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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

2018年06月

2018ねん 6がつ 24にち(にちよーび、くもり)

寝れるということは幸せである。

質の高い睡眠だなんて贅沢は言わない。

私は少しでも多く眠りたい!( ・Д・)

身近で見つけた幸せの白いおふとぅん(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

・・・・・・・・・

今回はイースター島のモアイのお話です。モアイってなんだか可愛いんですよね、私は好きです、モアイ!カワ(・∀・)イイ!!

さて、イースター島は南米のチリに属する島で、太平洋に所在します(下の地図を参照)。島の面積は 163.6km2で、日本の主要四島の中で最も小さい四国のざっと100分の1の大きさです(四国は18,800km2)。

人口は6600人、言語はスペイン語、ラパ・ヌイ語です。モアイを立てていた頃にはロンゴロンゴという絵文字を使用しており、フランスによる奴隷貿易によってタヒチ語の影響を強く受けた現在のラパ・ヌイ語から当時のロンゴロンゴの解読は困難とされています。
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↑日本に売却の打診もあったとか。しかしアメリカ、イギリスにも打診したと知り、政府は静観したのだと。日本の体質も変わらんね~、買っておけば今頃……( ・Д・)(Wikiより転載)


イースター島に最初に人が到達したのは西暦1200年頃と考えられています。この最初の移民は、遥か昔に中国大陸からの漢民族の祖先集団の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派、いわゆるポリネシア人と考えられています。

西暦7~8世紀頃に、アフ(プラットホーム状に作られた石の祭壇)作りが始まり、10世紀までにモアイの製作が開始されたそうです。このモアイ作りの伝統は17世紀まで続き、18世紀以降は破壊されていったそうです。

一言にモアイといっても種類があります。大きく4期に分けられ、時期ごとに造られるモアイが変化していったのです。

第1期:人の姿に近いもので下半身も作られている。
第2期:下半身がなく、細長い手をお腹の辺りで組んでいる。
第3期:頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。
第4期:全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口といったいわゆる一般的にモアイといって想像する形態である。

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↑モアイの形態の変遷(「歩け、マヤ」管理人(TheDANGOsan)作成;遊び心含む( ・Д・))

今回のお話はこの第3期のモアイが対象となります(上図の「第3形態」)。頭に帽子状の構造物を被っているモアイですね。先に述べましたようにプカオと呼ばれるもので、「髪や髪飾り」を意味するそうです。

今回の新説は、このプカオをどうやってモアイの上に載せたのか?です。モアイと一緒に切り出されて成形した後にプカオだけ着色しているわけではありません。

モアイの本体は凝灰岩が石材であり、プカオは赤色凝灰岩が石材です。別々に作って、モアイ本体にプカオを載せているのです。なので倒れたモアイ(第3形態)の傍にプカオも別に転がっている風景が見られます。

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↑モアイに帽子を被せる方法(Hixon et al. 2018より転載)

これまでの研究では、プカオは像がまっすぐに引き起こされる前に頭上に接着していたとする説が有力でした。しかし上の写真のようなプカオの底面から接着や擦り傷の痕跡が見つからなかったのです。

今回の成果を発表したシーン・ヒクソン(ペンシルヴァニア州立大学)は、当時の人々が植物の繊維からできたロープと長い傾斜路、そして掛け縄という手法を使っただろうと説明しています。

モアイが立つ土台で見つかった赤い岩滓の破片から、人々は傾斜路の上へとプカオを運んだ後に、最終的な手直しを施し、適切な位置に置いたと推測しています。

ヒクソンらが分析した50個のプカオはいずれも底面に擦り傷は確認できなかったため、引きずったわけではないと考えられます。つまり上図のようにプカオは石像の頭上へと傾けられていたのです。

プカオ設置後にモアイをまず垂直に立てて安定させ、その後に傾斜路は分解されたのだろうと推測されています。これが新説によるモアイの作り方なのです。

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おわりとしまして、モアイは石材の切り出し山から、安置場所まで自分で歩いて行ったという伝説があって、それを根拠にモアイの移動方法を考えたのが上の写真になります。

このような「モアイのお散歩」はみんなでワイワイと実験できて楽しそうですよね。今回の帽子の載せ方の研究は、最先端の3Dモデリング、遺物の分析、そして物理学から描写されたモデルとを組み合わせて行っているそうですが、これもぜひ実際にやってみてもらいたいものです。

この実験に携わる人々はきっと学生だけではないでしょう。昔はこういう研究ってどれだけの意味があるのかなと思っていた時期もありましたが、今は研究自体がある種のイベント的に多くの人々の関心を集め、また観光等の文化遺産活用にダイレクトに結び付くあたりが面白いなぁと思うようになりました( -д-)ノ

……ところで、エジプトのピラミッド建造にも傾斜路が作られていた説がありましたが(今はもっと効率的な方法が提案されていたはず、くるくる螺旋状に回って登っていくやつ!)、エジプトは砂でいっぱいじゃないですか?

でも転がったプカオの写真とか見てみると、乾燥土壌だなぁって思います。土集めるの大変そう。あの傾斜路ってけっこうでかいし、作るの大変そう。

モアイ設置予定の近くの土を採掘して、利用後に埋め戻してるんですかね?それならそういう人為的な掘削痕見つけれるのかな~て思ったり。

エジプトの砂はさらさら過ぎて無理だろうけど、上のモアイのお散歩写真に見られるくらいの土壌なら掘削・埋め戻し痕が残る可能性もあるのでしょうかね?

……死ぬまでに一度行ってみたいな、イースター島!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓モアイが好きなら、押しましょうヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2018ねん 6がつ 21にち(もくよーび、時に激しい雨)

6月は毎日書くよ!って言いながら、

初旬は忙殺されてサボり気味……

ちゃんと更新頻度まともにしますね( -д-)ノ

ロクに更新もしてないのに来訪者も多く、本当に感謝しておる!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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【目次】
  1. はじめに
  2. 今回の研究成果
  3. 邪馬台国論争とは
  4. 論争が終結し得るのか?
  5. おわりに

1.はじめに
今回紹介するのは名古屋大学の研究成果です。ニュース元はYahoo!Japanニュースの記事です。そこでタイトルが「モモの種で『邪馬台国論争』終止符か?」となっている件が気になって記事にしてみました。

邪馬台国論争と言えば、その所在の問題として、大きくは2説あります。「畿内説」と「九州説」です。後ほど取り上げますが「吉備説」もありますよ。

今回紹介する記事の元である纒向学研究センターの研究紀要では「畿内説」を支持する方向で書かれていまして、Yahoo!Japanニュースの元記事でも「畿内説」支持で書かれている模様です。

私は古典期マヤ(後3世紀~9世紀頃)とほぼ同時期の弥生時代後期~古墳時代(後1~7世紀頃)に関心がありますが、「邪馬台国論争」については素人ですし、諸説ある中でニュートラルな立場におります( -д-)ノ


2.今回の研究成果
今回の記事に関連する遺跡は、奈良県桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡です。この遺跡で2009年に大量のモモの種が出土したそうです。その数、2765個!

3世紀前半の居館の跡と思われる柱穴が発見され、それは東西に一直線に並ぶ4棟の巨大な建物だと分かりました。その中でも最大の規模である「D棟」は3世紀前半では最大の建物跡(東西約 12.4m、南北約 19.2m)とされており、卑弥呼の宮殿とみる研究者もいるとのこと。

この建物(D棟)の5m南側から平面形態が楕円形の土坑(東西約 2.2m、南北約 4.3m、深さ 80cm)が検出され、その中から約2800個のモモの種核(直径約 2.5cm)が出土したのです。

竹笊(たけざる)6点(直径 30~60cm)や木製の剣、故意に割られた土器片、漆塗りの弓、獣骨なども出土し、いずれも祭祀に関連するものという解釈です。

中村俊夫(名古屋大)がこの約2800個のモモの種核の内、ランダムに抽出した15点を放射性炭素年代測定法にかけて時期を算出しました。測定できなかった3点を除き、全て西暦135~230年のもの判明しました。また山形大が行った測定でも同様の結果が出たそうです。

つまりモモの種核の年代である西暦135~230年は、女王・卑弥呼(248年ごろ没)の年代と重なり、邪馬台国畿内説を補強する成果であるという研究なのです。

纏向遺跡は巨大な集落跡であり、箸墓古墳(一部で卑弥呼の墓と言われている)を含む6基の古墳が分布しています。これまで(特に畿内説否定派の根拠として)後4世紀頃の遺跡と言われていましたが、今回の研究成果から、遅くとも3世紀半ばまでには既に非常に大規模な集落であった可能性を指摘できるとのことです。


3.邪馬台国論争とは
さて、邪馬台国論争とは何かですが、簡単に紹介します。

邪馬台国(やまたいこく)は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。

古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した、ことから(やまたいこく)の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。

(Wikiより引用;筆者により一部変更)
教科書にも出てくるアレですね。中国の『三国志』の一部である「魏志倭人伝」にて記載されていて、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都として、邪馬台国に居住していたそうです。

この邪馬台国論争自体はいくつか種類がありますが、一番の焦点はやはり『どこにあったのか?』です。

先にも述べましたように、「畿内説」、「九州説」、「吉備説」、「四国説」、「東遷説」があります。「東遷説」は九州で最初に王朝が成立し、後に畿内に遷都したとする説です。


4.論争が終結し得るのか?
さて、問題のモモの種ですが、本当に邪馬台国論争が終結し得るような決定打になるのでしょうか?

ちなみにモモの原産地は中国です。紀元前7500年の裴李崗(はいりこう)文化においてモモの種核が出土しています。日本では、縄文時代前期(紀元前4000年)の伊木力(いきりき)遺跡(長崎県)で出土したモモの種核が最古になります。

そうです。縄文時代にはすでにモモがあったんですよ。
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↑縄文時代のモモの分布(「岡山大学、埋蔵文化財調査研究センター報No.55」より転載)

しかもかなり広く分布しておるΣ(・ω・ノ)ノ

まぁ確かにこれだけ見ると、弥生時代以前に、縄文時代にはすでに全国分布してるじゃないかーってなりますけども、出土数は非常に少ないのです。各遺跡で僅か1~2点程度のようですね。
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↑モモの大きさの比較(「岡山大学、埋蔵文化財調査研究センター報No.55」より転載)

Wikiによると、「モモは弥生時代後期に大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化」するとあるのですが(2018.6.21現在)、この岡山大の提示するデータからすると間違いですね。

モモの種核のサイズ自体は変化ないのです。変化があるのは出土数!今回紹介した纏向遺跡のように約2800点も出るのですからね。

モモは産地として中国由来なだけではなく、その文化的思想も中国由来なのです。つまり仙果として食す者に仙力を与え、また邪気を祓い、不老不死の効果(ギリシア神話の黄金のリンゴみたいな感じ)も有していると考えられており、実際に薬に調合していたようです。

日本でも古来より、モモは邪気を払う力があると考えられてきました。『古事記』では、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が「桃」を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたことが記載されています。

日本の昔話である「桃太郎」や、3月3日の「桃の節句」も、この邪気を払う桃の効果に由来しているのです。

さて、このようなモモですが、中国由来ということは分かりましたね。弥生時代後期頃に邪馬台国は当時の中国(魏、晋)へ朝貢を行っていますから、

このような外交の中で「桃」をある種神聖視する文化を取り込んだ結果として、弥生時代後期において「桃の一大ブーム」が起きたと考えるのは問題ないように思えます。

ではこの時期にモモが文化的・儀礼的に重要視される中で、多量に生産・消費されるようになったのであれば、そのような文化が広がったのは邪馬台国だけなのでしょうか?

邪馬台国の地として有力な纏向遺跡以外では多量にモモの種核が出土することはないのでしょうか?

調べてみました……うん、たくさん出てるΣ( ̄ロ ̄|||)

場所は岡山県ですね。現在も桃の栽培が盛んな地域です。その出土量は、県内の合計出土数が約13000点だそうです。県内最古は、津島岡大(つしまおかだい)遺跡で出土したもので縄文時代後期(約3500年前)です。

弥生時代~古墳時代において遺跡で出土するモモの種核の出土点数は、縄文時代より多いとは言え、3~50点くらいが多いようです。その意味では纏向遺跡の約2800点は驚異なわけですが……

岡山県のモモの種核出土数第2位、津島遺跡では2415点!纏向遺跡とそんなに大きく変わらないですよね。




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そして第1位、上東遺跡では9606個!

纏向遺跡の3倍も出てるし(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

先に述べましたように纏向遺跡では土坑内に、儀礼具等と共に見つかりました。一方でこの岡山県の2遺跡でも儀礼具を伴うそうです。ただ出土地点は河道や河口付近の波止場状遺構といった河川の傍で見つかるようで、どうやら「水」に関係する儀礼行為に用いられたようです。


5.おわりに
纏向遺跡が邪馬台国の有力候補地である根拠は、箸墓古墳の存在、巨大建造物群の存在、魏志倭人伝の記述などなどいくつかあります。何もモモの種核だけが根拠なわけではありません。

でも今回紹介した記事では、モモの種核の研究によって邪馬台国論争に終止符が打たれるような書き方でしたね。名古屋大教授が書いた紀要も確認しましたが、研究者はそのようなことは書いていません。ネットの記事がそう誇張して書いたのです。

タイトルと内容が乖離し過ぎるのはどうかなと思います。まぁタイトルが読者を惹き付けますし、気持ちは分かりますが、内容読んだ後に???ってなります( ・Д・)

論文じゃないので他者のこと批判しても大した意味はありません。ただ、私がタイトル付ける時は今後気を付けようと思うのみです( -д-)ノ

今回のモモの種核の研究だけでは論争の決め手にはなりそうにないのですが、仮にその出土数だけで述べると「吉備説」になりますよね。

一方で吉備の9606個はいつのものか分かりません。もちろん弥生時代のものですが、纏向遺跡は「一度の儀礼で使用して、一度に廃棄した」と考えられているのです。もし吉備の9606個が「貝塚のように」長い時間の中で堆積したものであれば、当然解釈も変わってくるのです。

個人的には、もし、一発でこれだ!って永きに渡る論争に終止符を打つものがあるとしたら、「箸墓古墳」の発掘ではないかと思います。宮内庁の管轄なので掘れませんから、まぁ古代日本の浪漫はまだまだ続きそうですね。

そういう意味で、宮内庁書陵部はもしかしたら私たち日本人に悠久に続く浪漫を保持させ続けてくれているのかも知れませんね( ・Д・)……掘りたいけどね!( ・Д・)

↓久々の更新だ~!久々に押してみる?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 6がつ 13にち(すいよーび、雨)

一時期めちゃくちゃ暑くて辛かったのに、

台風やらなんやらでずーっと雨か曇り。

気温が上がらない、てか寒い!

……人間とは我儘な生き物である( ・Д・)

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【目次】
  1. はじめに
  2. 失われたアークとは何か
  3. どこにあるのか ー日ユ同祖論ー
  4. 剣山にあると仮定した場合の依存状態について
  5. おわりに

1.はじめに
今回の記事はタイトル通り、「失われたアーク」が実在したとしたら、今どんな状態?を考えてみるということです。そのために日ユ同祖論とか紹介しますけど、紹介だけです。専門違い過ぎて検討の余地もありません( -д-)ノ

当記事では「失われたアーク」=「アーク」=「聖櫃」=「契約の箱」=「神の箱」と色々な記述の仕方をしますが全部意味する内容は同じです。

まぁでも日ユ同祖論についてはテレビ番組で何度か取り上げられてて、内容もすごく面白いですよ。私の簡易な紹介文よりは動画見た方が早いかなって本気で思うんで、リンクを貼っておきますね。

どれもけっこう面白いので良かったら見てみてくださいね。常々言ってますが、私、回し者じゃないですからね!( ・Д・)

 
↑やりすぎ都市伝説より(投稿者:Merlyn Fink


↑新説みのもんたの日本ミステリーより(投稿者:igtv4)


↑世界の何だコレ!ミステリーより(投稿者:Thi Le)


2.失われたアークとは何か
さて、結局のところ『失われたアーク』とは何かですが、上に挙げた動画などでは古代ユダヤの「三種の神器」が納められていることになっていますね。日ユ同祖論を提唱する方々にとってはきっとこれが都合がいいのでしょうね。

だって、日本にも「三種の神器」があるから。日本との繋がりをアピールというか一つの根拠として言えますもんね。

でも日本の「三種の神器」って元々『二種』なんですよ。そのような研究発表を見たことがあります。原文資料どっかに行ってしまって手元にないのがつらい( ・Д・)三種に変わった時期と古代ユダヤの民の到着時期が重なると面白いんですけどね。でも確か記憶によれば違う!

古代イスラエル王国の滅亡と離散は西暦115年だし、日本はまだ弥生時代!

まぁ何はともあれ、そもそも、アークの中に古代ユダヤの三種の神器が入っているってのはどこから来たものなのかが分からないですね。

 アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。

 箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。

 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。

 一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。

 わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。

(出エジプト記 25:10-22)
 ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。

 エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、主の箱のみならず臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った。

 祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。

 その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。

 ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。

 箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。

(列王記上歴 8:1-9)
このように旧約聖書や歴史書の記述では、「契約の箱」の中身は「モーセの十戒」を記した「二枚の石板」なのです。どこから中身が三種の神器となったのでしょうか?Σ(・ω・ノ)ノ

この「アーク」に関する最後の記述は紀元前10世紀ですね。紀元前970年以降のソロモン王の統治下において、エルサレムに神殿を造り、「至聖所」と呼ばれる内陣に「聖櫃」を納めていたそうです。旧約聖書によると1年に1回、儀礼行為として祭司たちが外にアークを運び出していました。しかし紀元前900年以降、「契約の箱」に関する記述は消えてしまいます。

日ユ同祖論的に日本に運ばれたとしても時期的になんだかおかしい気がしますけどね。京都の祇園祭と関係していたとしても平安京って794年ですし、やっぱりかなりの開きがあるように思えます。

あとダビデ王に指示されて「ウザが運んだ」ということも番組では言ってますけど、ウザがアークを運ぼうとした先はエルサレムですね。

 「彼らはアビダナブの家から、神の箱を新しい車に載せ、ウザとアフヨがその車を御した。ダビデとすべてのイスラエル人は、神の御前で力を込めて、歌をうたい、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でた。

 一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を抑えようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。

 彼はその場で、神の御前で死んだ。ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。」

(歴代誌上13:7〜11)
てか、ウザ死んでますから!( ・Д・) 運ぶ途中で神様に殺されてます。何故、神様がウザを殺したかというと、

・牛車を使ってはならない。肩に担いで運ばなければならない。

・神の箱はレビ族のケハトの家系に属する者のみが運搬が許される。

・手を触れないように、担ぎ棒を差し入れて運ばなければならない。

(参考:民数記4:6,15)
以上の項目に反していたからなのですが、何もアクシデントで落ちかけた神の箱をかばおうとしたウザを殺さなくてもいいじゃないかと思ってしまいますね( ・Д・)

ということでウザが聖櫃を運んできた先が「太秦(ウズマザ;ウザっぽい名前として番組に登場していた)」ってのもおかしい話かと思います。

ウザが死んだため、ダビデ王も恐れて聖櫃を運ぶのを一旦中止するわけですが、この「箱」やけに周りで人が死ぬのですよ。
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↑同映画のワンシーン、箱を開けると幽霊みたいのが飛んできてみんな目が光って死にます(; ̄Д ̄)(Google検索結果より画像を転載;元サイトは現在(2018.6.13)閉鎖されている)

この「神の箱」は、映画インディ・ジョーンズの中でもナチスによって古代兵器かのように利用されようとします。結果、上の写真のように自爆しますけども。

記述の中でも「神の箱」は様々な効果をもたらしています。

①イスラエルの民がヨルダン川を渡る時も川の水をせき止めながら進みました(ヨシュア記3:11〜17)。

②エリコの町を攻略する時、神の箱が町を7周回って行進すると、エリコの町の強固な城壁がたちまち崩れ落ちました(ヨシュア6:6〜8)。

③「神の箱」はサムエルの時代までシロの町に安置されましたが、異邦人ペリシテ軍との戦いの中で敵の手に渡り、敵の偶像タゴンの神殿に置かれますが、一晩でタゴンの像を切り倒してしまいました。更に異邦人に対して災難を起こし、とうとうイスラエル側に返還することになりました(サムエル記上5章)。

④その返還の途中で、箱の中をのぞいた人が70人死んでしまうという事件がありました(サムエル記上6:19)

インディ・ジョーンズの件も②や④の記述が元になっているようですね。しかしながら、ここまで来ると「呪いの偶像」のレベルじゃないですかね( -д-)ノ

まぁ最終的にダビデ王の後のソロモン王の治世に、エルサレムにて聖櫃は安置されていて、年に一回の儀礼も行われていたので、ダビデ王やウザが運んだどうこういう話に則った「アーク日本にある説」は疑わしいなぁとは思っております。


3.どこにあるのか -日ユ同祖論-
さて、とは言ったものの、日ユ同祖論自体を批判しているわけではありません。シルクロードの時代(ここでは秦や古代ローマの時代;紀元前8世紀~)に様々な人々が大陸を横断したわけですし、ユダヤ系の渡来人がいた可能性を簡単に否定できないとは思います。

ま、というかぶっちゃけ今回の記事の落としどころ的に、日本にないと困るんで!( ・Д・)海外にあった場合、他宗教の民族によって略奪・破壊されている可能性が高いですし、金なんて簡単に溶かされてしまいますからね。日本まで運んできて、山に隠しておく方が安全なのです!

簡単に言うと、古代イスラエル王国の滅亡後、古代ユダヤの民「失われた10支族」のメンバーが日本までやってきたという説ですね。

日本語とヘブライ語の共通点が多いとか、カタカナが似ているとか、神輿がアークと似ているとか、祇園祭りの装飾が中東系だとか、京都の神社のお祭りや儀礼が聖書の記述の儀礼に似ているだとか、まぁ色々な点で面白い話です。

で、なんだかんだ徳島県の剣山にまで古代ユダヤの民がやってきたようで、ここでは毎年7月に神輿を山の上まで運び上げるお祭りが残っているそうです。これがかつて剣山に聖櫃を運んだ儀礼の名残だ!っていう推論ですね。

まぁ真偽はさておき、そういうことにしておきましょう!この記事のオチのために!( -д-)ノ


4.剣山にあると仮定した場合の依存状態について
さて、ここで聖櫃の作り方をおさらいしておきましょう。

 アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。

 箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。

 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。
 
 一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。

(出エジプト記 25:10-22)
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↑失われたアーク型の小物入れ。欲しい(*・ω・)ノが、回し者ではないっ!(「Never Land」より転載)

つまるところ、形態は上の写真のようになります。箱があって、担ぎ棒があって、上に蓋があって、そこには一対のケルビム(智天使)が備え付けられているという構造です。

大きさはと言いますと、アンマという単位が使われています。これはヘブライ語ですね。キュビットと呼んだ方が馴染みがあるかも知れません。古代イスラエルでは神聖キュビットという単位があって、約44cmだったそうです。

つまり箱自体のサイズは110×66×66cmで、けっこう小型ですね。まぁ中身が石板二枚ですからそんなもんでしょう!

注目したいのは基本的に箱は木製なんですよね。アカシアの木を材料として、金で内外が覆われています。メッキでしょうかね?最古のメッキの技術については定説がありませんが、2000年前のパルティア人、1700年前のスキタイ人が最初と言われているようです。

一方で十戒を託されたモーセは、実在したと考えた場合は、ヘブライ人がエジプトにいた紀元前14世紀末~前13世紀の新王国第19王朝の頃と考えられています。するとかなり時間に開きがありますね。

ダビデ王(前1000年 - 前961年頃)、ソロモン王( 紀元前1011年頃 - 紀元前931年頃)の時代にもまだ金メッキ技術はなさそうですし、古代ローマ王国によって古代イスラエル王国が征服された西暦135年の時点でも、本当に金で覆われていたのか謎です。

映画インディ・ジョーンズの「最後の聖戦」で出てくる「聖杯」のように、本当は金ぴかじゃないのかも知れませんねヽ(TдT)ノ

金製品自体を発見するのはさほど問題ないですけど(後世にて溶かされ再加工されなければ)、「メッキ加工の技術」を考古学的に発見するのはけっこう大変なのです。

なので、仮に現在分かっていないだけで、実はもう少しメッキ加工技術の歴史は古かったとしましょう。古代イスラエルを脱出する間際にメッキできた!でもいいかも知れません。その場合、旧約聖書の記述とズレますけど、まぁあらゆる書物は後から書き換えられますからね、どこぞの国の政治問題のように( ・Д・)

さて、ここで話は変わって、日本で「失われたアーク」が眠っているとされる徳島県の剣山は石灰岩質の山だそうです。石灰岩は雨水に弱いですから、溶けちゃうんですよね。そのため山の内部は鍾乳洞っぽくなっていて、あちこちに空洞が張り巡らされているようです。

この剣山の洞窟内部に「契約の箱」を安置したとしましょう。で、番組で言われていたように、入り口が崩れたか何かで場所が分からないとしましょう。

可能性① 石灰岩は脆いので崩れやすい。入口だけなら良いが、神の箱も潰れている可能性がある。押しつぶされて露出した母材である木材は腐敗し、いつこの崩落が起きたかは不明であるがざっと1000年の時の流れの中で木材は残らない。仮に金メッキが施されていた場合、雨水で流され離散し、地下水まで到達している可能性が高い。蓋やケルビムは純金製なので残るが潰れている。

可能性②a 入り口だけが崩落したため、空洞中にまだ「神の箱」が残っている。メッキ加工というのは母材を腐食から守る効果があるが、「大目に見ても」最も初期のメッキ加工技術にて製作されている。この場合、湿気が強く雨水の影響の強い鍾乳洞内で母材が腐敗する可能性は高い。腐敗した場合、可能性①と同様の結果となる。蓋やケルビムは純金製なので残る。

可能性②b 入り口だけが崩落したため、空洞中にまだ「神の箱」が残っている。日本における最古のメッキ加工の痕跡は1871年に仁徳天皇陵で副葬品として発見された甲冑である。仁徳天皇の時代(およそ西暦313-399)以降、剣山に埋納されるであろう西暦700~1000年くらい(?)の間により進んだメッキ加工技術によって、日本に持ち込まれた「神の箱」の金メッキが再施工された場合、もしかしたら箱が残ってるかも知れない。蓋やケルビムは純金製なので残る。

可能性③ そもそもメッキじゃなくて、金細工で覆われていた場合、潰れようが潰れまいが金製のパーツは残っている。しかし母材は腐敗しているため、原型を留めてはいない。埋納空間が保たれているならば、箱や担ぎ棒を覆う金製のパーツは完全に残っている。特に蓋の部分や装飾のケルビムは純金製なので残っているだろうし残っていたらその価値は計り知れない。


……どの状況でも、中身の石板はけっこう危うい感じがしますね。石板が何の石材で作られているのか分かりませんしね。まぁ可能性③のような場合は良いとして、それ以外の場合は、全てが残存する可能性は低いですから、「ケルビムといった分かり易い部位」+「石板(の破片)」くらいのセット関係で発見されると物的証拠としては十分でしょう。

ちなみに、十戒を託されたモーセは、自分の帰りを待てず偶像崇拝に走った人々を見て、怒り狂い、授かった石板を叩き割ります。

このあと、モーセは再び十戒の石板を託されて、「契約の箱」に納めるわけですが……

やぱ、なんでウザ殺した!?モーセは?モーセはいいの?

確かにモーセは神の約束を破ってはいない。が、託された石板を直後に激情に任せて叩き割ったんだよ?体張って「契約の箱」守ろうとしたウザは打ち殺したのに!

これが世の不条理というものだよ( ・Д・) ……まぁ(数千年前に)終わったことを嘆いても仕方ない。きっとウザは死ぬほどウザかったのでしょう( -д-)ノ


5.おわりに
番組見てると、剣山でミイラが100体も見つかったとかも述べているけども、そんなに大量のミイラを作る風習は古代日本にも古代イスラエルにもないのではないのかなと思います。そして剣山の中って鍾乳洞なんだから、湿気強くてミイラ持ち込んでも腐敗すると思うんだけどな~なんて思ったり( ・Д・)

まぁ今回は、「適度に」現実的に考えつつも、「しっかり夢は残しておく」というスタンスでまとめましたが、いかがでしたでしょうか。このテーマの真偽はどうあれ、こういった浪漫溢れるテーマに私達は古くから魅了されてきました。

正直、私としては「契約の箱」が発見される場所が日本でなくても構いません。聖杯にせよ、今回の「聖櫃」にせよ、21世紀最大の発見!なんて言われるような発見を一考古学・歴史学ファンとして期待しております( -д-)ノ

・・・・・・・・・・・・

実は今回の記事はTwitterフォロワーさんからのコメントから派生したものになります。なかなかコメントなんて頂かないので(怪しげなDMばかり( -д-)ノ)、テンション上がりました!.。゚+.(・∀・)゚+.゚

考古学・歴史に限定して、皆さんに喜んでもらえる記事を探し続けるのはけっこう大変なものでして、こうして実際のコメントを通して記事のアイディアに繋がったことはすごい良いことだなぁと感じております。

今後とも頑張りますのでよろしくお願いいたします。「歩け、マヤ」の更新頻度は皆さんの応援にかかっています!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

最後に、今回の記事のきっかけを与えて頂いた「愛香さん」に末筆ながら感謝申し上げる次第です(*_ _)ペコリ

↓ここを押すと貴方の中に眠る古代ユダヤの血が蘇ります…↓
↓…顔が少しソース系になるかも。なるなら、私は猛烈連打!!!( ・Д・)↓

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2018ねん 6がつ 9にち(どよーび、曇り)

ひとつ仕事が片付いた。

今晩中にもうひとつを片付けたい。

ストレス過多だととりあえずたくさん食べる

せっかくのダイエット効果があっという間に失われていく( ・Д・)

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今回紹介するのは、セルビアでの発見です。セルビアはヨーロッパの南西部、バルカン半島の内陸側に位置する国です。旧ユーゴスラビアの中心地ですね。

さて、このセルビアに所在する古代ローマの都市であるヴィミナキウム遺跡で、上に挙げた写真のような大きなひとつの石棺が発見されました。

見ての通り上部の蓋は半壊していますが、他の部分はおおよそ無傷の状態で発見されました。この石棺の内部には金銀のアクセサリーを身に着けた2体の遺体が納められていたそうです。


2つの人骨の内、ひとつは骨格がしっかりとした背の高い中年の男性で、もう一方はスリムな若い女性だそうです。

石棺の中に副葬された品は豪勢なものでした。男性には繊細なガラスの香水ボトルが3本、黄金製のベルトバックル、そして靴(一部が残存)が捧げられていました。他方で女性にはゴールドのイヤリングとネックレス、シルバーの鏡、そしていくつかの高価なヘアピンが捧げられていました。

この重要な副葬品から、この二人が非常に高い社会階級に属していたと推測されています。

上の写真が石棺内に納められていた貴重な副葬品になります。記事を書いた人が撮影したのでしょうか。明らかに背景をぼかしたりして、考古学的な写真じゃないところが面白い……いや、ちゃんと撮れよ!( ・Д・) しかも色々と出土してるはずなのに、これだけだとあまり豪勢な感じとか高い社会階層な感じがしないじゃない!( ・Д・)( ・Д・)( ・Д・)


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さて、ベオグラードから東へ約70kmのところにあるコスタラクの町の近くに、今回の発見の舞台であるヴィミナキウム遺跡があります。この遺跡での居住は西暦1年頃にまでさかのぼることができるようです。それは古代ローマの軍事拠点の役割を果たしており、遺跡内には要塞、宮殿、集会所、寺院、円形劇場、水道、浴場と作業場が確認されています。

歴史家によると、人口は約4万人であった可能性があるそうです。この巨大な都市遺跡の内、現時点では約4%のみが調査されているそうです。

ちなみに現在のロンドン、ミラノ、ブダペスト、ベオグラードといった近現代都市に埋もれていない古代ローマ人の居留地は稀であるそうで、このヴィミナキウム遺跡は重要な遺跡なのです!

最初期の考古学調査は1882年に開始され、これまでの発掘によって、古代ローマの魔法のシンボル、翡翠と大理石の彫刻、陶器、モザイク、フレスコ画が刻まれた黄金のタイルや、14,000の墓を含む数万点の遺物が発見されているそうです。

まぁ所謂「いい所」から調査が行われるのが世の常ですが、残り96%もあるのであれば、今後の調査でもっともっと色々なものが見つかり、様々なことが分かりそうですね!

最後に、このヴィミナキウムという都市は、5世紀のフン族によって一度荒廃し、後にユスティヌス帝によって再建されました。そして6世紀のスラブによって再度破壊されました。以来、何世紀にもわたって、石棺は、略奪者、耕作、近くの炭鉱の機械による破壊を生き延びた結果として、現在私たちの前に姿を現したのです。

……そう考えると少し感慨深く感じませんか?


【おまけ】
考古学調査において使用する道具のひとつに「エンピ」があります。まぁ簡単に言うと「スコップ」です。上の写真の手前の男性が手に持ってるソレです。

「エンピ投げ」とは効率的(?)に調査を進める上で、遠くに土をぶん投げるのです。正直言って疲れるので全然効率的ではありません……が、考古学者には必携のスキルと(一部の考古学者には)言われております。

ただ土をぶん投げると、土をばら撒いてしまうのでダメです。エンピに載った土を、そのままエンピの形を保った状態で目的地点まで飛ばす必要があります。

「どうだ?すごいだろ?」と声を大きくする教授やら先輩やらは少なくないはずですが、こうして写真に撮るとその技術がよく分かりますね。

セルビア人、上手に飛ばしておる!そして受け手がネコ(一輪車)をやや斜めにして受け止めようとしてるところがニクイですね.。゚+.(・∀・)゚+.゚

こんな写真を撮って掲載してしまうあたり、やっぱり撮影者は考古学者じゃないのか、あるいはよっぽど遊び心のある人だと思います。記事は記事として割り切っているのかも知れません。

日本では最近、やたらに批判して、炎上して、謝罪して、取り下げる的な風潮が目立ちますけど、遊び心って大事じゃないのでしょうかね。万人に批判されない作品なんて、もしあり得るならば、きっと陳腐なものでしょうね。

私は遊び心を大事にします、例え炎上しても取り下げたりしない!(きっと)まぁ批判が適切ならば謝罪はしますけどね( -д-)ノ

↓ここを押すとどんな炎も鎮火するそうです(。・ω・)ノ゙↓
↓って隣のちっちゃなおじさんが言ってました!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 6がつ 7にち(もくよーび、曇り)

なんだか蒸し暑い。

これからもっと夏っぽくなるのだね。

今年の夏は暑そうだ(。・ω・)ノ゙

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今回紹介するのは「失われたアーク」の発見!……じゃないんですね。すみません、見間違えました。上の画像にある記事の見出しを見て、私は「ロスト・アーク」と思ったんですよ。

でも写真の様子がおかしいし、見出し下部の要約文には古代ローマの話が書いてあるし、、、「ん?」なんか違う……はい、「アーチ」でした( -д-)ノ

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上のこれ!インディ・ジョーンズの映画に出てくるアレ!最近、YouTubeで「日ユ同祖論」とか見てたから、過敏に反応したのかも知れません!(笑)

ということで、今回紹介するのは「古代ローマの道」の出発点が見つかったというニュースです。場所はスペインのアンダルシアで、ローマに通ずる主要道路の出発点であるアーチ状構造物、まぁつまり「門」を発見したそうです。

ご存知の通り、スペインはヨーロッパの西端にありますから、この古代ローマの道路はなんと1500kmにも及ぶそうです。長い道を作ったものです(。・ω・)ノ゙

さて、今回発見された、古代ローマ道のスタート地点(ローマ方向に向かって)である門はヤヌス・アウグストゥス・アーチという名称を与えられています。

高さ約7メートル、幅15メートルという堂々たる構造を有しており、アウグストゥス皇帝時代に建造されたものだそうです。材料は地元の砂岩から建設されており、ローマのコンクリートで固められているとのことです。

アンダルシアで見つかったこの古代ローマの主要道がこの地点で途切れていることは、ある種の国境観があったことを示しているようです。そのためこの壮大な門というモニュメントが、「国境」に印を付けて地域に影響力を及ぼす、象徴的な意味合いを有しています。 この「国境」を越えるために人々がこの場で特定の儀式を行った痕跡が見られるそうです。

現在のように、陸地続きの国境で巨大な壁を目印としているわけではありませんから、象徴的なゾーンの変化を表現する意味合いがあったようですね。

またこの門には碑文が刻まれており、周辺に寺院があることを示しているようです。象徴的に国境を守る、古代ローマの領域を守る、あるいは「神聖なフロンティア」に対する敬意を示すための寺院のようです。

今回の発見は、スペイン、アンダルシア地方におけるここ数十年の間に最も重要な発見の1つとされており、古代ローマ時代に関する古代地理学の問題を解決する上で特に重要な発見と評されているそうです。

写真だけだと高さ7m、幅15mの壮大な建造物には思えませんね。発掘途中の写真なのでしょうかね。そしてこのアーチはアウグストゥス帝の時代のものですから、今から2000年前の建造物になります。

スペインはやっぱりめちゃくちゃ暑い地域ですからね、微生物の活動が活発過ぎて土壌が発達しないのでしょうか。遺構の検出レベルがめちゃくちゃ低い!写真は斜めから撮っているので分かりにくいですがパッと見て、現地表面から20~40cm程度の深さですよね(スケールとして置かれているポールは1mで、赤白部が各10cmだと思います)。

古代地理学というのは文献上では記載はあっても考古学的には色々問題を抱えているそうです。発掘調査にあたった研究者らも、このような「古代の道の痕跡」は気を付けなければトラクター等で簡単に破壊されてしまうと警鐘を鳴らしています。

遺構の検出深度がこれだけ浅ければ、現代の農業や建設工事で重機を使えば一撃でしょうからね。人類の文化遺産の保護が課題となりますね。……まぁアンダルシア地方で有名なイベリコ豚の可愛いお鼻でグリグリされる程度なら平気でしょうが゚+。:.゚ヽ(*'(OO)')ノ゚.:。+゚ぶひぃ~♡

↓鼻でもいいからぐりぐり押しなさいよ!+。:.゚ヽ(*'(OO)')ノ゚.:。+゚ぶひぃ~♡↓

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2018ねん 6がつ 6にち(すいよーび、曇り)

暑いから麺類ばかり食べておる。

痩せはするが、

筋肉が落ちそうだ。

たんぱく質も摂らにゃ( ・Д・)

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ぼん じょるの!(。・ω・)ノ゙今回紹介するのはイタリアで出土した古代の甕のお話。上の写真の甕がそれです。記載によると大きさは3.5フィート、およそ1mですね。デカい!なのに、使われてるスケールが小さ過ぎるんですけど!これじゃ拡大してもよく見えないよ( -д-)ノ

口縁部付近に把手が三つ付いてます。このサイズだと片手で扱うものじゃないので、把手はビールジョッキみたいな縦方向じゃなくて横方向に付いてますね。

文様は粘土紐の貼り付けのようですが、モチーフはロープでしょうかね。もしかしたら従来は木製容器とかでオリーブオイルが作られていて、運ぶ用にロープで縛ってあったのかも知れません。文様モチーフが左右対称ではないですし、紐状のモチーフが把手近くまで延びてるので、まぁたぶん痕跡器官かな~と思います。

この文様の解釈については私見ですので、間違ってたらごめんなさい。合っててかつ誰も言ってなかったら、この記事引用文献ってことでよろしく!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

この土器は1990年代にシチリア島南東のカステルッチオ遺跡で出土したそうですが、400片程度に破砕された状態だったそうです。それがここまで接合されたようですね。ほぼ完形ですからね、接合のし甲斐がありますね!(・◇・)ゞ

底部破片の内面に残滓があったようで、それをス・クロマトグラフ分析、質量分析と核磁気共鳴分析を使って調べた結果、リノール酸とオレイン酸が検出されたそうです。この成分がオリーブオイルに特徴的なものだそうです。


これまでの研究ではイタリアにおける最古のオリーブオイルの存在は3300年前だったようで、700年遡る結果となったとのことです。約4000年前のイタリアは青銅器時代初期に相当します。


さっきの私の見解が正しければ、腐敗してしまう有機物質製の容器を用いたオリーブオイルの精製が行われていた可能性が高いですし、より古い歴史を持っていることになりそうですね。

ちなみに世界最古のオリーブオイルはイスラエルで見つかっていて8000年前だそうです。「料理の歴史」も面白そうですね!

↓オリーブオイルを摂取したことがある人は左を、ない人は右を押しましょうΣ(・ω・ノ)ノ↓

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2018ねん 6がつ 5にち(かよーび、曇り)

今日は集中して

目の前の仕事に打ち込みたい!

今日というか

今週ずっとな気がする( ・Д・)

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装飾付須恵器の出土状況(「産経フォト」の記事より一部加工;Credit Sankei Shinbun & SANKEI DIGITAL)

兵庫県、姫路市に所在する前田遺跡で新発見がありました。この遺跡は古墳時代の集落遺構であり、井戸を埋めた土から特異な形状の土器が発見されたのです。

出土した須恵器は一部が欠けた状態で、重さが約1・1キロ、高さが約13センチです。共伴して出土した土器の形状などから5世紀末に作られた可能性が高く、装飾付須恵器の中では古いタイプとの見方です。

壺形態の「肩部」に5つの小さな壺が配置されており、それぞれの小型壺は棒状の粘土紐で連結された状態になっています。これは全国でも類例がない特異な形状なのです。

装飾付きの須恵器は朝鮮半島を起源としています。日本では5世紀前半から生産が始まったと考えられています。これまで東海・近畿を中心に全国で約800点の出土例があり、兵庫県内でもおよそ100
点の事例があります。

中でも「子持ち土器」のような小型の壺等が付随する装飾を有する土器としは他にも類例が多数あるのですが、紐で連結されている事例は全国初なのです。装飾付き須恵器が朝鮮半島から伝来した時期に、国内でどのような形にすべきか試行錯誤した一つの例ではないかと考えているそうです。

上に挙げた写真の赤丸部が問題の須恵器になります。埋土中にこのような土器集中が見られまして、特異形状の土器の他にも約50点ほどの土器が共伴して出土しています。

装飾付須恵器は古墳などで副葬品として埋められることが多いのですが。しかし今回の出土状況は稀な事例で、井戸を埋めたとみられる土から須恵器や土器が確認されたため、不要になった井戸を埋める際に行われた祭祀儀礼の中で埋められたのではないかと推定しています。

……それにしても小っちゃい土器かわいい!ミニチュア土器とか好きなんですよね。こじんまりとまとまってる感じが堪らない!可愛いけども研究対象にしたことはない!けっこう作りが雑だったりするから、製作技法も似通ってくるのでなかなか対象としては難しいなぁと思っております( ・Д・)

たぶん、あれだ!私小さい物が好き!盆栽も好きだし、箱庭も好きだし……シルバニアファミリーも好き!カワ(・∀・)イイ!! 日本ってジオラマとか凄い精度ですよね。ただ小さいだけじゃなくて、精巧に作り込まれているモノに惹かれてる気がします。

日本人は遥か古代から小っちゃいモノ好き!ってテーマで本書けそうですね。世界の小っちゃい古代のモノ特集でもいいかも知れません。小さく可愛いものは正義です(・◇・)ゞ

↓子持ち土器、小型土器が可愛いと思ったら迷わず押しなさい!カワ(・∀・)イイ!!↓

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2018ねん 6がつ 4にち(げつよーび、晴れ)

強烈に暑い一日だった。

疲れが溜まった身体に追加ダメージが……

けど痩せた!とても痩せた!

健康的なダイエットではなさそうだが( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・

中米のグアテマラにて3日、フエゴ火山が噴火し、少なくとも106名が死亡したそうです。負傷者数は約300名に上り、行方不明者も出ているようです。一日で報告された死亡者数が3倍近くに跳ね上がりましたから、今後もう少し増えるかも知れません。(追記:3日で4倍に跳ね上がりました(TДT))

山頂付近からは噴煙が上がっており、火山灰の影響などから首都グアテマラシティのラ・アウロラ国際空港を閉鎖したとのこと。

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↑実際の悲惨な状況の写真
↑迫りくる火山噴出物から逃げる動画

火山灰の降下は首都にも及んでいるようですね。このフエゴ火山、スペイン語で「El Fuego」、「火」って意味なのです。活火山なので噴火する恐れはあったのです。

このフエゴ火山は首都から南西約40kmに位置します。古都アンティグアから見える非常に綺麗な形の神聖な山です。このアンティグア(正式にはアンティグア・グアテマラ)はグアテマラが誇る一大観光地で、多くの観光客を集めています。外国人の数が非常に多い地域でもあります。

非常に可愛らしいカラフルな街並みなので、日本人女性には大人気の観光地としても知られています。このフエゴ火山は標高3763mで、このアンティグアから登頂ツアーが行われているのです。

私もかつて一度登りましたけど、山頂部は異様に暑いですし、油断すると靴の裏が溶けちゃうんですよね( ・Д・)
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↑普段からこれくらい煙がすごくて前がよく見えないのです。下はあっちっちゾーン、靴溶けるやつ(管理人TheDANGOsan撮影)

・・・・・・・・・・・・
さて、グアテマラには早期復興を願うばかりですが、グアテマラにとって観光収入は国家経済を支える重要なものであります。ということで今回被害を受けたアンティグアの魅力について簡単に紹介したいと思います。

アンティグア・グアテマラはユネスコの世界遺産に登録されている古都です。時間的な違いはありますがイメージ的には我々にとっての京都が近いのかも知れません。この都市はスペイン植民地期においてスペインのムデハル様式の影響を受けたバロック建築の建造物が有名です。またこの植民地時代に建てられた多数の教会の遺構で知られています。

アンティグアは3番目の首都です。1717年9月29日、推定マグニチュード7.4の地震が発生し3,000以上の建物が崩壊し、町のほとんどの建造物は廃墟となってしまいました。ようやく復興の兆しが見えたころ、1773年のサンタ・マルタ地震によって町の大部分が再度破壊されたため、グアテマラは3度目の遷都をすることになります。この4番目の首都が、現在のグアテマラシティになります。


アンティグアの魅力はたくさんあるのですが、私の一押しはやはり教会や修道院!それも地震で破壊されて廃墟となったものです。リアルRPG感を楽しめますよ!

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↑アンティグアの中央広場にある噴水、乳からも水が出ておる(管理人TheDANGOsan撮影)


↓ライトアップされた修道院跡(管理人TheDANGOsan撮影)

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↑様々な修道院の跡(管理人TheDANGOsan撮影)


観光地なので治安も良いですし、外国人が多いので英語も比較的通じる方です(現地公用語はスペイン語です)。また外国人が経営するお洒落なレストランもありますので、現地の食事に飽きても多国籍の料理を楽しめます。

なので長期滞在に向いているのです。そのためかスペイン語学校が多数あることでも有名です。アンティグアを拠点として周辺域へのツアーがたくさんありますので、一週間くらい居ても飽きませんよ?語学習得が目的であれば1か月~3か月を少なくとも見ておく必要がありますね。ホームステイを行っている家もありますし、日本人宿や日本のツアー会社もありますので頼ることもできます。

最後に、グアテマラがいち早く復興するよう祈っております(。・ω・)ノ゙。私としてはまず、アンティグアに住む友人の安否が気になるところです( -д-)ノ

↓……まぁ良かったらどうぞ( -д-)ノ↓

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2018ねん 6がつ 1にち(きんよーび、晴れ)

最近寝れません!

ショートスリーパーじゃないから、

ふつーにツライ!( ・Д・)

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【目次】
  1. 縄文時代早期~前期の最古のイヌの埋葬事例!
  2. 「縄文犬」と「弥生犬」について
  3. おわりに

1.縄文時代早期~前期の最古のイヌの埋葬事例!
今回紹介するのは、縄文時代の犬の埋葬についてです。最古の犬の埋葬事例は、愛媛県、久万高原町(くまこうげんちょう)に所在する国史跡である『神黒石岩陰遺跡』(かみくろいわ)で検出されたものです。

ヒトが埋葬されたお墓に隣接する形で、屈葬状態の二匹のイヌの全身骨格が出土しました。この埋葬遺構の掘り込み面といった地層等の情報から、国内の埋葬犬として「最古の事例」とされていました。実はこの発見は1962年になされています。

では何故今更ニュースにしたかというと、このイヌの骨は発掘調査後に行方不明になっていたのです。その期間は半世紀以上!

このイヌの骨は2011年に慶応大学の収蔵庫にて「再発見」され、最新の理化学分析によって様々な新しい知見が得られたのです。


①犬の外的特徴
2匹の体高が約38cmと約41cmだと推定されました。現代の柴犬程度のサイズか、やや小さめのレベルですが、よりたくましい骨格を有していたようです。

②帰属時期
イヌの埋葬遺構が発見された当時は、出土状況から年代が推定されていました。今回は放射性炭素年代測定法によって、7400-7200年前、つまり縄文時代早期末~前期初頭ということが判明し、改めて最古の事例であることが理化学的に証明されました。

③イヌの暮らし
二匹とも生前に臼歯が失われ、歯が入る穴である歯槽が塞がっているという時間経過があったことが確認されました。また残った歯も内部の象牙質が露出しており、よく使われたことが分かりました。また窒素同位体や炭素同位体分析によって、肉食性の食性であったことが分かりした。

これらのことから、二匹のイヌはイノシシなどの狩猟対象獣に噛みついて足止めするといった役割を担う過程で歯を失ったであろうこと、その結果、猟に出られなくなった後も肉を与えられて大切に飼い続けられ、最期には手厚く葬られたことが推定されました。

愛媛県久万高原町(くまこうげんちょう)の国史跡「上黒岩岩陰(かみくろいわいわかげ)遺跡」で1962年に出土した国内最古の埋葬
……イヌは遥か昔から私たちの相棒、家族だったようですねヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ


2.「縄文犬」と「弥生犬」について
さて、縄文時代のイヌの埋葬事例はこれだけではなく、実はけっこうあるのです。この縄文時代のイヌ、「縄文犬」は狩りの際の相棒として活躍する一方で、骨折などのケガをする危険性が高かったと考えられます。

しかし縄文人はケガをしたイヌを放置することなく、大切に飼い続けたようで、埋葬されたイヌの事例の中では、生前に骨折したがしっかりと完治した事例が報告されています。

やはり「縄文犬」は大事なパートナーだったのですヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

一方で弥生時代のイヌ、「弥生犬」は全く異なる傾向にあります。これは渡来人、つまり中国大陸や調整半島からやってきた人々と共にやってきたイヌのことです。

弥生時代になると農耕が生業の中心になるため、イヌにとって危険を伴う狩猟の機会は減少します。それにも関わらず、「弥生犬」は全ての骨格が揃うことなく、バラバラの状態で発見されます。さらに骨の一部には噛まれた痕跡が散見されます。

つまり弥生時代のイヌの一部は食用とされており、この風習は渡来人によって中国大陸、朝鮮半島からもたらされたと考えられています。ちなみに日本の弥生時代とほぼ同時期である中国の春秋戦国時代の遺跡からは子犬を煮込んでスープを作っていたと思われる鍋が出土しているそうです。

いわゆる現在の「和人」は渡来人との混血ですが、現在の「日本犬」も大陸のイヌとの混血なのです。そういった歴史の後に、私達は独自の文化を作り上げてきました。日本のイヌのも同様に独自の品種となっているのです。そういう意味で、私達日本人と犬は、やはり相棒として似たような歴史を歩んできたのかも知れませんねヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ


3.おわりに
日本人とか和人とか渡来人とか、多方面で色々と問題になりそうなワードを含んだ記事になってしまいましたが、一切の悪意はございません。表現に一部問題はあれど、歴史を語る視点としてニュートラルな立場にいたいと思っております。もし何か問題がありましたらコメントまでよろしくお願いいたします。至急対処させて頂きます。

とは書いたものの、最後に爆弾を一つ( -д-)ノ ……まぁ我々には現在イヌを食べる風習がないわけですが、「一体いつまでイヌを食べる風習が残っていたのか」なと気になりますね。もちろん飢餓とか特別な事態は抜きにして、文化としてです。

また実際にイヌを食べたのは縄文系の弥生人なのか、渡来人なのか、婚姻・混血後の弥生人なのか、その辺りは考古学的には難しいでしょうけど、どうなのでしょうね。いくら農耕が主要な生業になろうとも、たんぱく質源として狩猟・漁労は必要であったと思いますしね。イヌの食用としての家畜化はどのレベルで一般的と言えたのでしょうか。

当該時期の専門ではないなんて言い訳ですけど、本当に知らないことでいっぱいです( -д-)ノ 調べてみたいなと思います(。・ω・)ノ゙

↓のんびりと増えていくのであった……ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2018ねん 6がつ 1にち(きんよーび、晴れ)

5月が終わってしまった!

春眠暁を覚えずとか、

五月病だとか、

素敵な言い訳とおさらばだ!( -д-)ノ

・・・・・・・・・・・・


さて、今年の3月から初めておおよそ3か月が経ちました!開始から82日目で56記事です(この記事が57記事目)。

ライブドアブログのアクセス解析って3か月分しか見れないんですね。知らなかったです。今は4月、5月の過去分と6月の現在の状況が見れるので、3月のデータ見れなくなってしまいました(/TДT)/

まぁでも記憶によれば、3~5月のPV(ページビュー)数の変化は100PV程度~146PV~675PVと見事に増加しています。とても嬉しいですね~、モチベーション上がります(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

先月の5倍近いですからね。まぁ先月は長めのサボタージュしてたせいもあるんですけどね。継続は力なりとは思っていても書き続けるのはけっこうしんどいです( -д-)ノ

UU(ユニークユーザー)数の方は、2UU程度~3.0UU~11.29UUです。体感だともっといるように思えるのですが、記事内容によってかなりの変化があるようで、平均を取るとこの程度の数字になります。

それでもコンスタントに10名も見てくれている!

嬉しい限りですヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

さて、気になる収入の方ですが、、、3月、4月は当然0円ですよ。というかグーグルアドセンスに登録したのが5月頭のゴールデンウイーク中ですからね。もちろん最初からグーグルアドセンスに登録していたとしても0円だったでしょう!(確信(・∀・)つ)

前回の報告では、グーグルアドセンスの管理画面上で、1000PVあたり4円って表示されてると書きましたが、最終的に5月の収益は・・・・・・

86円!

明らかにコンビニでバイトした方がいいレベルですが、1か月で2円って表記されてたのを目の当たりにしている自分としては、不思議な達成感があります。だって二桁ですよ?まさに桁違いの成果なのです!(。・ω・)ノ゙(。・ω・)ノ゙(。・ω・)ノ゙

6月の目標は、
  • 1日1記事を頑張る!
  • 書けない時はその週の内に、できれば翌日に埋め合わせる!
  • 月間1000PVを達成する!
以上の3点でいこうかと思います。欲を言えば、上昇率的に2000~3000PV狙って頑張ってもいいのですが、まぁのんびりでもいいかなと思っております。

ブロガーとして一日中記事の作成に時間を使える場合は違うかも知れませんが、普通に1日1時間程度を割くのであれば、ブログ作成と収入の現実ってこんなものかも知れませんね。

もちろん頑張って続ければ、読者数も増えるでしょうし、もう少しマシな副業になる可能性はあります。自分の専門・研究をブログにしよう!って以前、若手研究者・大学院生向けに書きましたけども、学生の内からコツコツとやる分には良さそうな気がします。

何よりも自分の専門に関するブログをやることの良さは、広く情報を得られることです。普段の研究では扱わないことに触れますからね。それがどれだけ自分の狭い意味での専門に対して有益かは分かりませんが、殊、考古学においては人類史上の様々な事例を知っておくのは有益なことではないかと感じています。

↓今後ともよろしくお願いいたします(*_ _)ペコリ↓

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