人口は6600人、言語はスペイン語、ラパ・ヌイ語です。モアイを立てていた頃にはロンゴロンゴという絵文字を使用しており、フランスによる奴隷貿易によってタヒチ語の影響を強く受けた現在のラパ・ヌイ語から当時のロンゴロンゴの解読は困難とされています。
↑モアイの形態の変遷(「歩け、マヤ」管理人(TheDANGOsan)作成;遊び心含む( ・Д・))
「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙
邪馬台国(やまたいこく)は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した、ことから(やまたいこく)の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。(Wikiより引用;筆者により一部変更)
アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。
箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。
次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。
一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。
わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。
(出エジプト記 25:10-22)
ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、主の箱のみならず臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った。祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。(列王記上歴 8:1-9)
「彼らはアビダナブの家から、神の箱を新しい車に載せ、ウザとアフヨがその車を御した。ダビデとすべてのイスラエル人は、神の御前で力を込めて、歌をうたい、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でた。一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を抑えようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。彼はその場で、神の御前で死んだ。ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。」(歴代誌上13:7〜11)
・牛車を使ってはならない。肩に担いで運ばなければならない。・神の箱はレビ族のケハトの家系に属する者のみが運搬が許される。
・手を触れないように、担ぎ棒を差し入れて運ばなければならない。(参考:民数記4:6,15)
アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。(出エジプト記 25:10-22)
これまでの研究ではイタリアにおける最古のオリーブオイルの存在は3300年前だったようで、700年遡る結果となったとのことです。約4000年前のイタリアは青銅器時代初期に相当します。
歩け、マヤ@arukemaya↑実際の悲惨な状況の写真中米、グアテマラで噴火。25人死亡、300人負傷。当該国が誇る一大観光地なだけに邦人にも被害があるかも知れない。友人の無事を祈る。
2018/06/04 21:18:52
#拡散希望 https://t.co/4d5dTWHbx4
歩け、マヤ@arukemaya↑迫りくる火山噴出物から逃げる動画日本のニュース記事内容とその数字だけ見たら、そこまで大きな被害ではないのかと思ってしまうが、写真や動画からすると現実は大きく異なる。
2018/06/04 21:19:33
#拡散希望 https://t.co/Xnj212tU0U
アンティグアは3番目の首都です。1717年9月29日、推定マグニチュード7.4の地震が発生し3,000以上の建物が崩壊し、町のほとんどの建造物は廃墟となってしまいました。ようやく復興の兆しが見えたころ、1773年のサンタ・マルタ地震によって町の大部分が再度破壊されたため、グアテマラは3度目の遷都をすることになります。この4番目の首都が、現在のグアテマラシティになります。
アンティグアの魅力はたくさんあるのですが、私の一押しはやはり教会や修道院!それも地震で破壊されて廃墟となったものです。リアルRPG感を楽しめますよ!
↑アンティグアの中央広場にある噴水、乳からも水が出ておる(管理人TheDANGOsan撮影)
↓ライトアップされた修道院跡(管理人TheDANGOsan撮影)