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歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

2020年02月

2020ねん 2がつ 29にち(きんよーび、曇り)

昨日、めちゃくちゃ寒かった。

そして今日、曇り続けてやや肌寒い感じ。

異常だ、これは一月初めの気温だよ!Σ(・ω・ノ)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「黄金都市エル・ドラド伝説に影響を与えた失われた古代都市が南米のジャングルに眠ってるよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

今回の話題は南米コロンビアでのお話です。

中米のマヤ地域でもそうですが、南米のコロンビアやブラジルには鬱蒼としたジャングルがたくさん残っています。

あるいは今回のケースのように国立公園として保護されています。

航空レーザー測量も導入開始された現代考古学ですが、そういったジャングルの中にはまだまだたくさんの古代都市遺跡が残されているものなのです(*・ω・)ノ




エル・ドラドとは?

さて、最初に挙げた絵画に見られるように、南米地域には「黄金都市伝説」があります。

大航海時代、多くの人々が冒険を求めて旅に出ました。

ドラゴンが守る塔にはお姫様が捕まっていて騎士が彼女を救うといった「騎士道物語」が本気で信じられていた時代です。

この手の小説の中にはディズニーで有名な「生命の泉」の話もあります。

こういった当時の伝説の一つが「黄金都市、エル・ドラドの伝説」です。

多くの人々が夢物語として未知の島や大陸には金銀財宝が眠っていると信じていたわけですが、ただエル・ドラドの伝説は噂に基づくもので小説等の作り話ではありません。

エル・ドラードとはスペイン語で「金箔をかぶせた」、または「黄金の人」を意味し、ムイスカ文化の儀式が基になっています。

ムスイカ文化では金の採掘が行われており、また加工技術が発達していました。

そして首長が全身に金粉を塗り儀式を行う風習をもっていました。

この話をスペインのコンキスタドール達がを聞き、南米アマゾンには黄金郷があるという伝説が生まれたのです。

特に、上に挙げた写真は 『ムイスカ人の黄金の筏(La Balsa Misca)』と呼ばれる資料で、これがヨーロッパ人に対してエルドラード伝説(黄金郷伝説)を生み出す大きなインパクトとなったのです。


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コロンビアに眠る「失われた都市」

さて、今回の話題はコロンビア北部が舞台となります。

3枚の地図画像の内、1枚目が最寄りの大都市サンタ・マルタの位置です。

マニアックな切り取り方をして、マヤ地域である中米のユカタン半島を敢えて画像内に収めてみましたが、有名なキューバも入ってますので何となく位置が分かるでしょうか?( -д-)ノ

2枚目の地図画像の位置がシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ国立公園で、深い森に覆われた丘陵地帯です。

この国立公園内にはシウダー・ペルディーダ(失われた都市)の名を冠する土地があり、実際に古代都市遺跡があります。

3枚目はタイロナ国立公園の位置で、先コロンブス期のタイロナ文化が栄えた場所になります。

タイロナ文化の人々は大きな領域を有しており、シエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ国立公園の方まで広がっていました。

彼らは16世紀にスペイン人のコンキスタドールの侵入に対して抵抗し続けますが、17世紀後半まで都市を放棄します。

この放棄の理由はスペイン人が持ち込んだ疫病のためと考えられています。

先に述べたように「失われた都市」の地名を有する土地もあるのですが、実際にこの周辺域に残るタイロナ文化の都市遺跡が全て「失われた都市」として呼ばれているのです。




この地域に考古学者の手が伸びたのは1976年のことでした。

中南米あるあるなのですが、密林の中の行軍は有毒の植物や昆虫、蛇、ジャガーと脅威で一杯なため遺跡への到達はかなり最近の話ばかりなのです。

道が開けた現在でも到達するのが困難な遺跡がたくさん存在しています( -д-)ノ

当時は道なき道を、感覚便りの現地ガイドに従ってナタで切り開いての強行軍ですからとてつもない辛さだったでしょうねヽ(TдT)ノ

簡易の考古学調査や踏査が進行するにしたがって、タイロナ文化はCE200年頃から発達し、エル・ドラドの伝説の基となったムイスカ文化と交易関係にあることが分かりました。


そのためムイスカの民と同じように、タイロナの民は金や銅を始めとする貴金属細工技術に優れていることが分かりました。


また16世紀半ばのフアン・デ・カステリャノスを始めとして多くの年代記によれば、タイロナの民は贅沢な服飾をしており、皆が模様入りのケープ、羽根の頭飾り、ビーズの首飾り、大ぶりの真珠、カーネリアン(紅玉髄)、そして黄金を身につけていると報告しています。


こうした年代記や考古学的な発見によって、エル・ドラド伝説は再び日の目を見ることになり、つまり盗掘者に狙われることになりました。


中南米のジャングル地帯は「インフィエルノ・ベルデ(緑の地獄)」と呼ばれることもあり、現在でも考古学者の侵入を阻んでいます。


一方で盗掘者たちはお構いなしなのでジャングル地帯は「盗掘天国」と揶揄されることもあります。


翡翠しか出ないマヤ地域でも被害は甚大なのに、黄金という分かり易い「財宝」があると南米での遺跡保護は非常に難しい問題だと思います(TДT)



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↑テユナ遺跡の景観(「viator」の記事内画像より転載)



20世紀終わりから現在まで、遺跡を保護すべく数々の大規模なプロジェクトも実施されてきました。


結果、上に挙げた写真に見られるテユナ遺跡が整備されたのです。


この遺跡では円形の家々、舗装された道、階段、テラス、広場、儀式の場、運河、倉庫など、200基余りに及ぶ各種の構造物が復元されており、現在公開されています。


しかしこの都市は険しい山の尾根に沿って作られているので、観光と言えど到達はかなり大変なようです( ・Д・)


このテユナの建設は9世紀と考えられおり、マヤ研究をしてる立場としては新しいなと感じます。


しかしそのテユナという名前は当時のチブチャ語で「地上の人々の起源」を意味するそうです。


テユナの最盛期の人口は2000~8000人と推定されており、タイロナ文化の中心地として機能しました。


またタイロナ文化は文字を持たず、車輪も、動物に荷を引かせる技術もありませんでしたが、十分な余剰農産物を何世紀にも渡って生産できていました。


そのため金細工を始めとする高度な文化を築くことが出来たわけです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


・・・・・・ところで、私達日本の食料自給率は僅か37%です。


まぁ科学技術が発達していようとも特殊な自然環境を整えるより、海外から買った方が早いかつ安い、日本では通常獲れない野菜や肉類もあるでしょう。


かく言う私も世界中の食べ物を国内で食べられる日本が大好きです(*^・ェ・)ノ


それにしても37%は酷過ぎます。


地震大国日本とか頻繁に目にするけど、いざという時どうするの?


同盟国、親日国に頼るの?


政治家よ、大臣よ、人々よ、文系大学要らね~とか言ってる場合ではなく、、、


国とは何か、良き政治とは何か、滅びを避けるために我々は何をすべきか、


そろそろ古きに、歴史に学ぶべき時かも知れませんね( ・Д・)


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2020ねん 2がつ 24にち(にちよーび、晴れ)

忙しい時に限って、仕事が次から次へと舞い込んでくる(ρ゚∩゚) グスン


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今回の考古学・歴史ニュースは「古代王政ローマ、建国神話に出てくるロムルス王のものと思しきお墓が公開されたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

ローマの歴史は、王制ローマ、共和政ローマ、帝政ローマと大きく分けられます。

この内の最初の王政ローマは約250年間続いたことになっていますが、歴史書に現れるのは王制ローマが終わってから500年も後のことなのです。

なので恐らくは王制ローマに関する歴史書の内容の多くは神話であると考えられます。

しかしながら現在のローマ市では神話時代の最初期に関する記述通り、上に挙げた「狼に育てられたロムルスとレムス」の像が飾られており、また4月21日は建国記念日として盛大に祝われているのです。




建国神話における最初の王、ロムルス

ローマの建国神話はロムルスとレムスの誕生から始まります。

軍神マルスと古代イタリアの都市国家の王女、レア・シルウィアの間に生まれた双子は、王女の叔父によってすぐに捨てられてしまいます。

しかし最初に挙げた写真や上のコインのように、狼に育てられ生き延びます。

後に祖父に出会い、孫であることが判明し、自分たちが捨てられた土地に都市を建設することにします。

この都市がローマなのです。

都市の境界を決める際に兄弟は揉め、兄のロムルスは弟レムスを殺してしまいます(後半部で関係してきます(*^・ェ・)ノ)

兄の名前ロムルス(Romulus)はロームルスとも発音します。

つまりローマの語源は初代王ロムルスに由来するのです(*・ω・)ノ

ロムルス王はその後およそ40年の間、ローマを統治し、その後消えてしまいます。

後の歴史家たちは元老院議員らによってロムルス王が暗殺されたと考えており、中心となった人物はユリウス・プロクルスと推定されています。

彼は後のユリウス氏族の祖先と考えられています。

ユリウス……カエサル?

政治家は親も子も、昔からロクでもないのか( ・Д・)


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本当にロムルス王の石棺?

上に挙げた写真がイタリア、ローマ市のフォロ・ロマーノにある元老院議事堂跡です。

ちょうど地下への入り口に人が立ってます。

この地下から100年以上前に祭壇と共に石棺が発見されました。

調査者はロムルス王の石棺であると解釈しましたが、学会全体の合意には至りませんでした。

1980年代後半にはこの議事堂跡の近くから巨大な石を特徴とした長く深い溝が発見されました。


調査者はロムルスが都市の境界として掘った「聖域の溝」だと主張しました。


でもやはり合意には至っていません( -д-)ノ 





上に挙げた写真が問題の石棺ですが、かなり質素ですね( -д-)ノ

まぁ暗殺されてぶち込まれたのだから、墓があるだけマシなのか( ・Д・)

これらの遺構に関連して出土した遺物から石棺の帰属時期はBCE6世紀と考えられています。

伝説ではローマの建国はBCE753年だから統治期間を考えてぎりぎり同時期と言えるかなって感じですねヽ(TдT)ノ

現在も地元の考古学者らが、ロムルス王の石棺であると証明すべく精力的に調査を行っているそうです。

是非、証拠をどんどん集めて、「伝説の王様のお墓!」を証明して欲しいですね!

こういう地元密着型の調査は周辺地域の人々の活力にも繋がりますし、考古学の果たせる重要な仕事のひとつだと思います。

いや、ほんとにすごい夢のある、浪漫溢れるテーマだなと思います……

ローマンだけに( ・Д・)

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2020ねん 2がつ 23にち(どよーび、くもり)

こっちの大学の考古学雑誌の締め切りまで、ちょうど1週間。

書籍の修正まで2週間。

報告書の提出まで3週間。

更に抱えてる論文2本、、、死んだ( ・Д・)


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↑出土した完形の銅鏡(「奈良新聞」の記事内画像を一部加工)
柳田康雄氏提供「CNN」の記事内画像より転載;credit: Antiquity Publications Ltd)


今回の考古学・歴史ニュースは「古墳時代の井戸から完形の銅鏡が出土したよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

発見があったのは奈良県天理市の櫟本(いちのもと)町です。

この発見により、この遺跡は『櫟本チトセ遺跡』と命名されました。

工場の建設工事に伴い、緊急調査が実施され、約1600平方メートルもの範囲を調査したそうです。

文化財保護法で事前の調査が必要かつ工事実施者の負担のはずですが、いったいどれくらいのお金がかかるのでしょうねΣ(・ω・ノ)ノ




この調査区の範囲で見つかったのは大きな集落の跡でした。

帰属時期は古墳時代前期~中期(4~5世紀)と考えられています、

これだけの範囲ですがちょうど集落の北辺の一部だと思われ、直径約40センチ前後の柱穴約10基や断面がV字状になった大溝、そして井戸と思われる遺構が検出されました。

この井戸状遺構は直径約2.3m、深さ1.2mで、素掘りの井戸と考えられます。

この中から小型の銅鏡1面が出土しました。

最初に挙げた写真のようにこの銅鏡は「完形品」であり、非常に希少な事例なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ

出土状況はこんな感じです。

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・・・・・・

・・・

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ん?(つд⊂)ゴシゴシ

めちゃ、ちっちゃい!?


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ということで、見つかった銅鏡は直径3.6cmしかありません!

「小型倭製鏡」と呼ばれる国産の鏡で、鏡背面に中央の突起「鈕(ちゅう)」から放射状に線を描いた「櫛歯文(くしばもん)」と呼ばれる文様が見られるそうです。

小型の銅鏡は祭祀用と考えられおり、ヒョウタンや邪気を払う力があるとされるモモの種が一緒に出土したことから、井戸で水に関わる祭祀・儀式を行っていたと推定されています。

こうした儀式用の銅鏡は古墳時代の重要拠点から出土しており、櫟本チトセ遺跡も有力者にかかわる集落の可能性があるそうです。

ちっちゃいけど、古墳時代の井戸から完形の銅鏡が見つかるのは全国で2例目なので超レアケースですね!

私の銅鏡のイメージはもっと大きな古墳時代によく見られるものなので驚きました。

でも、ちっちゃい遺物はどれも好きなので良き!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

学術調査ではないので範囲を拡張した調査はすぐには行われないでしょう。

しかし重要な集落の大部分が残っていると分かった今、更なる新たな発見が期待されますね(*・ω・)ノ

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2020ねん 2がつ 23にち(にちよーび、晴れ)

けっこう働いてる方だと思うんだけどな~(´・ω・`)


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今回の考古学・歴史ニュースは「あの有名なクレオパトラとマルクスの墓は水中にあるらしいよ!」ってお話です(*・ω・)ノ


フランスの哲学者、パスカルはその著名な「パンセ」の中で後世に残る名言を残しています。

『人間は考える葦(あし)である。』

聞いたことありませんか?

そしてもうひとつが、

『クレオパトラの鼻がもう少し低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。』

です(*・ω・)ノ(訳し方は色々とあると思います( -д-)ノ)

このパスカルの記述によってクレオパトラは絶世の美女としての地位を確たるものにしたと思います。




古代のロミオとジュリエット

表題に『古代のロミ&ジュリ』と書きましたが、二人の最期について簡単に説明しますね。

BCE44年、「ブルートゥス、お前もか!?( ・Д・)」と言い放って、23カ所も滅多刺しにされて独裁で有名なカエサルが暗殺されます。

「お前もか!?」のセリフはシェークスピアの戯曲中のセリフで、自身の言葉としては「賽は投げられた」が最も有名かと思います( -д-)ノ

カエサル暗殺の後に成立する第二回三頭政治の支配者の一人が、マルクス・アントニウスです。

1人目の妻を亡くした後に、オクタヴィアヌスの姉、オクタヴィアを後妻として迎えますが、クレオパトラと出逢い恋に落ちます。

映画では絨毯にくるまれたクレオパトラが登場するシーンが印象的ですね(*・ω・)ノ

結果、マルクス・アントニウスは一方的にオクタヴィアと離縁し、クレオパトラや親族に支配領域を分割することで、「エジプト女王に骨抜きにされ、ローマ人の自覚を失った男」としてローマ市民に評価されることになります。

これを機にオクタヴィアヌスとの激しい対立が生じ、BCE31年にオクタヴィアヌスはプトレマイオス朝エジプトに対して宣戦布告します。

当然、エジプト側に付いたマルクス・アントニウスでしたが敗走することになります。

その最中、クレオパトラの自害を知ってマルクス・アントニウスは自刃します。

しかしこれは誤報であり、最後はクレオパトラの腕の中で死んだとされます。

その後すぐにクレオパトラは毒蛇に自らを噛ませて自殺します。

プトレマイオス朝エジプトを滅ぼした後、オクタヴィアヌスが認めたため、マルクスの遺言に従ってマルクスはクレオパトラと共に埋葬されました。





2人の墓はどこ?

こうしてローマ人であるマルクス・アントニウスとプトレマイオス朝エジプト最後のファラオ、クレオパトラ7世の墓が出来上がったわけです(*・ω・)ノ

BCE30年に自殺した2人の埋葬についてはローマ帝国五賢帝時代の歴史家であるスエトニウスと、帝政ローマ期のプルタルコスによって記述されていますが、その場所が不明でした。

上の写真の色んな意味で著名なエジプト考古学者、ザヒ・ハワス博士は、美人考古学者としても有名なキャサリン・マルティネス博士の指揮の下、二人の墓を探しました。

結果、エジプトの西方、アレクサンドリア近郊のオシリスを祭る神殿であるタップ・オシリス・マグナ神殿跡でプトレマイオス朝時代の墓を発見しました。

そこでは27体のミイラや貴族の墓、クレオパトラの横顔が刻印されたコインが多数発見されました。

しかしこの神殿を12年間もの間発掘し続けた結果、どうやらそこには二人の墓はないようなのです( -д-)ノ

これを受けて、つい先日(2020年2月)マルティネス博士を熱烈に支持していたハワス博士が「マルティネス博士の理論は間違っていた」とインタビューで述べました。

そして「クレオパトラはマルコ・アントニオと共にアレクサンドリア沖の水中の墓に埋葬されている」と述べています。

現在は世界中で水中考古学が盛んになってきており、水中考古学に助成金を出す団体も増えています。

今後、アレクサンドリア沖が集中的に調査される可能性がありますね!(・∀・)つ


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著名考古学者の闇
 
ザヒ・ハワス博士と言えば、ピラミッドを建設した人々の墓をピラミッドの傍から発見し、彼らは奴隷ではなかったとの説を唱えたことで有名です。

優秀な考古学でもあるとは思いますが、考古最高評議会事務総長としてムバラク政権下では実質的にエジプト考古学を支配していたような状態だったようです。

外国人研究者や自説とは異なる研究者に発掘許可を出さなかったようですね。

中米ホンジュラスでは僅かしかいない現地考古学者同士が対立し、負けた方は国外退去になった事例もあります。

グアテマラでも政権ごとに対立が存在し、4年ごとに配置が大きく入れ替わります。

アメリカでもハーバード大学やペンシルヴァニア大学等の著名な大学出身者による学閥形成の話を少し聞いたことがありますし、どこにでもグループ構図はあるようですね。

かく言う日本でも「旧石器時代ねつ造」の事件では、現在の著名考古学者の数名に関してかなり深い闇があるようですしねヽ(TдT)ノ

怖い怖い、触れてはいけません(/TДT)/

・・・・・・ところで美人考古学者のマルティネス博士は弁護士らしいんですけど、考古学者でもある?

幼少期からクレオパトラに関心があり、資金提供をして発掘調査指揮を執ったのは間違いないのですけど、考古学者なのか?博士なのか?微妙ですね。

ドミニカ共和国出身の所謂エリート層出身のようですけど、さくっと調べた程度では出てきませんでした(TДT)(スペル間違ったかな?)

考古学者の世界も資本主義ですから、お金ないと発掘できないですし、超高価な分析機材も買えないのです。

ナショナルジオグラフィックとかまさにいくつか王墓当てて、テレビ露出増やして有名になっていかないとお金くれないので(しかし一度OK出れば大量にくれる(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!)、そういった助成金をくれる団体の性格も関係しているのでしょう。

ま、何はともあれ、皆さんが覚えておくべきはひとつ!

テレビに露出の多過ぎる研究者にロクな奴はいない!( ・Д・)

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2020ねん 2がつ 20にち(すいよーび、晴れ)

3月~5月もガチ乾季に向けて、もうすでに暑くなり始めたよ。

体力奪われる~( ・Д・)


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だんご大発見
↑ようやく見つかった!(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


今回の考古学・歴史ニュースは「ティカル遺跡の一般住居址でお墓を見つけたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

王墓や貴族の墓じゃないので大したことないかも知れませんが、個人的に人生初の墓の検出なのでテンション上がりました!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

さて、色々とあった第2週目ですが、成果の報告をしますね!

これまでの経過とかよく分からんよって人は是非前回の記事をまず初めにご覧ください( -д-)ノ


↓これです(*^・ェ・)ノ

↑ティカルの位置とか、ティカルにおける発掘区の位置についても説明しています(*^・ェ・)ノ


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↑発掘前の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


前回掘っていたのは『L字状の建造物グループ』の西側の住居です。

今回掘ったのはより大きな北側の住居、『建造物4F-20』です。

上に挙げたように掘る前はこんな感じで何の変哲もありません( -д-)ノ


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↑表土層を剥いだ時の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


でもちょっと掘り始めただけで、長い切り石が出てきました。

しかし写真の手前側に続かず、なんでかなと思ってました。



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↑倒壊した壁が見えます(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


少し深く掘ってみると、倒壊した壁らしきものがどんどん出てきました。

最初に見えてた奥の長い切り石はやはり壁の一番下の基礎部分であることが分かりました。

でもはやり写真手前側に続かない。

倒壊した壁の一部達も写真の手前側(東側)には見当たらないので、植物といっても主に大樹の根の影響で破壊されてしまったのかなとひとまず考えていました。

最終居住面である床面もはっきりしませんからね( -д-)ノ


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↑床面の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


どんどん掘っていくと前回の住居同様に複数の床面が見えてきました。

上層の方の床面は保存状態が悪く、不明瞭でした。

特に東側は。

上の写真は2番目の床面です。

1番目の床面よりはマシですが、非常にボロボロとした薄い漆喰層です。



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↑表土層近くから出てきた動物骨たち(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


そんな折に、骨が出てきました。

古代マヤ人が食べた動物骨ですね。

しかし上の写真で1点だけ新しい綺麗な骨ありますよね?

これは牛の肋骨です。

ネズミ等の小動物が齧った痕跡があるので、けっこう深い部分まで攪乱(土が遺物ごと混ぜられてしまっている状態)が見られるのだなと思ってました。

だから、「あ~、この住居はヤラレ(攪乱のこと)がひどいから、層位資料は期待できないな~」とか思ってたら……



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↑指の骨!(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


もう何も出ることもなく、最下層面である母岩面に辿り着いちゃうなヽ(TдT)ノ

って時に、骨がぽろぽろと出てきました。

しかし上の写真のように焼けているんですよ。

大体の骨がしっかりと焼けていて、すっかり炭化しているものも少なくなかったのです。

古典期(CE250-1000)のマヤ地域では土葬が一般的であり、火葬は後古典期(CE1000-1500)に一般的になるのです。

古代都市ティカルは古典期の終わりに放棄されていて、ティカルを中心とするマヤ地域中部低地の人々も次々と都市国家を放棄して南北に大移動します。

つまり後古典期のマヤ文化は時代も地域も大きく異なるです。

当然、火葬の文化の時間的位置や分布域も異なるわけです(TДT)

だから、『焼けている骨=食べるために焼いた=動物骨』って図式が頭の中にあって、動物骨の集中かなって思ってたら、、、

上の写真の通り、人の指の骨があったのです!!!(TДT)

(指の上に載せてるやつです。ちなみに一番手前の骨は歯)


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↑お墓の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)
 

お墓かも知れない!!?ということになり、テンションアゲアゲで掘り進んでいったら、上の写真のような状態になりました。

上の方の茶色いのが『頭蓋骨』です(*^・ェ・)ノ

で、下の方にあるのが『捧げもの』ですヾ(´ω`=´ω`)ノ

いや~嬉しいものですね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

最大の疑問は、なぜ古典期後期(CE500-900)に帰属する一般層マヤ人の住居に埋葬された人骨が焼けていたのか?

続く調査でおおよそ、その状況が解明されていきます。

第2週目のお墓に関する発掘の詳しい様子については下記のYouTubeに上げた動画を見て下さい。

調査5日目からが、お墓(?)の出た「建造物4F-20」に関する動画です。

↓面白そうなのはこの辺り(7日目)かな?(。・ω・)ノ゙
チャンネル登録よろしくお願いします!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

↑他にも色々あるので見てみてくださいな(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


まぁYouTubeに挙げてる動画はただの『動画による記録』なので、帰国したら編集して少しはマシな動画を作りたいな~と思っています。

カメラの能力で画質も良くないですし、回線速度の問題でアップも大変ですが、ひとまず今回はこんな感じで頑張って行きます。

調査はまだ続きますので、是非、応援よろしくお願いします!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

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2020ねん 2がつ 17にち(げつよーび、晴れ)

YouTubeも少しずつ成長してるから楽しいけど、1000人は遠過ぎる……

てかこっちの回線速度、遅過ぎる。

もうすでに素敵なビデオカメラと編集ソフト欲しい( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは「アッシリアの神々と王の行進を描いた彫刻が見つかったよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

アッシリアと言えば、メソポタミア文明の内のひとつですね。

今回発見されたのはおよそ2700年前、つまり紀元前700年前の石彫です。

この時期は新アッシリア時代に相当します。

どうやら古代水道で見つかったこの石彫の推定時期は新アッシリア時代の中でもアッシリア帝国時代のものだそうです(*・ω・)ノ

アッシリア帝国は『歴史上最初の真の帝国』であったとされ、また『アッシリアの民は鉄器で武装した最初の軍隊を有し、高度な戦略を用いた最初の民族』であったとされています。

帝国を築くくらい軍隊も強かったわけですが、古アッシリア時代・中アッシリア時代に続き、圧政もひどかったため滅亡してしまいます。

王様はきっと歴史を学ぶべきでしたね( -д-)ノ

アッシリアの王は主神であるアッシュル神で、人間の君主はアッシュルの副王を名乗りました。

つまり「神権政治」ですね。

国の政(まつりごと)は直接的に神の指示なわけですから、権力が膨れ上がって圧政に至るのも想像に難くない気がしますヽ(TдT)ノ






石彫が見つかった場所は中東イラク北部、アッシリア帝国時代の水路網の壁面です。

王宮以外で見事なレリーフが見つかることはほとんどないため貴重な発見と言えます。

またレリーフに神々と共に描かれた王はサルゴン2世(紀元前722年 - 紀元前705年)であり、もっぱら戦争をしていて武勇で有名な彼が、公共事業にも貢献していたことを示す貴重な発見でもあります。

この水路は丘陵地を巡るように造られており、大麦、小麦などの作物を育てる大規模な灌漑に使われたと考えられています。

この大規模灌漑が機能していたからこそ、当時、世界最大級の都市であったニネベの10万人以上とも言われる住民に十分な食糧を供給できていたと推測されます。

サルゴン2世は即位後すぐに帝国南部のバビロニアに離反され、戦争が続く中で死亡してしまいますが、圧政の多いアッシリア帝国時代の王の中では民の事も考えた優れた王だったのかも知れませんね(。・ω・)ノ゙

 
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さて、このレリーフには、竜と角のあるライオンに乗った最高神アッシュールや、その配偶神でライオンが支える玉座に座ったムリッスといったアッシリアの神々の行進をサルゴン2世が見守る様子が描かれているそうです。

他にも愛と戦争の女神イシュタル、太陽神シャマシュ、知恵の神ナブなどが並んで行進している様子が描かれています。

こういった芸術作品が民衆のための水路にまで張りめぐらされていたことが分かったわけで、当時の帝国の力の強さを知る上でも本当に大きな発見と言えるでしょう。

またこの長大な古代水路にはそれを埋めている堆積物が多量にあるため、それを除去することで新たなレリーフが発見されることが十分に期待されます!

続報が楽しみですね!(*・ω・)ノ

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2020ねん 2がつ 16にち(にちよーび、晴れ)

今日は少し仕事が進んだぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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↑ムササビを模ったと思われる埴輪(
柳田康雄氏提供
「成田市立図書館」のページ内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは「ムササビとか、お魚とか色んな埴輪があるよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

埴輪や土製品には可愛いものがいっぱいあるんですけども、なかなか以前書いた記事から進展ありませんね( -д-)ノ

「世界ミニチュア土器大全」とかも作りたいのだけど……


↓他にも関連記事があるだろうか……覚えてすらいない(TДT)







珍しい可愛い埴輪の紹介



上に挙げた「お魚さん」は最初の「ムササビくん」と同様に成田市、正福寺1号墳から出土したものです。

この遺跡からは他にも馬・鶏・水鳥・鷹を模った埴輪が列を成して出土しており、その配列には儀礼的意味合いがあったと考えられています。

魚形の埴輪には他にも類例がありますが、数が少なくとても貴重です。

加えて、「ボラ」であると魚種まで分かっている例としては非常に珍しいものになります。

また「ムササビ」は全国で一例しかない『オンリーワンなムササビくん』なのですv( ̄∇ ̄)v


……こういった珍しい出土品が見つかると、

「誰が、いったい何のために作ったのか分からない!?」

なんて文句を聞いたこと、目にしたことありませんか?

まぁ注目を集めるには良い表現だとは思いますが、、、これについては最後に述べますね( -д-)ノ


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1枚目は和歌山で出土した鳥を模した埴輪です。

鳥を模ったものは多いのですが、こうした翼を広げている資料は大変珍しいものです。

ついでに可愛いカワ(・∀・)イイ!!

2枚目は大阪府、今城塚古墳で出土した牛を模した土偶ですね。

馬や牛を象形した資料も数が多めですが、これは立派なツノが美しく保存されている事例はです。


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最後は大阪府高槻市の今城塚古墳で出土した鶏を模した埴輪です。

これはめちゃくちゃ可愛い!カワ(・∀・)イイ!!

水鳥や鶏を模した埴輪も数は多いのですが、、、

この試料は保存状態も良好ですが、特に可愛さの点では群を抜いていますね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

『いや~、埴輪って本当にいいものですね~』(。・ω・)ノ゙





「誰が一体、何のために作ったか分からない!?」件について

このフレーズはオカルト系とか疑似科学系の『面白可笑しい歴史』を扱ってる方々が使う常套句です。

YouTubeでもこの手のタイトルや表現はよく見ますよ。

このフレーズを分解すると……


①誰が作ったの?(あるいは、造ったの?)⇒『Who ?』

②何故作ったの?(あるいは、造ったの?)⇒『Why ?』


となるわけですけど、これって考古学では最も難しい領域ですよね。

「考古学者が未だに分からない!?」とか見かけますけど、たぶんほぼ永久に分からないですよ。

そもそも①の誰が?ってのは個人の特定ですよね、きっと。

そんなのはよほどの特異な事例でない限り分かりませんよ。

そして分かったところでどうしようもないので誰もやりませんよ。

先のムササビくんも「何のために作ったのか、何故ムササビなのか……?」って展示案内にありました。

他の記事では「誰が何のために?」って書いてましたしね。

誰って、『古墳時代の人』じゃダメなの?

「どこどこ村の〇〇郎さん」レベルまで知りたいの?

戸籍ないし、無理だよ。

仮に名前彫られてても、製作者の名前とは限らないよ!?( ・Д・)

ということで、「誰が?」というのは考古学ではかなり広い範囲(例;どこどこ遺跡の工人集団)で特定するものであって、それより詳細には基本的に特定しないです(通常、できないです(/TДT)/)。

北アメリカで指紋が多量に残ってる土器がありまして、この土器とこの土器の製作者は指紋から同じ人が作ったのだろう……みたいな研究ならありますけど、これも個人を特定しているわけではないですよね。

同一人物が作った作品のヴァリエーションを捉えるために行っている研究です。



結論①:考古学において基本的に「誰が?」は大きな単位で扱うものである(*・ω・)ノ




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では②「なぜ?どうして?」についてですが、これも難しい。

「考古学における3つの梯子」という有名な考え方がありまして、

1段目は土器や石器といった遺物の『製作技術』であり、最も考古学がアクセスしやすい情報なのです。

2段目は、『社会・経済』であり、この2段目に至るだけで骨が折れます。

正直、この2段目をしっかりやることが重要だと思っています(*・ω・)ノ

そして最後の3段目が『宗教・思想』です。

ここにアクセスするのが最も難しく、アクセス出来ても最も証明しにくいのです。

「どうして?」って理由に関する疑問はこの3段目に相当します。

だから考古学的にはそもそも超難関なのです。

またムササビくんの事例や、他のオーパーツ的な遺物やら、オカルト等で取り上げられる話題の遺跡はどれも1点ものであることが多いです。

考古学は積み上げた物証や状況証拠を基に論じる学問ですから、そもそも数の出ない資料や遺構は取り扱いにくいのです。

他の科学もそうですけど、1回だけ実験を行って即、成果発表はしないでしょう?

何度も実験や試行を繰り返してデータを集めてから論じるでしょう?

考古学も同じですよ!!!ヽ(TдT)ノ


結論②a:考古学では「どうして?」という問いに答えるのがそもそも難しい学問である( ・Д・)

結論②b:考古学では、1点ものや極めて少数の遺物や遺構、遺跡を取り扱うことは難しい(事例研究として個性的記述をする場合を除く)。

さて、最後に、、、

日本では一定のスパンで上記のような「歴史探偵」とか「歴史警察」とかやりますよね。

考古学って物証や状況証拠を扱うわけだから、ぴったりだと思うのですけどね。

よく知りませんけど、探偵業って報酬+経費もらって調査するんですよね?

リアルに『歴史探偵事務所』作って専門家集めて、お客様から頂く報酬と経費に応じて、お客様の知りたい歴史の真実について調査する……

なんて商売、ダメですか?( ・Д・)

そんな仕事、あったらめちゃ楽しそうだな!

皆さまはどう思いますか?ヾ(´ω`=´ω`)ノ

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2020ねん 2がつ 16にち(にちよーび、晴れ)

仕事が溜まっていく。

体力も気力も削れていくヽ(TдT)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「2000年前の古代の噴火で頭が爆発した事例があるよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

つい最近もヴェスビオ火山の噴火の恐ろしさに関する記事を書きました。

今回はそれに類似した内容です。

前回は脳みそがガラス化した話でしたが、今回は脳みそが沸騰して爆発し。内側から頭蓋骨を吹き飛ばしたお話です

↓前回のはこれ。




今回のお話の舞台もヘルクラネウムです。

ヴェスヴィオ火山の近くに位置する古代ローマの一都市ですね。

前回お話したように、有名なポンペイでは飛んできた火山弾に当たって亡くなったり、高温に晒されることで死亡する事例が多いのです。

一方でポンペイよりもヘルクラネウムの位置は噴火した火口の近くにあるため、より高温の火砕流が速やかに到達したと考えられています。

温度に関しては研究者によってばらつきがありますが、概ね500~600度と考えられています。

現代日本では火葬が一般的なのでイメージし易いかも知れませんが、技術の発達に伴い、人の遺体は1000度に達する火葬室で焼かれます。

なので10円玉等の銅を主体とした金属類ならば溶けてしまう温度です。

また現在はもちろん古代より陶器類の焼成や鉄器の精錬には1200度以上に達する窯を用いてきました。

これらと比べると500~600度の火砕流は大した温度じゃないと感じるかも知れません。

あるいはその程度の温度で脳が沸騰したり、頭蓋骨が爆発したりするものかと不思議に思うかも知れません(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

上記の人口的な高温焼成と、ヴェスヴィオ火山の火砕流との違いは「時間」です。

ヘルクラネウムを襲った火砕流は人体を一瞬の内に包み込み、500~600度の高温状態にしたのです( ・Д・)

さて、では実際にヘルクラネウムで発見された頭蓋骨の写真を見てみましょう(*・ω・)ノ


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1枚目の画像だと頭蓋骨の上部が砕けています。

2枚目では側頭部、3枚目では頭蓋骨の前方が砕けています。

このように上部だけが吹き飛ぶわけではないようですね。

ところでヘルクラネウムの当時の人口は5000人と推定されています。

ポンペイの事例では人口2万人に対して約2000人が犠牲となりました。

10%程度ですね( -д-)ノ

ヘルクラネウムの事例に適応すると5000人の10%で500人が死亡したことになります。

火口に近い分、被害者数はより多かったかも知れません。

あるいはポンペイの被害者の多くは逃げ遅れた人、あるいは何らかの理由で留まった人なので、しっかり避難していればもっと少ないかも知れません。

そのため正確な犠牲者数は分かりませんし、発掘調査が全て終了しているわけでももちろんありませんが、少なく見積もってもこれまでに発見された100体以上の遺体に対して、頭蓋骨が爆発した事例は僅かです。

みんながみんな、脳みそが急速に沸騰して、頭が爆発して死んだわけではありません。

しかしながら噴火とは恐ろしい物ですね。

日本にも活火山はたくさんあります。

幸いにも過去の被災から学び、現在は様々な対策がなされています。

皆さんも他人事とは思わず、噴火や地震、それらの避難方法について学習し、有事の際にはちゃんと避難してくださいね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

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2020ねん 2がつ 13にち(もくよーび、晴れ)

日本時間で日記書いてると混乱してくるので、現地時間に変更したよ( -д-)ノ


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↑建造物4F-19、3層上面の様子(
柳田康雄氏提供
「歩け、マヤ」管理人、撮影)


今回の考古学・歴史ニュースは「2020年度ティカル遺跡発掘調査、第1週目の成果をまとめるよ」ってお話です(*・ω・)ノ

「歩け、マヤ」では既に何度か紹介したことがあると思いますが、マヤ文明で最も重要な遺跡の一つであるティカル遺跡で発掘調査を実施しています。

ティカル遺跡はグアテマラ共和国の北部、ペテン県フローレス市にあります。

ティカル遺跡は、ティカル国立公園として世界複合遺産に登録されており、世界中から大勢の観光客が訪れる著名な大遺跡の一つです(*・ω・)ノ




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↑ティカル遺跡中心部の図(Carr and Hazard 1961のTikal Mapを加工)


上の3番目の図に示したように、紫色の四角部分が2016年に調査したエリアになります。

今回の調査エリアは赤色の四角部分です。

これまでにい古代マヤの土器焼成址(窯)は発見されていないのですが、それと思しき遺構を2017年の資料調査の際に検出しました。

それが赤色四角部分のすぐ東になります。

この古代の窯と思しき遺構に最寄りの一般層住居を発掘し、窯と思しき遺構との関係性について明らかにし、当該エリアが土器工人集団の工房エリアと言えるかどうかをチェックすることが今回の調査の主要な目的となります(・∀・)つ

国内最古級となる弥生時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかり、市教育委員会が1日、発表した。この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭(わ)国(日本)が文字を用いて外交した裏づけとなる。

 出土したすずりは石製で、長さ6・0センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの破片。薄く裏面の粗い加工など中国・漢代の板石すずりと特徴が一致し、復元すると長さ10~17センチのほぼ長方形とみられる。弥生土器や朝鮮半島製の楽浪(らくろう)系土器が集積した「土器だまり」で見つかった。弥生時代のすずりは田和山遺跡松江市)に続き国内2例目。

 中国や朝鮮半島に近いこの一帯は日本列島と海外をつなぐ外交窓口だった。倭人伝は、伊都国には女王卑弥呼が派遣したともいわれる役人や海外からの使いがおり、文書類も点検したと記す。市教委は、すずりは倭人伝の記述を裏づけ贈答品の返礼書作成など外交文書のやりとりが行われていた、とみる。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「文字文化や外交文書行政の始まりを知る資料だ。先進文化は外交拠点のここに入り、国内に広がったのではないか。すずりの時期は(紀元前の)弥生中期にさかのぼる可能性もある」と話す。



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↑今回の調査エリアの拡大図(Carr and Hazard 1961の図を加工)


調査エリアの名称は『4F』です。

上に挙げた図がエリア4Fの拡大図になります。

「Op.~(オペレーション・ナンバー)」は窯と思しき遺構群の位置で、特にOp.14が重要な遺構になります。

このOp.14に近い住居として、青色の網掛け部分を調査対象にしています。

今回の調査対象である建造物グループは2つの建造物から成り、西側が建造物4F-19、北側が建造物4F-20になります。

調査第1週目はこの内の、『建造物4F-19』を対象に発掘を実施しました(*^・ェ・)ノ



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↑調査開始前の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


調査開始前はこんな感じです。

ティカル国立公園で最も高級なホテルの裏手の従業員宿舎の更に裏に位置しています。

ホテルの拡大は禁止なのですが、実際には拡張しちゃってるので、いずれこの住居も無くなりそうですね( -д-)ノ



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↑石の列が見えます(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


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↑横から撮ってみました(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


地表面の土をどかしていくとすぐに石の列が出てきました。

2枚目の横から撮った写真が分かり易いのですが、一番左の一列は綺麗に直線的に並んでますよね。

それが住居の壁の一番下の切り石に当たります。

それより右にあるのは全て元々壁として上に積んであったもので、右側に倒壊した状態になっています(*^・ェ・)ノ



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↑倒れた壁をどかした状態(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


一番下の礎石だけを残して、倒壊した壁を取り除きました。

そうすると上の写真のように一面真っ白になりました。

これが『床面』です。

漆喰でコーティングされているので白いのです。

これが最終居住面になり、出土した遺物から古典期後期(ac.CE500-800)から終末期(ac.CE800-1000)頃に使用されたものと考えられます


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↑(「歩け、マヤ」管理人、撮影)

どんどん掘っていくと2番目の床、3番目の床が出てきました。

上の写真の左側、壁の礎石の下側に階段状に、帯状に残してあるのがそれぞれの床面です。

第1週目ではこの先も掘り進めて、母岩である石灰岩層まで到達しています。


【簡単なまとめ】

第1週目の成果は、

① 3回の床面の張替えを行っていることが分かった。

② 建造物4F-19における居住時期は全体的に古典期後期(CE500-800)だと分かった。

以上の2点です。

遺物の分析が進めば、土器焼成址(窯)との関係も分かるかも知れませんが、残念ながらこれまでのところ分かり易い明瞭な土器生産の証拠は見つかっていませんヽ(TдT)ノ


↓動画もアップして解説してますので、ぽちっとチャンネル登録と共に是非視聴してみて下さい。











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一番下の動画、「くるくるシリーズ」は現地の人には大好評だったのですが、、、

実は『リコーシータV』がエラー起こして使えなくなりました。

よくあること(!?)らしく、問い合わせたところ、交換しないとダメらしいんですよねヽ(TдT)ノ

悲しいけど仕方ないので、また次の調査で「くるくるシリーズ」やりたいなと思いますヾ(´ω`=´ω`)ノ

ネット環境があまり良くないのでアップも難しいのですが、何とか頑張ります。

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2020ねん 2がつ 9にち(にちよーび、晴れ)

ティカル遺跡の中心部から最も近い河川で粘土を採取、、、

それでミニチュア土器を作ったよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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今回の考古学・歴史ニュースは「弥生時代中期に属すると思われる国内最古級の硯がどんどん出てきているよ」ってお話です(*・ω・)ノ


国内最古級となる弥生時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかり、市教育委員会が1日、発表した。この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭(わ)国(日本)が文字を用いて外交した裏づけとなる。

 出土したすずりは石製で、長さ6・0センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの破片。薄く裏面の粗い加工など中国・漢代の板石すずりと特徴が一致し、復元すると長さ10~17センチのほぼ長方形とみられる。弥生土器や朝鮮半島製の楽浪(らくろう)系土器が集積した「土器だまり」で見つかった。弥生時代のすずりは田和山遺跡松江市)に続き国内2例目。

 中国や朝鮮半島に近いこの一帯は日本列島と海外をつなぐ外交窓口だった。倭人伝は、伊都国には女王卑弥呼が派遣したともいわれる役人や海外からの使いがおり、文書類も点検したと記す。市教委は、すずりは倭人伝の記述を裏づけ贈答品の返礼書作成など外交文書のやりとりが行われていた、とみる。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「文字文化や外交文書行政の始まりを知る資料だ。先進文化は外交拠点のここに入り、国内に広がったのではないか。すずりの時期は(紀元前の)弥生中期にさかのぼる可能性もある」と話す。

前回、国内最古の文字の可能性のある硯(すずり)が出土したお話をしました。





そこでも少し触れたのですが、最近やけに「最古級」のすずりがどんどんと出土するようになっているのです。

まぁ考古学において、『認識が遺物の発見を作る』ことはよくあるのです。

例えば、『この古さ、時代にこんなものがあるはずがない』と思っていると叩かれないように公にしなかったり、自信の無さから特別アピールしたりしないので、情報がそのまま埋もれてしまうことがあります。

最悪の場合、あり得ないからという理由で帰属時期の推定に影響を及ぼし、ほぼほぼ改ざんされてしまうこともあるのです( -д-)ノ

でも誰かが「発見した~!ヾ(´ω`=´ω`)ノ」ってなれば、

『俺も俺も!むしろ俺の方が古い!最古だ、最古だ!』

という風に「サイコ祭り」もとい「最古祭」が始まる傾向があります(*・ω・)ノ

……考古学者も人の子なのです( ・Д・)

では一気に紹介していきましょ~!




福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で出土した硯の破片です。

弥生時代後期(1~2世紀)の遺物です。

大きさは長軸6cm、短軸4.3cm、厚さ6mmです。




佐賀県唐津市の中原遺跡で出土した硯の破片資料。

弥生時代中期(紀元前1世紀頃)の最古級資料。

大きさは長軸約4~19cm、短軸約4~7cm、厚さ1cm程度。

中国製の硯と類似の特徴が多いそうです。

基本的に大陸から伝わった文字文化の象徴ですからね。



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↑硯と研石がセットで出土(「読売新聞」の記事内画像より転載)


有名な吉野ヶ里遺跡の出土の硯と研石と思われる石板。

弥生時代中期に帰属すると思われます。





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こちらも佐賀県、吉野ヶ里遺跡出土の硯と研石。

長軸7.8cm、短軸5.2cm、厚さ1.0cm。

先ほどの写真は展開図のようになっていますが、こちらは普通の写真なので分かり易いかも知れませんね。

*同じ遺物ですよ(*・ω・)ノ


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まだまだたくさん硯は見つかっています。

これまで弥生時代と言えば、「弥生土器」のイメージしかないと思います。

縄文時代よりは進んでいるけれど、古墳時代の初期国家へのイメージとは異なる。

どちらかと言うと縄文時代に近いイメージだと思います。

これからは弥生時代にはすでに文字文化があったと考えられるのが普通になり、教科書等で伝えられる復元画等のイメージも変わっていくでしょうね!(・∀・)つ

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