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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

2019年06月

2019ねん 6がつ 22にち(どよーび、激しく雨)

ここの日記スペースに何を書くべきかをいつも悩む(´・ω・`)

下手すると本文以上に悩んでいる( ・Д・)


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↑仙台市、沓形遺跡の所在(「Googleマップ」より画像を転載)


今回の考古学・歴史ニュースは、「仙台市、沓形(くつかた)遺跡で弥生時代に水田を廃絶してしまうほどの大津波の痕跡が見つかったよ」というお話です(*・ω・)ノ

さて、前回スマトラ島沖地震を発端とした過去の大津波被害について考古学調査が明らかにしたよというお話を紹介しましたが、今回は日本の事例です。


↓これです(*・ω・)ノ
↑もう読みました?ヾ(´ω`=´ω`)ノ


上に挙げた図から分かるように、沓形遺跡は,宮城県、仙台市の東部にある遺跡です。

標高2~4mの後背湿地に立地しており、現在の海岸線から約3.8~4.km内陸に位置しています。

この沓形遺跡では最も新しい層では近現代の水田造営の痕跡が見られる層が確認されていますが、古くは縄文時代から弥生時代、古墳時代、平安時代と水田が営まれ続けた地点であることが分かっています。








この遺跡は2007年にに地下鉄東西線建設に伴う試掘調査が実施され、調査面積は213,600㎡にも及びます。

上の1枚目の写真から分かるように広大な遺跡であり、良く見ると「白いライン」が無数に走っているのが見て取れます。

これは2枚目の写真で分かるように、古代の「畦(あぜ)」を示したラインになります。

ちなみに「畦(あぜ)」とは「稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの」です。       (wikipediaより引用)

分かり易い図を探していたら「畦カバー」なる商品の紹介画像を見つけたので、貼っておきました(いつものように回し者ではありません( -д-)ノ)。

上図の中で「ピンク色の矢印が付いている部分」が畦に相当する箇所であり、植えてある稲の周囲にある盛り上がった部分のことを言うわけです。


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さて、この沓形遺跡の地点は先に述べたように、現在の海岸線から4kmほど内陸に位置していますが、今からおよそ2000年前の弥生時代には2kmほど内陸に位置していたようです。

発掘調査から弥生時代に1度、この一帯が大きな津波被害を受けたことが確認されました。

上に挙げた写真で見られるように、水田を覆う「砂の層」が確認されたのです。

この砂は粒度組成分析などによって海浜起源の砂であることが明らかになりました。

この砂の層によって弥生時代中期の水田跡は完全に覆われており、津波被害によって廃絶したことが推定されました。

そしてこの場所に再び水田が営まれるのは古墳時代前期であり、つまり約400年後にようやく再開したことから確認された津波被害は当時のの集落に大きな影響を与えたことが推測されます。

この発見に伴い、沓形遺跡を中心とする周辺地域での津波堆積物の分布調査が実施されました。

それによって約2,000年前に生じた津波の遡上距離は当時の海岸線から約4.2㎞と算定され、2011年に発生した東日本大震災の津波(遡上距離約4㎞)と同規模の大津波が弥生時代に仙台平野を襲ったことが明らかになりました。

また沓形遺跡は2014年まで複数回の発掘調査が実施され、弥生時代中期に営まれていた水田域は東西約300m、南北約1.2km、面積20haを超える広範囲に及ぶことが判明しました。

これが全て約2000年前の津波被害で廃絶されてしまったことが分かったのです( ・Д・)



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ここ最近、多忙を理由に記事の紹介ができていませんでした。

時間が取れてもサクッと書けるような記事を選択していたので、特に考古学関係のニュースには触れていなかったです。

「考古学・歴史ニュース」という副題に恥じぬよう善処していきますね( ・Д・)( ・Д・)

前回のスマトラ島沖地震・津波関連記事を書いていた時から、日本における事例の紹介をしようと思っていたので、ようやく紹介できてよかったなと思います。

この事例では「東日本大震災と津波被害の前に」この範囲まで津波が到達して大被害をもたらしていたことが考古学的に分かっていたわけです。

こういった古代の地震や津波の被害が判明している事例は他にもたくさんあると思いますが、現代の地震・津波に対する避難対策といった防災にどうにか役立てることはできないものかと思いますね(。・ω・)ノ゙

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2019ねん 6がつ 20にち(もくよーび、激しく雨)

太ももが激しい筋肉痛である

筋トレし過ぎた( ・Д・)


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↑本殿周辺はまだ明るく、普通の神社に見える(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『道南、豊浦町にある住吉神社に行ったら、御朱印の代わりに朝から肝試し体験を頂いたよ!』ってことですね。



↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓
↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑨」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


さて、またまた久しぶりに神社に参拝してきた管理人です( -д-)ノ

今回も資料調査の際に参拝してきました。

見込みが甘過ぎた結果、資料調査はあと2か月以上続きそうなので、今後は調査地に着くまでに見かけた神社に参拝していこうかなと考えています。

では恒例の基本データから紹介しますね。


【住吉神社】
住所:北海道虻田郡豊浦町礼文華
Tel:???
駐車場:なし

祭神:
???

創設:???

宵宮祭:6月29日(推測)
例祭:6月30日(推測)


ということでほとんど情報が得られませんでした。

2013年~2015年まではお祭りの情報も散見されましたが、最新情報はありません。

町おこしイベントで2015年の正月までは活用されていたようですね( -д-)ノ

御朱印を頂けなかったこともあり、今回はいつもとは異なる形式で記述していきます。

つまり私が実際に参拝し、撮影した順に従って紹介していきたいと思います。


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住吉神社の入り口にある鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑住吉神社の入り口の鳥居の柱(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑住吉神社の入り口の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


【住吉神社 / 入り口の鳥居】
①建立:???年
②素材:金属+コンクリ製(ドラム缶タイプ)
③高さ:約4.7m
④直径:30cm
⑤角度:斜め(斜度4°~8°)
⑥下部構造:円形台座(22cm)


まず住吉神社の入り口にはドラム缶タイプの鳥居が1基ありました。

これまでに見た鳥居よりも柱の斜度が強いなという印象でした。

計測してみると左右でかなりバランスが異なるので大丈夫なのかなと心配になってしまいました( -д-)ノ

この鳥居は札幌市の神社でよく見かけた「ドラム缶タイプ」の鳥居ですが、表面を覆うために使われている金属板が非常に薄かったです。

建立年の手がかりになる情報は一切ありませんでしたが、金属の劣化具合から察するにそう古い物ではないようです。


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↑けっこうな高さの石段(「歩け、マヤ」管理人撮影)



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↑植物が繁茂している(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑石段中腹部でもかなりの高さです(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑下からはファインダーに収まらないため上から撮りました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑住吉神社の2番目鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


最初の入り口の鳥居を抜けて少し進むと石段が見えてきました。

中腹部に次の鳥居が見えているのですが、かなりの高さにありました。

住吉神社は漁の盛んな沿岸部に所在するため、入り口の鳥居周辺では独特の「潮の香」が強かったです。

しかし石段は植物が繁茂して鬱蒼としているので、上り始めるとすぐに「山の匂い」に変わりました。

ほんとに虫と草でいっぱいな石段でした(/TДT)/


【住吉神社 / 石段中腹部の鳥居】
①建立:???年
②素材:金属+コンクリ製(ドラム缶タイプ)
③高さ:約3.37m
④直径:24cm
⑤角度:垂直
⑥下部構造:方形台座(13cm)


石段の中腹部にある鳥居もドラム缶タイプでした。

ただこちらはやや小型であり、支柱の角度が垂直のものでした。

こちらの金属板も薄いものでしたが、入り口の鳥居よりは厚かったです。

厚みまでは計測していませんが札幌市の神社でこれまでに見てきたドラム缶タイプに近いかなという印象です。

そしてやはり建立年に関する情報はなかったです。

緑青(?)のような着色は見られましたが、これだけ多量の植物に近接していて、常時水分にさらされている割には大きな劣化は見られないため、この鳥居も比較的新しいものかと思います。

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↑ようやく頂上が見えてきました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑本殿まであと少し(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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↑破損した御手洗の石彫(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑住吉神社の狛犬様(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑本殿に到着(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


数えていませんが石段はかなりの段数がありました。

石段は下部・中腹部に・上部で様子が異なり、中腹部の石段だけが角が丸く削れていて危険でした。

上るにはさして問題はありませんでしたが、やはり植物の関係で濡れていて滑るため、降りる際が非常に危険でしたヽ(TдT)ノ

ですので、もし住吉神社に行く際は足元にご注意ください。

社殿は非常に真新しく綺麗でした。

社務所はなく、御朱印はいただけませんでした。

本殿の手前部分以外は多量の植物に覆われていました。

本殿の前方部だけは日が差し込んでいるので明るく、雰囲気が良かったです。

御手洗の石彫は破損していました。

写真を撮ろうとすると何故か「バーコードを読み取りました」って表示されて「!???」ってなりましたね(TДT)

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↑狛犬様と奉納の日付……奉納者の名前が削り取られている?(´?д?;`)(「歩け、マヤ」管理人撮影


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↑分かりますかね、本殿の右手はいきなり真っ暗になるのですヽ(TдT)ノ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑立派な樹木がた~くさんありました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑スーツパンツじゃなきゃ問題ないのに( -д-)ノ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑本殿の真後ろに隠れるようにあったお社(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、社務所がないので御朱印を頂けず、建立年情報もないので帰ろうかなと思っていたら、奥に建物が見えるんですよね。

資料調査の関係でそれなりにびしっとした服装&革靴だったので辛かったですが、周辺を散策してみました。

すると本殿裏手にひっそりと赤いお社があるのを発見しました。

小さなお社ですが、まさに「畏怖」と言いますか、神々しさと共にちょっと何だか怖いなと感じました。


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↑奥に建物が続く……(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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↑3基目の鳥居①(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑3基目の鳥居②(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑2つ目の社殿の裏手に石碑がありました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑石碑の横には廃棄された石材がありました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


奥に鳥居が見えたので、行かないわけにはいかず、頑張って突き進んでみました( -д-)ノ


【住吉神社 / 入り口の鳥居】
①建立:???年
②素材:木製
③高さ:約4.5m
④直径:19cm程度
⑤角度:垂直(?)
⑥下部構造:なし


2つ目の社殿には「金比羅大権現」とありました。

木製の鳥居は珍しいですね。

「貫(ぬき)*」の部分は方形に整形された木材ですが、その他の部分は丸太の状態で使用しています。

よく腐敗しないな、と感心してしまいました。

新しい感じもしないんですけどね( -д-)ノ


↓*鳥居の構造、部位名称については以下を参照

何故か、ここの神社ではお社や石碑が社殿の真裏に位置していて、正面からは見えないようになっています。

これまで他の神社を参拝した際には気付きませんでしたが、そういう配置もあるということで今後は気にしてみようと思います(。・ω・)ノ゙


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奥にまだ建造物が続く……(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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↑3つ目の社殿(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑3つ目の社殿の右手奥に青いお社と別の建造物(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑植物に埋もれた青いお社(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑トイレがありました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


更に奥には青いお社がありました。

鳥居とか赤色が使われているのはよく目にしますが、青色はちょっと珍しいなと思います。

私、怖いのダメなんで、この時にはもう帰りたいなと思っていましたヽ(TдT)ノ

青いお社の奥にはまた別の建物が見えましたが、ぱっと見で使われていなさそうな雰囲気だったので、近づくのをやめました(/TДT)/

青いお社から斜面を少し降りると別の小型の建造物があったので、確認してみたらトイレでした。

新しく見えますが、電気は通っていませんでした。

ちなみにこの記事の最後に、トイレのドアを開けてみた動画を載せておきました。

見渡す限り山だし、木と草と普段使われていない建物しかなく、鳥の声が響くだけなので何か怖くなり、全ての社殿とお社の前で手を合わせて帰ってきました。

資料調査の無事もお祈りしてみました。

結果、この後すぐの暇つぶしの河川調査で川に落ちました(ρ゚∩゚) グスン


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↑綺麗に撮れた!ヾ(´ω`=´ω`)ノ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑帰り道、清々しい頂上からの眺め(「歩け、マヤ」管理人撮影)



↑これで私もユーチューバー……ば~っ!!!( ・Д・)

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写真にあるように、本殿の傍にある樹にはおみくじが縛り付けられていました。

一人っきりで植物をかき分けて歩いていたのでなんだか怖かったですけども、おみくじはけっこう新しいものに見えますので、きっとお正月やお祭りといった行事の際には整備されるのかなと思います。

最後に挙げたのは境内の様子を撮影した動画です。

面白味はないかも知れませんが、短い動画ですので良かったら雰囲気を感じてみてくださいヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

(チャンネル登録も是非してね!(*^・ェ・)ノ)

ということで今回はイレギュラーでしたが、次回辺りそろそろ鳥居のデータを一度整理してみて、紹介したいと思います(*・ω・)ノ

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2019ねん 6がつ 13にち(もくよーび、ちょい雨)

明日は3週間ぶりの資料調査。

資料調査に1ヶ月なら短いなと感じていた頃が懐かしい。

今では最大でも月に2日、計12時間程度しか資料を見れないのだから( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは、「京都の遺跡で14世紀の居館と巨大な堀が発見されたよ!」というお話です(*・ω・)ノ


発見の舞台は犬飼遺跡で、京都府の亀岡市曽我部町犬飼に所在しています。


上に挙げた写真で分かるように、かなり大きな範囲が調査されています。


それもそのはず、国営農地の整備を目的として約1400㎡もの範囲を調査したのですΣ(・ω・ノ)ノ


発見されたものは大きく3つです。


  1. 居館
  2. 各種遺物


それでは、ひとつずつ見ていきましょう(。・ω・)ノ゙




1.堀で区画された方形居館


まず検出された居館は「方形居館」と呼ばれるもので、中世の時代に武士や有力者が居住したと考えられる建造物です。


出土遺物から帰属時期は13世紀後半~14世紀前半と推定されています。


つまり鎌倉時代の終わり頃から室町時代の前半期、南北朝時代の頃のものと考えられます。


方形居館が立地する敷地の周囲は堀で囲まれており、その堀によって敷地は明瞭に2つに区画されています。


大きな区画は約500㎡、小さな区画は約350㎡のサイズだそうです。


この2つの区画内からそれぞれ1棟ずつの建造物が検出されました。


検出された柱の跡(柱穴遺構)から、大きい区画に存在した大きな建造物は居住用の板張りの建物(母屋)であったと考えられます。


一方で小さい区画に存在したより小さな建物は太い柱が使用されており、用途の異なる建物であったと推定されています。


下に挙げる写真のように、柱穴の保存状態は極めて良好であり、希少な発見と言えます。



2.近畿最大級の巨大な堀


さて、堀は全部で3本確認されました。


最大幅が約8m、深さ約2mのV字形で、当該時期としては最大級の規模です。


当時、この堀には1m程度の深さで水が張られていた跡も確認されました。


検出された3本の堀の内、2本はL字型のもので、前述の大小2棟の建造物を囲んでいたものです。

区画している堀の内、大きい堀は南北27m、東西約30mで、小さい堀は南北27m、東西約20mの規模でした。

当該時期は鎌倉幕府の力が弱まる一方、楠木正成ら地方の武士が力をつけ始めた時代でもあります。

また犬飼遺跡の東約7kmには、室町幕府・初代将軍の足利尊氏(1305~1358年)が、鎌倉幕府を倒すため挙兵した篠村八幡宮があるそうです。

よってこの方形居館の帰属時期は南北朝時代への移行期に当たること、最大級の巨大な堀は戦乱に備えた防御用だったと考えられます。




3.様々な遺物、当時の高級品が出土した!


堀の中からは多数の遺物が出土しました。


詳しいことは分かりませんが、堀が埋まらない程度に簡易のゴミ捨て場としても機能していたのかも知れませんね。


堀埋まっちゃうからダメ!って言われても楽して近場に捨てたくなるのが昔も今も人の心でしょうかΣ(・ω・ノ)ノ


この堀の中からは口径12~13cm程度の瓦器椀(がきわん)やわらじといった日常品が多く出土しました。


更には漆器や中国製の白磁や緑釉(りょくゆう)陶器といった高級品も出土しました。


このように中国産の天目茶碗を始めとする高級品が出土したことから、犬飼遺跡で検出されたこの方形居館は中世の武士などの有力者の住まいであったと推定されています。



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4.犬飼遺跡と方形居館の歴史的位置付け

今回の事例のように、堀と建物の遺構が両者共に良好な状態で検出されることは珍しいことです。

特に方形居館内部の全体構造が分かる点で重要な意義を有しています。

また丹波と摂津を結ぶ交通の要所に地元の有力者が居館を構えていたが、堀の規模と建造物の造りから、当該時期が動乱期であったことを具体的に示す事例となるでしょう。

当時の時代背景から、有力な武将が一時的に設けた陣の可能性もあるようです。

方形居館遺構の居住者が、足利方か南朝方、鎌倉幕府なのかも含めて、課題は多いですが成果が楽しみな調査研究ですね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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2019ねん 6がつ 11にち(かよーび、晴れ)

新たな試みにより、心身共に快復傾向にある。

その結果、どうやら再び疲労を自覚できるようになった。

そのため、眠い!ひたすら眠い!( ・Д・)


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↑緑豊かな環境にある本殿(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『札幌市中心部にある諏訪神社に行って、御朱印を頂いてきたよ!』ってことですね。



↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓
↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑨」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


さて、久しぶりに神社に参拝してきた管理人です( -д-)ノ

前回の資料調査の際に参拝したのが最後だったので3週間も開いてしまいました。

連勤も終わるので、またぼちぼちと再開したいと思います。

恒例の基本データから紹介しますね。


【諏訪神社】
住所:北海道札幌市東区北12条東1丁目1番
Tel:011-711-0960
駐車場:なし

祭神:
建御名方命(たけみなかたのみこと)
八坂刀売命(やさかとめのみこと)

創設:明治15年(1882年)に多賀大社より札幌護国神社へと鎮

宵宮祭:9月11日
例祭:9月12日


さて、まずは頂いた御朱印のご紹介を( -д-)ノ


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諏訪神社で頂いた「書き置き」の御朱印(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑諏訪神社の由緒についての記載(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑巨大な樹が立ち並ぶ諏訪神社の境内(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑札幌市の保存樹に指定されているご神木の一つ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、諏訪神社は札幌駅から少し離れてはいますが、最寄りの神社であり、かつ夏祭りで賑わう神社だと思います。

御朱印収集を始めて、札幌市街地には想像以上に多くの神社があるんだなと思い知ったわけですが、個人的に夏祭りと言えばここな気がします。

ちょっと外れにあって、緑もあって、伝統的なこじんまりとしたお祭りが催されている感じが良いです。

実際にはどこの神社も例大祭を行っていますし、北海道神宮祭や中島公園のお祭りが有名ですが、人が多過ぎますしね( ・Д・)

諏訪神社の比較的近くには小学校、中学校、高校、大学と揃っていることから、特に若い層の家族連れで諏訪神社の夏祭りは賑わっているイメージです。

また諏訪神社の御利益として「子宝」と「縁結び」が特に有名ですから、それも若い層の人々に人気の理由かも知れませんね(*・ω・)ノ

あ、本殿裏手や社務所裏手には交通量等の問題で一時的に停車できますが、駐車場はないので徒歩での参拝をお勧めします。

さて、上に挙げた写真からも分かるように諏訪神社は大きな樹々に囲まれた神社でした。

鳥居を抜けてすぐに更に大木の間を抜けていく感じが良かったです(・∀・)つ

本殿や社務所が古い木造の建物で、ある種の「旧校舎」のような趣を感じましたね。

本殿に向かって左手に社務所があります。

御朱印の初穂料は300円でした。

たまたま御朱印を書ける方(恐らく普段書いている達筆な方)が不在のため、初めて「書き置き」の御朱印を頂きました。

調べてみると、どうやら御朱印帳に「糊付け」すればよいみたいですね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


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↑本殿の正面(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑諏訪神社の入り口の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)



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↑諏訪神社の石碑(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑諏訪神社の石碑の建立年情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑諏訪神社の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


さて、今回も鳥居のデータを取得してきましたので紹介していきますね(*・ω・)ノ


【諏訪神社 / 入り口の鳥居】
①建立:???年(石碑における記載は1957年)
②素材:石製(花崗岩製)
③高さ:約5m
④直径:36cm
⑤角度:斜め(斜度4°)
⑥下部構造:饅頭


まず建立年に関してプレート等が付随していないので不明でした。

狛犬様の石材は見るからにより古い印象を受けます。

それに対して、入り口にある鳥居や石碑群はいずれも花崗岩製で同じ真新しさを感じます。

そのことから恐らく石碑に刻まれた建立年が鳥居のものと一致するでしょう。

前回の豊浦神社の鳥居も建立年が不明でしたが、今後建立年が不明な資料が増えていきそうな予感ですね。

何か対策を考えねばと思います( -д-)ノ

石製の資料も増えてきましたが、高さはいずれも5~6m程度な気がしますね。

今回の諏訪神社の鳥居の特徴は久々の饅頭という下部構造を有している点と、支柱の斜度がキツイという点です。

諏訪神社の鳥居は1基ですし、他に特徴を見出すことはできませんでした( -д-)ノ


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↑諏訪神社の入り口にあった看板(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑やはり木製の造りは良いなと思う(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑諏訪神社の境内の様子(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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↑社務所の裏手に転がる石材群(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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さて、上の写真のように社務所の裏手で石材が転がっているのを確認しました。

多くは古い「石灯篭」の破片かと思います。

役目を果たして、本来の場所から移動させられて、廃棄される。

それでもテキトーにごちゃっと捨てているのではなく、完形の部位は右端に集めていたりして、廃棄の際の石材の配置にも何等かの意味を感じ取れる気もします。

こういうの、なんだか考古学っぽいですね~・・・・・・なんて!( ・Д・)

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2019ねん 6がつ 10にち(げつよーび、晴れ)

天気が良いので散歩した。

「真の散歩とは目的がないものを言う」という本を読んだ。

個人的には目的地があっても、辿り着くまで&帰り道を楽しめればそれで良いと思う( -д-)ノ


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↑どうです?この「いかにも」な怪しいタイトル画像.!?。゚+.(・∀・)゚+.゚(「Forbes」の記事内画像を加工)


今回はちょっと趣向を変えて、「よく見かける成功者がやっている習慣を、実際にやってみた!」というお話です。

いつもの考古学・歴史ニュースとは関係ないので悪しからず( ・Д・)

さて、先日Youtubeを見てて、『成功者が共通して行っている朝の習慣』というのを発見しました。

まぁ前からこういうのは巷に溢れているなぁと思ってはいました。

コメント欄に、「成功した後に時間余ってるからやっているのではないか?」、「一般の人は日々に疲れててそのような余裕はない」などと批判的な内容がずらりとあったのが気になりまして、実際にやってみたらどうかなと思い至ったわけです。

40連勤の最後の一週間に実施したので、忙しくて疲労困憊な方にも、「あ~、こんな感じかぁ」とわかってもらえるかと思います( ・Д・)




成功者がやっている朝の3つの習慣+アルファ

まずは成功者がやっている朝の習慣を紹介します。

  1. 早起きする
  2. 運動する
  3. 瞑想する

こう並べてみると、驚くような特別なことは何もしていないものですね。

習慣にしているかは別にして、個別の項目はけっこうよく聞きますし、まぁ普通なことかなと思います。


私の場合は、
  1. 6時に起きる
  2. 筋トレする
  3. 10分の瞑想をする
という感じでやってみました。


「6時に起きる」に関しては何時でも良かったのですが、キリよく12時に寝て6時に起きてみようと思ったのが理由ですね。

何よりも「睡眠時間を6時間」に設定して、残りの18時間を有効に研究生活に充てようと考えたからです。

かのアインシュタインは研究職に就くまでの在野研究者であった期間に、1日を8時間×3時間と考えて、「生活していくための勤労時間」、「睡眠時間&炊事・洗濯等の諸々の生活時間」、「研究時間」にしっかりと分けて生活していたそうです。

「運動する」は軽く筋トレすることにしました。

朝起きてすぐに簡単な体操と筋トレ(腕立て、腹筋、背筋、スクワット×10を1セット)をするだけです。

「瞑想」は10分間だけで、何も考えないのではなく、今日やるべきことに打ち込む自分を想像することにしました。

『世の成功者』がやっている朝の習慣は上記のものだけですが、私はいくつかアレンジを加えることにしました。

  1. 筋トレ後に冷たいシャワーで目を覚ます
  2. 朝に梅干しを食べる
  3. 朝にコップ一杯の水を飲む
  4. 朝ご飯は「炭水化物」を積極的に摂取する
  5. 朝、その日に行うタスクをスケジュール帳に書いてから朝の瞑想を行う
  6. 腕時計を身に着け、スマホを極力使わないようにする
  7. 心身ともに本当に疲れたと思ったら、酒を飲まずに、美味しい物食べて即寝る
  8. 夜寝る前に、何も考えない方の「瞑想」をする

「梅」についてはこの前、調査の時にお土産として買ったものが家にあったというのが理由として大きいですが、「酸っぱいから目が覚めるかな、身体に良さそう」という理由もちゃんとありますヽ(TдT)ノ

「コップ一杯の水」については、今は亡き祖母が「身体にいいよ」ってそんなこと言ってたな~とふと思いだしたからです、ただそれだけ!

スマホとお酒については依存してると感じていたので改善することにしました( -д-)ノ


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↑この人は疲労困憊してないね!( ・Д・)(「マナラボ」の記事内画像より転載)


心身ともに疲労困憊な状況で実際にやってみた結果

【1日目の夜】
夜に思い立ったので、夜からスタートしました。

なので、「何も考えない方の瞑想」をしつつ、12時頃に就寝しました。

結果、瞑想に不慣れなため「雑念が多過ぎて、むしろ考え事し過ぎて寝付けなかった」です( ・Д・)

まぁ落ち着いて自分と向き合うことはできたように思えます。


【2日目】
やると決めた「成功者の習慣+α」は全て実行しました。

ただ朝は起きれませんでした。

そもそも寝れてないし!(´・ω・`)

そのこともあって、この日の晩は睡眠不足と疲労ですぐに寝れました。


【3日目】
やると決めた「成功者の習慣+α」は全て実行しました(毎回実行しているのでこの後はもう書きません( ・Д・))。

ふと気づくと、ブログはあまり進まないものの、研究は進んでいました。

一日のやるべきことを記入しているおかげか、優先順位の高いものを後回しにしなくなっています。

良い傾向です、ブログ書いてないけどね(/TДT)/


【4日目】
ルーティンをさくっとこなして、朝の梅干しとお茶漬けが美味いな~と感じるだけでしたので、ようやくこの習慣に慣れてきたのだと思います

まぁ朝は起きれていないんですけどね!(TДT)

夜の「何も考えない方の瞑想」にこの日ようやく慣れることができました。


【5日目】
5日経ってようやく朝6時に起きることができました。

睡眠時間はこれまでよりも短くなったわけですが、快調です。

筋トレも軽過ぎるかなと思って、もっとアドレナリン出て目が覚めるように、各15回にしてみました。

一方で朝の瞑想の効果がイマイチ分かりませんヽ(TдT)ノ


【6日目】
「数学者は服を着ない」という話を聞きました。

京都大学の某教員は大学院生時代にほぼ裸で徘徊していて警察のお世話になったとか……

アルキメデスも裸で町を走り回ったのだとか……

「やはり研究者には休日などなく、気が触れるまで研究に没頭しなきゃ」と思っていましたが、気が変わりました。

「メリハリをつけて研究を行えば良いのであって休む時は休まなきゃだめだ」と、ようやくまともな思考能力が返ってきました( -д-)ノ


【7日目】
体重が自然と減って、腹筋割ろうかなと再び思えるようになりました。

また仕事のための最低限の身だしなみでいいやと思っていたのに、もうちょっと気を遣おうと思えるようになりました。

そして何よりも40連勤が終わり、久々の休みが来ることが嬉しくてたまりません(・∀・)つ




実際にやってみた結果、結論!

以前は、土器等の遺物を扱うのに邪魔なので腕時計をしなくなってしまい、スマホで時間を確認していたし、何かとスマホ依存していたのに、スマホなしでも問題なくなりました。

これが精神面・時間面で一番大きい成果かも知れません。

一気に生活習慣を見直した形になったので、どれが効果あるのか分かりませんし、プラシーボ効果かも知れません。

まぁでも「成功者の朝の習慣」は悪くないなという結論に至りました。

ただ、これを習慣化したからと言って「成功者の仲間入りするかどうかは別問題」であると思います(( ・Д・))

個人的にはプラスの効果があったので、継続してみようと思っています。

……何事も気持ちの持ちようですかね?

結局、変わろうと思い立って、前向きに実践する姿勢が最も大切なのかも知れませんね(。・ω・)ノ゙

↓気が向いたら押しておくれ……あ、さては気が向いたね!!!?( ・Д・)↓

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2019ねん 6がつ 7にち(きんよーび、曇り)

なんだか天気がよろしくない。

次の晴天時は絶対にお散歩する!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

いかに暑かろうとも!( -д-)ノ


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは、「現代の地震・津波被害を発端に、考古学調査によって約600年前の大津波の被害によって歴史から消え去った王国がスマトラ島で発見されたよ!」というお話です(*・ω・)ノ

今回も管理人の大好きなナショナルジオグラフィックの記事を参考にしたものです。

日本は元より地震大国なわけで、近年だけでも様々な地域で大地震による被害が出ています。

それにしても「南海トラフ地震」のせいでしょうか、最近はやたらと騒がれているように思えます。

さて、古代マヤ文明研究を中心として有名なリチャード・ウィルク(Richard Wilk)による「古代マヤ文明と現代政治(原題:The Ancient Maya in the Political Present)」では古代マヤ研究に関する論文と政治問題の関連性について述べています。

同論文ではアメリカ人研究者の「古典期マヤ文明の崩壊」のテーマに関する研究に対して、アメリカの政治問題が関係していることを指摘しました。

1960年代のベトナム戦争の頃は古代マヤ文明の衰退は「戦争・征服」が原因とされ、1970年代に環境保護運動が叫ばれるようになると古代マヤ文明の衰退は「環境問題」が原因とされました。

つまるところ、「学者も人の子」なわけで、現在の身の回りのことに知らず知らずの内に影響を受けてしまうということですね。

この研究事例からも分かるように、近年の考古学では地震や津波に関する研究・報告が目立つように思えます。

単純に社会環境に影響を受けたというわけではなく、積極的に社会問題を利用している場合もありますけどね、研究費の取り易さとか諸々の下心によって( -д-)ノ


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さて、2004年12月26日にスマトラ沖を震源とした巨大な地震が発生しました。

マグニチュード9.1という観測史上3番目という大規模な地震でした。

この地震により、最大で高さ30mに達する津波がインド洋各地を襲い、インドやアフリカ大陸にも被害をもたらしました。

そして震源に近いインドネシア、スマトラ島北西のアチェ州でも大きな被害が生じ、死者は16万人に達しました。

このアチェ州にはかつてアチェ王国が存在していました。

16世紀に興ったイスラム教国であるアチェ王国は、東南アジアのなかでも数百年の間、植民地化に抵抗し続けた数少ない国のひとつでした。

しかし20世紀初頭まで存続したアチェ王国は近現代の歴史記録に残っているものの、その成立・勃興期である17世紀以前に集落があった証拠はこれまでにほとんど確認されていませんでした。


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↑スマトラ島におけるアチェ王国の位置(「Wikipedia」の画像より転載)



今回の考古学的発見の契機となったのは先に述べた2004年の地震と津波の発生であり、それによって損壊した文化財の保全活動でした。


海岸部にて倒壊したイスラム教の古い墓石が数多く見つかったことから、過去においても同様の津波による被害があったのではないかと推測し、海岸部における土層の堆積状況を確認するための発掘調査が行われました。


結果、600年以上前の14世紀末にも同様の強烈な津波がアチェ周辺を襲っていたことが分かりました。


つまりこれまでに確認されていなかった17世紀以前の集落の痕跡は津波によって押し流されてしまっていたのです。


古い墓石や、陶器片、古いモスクの土台といった各種の考古学的遺物の分布を記録し整理した結果、遺物群が極めて多く集中するエリアが確認できたことから、かつて10の集落がこの地域にあったと推定されました。


陶器片から分かる時期判定によってこれらの集落はいずれも11~12世紀頃に出現したことが分かりました。


そして過去の巨大な津波が周辺を襲った西暦1400年前後に海岸沿いの低地にあった9つの集落は放棄され、高台にあった1つの集落だけが存続したことが分かりました。


この高台に残る遺跡からは、中国で製造された陶器やシリア産の陶器が出土しており、一方で9つの低地の村からはこうした遠方から搬入された陶器は確認されていません。


このことから、中世の「海のシルクロード」に関する歴史文献に記されている「ラムリ」という交易の地が、この生き残った高台の集落だったのではないかと推測されているのです(。・ω・)ノ゙




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「文系学問は金にならんし、役に立たない」と政府や企業にレッテルを貼られてから久しいですね(「令和」の改元時に手のひら返し的な復興の兆しが見えましたけども( ・Д・))。

私も「考古学は一体何の役に立つのだろう」と真剣に悩んだこともありました。

確かに現在のところ、考古学は単独でお金を生みません。

例え、あと1000年経っても考古学はIT的な新商品も開発しないし、宇宙にも飛び出したりしないでしょう。

(そういう意味では、ある種「超古代文明」に関するテーマの方が宇宙にも飛び出しそうだし、お金になる気がする( ・Д・))

考古学は他学問の方法論は借りるのが好きですが、他に貢献できる独自の一般理論もありません。

しかしながら今回の記事だけを見ても、文化財保護は国際協力に関する諸活動や当該国の観光資源活用に関係するし、発掘調査という手法だけでも文献史学を始めとする近隣の諸学問の発展に寄与しているように思えるんですけどね~( -д-)ノ

「役に立つ」って一体何なんでしょうね?( ・Д・)

皆さんはどう思いますか?

↓それはともかく押してくれぃ( ・Д・)!↓
↓それ、押してくれぃ!ほい!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2019ねん 6がつ 7にち(きんよーび、曇り)

あと一週間程度で40連勤が終わる。

久しぶりに休みの一日が来る。

私は一日中研究に打ち込むことができるのだろうか!?( ・Д・)

まぁブログ2時間、研究3時間、残り時間寝る&ゴロゴロするが妥当であろう!( -д-)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは、「昔、土器を作っていたのは男性だったのか?女性だったのか?」というお話です(*・ω・)ノ

考古学では一般的には「土器作りは女性の仕事」と想定しています。

何故かというと、第一に、実際に土器を作った人が誰だったかは分からないと言うのが前提です。

土器を観察しても通常であれば、その作り手の性別差は分かりません。

皆さんも博物館で土器を見た時、あるいは家にあるお茶碗を見て、作った人は男性だなとか女性だなとかは判別できないと思います。

まぁ家にある茶碗だと、中性だな(工業製品だな)となるかも知れませんが( -д-)ノ

第二に、人類学研究、特に「民族考古学」によって集められた現代の参与観察では、土器の作り手が女性であるケースがほとんどだからです。

土器をよく見ても分からんが、現在の土器生産を見ていると女性ばかりである、だから過去においてもきっとそう!という論理展開なわけです( -д-)ノ

第三に、男性は外で狩りを担当、女性は採集や家事を担当というイメージがあるからです。

これも実際には現在のアフリカを代表として世界中の民族事例で確認されています。

日本でも同様のイメージがあって、桃太郎でもおじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行ってますからね、もしおじいさんが若ければ別の物を狩りに行っているでしょう!

一方で面白いことに、時代がやや新しくなり精製土器が現れると、ヨーロッパの徒弟制度のイメージから、奢侈性の高い精製土器生産は職人として男性が従事したと考える傾向にあります。

結果、土器を見てもよく分からんから、過去の歴史や近現代の民族誌情報に基づいて推定しているよということなのです( -д-)ノ


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さて、今回のニュースはナショナルジオグラフィックの記事を参考にしていますが、アメリカの古代文化である古代プエブロ文化に属する変わった土器の分析から、土器の作り手の性別について興味深い指摘がなされました。

(余談ですが、古代プエブロ文化に関する土器研究は非常に面白いことをやっているなと常々感じています、折を見て紹介しますね(・∀・)つ)

舞台はアメリカ合衆国、ニューメキシコ州北西部に位置するチャコ・キャニオンです。

今からおよそ1000年前の西暦800~1200年頃、チャコ・キャニオン一帯は文化と宗教の中心地でした。

先に説明したように、近代までのチャコ・キャニオンでは土器製作は主に女性の役割だったことから過去においても同様であると推定され、考古学者がなんとなく意識している「土器製作は女性の仕事」というお決まりのイメージがここでも与えられていました。

古代プエブロ人は、太い粘土紐を螺旋状に巻いて、土器の胴部全体を波状浮文で覆うような土器を製作していました。



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↑プエブロ文化のタイプ別の土器群(「Ancestral Pueblo Ceramic」の画像より転載;英文)



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↑波状浮文を有する器面(「Pueblo Indian History for Kids」の記事内画像より転載;英文)



個人的にはプエブロ文化の土器というと、上の1枚目の写真(左上、左下、右下)にあるような、白地のスリップ(化粧土)の上に黒色彩文による幾何学文様を有しているものになります。


しかし今回のお話に出てきている土器は右上の土器群になります。


それらの土器の器面(表面)に、先に述べた「波状浮文」があるのですが、それがよく分かる破片資料が上の2枚目の写真になります。


なんかパスタの一種のような波打った印象がありますよね(*^・ェ・)ノ


粘土紐をぐるぐるっと巻いて、一定間隔ごとにその粘土紐を指で押すことで波打たせているので、指紋ががっつり残っています、分かりますでしょうか?ヾ(´ω`=´ω`)ノ


浮文は貼付文とも言いますが、指で押すことで波打たせたり、指紋も文様のように利用したりしつつ、しっかりと粘土紐と土器を貼り付けているわけですね。


日本や他の国の、他の文化の土器でも稀に指紋が残ることがあります。

しかし多くの場合、器面を円滑に調整する際に指紋の痕跡は消えてしまいます。

そのため、これだけ1個体の土器に多数の指紋が残されているケースは稀なのです(。・ω・)ノ゙

そこでなんと、古代プエブロ文化の研究者の一人が「元警察官」で、男女の指紋の違いは法科学捜査で分かるということを利用しました。

考古学者はよく探偵、鑑識や法科学者に例えられますが、これほどマッチした事例はないでしょうね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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↑土器の施文部に残るヒトの指紋②(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: John Kantner)



海外ドラマで「CSI:科学捜査班」とか流行っていましたけど、犯罪に関する科学捜査では指紋の隆線が男性の場合は女性よりも9%太いという研究結果があるそうです。


これを参考に、チャコ・キャニオンのブルーJというエリアで出土した985点の土器破片資料を分析したところ、47%の資料に残されていた指紋の隆線の幅が、平均して0.53mmで男性のもの、40%が平均して0.41mmで女性または子どものものと判定されました。


また残りの13%は中間的で性別不明とされました。


さて、指紋を分析した土器資料をを時期ごとに分けて考えると、より古い年代の土器群に残されていた指紋は66%が男性のもので、新しい土器群には男性と女性の指紋がほぼ半分ずつ残されていたことが分かりました。


以上のことから、かつて男性も土器作りに関わっていただけでなく、男性と女性の割合は時代とともに変化したことがわかるとの結論のようですが、まぁ当たり前っちゃ当たり前な感じもします。


100%な分業制って考えにくいですからね( -д-)ノ


課題は多いと思いますが、古代の土器生産体制の一端を明らかにする上で非常に興味深いなと感じました(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




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本当に面白い研究だと思いますが、分析結果としてけっこう性別不明がいるようですね。


現代の男女に土器を同じように作ってもらって、実験考古学として統計を出すと尚、同定精度が上がるかも知れませんね。


その際には粘土紐に対してどの指をどのように押し付けたかという施文技術を復元してから行うのが良いでしょう。


それによって指紋の付き具合に影響があるかも知れませんからね。


それ以前に土器の在地製作品・搬入品の判定、個体数推定などもやらなきゃか……


でも面白そうですね、自分でやりたいくらいですヽ(TдT)ノ

↓古代プエブロ人もあんなに押してるんだから、↓
↓あなたがーたも、たまには押してくれてもいいのでは!?( ・Д・)↓

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2019ねん 6がつ 5にち(すいよーび、雨)

資料調査の際は週5~6日で一日6~8時間は土器を見ている。

それが2週間から1ヶ月続く。

普通に博物館を訪れて写真を撮りつつ、メモを取るだけの時も1~2日かけて限られた僅かな資料を見ている。

今、川砂中の鉱物の同定精度に苦しんでいるが、やはり時間のかけ方が問題な気がしてきたヽ(TдT)ノ

毎日、少しでも鉱物を観察することにする( -д-)ノ

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【目次】
  1. 考古学遺物の修復・保存と展示について
  2. サルマタイ(サルマート文化)と古墳について
  3. おわりに -遺跡・遺物にとっての新しい歴史と考古学調査の意義-


1.考古学遺物の修復・保存と展示について

今回の考古学・歴史ニュースは、「バシコルトスラン共和国にて2400年前の古墳から出土した黄金製品を発掘調査の際に激しく傷つけてしまい、そのまま展示しているよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

美術の世界ではプロフェッショナルの修復士がいて、誰もが知っているような有名な作品の修復・保存に貢献していますね。

考古学の世界でも修復・保存は重要な課題として提起されてから決して短くない歳月が流れていますが、美術の世界に比べると特化した人材育成と考古学研究・調査への参加具合は芳しくないと思っています。

例えば古代マヤ文明では「絵文書土器」に代表されるようなペインティング(彩文)の技法が用いられた多彩色土器が有名ですが、ほんのひと昔前までは「出土した状態のままでは『美しくない』」という理由から、オリジナルの彩文の上から現代の塗料を塗って見栄えを良くして展示するということが実際になされていました。

現在では特に遺跡を文化財として保存・活用しようという試みから(邪推するならば観光活用と外貨獲得のため)、修復・保存の必要性を強く訴える考古学者もいますが、技術・制度面としては特別進展は見られないように思います。

遺物の保存に関しても経済的、そして技術的理由からなかなか進展していません。

このようなお話をしたのも、今回の古代の黄金製品は「出土した状態のまま」で展示しているからです。

調査中にミスで大きく傷つけてしまったなら、多少の修復をして展示する、あるいはそれが分からないような展示方法を取ることが一般的です。




上に挙げた写真が、調査中に盛大に「ガジッた」黄金製品です。

あまりにも大きく激しく傷ついてますから、元からこういう造形なのかと思ってしまうほどです。

恐らく小型のピッケルでがっつり一撃加えてますねヽ(TдT)ノ

金は柔らかいとは言え、全力で振り切った感がします。

何故、このような見事な黄金製品が出土する「古墳」でそのような発掘方法を取ったのかは謎ですが、考古学者あるいは「ガジッた」経験のある発掘調査参加者には色々な意味で面白いと思います。

ちなみに「ガジッた」=「傷付けた」で、発掘調査中に移植ゴテやエンピ等の堀具によって遺物を掘り出す際に、遺物を傷付けてしまうことを言います。

新しい傷は、新しい剥離、割れの断面の様相が見て取れるので、考古学者や見慣れた人には一目で「やったな」ってのがバレます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

話を戻しまして、この黄金製品はこれだけ激しく傷付いているのに、一切直さず、かつ360度見えるような展示方法を取っています。

展示スペースを壁側にして、傷の面を壁の方に向ければ済むのですが、敢えてそれをしていません。

何故このような展示方法を取るのかは本当のところは分かりませんが、「発掘調査中の経緯」が当事者には分かるので面白いなと思います。

これだけ変形させられたのもこの遺物にとっての「歴史」なのであり、博物館案内でもその「歴史」を紹介することでくすっと笑えますし、考古学調査をより身近に感じる契機になるかも知れません。

そういう意味で、出土した際のありのままの状態で展示・保存することにも意味があるのだなと考えさせられる展示でした(。・ω・)ノ゙




2.サルマタイ(サルマート文化)と古墳について

さて、今回の「ガジッちゃった黄金製品」が出土したのはバシコルトスラン共和国です。

私達日本人には一般的には聞き慣れない国名だと思いますが、ロシアの首都モスクワから東に約1000kmの位置にあります。

バシコルトスタン共和国の首都はウファであり、およそ140もの民族が居住する超多民族共和国です。

上に挙げた写真はサルマタイ文化あるいはサルマート文化(以下、サルマタイ文化で統一して記述します)の中心部の位置を示したものです。

このサルマタイ文化はサルマタイ人あるいはサルマティア人(以下、サルマタイ人で統一して記述します)というイラン系の遊牧民集団が紀元前4世紀~後4世紀に築いた文化です。

中心地は黒海北岸周辺なのですが「遊牧民」なのでかなり広範に活動していたようです。

というのもバシコルトスラン共和国は上に挙げた画像の通り、黒海からかなり離れているのです。

計測してみると黒海北岸まで約1900km離れています。

これだけサルマタイ文化の中心地とは離れた場所に位置していますが、バシコルトスラン共和国ではサルマタイ文化の古墳群が存在しており、そこから多くの黄金製品が出土しています。


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さて、これまで分かり易く「古墳」として紹介してきましたが、実際の用語としては「クルガン」が用いられています。

クルガンは日本の古墳と同様に墳丘墓であり、上の写真で紹介したように、石を積んで造られたマウンドと土を盛って造った所謂「土饅頭」状のマウンドに分けられます。

日本の古墳には石製の玄室が見られますが、クルガンでは木製の玄室が見られます。

クルガンも支配階級の人物の埋葬施設であり、サマルタイ文化等のクルガンを有する文化の担い手は遊牧民集団であることから、一般的に見られる豪華な副葬品の他に、弓矢(鏃)・矢筒、馬や馬で引く構造の古代戦車などが納められました。

ちなみにサルマタイ文化の葬制では仰臥伸展葬、南枕が慣例だということで、中国思想の影響を受けた日本の古墳時代の北枕とは異なりますが、やはり方角を気にしていたという点で興味深いですね(*・ω・)ノ

さて、今回の黄金製品が出土したのは紀元前4世紀に属するフィリポフ・クルガン群(古墳群)から発見されたものです。

フィリポフ・クルガン群は6kmに渡って25基の古墳が建造されています。

日本にもたくさんの古墳が密集した古墳群が見られますが、黒海を中心とした西ユーラシアから東ヨーロッパにかけてたくさんのクルガン群が確認されています。


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またクルガンを建造するという文化は遊牧民集団の性質も相まって広範な分布を見せます。

このことから1956年にマリヤ・ギンブタス (Marija Gimbutas)により 「クルガン仮説」が提唱されています。

クルガンを有する文化をクルガン文化とし、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパを含めて広く伝播したと考えるものです。

この時、サルマタイ文化の中心地である黒海周辺が原インド・ヨーロッパ語を話す人々の起源であり、遊牧民としての諸活動や文化の伝播の過程で原インド・ヨーロッパ語の方言が多数派生したことで、多様なインド・ヨーロッパ語族が生まれたとする仮説です。

「インド・ヨーロッパ語族」については歴史、特に世界史で勉強すると思いますが、あの歴史の教科書で見た印欧語族の広い分布と彼らによる長い長い興亡の歴史はクルガンから始まっているのですね(。・ω・)ノ゙

・・・まぁ本記事は「盛大にガジッた黄金製品」から始まっていますけどね( -д-)ノ


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さて、「古代の遺物は現代における調査の際の歴史をも有するんだ!」ということから始まったわけですが、うん、思い返してみても、調査者としてはガジッた思い出は忘れないですね。

私も実は初めての発掘調査に参加した際に、最古級の石核をガジッた記憶があります。

しかもその資料の発見は地元新聞に載ったそうで・・・古いからね!ガジッたからじゃないですからね( ・Д・)

古代マヤ文明の調査史として聞く話は、ガジッちゃったみたいな軽いお話じゃなく、ヤバめのお話(犯罪と権力に関するお話)ばかりなので、ここでは書けないでしょうね(「象牙の塔」という言葉もありますけど、もじるなら、黒い巨塔、「黒曜石の塔」かな)。

まぁかるーいストーリーがあれば紹介したいなと思います(。・ω・)ノ゙

聞くところによれば、悲しいことにどこのフィールドでもどこの業界でも悪い奴はいくらでもいてピンピンしてるってことですね、世知辛い世の中だよ!ヽ(TдT)ノ

↓黄金製品が出土するのはやはり羨ましいな!なっ!!!( ・Д・)↓

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2019ねん 6がつ 5にち(すいよーび、雨)

今日は激しく雨!

激しい雨音を聞いて、わざわざ外を見に行った。

何故か「最後の雨」のMVみたいに土砂降りの中、外に立って雨に打たれていたい気分になった( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは、「京都の六波羅で、平家一門が築いた堀の跡と石垣が発見されたよ!初めての発見なんだよ!」というお話です(*・ω・)ノ

さて、舞台は京都の六波羅です。

歴史の勉強で習った「六波羅探題」をぱっと思い浮かべる人もいるのではないでしょうか?

「六波羅探題」とは鎌倉時代の職名の一つであり、執権や連署に次ぐ重職でした。

1221年の承久の乱の後に六波羅の南北に設置され、六波羅探題北方・南方のそれぞれに北条氏一族の優秀な人材が就いていました。

実は今回の発見は、この六波羅探題と無関係ではないのです。


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さて、発掘現場は有名な「清水寺」から西に約1kmの地点です。

検出された堀の跡は幅が約3m、深さ約1.3mでした。

断面形態は逆さ台形状で、堀は東西方向に伸び、その全長は約15mの規模でした。


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ところで上に挙げた写真は現場説明会の際のものです。

ぱっと見で、説明会に参加している人の数が多い!

さすが所謂「歴史」は日本人に人気あるなと思います。

特に戦国史とか人気は衰えることを知らないですもんね。

「歴史」時代の考古学には疎いですが、今後なるべく取り上げるようにしますね(*・ω・)ノ


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と言うことで話を戻しますと、写真の左下に様々な遺構(たくさんの穴ぽこがそれです)が検出されているのが分かるかと思います。

そしてその中央部から下部に向かって2本の白線が伸びているのが分かるでしょうか?

それがかつて掘られた溝の跡になっています。

このようにこの遺跡では複数の時期の複数の遺構が複雑に重なっている状態なのです。




上に挙げた写真が検出された堀の跡の写真になります。

写真の手前の深い落ち込みが堀です。

この堀の南側で堤防状の土塁跡が検出され、また堀の西側の約5mが土で埋められており、倒壊防止用の石垣が組まれていることが分かりました。

上の写真で見えているのがその石垣の一部です。

最初に挙げた写真はこの裏側から撮影したものです(下部に再掲)。




上の写真に見られる、この石垣の建造技術としての石材の積み方は、ほぼ同時期の白河天皇陵の石垣のものと類似しているそうです。

城郭考古学なるものを見聞きしたことがありますが、石垣の組み方を分類・類型化して編年を組んでいるということですよね。

そう思うと、お城巡りして石垣見るのも楽しくなりますよね。

今度調べて紹介しますね(*・ω・)ノ

さて、以下に出土した遺物を紹介します。


先に述べましたように、複数の時期の遺構が重なっていますから、様々な出土品が見られます。


*写真は全て『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。(管理人:才蔵さん)の記事内画像より転載しております。



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↑石製の笠塔婆①(「『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。」さんの記事内画像より転載)




以上の様々な遺物の内、出土した土器や瓦の同定作業によって、今回見つかった堀は有名な「平清盛」の祖父に当たる「平正盛」が邸宅を構えるなど六波羅に拠点を置いた12世紀前半に建造されたものと推定されています。

この当時は世情が不安定で、平家一門を守る目的として設置されたものと考えられています。

このような平家と関係のある遺構が京都、六波羅で発見されるのは初めての事例であり、希少な発見なのです。

その後、1156年の保元の乱や1160年の平治の乱を経て平清盛が政治の実権を握ったことで戦乱が治まりました。

この平正盛によって設置されたと考えられる堀は、承久の乱を経て13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に「六波羅探題」を設けた頃には全て埋め戻されたと推定されています。


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↑残りの良い方形周溝墓(「『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。」さんの記事内画像より転載)


さて、最後に、今回の発見の場である六波羅政庁跡は、音羽・五条坂窯跡でもあります。

古くは上の写真に見られるような弥生時代の方形周溝墓が検出されています。

上の写真の事例では発掘調査で方形周溝墓を半裁して断面が見える状態になっています。

また江戸時代には清水焼の生産地として登り窯が設置されていました。

このように複数の時期に帰属する遺構がいくつも重なり、六波羅は今も昔も重要な区域であったと考えられるのです(*・ω・)ノ

・・・・・・あ、そうだ、京都へ行こう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓目指せフォロワー1000人!応援よろしく!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2019ねん 6がつ 3にち(げつよーび、晴れ)

今日は暑い!

そーめんが美味しい季節になってきた~

ここ最近はつけ麺ばかりだけども、そうめん、ひやむぎの出番かな~( ・Д・)


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは、「2000年前の古代エジプトで犬もペットとして手厚く葬られていたよ!」ってお話です。

ペットの歴史とか、日本の縄文時代における犬の手厚い埋葬例の話も過去にありましたね。

確か渡来人が犬を食べる風習があったけど、縄文系の人々にその風習は根付かず狩りのパートナーであり家族でもあった犬を手厚く葬っていた事例が考古学的に確認されたという紹介だったような。

……うむ、過去の記事が見当たらない!( ・Д・)

ライブドアブログの記事検索は使いにくいからと人のせいにしておきます( -д-)ノ


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さて、今回の発見の舞台は現在のエジプトの中部にあるミニヤ(Minya)県に所在する遺跡、トゥーナ・エル・ガバル(Tunah Al-Gabalです。


遺跡はエジプトの首都カイロの南方およそ260kmに位置しています。


この遺跡は墓地遺跡で、所謂「ネクロポリス」です。


エジプト考古省の発掘調査によって同遺跡の地下に墳墓があることが確認されました。


地下墳墓は、地下およそ9mの位置に造られており、墓室はこれまでに6つ確認されています。


発見されたミイラは全部で40体以上にのぼり、内22体が成人、12体が子供、6体が動物でした(他に保存状態が良好ではないミイラが発見されている)。


これらの大量のミイラはその多くが墓室床面に設置されており、一部の限られたミイラだけが最初に挙げた写真のように棺に納められていました。


この棺は石棺ではなく、粘土由来の陶製棺であり、蓋がないのが特徴です。


陶製棺に納められた人々は、より高い社会階層に属した人々であったと考えられています。



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↑たくさんのミイラが安置されていた(「AFP BB NEWS」の記事内画像を一部加工;Credit: MOHAMED EL-SHAHED / AFP



古代エジプトにおけるミイラ作りの歴史は長いですが、共伴して出土したパピルスの分析から、地下墳墓とこれらのミイラは古代エジプトのプトレマイオス朝(紀元前323~30年)の時期にに帰属すると推定されています。

 

今回発見された6体の動物のミイラのほとんどが「イヌ」であると同定されており、ヒトのミイラと共に安置されていました。


イヌは1万5000年前頃にオオカミと分化し、当時の人々の狩猟生活を支える上で実用面で非常に重要でした。

1万2000年前までには人間には欠かせないパートナーとなっていたと考えられています。

今回の発見からは、2000年前の古代エジプトの人々にとって犬が実用面だけではなくペットとして家族として非常に大切な存在だったことを示しています。

現在の私達のペットを想う気持ちと関係が、既にこの頃には誕生しており、ミイラとして共に埋葬するという形に現れているわけですね(*・ω・)ノ。


arukemaya347

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ミイラと言えばやはりエジプトを思い浮かべますが、ミイラは歴史的に世界各地で見られる風習です。

また自然環境の影響を受けて自然にミイラができる地域もありますね。

以前、世界のミイラについてまとめて書いたような気がしますが見つかりませんでした( ・Д・)

何の考古学・歴史ニュースに併せて書いたのだったか……ヽ(TдT)ノ

探しておきますが、ひとまずミイラ関係の記事を紹介しておきます。


↓「ミイラ」関係のバックナンバー
↑良かったら併せてどうぞ!(。・ω・)ノ゙

↓あ、縄文のイヌに関する記事が見つかりました~!
↑こちらも良かったらど~ぞ~ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓SEO対策として「歴史」って無駄に書いてみるぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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