムだから価値が何単位

    という現代的な延べ棒ではなかった可能性が高い。

    誰が身に着けたか。

    どこから受け継いだか。

    どんな儀礼で使ったか。

    そうした社会的履歴まで含めて「価値」だったのだろう。


    🕳️ 最大の謎――なぜ3本とも土の中へ置いたのか

    ここからが考古学的に一番おもしろい。

    三つの腕輪は近接している。

    そこで考えられる説明は、大きく二つある。

    一つは、財産の隠匿

    敵対集団の襲撃や社会不安があり、

    「しばらく地面へ埋めておこう。落ち着いたら掘り返す」

    と隠した。

    だが所有者が死亡したり、戻れなくなったため、そのまま3000年間残った。

    もう一つは、意図的な奉納

    神々、祖先、大地などへ黄金を差し出し、二度と人間社会へ戻さないため地中へ置いた。

    現地では収穫を願った奉納などの可能性も語られているが、具体的な目的までは分からない。

    そして、この二者択一そのものが少し古い考え方かもしれない。

    青銅器時代の埋納研究では、経済的な保管と宗教的な奉納を完全に分離できない場合がある。

    貴重品を土へ置く行為そのものが、財産管理であると同時に社会的・儀礼的意味を持った可能性もある。

    近年の研究では、青銅器時代の「ホード=埋納品」を、物の象徴価値、実用価値、所有者との関係をまとめて考える方向へ進んでいる。





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    ↑三つも出るのは凄いよね!一つでも凄いのに!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Alan Daniels)


    🏺 実は似た「黄金のまとめ埋め」は、英国で何度も見つかっている

    今回だけなら、事故による紛失を疑う余地も大きい。

    しかし英国・アイルランドでは、青銅器時代の金製腕輪やトルクが複数まとめて埋められた例が以前から知られている。

    2000年に発見されたミルトン・キーンズ埋納品には、金製トルク2点、腕輪3点などが含まれ、土器容器に納められていた。年代も紀元前1150~800年頃で、今回の3点にかなり近い。

    2004年に発見されたランボーン埋納品では、紀元前1200年頃の金製腕輪・アームレット群が浅い穴へまとめて置かれていた。

    人骨はなく、墓ではなかった。

    発見後に考古学的調査が行われたことで、「一人が何本も落とした」のではなく、意図的な埋納だったことが確認された。

    アイルランドのモーガンでも大量の金製品がまとまって出土しており、英国・アイルランドの青銅器時代社会には、非常に高価な金属製品を意図的に地中へ戻す行為が繰り返し存在したことが分かっている。

    今回の3本も、この広い文化的慣習の中へ位置付けられる可能性がある。


    📡 金属探知機の「お宝」と考古学資料は、何が違うのか

    今回の発見は金属探知イベントの最中だった。

    ここには英国考古学特有の事情がある。

    イングランドとウェールズでは、土地所有者の許可など必要な条件を満たした金属探知が広く行われ、Portable Antiquities Schemeを通じて一般市民の発見を考古学記録へ組み込む制度が発達してきた。

    政府資料によれば、一般から報告される考古資料の大部分は金属探知者によって発見されており、制度変更とPASの普及によって青銅器時代の埋納研究そのものにも大量の新資料が加わった。

    しかし、「金を見つけた」だけでは考古学として十分ではない。

    本当に重要なのは、

    3本がどの深さにあったか。

    互いにどういう位置関係だったか。

    同じ穴へ入っていたか。

    土器や木製容器が伴っていなかったか。

    周囲に住居、墓、溝などがないか。

    というコンテクストである。

    今回、最初の発見後にスタッフへ報告し、範囲を管理しながら追加探索を行ったことは重要だった。

    一方で耕作によって遺物が本来の位置から動かされている可能性もあり、今後の考古学的調査で「3本が元々一組として埋められたのか」を確認することが決定的になる。


    💷 「6300万円」は、まだ正式価格ではない

    そしてニュースで一番目立つ、

    推定6300万円超。

    これは現時点で確定した鑑定額ではない。

    海外では3点合計30万ポンド超、あるいは40万ドル超などと報道されている。

    金そのものの地金価格だけではなく、

    3000年前という年代。

    完全に近い保存状態。

    3点が一括して発見された希少性。

    考古学的価値。

    が加わった市場評価の予測である。

    2026年8月現在、3点は大英博物館で調査中。

    今後、検視官によるTreasure Act上の「Treasure」認定手続きが行われる。

    英国では該当する遺物は公的手続きを経て博物館が市場価格相当で取得する機会を与えられ、報奨金が発見者や土地所有者などへ分配される仕組みがある。対象となり得る発見は所定期間内に届け出る必要がある。

    したがって、

    「6300万円の黄金を掘り当てて、その場で大金持ちになった」

    という話ではない。

    正式な年代、材質、法的認定、評価額はこれから決まる。

    むしろ大英博物館の分析結果が出れば、金の組成から他地域の製品との関係まで見えてくる可能性がある。





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    ↑仲良さそうな3人でいいね!ちょうど3つ見つかったのも友情のおかげかね!( ・Д・)(「ART news JAPAN」の記事内画像より転載;credit: Alan Daniels)


    🔬 これから調べれば、もっと面白いことが分かる

    個人的には値段より、今後の科学分析の方がはるかに気になる。

    金・銀・銅の含有率。

    微量元素。

    製作工具の痕跡。

    摩耗。

    補修。

    表面に残る土。

    三つの重量と寸法。

    これらを既知の英国・アイルランド産金製腕輪と比較する。

    同じ工房で作られた三本なのか。

    別々の時期に集められた家宝なのか。

    三つすべてが実際に着用されていたのか。

    同じ人物が使える大きさなのか。

    この辺が分かってくると、単なる「黄金3本」から、一つの社会的物語へ変わる。

    特に英国青銅器時代の金製品研究では、型式学だけでなくXRFによる材質分析、製作痕、重量統計まで組み合わせた研究が進んでいる。約1000点を対象とするデータ研究まで成立しており、新たな完形3点セットは比較資料としてもかなり価値が高い。


    🐂 牛の鼻輪に見えたものは、3000年前の「社会関係」だった

    紀元前1100年頃。

    誰かが黄金を手に入れた。

    職人が熱し、叩き、形を整える。

    太い輪となる。

    誰かが腕へ着ける。

    祭りだったのかもしれない。

    政治的な集会だったのかもしれない。

    特別な家系を示す装身具だったのかもしれない。

    何十年も受け継がれた可能性もある。

    そしてある日、三本の黄金が地面へ置かれた。

    敵が来るから隠したのか。

    神々へ返したのか。

    死者を記念したのか。

    それは分からない。

    所有者は戻らなかった。

    集落も消えた。

    言葉も名前も失われた。

    しかし金は錆びなかった。

    3000年後。

    農場の泥の中から輪っかが現れる。

    最初に見た現代人は、

    「牛の鼻輪だ」

    と思った。

    考えてみれば、これほど考古学らしい瞬間もない。

    物だけを見れば、ただの金属の輪である。

    年代も、

    用途も、

    価値も、

    所有者も、

    埋めた理由も、

    何も書いていない。

    私たちが周囲の地層、似た埋納品、製作技術、分布、摩耗痕を一つずつ調べて初めて、

    「3000年前、人間が非常に大切にしていた物」

    へ戻っていく。

    3本の腕輪の市場価格は、最終的に6300万円になるかもしれない。

    もっと高くなるかもしれない。

    だが考古学的に本当に価値があるのは、金そのものではない。

    なぜ当時の人間が、それほど価値のある黄金を“使わず、売らず、溶かさず、土の中へ置く”という選択をしたのか。

    牛の鼻輪にしか見えなかった三つの輪は、青銅器時代の富、権力、交易、信仰、そして所有という概念まで閉じ込めた、3000年前の「社会関係」そのものだったのだ!( ・Д・)





    なにはともあれ……

    ひとり2000万円か、夢あるね!日本では成立したとして税金で持ってかれるだろうから夢ないね!( ・Д・)








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