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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

2018年07月

2018ねん 7がつ 31にち(かよーび、晴れ)

最初は下手なもの書けないなと、とてもプレッシャーだったが、

気付けば、面白おかしく記事を書くことに喜びを感じている。

相変わらずのんびりだけど、

しっかり継続していきたいと思う今日この頃(*・ω・)ノ


・・・・・・・・・・・・

今回紹介するのは、エジプトのアレキサンドリアで発見された巨大な黒い石棺に関係するお話です。この石棺は長さ2.7m、幅1.5m、高さ1.8mという通常より大きなサイズあり、花崗岩製なのですが見た目が真っ黒なのが特徴です。


周辺で出土した遺物から、石棺の帰属年代はおよそ2000年前と推定されていました。そのため当該地域をアレクサンドロス3世が征服した紀元前332年以降のものである可能性が高く、もしかするとアレクサンドロス3世本人の棺かも知れないと期待される声もありました。


しかしこの石棺の近くには男性の頭部を模った石膏像がある他には金石文などの決定的に重要な情報を有する遺物が見つかっていませんでした。


一般誌等の噂としては、これこそがアレクサンドロス3世の棺であり、開ければ呪いが解き放たれるとの情報も流れていました。「歩け、マヤ」でも以前に扱ったツタンカーメン王墓発掘にまつわる「ファラオの呪い」の最新バージョンですね( ・Д・)


【いにしえの呪い】国宝展示ケースから有害ガス!&ツタンカーメンの呪いとマヤの呪い【文化遺産保護】


まぁ考古学者は例え呪われようとも、せっかく見つけた棺を開けないわけないので、彼らもやっぱり開けてみたのです。エジプト考古省の発表によると、中に納められていたのは将校と思われる3人分の人骨だったのです。この内の一人は頭蓋骨に矢による傷が見受けられたそうです。


古代エジプトでは紀元前3000年頃から始まったミイラ作りがずっと盛んで、アレクサンダー大王がファラオとなった時期(紀元前4世紀頃)もまだキリスト教が浸透(後5世紀頃)しておらず、ミイラ作り文化は残っていました。


ミイラは場所を取るし、残るし、墓の再利用は禁じられていたため、すし詰め状態の共同墓地も多数存在していた時代です。


この石棺に納められた3人の将校も、もしアレクサンダー大王の部下であるならば、有名なガザ包囲戦等で戦死した後にまとめて埋葬されたのかも知れませんね。


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↑発見された石棺、中の様子、黒い液体、臭いなってきっと思ってる方々(「Discovery」の記事内の画像を転載)

今回のお話の問題点は、考古学者らが石棺の蓋を開けた時に石棺の内部を、上の写真に見られる真っ黒な水が満たしていたことです。この水の正体は下水溝から漏れ出た下水だったのです( ̄▽ ̄;)!!ガーン

そしてなぜかこの石棺の中の液体がネットで注目を浴び、様々な目的のためのキャンペーンにオンラインで署名を集め届け出る「Change.org」では、なぜか「黒い石棺からの赤い液体を人々が飲めるように」という不思議なキャンペーンが掲載されたそうです。


このキャンペーンの趣旨は、「我々は呪われた黒い石棺の赤い液体を炭酸入りエナジードリンクみたいに飲んで、その力を受け継ぎ死なねばならない」ということだそうです。


死者のエネルギーみたいなものを得る気なのでしょうか……てか下水だし、飲んだら死者になる気がする( ・Д・)


とまぁ普通に考えて非常に奇妙な署名活動なのにも関わらず、2万人以上の署名が集まっているそうです。署名が2万5000人に達すればこの嘆願が届けられるようですが……


ミイラの出汁はめちゃ利いてるかも知れませんが、それ以前に他の出汁の方が危険です。呪いよりも確実に死者を出すでしょう。あるいはこのようなキャンペーンが行われること自体が呪いなのでしょうかね。


(……ツタンカーメンやアレクサンダー大王ならいざ知らず(?)、ただの将校にさえも呪われるなら、きっと「考古学者は墓が好物」なんて言えるわけがない!( ・Д・))


↓死者のパワーを得るために「超真黒水」を飲みたい方は押してみよう!( -д-)ノ↓

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2018ねん 7がつ 30にち(げつよーび、晴れ)

「人は皆、孤独である」

「変えられるのは自分だけ」

ここ数年この2つの言葉の意味を考えさせられる経験が多い。

このペースなら悟りを開く日は近いかも知れない( ・´ー・`)ドヤ

……なんて、別に悟らなくていいから、人生イージーモードでありたいものだ!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・

  1. はじめに ー「シュリーマン理論」ー
  2. 商人としてのシュリーマン
  3. 考古学者としてのシュリーマン
  4. 考古学者になるために必要なお金を算出してみた
  5. おわりに

1.はじめに ー「シュリーマン理論」ー

今回の主人公はハインリッヒ・シュリーマン! トロイの木馬で有名なトロイ遺跡を発見したギリシア考古学の父のお話です。

彼はホメロスが書いた叙事詩「イリオス」、「オデュッセイア」に出てくる伝説的都市、イリアスを発見したことで有名です。このイリオスという都市は、古代ギシリアのイオニア方言系での発音で、アッティカ方言系では「トロイア」、英語では「トロイ」と発音されます。

そのため本来地元の言葉ではイリアスなんですけども、映画でも度々扱われる「トロイの木馬」と「トロイア戦争」のように、「トロイ」や「トロイア」として聞いたことがあるかも知れません。発音は違えど意味している都市は同じになります。

本記事ではホメロスの記述を重要視して遺跡ないし都市をイリアスと呼称し、一方で一般的に有名である木馬はトロイ、戦争はトロイアとしてそれぞれ慣例に倣って記述していくことにします。

さて、シュリーマンは伝説の都市、イリアスの発見を目的として事業を営み、発掘調査を実施できるだけの自己資本を集めようとしたと述べています。

つまり彼は「夢の実現にはお金が必要」ということで、非常に現実的な考え方をしていたと思われます。

実際には後付けの論理なようですが、考古学に限らず好きな研究を続けていくに際して現実問題としてどうしても金銭面の問題が立ちふさがるというのは現在にもおいても共通するでしょう。


2.商人としてのシュリーマン

1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、この時期に成功した。さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収める。クリミア戦争に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得た(wikiより)。
シュリーマンは1822年生まれですので、24歳で既に商才を発揮していたようです。1844年、22歳の時にアムステルダム最大の貿易商シュレーダー商会に入社し、僅か2年でロシアのペテルブルグ支店長になったようで、その時の年収が7500グルデン、およそ3000万円だったようです(1グルテン=4千円計算)。

時を同じくして1846年には商社も設立していますし、30代で巨万の富を得ていたようです。まぁ武器の密輸はやり過ぎだとは思いますけどね( ・Д・)

実際この事実が、この後述べる考古学者としての彼の人柄や「やり方」をよく暗示していると思います。


3.考古学者としてのシュリーマン

ギリシア考古学の父とは一部で言われているものの、考古学者としてはシュリーマンは高い評価を受けていません。当時の評価としてシュリーマンはただの素人だったのです。現在では偉大な発見をしたものの、考古学者というよりはトレジャーハンターの部類でしょう。


というのも彼は事業で十分な資本金を貯めた後に、事業をたたみ、1870年に調査をトルコにて開始します。しかしこの調査は無許可で行われたのです。


正式な許可を得たのは翌年であり、1873年に「プリアモスの財宝」を発見し、伝説のトロイアを発見したと宣伝しました。


この「プリアモスの財宝」はオスマン帝国政府に無断でギリシアのアテネに持ちだされ、1881年に「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈しました。かなりむちゃくちゃなことをやってます( ・Д・)


シュリーマンは発掘調査に際して、オスマン帝国政府との協定を無視して出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどしたため、政府が発掘の中止を命じました。

しかしイスタンブールに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けました。時代の問題もありますが、こうした盗掘レベルの発掘調査のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、現在に至っても考古学者による再発掘・再考証が困難な状況になっています。

ちなみにシュリーマンが発見したこの「イリアス遺跡」が、トロイの木馬で有名なトロイア戦争の舞台となった本当の「イリアス」なのかは分かっていません。



4.考古学者になるために必要なお金を算出してみた

さてお金が必要なのは政治だけじゃないわけですが、考古学者になるにはどれくらいのお金が必要なのか計算してみました。

普通に大学、大学院に進み、順当に大学教員になるコースではありません。最近、いわゆる「在野」の研究者がライフワーク的な研究発表を行い、その業績が評価されているケースがありますが、そのように「一般就職した状態」で、考古学者になる場合を考えてみました。

また日本考古学だと専攻する人口も比較的多く難しそうですから、海外考古に絞ってみます(海外は海外で難しいけどね!)。

生活費は都市にもよると思いますが15~20万あれば、なんとかなるでしょう(きっと)。海外の渡航費はこれも場所にもよりますが10~30万で往復できます。

調査費用も国によって大きく異なります。法律の問題や人件費、物価の問題があるからです。私の経験だと1か月の発掘調査と1か月の整理作業で150万円くらいです。もっと安く済むケースも多々あります。

2~3年で資金を貯めて、次の1年の間に調査を行い、翌年に最終的に整理作業を完了させて学会発表等を行う5カ年サイクルを想定すると……

ざっと400~500万円の年収が必要です。さらには調査に行くために少なくとも5年に2度程度、各1ヶ月のバケーションが必要です( ̄▽ ̄;)!!ガーン

こう考えると、やはり大学等の研究機関に所属することや研究助成金が下りることがどれだけありがたく、重要なことなのかよく分かりますね。

学生の頃、とある考古学教員が言っていました。「考古学者になる方法?まずは上手くヒモになることだよ。僕はそうした」と。ちなみに彼の弟子の一人も「逆玉」で似た道を辿りました。

今思うとあの先生の研究室は何故か美男美女ばかりだったような……手っ取り早く研究者になるには金か顔が必要なのかも知れませんねっ!( ・Д・)


5.おわりに

うん、現実とは世知辛い!そう言えばうちの学会も美男美女が最近増えてきているような……Σ(・ω・ノ)ノ

事実、アメリカの社会学研究によると、イケメンの方が研究者になりやすいとの結果が報告されています。ただしイケメンの方が、ブサメンより研究能力が劣ると評価される傾向が強いことも報告されています。

どっちがいいのか分からないけれども、研究者なんだから、就職に際してもその後についても研究内容で正当に評価してくれよと思ってしまいます。

でも人間、美男美女に弱いのも事実!整形でもしようかな(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!(とある書籍のように人間見た目が9~10割なら、何故人類は美男美女しか残らないように淘汰されないのだろうか!?(゚Д゚)ゴルァ!!)

結論としまして、シュリーマンの述べるように、「夢を叶えるためにお金は必要」です!研究を続けるには最低限のお金がどうしても必要になります。しかしながら逆に言えば、十分な資本を用意できるならば、「アカポス」にこだわる必要もないのですよね。

クラウドファンディングに考古学者も参入し始めてきた昨今、研究資金の調達方法も多様化してきているように思います。従来通り順当に大学院からアカポスコースを狙いつつ、他の手段で生計を立てたり研究資金を集める方策を考え実践していくことが、今後研究者になるための地道&堅実な方法なのかも知れませんね。

↓うん、シュリーマンはやりたい放題にも程があるよ!( -д-)ノ↓

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2018ねん 7がつ 28にち(どよーび、めっちゃ晴れ)

空が青い!

遠くに見える山が綺麗!

昔、大学の先輩が言っていた……

みんな大体、考古学の他に宇宙や恐竜が好きだったと。

考古学専攻の人間はそもそも、時間的あるいは物理的に遠い何かに惹かれる傾向にあるのだと。

青くどこまでも広がる空と、遠くに連なる山々。

私の知的好奇心の原点を「再発見」した心地だ。


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今回紹介するのは、青銅器時代にイタリア、オーストリア国境近くで起きた「アイスマン殺人事件」です。

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ガイシャは1991年9月19日に、アルプス登山のルートから外れた場所を歩いていたニュルンベルクからの観光客によって、溶けた雪の下からミイラ化した状態で発見されました。

調べによると、ガイシャはイタリア、ボルツァーノ県ヴェルトゥルノ近辺に住む46才(推定年齢45~46歳)の男性です。無職ではないと思われ、恐らく牧畜を営んでいたかと思われますが、今のところ詳しいことは分かっていません。

鑑識によると遺体発見当時にガイシャの周りに散乱していたガイシャの持ち物と思われる品から、事件が発生したのは今からおよそ5300年前の青銅器時代前期と推定されています。


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当時ガイシャは、靴底が丈夫な熊の毛皮製の靴、革のゲートル、色違いのを縦縞模様に継ぎ接いで作った外套を着こんでおり、またベルトに附属する小型袋にはフリント(火打石)やスクレイパー(石製工具)、乾燥したキノコなどを入れていました。頭には熊の毛皮で作られた顎紐付きのフードを被っていたようです。

不思議なのは、アイスマン殺害当時、ガイシャは「作りかけの弓矢」や「精錬された銅製の斧」を所持していた点ですね。

また聞き込みによると、ガイシャは背中や脚に刺青を入れていましたが暴力団との繋がりはなく、腰痛持ちであったためにツボ療法の一環として刺青を入れていたようです。


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↑警部、アイスマンの検死解剖の様子です!(「ナショナルジオグラフィック」の記事内画像より転載)

……検死解剖の結果が出ました!。ガイシャは当初凍死したと思われていましたが、違ったようです。

X線撮影調査では左肩に「矢尻」が見つかり、これが死因である可能性が高いと分かりました。またコンピューター断層撮影装置により、「矢じり」による動脈を損傷した結果、失血死したことが判明しました。

加えて、右眼窩に骨にまで到達する裂傷が認められ、更に後頭部に即死に至る量の脳内出血の痕跡があることが分かりました。

これは彼を殺害した人物がガイシャに止めを刺すべく、矢を受けて倒れた彼の後頭部を石などの鈍器で殴ったと推測できるとのことです。また、彼を殺傷した矢の軸は見つかっておらず、殺害者が証拠隠滅のために持ち帰った可能性があります。

胃の内容物からは、最期にアカシカやヤギの肉と脂肪、ヒトツブコムギ等の穀類を食べていたことが分かりました。繊維、タンパク質、エネルギー豊富な多量の脂肪という雪の残る寒い高山に登るためによく準備された食事を摂っていたようです。

このことから、ガイシャが部族間の争いに巻き込まれ、山を越えて逃亡する最中に死亡したという線は薄いと考えられます。

またアイスマンの死亡時期は4月頃との推定結果が出ていますが、残雪が大量にある季節に3,000mを越える高地に登った理由が分かりません。

ガイシャの胃や腸から検出された花粉からは、彼が死ぬ直前の数日間の間に、モミが生える標高の高い場所から一度低い場所に移動した後、またすぐにモミが生える場所へ行くという強行軍を行っていた事も推測されましたが、このような行動の理由も分かっていません。

一方で4月は積雪がまだひどく山を登ることは不可能とする意見もあります。発見現場で採取された花粉が8~9月頃のものであることなどから、4月に麓で死亡した後に夏場に山の上に埋葬されたという説も浮上しています。

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結局、犯人が誰かは分かりませんが、アイスマン(愛称:エッツィ)の最期については、彼の発見から30年の歳月をかけて少しずつ分かってきています。

さて、考古学や関連諸科学領域で分かることを、「刑事もの」風にするとこんな感じになるのですね~。やっぱり犯人分からないとオチがないですかね?

考古学で犯人捜しするには、犯人にも近くで死んでもらって、ミイラ化等の方法で残存してもらわないと困ります( ・Д・)

今回の犯人は青銅器時代前期において証拠隠滅するくらいの相手ですからね、ちょいと考古学者には荷が重いかな~( -д-)ノ 

皆さんも、もし不幸に見舞われた際にはダイイングメッセージなどの直接的な証拠をガンガン残すようご協力お願いします。血文字はダメです。永く遺すには石に刻むことをお勧めします(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓やっぱり名探偵の道のりは遠いやヽ(TдT)ノ……それ、ぽちっとな!(ノд・。) グスン↓

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2018ねん 7がつ 27にち(きんよーび、晴れ)

急遽ダイエットを始めたので

レモネードも飲めなくなった( -д-)ノ

暑い!( ・Д・)

冷たい水で耐え抜く!( ・Д・)

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さて、今回紹介するのはテーマは「地震と考古学」です。最近やたらに流行ってるなぁって思ってます。考古学者も人の子ですからね~( -д-)ノ

日本は様々な自然災害に見舞われる国ですので、日本の歴史は災害との戦いの歴史とも言えると思います。そのような中で現在最も注目されているのが「南海トラフ巨大地震」です。

何故注目されているかというと、そろそろ起きそうだからです( ・Д・) 2018年1月時点での発表では、30年以内の地震発生確率が70~80%なんだそうです。

しかも地震の規模はM8.0~9.0ということで、巨大地震~超巨大地震に分類されるレベルの地震なのです。

そもそもトラフとは深い溝のことです。南海トラフは四国の南の海底、水深4,000m程度のところにあります。プレートテクトニクス理論によれば、南海トラフは、密度の高い海洋プレートであるフィリピン海プレートが、密度の低い大陸プレートであるユーラシアプレート(アムールプレート)と衝突してその下に沈み込んでいる「沈み込み帯」のことです。

この南海トラフは、実際に上に挙げた図の位置にあるんですね。日本列島に近いですし、長いですよね。これまでに南海トラフを震源とする地震はおよそ100年~200年の周期で「日本列島」に甚大な被害を与え続けてきたことが分かっています。

これまでに判明している最も古い記録は紀元1年頃の弥生時代に起きたと考えられています。発掘調査で地層断面に巨大な津波による堆積が確認されたのです。こういった地震や津波の痕跡を見つけることも現代社会に対する考古学が貢献できるひとつの役割ですね(*・ω・)ノ

まぁ地震や津波の痕跡を発見したとして、それがどこを震源としたものなのかの判定は難しいので諸説あるんですけどね!その辺りは周辺諸領域への踏み込みが大好きな考古学者らしく、地震研究者との共同研究に期待したいところです(予算たくさんもらってるらしいですね……それも目が飛び出るくらい( ・Д・))。

歴史時代に入ると日本書紀を始めとして歴史書に巨大地震の記録が残っているわけですが、684年の白鳳地震、887年の仁和地震、1096・1099年の永長・康和地震と日付単位で分かっています。文字・歴史って便利ですね(・∀・)つ

最後の南海トラフに関する地震は1944・1946年の昭和地震になります。南海トラフを震源とする地震のやっかいなところは、弥生時代から昭和地震までいずれもM7.9~M9の巨大地震~超巨大地震なのです。

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↑液状化現象による噴砂の痕跡(「産経WEST」の記事内の画像より転載)

今回の発見舞台は、奈良県、奈良市の奈良文化財研究所です。この研究所は平城宮跡に隣接しており、新庁舎建設に伴う発掘で3つの時期における古代の地震の痕跡が約20か所で見つかりました。

地層と共伴する土器資料からそれぞれの痕跡の帰属時期は8世紀前後の平城宮造営の頃、平安時代の9~12世紀、室町時代の14世紀頃と推定されています。

上の写真見られるように、黄色っぽい砂が吹き上げるように、筋状に延びている状況が確認できました。これは巨大地震によって液状化現象が生じ、それによって地下から砂や水が噴き出す噴砂(ふんさ)の跡だと考えられます。

液状化現象は震度5以上の強い揺れで発生すると考えられており、南海トラフを震源とする巨大地震の痕跡である可能性が指摘されています。

奈良文化財研究所は今回の発掘された痕跡を「地震遺跡」として公開する予定とのことで、過去の地震を辿ることで現代の防災意識を高めたいと話しています。

今回の発掘は新庁舎建設のための緊急調査ですけども、今後の周辺の調査に際しては、地震学に関する諸研究分野の専門家と協力して、地震の予測や、地盤の特徴による被害の予測など、災害対策にも役立つ学術研究を行えるといいですね!

↓ここを押すと地震発生確率が下が……りはしないが( ・Д・)↓
↓私のテンションは間違いなく上がる予想(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 7がつ 26にち(もくよーび、晴れ)

出張先の海外はとても暑い。

MAX43度とかになる。

日本でも今年は猛暑で40度超える地域があるとか( ・Д・)

そんな暑い時にお勧めなのがレモネード!

グラスに氷をたくさん詰めて、レモン汁と砂糖と水を入れて元気にかき混ぜるだけ!

うまい!!!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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今回、紹介するのは「最古のパン」についてです!日本でもパン食が広がってめちゃ久しいですよね。というか日本ほど何でもかんでも美味しいもの取り入れて独自に発展させる文化も珍しいかなと思います。

実際、私はパンあまり食べませんけど、好きですよ。今回の記事書いてて、パン食べたくなりましもの。フツーの熱々のトーストにマーガリンとジャム塗るのが好きですね(・∀・)つ

さて、冒頭に挙げた写真が何故ピタサンドかというと、今回発見されたパンの破片がピタパンあるいはアラビアパンの一種だからなのです。


発見があったのはヨルダンの首都アンマンから北東の方角に130キロメートルほど離れたShubayqa 1遺跡です。上に挙げた写真のかまど(それと別のかまどの2地点から)の底から計24片のパンの残滓が発見されました。

このパンの残滓はいずれも数ミリにしか満たない極小サイズで、焼け焦げて炭化していました。この残滓を電子顕微鏡で調べた結果、今でも中東やインドなどで食べられている平たい円形のパン(ピタパンやアラビアパン)の一部だったことが判明しました。

この残滓の元である古代のパンは、ピタパンに似た無発酵のフラットブレッドで、オオムギ、ヒトツブムギ、燕麦などの野生穀類や、水生パピルスの仲間の植物から取った塊茎などを粉にひいて作られていたことが分かったのです。


このパンの発見された遺跡はナトゥフ文化の遺跡であり、中石器時代の狩猟採集民が暮らしていたことがわかっています。このナトゥフ文化の人々の生業は狩猟採集でありながらも定住生活を送っており、狩猟採集社会から農耕社会への移行期の文化として注目を集めています。


さてこの地でパンが作られた時代、つまり中石器時代に農耕は始まっていなかったと考えられます。農耕の起源とは難しいのですが、例えば最古の事例としてはイスラエルのガリラヤ湖岸で、23,000年前の農耕の痕跡(オオムギ、ライムギ、エンバク、エンメル麦)が発見されています。


またシリアの「肥沃な三日月地帯」の西域であるレバントでは、テル・アブ・フレイラ遺跡 では11,000年前の最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されています。この遺跡はナトゥフ文化の遺跡ですので今回の発見と同時期ですね。


農耕開始=農耕社会の開始ではないことに注意が必要ですが、最古の事例は上記のイスラエルの2万3000年前になります。農耕、日常的な言葉としては農業として私たちが想像するのは「灌漑農業」だと思います。それ以前には雨水に頼る「天水農業」がありますし、さらに以前には「選択農業」があります。


選択農業は種を撒いたり、苗を植えたりしないんです。雑草等の必要な植物以外を引き抜いたりすることで、結果的に必要な植物だけを増殖させる農法です。


ちなみにここでは農業と農耕という言葉が混じってますけども、扱う時期にもよりますが人類学や考古学では農耕という言葉を使います。農業=農耕+牧畜を意味するので、それぞれ分けて使う必要があるのです。


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↑推定される古代の方法でパンを作る実験考古学(「CNN.co.jp」の記事内の画像より転載;Credit: Alexis Pantos)


さて、地域にもよりますが農耕社会の開始は9000年前のトルコや7000年前のギリシアと考えられており、農耕社会は新石器文化の指標でもあるわけです。実際これまでに知られていた最古のパンは、トルコにある9100年前の遺跡から見つかっていました。


そのためパンの起源は穀類や豆類を栽培した初期の農耕社会と関連付けられてきたわけです。ですが今回の発見により、パンの起源は中石器時代に遡ることが分かりました。 おそらく野生の穀物類を採取し、脱穀してから粉を挽き、それに水分をくわえてこねてからかまどで焼いていたと考えられるわけですが、このやたらに手間のかかるパンの存在が中石器時代の農業革命と関連している可能性が指摘されたのです。


品種改良が重ねられた現代のパンコムギに比べたら、その祖先種・野生種である当時の小さな品種から得られる小麦粉などたかが知れているのです。恐らく儀礼行為と関連して特別な食べ物として重要視された可能性があります。


キリスト教でもパンは神聖な食べ物ですしね。神様に捧げたり、あるいは一種の神官や指導者などの特別な立ち位置の人間が美味しそうにパンを食べるのを見て、「パンたくさん作ろー!( ・Д・)」となって農業革命が起きたのかも知れませんね。


実際、この研究に携わった教授らは、パンというこの特別な食べ物をもっと容易に作りたいとの動機があったからこそ農耕が始まったのではないかと推察しているそうです。


あ~、パン食べたいっ!(・∀・)つ

↓ピタサンド食べたくなった……食べたくなった人は押してみよう!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカ-マ!↓

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2018ねん 7がつ 26にち(もくよーび、晴れ)

天気いいね!暑い割に最近元気!

食欲はもっぱら冷たい麺類だけども!

あ、たくさんあったはずのそーめんを食べ切った!( ・Д・)

よし、次はひやむぎだぁ~!!!( -д-)ノ


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  1. 秦野市菩提で発見された重要文化財クラスの土偶
  2. 神奈川県で見られる3つの事例
  3. 土偶とバラバラ殺人的神話
  4. おわりに

1.秦野市菩提で発見された重要文化財クラスの土偶

今回紹介するのは、神奈川県、秦野市菩提(はだのし ぼだい)にある菩提横手遺跡から出土した土偶です。帰属年代は縄文時代後期と推測されています。

新東名高速道路建設に伴う発掘調査によって、約3500年前に相当する縄文時代後期の住居址の覆土からこの土偶が出土しました。

この土偶は、頭部から胴体と腰、脚のそれぞれの部分がやや離れた場所で出土しました。左腕部と左脚部の一部が失われていましたが、全体の形状が分かる形に復元することができました。

復元された土偶は全高約25cm、最大幅は推定約12cmです。胴部と脚部の中が空洞で、浮文と沈線文、縄文による装飾が見られます。

さて、何故この土偶が国指定の重要文化財クラスとされるような高い評価を受けたのでしょうか?理由は大きく以下の3点です。

  1. 大型で自立する形態であること
  2. 内部が空洞の中空土偶であること
  3. ほぼ完形品であること
こういった事例は神奈川県内では3例目なのですが、各パーツを接合することでほぼ完全な姿まで復元できたのはこの一例だけなのです。完形資料であることが最も重要な要件なのです!(*・ω・)ノ


2.神奈川県で見られる3つの事例
神奈川の中空土偶
↑神奈川県出土の大型自立中空土偶群(a: 秦野市 菩提横手遺跡出土、b:綾瀬市 上土棚南遺跡出土、c:平塚市 王子ノ台遺跡出土; 管理人theDANGOsan作成)

上の3例が神奈川県で出土した大型で自立する中空土偶になります。内部が空洞になっているのが「中空土偶」で、土偶は人や精霊を模したと考えられる縄文時代の土製品で、祭祀や呪術に用いられたと推定されています。

今回出土した中空土偶(a)は筒形の胴部に怒り肩、外向きに腕が付き、乳房を表現したと考えられる2つのこぶがあります。乳房の表現は他の2例(b,c)にも共通することが見て取れると思います。

怒り肩で外向きに腕が付くという腕の形態や全体性として、aとbは類似性が強く感じられますね。一方でcは作りが特異ですね。またcでは両脚が失われているのに「自立する土偶」という判定がよく分かりませんが、きっと割れ口に大型の脚が付いていた痕跡が認められるのでしょう。あるいはこの時期の大型土偶は全て自立できるくらい脚が大型である特徴を有するのでしょう。


3.土偶とバラバラ殺人的神話

さて、今回出土した土偶ってバラバラの破片をくっつけたわけですが、土偶って多くの場合、バラバラに出土する傾向があります。

山梨県釈迦堂遺跡で出土した縄文中期の土偶片は1000点以上になりますし、岩手県立石遺跡の土偶も188点の破片として出土しています(個体数は分かりません!きっとたくさん!( -д-)ノ)。

長野県茅野市の中ッ原遺跡では完形土偶も出土していますが、基本的に土偶の多くは壊れた状態で出土しており、わざと壊すことで災厄を土偶に転嫁するような儀礼的行為の結果だと考えられています。

つまり一説として土偶は魔除けの儀礼として意図的に破壊された可能性があるわけです。一方で他の説として、食物の起源と豊穣の神話に由来する儀礼行為という解釈があります。

日本には古事記、日本書紀において食物の起源に関する神話が記載されています。ここで紹介するのは古事記の記述です。


古事記においては、岩戸隠れの後に高天原を追放された速須佐之男命(スサノオノミコト)が、食物神である大気都比売神(オオゲツヒメノカミ)に食物を求めた話があります。


大気都比売は、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して須佐之男命に差し出したそうです。しかし、その様子を覗き見た須佐之男命は食物を汚して差し出したと思って、大気都比売を殺してしまいます。


結果、大気都比売の屍体から様々な食物の種などが生まれ、頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生じました。神皇産霊尊(カミムスビ)はこれらを取って五穀の種としたそうです(wikiより参考・引用)。


以上がハイヌウェレ型神話に分類される日本の食物起源神話のひとつなのです。ハイヌウェレ型神話とは、世界各地に見られる食物起源に関する神話の一型式ので、殺された神の死体から作物が生まれたとするものです。

オリジナルのヴェマーレ族のハイヌウェレの神話では、ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができました。

あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまいます。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となったという神話です。

この女神を殺してバラバラにすることが食物の起源となるタイプの神話は世界各地に見られ、日本で土偶がバラバラで見つかることも、このタイプの神話に由来した豊穣を願う行為の現れなのかも知れませんね。


4.おわりに

ちょいと話は変わって、今回発見された土偶って斜め上を向いていますよね。土偶って世界的にやや上向きである傾向も見られるのです。

古来より月には神秘的なパワーが宿ると考えられていたようで、そうした「月の雫」を飲み込むために土偶は上向きに作られているとする説もあるのです。

考古学的な現象や神話体系が世界各地で似通っている事例ってけっこうあるのですが、面白いなぁと思います。現在世界は細やかに分裂し対立し合っていますが、やはり人間ってなんだかんだ似たようなことを考えるものなのかも知れませんね。人類皆兄弟!?……仲良くいきたいものです( -д-)ノ


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2018ねん 7がつ 25にち(すいよーび、晴れ)

昨日は元気いっぱいに働いた。

今日はそうでもない。

暑いのだ。

さて、陽も落ちてきてやや涼しくなってきたことだし、

頑張りますかーい!(。・ω・)ノ゙

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今回紹介するのは、16世紀に北米大陸で起こった集団失踪についてです。「ロアノーク島集団失踪事件」として有名なものです。一種の神話的な存在として現在まで400年もの間語り継がれ、現在でもロアノーク島では屋外劇場の演し物として多くの観光客を集めています。

劇のタイトルは『失われた植民地』、アメリカで2番目に長く続いている劇です。そしてこの一大ミステリーを、今世紀に入っても尚、多くの考古学者、歴史家、科学者らが解決しようと試みています。

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上に挙げた2枚の地図から分かるように、舞台は現在のアメリカ合衆国、ノースカロライナ州にあるロアノーク島です。ちっちゃい島です。近くにアリゲーターって名前の土地や、アリゲーター川とかあって、なんだか当時は恐ろしい川だったんだろうなぁって思います。

最初に挙げた古い地図を見てみると、ロアノーク島周辺の内海は静かな様子で漁業を営んでいる状況が表現されている一方で、外海は波が激しく、沈んだ船が複数描かれています。

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さて、英国人であるウォルター・ローリーは1584年にエリザベス1世より北米大陸に植民地を築く特許を与えられました。そして翌年1585年と1587年に彼は北米大陸で最初の人開拓地を設立しました。この内の一つであり、重要な拠点であったのがロアノーク植民地だったのです。

このロアノーク植民地の指揮官であるジョン・ホワイト総督は1585年から3年間、自ら率先して開拓に励んでいたものの、重大な食糧危機に遭います。そこでホワイト総督は一度英国に帰還し、物資の補給を行うことにしました。これが1587年です。

この時点で、男性90名、女性17名、子供9名の合計115名(先住民との争いにより1名死亡)が暮らしていました(なんだかバランスがひどく悪いですけどもΣ(・ω・ノ)ノ)。ホワイトは総督は必要物資を積み次第すぐに戻るつもりだったが、スペインとの戦争が勃発したため、帰還が遅れていました。

結局ホワイト総督がロアノーク島に帰ったのは3年後の1590年8月の夕方でした。英国船ホープウェル号から見えたのは、ロアノーク島から上る一筋の煙でした。船上にいたホワイト総督は入植地にまだ誰かいて、私たちの帰りを待っていてくれたと思ったそうです。

ところがホワイト総督らが上陸してみると誰もやってきませんでした。入植地内にも誰もおらず、代わりに木に刻まれた文字を見つけました。それは事前に決めていた約束事で、万が一「島を去るときには行き先を木か柱に刻んでいく」、さらに「緊急事態の場合には十字も彫っていく」というものでした。

 

「十字」など災難を意味するものは見つからなかったけれど、「CRO」刻まれた木と「CROATOAN」と刻まれた防御柵の一部の柱を見つけました。この防御柵はホワイトが発った3年前にはなかったものだったそうで、入植者たちが敵の襲来に備えていた可能性が指摘されています。


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↑樹に刻まれた「CROATOAN」の文字を発見した英国人たち(「NAVERまとめ」の記事内画像より転載)

ホワイト総督は物資と、植民地事業主であるウォルター・ローリーの意向によって、115名の入植者を捜索することができませんでした。そうして「失われた植民地」、「消えた115名」はひとつの歴史ミステリーとして400年もの間語り継がれてきたのです。


さて、クロアトアン(CROATOAN)とは、ロアノーク島の南にある細長い島と、そこに住む先住民の両方を指すとのことです。クロアトアン族はカロライナ・アルゴンキン語を話し、英国からの入植者と良好な関係を築いていたようです。


この「ロアノーク島の南にある細長い島(クロアトアン島)」というのが曲者で現在の地図上では確認できませんでした。地名が異なるんですよね。なので古地図を紹介している画像あったので紹介します。


真ん中あたりに「人物」が描かれていて、その下に「クロアトン(Croaton Land)」って書いてますよね。あと左下に「クロアトアン(Croatoan)」と「クロアトアン村(Croatoan Villages)」って書いてますね。この後者の方が実際にロアノーク島の南に位置する細長い島なので、クロアトアン島なのでしょう。

しかしながら「CRO」の謎と、私が思うに似た地名の「クロアトン(Croaton Land)」が気になります。このクロアトンは現在の「アリゲーターリバー国立野生動物保護区」になっていて、半島状の地形の台地です(途中に挙げたグーグルマップを参照下さい)。

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このロアノーク島のミステリーは様々な人々によってその答えを、消えた彼らの行方を探求されてきたわけですが、2011年にノースカロライナ大学の経済学の教授が(彼はこのミステリーが幼少期から大好きだった)、ホワイトが描いた地図の復刻版を眺めていて2カ所に小さな紙片が原画の上から貼られていることに気付きました。

 

彼は大英博物館に要請し、原画に光を当ててみたところ、「砦を意味する星形」が1カ所の紙片の下から浮かび上がってきたのです!


意外だったのはその場所であり、ロアノーク島やクロアトアン島ではなく、80キロほど離れたアルベマール湾の西端に面する陸地でした。実際にホワイト総督の記述の中に、入植者たちがロアノーク島から西に約80キロ離れた本土に移転を計画していたというものがあり、これが地図の星の位置と一致するのです。


さらに紙片を詳しく調べると、尿をインク代わりにして描いたのか砦の輪郭がほとんど見えないほどの薄さで描かれていることが判明しました。つまり紙片は何らかの誤りを修正するというより、知られてはいけないことを隠す意図で貼られた可能性が指摘されています。


この砦の地点、「サイトX」の調査は近年開始されたとのことで、新しい発見に期待できそうです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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↑ホワイトの古地図に貼られた紙片とその下部に隠された砦を意味する星形状マーク(「UBIQUE」の記事内画像より転載)


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↑現在の地図で見た各ポイントの位置関係(「Google マップ」の該当位置の画像を一部加工)

さて、どうでしょう。古地図の段階と現在の地図はかなり変わってますよね。方角を揃えたとしても、かなりの認識差があることが分かります。

右の赤ポイントがロアノーク島で、本当の「クロアトアン島」は南にありまして、この図には載っていません。ロアノーク島の左の紫丸部分が「クロアトン・ランド」と記載されていたもので、現在は太いアリゲーター川によって半島状に見えますけど、古地図の段階では本土として捉えられていたようですよね。

左のオレンジ丸部分が「砦」の位置になります。こう見てみると、木に刻まれた「CROATOAN」ってミスなんじゃないかなって思いますけどね。本土の「COROATON」に行くつもりで書いたけど、似過ぎててミスしたのかなって……あっちの人のスペルって母国語なのにめちゃくちゃだしあり得るかなって……入植者たちって裕福な家庭でもないですし、教養レベルは低いと思われますし( ・Д・)

ただ古地図段階での実際の地理に対して認識差がかなりあります。100人以上を乗せる船あるいはたくさんの船があったようにも思えないし、陸路だときっと道に迷う上に先住民の方々とのバトルもあるでしょう。果たして無事に辿り着き、砦を造ることができたのでしょうか。

できたなら、もっと早くにその痕跡が見つかっていてもいいようなものだと思いますけど、まぁ調査に期待しましょう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

あ、ちなみに1998年に、「クロアトアン島(本当の方)」で発掘調査があって、当時の指輪や金貨が見つかったそうです。その内の指輪は検証の結果、入植者の一人、マスター・ケンドールの所有物だった可能性が高いと結論づけたのです。

この指輪の出土状況が不明なのが問題なんですけども、彼がそこで死んだのか、どこかで殺された何かで物品だけ持ち込まれたのか、よく分かりません。入植者1人が、先住民との争いで殺害されるという事件もあったそうですから、基本的に良好な関係を築いていたとは言え、本当に安全だったわけではないのでしょう。

さて、食糧難の中、115名という多くの人が遥か遠くまで砦を造りに行ったのでしょうか。ほんとにどこに行ってしまったのでしょうね~(´・ω・`) 久々に心からワクワクするストーリーで、今後の展開が本当に楽しみです(。・ω・)ノ゙

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2018ねん 7がつ 24にち(かよーび、晴れ)

いい天気である。

綺麗な青空を見るは何日ぶりだろうか。

だがこうなると、蒸し暑さではなく、ふつーに暑い!

結果、やはり、そーめんばっか食べておる( ・Д・)

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今回のタイトルで使用した「指輪物語」とは、J・R・R・トールキンの『指輪物語』のことです。2001年に映画化されて2003年まで三部作として公開され、日本でもとても話題になった作品だと思います。

さてこの指輪物語に登場するのが「力の指輪」です。全部で20個ある指輪の総称です。魔王みたいな存在のサウロンの持つ指輪が「一つの指輪」、エルフが持つのが「三つの指輪」、ドワーフが持つのが「七つの指輪」、人間の王が持つのが「九つの指輪」で、合計20個になります。

RPGみたいにちょっと力が強くなるというわけではなく、この作品中の「力の指輪」自体は所有者を極めて長寿するといった神秘的な力を有しています。しかし指輪の所有者はサウロンの支配下に陥ってしまうという「呪いの指輪」でもあるんですね。

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さて、ここで本題に入りましょう。ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)はユダヤ系のオーストリアの精神医学者で、19世紀後半~20世紀前半に活躍し、精神分析学の創始者と言われています。その弟子であるユングと共に、倫理や世界史の勉強の中で聞いたことがあるかも知れません。

このフロイトは、実は「精神分析学の秘密結社」を結成していたのです! その際に愛弟子たちに授けたという印章指輪の内の6点が、中東エルサレムのイスラエル博物館で開かれる展覧会にて初めて一堂に会し、公開されることになりました。

展覧会の名前は「フロイト・オブ・ザ・リングス(Freud of the Rings)」で、まさにロード・オブ・ザ・リングとかけているわけですね( ・Д・)

フロイトは神経学、心理学、分析精神学の専門ですが、神話学や人類学、考古学にも非常に深い造形を示していたことで知られています。特に世界中の古代文明の遺物を収集しており、彼の膨大な考古学コレクションは現在、ロンドンにあるフロイト博物館で見ることができます。

さて、今回の展覧会の発端は、イスラエル博物館の学芸員助手が、「Freud Nike(フロイト・ニケ)」と書かれた小さな段ボール箱の中から金の指輪1個を見つけたことでした。この辺りも「指輪物語」の最初のシーンを彷彿とさせますよね。

さて、指輪に刻まれた「ニケ」はギリシャの勝利の女神の名です。学芸員らの調査の結果、その指輪はフロイトが弟子のエバ・ローゼンフェルド(Eva Rosenfeld)に贈り、後にローゼンフェルドがイスラエル博物館に寄贈したものだと分かったそうです。

さらなる調査で、フロイトが最も身近に置き後継者とみなしていたスイス生まれの弟子カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)と1912年に決別した(ユングはその後、分析心理学を創始する)ことが、このフロイトの「指輪物語」の背景にあると推測できるとのこと。

どういうことかと言うと、最愛弟子であるユングとの関係断絶をきっかけに、フロイトは精神分析学者の秘密結社を設立したのです。そしてフロイトの学説を信奉し、フロイト自身に対しても献身的だった創設メンバー5人に印章指輪を1個ずつ贈ったのだそうです。


指輪にはめ込まれた石はフロイトが世界中から直接収集した膨大な古代遺物から選ばれており、それぞれに神話の主題が彫りこまれているというかなりの作り込みようです。各指輪の刻印は、フロイトの学説の要素と、指輪を贈られた相手とフロイトとの関係を示唆している可能性があるようです。

最終的にフロイトはこのような印章指輪を少なくとも20個は贈っていたようです。贈られた人の中には、フロイトが恩義を感じていた精神分析学者たちや、フロイトが精神分析を行い好意を抱いた人々らも含まれていたのだとか。

さて、J・R・R・トールキンの『指輪物語』でサウロンが造った指輪の数は20個です(サウロンの技術でエルフが造ったものを含む)。そしてサウロンが指輪の所有者を支配下に置いたように、フロイトの印章指輪を受け取った人たちもフロイトを信奉し、献身的だったということで・・・・・・


とまぁ、ほんとに面白い一致だなぁと思います。まぁ全ての指輪が見つかっているわけではありませんので、「少なくとも20個」というあたりがどこまで信憑性があるのかは分かりませんね。展覧会として「指輪物語」にかけてますから、学芸員たちも敢えて「20」という数字を選択している可能性も否めないかな~とも思います( -д-)ノ

↓ここを押すとサウロンの支配下に入るよ~ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2018ねん 7がつ 21にち(どよーび、曇り)

暑さには強いはずだが、

最近食欲がない。

そーめん旨い!

やっぱ鰻とか食べないと元気いっぱいにならないのだろうか?

いや、そーめん、ひやむぎが旨いからいいのだ!( ・Д・)

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↑神殿の基壇部。テントが見える部分が調査している箇所(「AFP BB News」の記事内画像より一部加工; Credit: AFP PHOTO / RONALDO SCHEMIDT )

なんだかここ数年、世界的に大きな地震が多いなぁと思うのは私だけでしょうか。メキシコ中部では2017年9月19日の正午過ぎに、マグニチュード7.1の大地震が起きました。この地震と二次被害によりメキシコ市を中心として369人の死亡が確認されました。

マグニチュードはアメリカの地震学者チャールズ・リヒターが考案した、地震が発するエネルギーの大きさを対数で表した指標値のことです。M7レベルの大地震の頻度は、地球全体で1年に15回、内1~2回は日本周辺で起きているそうです。

さて、このメキシコ中部に大きな打撃を与えた地震でしたが、他方で考古学調査の現場では興味深い発見につながったそうです。

首都であるメキシコシティーの南方に位置するモレロス州のクエルナバカは「常春の都」のひとつとして有名です。この街にはテオパンソルコ(Teopanzolco)という遺跡があります。

上に挙げた写真のように遺跡内には古代アステカ文明のピラミッドの基壇があります。本来はピラミッドの最上部には、もともと雨の神であるトラロックの神殿と、太陽と戦争をつかさどる神「ウィツィロポチトリ」の神殿があったのです。


この上部構造である二つの神殿は地震で壊れたわけではありません。スペイン征服期・植民地期に異端として破壊されたケースが多いのです。スペインはカトリック国で当時は布教活動に熱心でしたので。

ということで、残されていた下部構造としての神殿の基壇部分の内部から、雨の神であるトラロックを祭った神殿の遺構が新たに見つかったのです。

この地域にはアステカ人の一派である、トラウイカ(Tlahuica)族が栄えていました。どうやらこの雨の神「トラロック」の神殿を建造したのはそのトラウイカ族のようです。


メキシコ国立人類学歴史学研究所(INAH)の報告によれば、大地震によってピラミッドの中心構造が相当な変容を被ったとのことです。つまり地震の影響で、いずれの神殿も床が沈んで屈曲し、安定性を欠いた状態となったのだとか。

 

このため、INAHがレーダー探知機を用いてピラミッドの構造を調査したところ、外側に見えていた神殿基壇の内部に、トラロックの神殿の遺構が見つかったのです。マヤ文明の神殿もそうですがメソアメリカ地域の神殿は入れ子状の神殿構造になっているのです(マトリョーシカ人形みたいな感じです)。


今回神殿基壇内部で見つかった古い神殿は西暦1150年頃に建造されたものと推定されています。奥行き約6メートル、幅約4メートルのサイズということです。


どこをどの程度掘り進めたかはよく分かりませんが、トラウイカ文化期に相当する土器片や香炉も発見されたそうです。見つかった神殿がトラウイカが造ったと考えているようですから、神殿自体ないしその基壇を多少なりとも掘った結果だと思います。


地震の影響で歪んでいるようですから、ちょっと危ないですね。十分に補強しつつ掘り進めて、データ取って、次の地震に備える意味でもしっかりと遺跡・遺構の保全がなされることを期待します……メキシコという国は観光に力入れているので、遺跡保全にちゃんと資金出るんですよね。うらやましい!( ・Д・)


↓やや悪ふざけしながらも、ここの一言を考えることが密かな楽しみである( -д-)ノ↓
↓ってことで、とりあえず押しといて!( ・Д・)( ・Д・)( ・Д・)↓

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2018ねん 7がつ 18にち(すいよーび、曇り)

最近、アボガドを生ハムで巻いて食べることにハマっておる。

海外ではアボガド安いから、

よくわさび醤油付けて、おつまみにしてたなぁ。

あ~、マグロ&アボガド丼つくろーっと!(・∀・)つ

私のテンションは食べ物で変わると最近気づいた( -д-)ノ

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今回紹介するのは「毒の付いた本」です!しかも大学図書館に所蔵されていたそうです。毒が付着していたことは後から分かったようで、本当に危険ですよね!

舞台はデンマーク、南デンマーク大学図書館です。同大学の教員が16世紀~17世紀の3冊の歴史書を分析しようとしていました。

実際に分析したかったのは本の中身じゃなくて、カバーの方でした。カバーは古い他の羊皮紙製の印刷物を再利用して作られたもので、そこにはラテン語の文章が隠さていたのです。

しかしカバーとして再利用した際に塗布されたグリーンの塗料があまり厚く、読むには邪魔であったのです。

そこでまず蛍光X線分析(micro-XRF)を用い、緑の塗料の化学組成を明らかにすることにしました。蛍光X線分析は考古学でもお馴染み方法ですね。石器や土器の胎土を対象とした産地同定分析に用いられることで知られています。

私も粘土を対象に一度分析したことがありますが、非破壊の分析ですし、分析が比較的早いのでなかなかに優秀な分析法だと思います。簡単に言うと、試料にX線を照射すると、試料に含まれる元素に応じて発生した蛍光X 線を分光素子で分光し、測定するものです。

機器によって多少の差異はあるようですが20元素(Na, Mg等と化合物)と4微量元素(Rb,Srなど)といった試料の化学組成を明らかにできます。

このような手法による分析結果として、本についていた緑色の塗料には高濃度のヒ素が含まれていることが判明しました。

カバーから検出されたヒ素入りの塗料は、パリスグリーン(花緑青)と呼ばれる人工顔料であることが分かりました。様々な緑色を出せることから、19世紀には絵の具や建築用塗料として利用されていました。

後に触れると皮膚が炎症を起こす事例が多く確認され、ヒ素に由来する強い毒性があることがわかりました。そのためヒ素は殺鼠剤、殺虫剤、農薬としても盛んに用いられ、羊皮紙にパリスグリーンが使用された理由も、書物を虫やネズミなどの被害から守るためだったと思われます。

ヒ素は生物に対する強い毒性があることだけではなく、強い発がん性(最も高いグループ1に分類)を有することで知られています。

ヒ素は13世紀には知られていて、15~16世紀には暗殺用の毒として使われていました。無味無臭かつ無色、そして入手が容易だったのが主な理由ですね。このように古くから危険性が周知されていますからね、19世紀段階で塗料に混ぜ込むなよ!って思いますけどね( ・Д・)
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最初の見出しに挙げた写真のように、古い本ってなんか素敵じゃないですか? 昔、いいホテルに泊まるのが趣味で、大統領の住居だったホテルとか元総督府のホテル、元修道院のホテルに泊まってみたことあるんですけど、古く趣ある調度品に目を奪われたものです。

その時思ったんですけど、古い本ってインテリアになるな~って。それで海外の古書市で、めちゃ古い本買ってみたことあるんですよ。内容、読めないのに( ・Д・)

まぁもちろんそんなに古い本が混ざってることはないと思いますけど、混ざってても値が張るので買えない! 小さな国だとけっこう掘り出し物もあって面白いんですけどね。

これからは本の古さと装丁に気を遣ってみようかなと思います。古本触ったあとに、その辺で手づかみで何か食べたら、大変なことになるかも知れませんしねヽ(TдT)ノ

古い本や絵画には今回と同様の危険性がありますので皆さまもご注意ください!( -д-)ノ

↓安心して下さい。このボタンにヒ素は付着しておりません(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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