歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

2019年01月

2019ねん 1がつ 18にち(きんよーび、雪)


何故だか今日はふと幸せを感じた。


特別何もないのに……


こういう日々が続けばいいなと思う( -д-)ノ



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↑調査現場風景、奥に玉石敷きが見える(「毎日新聞」の記事内画像より転載)



さて、今回の考古学・歴史ニュースは「信長の屋敷とお風呂の跡が見つかった!」です!



私、戦国時代にとても疎い(どこの時代も大体疎いが…)ので今回は二本立ての構成です( ・Д・)……まずはお屋敷の方から!( -д-)ノ



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↑発掘が進むと玉石敷きが続いていました(「朝日新聞」の記事内画像より転載; credit: 本間久志)



上に挙げた写真に見られるように西の建物跡には「玉石敷き(たまいしじき)」があり、織田信長本人、あるいはその身内が住んでいた可能性があるとのこと。


また曲輪からは高級品の天目茶碗と青磁の小碗が出土したそうです!




一般的にはどうなんでしょう? やはり「石ころの集中」が見つかるよりも、特殊な遺物が見つかった方がわくわくするのでしょうか?



・・・・・・まぁ私は「高級品」という言葉にわくわくしてますけども( ・Д・)





小牧山城に屋敷建物があったとする記録はないそうですが、岐阜城安土城の事例では信長のための特別な生活空間が主郭部分に設けられていたことが宣教師の記録等で判明しているそうです。


それを根拠として今回発見された2棟の屋敷建物は信長の城館の一部だった可能性があるということです。



上で紹介したように2棟の建物の奥行きが不明でしたが、これはまだ発掘調査が未だ及んでいないためです。今後の調査で織田信長ゆかりの品が発見されるといいですね.。゚+.(・∀・)゚+.゚



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↑同地点より出土した「高級」な遺物(「寺井 半兵衛《お城ばかり》」さんのTwitterより画像を転載)



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↑現地説明会に参加した際に撮影した写真のようです。美しいですね!(*・ω・)ノ(「寺井 半兵衛《お城ばかり》」さんのTwitterより画像を転載)




さて、次は信長も入ったかも知れないお風呂の跡です!



京都市中京区において行われていた発掘調査によって、織田信長が安土桃山時代に造営した二条殿御池城(二条屋敷)の風呂の遺構が見つかりました!



二条屋敷は信長が自身の住まいとして1576年に造営したものです。


池と泉の庭園で有名であった二条家の邸宅を利用して造営されたと考えられ、その規模は約120メートル四方であったと推定されています。



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↑戦国時代のお風呂の跡!(「あめかるの気儘な日記」さんの記事内画像より転載)



上に挙げた写真の黒い部分が炭に覆われた箇所であり、所謂「竈(かまど)跡」です。 

もちろん調理のための竈遺構とは異なります。根拠は検出された位置とサイズです。位置としては庭園に接する配置だったのです。


そして今回見つかったお風呂の遺構のサイズは、東西約7m、南北約6mのという規模で、大型の竈2基と井戸、土間が確認されました。



そのうち竈1基の周囲には風呂屋形(ふろやかた;浴室建物)を支えたとみられる約10個の礎石が確認されています。


恐らく竈に鉄製の桶を置きその上に簀の子をしいて、湯をわかして蒸し風呂にしたと推測しているとのこと。



・・・・・・蒸し風呂?



構造的に「五右衛門風呂」かと思ったや( ・Д・) 平安時代には蒸し風呂だったようで、江戸時代にはお湯に浸かるタイプの入浴が行われています。



でもいつからお湯に入るようになったのかは分かっていないそうです。


常識を覆す男のイメージが強い、織田信長が入浴した最初の日本人だったら面白いですね!.。゚+.(・∀・)゚+.゚




早くも平安時代には町湯(銭湯みたいなもの;江戸時代のような大衆化はしていない&蒸し風呂!)が登場しているそうですが、それでも当時、入浴は贅沢な楽しみでした。



見事な大庭園を望み、客人をもてなすために建てられた可能性があると解釈されていますが、まぁ私の中の信長像としては自分自身も入ったろうと、むしろ率先して入ったのではないかと思います(*・ω・)ノ

 


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正直、戦国時代とか普通に好きなんですけど、詳しくなさ過ぎて特別なこと書けないな~と思って少し避けてました( -д-)ノ


お城好きな人とか、城郭や神社仏閣巡りが好きな人、御朱印集めが好きな人とか色々な方がいますからね。


頑張って今後は様々なものの歴史について触れていきたいなと思っております(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


↓・・・・・・あ、温泉行きたいな!( ・Д・) 同感な人はぽちっとな!↓


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2019ねん 1がつ 17にち(もくよーび、晴れ)

最近、新しい方法論の提示のために考えを巡らせている。

ずっと昔の先人よりぶち当たってきた壁なだけに、

私も見事にぶち当たっている(´・ω・`)

・・・・・・それにしてもやはり「考えることは楽しいこと」であると、しみじみと感じるようになった( -д-)ノ



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今回の考古学・歴史ニュースは、「宮殿守護者像がシロアリの糞のおかげで形が残ったよ!」というものです!Σ(・ω・ノ)ノ


この発見はペルー北部のトルヒーヨに所在するチャン・チャン遺跡でなされました。

西暦850年頃から1470年頃までペルー北部沿岸に栄えたチムー王国はプレ・インカ期における最大の王国であり、中心都市と考えられる最大規模の遺跡がチャン・チャン遺跡です。

遺跡には城壁付きの砦、神殿、広場、ピラミッド、墓などが見られ、壁面装飾として魚や鳥といった動物を象形した彫刻が特徴的です。


↓チャン・チャン遺跡の最寄り遺跡における稀な発見を記事にしていました!





ちなみにチャン・チャン遺跡の「チャン」は太陽を意味するそうです。この遺跡は史上最大の日干し煉瓦の都市としても有名です。


日干し煉瓦で造られた巨大な10基の建築物があり、その中で最大規模であるのがウツアン宮殿です。

このウツアン宮殿にて発見されたのが今回の宮殿守護者の木像になります!


上に挙げた写真のように守護者を模った木像は儀式に使われた中庭に通じる約30mの通路の両壁面に10個ずつ作られた窪みの中に収められていました。



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通路の両側に10体ずつですので、本来は守護者の木造は20体あったと考えられます。この内、1体はシロアリによって原形をとどめていないほど崩壊していたそうです。


逆に言えば19体も残存していたということで、奇跡的に保存された事例と言えるでしょう!(*・ω・)ノ



この守護者の木像は750年前のもので、王権の象徴である笏と切り落とされた首を持った状態を表現しています。


木像は身体の部分が木製であり、顔は粘土製です。そのため上に挙げた写真に見られるように顔の部分は色調が異なり、周りの身体の部分が黒くぼこぼこしています。


この黒くぼこぼこした部分が本来は木製だったのであり、シロアリに食い荒らされた後の排泄物の塊なのです(まぁう〇こですね( -д-)ノ)。




上の写真で分かるように個々の木像はけっこう大きいです。そのサイズは高さが約70cmだそうです。

さて、それにしてもどうして木像が排泄物と置換されたのでしょうか?


それはシロアリは光を避ける特徴があるため、木の中を食い進む際にトンネルの中に光が入らないように糞で覆いながら食べ続けるそうです。

光が入らなければいいので、木像の中までぎっしりと排泄物が詰まっているわけではなく、非常に脆い状態だということです。




さて、チャン・チャン遺跡出土の守護者の像として他の分かり易い事例がありましたので紹介します。

本来は上に挙げた写真のような状態だったのでしょう。この像の場合は杓だけを持っていて、切り取られた頭部をぶら下げてはいませんけどね。

この事例では、見たところたぶん顔が石製、身体が粘土製でしょうか。そのため保存状態が極めて良好なのでしょう!


・・・・・・それにしても今回の発見、木像の原形が判別できる状態で見つかるというのは奇跡的なことです!(例えそれがう〇この塊であるとしても)ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓ここを押すと白アリの被害を食い止めることが・・・できるかも( ・Д・)↓

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2019ねん 1がつ 16にち(すいよーび、晴れ)

気付いてしまった・・・・・・

長ーく下書きにしておくと、せっかく記事にしても最初に書き始めた時間に従って投稿されてしまい、埋もれてしまう( -д-)ノ

気合入れた記事が読まれづらいのはこのせいか!(ノ◇≦。) ビェーン!!

・・・・・とは限らないけど、それでも投稿した時間にして欲しいものだヽ(TдT)ノ


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日ユ同祖論01
↑現代のユダヤ人と侍並べてほとんど同じってあり得ませんけど、まぁイメージってことで( -д-)ノ(「いらすとや」さんの素材を使用して作成)



【目次】
  1. はじめに
  2. 日本までの距離と移動可能性について
  3. おわりに 


1.はじめに
バックナンバー紹介しておきます(*^・ェ・)ノ

↓問題のつまらんお話ヽ(TдT)ノ

↓関係する人気記事ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓前回の記事



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さて、前回の整理では「失われた10部族」=指導者層の少なくとも一部(約27000人以下の集団)がアッシリアではなく他の地域に向かったということを明らかにしました。


この指導者層の大量の移動は、紀元前721年の北イスラエル王国の首都、サマリアの陥落に伴って、アッシリアによって「捕囚」されたことを契機としています。



……今回のテーマは「ルート」!

前回の時点でも「日ユ同祖論」における2点の歴史的矛盾点が見つかりましたが、聖書・外典等の史料的価値の検討・史料批判が(私には)困難なため、指摘するに留めました。


本当は今回「時間性」をテーマにしたかったのですが、例によって長くなり過ぎたのでカットしました。重要なテーマは次回以降に持ち越しです( -д-)ノ


まぁしょうがないので今回は「ルート」です!

・・・・・・ではいってみましょー!(・∀・)つ


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↑距離は9000km、約地球4分の1周ですね( ・Д・)(「Google」の計算結果より画像を転載)



2.日本までの距離とルートについて
さて、「失われた10部族」が離散する契機となったのが紀元前721年の首都陥落です。

第四エズラ書では「1年半」とか書かれてましたけど、実際にはどれだけの時間でイスラエルあるいはアッシリアの辺りから日本まで来れるのでしょうか?( ・Д・)



上に挙げた図を見て分かるように距離は約9000kmです。スタート地点をサマリアにするのか、アッシュール(当時の新アッシリア時代の首都)にするのかによっても違いますけど、おおよそ9000kmということにします( -д-)ノ

出発年も紀元前721年とすべきかは難しいですが、紀元前721年ということにします( -д-)ノ少なくともそれ以降の近似する年代でしょうからね。


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(1)シルクロードの概要
さて、古代イスラエルの民(北王国の指導者層の一団)が遥か東方へと移動したと仮定した際に、使用したと想定されるルートとしてシルクロードがあります。


シルクロードという呼称は19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、著書である『China(支那)』において使用したのが最初とされています。



この時のシルクロードの意味は古来より中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路である「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指していました。


現在では広義には、「シルクロードとは、近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域に渡って行われた南北の交易路や海上の交易路を含む国際交易のこと」を指します。



(2)シルクロードの種類と時期
シルクロードは大きく分けて3種に分類でき、それぞれを「オアシスの道」、「海の道」、「草原の道」、と呼んでいます。


先にも述べたように、リヒトホーフェンが言及した「オアシスの道」は東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路であり、更に三つのルートに分類されます。

それが「西域南道」、「天山南路(西域北道)」、「天山北路」であり、前者2ルートは紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされます。他方で後者の「天山北路」が「オアシスの道」における最古のルートであり、紀元後に確立したと考えられています。

つまり古代イスラエルの民はこの「オアシスの道」は使えなかったと考えるのが妥当でしょう。




次に、「海の道」は中国の福建省泉州市を起点として、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインド、アラビア半島へと至る海路です(逆もまた然りです)。


このルートはプトレマイオス朝の時代(紀元前306年-紀元前30年)からエジプトによってインドとの通商に用いられていました。

また古代ローマ(共和政ローマ; 紀元前509年-紀元前27年)は南インドのサータヴァーハナ朝(紀元前230年-西暦220年)と通商を行い、やがて絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書に記録されています。


つまり紀元前721年の離散時期を考慮すると、この「海の道」も使えないルートであると分かります。

そもそも『国を追われた3万人近くの大集団』が当時として最高技術の結晶とも言える船を多量に使った長期の大航海が可能であったとは思えませんよね( ・Д・)



さて、最後が「草原の道」です。

「草原の道」は中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至るルートです(逆もまた然りです)。

このルートがシルクロードにおいて最も古いとみなされている交易路になります。


この地に住むスキタイや匈奴、突厥(とっけつ)といった多くの遊牧民・騎馬民族が、東西の文化交流の役割を担ったとされています。

上記の遊牧民・騎馬民族で最も古い歴史を有するのがスキタイ紀元前8世紀〜紀元前3世紀に現在のウクライナを中心として盛衰した遊牧国家を築きました。




上の図に示したように、ウクライナとイスラエルではかなりの距離がありますね。実際、問題となる時期ではイスラエルを含むウクライナより南方の地域はアッシリアの領域でした。

この「南方の地域」では紀元前609年にはアッシリアが滅亡し、続いて新バビロニアやアケメネス朝ペルシアの隆盛と滅亡の舞台となります。


北イスラエル王国の離散時期である紀元前721年はスキタイの存亡期間とぎりぎり重なりますので、この「草原の道」はルートとして使用できた可能性があります。



ただ問題点としては、重なる期間がスキタイの最初期であるのでルートとしてどの程度確立していたのかが不明です。

使えたとしてもひどく辛い道程だったと思われます。ルートとして最低限確立していたとしても、その最新情報をいかにして得ることができたのでしょうか?


そして「日ユ同祖論」を支持すると、世界で最初にユーラシア大陸を東西に横断した民族大移動を認めることになります。



・・・・・・まぁ本当に様々な問題を内包している「日ユ同祖論」ですが、前回に引き続き、この時点で否定していると先に進まないので、「草原の道」を使ったってことにします( -д-)ノ


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3.おわりに 
この「日ユ同祖論」に関して書いてると毎回長過ぎて短く切ってるから、目次の意味ほとんどない!( ・Д・)

・・・・・・読みづらいと思いますが、お付き合いください( -д-)ノ



さて少しずつ「日ユ同祖論」が成立するための論理を確認していく中で、問題点を敢えて無視しています。詳しく検討することもなく。

一部の方にはもしかしたら「日ユ同祖論」を弱い根拠によって支持しているように感じるかも知れませんが違います。



論理的に、時間的な前後関係に問題ないように成立する道筋を定めることで、それ以外の可能性を全て否定しているのです。

つまり逃げ場を潰してるのですね( -д-)ノ



(ニュートラルな立場のつもりなんだけど、、、基本的に演繹的な考え方をする「癖」があるのでヽ(TдT)ノ)

こういう効果は後々利いてくる・・・・・・はずですので、「そんなもんか~」って感じでふんわりとお付き合いください、今のところは(*・ω・)ノ

↓たまにはぽちっとしてくださいな!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

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2019ねん 1がつ 14にち(げつよーび、晴れ)

今日は「成人の日」だ。

忘れていた。

成人の儀は遠い過去の話だが、祝日なのは良いことである( -д-)ノ


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↑グアテマラで発見された石彫(「AFP BBNews」の記事内画像を加工;credit: AFP/ Henry MORALES ARANA)


さて、今回の考古学・歴史ニュースは、「グアテマラ、ラ・コロナ遺跡にて1500年前の覇権争いについての記録が刻まれた祭壇が発見される!」です(*・ω・)ノ


発見された場所は、中米、グアテマラ共和国の北部に位置する、ラ・コロナ遺跡です。

古代マヤ都市として有名なティカル遺跡の北西部に位置します。

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この遺跡はさほど大きな遺跡ではありません。それにも関わらず、多くの碑文が刻まれた石彫が出土することで有名です。

よく知られている古典期マヤ文明(西暦250-1000)の中心的な遺跡の多くが現在のグアテマラの領域内に集中しています。このグアテマラは1960~1996年に内戦中であり、この期間に多くの遺跡が盗掘被害に遭い、膨大な数の美術的価値の高い遺物、特にマヤ土器や石彫が世界各国へと売り飛ばされました。


まぁ現在も古典期マヤ文明の中心的な存在であるペテン地域(グアテマラ北部のティカル遺跡や、この記事のラ・コロナ遺跡がある地域)は『盗掘天国』としてしばしば地元新聞に掲載され、問題視されています。


特に美しいマヤ文字を有する土器や石彫の「価値」は高く、個人コレクターやアメリカなどの海外の博物館が多数の資料を有しており、皮肉なことにそのような環境の中でマヤ文字研究は大きく進展していくことになりました。



この碑文研究の中で度々言及されてきた「遺跡Q」が実際にどこであるのかが謎としてあり、1997年にイアン・グレアムとデイヴィッド・ステュアートらによってラ・コロナ遺跡にてQ遺跡と同じ支配者の名前が石碑に刻まれていることを発見したのです。


ちなみにコロナと言えば、メキシコのビールを思い浮かべる方もいるでしょう。瓶に描かれているように、スペイン語で「コロナ=王冠」を意味します。

スチュアートによってラ・コロナ遺跡にある5つの小ピラミッドの並び方が冠を思わせたため、遺跡はラ・コロナ(冠)と名付けられたのです。



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発見された祭壇は石灰岩を彫刻したものであり、大きさは高さ1.46メートル、幅1.2メートル、その重量は約1トンあります。上に挙げた写真の通り、その精巧で繊細な彫刻が見事に保存されていますね。

石灰岩なのに、何故これほどまでに保存状態が良いかと言うと、この祭壇は神殿の内部から発見されたことに由来しています。



(というかこれ、単に石彫ではないですかね。祭壇として機能しそうな感じがしない……まぁ大きい範疇で「祭壇」とされている石彫はそれなりに……あるか( ・Д・) 祭壇の定義って何なんだろう(´・ω・`))


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この石彫の図像はラ・コロナを支配していたチャック・トック・イチャーク(Chak Took Ich'aak)王が杖を持って座り、その杖からラ・コロナの守護神2体が出てきている様子を表現しているとのこと。



また碑文には「544年5月12日」に相当するマヤ象形文字が刻まれており、チャック・トック・イチャーク王がその約20年後に近郊の都市エル・ペルー・ワカ(El Peru-Waka)も支配したことが読み取れるそうです。



さらに碑文は古典期マヤ低地の覇権をかけた争いについて言及しており、蛇の王国として知られるカーヌル王国(カン王国;カラクムル遺跡)がラ・コロナ遺跡で大々的な政治活動を行いったこと、


562年に最大の敵対国であったティカルを倒し、その後マヤ低地を2世紀にわたり支配下に置いたことを示しているとのことです。



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↑ラ・コロナ遺跡の一部、石板の列が見える(↓下のYouTube動画①より加工)


 

↑ラ・コロナ遺跡の調査に関する動画①



↑ラ・コロナ遺跡の調査に関する動画②




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おまけとして、「ラ・コロナ遺跡ってどのような遺跡だろう?」って分かりそうな画像・動画を載せておきますね。


どうやらまだあまり調査が進んでいないようで、全体像が知れるような写真は見当たりませんでした。


それでもラ・コロナ遺跡が精巧な石彫を多く有する稀有な遺跡であることが分かると思います。




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↑石板の長~い列(「Quantum Day」の記事内画像より転載)



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↑さきほどの石板の列を拡大したもの、図像とマヤ文字がうっすらと見える(↑上のYouTube動画①より加工)



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↑上の写真の左二つの石板を拡大し、分かり易く水をかけた状態(「Tulane News」の記事内画像より転載)



浅浮彫なのに、ほんとに保存状態が良いですよね。中小遺跡からもこういった新たな石碑が見つかることで、古代マヤ文明の様相は碑文学の立場からより詳細に具体的に明らかにされていきそうですね!(。・ω・)ノ゙


↓久々のマヤ文明関係のニュースだったね!(*・ω・)ノ↓


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2019ねん 1がつ 13にち(にちよーび、晴れ)

運動しないとな・・・・・・

食事制限だけでダイエットすると、

ストレスたまります!( ・Д・)


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↑仲良く並んだ男女二人の遺体、右の男性が傍らの女性の方を向いている(「CNN.co.jp」の記事内画像より転載; credit: Nilesh Jadav/Deccan College )



今回、紹介する考古学・歴史ニュースは、「インダス文明の遺跡にて寄り添う男女のお墓が見つかる!」です(*・ω・)ノ


この発見が成された場所は古代文明の1つ、インダス文明の中心地だったハラッパーの都市遺跡です。

日本の歴史教育においても「世界四大文明」(かつてはそう言われてましたよね)としてインダス文明を習うと思います。高校の世界史ではハラッパも教科書に出てくると思います。

この発見に関係する記事を見ていると、分かり易さのためでしょうか、インドでの発見って見出しに書いてあるんですよね。


インダス文明って音がインドっぽいけど、インダス文明の標識遺跡であるハラッパーやモヘンジョダロはパキスタンにあります。




上に挙げた画像の通り、ハラッパー遺跡はパキスタンに所在します。分かり易いように日本を右上端に表示し、周辺国の位置関係が分かるようにかなり引いてますので、画面の端が歪んでます(地球丸いので)。

ちなみにインダス文明の別名はハラッパ―文化です。領域としてインドも含みますが、インドの文明というのは思い込みです。インダス川に由来する名称ですからね。



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さて、世界を対象としたマクロな視点では男女が仲睦まじく埋葬される事例がいくつか検出されています。

しかしインダス文明、ハラッパー遺跡にてこのような事例が発見されるのは初めての事例になります。


墓の年代は紀元前4500~2500だそうで、この他にも1個体が埋葬される一般的な墓が数十例確認されているとのこと。


最初に挙げた写真から分かるように、2体の人骨が並べて配置されています。そして右側の男性の頭部が傍らの女性の方を向いた状態になっており、意図的に配置した可能性があるようです。


このような並んで横たわる様子から男女二人は極めて親密な関係にあっただろうと、恐らくは夫婦だったのではないかと推測されています。


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となると「問題は、二人揃って死亡したのか?」ということですね。



男性は35~45歳、女性は20代前半という年齢推定結果が出ていますから、一緒に死んだにしては女性が若過ぎるなと思いますね


(若い奥さんで羨ましいなという意味ではありません、、、羨ましいけども!( ・Д・))。



骨には病気にかかっていた痕跡や殺害された痕跡は見つからなかったとのことです。



また古代には夫が死亡すると妻が後を追って自ら命を絶つしきたりもあったとされていますが、専門誌が今回の発見について述べているようにその事例の引用は不適切だろうと私も思います。



もしそのような風習が一般化しているならば、このような埋葬事例が多数見つかるはずです。



同遺跡の同区域内で数十例の墓が検出されているのに、この1例だけが妻が殉葬するというのはおかしいのです。



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さて、偶然このような年齢差のある夫婦が共に死亡する事例が起きたというのも味気ないですので


(例えば、骨に痕跡が残らないだけで、二人揃って毒キノコ混入のスープを飲んでしまったとか;注:学問的には解釈が別に味気なくても良い)( -д-)ノ・・・





・・・とても個人的な意見として、再葬ではないのか?と思います。



調査者の見解である、女性に対して男性が顔を向けるという配置が意図的なものであると仮定した場合、何故女性は男性側を向いていないのでしょう?


仲睦まじさを表現するのならば、女性も男性側を向いていても良いと思うのですが……





憶測ですが、


①女性が何らかの要因で早逝する。女性は通常通り、上向きの伸展葬で埋葬される。


②夫である男性がその後やや長生きし、死後は妻の傍らに葬るように遺言する。


③男性の遺言に従い、近親者(遺族)は女性の墓を『丁寧に』掘り起こし、その傍らに男性の顔を妻の方に向けて配置して埋葬する。



これなら説明付きそうですし、二人の愛も証明されそうです♡(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


・・・ただし、調査者が再葬の痕跡を見逃していると指摘することになりますが( ・Д・)


↓愛って素敵ですね。私にもお裾分けをお願いします!↓

↓それぽちっとな( ・Д・)↓


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