ここの日記スペースに何を書くべきかをいつも悩む(´・ω・`)

↑仙台市、沓形遺跡の所在(「Googleマップ」より画像を転載)
ちなみに「畦(あぜ)」とは「稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの」です。 (wikipediaより引用)
これが全て約2000年前の津波被害で廃絶されてしまったことが分かったのです( ・Д・)
「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙
ちなみに「畦(あぜ)」とは「稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの」です。 (wikipediaより引用)
今回の考古学・歴史ニュースは、「京都の遺跡で14世紀の居館と巨大な堀が発見されたよ!」というお話です(*・ω・)ノ
発見の舞台は犬飼遺跡で、京都府の亀岡市曽我部町犬飼に所在しています。
上に挙げた写真で分かるように、かなり大きな範囲が調査されています。
それもそのはず、国営農地の整備を目的として約1400㎡もの範囲を調査したのですΣ(・ω・ノ)ノ
発見されたものは大きく3つです。
それでは、ひとつずつ見ていきましょう(。・ω・)ノ゙
1.堀で区画された方形居館
まず検出された居館は「方形居館」と呼ばれるもので、中世の時代に武士や有力者が居住したと考えられる建造物です。
出土遺物から帰属時期は13世紀後半~14世紀前半と推定されています。
つまり鎌倉時代の終わり頃から室町時代の前半期、南北朝時代の頃のものと考えられます。
方形居館が立地する敷地の周囲は堀で囲まれており、その堀によって敷地は明瞭に2つに区画されています。
大きな区画は約500㎡、小さな区画は約350㎡のサイズだそうです。
この2つの区画内からそれぞれ1棟ずつの建造物が検出されました。
検出された柱の跡(柱穴遺構)から、大きい区画に存在した大きな建造物は居住用の板張りの建物(母屋)であったと考えられます。
一方で小さい区画に存在したより小さな建物は太い柱が使用されており、用途の異なる建物であったと推定されています。
2.近畿最大級の巨大な堀
さて、堀は全部で3本確認されました。
最大幅が約8m、深さ約2mのV字形で、当該時期としては最大級の規模です。
当時、この堀には1m程度の深さで水が張られていた跡も確認されました。
3.様々な遺物、当時の高級品が出土した!
詳しいことは分かりませんが、堀が埋まらない程度に簡易のゴミ捨て場としても機能していたのかも知れませんね。
堀埋まっちゃうからダメ!って言われても楽して近場に捨てたくなるのが昔も今も人の心でしょうかΣ(・ω・ノ)ノ
この堀の中からは口径12~13cm程度の瓦器椀(がきわん)やわらじといった日常品が多く出土しました。
更には漆器や中国製の白磁や緑釉(りょくゆう)陶器といった高級品も出土しました。
今回の考古学的発見の契機となったのは先に述べた2004年の地震と津波の発生であり、それによって損壊した文化財の保全活動でした。
海岸部にて倒壊したイスラム教の古い墓石が数多く見つかったことから、過去においても同様の津波による被害があったのではないかと推測し、海岸部における土層の堆積状況を確認するための発掘調査が行われました。
結果、600年以上前の14世紀末にも同様の強烈な津波がアチェ周辺を襲っていたことが分かりました。
つまりこれまでに確認されていなかった17世紀以前の集落の痕跡は津波によって押し流されてしまっていたのです。
古い墓石や、陶器片、古いモスクの土台といった各種の考古学的遺物の分布を記録し整理した結果、遺物群が極めて多く集中するエリアが確認できたことから、かつて10の集落がこの地域にあったと推定されました。
陶器片から分かる時期判定によってこれらの集落はいずれも11~12世紀頃に出現したことが分かりました。
そして過去の巨大な津波が周辺を襲った西暦1400年前後に海岸沿いの低地にあった9つの集落は放棄され、高台にあった1つの集落だけが存続したことが分かりました。
この高台に残る遺跡からは、中国で製造された陶器やシリア産の陶器が出土しており、一方で9つの低地の村からはこうした遠方から搬入された陶器は確認されていません。
このことから、中世の「海のシルクロード」に関する歴史文献に記されている「ラムリ」という交易の地が、この生き残った高台の集落だったのではないかと推測されているのです(。・ω・)ノ゙
↑プエブロ文化のタイプ別の土器群(「Ancestral Pueblo Ceramic」の画像より転載;英文)
↑波状浮文を有する器面(「Pueblo Indian History for Kids」の記事内画像より転載;英文)
個人的にはプエブロ文化の土器というと、上の1枚目の写真(左上、左下、右下)にあるような、白地のスリップ(化粧土)の上に黒色彩文による幾何学文様を有しているものになります。
しかし今回のお話に出てきている土器は右上の土器群になります。
それらの土器の器面(表面)に、先に述べた「波状浮文」があるのですが、それがよく分かる破片資料が上の2枚目の写真になります。
なんかパスタの一種のような波打った印象がありますよね(*^・ェ・)ノ
粘土紐をぐるぐるっと巻いて、一定間隔ごとにその粘土紐を指で押すことで波打たせているので、指紋ががっつり残っています、分かりますでしょうか?ヾ(´ω`=´ω`)ノ
浮文は貼付文とも言いますが、指で押すことで波打たせたり、指紋も文様のように利用したりしつつ、しっかりと粘土紐と土器を貼り付けているわけですね。
↑土器の施文部に残るヒトの指紋②(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: John Kantner)
海外ドラマで「CSI:科学捜査班」とか流行っていましたけど、犯罪に関する科学捜査では指紋の隆線が男性の場合は女性よりも9%太いという研究結果があるそうです。
これを参考に、チャコ・キャニオンのブルーJというエリアで出土した985点の土器破片資料を分析したところ、47%の資料に残されていた指紋の隆線の幅が、平均して0.53mmで男性のもの、40%が平均して0.41mmで女性または子どものものと判定されました。
また残りの13%は中間的で性別不明とされました。
さて、指紋を分析した土器資料をを時期ごとに分けて考えると、より古い年代の土器群に残されていた指紋は66%が男性のもので、新しい土器群には男性と女性の指紋がほぼ半分ずつ残されていたことが分かりました。
以上のことから、かつて男性も土器作りに関わっていただけでなく、男性と女性の割合は時代とともに変化したことがわかるとの結論のようですが、まぁ当たり前っちゃ当たり前な感じもします。
100%な分業制って考えにくいですからね( -д-)ノ
課題は多いと思いますが、古代の土器生産体制の一端を明らかにする上で非常に興味深いなと感じました(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!
本当に面白い研究だと思いますが、分析結果としてけっこう性別不明がいるようですね。
現代の男女に土器を同じように作ってもらって、実験考古学として統計を出すと尚、同定精度が上がるかも知れませんね。
その際には粘土紐に対してどの指をどのように押し付けたかという施文技術を復元してから行うのが良いでしょう。
それによって指紋の付き具合に影響があるかも知れませんからね。
それ以前に土器の在地製作品・搬入品の判定、個体数推定などもやらなきゃか……
さて、以下に出土した遺物を紹介します。
先に述べましたように、複数の時期の遺構が重なっていますから、様々な出土品が見られます。
*写真は全て『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。(管理人:才蔵さん)の記事内画像より転載しております。
さて、今回の発見の舞台は現在のエジプトの中部にあるミニヤ(Minya)県に所在する遺跡、トゥーナ・エル・ガバル(Tunah Al-Gabal)です。
遺跡はエジプトの首都カイロの南方およそ260kmに位置しています。
この遺跡は墓地遺跡で、所謂「ネクロポリス」です。
エジプト考古省の発掘調査によって同遺跡の地下に墳墓があることが確認されました。
地下墳墓は、地下およそ9mの位置に造られており、墓室はこれまでに6つ確認されています。
発見されたミイラは全部で40体以上にのぼり、内22体が成人、12体が子供、6体が動物でした(他に保存状態が良好ではないミイラが発見されている)。
これらの大量のミイラはその多くが墓室床面に設置されており、一部の限られたミイラだけが最初に挙げた写真のように棺に納められていました。
この棺は石棺ではなく、粘土由来の陶製棺であり、蓋がないのが特徴です。
陶製棺に納められた人々は、より高い社会階層に属した人々であったと考えられています。
↑たくさんのミイラが安置されていた(「AFP BB NEWS」の記事内画像を一部加工;Credit: MOHAMED EL-SHAHED / AFP)
古代エジプトにおけるミイラ作りの歴史は長いですが、共伴して出土したパピルスの分析から、地下墳墓とこれらのミイラは古代エジプトのプトレマイオス朝(紀元前323~30年)の時期にに帰属すると推定されています。
今回発見された6体の動物のミイラのほとんどが「イヌ」であると同定されており、ヒトのミイラと共に安置されていました。