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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

2019年05月

2019ねん 5がつ 27にち(げつよーび、晴れ)

今晩は論文を書き始めるよ!

誓うよ!( ・Д・)

……ほんとだよ!ヽ(TдT)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「これまで最古のビールの再現って色々あったけど、今回は古代エジプトのイースト菌を実際に使ってみたのだよ!」というお話です!(*・ω・)ノ

どうやら「お酒の考古学」は人気なようなので、バックナンバーを表示しておきますね。


↓『お酒の考古学』のバックナンバーです(*・ω・)ノ
↑良かったらど~ぞヾ(´ω`=´ω`)ノ



さて、古代のビールを再現する研究はこれまでに世界各地で行われてきました。

考古学が明らかにする対象の一つとして「技術」がありますが、これまでの復元研究ではビールをどのような道具を用いてどのような工程で作っていたのかということが焦点でした。

そのため古代に使われていた道具や施設を再現して、古代と同じ材料を用意し、推定される製作工程に沿って作ってみるということを行ってきたわけです。

今回の研究の面白いところは、材料の部分に関して実際に古代に使われていたイースト菌を使ってみたという点にあります。

ではどうやって古代に用いられていたイースト菌を入手したのでしょうか?

近年の考古学研究では、多くの場合、土器を対象として内部に残る残滓(ざんし;うまいこと残った内容物)を対象とした理化学分析が行われています。

日本の事例では土器の内面に残る所謂「おこげ」の分析から、その土器を使って食べていた物が堅果類であったとか、魚介類であったといった研究がなされています。

マヤ文明の事例では同じく残滓の分析から、ココアを飲んでいたとか、コパルというお香を焚いていたとかいった研究がなされています。

また「内容物が~であった」という分析結果から、特定の土器の使い方、つまり「機能」について議論する研究もあります。




ということで今回の考古学・歴史ニュースでは、イスラエル考古学庁(IAA)と、バル・イラン大学(Bar-Ilan University)、エルサレム・ヘブライ大学(Hebrew University of Jerusalem)、テル・アビブ大学(Tel Aviv University)の研究者による共同研究チームが古代エジプトのビールを再現しました。

上に挙げた写真はイスラエル中部にあるペリシテ人の遺跡や古代エジプトと関係するネゲブ砂漠、テル・アビブ、エルサレムなどの複数の発掘現場から見つかった土器です。

これらの土器資料の内面に残る残滓を用いて、6年もの歳月をかけて古代のイースト菌の抽出に成功しました。

彼らは抽出したイースト菌のゲノムを解析し、液体培地で培養しました。

この培養したイースト菌を用いてビールや蜂蜜酒の醸造したのです(・∀・)つ




これまでの研究では古代の製法を使用しても原料は現代のものを使っていました。

上記のように抽出したイースト菌を培養して用いることで、今回の研究は古代のビールを造るために実際にその時代の原料を使用した点で初めての事例となります。

抽出した各種のイースト菌を分析したところ、現在のジンバブエの伝統的なビールやエチオピアの蜂蜜酒に使用されているものと類似の種も確認されたそうです。

抽出・培養されたイースト菌を用いて、研究では数種類のビールと蜂蜜酒が造られました。

用いられたのは約3000年前のイースト菌だそうですが、抽出できたイースト菌の中には約5000年前に遡るものもあるそうです。



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↑古代エジプトっぽいビールジョッキ?マグカップ?(「Amazon」商品紹介ページ内画像より転載;*現在品切れ中&当リンクは商品ページに飛びます、回し者じゃないよ!( ・Д・))



最後に、これはラムセス3世の墓の内部に描かれた壁画の一部です。

パン作りの様子が描かれています。

これまでの説では、パンを作って水に浸して、それを自然発酵させることでビールを作っていたと考えられています。

だから今回のビール作りもパン作りの酵母であるイースト菌を使っていたのですね!(*・ω・)ノ


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さて、どうやらこの研究チームは商品化も考えているそうです。

いいですね~!

「お金にならない考古学をお金にする!」が、「歩け、マヤ」の掲げるモットーですからね( ・Д・)


マヤ文明でもバルチェ酒を研究して販売したいわ!

日本でも似たような古代酒作って、「『考古学徒』はそれ以外飲んじゃダメ!」ってルールにすればどうでしょう!?

どうせ考古学者というかフィールドワーカーは大体みんな、お酒よく飲むでしょ?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓た、頼むから、登録してくれぃ!!!( ・Д・)↓

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2019ねん 5がつ 25にち(どよーび、晴れ)

やっぱりフィールドに出てる時が楽しいな~って思えた。

モチベーション高い内に分析終えて、論文書かなければ( ・Д・)


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↑豊平神社の本殿、お花が綺麗である(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『北海道南部の豊浦町にある豊浦神社に行って、御朱印を頂いてきたよ!』ってことですね。



↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓
↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑧」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


さて、土器資料の調査の際に神社に参拝して御朱印を頂いてきた管理人です( -д-)ノ

ずっと土日も仕事なもので、なかなか神社に参拝出来ていなかったので良い機会となりました。

恒例の基本データから紹介しますね。


【豊浦神社】
住所:虻田郡豊浦町字海岸町25番地
Tel:01428-3-2374
駐車場:なし

祭神:
大國主命(おおくにぬしみこと)


起源:慶応3年4月(1867年)
創立:大正7年9月1日(1918年)

例祭:9月10日


さて、まずは頂いた御朱印のご紹介を( -д-)ノ


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豊浦神社で頂いたシンプルな御朱印(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑豊浦神社の由緒についての記載(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑豊浦神社の本殿(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、最初に述べましたように豊浦神社は道南の豊浦町に所在しています。

北海道の観光スポットのひとつである洞爺湖で有名な洞爺湖町の西隣に位置しています。

豊平神社は「道の駅とようら」から国道37号線を少し北西に進んだところにあります。

ちょうど豊浦駅の辺りですね。

以前、近くのベンベ川に川砂サンプルを採取に来て見つけた神社です。

駐車場はないため、最寄りのコンビニに駐車して5分ほど歩きました。

上に挙げた写真からも分かるように樹々に囲まれた神秘的な雰囲気の神社でした。

本殿や鳥居が木製であり、札幌の神社とは違う自然の中の神社という感想です(*・ω・)ノ

社務所は本殿に向かって左手にありましたが、普通の一般家屋であったため撮影を控えました。

御朱印の初穂料は無料でした。

ちなみにチャイムを鳴らすと神社の方が現れ、スタンプを自分で押すことになります。

朱肉があるわけでもないので上手く押せませんでしたヽ(TдT)ノ

地方の神社に参拝する時は黒と赤の朱肉を持参した方がいいかも知れません。

また写真には写っていませんが、日付の記載もないため、私は端っこに自分で参拝日を書き込みました。

最近は御朱印ブームが続いてカラフルな御朱印が増える中、非常にシンプル!

本来、「参拝の証」なのでこれで良いのでしょう!( -д-)ノ



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↑豊浦神社の本殿の近影(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑豊浦神社の本殿に設置された風格ある木製の扁額(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑見える?小鳥が巣を作っていてなんだかほっこりしました(・∀・)つ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑奥に見えるのが倉庫、手前のこれは何か建設中の模様(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑境内社である金刀比羅神社(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑金刀比羅神社の扁額(「歩け、マヤ」管理人撮影)


豊浦神社はこじんまりとしているようで意外に敷地は広いです。

敷地面積が同程度あるいはより広い札幌の神社に比べて、豊浦神社には多くの建造物が存在しているなと感じました。

そうした多くの建造物の中で豊浦神社には境内社があり、「金刀比羅(ことひら)神社」との扁額がありました。

金刀比羅神社にも鳥居がありましたので、豊平神社の境内には2基の鳥居があるということになります。

では次に鳥居を順番に見ていくことにします(*・ω・)ノ


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↑豊浦神社の入り口の鳥居と石柱(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑豊浦神社の石柱の建立年情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)



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↑豊浦神社は高台にあります(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑境内からは内浦湾(噴火湾)を一望できます(「歩け、マヤ」管理人撮影)



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↑豊浦神社の入り口の鳥居の上部(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑豊浦神社の入り口の鳥居の柱の接合部(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑豊浦神社の入り口の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回も鳥居のデータを取得してきましたので紹介していきますね(*・ω・)ノ


【豊浦神社 / 入り口の鳥居】
①建立:???年(石柱における記載は1957年)
②素材:複合型(金属製とコンクリ製)
③高さ:約5.6m
④直径:45cm
⑤角度:垂直
⑥下部構造:台石


まず建立年に関してプレート等が付随していないので不明でした。

鳥居の上部を見ると塗料の劣化具合から古い感じもするし、下部を見ると新しくも見えます。

この鳥居は3段構成になっています。

下段は表面が金属製で内部がコンクリの所謂「ドラム缶タイプ」のように見えます。

しかし札幌の神社で確認したものよりも金属板がかなり厚いようです。

中段は石材で出来ています。

大理石や花崗岩ではありません。

恐らくコンクリ製で、表面を塗装しています。

上段は金属製になっています。

接続部が腐食していることから金属製であることは分かりますが、内部が何で出来ているかは不明です。

下部構造の台石がひび割れているものの、新しく感じますし、下段の厚い金属板も新しく感じます。

そして下段と中段の接続部は「ドラム缶タイプ」のように接続部だけが溶接によって厚くなっているのではなく、下段の柱そのものが太くなっています。

そのため元々は中下段部がコンクリ製で、補強のために下段を金属板で覆い、新しく台石を設置したのだと考えられます。

この鳥居は古くに建立されてから建て替えを行っておらず、腐食などの要因で悪くなった部位だけを、しかも恐らくは外面だけを修繕することで保っているのかも知れません。

だとすると「あたかも3段構成のように見える」、各部位のちぐはぐな感じの理由が分かりますね(*・ω・)ノ


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↑金刀比羅神社の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑金刀比羅神社の鳥居は木製①(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑金刀比羅神社の鳥居は木製②(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑金刀比羅神社の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


【豊浦神社/ 境内社:金刀比羅神社前の鳥居】
①建立:???年
②素材:木製
③高さ:約3.5m
④直径:23cm
⑤角度:斜め(傾斜角2度?)
⑥下部構造:饅頭


金刀比羅神社前にある鳥居は木製でした!

これまで参拝した神社の鳥居として最初の事例です(*・ω・)ノ

建立年については不明ですが、木製なのでそこまで古いものではないと思われます。

一体どれくらい保つものなのでしょうか……

年齢等々のこともあり、豊浦神社の宮司さんからの聞き取りはできませんでしたが、次に木製の鳥居に出会った際には訊いてみたいなと思います( -д-)ノ

近くで観察してみると、柱に見られる割れ目は新しく、そこから塗料の上塗りをしていました。

土と触れる部分は饅頭によって補強されていますし、木材表面は塗料で保護されていますし、こういう状態だとけっこう長持ちするのかも知れませんね(*・ω・)ノ


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↑最後に、綺麗な花々と狛犬様(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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最後に挙げた写真がお気に入りです(・∀・)つ

豊浦神社は何だか映画やアニメ作品などの舞台になりそうな素敵な神社でした。

調査の前に立ち寄ったので時間帯も早く、参拝者は私と猫1匹でした。

緑の樹々と色とりどりの花々、桜、木造の本殿に囲まれ、振り返れば豊浦湾と港町が眼下に広がり、ゆったりとした時間が流れていました。

ゆったりし過ぎて調査開始時刻に遅刻しましたけどね!(/TДT)/

あと猫さんに写真をお断りされてしまったのが残念でしたけどねヽ(TдT)ノ

↓御朱印集めが趣味な方、かもーん!щ(゚Д゚щ)クァモーン!↓

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2019ねん 5がつ 21にち(かよーび、曇り)

ようやく書類系の仕事が終わる。

急いで資料調査の準備をしなければ~( ・Д・)

……なんだかんだ5日も記事を書いてないヽ(TдT)ノ


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↑美しくも恐ろしい強烈な噴火、恐らく南米、チリにおける噴火である(「Naverまとめ」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは「破局噴火の一つであるタンボラ火山噴火の被害を受けた遺跡が発見され、まさに「アジアのポンペイ」と呼ばれるほどの残存状態だよ!」という内容です(*・ω・)ノ

さて、考古学が関わる人類史上で巨大な噴火は幾度となく起きています。

もっとも有名なのはトバ・カタストロフ理論で知られるトバ火山の噴火でしょうか。

インドネシア、スマトラ島にあるトバ火山は今から7万年前から7万5千年前に大噴火を起こしたことが分かっています。

地球の気温が平均5度も下がるという気候の寒冷化を引き起こし、この寒冷化はその後6000年も続いたと推定されています。

このトバ火山噴火が人類の進化に大きな影響を与えたという学説がトバ・カタストロフ理論です。

トバ火山の噴火は火山爆発指数(VEI;Volcanic Explosivity Index)で最高の8であり、ウルトラ・プリニー式噴火、つまり所謂「破局噴火」に分類されます。

この破局噴火は地球史上で8度起きており、人類史上でも5度起きています。

現生人類の分岐(20万年前~180万年前)をいつにするかによりますが、2~3度は経験しています。

つまるところ、「破局噴火で人類滅亡」と騒いでいる記事も散見しますが、あり得ないと思います。

(現在の都市文明が衰退する可能性は十分ありますが( -д-)ノ)


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↑過去200年間で巨大な噴火をしたタンボラ火山(「フレッシュビーンズ コーヒー日記」さんの記事内画像より転載)


1883年に発生した有名なクラカタウ山の噴火は、その衝撃波が地球を7周もしたと推定されています。

このクラカタウ山の噴火は火山爆発指数6です。

最近の新たな研究成果が上がるまで、今回紹介するタンボラ火山の噴火は過去3700年間で最大の噴火であると考えられていました。

タンボラ火山の火山爆発指数は7であり、その噴火の規模はクラカタウ山の4倍と推定されています。

さて、インドネシア・スンバワ島に所在するタンボラ火山は1815年に噴火し、その際に10万人強が遭難しました。

タンボラ火山は噴火した当時、マルク群島、ジャワ島、バリ島およびロンム島等を含み幅広い範囲が一瞬の内に壊滅しました。

この際に三つの王国が灰に埋もれてしまったと考えられています。

約1万人が高温を帯びた空気、火山灰および降りかかった砂利、火砕流に埋もれて死亡したと推定されています。

更には噴火後の伝染病および大飢饉によって、死者が約11万7000人の大災難となりました。

この1815年4月のタンボラ火山噴火の影響で、大量の火山灰が舞いあがり長期間にわたって、空気中に漂っていたため、太陽の光熱を遮り、世界的規模の気温下降を誘発しました。

そのため翌年の1816年は夏季がなかったとされる規模の影響です。

この超大規模の噴火によって「ポンペイのように」あっという間に被害に遭い、当時の状況をそのままに火山灰によって覆われてしまった遺跡が発見されました。

タンボラ遺跡と命名された同遺跡はアメリカのロードアイランド大学、カロライナ大学、インドネシア火山研究学会の考古学者らが共同で調査を行い発見したものです。

タンボラ遺跡からは遺体2体が往時の状態のまま保存された家屋が発見されました。

他にも木造の宮殿が残存していることが確認されています。

同遺跡はポンペイ遺跡の事例のように高い文化価値があり、当時の人々の生活、家屋および文化が1815年のままに保たれているため、今後は慎重に調査を行い、遺跡を完全な状態のまま保存する計画が進行しています。

保存状態の良好な木製農機具、紡錘車、磁器、炭化した稲モミ、建物部材、ビンロウ使用具、クリス(短剣)など多種多様な品々がこれまでに出土しており、インドネシア国立考古学研究所デンパサール地方事務所(Balai Arkeologi, Denpasar)にて一般公開されています。

これらの出土遺物等の分析からこれまでに分かっていることとして、当時の人々は非常に裕福で、ベトナム人およびカンボジア人との繋がりがあり、言語も現在の東南アジア地区に分散して使われているモン・クメール語と関連していると推測しています。




ところで、2番目に挙げた画像が現在のタンボラ火山の様子であり、巨大なカルデラになっているのが分かります。

現在ではタンボラ火山は2755mの標高を有します。

大噴火により山の上部の三分の一が吹き飛んだと考えられ、噴火前には4000m級のインドネシアで最高峰の山だったと推定されているのです。


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↓ポンペイについて触れた記事(*・ω・)ノ
↑良かったらあわせてどうぞ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


タンボラ火山の噴火は本当に大きな噴火であったことが分かりますね。

それでもこれで火山爆発指数は7です。

トバ・カタストロフ理論のトバ火山の場合は8ですから、クラカタウ山の事例を基に単純に計算するとその衝撃波は地球を56周くらいしてる!?( ・Д・)

カタストロフ(破滅)の名は伊達じゃないようです。

それでも負けない人類はなんだかんだ強いですね!(・∀・)つ

↓どうかTwitterで拡散しておくれ!( ・Д・)↓

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2019ねん 5がつ 30にち(もくよーび、晴れ)

22連勤目、疲れが溜まってきたようだ。

あと15連勤ある……

しかし学生時代の強制参加の無給(むしろ大きくマイナス)の発掘調査(15連勤くらい?)を思うと、超余裕である。

社畜ならぬ、「学畜」とか「院畜」という言葉はないのだろうか?( ・Д・)

今を苦しむ学生・院生諸氏のために拡散してたもれ!

……「いんちく」か、「うんちく」くらいしか知らないな( ・´ー・`)ドヤぁ


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↑古墳築造のための石材運搬の様子(復元)、「木製のそり」を使用している(「エナガ先生の講義メモ」の記事内画像より一部加工)


今回の考古学・歴史ニュースは、「国内で2例目となる古墳時代の石材運搬に用いたと考えられる木製の大きな「そり」が見つかったよ!」というお話です(*・ω・)ノ

国内で2例目、東日本では初めての事例となり、希少な歴史的発見なのです。

というのも、この「そり」は木製ですからね、そもそもなかなか残らないのです。

また「そり」は石材運搬に用いたと考えられる「実用品」ですから、お墓に丁重に副葬された他の木製品とは異なり、使ってた人々の「残そうという意思が薄弱」です。

壊れたらその辺にポイっと捨てたかも知れませんし、バラして薪として使ったかもしれません。

後者の場合はほぼ後世に残りませんよね。

もしそうしていたなら、古墳時代の人々よ、見事なリサイクルである( -д-)ノ




さて、出土した遺跡は千葉県木更津市に所在する松面古墳(まつめんこふん)です。

帰属時期は7世紀前半です。

松面古墳は祇園・浜長須賀古墳群(ぎおん・ながすがこふんぐん)の一つで、一辺約45mの方墳であり、周濠(しゅうごう;古墳の周りにある濠(ほり)のこと)から今回の修羅の一部が出土しました。

上に挙げた写真のキャプション、あるいは記事タイトルにあったように、「そり状の巨石運搬具」を「修羅(しゅら)」と言います。

最初に挙げた復元図でも、あるいは恐らく皆さんが見慣れているであろう古代エジプトのピラミッド建築の復元予想でも、「コロ」の上に台を載せて、その上に石材を積んでみんなで押したり引っ張ったりしていると思います。

その「コロの上の台」が見つかったということです。

日本の古墳時代の例ではコロの上の台が「V字状のそりのような形態」を成しています。

修羅と呼ばれるようになったのは近世以降とされており、その語源は「運搬する大石をタイシャクと読み、それを帝釈天に引っ掛け、帝釈天を動かせるものは阿修羅すなわち修羅であるとの語呂合わせからきたものとされている(wikiより転載;一部筆者修正)」そうです。

上に挙げた画像から分かるように、今回見つかった修羅は長さ約140cmの破片であり、大きな修羅のほんの一部ということになります。


分析結果から使用された木材はムクノキであることが分かっています。


一部とはいえ、良く残ったなぁと思いますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑しっかりと原型を留めていますね(「文化遺産オンライン」の紹介ページより画像を転載)



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↑下にミニのそりが見えるカワ(・∀・)イイ!!(「藤井寺市HP」の修羅紹介ページの画像より転載)



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↑サイズが大きいのがよく分かりますね(「組積石工技能」の記事内画像より転載)



さて、上に挙げた画像は国内で最初に見つかった修羅のものです。


1978年(昭和53年)に大阪府の藤井寺市に所在する三ツ塚古墳で発見されました。


こちらも周濠の底から出土しています。


この事例では大小2つの修羅が同時に出土しており、大型の修羅は全長8.8mに及びます。


先ほど紹介した松面古墳の事例ではおよそ三分の一が残存している状態で140cmでしたから、本来の全長はおよそ4.5mくらいと推定できます。


三ツ塚古墳の修羅はその2倍程度の大きさということになりますね。


まぁ個人的には小さい修羅の方が好きですけどねカワ(・∀・)イイ!!





この大型修羅は実は一本の木を丸彫りして作っています。

幹がちょうど二股に分かれた巨大なアカガシの樹を利用して作られているのです。

どの写真にも綺麗に加工された「孔」を見て取れます。

石材の固定の際に紐・縄を通すのに使用した孔であったり、あるいは前方部の孔は引っ張るための縄を通したものと考えられます。

注意して写真を見てみると、どれも綺麗な長方形に穿孔されていて、丁寧な加工が施されていること、そして素晴らしい保存状態であることが分かりますね(*・ω・)ノ


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さて、最後に挙げました写真のように、三ツ塚古墳にて出土した修羅は大阪府南河内郡河南町にある「近つ飛鳥博物館(ちかつあすかはくぶつかん)」にて展示されています。

非常に貴重な資料ですから、「国宝・重要文化財」に指定されています。

この博物館は陵墓・古墳に関する遺物を多く収蔵しており、古代の国際交流と国家の形成過程をテーマとしています。

興味ある方は是非足を運んで、直接その大きな修羅を目の当たりにしてみてください。

(例によって回し者ではありません、というか私も行きたい!( ・Д・))

↓ところで検索流入では何故か「超古代文明」が1位らしい……↓

↓うち専門ブログだから思いっきり批判してるけど大丈夫か?( ・Д・)↓


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2019ねん 5がつ 19にち(にちよーび、晴れ)

運動不足解消のためにランニングしてみた。

軽い筋トレ、ストレッチもした。

習慣になると良いが……

ついでに腹筋も割れてくれると尚良いのだが( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは『アングロサクソンの王族の墓から鯨の骨を加工した精巧なボードゲームが見つかったけど、遊び方が分からんよ!』と言う内容です(*・ω・)ノ

「ゲームの考古学」のテーマは以前も少々扱ったので紹介しておきますね。


↓バックナンバーです(*・ω・)ノ
↑2本しかこれまでにこのテーマで書いてないのねヽ(TдT)ノ



6世紀のアングロサクソン王家の墓から出土したゲームに関する遺物は、木製のゲームボード、鯨の骨で作った2点のサイコロと57点のカウンターです。

賭博も含めたゲームに関する副葬品はこれまでにも発見されているようですが、セットとして出土することは非常に珍しいのです。

木製のゲームボードについては情報はありませんが、あまり状態が良くないのかも知れません。

イギリスに旅行に行く人や、在住の方は是非、サウスエンド中央博物館に行って、写真撮影して情報を頂けると幸いです( -д-)ノ



鯨の骨を使って製作されたもののため、サイコロとカウンターについては保存状態が良好です。

上に挙げた写真がゲームに使用したカウンターと思われる資料です。

全57点ありますが、装飾などは見られず外見に違いがありません。

そのため「トークン」のような何らかの数を数えるために用いたのかも知れません。

ゲームボードがどのようなものか不明なため詳細は分かりませんが、オセロのように用いた可能性もあります。

このカウンターの特徴は片側だけが山なりになっている点なので、バランスは悪いですが、表裏のある駒として使用することもできるでしょう。



サイコロは非常に精巧に作られています。

特に数字記号の掘り込みは特殊な道具を使用して彫り込んだものと思われます。

サイズも微細な特徴も深さも一定ですからね。

ただしそれぞれの掘り込み点の配置は均等配置ではないため、「穴を一つ開ける専用の道具」があって、それを手作業で彫りこんでいったと推測されます。

今回発見されたボードゲームセットがどのようなルールのものだったのかは最終的に不明なのが残念ですヽ(TдT)ノ

しかしゲームカウンターの存在からチェスのような頭脳戦の戦争ゲームとも考えられますし、サイコロの存在から同時に以前に紹介したレースゲームのような偶然に左右されるゲームであったとも考えられます。

あるいは一つのボードゲームセットでその両方がプレイできたかも知れませんね。




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前回の記事で初めて「この遺物は何でしょう?」クイズを出してみました。

今回は「ウォーリーを探せ」的な感じで出題してみました。

こういうことが出来る記事内容は限られているでしょう。

それでも考古学・歴史に興味をもってもらうためにもちょっとした娯楽性があってもいいのかな~と思うので新たな試みとして「考古学クイズ」をやっていこうかなと考えています。

……まぁそもそも「歩け、マヤ」の読者の皆様は、既に考古学・歴史が好きだと思いますけども!(・∀・)つ

↓読者登録をお願いしております!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカ-マ!↓

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2019ねん 5がつ 17にち(きんよーび、晴れ)


この前、追加の調査に行ってきた。


河川で砂のサンプルを採取する簡単な作業。


やっぱフィールドワークは楽しいな~って思った。


……そうして、私は川に落ちたのであった( ・Д・)



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↑AIが頑張って考えてくれるイメージ(「Business Insider Japan」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは『近年急速に発展している機械学習を利用してAIに未解読の古代文字であるインダス文字を解析してみた』と言う内容です(*・ω・)ノ


インダス文明は紀元前5500年~紀元前1900年にインダス川流域に栄えた文明で、現在のパキスタンに主要遺跡が所在しています。


このインダス文明の遺跡で発見されているインダス文字は現在も未解読の古代文字として有名です。


インダス文字は土器や粘土板、印章に見られ、これまでに約1500点の資料が確認されています。


それなりに出土量が多いようにも思えますが、どれも短文であることが特徴です。


最長でも27文字しかないため統計的な解析が困難であり、現在も未解読の古代文字となっています。


実際にインダス文字は「文字なのか?」あるいは「象徴なのか?」という根本的な問いについても論争中であり、今回紹介する研究成果では「インダス文字は文字である」可能性が高いと結論付けられました。



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↑インダス文字の例(「知識の空間 ー中学生のための社会科講座ー」さんの記事内画像より転載)



これまでの研究としては1877年のアレクサンダー・カニングハム(Alexander Cunningham)による、インダス文字が現在の中央アジアから東南アジアにかけて使われているブラーフミー系文字の祖先だとする主張があります。


また1960年代にはマヤ文字研究で著名なユーリー・クノロゾフ(Ю́рий Валенти́нович Кноро́зов)が早くもコンピューターを用ってインダス文字の解析を行っています。


この解析結果としてインダス文字には名詞、形容詞などの文法的特徴が見られると指摘しています。


2004年にはスティーブ・ファーマー(Steve Farmer)が、現存するインダス文字は政治的、宗教的な象徴(シンボル)を表すものであると結論付けています。



今回紹介するのは2009年にラジェス・ラオ(Rajesh Rao)によって共同研究として発表されたものです。


彼は考古学や言語学が専門なのではなく、機械学習が専門です。



彼はAIに4種類の話し言葉(古代シュメール語、サンスクリット語、古代タミル語、英語)と4種類の話し言葉ではない伝達システム(人間のDNA、フォートラン、バクテリアのタンパク質配列、人工言語)を学習させました。


そしてパターン分析により、各言語に存在する規則性のレベルを計算しました。


結果として「話し言葉ではない言語」は、高い規則性を持つものか、まったく秩序がないものであり、「話し言葉」はその中間でした。


その結果を踏まえて、インダス文字をパターン分析にかけたところ、文法的な規則性が検出されました。


そしてこの検出された規則性は「話し言葉」と同程度の適度な規則性を有していることが分かりました。


どうやらインダス文字は話し言葉であり、単なる象徴ではなかったようです(*・ω・)ノ



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↑こんな時代が来ないことを願うばかりである( -д-)ノ(「悠々自適な会社の-neko-になる」さんの記事内画像より転載)



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インダス文字が象徴ではなく言語であると分かったことは大きな進展ですね。


ただしマヤ文字のように、インダス文字が解読され当時の様子がよく分かるようになった、ということではないのです。


AIに関する技術は近年大きく発展しているので、やはり長文の文字資料を発見すること、そして文字資料数を増加させることが課題と言えるでしょう。


……便利な世の中になるのは大事なことですが、上に挙げた画像のように、研究者が要らないなんて時代が来たら怖いですね~( ・Д・)


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2019ねん 5がつ 13にち(げつよーび、晴れ)

今日もいい天気である。

お散歩したいが、時間がなさそうだ( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは『イギリス、サウスエンド=オン=シーで発見されたアングロサクソン王家初期の王子の墓と副葬品が博物館・デジタルミュージアムで公開されたよ!』ってお話です(*・ω・)ノ

発見の舞台はイギリス、エセックス州にある自治都市サウスエンド=オン=シーです。

イギリスには「MOLA」という考古学調査・分析会社があり、日本における建設工事に伴う緊急調査を請け負ったりしている会社です。

MOLAには多数の考古学者が在籍しており、各分野の分析専門家も配置しているそうです。

所謂、「調査会社」というよりは「独立した研究機関」の方が近いかも知れません。

名前も「ロンドン考古学博物館(Museum of London Archaeology; MOLA)」ですし、国立研究機関が独立法人化したのかも知れませんね。

さて、このMOLAが依頼を受け、プリトルウェル修道院公園の端を発掘調査したところ、非常に豪華な埋葬遺構が検出されました。

この発見は2003年になされ、2005年まで継続的な発掘調査がなされました。

それから14年もの年月を経て全ての分析を終え、一般公開となったわけです。


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この埋葬遺構からは様々な副葬品が出土し、当時のアングロサクソン王家の埋葬儀礼の様子が明らかとなりました。

例えば副葬された大きな釜や杯は王族・貴族を招くパーティーの主催者としての被葬者の立場を示し、目の上に置かれた十字形の黄金製品は被葬者がクリスチャンであることを示しています。

上に挙げた写真のように木製品などの腐敗しやすい資料も多く出土しています。

それらの貴重なアングロサクソンの工芸品や古代の楽器について、考古学を始めとして工学、土壌科学といった様々な専門分野から成る40人以上の専門家チームによって分析・研究が行われました。

彼らにより炭素年代測定や、土壌微細形態学による分析、CTスキャン、ラマン分光法、走査電子顕微鏡法による分析、質量・組成分析に至るまで様々な分析・研究が行われたために公開まで長い年月がかかったわけです。



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ところで、今回の考古学・歴史ニュースは「アングロサクソン」についてのお話です。

アングロ・サクソン(Anglo-Saxons)は、5世紀頃に現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部へと侵入してきた「アングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称」である。特にこの中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いた。
(参考:wikipedia)

このようにアングロサクソンはイングランドの基礎を築いた集団であり、彼らの使用した言語が現在の英語の基礎となったという歴史があります。


イングランドは一時期デーン人(現在のデンマーク周辺に勢力を持つ集団)によって支配されていましたが、アングロ・サクソン人の支配は1066年のノルマン・コンクェストまで続きます。

アングロサクソン人、デーン人、ノルマン人と色々出てきて複雑な印象を受けますが、どれも結局ゲルマン系民族の集団なのです( -д-)ノ



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さて、今回は写真が盛り沢山になっていますが、これまでに写真で紹介したように本当に様々な副葬品が多量に出土しています。

これらの副葬品は地元で造られた製品も多く含まれていますが、その品質は非常に高いものです。

一方で下部に挙げる写真に見られる美しい青いガラス製の容器のような輸入された贅沢品の存在は初期のアングロサクソン王家の権威の強さを分かり易く示しています。

この王家の墓に埋葬された人物の候補としては、調査の最初の段階では6~7世紀にキリスト教に改宗したことが知られている2人の東サクソン王が挙げられました。

それはエセックス王のサベルト王(Sæberht)または彼の孫のシゲベルト2世(Sigeberht II)です。

前者は西暦616年に亡くなり、後者は西暦653 年に殺害されています。

いくつかの遺物の証拠が7世紀初頭の日付を示したことから、サベルト王である可能性が高いと考えられていました。

しかしながら、その後木製遺物等の植物依存体を対象とした炭素年代測定法から、埋葬時期がサベルト王の死去時期の少なくとも11年前である西暦575年から605年であることが示されました。

この結果、最新の研究成果として、この墓の帰属年代は6世紀後半頃であり、被葬者はサベルト王の兄弟であるサークサ(Saexa)である蓋然性が高いと推定されています。



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さて、長くなりましたが最後に、今回の発見や研究に関する最新の情報は『MOLAのウェブサイト(英語サイト)』で公開されています。

また王家の墓から出土した多数の豪華な出土品はイギリスのサウスエンド中央博物館に常設展示されているそうです。

……やっぱり黄金とか多くの人々の関心を集める出土品はいいな~って羨ましく思いますね( ・Д・)

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2019ねん 5がつ 11にち(どよーび、晴れ)

低反発枕でたっぷり寝たら元気になった!

睡眠障害もない、神経痛も軽減された。

祖霊神社で頂いた「清めの塩」を枕の下に入れたおかげか。

あるいは低反発枕の効果か?

神社の回し者になるか、低反発枕の販売会社の回し者になるか、悩ましい所である!( ・Д・)

だが、両者に感謝する、ありがとう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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↑札幌祖霊神社の本殿、実質2階にある(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『平成最後の日に多賀神社に、令和最初の日に札幌祖霊神社に参拝して、御朱印頂いてきたよ!&鳥居のデータ取ったよ!』ってことですね。



↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓
↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑦」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


さて、GW中だけれども忘れずに「平成最終日」と「令和初日」の御朱印を頂いてきた管理人です( -д-)ノ

写真の量の問題もありまして、札幌護国神社の中にある多賀神社については今回の記事へと分割してお伝えすることになりました。

ということでまず多賀神社について最初にお話したいと思います。

恒例の基本データから紹介しますね。


【札幌多賀神社(札幌護国神社内に所在;境内社)】
住所:札幌市中央区南15条西5丁目
Tel:011-511-5421
駐車場:あり

御利益:
延命長寿
縁結び

祭神:
伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)
相殿奉斎(旧山鼻神社)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)
天満宮大神(てんまんぐうのおおかみ)
耳早立雄大神(みみはやたつおのおおかみ)

創設:昭和24年(1949年)に多賀大社より札幌護国神社へと鎮座
昭和46年(1971年)に山鼻神社より多賀神社へと相殿奉斎

大祭日
宵宮祭:8月7日
例大祭:8月8日

小祭
節分祭:2月3日

祭事
厄祓:2月3日
七五三祭:10月15日



さて、ここで一旦、次に紹介する祖霊神社も併せて頂いた御朱印のご紹介を( -д-)ノ


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↑平成最後の多賀神社で頂いた御朱印と、令和最初の札幌祖霊神社で頂いた御朱印(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑札幌護国神社で頂いた神社情報、下部が多賀神社の内容(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑多賀神社の社務所(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、最初に述べましたように多賀神社は札幌護国神社の境内に所在しています。

上に挙げた写真が、札幌護国神社の社務所の左隣にある赤い鳥居を抜けて歩いていくと右手に見える多賀神社の社務所の入り口になります。

本殿は多賀殿とされていて屋内にあるそうなので、恐らくこの中でしょうか。

ちなみに入り口は別々ですが、札幌護国神社の社務所と繋がっています。

そのため御朱印を頂くのは札幌護国神社の方の社務所になっています。

御朱印の初穂料は300円でした。

ちょうど「御創祀70周年だった」のでその記念のスタンプや可愛らしいカエルが緑色ですし、馬は青色で、基本となる黒・赤色と合わせてカラフルな仕上がりになっています。


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↑多賀神社の入り口の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑多賀神社の鳥居の建立年情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回も鳥居のデータを取得してきました。

多賀神社には鳥居が1基、建立されていました。

札幌護国神社における計3基の鳥居のひとつということになります。

それでは鳥居のデータを紹介していきます。


【多賀神社 / 入り口の鳥居】
①建立:1973年
②素材:金属製(中空構造)
③高さ:約5m
④直径:36cm
⑤角度:斜め(傾斜角1度)
⑥下部構造:台石


ぱっと見、新しい印象を受ける鳥居ですが、建立年はそこまで新しい部類ではないですね。

そう言えば今までのところ、北海道における古い鳥居を見つけていないように思います。

開拓使の開始が明治2年(1869年)ですから、素材にもよりますが1800年代末の鳥居が残っていても良いというか、残っていて欲しいという気持ちでいます( -д-)ノ

この多賀神社の鳥居は、建立に関するプレートの劣化具合からすると、赤く塗り直していると思われます。

およそ半世紀前に建てられた時も赤色だったのでしょうか?

気になるところです(*^・ェ・)ノ

今後はそういう部分について聞き取り調査をしてもいいのかも知れませんね。



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↑札幌祖霊神社の本殿(「歩け、マヤ」管理人撮影)




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↑札幌祖霊神社の蔵、素敵な印象(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑令和時代の幕開けを感じます、右下の礎石は何だろう( ・Д・)(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑札幌祖霊神社の社務所内の様子(「歩け、マヤ」管理人撮影)



【札幌祖霊神社】
住所:札幌市中央区南5条西8丁目
Tel:011-531-7306
駐車場:なし


祭神:
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
天神地祇八百万神(てんじんちぎ やおよろずのかみ)
氏子祖霊神(うじこそれいしん)
天祖三神(てんそさんじん)
大国主神(おおくにぬしのかみ)
産土大神(うぶすなのおおかみ)
皇霊神(こうれいしん)

創設:明治4年(1871年)



さて、ここで再度、祖霊神社の御朱印のご紹介を( -д-)ノ


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↑平成最後の多賀神社で頂いた御朱印と、令和最初の札幌祖霊神社で頂いた御朱印(「歩け、マヤ」管理人撮影)


令和初日ということで(?)金色の文字で書いて頂きました!

めでたい感じがしますね(*・ω・)ノ

開拓史の象徴であり、現在も多くの高校で校章で用いられる北極星のマークがここ札幌祖霊神社のシンボルでもあります。

現在では「サッポロビール」のマークとして知られているこの「五稜星」は、開拓使が北に向かう際に目印にした「北極星」を意味しています。

この札幌祖霊神社は明治4年という開拓使の初期に、開拓使次官の黒田清隆の発案により創祀されたという歴史を有しています。

そのため、札幌祖霊神社のシンボルも五稜星なのです(*・ω・)ノ

うむ、桜のスタンプも可愛らしくて良いですね(・∀・)つ

あと駐車場はありませんが、この道路はけっこう空いてる道ですので、短時間であれば停められるかなと思います(゚∇゚ ;)エッ!?

近くには有料駐車場もありますのでそちらを利用するのが最善かとは思います。



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↑札幌祖霊神社の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑札幌祖霊神社の鳥居の建立年情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑札幌祖霊神社の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、こちらも鳥居のデータを取得してきました。

札幌祖霊神社には鳥居が1基、建立されていました。

それでは鳥居のデータを紹介していきます。


【札幌祖霊神社 / 入り口の鳥居】
①建立:1981年
②素材:金属製(中空構造);ドラム缶タイプ
③高さ:約4m
④直径:36cm
⑤角度:斜め(傾斜角2度)
⑥下部構造:台石


開拓使初期の1872年に創設されているので鳥居も古いかなと思いきや、新しかったです。

恐らく最初期の鳥居は木造であったと思われます。

しかし明治44年(1911年)に火災に遭っており、社殿諸共消失してしまったのでしょう。

大正15年(1926年)には石造の鳥居が建立されています。

もう火災被害に遭わないようにという願いが込められているように感じますね( -д-)ノ

昭和56年(1981年)には現在の金属製の鳥居が建立されています。

こう見ると、鳥居は境内のスペースの問題もあるのか、どんどん新しいものに建て替えていく傾向にあるようです。

古くは木材によって鳥居が造られていたことから耐久しなかったことも関係しているでしょう。

つまり現存する古い鳥居の数は極めて限られた数しかないということであり、鳥居の起源を探るのは難しそうですね~ヽ(TдT)ノ

この辺が考古学の難しさであり、かつ魅力かも知れません。

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ちなみにこの札幌祖霊神社の鳥居は「ドラム缶式」でした。

北海道ではけっこう多いのかなと思っているアレです。

でも少しこれまでのドラム缶式とは異なる部分がありました。


①ドラム缶の一つ分が長く、明らかに縦長である。

②上部では継ぎ目部分を見えにくく加工している。

③これまでのドラム缶式に比べて細身である。

④これまでのドラム缶式とは異なり、柱が傾斜している。


この札幌祖霊神社の鳥居が、北海道内の神社でよく見られるドラム缶式鳥居の原型だと良かったのですが(話が上手く進む( ・Д・))、まぁ新しく建立していることもあり、どちらかというと新しいバリエーションのようですね( -д-)ノ



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↑札幌祖霊神社の石碑、火災前から建っているのだろうか(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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これまでの北海道の鳥居の傾向は、印象では、明神系のような装飾されたものはなく、シンプルな神明系ばかりであるなと思っています。

またドラム缶式が多いな~とも思っています。

ところで鳥居を新しく立て直す時も、以前の形は気にしていないのでしょうか?

今度訊いてみようかなと思います(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓御朱印集めが趣味な方、かもーん!щ(゚Д゚щ)クァモーン!↓

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2019ねん 5がつ 11にち(どよーび、晴れ)

なんだか最近、体調が悪いなと思っていた。

ふと枕を変えてみたら、劇的に快復した気がする!

気のせいだろうか!?( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは、以前の記事における『古典期後期(CE600-900)の土製人形の製作工房がマヤ考古学史上初めて見つかったよ!』って内容を確認したよって話です(*・ω・)ノ


↑ほとんど同内容ですけどね、混乱っぷりが分かる!( ・Д・)


さて、前回の記事で、混乱がありましたが、原文に当たりまして原因が分かりました!

やはり予想通り、最初に参考にした記事が間違っていたようです。

グアテマラ南部の山岳地帯を「南部高地」と呼んでいますが、その中における『コバン市での土製人形製作工房の発見』の記事と、『グアテマラ市における大量の土器破片資料の廃棄』に関する記事を混同して書いていたようです。

恐らく参考にした海外の記事の執筆者は、土製人形の製作工房と同定された遺構から大量の土器破片資料が確認されたことを強く意識したために、現代の考古学者による大量の土器破片資料の廃棄の写真を発掘調査で出土した資料と間違えたのでしょう。

まぁ専門からすれば、前の記事の最後に書いたように、出土した資料と新しく廃棄した資料の違いは明確なのですが( ・Д・)


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まとめると、私が参考にした記事は、本来2つの異なる記事を混ぜてしまっていました。


【元の記事の種類】
記事A:コバン市における土製人形の製作工房の発見
記事B:グアテマラ市、カミナルフユ遺跡の紹介と現代の考古学者による土器資料の大量廃棄に関する記事

【予想される混同の原因】
①両者とも大量の土器破片資料について書いている。
②両者ともマヤ文明、古典期に関する内容である。
③両者ともグアテマラ国内における話である。
④両者とも同時期のマヤ高地における話である。


ということで、今回は記事毎に整理して簡単に紹介します(*^・ェ・)ノ


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記事A:史上初!マヤ高地にて土製人形の製作工房が検出された!

グアテマラ、アルタ・ベラパス県のコバン市に所在するアラゴン遺跡で土製人形の製作工房が検出されました。

この遺跡は私有地にある遺跡であり、新たな建物を建設する工事によってマウンドを削ってる最中に見つかりました。

マウンドとは昔の建造物が崩れて時間が経過したことで土を被った遺構で、マヤ地域の場合は多くの場合、丸みを帯びた長方形の「土饅頭」のような状態になっています。

日本には文化財保護法がありますので、新たな建設工事の際は届け出が必要であり緊急調査がなされるわけですが、海外では多くの場合そのように保護されていません。

大体の場合は近現代の工事によって遺跡や遺構は破壊され、出土した遺物は個人のコレクションになったり、売り飛ばされたり、そのまま破壊・廃棄されたりします。

今回のケースでは工事の主体者がアメリカ人マヤ考古学者の友人だったようで、工事中に多量の土器破片資料が出土したことから連絡を取ったそうです。

検出された土製人形の製作工房は工事によってかなりの部分が破壊された後でしたが、それでも数千点に及ぶ土器破片資料と、400点以上の土製人形や人形の「型」の資料が出土しました。



出土した土器破片資料の分析から、帰属時期は750~900 CE、古典期後期後半と推定されています。

古代マヤ文明にはマヤ文字を刻んだ石碑がありますが、経済に関する情報は含まれていません。

そしてこれまでに古典期に属する明確な土器やその他の土製品に関する製作工房は検出されておらず、重要な発見と言えます。

私も土器経済を明らかにし、そして碑文研究で示される都市国家間の政治的関係との相関性について明らかにしたいと考えていますが、今後マヤ文明における古代経済について少しずつ解明されていく予感がしますね(・∀・)つ


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記事B:現代の考古学者によるカミナルフユ遺跡における多量の土器破片資料の廃棄


この記事の舞台はグアテマラの首都、グアテマラ市にあるカミナルフユ遺跡です。

グアテマラ市(以下、グアテマラシティで記述)は、コバン市よりも約89km、南側のより標高の高い地点に位置しています。

この遺跡は元々は巨大な湖の周辺に栄えた大都市でしたが、近現代における首都の成長と共に大部分が消え去ってしまいました。

上に挙げた2枚目の写真のように、一部が遺跡公園として保存されており、その周辺はすぐに住宅街となっています。

遺跡公園にはJICAの協力で建設された小規模の博物館の他、上に挙げた写真に見られるような古代マヤ文明の建造物が見られる展示があります。

またカミナルフユ遺跡の他の一部であるミラ・フローレス地区は、その名の通り「ミラ・フローレス」と呼ばれるショッピングモールに残っています。

そこでも小規模の博物館の他、神殿マウンドが展示されています。

両者とも規模は小さいですが、比較的新しい建物であることもあり綺麗です。

そして展示されている遺物も展示方法も素敵です(・∀・)つ

グアテマラでもお金のあるところにはあるんですけども、メキシコ等と比較すると文化遺産活用はまだまだですし、所謂「貴重な・美術的価値のある考古資料」以外は一般はもちろん行政面でも興味がないようです。

つまるところ、素敵な資料の展示ケースを買うお金やそのための広いスペースを確保するお金はあるが、分析に使用する他の多量の出土資料を保管しておくスペースを確保するお金はないということです(/TДT)/

で、問題の写真がこれ( -д-)ノ


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実際には日本でも土器資料は廃棄されています。

しっかりと何をどこにどれだけ捨てたかを記録した上でですが。

特に日本では現代の建設工事に伴う緊急調査によって日々膨大な量の考古資料が出土していますから、保管する場所に困るわけですね。

しかし土器の数量化に関する研究や、土器胎土分析等の定量分析に関する研究、そして熊本大学の研究では土器破片資料も重要です。

特に熊本大学の小畑教授によるレプリカ法は土器資料から新たなデータを引き出す方法として非常に面白いなと思っています。


↓このような研究もあります(*・ω・)ノ
↑良かったら併せてどーぞー( -д-)ノ


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確かに増加し続ける全ての資料を保管するのは物理的に無理かもしれませんが努力はしたいですよね。

少なくとも廃棄の前に、現在可能な手法によるデータの採取を全て終えてから廃棄してもらいたいな~と思います。

実際にこのカミナルフユ遺跡で出土した土器破片資料の内、博物館にて保管できないものが、上の写真のように廃棄され始めているようです。

蛍光X線分析装置(中古で300万円、新品で800万円くらいする( ・Д・))をゲットできれば、廃棄前に全部のデータを集成するのにな~と思う今日この頃(´・ω・`)

研究費取れなかったら、やっぱりクラウドファンディングかな。

その時は皆さん、応援よろしくお願いします(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

ちなみに元記事にあった1500万点という数字の出所は、50年ほど前の考古学者が推定したカミナルフユ遺跡全体から出土するであろう総土器破片資料数のようです。

↓捨てられる運命の土器資料からデータを引き出すための機材購入のために応援して下され!( ・Д・)↓

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2019ねん 5がつ 10にち(きんよーび、曇り)

散歩するとストレスが30%も減るらしい(・∀・)つ

今日はけっこう歩いてみたから、ストレスを減じることができたはず!(・∀・)

……なので頭痛がする

神経痛らしい……何故だ!?( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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↑札幌護国神社の本殿、立派である(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『平成最後の日に札幌護国神社に参拝して、御朱印頂いてきたよ!&鳥居のデータ取ったよ!』ってことですね。



↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓
↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑥」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


さて、以前に宣言していた通り、「平成最後の日」に御朱印を頂いてきました。

GW中だし、忘れそうだな~と思っていましたが何とかなりました( -д-)ノ

では、まずは札幌護国神社の基本データから紹介しますね。


【札幌護国神社】
住所:札幌市中央区南15条西5丁目
Tel:011-511-5421
駐車場:あり

祭神:
北海道開拓祭神
各戦役戦没祭神
公共殉職祭神
其他特殊祭神

創設:明治12年(1879年)

大祭日
合祀祭:7月5日
例大祭:7月6日
後日祭:7月7日

中祭
元旦祭:1月1日
平和記念祭:8月15日
除夜祭:12月31日

小祭
節分祭:2月3日
月次祭:毎月1、10、20日
日供祭:毎日午前7時
命日祭:月次祭後、午前11時より繰上げ執行

特殊神事
大祓式:6月30日、12月31日
彰徳苑みたま祭:6月第1土曜日


さて、では頂いた御朱印のご紹介を( -д-)ノ


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↑札幌護国神社で頂いた御朱印、左は同神社内の彰徳苑の御朱印(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑札幌護国神社で頂いた神社情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑境内にある趣ある建物(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑敷地内はかなりの規模の広場になっている(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑本殿に入る門(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑春を感じますね~ヾ(´ω`=´ω`)ノ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑大小様々のたくさんの慰霊碑・記念碑がずらーっと並んでいました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑本殿前も大きな空間が広がっています(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑札幌護国神社の本殿(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、札幌護国神社は中島公園の南側に位置しています。

道路は挟みますが、中島公園を抜けてそのまま散策できるコースになっています。

境内はすごく広いです!

境内には多賀神社と彰徳苑があり、そのため3種類の御朱印を頂くことができます。

(多賀神社については次回紹介しますね( -д-)ノ)

前回、烈々布神社の御祭神の数は9柱で、北海道で最も御祭神の多い神社として紹介しました。

しかし札幌護国神社は各戦役戦没祭神、公共殉職祭神、其他特殊祭神を祀っているため、合計25549柱の神々を祀っているそうです。

桁違いの多さですねΣ(・ω・ノ)ノ

札幌護国神社の社務所は本殿に向かって左手に進んだ先にあります。

社務所だけではなく境内内の全ての建物が木造で、非常に趣を感じました。

社務所の入り口にかかっている古い裸電球が特によい感じでした(・∀・)つ

さて、御朱印の初穂料は300円でした。

先に述べたように3種類の御朱印を頂けるので計900円です。

また札幌護国神社のオリジナルの御朱印帳がありました!

靖国神社・護国神社の御朱印帳も販売していたので、2種類の御朱印帳を購入することができます。

また他の神社と違って、自らの神社を紹介するパンフレットがなく、代わりに縦に長い神社情報を記した紙がありました。


頂いた御朱印は、春だからでしょうか、桜のスタンプがありました。

緑色のスタンプや、彰徳苑の紫色のスタンプもあるためこれまで頂いた札幌における御朱印の中ではカラフルな部類に入ると思います!(*・ω・)ノ


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↑旧校舎のようにも見える社務所、平成最後のせいか人が多かったです(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑やはり「旧校舎」っぽい!(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑社務所の入り口にある古めかしい電球(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑様々な品が販売されています(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑オリジナルの御朱印(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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ところで、札幌護国神社には駐車場があります。

車で入れるのは神社の東側、豊平川方面からのルートになります。

徒歩で来る場合は、車と同様のルートの他、中島公園側から入ることができます。

全体的な敷地はとても広いのですが駐車場はさほど広くありません。

それでも車を10台近くは停めれると思います。

「平成最後の日」だからでしょうか?

参拝客が非常に多く、駐車場もいっぱいでした。

ご結婚された方が境内で着物姿で記念写真撮影されていたりもしていました。

もしかしたら普段も祭事やイベントで駐車場は混み合っているかも知れません( -д-)ノ


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↑入り口の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑入口の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑入口の鳥居の建立年情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回も鳥居のデータを取得してきました。

札幌護国神社には鳥居が3基、建立されていました。

多賀神社については次回に紹介しますので、今回は2基の鳥居について紹介します!

それでは順に鳥居のデータを紹介していきます。


【札幌護国神社 / 正面入り口の鳥居】
①建立:1934年
②素材:花崗岩製
③高さ:約6m
④直径:53cm
⑤角度:斜め(傾斜角2度)
⑥下部構造:丸み台石(薄い)


*(上記赤文字部、修正しました!ご指摘ありがとうございました(*_ _)ペコリ)

正面の鳥居は花崗岩製の大きな鳥居でした。

高さの割にはやや柱が太いなという印象です。

また特徴として台石が非常に薄いものでした。

丸みを帯びていることから、非常に薄い饅頭とも言えそうな中間的形態です( -д-)ノ

今後の調査でも、こういった台石構造の事例が多く見つかれば、名前を別途付けて分類した方が良いでしょう。


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↑中島公園側の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑鳥居の建立・奉納年月日の情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)


【札幌護国神社 / 中島公園側の鳥居】
①建立:2001年
②素材:金属製(中空構造)
③高さ:約4.7m
④直径:36cm
⑤角度:垂直
⑥下部構造:台石(大きい、台座状)


中島公園側に建立された2基目の鳥居は金属製でした。

台石は大きいものでした。

前回のものと同様のグループとして「台座」という下部構造枠を作っても良さそうですね。

今回のケースでは階段の段差との関係も考慮しなければならないのかなと思っています。

ということで分類枠を増やすのはもう少し事例が増えるまで待つことにします( -д-)ノ


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↑札幌護国神社で売っていた御朱印帳のひとつ

*これは印字されている通り、靖国神社と全国の護国神社用の御朱印帳だそうです。

内面の各ページには全国の御朱印を押せるように、それぞれの神社の名前が書かれています。

つまるところ、「靖国神社、護国神社に対する全国スタンプラリー台紙のようなもの」です。

自由に任意のページに任意の神社の御朱印を頂く、通常の御朱印帳とは異なりますのでご注意ください!(*・ω・)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回はGW中ということもあり、たくさん散歩して、色々と写真を撮りました。

なので写真が盛り沢山になってしましましたね( -д-)ノ

さて、御朱印集めものんびりと進み、今回で参拝した神社は7社目です。

実はまだ鳥居のデータの整理はしていません。

10社目を巡り終えた時点で一度、鳥居にに頭の傾向がないか確認してみようと思います!

これまでのところ、一つの神社に複数の鳥居がある場合、様々な種類の鳥居があるなという印象でした。

以前にも書いたように、これは鳥居の形態と神社の御祭神が無関係であり、奉納者の好みによるとの先行研究の記述を表すと思っていました。

・・・・・・それにしてもバラバラ過ぎない?

わざと色々な種類の鳥居を設置していない?

そのような気がしてきた今日この頃です(*^・ェ・)ノ

さて、次回は同じく「平成最終日」の札幌護国神社内の多賀神社、そして「令和初日」の札幌祖霊神社を紹介しようと思います。

乞うご期待!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓御朱印集めが趣味な方、かもーん!щ(゚Д゚щ)クァモーン!↓

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