上に挙げた写真は1956年にバイア上空からイタリア軍のパイロットが撮影したもので、それを機に発見されたのだそうです。
このバイア海底遺跡周辺は現在でも地殻変動で浮き沈みしているようですから、私が死ぬまでにもし浮いてきていい感じに露出したら行きたいなと思います( -д-)ノ
「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙
上に挙げた写真は1956年にバイア上空からイタリア軍のパイロットが撮影したもので、それを機に発見されたのだそうです。
おにぎりは包みや弁当箱に入っていた可能性が高いですし、この資料はその点では基準を満たしています。
更に確認としてこの遺物はCTスキャンで解析され、『表面が緻密な状態で中はふっくらである』ことが確認されたのです(・∀・)つ
まず研究者がぶち当たる最初の壁が研究費だと思います。
学費ってのもありますけど、この際忘れましょう( ・Д・)
最も有名な助成金は所謂「科研費」ですが、新規採択率は25%~30未満と言われています。
応募する内容にもよるので一概には言えませんがそんなもんです。
企業が出している助成金もありますが、
年齢制限や、テーマの制限が大きく、かつ採択率は多くの場合10%もない狭き門となっています。
申請数が30件程度で、採択数が1~2件なんてのもザラにあります。
しかも採択された人物は「~大学教授」みたいな、そもそも若手研究者の土俵じゃない場合も多いのです( ・Д・)
2.研究費が獲れたら獲れたで大変
上に述べたように研究費が獲れる研究者は一部の研究者に限られるわけですが、
大学のポストを持っていない若手研究者、特に私のような海外をフィールドにしている研究者は研究費が獲れるとどうなるのでしょう?
結論:正社員で働けません、むしろバイトすら限られてきますヽ(TдT)ノ
何でかと言うと、私はグアテマラがフィールドですから、研究費が獲れた以上、発掘調査等を行いにはるばる地球の裏側まで行きます。
調査地までの往復だけで約1週間かかってしまいますから、20~30万円くらいの航空券のことを思うと少なくとも1か月、できれば3か月近くは滞在したいと思うわけです。
でも日本で正社員で働いてて、年に1か月以上まとめて休みをくれるところはないでしょう( -д-)ノ
研究費は自分の生活費等には使えないという厳格な決まりがありますから、
生活費は別に稼がなければならない。
でも一年足らずで辞められるとこにしなければならない。
そう、アルバイト探しすら大変なのですよヽ(TдT)ノ
よく(?)「イナゴの襲来」って目に耳にするじゃないですか?
でもアフリカとか外国の話のイメージです。
農作物がやられて大変なことになるようです( -д-)ノ
これを「蝗害(こうがい)」と呼びます。
相変異という現象がカギになっており、主に昆虫において、さまざまな環境条件、特に個体群密度の変化によって、異なった姿と行動の個体を生じることを指します。
大規模な干ばつが起きると相変異によってトノサマバッタやイナゴが相変異により飛蝗(ひこう)という長距離を群飛する個体が多量に生じ、作物の豊富な生育地を求めて遠くまで移動するようになります。
↑相変異のバッタを載せるのもアレかと思い、日本人に親しみのあるバッタの群れを掲載(*・ω・)ノ(「ジオウ&ビルド製作委員会」の映画情報ページより転載)
この蝗害は、聖書の出エジプト記にも「十の災い」のひとつとして出てきます。
【十の災い】
これらは古代エジプトにおいて実際に起きた災害と考えられています。
エジプトはアフリカ大陸の北東端ですし、やはり蝗害ってアフリカや中東で起きているイメージがある気がします。
今回の記事はそんな蝗害が日本でも起きていたよ!ってお話ですヾ(´ω`=´ω`)ノ
↑札幌市、手稲区にあるバッタ塚(「SAPO☆CAN」の記事内画像より転載)
時代は明治時代、開拓期、場所は北海道です。
1880~85年にトノサマバッタが大発生し、十勝から道内各地に広がったとされています。
札幌でも大きな被害が出たため、駆除したバッタが産み付けた卵塊を集めて埋めた跡としてこのバッタ塚が建てられたそうです。
1967年に北海道大学の研究者が調べた結果、土中に卵の痕跡は見つからなかったが、複数の住民の証言があり、1978年に札幌市が指定する史跡となりました。
当時は、空を黒く埋め尽くすような大群が、農作物を食い荒らしたと言われ、手稲や発寒、琴似、円山などの各村で、麦やアワなどが10分の1ほどしか取れず、開拓に入ったばかりの農民たちの暮らしを直撃したそうです。
ちなみに空を埋め尽くすバッタの大群に大砲を打ち込んで駆除する方法も取られていたそうですΣ(・ω・ノ)ノ
このトノサマバッタの被害は札幌だけではなく、北の空知地方や道南の日本海側まで到達し、北海道の西半分が被害にあったといっても過言ではないでしょう。
この蝗害が本州にも上陸することを恐れた明治政府は、蝗害の発生地を特定しようと調査隊を派遣したところ、十勝川流域の広大な草原に至り。これが日本で三番目に広い十勝平野の「発見」となったそうです。
そしてこれを機に、十勝地方への入植が開始となりました。
その結果、発生地である十勝でもバッタの大規模な駆除が行われたため、こちらにはバッタ塚がいくつもあるそうです。
先ほどは北海道の西半分がやられたと書きましたが、当時はまだ十勝平野も知らない開拓期ですので、今であれば全道的な被害となっていたかも知れませんねヽ(TдT)ノ
発見があったのは青森県八戸市の法霊林遺跡です。
ここでは奈良時代の竪穴住居址が9基発見されました。
歴史の教科書&試験対策では、縄文時代と言えば竪穴住居、弥生時代は高床式倉庫、なんて機械的に覚えたと思います。
しかし上に挙げた写真のように奈良時代にも竪穴式住居が使用されています。
↑奈良時代の竪穴住居の図面(「7. 奈良時代の竪穴住居跡の復元」の図7を転載)
↑同じ図面ですが、「竈(かまど)」の部分を赤丸で示しました(「7. 奈良時代の竪穴住居跡の復元」の図7を一部改変)
↑竈(かまど)の構造を横から見た図(「新・筑紫潟の風」の記事内画像より転載;オリジナル図面は、稲葉・中山1983)
以上の3つの画像が竈の図ですが、住居内の焚口から住居の外側に向かってトンネルが掘られています。
これが「煙道」です。
タイトルに煙突と書きましたが、煙突が家屋の屋根の方に向かって伸びるのに対し、竪穴住居ではこのように地面の中を通って外側に煙が排気される仕組みになっています。
ちなみにロシアの事例などでは、煙が床下をうねうねと通って床暖のように機能してから排気されるような構造を有するものもあります(*・ω・)ノ
先ほど述べたようにこのような住居が9基見つかった中で、有力者の家であったと考えられる最も大きな住居の煙道の先(排煙部;外側の方)から、8世紀後半以降に作られたとみられる大刀が見つかりました。
↑残りの良い太刀(「Yahoo!ニュース」の記事内画像より転載)
儀礼のために入れられたと思われるこの大刀は写真で見られるようにけっこう残りが良いのです(*・ω・)ノ
写真の黄褐色部分が通常の堆積土層で、黒褐色になっている部分が煙道です。
大刀は鉄製で全長65cm、刃部の長さ48cmのサイズ、木製の鞘に納められています。
大刀は当時貴重品で、蝦夷(えみし)の有力者を埋葬したとされる末期古墳からの出土例が最も多いのです。
この出土した大刀は柄頭の形から「方頭大刀(ほうとうたち)」と呼ばれるものです。
大学の考古学の講義では超有名な蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれるものは北海道や東北地方で多数見つかっていますが、こうした大刀はこれまで出土した例がありません。
また竈に土器が入れられていた事例は確認されていますが、今回の事例のように煙道の排煙部に大刀が入れられていた例としても初めての事例となります。
恐らく住居を廃棄し、立ち去る際の儀礼行為としてこのようなことを行ったと考えられますが、まだまだ良く分かっていない蝦夷と呼ばれた人々の社会を知る上で貴重な発見となりました(*^・ェ・)ノ
↑ちなみにアシタカが使っているのは蕨手刀の方です(*・ω・)ノ
↑古いジブリ作品は考古学要素がけっこう入ってたりしますヾ(´ω`=´ω`)ノ
Twitterとかでめちゃくちゃ人気になっているこのキモカワいいネコですが、何だか一般的に知られているコンドルとかの地上絵とは全然違いますよね。
まぁ確かにちょっと「下手くそ」な地上絵は他にも存在しているのでいいんですけども……
これ、本物なのかな?って思ってしまうのですが( ・Д・)
ニュースの内容では「ドローンの導入により低空での撮影が可能になったため、こうした発見がこれらかも期待できる」的なこと言ってましたけど、
元々、低空でなかった?( ・Д・)
それが人工衛星の写真とか使って、超高度から撮影した高解像度データから新しい地上絵をガンガンに見つけてたんでなかった?
上の写真で分かるように確かに斜面に配置されているから、真上からは見にくいかもしれないけども、、、
↑(同上)
どうですか?
どの映像も特殊な処理を施した結果として見やすく加工しているようには見えません( -д-)ノ
そして、遊歩道近すぎない?
2枚目の写真なんか、たぶん遊歩道からでも映るんでない?( ・Д・)ニャー!
報道内では、「斜面にあり、自然の浸食でほぼ見えない状態だった」と言ってますけど、
まぁ浸食ってもともと自然のものですし、、、
ナスカの地上絵って地表面に見られる暗赤褐色のレキや砂などを取り除き、下部にある明るい色の砂レキ層を露出させることで描いています。
つまり写真に写っている作業員らは、見つけた地上絵が見やすくなるように上に被っていたであろう余計な砂レキを除去しているのだと思います( ・Д・)
だから明らかに見やすいんですよ、きっと!(*^・ェ・)ノ
↓過去の地上絵関連の記事を読んで下さいな( -д-)ノ
↑ナスカのことにも触れてますよヾ(´ω`=´ω`)ノ
今回の発見があったのは福島県、川俣町小綱木地区に所在する前田遺跡です。
国道の改良工事に合わせ、2018年から発掘調査が行われていました。
これまでの調査で、縄文時代中期の火おこしの道具として使われていたとされる「火切り臼」を始めとしてレアな遺物が多数出土する重要な遺跡と考えられていました。
この前田遺跡では、縄文時代中期に相当する土層から、流木が積もった小川の跡が発見されており、その周辺から大量の木製品や漆製品も出土しました。
水分があると余計腐ってしまいそうなイメージがありますが、実際には酸素の供給が絶たれるため木製品等の通常は腐敗して失われてしまう遺物が残りやすい傾向にあります。
↑柱穴の傍に横たわる人骨(「福島民友新聞」の記事内画像より転載)
今回前田遺跡では新たに埋甕や土壙墓が多数確認され、被葬者は縄文時代に一般的な屈葬の形態を取っていました。
40~50体と数が不確定なのは、複数個体がまとめて埋葬されている場合に骨の部位をチェックし個体数の確認を行う作業が完了していないためです。
日本の特に内陸部の場合、酸性土壌の影響で人骨はなかなか残りません。
そのためこの前田遺跡のように縄文時代の遺跡で大量に人骨が出土する事例は全国的に希少なのです(*・ω・)ノ
先ほど述べたように、前田遺跡ではその昔、河川が流れていたと考えられていますから、河川の流れによって堆積した水分を含む砂質の土が人骨を覆ったことで空気を遮断し、腐敗の進行を遅らせたと推測されます。
こうした良好な埋蔵環境の結果、全体の骨格が分かるほどに保存状態が良好な人骨が5体検出されているため、これを対象にDNAの解析を実施する予定でいるそうです(・∀・)つ
更に前田遺跡では縄文時代晩期(約3500~3000前)の地層から、全国的にあまり類のない木柱を伴う柱穴が100基以上も検出されましたΣ(・ω・ノ)ノ
木柱は直径約30~40cmが多く、最大で直径約60cmのものも確認されています。
木柱が残っているなんてレアケースですが、そこはやはり旧河川のおかげなのでしょう(*^・ェ・)ノ
上の写真で確認できるように、柱穴の掘り込みは浅いものばかりのようです。
木柱の周りに石を詰めた状態が確認されており、かつて掘立柱建物やモニュメントがあったと推測されています。
更に、墓域からは縄文時代後期に相当する状態の良いハート形土偶が1点出土しました。
大発見ばかりなのに調べても写真が全然出てきませんでした。
まだ新しい情報なので、未報告資料ということもあり、伏せられているのでしょう。
これだけの発見があれば現地説明会はもちろん、最寄りの博物館で遺物の展示会も開催されるでしょうから、その際に今回紹介したレアな発見物の写真が見られるかなと思います。
写真を含め、また続報があれば紹介しますので、お互い楽しみにしましょうね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!
発見の舞台は長崎県、対馬市です。
新発見というと、職業病なのか「土から出た」と思ってしまうのですが、、、
今回のように民家やその蔵から発見、ないし『再発見』されることも結構あるものです(*^・ェ・)ノ
↑僅かこれだけだよ?(´・ω・`)(「CNN.co.jp」の記事内画像より転載)
これまでにもこうしてポンペイ遺跡を訪れた観光客から、モザイクタイルや漆喰片、陶器片などの盗まれた遺物が返還されているそうです。
その数は既に数百件にも及んでいるそうで、そうして返還された遺物に添えられた手紙には、持ち去った出土品は不運しかもたらさなかったことが記されているそうです。
こうした手紙や返還された出土品は、ポンペイ考古学博物館に展示されており、見ることが可能ということで、今後文化財保護のために役立つといいなと思いますね(*・ω・)ノ
さて、一度は盗まれ返還された遺物の画像のキャプションに「僅かこれだけ」と書きましたが、
『文化遺産の盗難=考古学データの永久的な消失』なので、あってはならないことだと思います。
専門家としてはそう思います。
けど、一人の人間としては、
「これくらい許してやってよ」って思ってしまいます( -д-)ノ
というのも、世の中、私利私欲のために遺跡を破壊する事例なんて世界中いくらでもあるのです。
今現在、進行形で破壊され続けていると言っても過言ではないでしょう。
さて、サウナの発祥の地はフィンランドとされていて少なくとも1000年以上の歴史があるそうです。
現在でもフィンランドの多くの家庭にサウナがあり、総数は約550万人の人口に対して約300万基とするデータがあるそうですΣ(・ω・ノ)ノ
温泉施設に併設されていることが多いと思います。
ちなみに日本でサウナが普及したのは1964年の東京オリンピック後とされているので、比較的新しいのです(*^・ェ・)ノ
さて、フィンランドで1000年以上って言ってますが、古代マヤ文明ではもっと古いのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!
中米のマヤ遺跡を訪れたことがある人で、マニアックな巡り方、散策の仕方をしている人は、様々な遺跡でサウナ遺構を目にしていると思います。
何せ、古典期(CE250-1000)のサウナ遺構は遺跡にもよりますが、凝灰岩や砂岩で作られているため、現在でもけっこう残っているものなのです(*・ω・)ノ
今回紹介するのは、そんな古代マヤ文明における最古のサウナの事例ですヾ(´ω`=´ω`)ノ
↑これが最古のサウナ!(「GIZMODE」の記事内画像より転載)
古代マヤ文明における最古のサウナの発見は、グアテマラ北部のナクム遺跡でのものです。
このナクムはペテン県に位置していて、ティカル国立公園の比較的近くにあります。
ティカルに行く時は必ずフローレス市を拠点としますが、ナクムへもここから行くことができます。
正式名称は「ヤシャ - ナクム - ナランホ国立公園」といって3つの遺跡から成る大きな公園です。
雨季に行くと悪路過ぎて間違いなく車両が立ち往生するので、乾季を狙っていきましょう( -д-)ノ
さて、このナクム遺跡で発見されたのは何と2500年前のサウナです。
先ほど書いたように、古典期におけるサウナは切り石で作られています。
一方でこの2500年前のサウナは先古典期中期(BCE1000-350)に属するもので、マヤだけではなくメソアメリカ最古の事例です。
なので切り石は用いられていません。
上の写真で見られるように全体が白いですよね?
これは恐らく、地下の石灰岩層を整形して作った構造物だと思います(*・ω・)ノ
このサウナはその後、意図的に埋められていたため、非常によい保存状態を保っていました。
この埋め土から出土した遺物の時期判定から、このサウナは紀元前700年頃から紀元前300年頃まで使用されていたと推定されています(*^・ェ・)ノ
↑最古のサウナの復元図!(「GIZMODE」の記事内画像より転載)