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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

2018ねん 7がつ 18にち(すいよーび、曇り)

最近、アボガドを生ハムで巻いて食べることにハマっておる。

海外ではアボガド安いから、

よくわさび醤油付けて、おつまみにしてたなぁ。

あ~、マグロ&アボガド丼つくろーっと!(・∀・)つ

私のテンションは食べ物で変わると最近気づいた( -д-)ノ

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今回紹介するのは「毒の付いた本」です!しかも大学図書館に所蔵されていたそうです。毒が付着していたことは後から分かったようで、本当に危険ですよね!

舞台はデンマーク、南デンマーク大学図書館です。同大学の教員が16世紀~17世紀の3冊の歴史書を分析しようとしていました。

実際に分析したかったのは本の中身じゃなくて、カバーの方でした。カバーは古い他の羊皮紙製の印刷物を再利用して作られたもので、そこにはラテン語の文章が隠さていたのです。

しかしカバーとして再利用した際に塗布されたグリーンの塗料があまり厚く、読むには邪魔であったのです。

そこでまず蛍光X線分析(micro-XRF)を用い、緑の塗料の化学組成を明らかにすることにしました。蛍光X線分析は考古学でもお馴染み方法ですね。石器や土器の胎土を対象とした産地同定分析に用いられることで知られています。

私も粘土を対象に一度分析したことがありますが、非破壊の分析ですし、分析が比較的早いのでなかなかに優秀な分析法だと思います。簡単に言うと、試料にX線を照射すると、試料に含まれる元素に応じて発生した蛍光X 線を分光素子で分光し、測定するものです。

機器によって多少の差異はあるようですが20元素(Na, Mg等と化合物)と4微量元素(Rb,Srなど)といった試料の化学組成を明らかにできます。

このような手法による分析結果として、本についていた緑色の塗料には高濃度のヒ素が含まれていることが判明しました。

カバーから検出されたヒ素入りの塗料は、パリスグリーン(花緑青)と呼ばれる人工顔料であることが分かりました。様々な緑色を出せることから、19世紀には絵の具や建築用塗料として利用されていました。

後に触れると皮膚が炎症を起こす事例が多く確認され、ヒ素に由来する強い毒性があることがわかりました。そのためヒ素は殺鼠剤、殺虫剤、農薬としても盛んに用いられ、羊皮紙にパリスグリーンが使用された理由も、書物を虫やネズミなどの被害から守るためだったと思われます。

ヒ素は生物に対する強い毒性があることだけではなく、強い発がん性(最も高いグループ1に分類)を有することで知られています。

ヒ素は13世紀には知られていて、15~16世紀には暗殺用の毒として使われていました。無味無臭かつ無色、そして入手が容易だったのが主な理由ですね。このように古くから危険性が周知されていますからね、19世紀段階で塗料に混ぜ込むなよ!って思いますけどね( ・Д・)
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最初の見出しに挙げた写真のように、古い本ってなんか素敵じゃないですか? 昔、いいホテルに泊まるのが趣味で、大統領の住居だったホテルとか元総督府のホテル、元修道院のホテルに泊まってみたことあるんですけど、古く趣ある調度品に目を奪われたものです。

その時思ったんですけど、古い本ってインテリアになるな~って。それで海外の古書市で、めちゃ古い本買ってみたことあるんですよ。内容、読めないのに( ・Д・)

まぁもちろんそんなに古い本が混ざってることはないと思いますけど、混ざってても値が張るので買えない! 小さな国だとけっこう掘り出し物もあって面白いんですけどね。

これからは本の古さと装丁に気を遣ってみようかなと思います。古本触ったあとに、その辺で手づかみで何か食べたら、大変なことになるかも知れませんしねヽ(TдT)ノ

古い本や絵画には今回と同様の危険性がありますので皆さまもご注意ください!( -д-)ノ

↓安心して下さい。このボタンにヒ素は付着しておりません(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 7がつ 17にち(かよーび、曇り)

暑い!

天気はよろしくないが、蒸し暑い!

全国各地で猛暑のようだ……

ここは気温的にはマシだが、

暑い!ビアガーデン行きたいな~( -д-)ノ

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【目次】
  1. イギリスでは猛暑で農場から遺跡が見つかるのだそうだ
  2. 日本の踏査方法との比較
  3. 古代ローマ時代の最大規模の邸宅がイギリスの農場で見つかる
  4. おわりに

1.イギリスでは猛暑で農場から遺跡が見つかるそうだ
イギリスと言えば、特にロンドンは雨のイメージ!年間を通じて肌寒いイメージもありますよね。しかしながら2018年は最高気温が30℃を超える日も多く、雨不足の天気が続いているそうです。この熱波がもたらす干ばつのおかげで、イギリス南西部のウェールズ地方では古代の城壁や要塞などの遺跡が次々に見つかっているそうです!Σ(・ω・ノ)ノ


ちなみにウェールズは、ジブリの『天空の城ラピュタ』のモデルとなった地だそうです(私はラピュタが大好きです(。・ω・)ノ゙)。ウェールズの民は独自の民族文化を築いたようで、イングランドからの度重なる侵略に抵抗する公国がかつて存在したそうです。

 

そのため鉄器時代の集落跡やローマ時代の城塞や城壁など、多くの歴史的建造物の埋蔵地なのです。しかし通常は植物が生い茂っているため、遺構がどこにあるかはよく分からないとのこと。

 

ところが熱波によって干ばつが進み、多くの草木が枯死したために地表面が露わになり、結果として遺跡が上空からはっきりわかるようになったのだそうです。

 

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↑古代の生活と現在の農場の利用状況「CBHC / RCAHMW」の記事より画像を転載)

2.日本の踏査方法との比較
なんかミステリーサークルみたいな痕跡がたくさん見つかったんだな~って感想ですね。せっかくの機会なので飛行機で一気に遺跡の分布を調べてしまおう!ということのようですね。

アメリカではLiDARというレーダーによる光学走査技術が用いられて、古代マヤ都市のティカル遺跡を始めとして多くの発見がさなれています。この技術だとマヤ地域の鬱蒼としたジャングルも関係なく地表面の測量ができてしまうんですね。

まぁ植物が枯死したくらいで分かる痕跡であるなら、LiDAR使えばいつでも分かるのではないだろうかとも思うんですけどね。まぁきっと予算の問題でしょう!( ・Д・)

さて、日本でも踏査は行います。たくさん歩いて遺物を拾って、地点を記録して、遺跡のある場所の検討をつけるのです。

まぁ日本は大規模工事に伴う緊急調査が考古学調査の大部分を占めますので、マヤ地域のようなジャングル探検や、今回のイギリスのような広大な農場を練り歩くことはあまりしない傾向にはあります(広域地形測量に伴う踏査は除く)。

私の経験では、考古学専攻生が学習の一環あるいは趣味として、踏査を実施したことがありますね。先輩に教えられて行うわけですが、いつがタイミング的に良いのかというと、雨上がり!

農地は耕作によって下部の土が掘り返されている状況なのですが、その結果地表面近くに遺物が上がってきているのです。雨で遺物に付着した土が流れることで発見率が上がるんですね。

もちろん農作物が生い茂っている時は、見つかりません。というかそのような状況で農地に入ることがそもそも許されません。なので休耕地を狙うわけですね。

イギリスの場合は熱波で植物が大量に枯死した時ということで、日本とは大きく違うなぁと思いました。普段から雨の多い地域ですし、植生も違うでしょうからね、日本の感覚で英国で踏査を行ったら何も見つけられないのかも知れませんね!( ̄▽ ̄;)!!ガーン


3.古代ローマ時代の最大規模の邸宅がイギリスの農場で見つかる

さて、英国の農場では遺跡発見ラッシュが続いているようです。ロンドンの農場で納屋の配線工事中に偶然、1500年以上前にさかのぼる古代ローマ時代の邸宅の遺跡が出土しました。


邸宅は保存状態が極めて良好で、特徴的なモザイク模様が残っていました。この発見は地表面から僅か45センチほど掘ったところで起きたとのことで、よく近現代の攪乱を生き延びたと言えるでしょう。


この農場は古代ローマ時代の温泉地だった都市バースから約32キロ南東のブリクストン・デベリルにあり、古代ローマの邸宅としては同国最大級の遺跡であることが分かりました。


邸宅は紀元175~220年の間に建設され、4世紀半ばまでに改築されたものと推定されています。3階建てで縦横50メートル以上の大きさがあり、当時強い勢力を持っていた裕福な一家の所有だったようです。

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↑実際の調査の様子(「CNNnews」の動画より画像を一部加工)


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↑1500年前の巨大邸宅の復元予想図(「CNNnews」の動画より画像を一部加工)


付近からは浴室棟や井戸、陶器、硬貨などが見つかったほか、住人が食べていたと思われるカキの殻も出土した。この農家の台所付近にあってゼラニウムの栽培に使われていた石造りのプランターは、ローマ時代の子どもの棺だったことも分かったそうです(棺で何してんねん( ・Д・))。


古代ローマにおける最大規模の邸宅であるため、歴史的価値は非常に高く、今後の調査の進展が期待されます。完全に復元されて観光地になっちゃうかも知れませんね。

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↑カキの殻!いいもの食べてるね~!(「CNNnews」の動画より画像を一部加工)


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↑問題のプランター、実際は古代ローマの子供の石棺(「CNNnews」の動画より画像を一部加工)



4.おわりに
日本でも最近は30度越えの酷暑が続き、熱中症で搬送される、亡くなる方も多数との報道がなされています。普段肌寒い気候である英国で30度越えの熱波が続くってどのような被害になるのでしょうかね?

この記事に関連する研究をしている英国人考古学者は、この機会に一気にデータを取りたい!なんて仰っているようですけども、農場の植物が熱波で枯れるレベルって経済的打撃もすごいだろうに、けっこうな吞気さんなんだな~って思いました……いや、それでこそ研究者なのか!?

『紳士』として周りに気を遣って、ひっそりと成果を挙げて欲しかったなとも思ったり、思わなかったり( -д-)ノ

↓ま、押してみなよ。いいことあるかもよ?( ・Д・)ホゲー↓

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2018ねん 7がつ 16にち(げつよーび)

海の日だー

しかし天気が悪い日が続いておる。

来週末、海に誘われたはいいが、

暖かいといいなぁ(。・ω・)ノ゙

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2004年、中国、陝西省(せんせいしょう)で古代の陵墓が発掘され、多量の豪華な副葬品が発見されました。この陵墓は南北550メートル、東西310メートルという非常に大きなものです。

2004年の調査では秦(紀元前8世紀~同206年)が中国を初めて統一する前の戦国時代に造った大規模遺跡であることが明らかになりました。

これまで古代中国において、配置が整った陵墓は始皇帝陵(秦の始皇帝のお墓;兵馬俑で有名)が最も古いといわれてきました。今回の発見は秦の始皇帝より2代遡る古さであり、重要な発見とされています。

この巨大な陵墓の北側の深さ15メートルの地点にて、東西140メートル、南北113メートルの墓道と、東西29メートル、南北28メートルの墓室を持つ十字形の大型古墳が発見されました。その内部からは秦時代の銅銭「半両銭」や装飾品などが発掘されました。

このような2006年までの調査によって、この陵墓は秦の始皇帝の祖母に当たる夏太后(夏姫)の墓である可能性が高いという見解が発表されました。

この古墳の傍には12基の副葬坑が発見され、中から馬車のほか金銀銅で作られた装飾品や馬具が発掘されました。

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↑副葬孔のひとつ、お馬さんが5頭くらいおる(。・ω・)ノ゙(「鳳凰山東」の記事内画像を転載;中国語です)

この12基の副葬坑からは、他にツキノワグマやヒョウ、ヤマネコ、ツルといった種類の動物骨が出土しました。この中でも最も重要な発見は今回の奇妙なテナガザルの骨なのです。

2018年の研究論文では、この小型類人猿の頭蓋骨が、現生の類人猿種とは非常に変わった特徴を有しており、夏太后がペットにしていた動物が今は絶滅してしまった新属・新種のテナガザルだったと可能性が指摘されています。。


研究者たちはこの新種の類人猿に「ジュンズィ・インペリアリス(Junzi imperialis)」という学名を与えましたた。「Junzi」は中国語で「君子」を意味し、この頭骨が高位の人物の墓から発見されたことと、古代中国の神話ではテナガザルが君子とされる場合が多いことにちなんでいるそうです。


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↑新種の猿の頭蓋骨と現生のテナガザル(「立場新聞」の記事より画像を転載;中国語です)


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↑頭蓋骨の3D復元図(a1-2)、中国画に見られるテナガザル(b)と夏姫の肖像(c)(「Best World News」、「立場新聞」、「The Storm Media」の各記事内画像を加工して作成;Credit by theDANGOsan)


これまで霊長類の絶滅はほとんど知られておらず、またアジアのテナガザルの化石はこれまで歯と小さな骨片のみが検出されていたとのことです。そのため今回の発見は、人類と類人猿の関係や絶滅に対する人類の影響を明らかにする上で重要な発見であるわけです。


この頭蓋骨は古生物学に重要であるため、DNA分析という破壊分析を実施できなかったため、頭骨と歯の形や角度を調べる形態計測という手法を用いて分析を行いました。


現生種である4種のテナガザルについて、279匹の歯789本と477個の頭骨を詳細にレーザー測定し、データベースを作成し、夏太后のテナガザルを既知の種と比較し、非常に大きな違いがあったことが明らかとなりました。


夏太后のテナガザルの額の傾斜はより急で、眼窩上突起は小さく、その歯が非常に大きいという特徴を有しているそうです。
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↑確かに犬歯が非常に発達している!Σヾ( ̄0 ̄;ノ(出典は最上部の写真と同じ)

夏太后は様々なペットを飼っていたようですね~。日本でもフェレットとカワウソとかペンギンとか変わったペットが流行ってますよね。過去にはウーパールーパーも…

カワウソとか高いですもんね。もともと70万円くらいの値段だったのが、最近は品薄で140万円くらいになっているそうです。

珍しい動物を飼育していることは今も昔も一種のステータスのようです。買うだけでなく、飼育にはランニングコストかかりますしね。お金持ちならではの趣味なのかも知れません。

……ちなみに私はフェレットが好きです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓ペット好きなら押しましょう、とても好きならたくさん押してもいいよ!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2018ねん 7がつ 14にち(どよーび、曇り)

忙しいという言葉は麻薬のようである。

頑張れ、自分。

1日1時間で良いのだから!(・◇・)ゞ

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こんにちは。「歩け、マヤ」管理人のTheDANGOsanです。

さて、なんだかんだブログをサボり続けて早ひと月……申し訳ない!( -д-)ノ

皆さまのおかげでまだ「ライブドアブログ」のランキングで☆1を維持しております。☆2になりたいだなんて言っておきながら、この様ですが、今月残り半分は頑張っていきたいなと思っております。

さて、今回は定期的に行っている「ブログは本当に稼げるの?」という疑問について実態を紹介するという意図の記事になっております。

2018年度の6月までの成果はこんな感じです!

表1. 2018年6月までの各データの推移
2018年6月まで表

確か6月って10本も記事書いてないと思うんですよね。それでもTwitterのフォロワーさんも増えまして、少しずつ広がっているのか、PV(ページビュー)数は5月を上回りました。

UU(ユニークユーザー)数も増えてますね。フォロワー数が130人に達しましたので、まぁ一か月休んでるので何とも言えませんが、記事を上げればおよそ13.8%の人が見てくれるということですね。

単に相互フォローな方もいらっしゃると思うので、数字が少ないのでしょう。ただやはりTwitterのフォロワー数は目安になりそうです。

他方でアドセンス広告料は下がってますね。でも更新頻度が前月の半分以下ですから、これなら良いのでしょう。

視覚的に分かり易いように、PV数とUU数をグラフ化したものが以下の二つの図になります。
2018年6月までグラフ01
2018年6月までグラフ02
図1,2. 2018年6月までのPV数、UU数の推移

やはり記事は継続的に書かないとPV数増えませんね。頭打ち感があります。一方でUU数はTwitterでの情報の拡散によって新規の方が単発的に訪問してくれているのでしょう。伸び率に大きな変化は見られません。


結論として、当然のことですが、いくつか見えてきました。


①継続的に記事を書かなきゃダメ!

普通のことですけど重要です。恐らく短い記事(1000文字程度)でも構わないので2日に1回の更新は必要だろうなと実感しております。


②Twitterでのフォロワー数を増やすことがとても重要

何の専門ブログを書くかにもよると思いますけど、フォロワー数を増やすことがブログの宣伝、新規読者の獲得、ひいてはブログのPV/UU数の安定(つまりは収益の安定)に繋がるでしょう。

記事を書く元気がない時は、Twitter見てみて、様々な人との交流やネタ探しをしてみると良いと思います。


③たまにでいいので時事ネタを追ってみることも重要

一次的なトピックに飛びつくと、瞬間的にPV数が増える代わりに、ロングテイルな記事とは縁遠いものになってしまいます。

よく言われるのは、長く繰り返し読んでもらえるような記事がブログの財産であるということですが、世間で注目を集めているニュースに関連した記事もたまには必要でしょう。そういう記事はTwitterで拡散されやすいようで、宣伝効果が高いように思います。


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さて、この「歩け、マヤ」のブログの目標が自分でもよく分からないのですが、まぁ仮に月1万円の収益としましょう。

すると、6月のデータを用いて単純計算するとPV数だけでもざっと200倍必要ですからね。Twitterのフォロワー数も200倍と思うと、2万人のフォロワー数ってまぁ一般人には難しそうです。

となると、やはり更新頻度を上げるしかない。6月は10記事くらいだから、ちゃんと1日1記事更新できれば、単純に3倍?

現在の成長率が維持されると仮定して、8月から30記事/月書いた場合、収益が1万円超えるのは2019年の5月ですね。

道は険しいなぁ( -д-)ノ……在宅で1日1時間従事して、約1年後では収益1万円/月です。どうでしょうか?人それぞれかとは思いますけど、ブログ儲かります?

時給換算で333円ですけど、まぁ自分の専門活かして趣味的にのんびりやっていく分には、素敵な趣味かな~とは個人的に思いますね(。・ω・)ノ゙

最後に、本当に皆さんに支えられてブログ維持しているなと、感謝の気持ちでいっぱいです。適度に頑張りますので、今後ともよろしくお願いいたします!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓Twitterのフォロワーさんが多いから、これってあまり意味ないのでは?とか思ったり( ・Д・)↓

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2018ねん 6がつ 24にち(にちよーび、くもり)

寝れるということは幸せである。

質の高い睡眠だなんて贅沢は言わない。

私は少しでも多く眠りたい!( ・Д・)

身近で見つけた幸せの白いおふとぅん(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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今回はイースター島のモアイのお話です。モアイってなんだか可愛いんですよね、私は好きです、モアイ!カワ(・∀・)イイ!!

さて、イースター島は南米のチリに属する島で、太平洋に所在します(下の地図を参照)。島の面積は 163.6km2で、日本の主要四島の中で最も小さい四国のざっと100分の1の大きさです(四国は18,800km2)。

人口は6600人、言語はスペイン語、ラパ・ヌイ語です。モアイを立てていた頃にはロンゴロンゴという絵文字を使用しており、フランスによる奴隷貿易によってタヒチ語の影響を強く受けた現在のラパ・ヌイ語から当時のロンゴロンゴの解読は困難とされています。
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↑日本に売却の打診もあったとか。しかしアメリカ、イギリスにも打診したと知り、政府は静観したのだと。日本の体質も変わらんね~、買っておけば今頃……( ・Д・)(Wikiより転載)


イースター島に最初に人が到達したのは西暦1200年頃と考えられています。この最初の移民は、遥か昔に中国大陸からの漢民族の祖先集団の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派、いわゆるポリネシア人と考えられています。

西暦7~8世紀頃に、アフ(プラットホーム状に作られた石の祭壇)作りが始まり、10世紀までにモアイの製作が開始されたそうです。このモアイ作りの伝統は17世紀まで続き、18世紀以降は破壊されていったそうです。

一言にモアイといっても種類があります。大きく4期に分けられ、時期ごとに造られるモアイが変化していったのです。

第1期:人の姿に近いもので下半身も作られている。
第2期:下半身がなく、細長い手をお腹の辺りで組んでいる。
第3期:頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。
第4期:全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口といったいわゆる一般的にモアイといって想像する形態である。

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↑モアイの形態の変遷(「歩け、マヤ」管理人(TheDANGOsan)作成;遊び心含む( ・Д・))

今回のお話はこの第3期のモアイが対象となります(上図の「第3形態」)。頭に帽子状の構造物を被っているモアイですね。先に述べましたようにプカオと呼ばれるもので、「髪や髪飾り」を意味するそうです。

今回の新説は、このプカオをどうやってモアイの上に載せたのか?です。モアイと一緒に切り出されて成形した後にプカオだけ着色しているわけではありません。

モアイの本体は凝灰岩が石材であり、プカオは赤色凝灰岩が石材です。別々に作って、モアイ本体にプカオを載せているのです。なので倒れたモアイ(第3形態)の傍にプカオも別に転がっている風景が見られます。

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↑モアイに帽子を被せる方法(Hixon et al. 2018より転載)

これまでの研究では、プカオは像がまっすぐに引き起こされる前に頭上に接着していたとする説が有力でした。しかし上の写真のようなプカオの底面から接着や擦り傷の痕跡が見つからなかったのです。

今回の成果を発表したシーン・ヒクソン(ペンシルヴァニア州立大学)は、当時の人々が植物の繊維からできたロープと長い傾斜路、そして掛け縄という手法を使っただろうと説明しています。

モアイが立つ土台で見つかった赤い岩滓の破片から、人々は傾斜路の上へとプカオを運んだ後に、最終的な手直しを施し、適切な位置に置いたと推測しています。

ヒクソンらが分析した50個のプカオはいずれも底面に擦り傷は確認できなかったため、引きずったわけではないと考えられます。つまり上図のようにプカオは石像の頭上へと傾けられていたのです。

プカオ設置後にモアイをまず垂直に立てて安定させ、その後に傾斜路は分解されたのだろうと推測されています。これが新説によるモアイの作り方なのです。

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おわりとしまして、モアイは石材の切り出し山から、安置場所まで自分で歩いて行ったという伝説があって、それを根拠にモアイの移動方法を考えたのが上の写真になります。

このような「モアイのお散歩」はみんなでワイワイと実験できて楽しそうですよね。今回の帽子の載せ方の研究は、最先端の3Dモデリング、遺物の分析、そして物理学から描写されたモデルとを組み合わせて行っているそうですが、これもぜひ実際にやってみてもらいたいものです。

この実験に携わる人々はきっと学生だけではないでしょう。昔はこういう研究ってどれだけの意味があるのかなと思っていた時期もありましたが、今は研究自体がある種のイベント的に多くの人々の関心を集め、また観光等の文化遺産活用にダイレクトに結び付くあたりが面白いなぁと思うようになりました( -д-)ノ

……ところで、エジプトのピラミッド建造にも傾斜路が作られていた説がありましたが(今はもっと効率的な方法が提案されていたはず、くるくる螺旋状に回って登っていくやつ!)、エジプトは砂でいっぱいじゃないですか?

でも転がったプカオの写真とか見てみると、乾燥土壌だなぁって思います。土集めるの大変そう。あの傾斜路ってけっこうでかいし、作るの大変そう。

モアイ設置予定の近くの土を採掘して、利用後に埋め戻してるんですかね?それならそういう人為的な掘削痕見つけれるのかな~て思ったり。

エジプトの砂はさらさら過ぎて無理だろうけど、上のモアイのお散歩写真に見られるくらいの土壌なら掘削・埋め戻し痕が残る可能性もあるのでしょうかね?

……死ぬまでに一度行ってみたいな、イースター島!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓モアイが好きなら、押しましょうヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2018ねん 6がつ 21にち(もくよーび、時に激しい雨)

6月は毎日書くよ!って言いながら、

初旬は忙殺されてサボり気味……

ちゃんと更新頻度まともにしますね( -д-)ノ

ロクに更新もしてないのに来訪者も多く、本当に感謝しておる!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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【目次】
  1. はじめに
  2. 今回の研究成果
  3. 邪馬台国論争とは
  4. 論争が終結し得るのか?
  5. おわりに

1.はじめに
今回紹介するのは名古屋大学の研究成果です。ニュース元はYahoo!Japanニュースの記事です。そこでタイトルが「モモの種で『邪馬台国論争』終止符か?」となっている件が気になって記事にしてみました。

邪馬台国論争と言えば、その所在の問題として、大きくは2説あります。「畿内説」と「九州説」です。後ほど取り上げますが「吉備説」もありますよ。

今回紹介する記事の元である纒向学研究センターの研究紀要では「畿内説」を支持する方向で書かれていまして、Yahoo!Japanニュースの元記事でも「畿内説」支持で書かれている模様です。

私は古典期マヤ(後3世紀~9世紀頃)とほぼ同時期の弥生時代後期~古墳時代(後1~7世紀頃)に関心がありますが、「邪馬台国論争」については素人ですし、諸説ある中でニュートラルな立場におります( -д-)ノ


2.今回の研究成果
今回の記事に関連する遺跡は、奈良県桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡です。この遺跡で2009年に大量のモモの種が出土したそうです。その数、2765個!

3世紀前半の居館の跡と思われる柱穴が発見され、それは東西に一直線に並ぶ4棟の巨大な建物だと分かりました。その中でも最大の規模である「D棟」は3世紀前半では最大の建物跡(東西約 12.4m、南北約 19.2m)とされており、卑弥呼の宮殿とみる研究者もいるとのこと。

この建物(D棟)の5m南側から平面形態が楕円形の土坑(東西約 2.2m、南北約 4.3m、深さ 80cm)が検出され、その中から約2800個のモモの種核(直径約 2.5cm)が出土したのです。

竹笊(たけざる)6点(直径 30~60cm)や木製の剣、故意に割られた土器片、漆塗りの弓、獣骨なども出土し、いずれも祭祀に関連するものという解釈です。

中村俊夫(名古屋大)がこの約2800個のモモの種核の内、ランダムに抽出した15点を放射性炭素年代測定法にかけて時期を算出しました。測定できなかった3点を除き、全て西暦135~230年のもの判明しました。また山形大が行った測定でも同様の結果が出たそうです。

つまりモモの種核の年代である西暦135~230年は、女王・卑弥呼(248年ごろ没)の年代と重なり、邪馬台国畿内説を補強する成果であるという研究なのです。

纏向遺跡は巨大な集落跡であり、箸墓古墳(一部で卑弥呼の墓と言われている)を含む6基の古墳が分布しています。これまで(特に畿内説否定派の根拠として)後4世紀頃の遺跡と言われていましたが、今回の研究成果から、遅くとも3世紀半ばまでには既に非常に大規模な集落であった可能性を指摘できるとのことです。


3.邪馬台国論争とは
さて、邪馬台国論争とは何かですが、簡単に紹介します。

邪馬台国(やまたいこく)は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。

古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した、ことから(やまたいこく)の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。

(Wikiより引用;筆者により一部変更)
教科書にも出てくるアレですね。中国の『三国志』の一部である「魏志倭人伝」にて記載されていて、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都として、邪馬台国に居住していたそうです。

この邪馬台国論争自体はいくつか種類がありますが、一番の焦点はやはり『どこにあったのか?』です。

先にも述べましたように、「畿内説」、「九州説」、「吉備説」、「四国説」、「東遷説」があります。「東遷説」は九州で最初に王朝が成立し、後に畿内に遷都したとする説です。


4.論争が終結し得るのか?
さて、問題のモモの種ですが、本当に邪馬台国論争が終結し得るような決定打になるのでしょうか?

ちなみにモモの原産地は中国です。紀元前7500年の裴李崗(はいりこう)文化においてモモの種核が出土しています。日本では、縄文時代前期(紀元前4000年)の伊木力(いきりき)遺跡(長崎県)で出土したモモの種核が最古になります。

そうです。縄文時代にはすでにモモがあったんですよ。
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↑縄文時代のモモの分布(「岡山大学、埋蔵文化財調査研究センター報No.55」より転載)

しかもかなり広く分布しておるΣ(・ω・ノ)ノ

まぁ確かにこれだけ見ると、弥生時代以前に、縄文時代にはすでに全国分布してるじゃないかーってなりますけども、出土数は非常に少ないのです。各遺跡で僅か1~2点程度のようですね。
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↑モモの大きさの比較(「岡山大学、埋蔵文化財調査研究センター報No.55」より転載)

Wikiによると、「モモは弥生時代後期に大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化」するとあるのですが(2018.6.21現在)、この岡山大の提示するデータからすると間違いですね。

モモの種核のサイズ自体は変化ないのです。変化があるのは出土数!今回紹介した纏向遺跡のように約2800点も出るのですからね。

モモは産地として中国由来なだけではなく、その文化的思想も中国由来なのです。つまり仙果として食す者に仙力を与え、また邪気を祓い、不老不死の効果(ギリシア神話の黄金のリンゴみたいな感じ)も有していると考えられており、実際に薬に調合していたようです。

日本でも古来より、モモは邪気を払う力があると考えられてきました。『古事記』では、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が「桃」を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたことが記載されています。

日本の昔話である「桃太郎」や、3月3日の「桃の節句」も、この邪気を払う桃の効果に由来しているのです。

さて、このようなモモですが、中国由来ということは分かりましたね。弥生時代後期頃に邪馬台国は当時の中国(魏、晋)へ朝貢を行っていますから、

このような外交の中で「桃」をある種神聖視する文化を取り込んだ結果として、弥生時代後期において「桃の一大ブーム」が起きたと考えるのは問題ないように思えます。

ではこの時期にモモが文化的・儀礼的に重要視される中で、多量に生産・消費されるようになったのであれば、そのような文化が広がったのは邪馬台国だけなのでしょうか?

邪馬台国の地として有力な纏向遺跡以外では多量にモモの種核が出土することはないのでしょうか?

調べてみました……うん、たくさん出てるΣ( ̄ロ ̄|||)

場所は岡山県ですね。現在も桃の栽培が盛んな地域です。その出土量は、県内の合計出土数が約13000点だそうです。県内最古は、津島岡大(つしまおかだい)遺跡で出土したもので縄文時代後期(約3500年前)です。

弥生時代~古墳時代において遺跡で出土するモモの種核の出土点数は、縄文時代より多いとは言え、3~50点くらいが多いようです。その意味では纏向遺跡の約2800点は驚異なわけですが……

岡山県のモモの種核出土数第2位、津島遺跡では2415点!纏向遺跡とそんなに大きく変わらないですよね。




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そして第1位、上東遺跡では9606個!

纏向遺跡の3倍も出てるし(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

先に述べましたように纏向遺跡では土坑内に、儀礼具等と共に見つかりました。一方でこの岡山県の2遺跡でも儀礼具を伴うそうです。ただ出土地点は河道や河口付近の波止場状遺構といった河川の傍で見つかるようで、どうやら「水」に関係する儀礼行為に用いられたようです。


5.おわりに
纏向遺跡が邪馬台国の有力候補地である根拠は、箸墓古墳の存在、巨大建造物群の存在、魏志倭人伝の記述などなどいくつかあります。何もモモの種核だけが根拠なわけではありません。

でも今回紹介した記事では、モモの種核の研究によって邪馬台国論争に終止符が打たれるような書き方でしたね。名古屋大教授が書いた紀要も確認しましたが、研究者はそのようなことは書いていません。ネットの記事がそう誇張して書いたのです。

タイトルと内容が乖離し過ぎるのはどうかなと思います。まぁタイトルが読者を惹き付けますし、気持ちは分かりますが、内容読んだ後に???ってなります( ・Д・)

論文じゃないので他者のこと批判しても大した意味はありません。ただ、私がタイトル付ける時は今後気を付けようと思うのみです( -д-)ノ

今回のモモの種核の研究だけでは論争の決め手にはなりそうにないのですが、仮にその出土数だけで述べると「吉備説」になりますよね。

一方で吉備の9606個はいつのものか分かりません。もちろん弥生時代のものですが、纏向遺跡は「一度の儀礼で使用して、一度に廃棄した」と考えられているのです。もし吉備の9606個が「貝塚のように」長い時間の中で堆積したものであれば、当然解釈も変わってくるのです。

個人的には、もし、一発でこれだ!って永きに渡る論争に終止符を打つものがあるとしたら、「箸墓古墳」の発掘ではないかと思います。宮内庁の管轄なので掘れませんから、まぁ古代日本の浪漫はまだまだ続きそうですね。

そういう意味で、宮内庁書陵部はもしかしたら私たち日本人に悠久に続く浪漫を保持させ続けてくれているのかも知れませんね( ・Д・)……掘りたいけどね!( ・Д・)

↓久々の更新だ~!久々に押してみる?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 6がつ 13にち(すいよーび、雨)

一時期めちゃくちゃ暑くて辛かったのに、

台風やらなんやらでずーっと雨か曇り。

気温が上がらない、てか寒い!

……人間とは我儘な生き物である( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・

【目次】
  1. はじめに
  2. 失われたアークとは何か
  3. どこにあるのか ー日ユ同祖論ー
  4. 剣山にあると仮定した場合の依存状態について
  5. おわりに

1.はじめに
今回の記事はタイトル通り、「失われたアーク」が実在したとしたら、今どんな状態?を考えてみるということです。そのために日ユ同祖論とか紹介しますけど、紹介だけです。専門違い過ぎて検討の余地もありません( -д-)ノ

当記事では「失われたアーク」=「アーク」=「聖櫃」=「契約の箱」=「神の箱」と色々な記述の仕方をしますが全部意味する内容は同じです。

まぁでも日ユ同祖論についてはテレビ番組で何度か取り上げられてて、内容もすごく面白いですよ。私の簡易な紹介文よりは動画見た方が早いかなって本気で思うんで、リンクを貼っておきますね。

どれもけっこう面白いので良かったら見てみてくださいね。常々言ってますが、私、回し者じゃないですからね!( ・Д・)

 
↑やりすぎ都市伝説より(投稿者:Merlyn Fink


↑新説みのもんたの日本ミステリーより(投稿者:igtv4)


↑世界の何だコレ!ミステリーより(投稿者:Thi Le)


2.失われたアークとは何か
さて、結局のところ『失われたアーク』とは何かですが、上に挙げた動画などでは古代ユダヤの「三種の神器」が納められていることになっていますね。日ユ同祖論を提唱する方々にとってはきっとこれが都合がいいのでしょうね。

だって、日本にも「三種の神器」があるから。日本との繋がりをアピールというか一つの根拠として言えますもんね。

でも日本の「三種の神器」って元々『二種』なんですよ。そのような研究発表を見たことがあります。原文資料どっかに行ってしまって手元にないのがつらい( ・Д・)三種に変わった時期と古代ユダヤの民の到着時期が重なると面白いんですけどね。でも確か記憶によれば違う!

古代イスラエル王国の滅亡と離散は西暦115年だし、日本はまだ弥生時代!

まぁ何はともあれ、そもそも、アークの中に古代ユダヤの三種の神器が入っているってのはどこから来たものなのかが分からないですね。

 アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。

 箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。

 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。

 一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。

 わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。

(出エジプト記 25:10-22)
 ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。

 エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、主の箱のみならず臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った。

 祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。

 その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。

 ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。

 箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。

(列王記上歴 8:1-9)
このように旧約聖書や歴史書の記述では、「契約の箱」の中身は「モーセの十戒」を記した「二枚の石板」なのです。どこから中身が三種の神器となったのでしょうか?Σ(・ω・ノ)ノ

この「アーク」に関する最後の記述は紀元前10世紀ですね。紀元前970年以降のソロモン王の統治下において、エルサレムに神殿を造り、「至聖所」と呼ばれる内陣に「聖櫃」を納めていたそうです。旧約聖書によると1年に1回、儀礼行為として祭司たちが外にアークを運び出していました。しかし紀元前900年以降、「契約の箱」に関する記述は消えてしまいます。

日ユ同祖論的に日本に運ばれたとしても時期的になんだかおかしい気がしますけどね。京都の祇園祭と関係していたとしても平安京って794年ですし、やっぱりかなりの開きがあるように思えます。

あとダビデ王に指示されて「ウザが運んだ」ということも番組では言ってますけど、ウザがアークを運ぼうとした先はエルサレムですね。

 「彼らはアビダナブの家から、神の箱を新しい車に載せ、ウザとアフヨがその車を御した。ダビデとすべてのイスラエル人は、神の御前で力を込めて、歌をうたい、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でた。

 一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を抑えようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。

 彼はその場で、神の御前で死んだ。ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。」

(歴代誌上13:7〜11)
てか、ウザ死んでますから!( ・Д・) 運ぶ途中で神様に殺されてます。何故、神様がウザを殺したかというと、

・牛車を使ってはならない。肩に担いで運ばなければならない。

・神の箱はレビ族のケハトの家系に属する者のみが運搬が許される。

・手を触れないように、担ぎ棒を差し入れて運ばなければならない。

(参考:民数記4:6,15)
以上の項目に反していたからなのですが、何もアクシデントで落ちかけた神の箱をかばおうとしたウザを殺さなくてもいいじゃないかと思ってしまいますね( ・Д・)

ということでウザが聖櫃を運んできた先が「太秦(ウズマザ;ウザっぽい名前として番組に登場していた)」ってのもおかしい話かと思います。

ウザが死んだため、ダビデ王も恐れて聖櫃を運ぶのを一旦中止するわけですが、この「箱」やけに周りで人が死ぬのですよ。
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↑同映画のワンシーン、箱を開けると幽霊みたいのが飛んできてみんな目が光って死にます(; ̄Д ̄)(Google検索結果より画像を転載;元サイトは現在(2018.6.13)閉鎖されている)

この「神の箱」は、映画インディ・ジョーンズの中でもナチスによって古代兵器かのように利用されようとします。結果、上の写真のように自爆しますけども。

記述の中でも「神の箱」は様々な効果をもたらしています。

①イスラエルの民がヨルダン川を渡る時も川の水をせき止めながら進みました(ヨシュア記3:11〜17)。

②エリコの町を攻略する時、神の箱が町を7周回って行進すると、エリコの町の強固な城壁がたちまち崩れ落ちました(ヨシュア6:6〜8)。

③「神の箱」はサムエルの時代までシロの町に安置されましたが、異邦人ペリシテ軍との戦いの中で敵の手に渡り、敵の偶像タゴンの神殿に置かれますが、一晩でタゴンの像を切り倒してしまいました。更に異邦人に対して災難を起こし、とうとうイスラエル側に返還することになりました(サムエル記上5章)。

④その返還の途中で、箱の中をのぞいた人が70人死んでしまうという事件がありました(サムエル記上6:19)

インディ・ジョーンズの件も②や④の記述が元になっているようですね。しかしながら、ここまで来ると「呪いの偶像」のレベルじゃないですかね( -д-)ノ

まぁ最終的にダビデ王の後のソロモン王の治世に、エルサレムにて聖櫃は安置されていて、年に一回の儀礼も行われていたので、ダビデ王やウザが運んだどうこういう話に則った「アーク日本にある説」は疑わしいなぁとは思っております。


3.どこにあるのか -日ユ同祖論-
さて、とは言ったものの、日ユ同祖論自体を批判しているわけではありません。シルクロードの時代(ここでは秦や古代ローマの時代;紀元前8世紀~)に様々な人々が大陸を横断したわけですし、ユダヤ系の渡来人がいた可能性を簡単に否定できないとは思います。

ま、というかぶっちゃけ今回の記事の落としどころ的に、日本にないと困るんで!( ・Д・)海外にあった場合、他宗教の民族によって略奪・破壊されている可能性が高いですし、金なんて簡単に溶かされてしまいますからね。日本まで運んできて、山に隠しておく方が安全なのです!

簡単に言うと、古代イスラエル王国の滅亡後、古代ユダヤの民「失われた10支族」のメンバーが日本までやってきたという説ですね。

日本語とヘブライ語の共通点が多いとか、カタカナが似ているとか、神輿がアークと似ているとか、祇園祭りの装飾が中東系だとか、京都の神社のお祭りや儀礼が聖書の記述の儀礼に似ているだとか、まぁ色々な点で面白い話です。

で、なんだかんだ徳島県の剣山にまで古代ユダヤの民がやってきたようで、ここでは毎年7月に神輿を山の上まで運び上げるお祭りが残っているそうです。これがかつて剣山に聖櫃を運んだ儀礼の名残だ!っていう推論ですね。

まぁ真偽はさておき、そういうことにしておきましょう!この記事のオチのために!( -д-)ノ


4.剣山にあると仮定した場合の依存状態について
さて、ここで聖櫃の作り方をおさらいしておきましょう。

 アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。

 箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。

 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。
 
 一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。

(出エジプト記 25:10-22)
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↑失われたアーク型の小物入れ。欲しい(*・ω・)ノが、回し者ではないっ!(「Never Land」より転載)

つまるところ、形態は上の写真のようになります。箱があって、担ぎ棒があって、上に蓋があって、そこには一対のケルビム(智天使)が備え付けられているという構造です。

大きさはと言いますと、アンマという単位が使われています。これはヘブライ語ですね。キュビットと呼んだ方が馴染みがあるかも知れません。古代イスラエルでは神聖キュビットという単位があって、約44cmだったそうです。

つまり箱自体のサイズは110×66×66cmで、けっこう小型ですね。まぁ中身が石板二枚ですからそんなもんでしょう!

注目したいのは基本的に箱は木製なんですよね。アカシアの木を材料として、金で内外が覆われています。メッキでしょうかね?最古のメッキの技術については定説がありませんが、2000年前のパルティア人、1700年前のスキタイ人が最初と言われているようです。

一方で十戒を託されたモーセは、実在したと考えた場合は、ヘブライ人がエジプトにいた紀元前14世紀末~前13世紀の新王国第19王朝の頃と考えられています。するとかなり時間に開きがありますね。

ダビデ王(前1000年 - 前961年頃)、ソロモン王( 紀元前1011年頃 - 紀元前931年頃)の時代にもまだ金メッキ技術はなさそうですし、古代ローマ王国によって古代イスラエル王国が征服された西暦135年の時点でも、本当に金で覆われていたのか謎です。

映画インディ・ジョーンズの「最後の聖戦」で出てくる「聖杯」のように、本当は金ぴかじゃないのかも知れませんねヽ(TдT)ノ

金製品自体を発見するのはさほど問題ないですけど(後世にて溶かされ再加工されなければ)、「メッキ加工の技術」を考古学的に発見するのはけっこう大変なのです。

なので、仮に現在分かっていないだけで、実はもう少しメッキ加工技術の歴史は古かったとしましょう。古代イスラエルを脱出する間際にメッキできた!でもいいかも知れません。その場合、旧約聖書の記述とズレますけど、まぁあらゆる書物は後から書き換えられますからね、どこぞの国の政治問題のように( ・Д・)

さて、ここで話は変わって、日本で「失われたアーク」が眠っているとされる徳島県の剣山は石灰岩質の山だそうです。石灰岩は雨水に弱いですから、溶けちゃうんですよね。そのため山の内部は鍾乳洞っぽくなっていて、あちこちに空洞が張り巡らされているようです。

この剣山の洞窟内部に「契約の箱」を安置したとしましょう。で、番組で言われていたように、入り口が崩れたか何かで場所が分からないとしましょう。

可能性① 石灰岩は脆いので崩れやすい。入口だけなら良いが、神の箱も潰れている可能性がある。押しつぶされて露出した母材である木材は腐敗し、いつこの崩落が起きたかは不明であるがざっと1000年の時の流れの中で木材は残らない。仮に金メッキが施されていた場合、雨水で流され離散し、地下水まで到達している可能性が高い。蓋やケルビムは純金製なので残るが潰れている。

可能性②a 入り口だけが崩落したため、空洞中にまだ「神の箱」が残っている。メッキ加工というのは母材を腐食から守る効果があるが、「大目に見ても」最も初期のメッキ加工技術にて製作されている。この場合、湿気が強く雨水の影響の強い鍾乳洞内で母材が腐敗する可能性は高い。腐敗した場合、可能性①と同様の結果となる。蓋やケルビムは純金製なので残る。

可能性②b 入り口だけが崩落したため、空洞中にまだ「神の箱」が残っている。日本における最古のメッキ加工の痕跡は1871年に仁徳天皇陵で副葬品として発見された甲冑である。仁徳天皇の時代(およそ西暦313-399)以降、剣山に埋納されるであろう西暦700~1000年くらい(?)の間により進んだメッキ加工技術によって、日本に持ち込まれた「神の箱」の金メッキが再施工された場合、もしかしたら箱が残ってるかも知れない。蓋やケルビムは純金製なので残る。

可能性③ そもそもメッキじゃなくて、金細工で覆われていた場合、潰れようが潰れまいが金製のパーツは残っている。しかし母材は腐敗しているため、原型を留めてはいない。埋納空間が保たれているならば、箱や担ぎ棒を覆う金製のパーツは完全に残っている。特に蓋の部分や装飾のケルビムは純金製なので残っているだろうし残っていたらその価値は計り知れない。


……どの状況でも、中身の石板はけっこう危うい感じがしますね。石板が何の石材で作られているのか分かりませんしね。まぁ可能性③のような場合は良いとして、それ以外の場合は、全てが残存する可能性は低いですから、「ケルビムといった分かり易い部位」+「石板(の破片)」くらいのセット関係で発見されると物的証拠としては十分でしょう。

ちなみに、十戒を託されたモーセは、自分の帰りを待てず偶像崇拝に走った人々を見て、怒り狂い、授かった石板を叩き割ります。

このあと、モーセは再び十戒の石板を託されて、「契約の箱」に納めるわけですが……

やぱ、なんでウザ殺した!?モーセは?モーセはいいの?

確かにモーセは神の約束を破ってはいない。が、託された石板を直後に激情に任せて叩き割ったんだよ?体張って「契約の箱」守ろうとしたウザは打ち殺したのに!

これが世の不条理というものだよ( ・Д・) ……まぁ(数千年前に)終わったことを嘆いても仕方ない。きっとウザは死ぬほどウザかったのでしょう( -д-)ノ


5.おわりに
番組見てると、剣山でミイラが100体も見つかったとかも述べているけども、そんなに大量のミイラを作る風習は古代日本にも古代イスラエルにもないのではないのかなと思います。そして剣山の中って鍾乳洞なんだから、湿気強くてミイラ持ち込んでも腐敗すると思うんだけどな~なんて思ったり( ・Д・)

まぁ今回は、「適度に」現実的に考えつつも、「しっかり夢は残しておく」というスタンスでまとめましたが、いかがでしたでしょうか。このテーマの真偽はどうあれ、こういった浪漫溢れるテーマに私達は古くから魅了されてきました。

正直、私としては「契約の箱」が発見される場所が日本でなくても構いません。聖杯にせよ、今回の「聖櫃」にせよ、21世紀最大の発見!なんて言われるような発見を一考古学・歴史学ファンとして期待しております( -д-)ノ

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実は今回の記事はTwitterフォロワーさんからのコメントから派生したものになります。なかなかコメントなんて頂かないので(怪しげなDMばかり( -д-)ノ)、テンション上がりました!.。゚+.(・∀・)゚+.゚

考古学・歴史に限定して、皆さんに喜んでもらえる記事を探し続けるのはけっこう大変なものでして、こうして実際のコメントを通して記事のアイディアに繋がったことはすごい良いことだなぁと感じております。

今後とも頑張りますのでよろしくお願いいたします。「歩け、マヤ」の更新頻度は皆さんの応援にかかっています!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

最後に、今回の記事のきっかけを与えて頂いた「愛香さん」に末筆ながら感謝申し上げる次第です(*_ _)ペコリ

↓ここを押すと貴方の中に眠る古代ユダヤの血が蘇ります…↓
↓…顔が少しソース系になるかも。なるなら、私は猛烈連打!!!( ・Д・)↓

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2018ねん 6がつ 9にち(どよーび、曇り)

ひとつ仕事が片付いた。

今晩中にもうひとつを片付けたい。

ストレス過多だととりあえずたくさん食べる

せっかくのダイエット効果があっという間に失われていく( ・Д・)

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今回紹介するのは、セルビアでの発見です。セルビアはヨーロッパの南西部、バルカン半島の内陸側に位置する国です。旧ユーゴスラビアの中心地ですね。

さて、このセルビアに所在する古代ローマの都市であるヴィミナキウム遺跡で、上に挙げた写真のような大きなひとつの石棺が発見されました。

見ての通り上部の蓋は半壊していますが、他の部分はおおよそ無傷の状態で発見されました。この石棺の内部には金銀のアクセサリーを身に着けた2体の遺体が納められていたそうです。


2つの人骨の内、ひとつは骨格がしっかりとした背の高い中年の男性で、もう一方はスリムな若い女性だそうです。

石棺の中に副葬された品は豪勢なものでした。男性には繊細なガラスの香水ボトルが3本、黄金製のベルトバックル、そして靴(一部が残存)が捧げられていました。他方で女性にはゴールドのイヤリングとネックレス、シルバーの鏡、そしていくつかの高価なヘアピンが捧げられていました。

この重要な副葬品から、この二人が非常に高い社会階級に属していたと推測されています。

上の写真が石棺内に納められていた貴重な副葬品になります。記事を書いた人が撮影したのでしょうか。明らかに背景をぼかしたりして、考古学的な写真じゃないところが面白い……いや、ちゃんと撮れよ!( ・Д・) しかも色々と出土してるはずなのに、これだけだとあまり豪勢な感じとか高い社会階層な感じがしないじゃない!( ・Д・)( ・Д・)( ・Д・)


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さて、ベオグラードから東へ約70kmのところにあるコスタラクの町の近くに、今回の発見の舞台であるヴィミナキウム遺跡があります。この遺跡での居住は西暦1年頃にまでさかのぼることができるようです。それは古代ローマの軍事拠点の役割を果たしており、遺跡内には要塞、宮殿、集会所、寺院、円形劇場、水道、浴場と作業場が確認されています。

歴史家によると、人口は約4万人であった可能性があるそうです。この巨大な都市遺跡の内、現時点では約4%のみが調査されているそうです。

ちなみに現在のロンドン、ミラノ、ブダペスト、ベオグラードといった近現代都市に埋もれていない古代ローマ人の居留地は稀であるそうで、このヴィミナキウム遺跡は重要な遺跡なのです!

最初期の考古学調査は1882年に開始され、これまでの発掘によって、古代ローマの魔法のシンボル、翡翠と大理石の彫刻、陶器、モザイク、フレスコ画が刻まれた黄金のタイルや、14,000の墓を含む数万点の遺物が発見されているそうです。

まぁ所謂「いい所」から調査が行われるのが世の常ですが、残り96%もあるのであれば、今後の調査でもっともっと色々なものが見つかり、様々なことが分かりそうですね!

最後に、このヴィミナキウムという都市は、5世紀のフン族によって一度荒廃し、後にユスティヌス帝によって再建されました。そして6世紀のスラブによって再度破壊されました。以来、何世紀にもわたって、石棺は、略奪者、耕作、近くの炭鉱の機械による破壊を生き延びた結果として、現在私たちの前に姿を現したのです。

……そう考えると少し感慨深く感じませんか?


【おまけ】
考古学調査において使用する道具のひとつに「エンピ」があります。まぁ簡単に言うと「スコップ」です。上の写真の手前の男性が手に持ってるソレです。

「エンピ投げ」とは効率的(?)に調査を進める上で、遠くに土をぶん投げるのです。正直言って疲れるので全然効率的ではありません……が、考古学者には必携のスキルと(一部の考古学者には)言われております。

ただ土をぶん投げると、土をばら撒いてしまうのでダメです。エンピに載った土を、そのままエンピの形を保った状態で目的地点まで飛ばす必要があります。

「どうだ?すごいだろ?」と声を大きくする教授やら先輩やらは少なくないはずですが、こうして写真に撮るとその技術がよく分かりますね。

セルビア人、上手に飛ばしておる!そして受け手がネコ(一輪車)をやや斜めにして受け止めようとしてるところがニクイですね.。゚+.(・∀・)゚+.゚

こんな写真を撮って掲載してしまうあたり、やっぱり撮影者は考古学者じゃないのか、あるいはよっぽど遊び心のある人だと思います。記事は記事として割り切っているのかも知れません。

日本では最近、やたらに批判して、炎上して、謝罪して、取り下げる的な風潮が目立ちますけど、遊び心って大事じゃないのでしょうかね。万人に批判されない作品なんて、もしあり得るならば、きっと陳腐なものでしょうね。

私は遊び心を大事にします、例え炎上しても取り下げたりしない!(きっと)まぁ批判が適切ならば謝罪はしますけどね( -д-)ノ

↓ここを押すとどんな炎も鎮火するそうです(。・ω・)ノ゙↓
↓って隣のちっちゃなおじさんが言ってました!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 6がつ 7にち(もくよーび、曇り)

なんだか蒸し暑い。

これからもっと夏っぽくなるのだね。

今年の夏は暑そうだ(。・ω・)ノ゙

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今回紹介するのは「失われたアーク」の発見!……じゃないんですね。すみません、見間違えました。上の画像にある記事の見出しを見て、私は「ロスト・アーク」と思ったんですよ。

でも写真の様子がおかしいし、見出し下部の要約文には古代ローマの話が書いてあるし、、、「ん?」なんか違う……はい、「アーチ」でした( -д-)ノ

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上のこれ!インディ・ジョーンズの映画に出てくるアレ!最近、YouTubeで「日ユ同祖論」とか見てたから、過敏に反応したのかも知れません!(笑)

ということで、今回紹介するのは「古代ローマの道」の出発点が見つかったというニュースです。場所はスペインのアンダルシアで、ローマに通ずる主要道路の出発点であるアーチ状構造物、まぁつまり「門」を発見したそうです。

ご存知の通り、スペインはヨーロッパの西端にありますから、この古代ローマの道路はなんと1500kmにも及ぶそうです。長い道を作ったものです(。・ω・)ノ゙

さて、今回発見された、古代ローマ道のスタート地点(ローマ方向に向かって)である門はヤヌス・アウグストゥス・アーチという名称を与えられています。

高さ約7メートル、幅15メートルという堂々たる構造を有しており、アウグストゥス皇帝時代に建造されたものだそうです。材料は地元の砂岩から建設されており、ローマのコンクリートで固められているとのことです。

アンダルシアで見つかったこの古代ローマの主要道がこの地点で途切れていることは、ある種の国境観があったことを示しているようです。そのためこの壮大な門というモニュメントが、「国境」に印を付けて地域に影響力を及ぼす、象徴的な意味合いを有しています。 この「国境」を越えるために人々がこの場で特定の儀式を行った痕跡が見られるそうです。

現在のように、陸地続きの国境で巨大な壁を目印としているわけではありませんから、象徴的なゾーンの変化を表現する意味合いがあったようですね。

またこの門には碑文が刻まれており、周辺に寺院があることを示しているようです。象徴的に国境を守る、古代ローマの領域を守る、あるいは「神聖なフロンティア」に対する敬意を示すための寺院のようです。

今回の発見は、スペイン、アンダルシア地方におけるここ数十年の間に最も重要な発見の1つとされており、古代ローマ時代に関する古代地理学の問題を解決する上で特に重要な発見と評されているそうです。

写真だけだと高さ7m、幅15mの壮大な建造物には思えませんね。発掘途中の写真なのでしょうかね。そしてこのアーチはアウグストゥス帝の時代のものですから、今から2000年前の建造物になります。

スペインはやっぱりめちゃくちゃ暑い地域ですからね、微生物の活動が活発過ぎて土壌が発達しないのでしょうか。遺構の検出レベルがめちゃくちゃ低い!写真は斜めから撮っているので分かりにくいですがパッと見て、現地表面から20~40cm程度の深さですよね(スケールとして置かれているポールは1mで、赤白部が各10cmだと思います)。

古代地理学というのは文献上では記載はあっても考古学的には色々問題を抱えているそうです。発掘調査にあたった研究者らも、このような「古代の道の痕跡」は気を付けなければトラクター等で簡単に破壊されてしまうと警鐘を鳴らしています。

遺構の検出深度がこれだけ浅ければ、現代の農業や建設工事で重機を使えば一撃でしょうからね。人類の文化遺産の保護が課題となりますね。……まぁアンダルシア地方で有名なイベリコ豚の可愛いお鼻でグリグリされる程度なら平気でしょうが゚+。:.゚ヽ(*'(OO)')ノ゚.:。+゚ぶひぃ~♡

↓鼻でもいいからぐりぐり押しなさいよ!+。:.゚ヽ(*'(OO)')ノ゚.:。+゚ぶひぃ~♡↓

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2018ねん 6がつ 6にち(すいよーび、曇り)

暑いから麺類ばかり食べておる。

痩せはするが、

筋肉が落ちそうだ。

たんぱく質も摂らにゃ( ・Д・)

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ぼん じょるの!(。・ω・)ノ゙今回紹介するのはイタリアで出土した古代の甕のお話。上の写真の甕がそれです。記載によると大きさは3.5フィート、およそ1mですね。デカい!なのに、使われてるスケールが小さ過ぎるんですけど!これじゃ拡大してもよく見えないよ( -д-)ノ

口縁部付近に把手が三つ付いてます。このサイズだと片手で扱うものじゃないので、把手はビールジョッキみたいな縦方向じゃなくて横方向に付いてますね。

文様は粘土紐の貼り付けのようですが、モチーフはロープでしょうかね。もしかしたら従来は木製容器とかでオリーブオイルが作られていて、運ぶ用にロープで縛ってあったのかも知れません。文様モチーフが左右対称ではないですし、紐状のモチーフが把手近くまで延びてるので、まぁたぶん痕跡器官かな~と思います。

この文様の解釈については私見ですので、間違ってたらごめんなさい。合っててかつ誰も言ってなかったら、この記事引用文献ってことでよろしく!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

この土器は1990年代にシチリア島南東のカステルッチオ遺跡で出土したそうですが、400片程度に破砕された状態だったそうです。それがここまで接合されたようですね。ほぼ完形ですからね、接合のし甲斐がありますね!(・◇・)ゞ

底部破片の内面に残滓があったようで、それをス・クロマトグラフ分析、質量分析と核磁気共鳴分析を使って調べた結果、リノール酸とオレイン酸が検出されたそうです。この成分がオリーブオイルに特徴的なものだそうです。


これまでの研究ではイタリアにおける最古のオリーブオイルの存在は3300年前だったようで、700年遡る結果となったとのことです。約4000年前のイタリアは青銅器時代初期に相当します。


さっきの私の見解が正しければ、腐敗してしまう有機物質製の容器を用いたオリーブオイルの精製が行われていた可能性が高いですし、より古い歴史を持っていることになりそうですね。

ちなみに世界最古のオリーブオイルはイスラエルで見つかっていて8000年前だそうです。「料理の歴史」も面白そうですね!

↓オリーブオイルを摂取したことがある人は左を、ない人は右を押しましょうΣ(・ω・ノ)ノ↓

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