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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

2020年11月

2020ねん 11がつ 17にち(かよーび、くもり)

やる気スイッチを下さい(*^・ェ・)ノ

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↑天空の城ですね~(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: PHILIPPE MICHEL/AGE FOTOSTOCK)


今回はシーギリヤ遺跡がラピュタみたい!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台はスリランカ、マータレーにあるシーギリヤ遺跡です。

考古学ニュースではなく、遺跡紹介なのでのんびりと写真を眺めてみてくださいな( -д-)ノ

サムネイル画像に使ったライオンを模した入り口の写真を見かけた瞬間、「カッコイイ(・∀・)」ってなったので取り上げることにしました。

正直、私もこれまで全然知らなかった遺跡です( -д-)ノ


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スリランカにはアヌラーダプラを首都とした王国、「アヌラーダプラ王国」が紀元前4世紀~後11世紀まで存続していました。

この王国の5世紀にはシンハラ王朝として栄えていましたが、477年、時の王であったダートゥセーナが息子であるカッサパ1世のクーデーターにより殺害、王権の簒奪が起きます。

この新たな王であるカッサパ1世は、首都アヌラーダプラを離れ、より安全なシーギリヤへと遷都しました。

484年にはマグマが固まってできたシーギリヤロックの頂上に要塞化した王宮が完成し、これが現在のシーギリヤ遺跡なのです。



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シーギリヤはカッサパ1世の元で繁栄しましたが、弟であるモッガラーナによって攻撃を受けます。

495年、カッサパ1世は喉を掻き切り自害し、シーギリヤは陥落しました。

シーギリヤは13世紀~14世紀まで修道院として存続し、16世紀~17世紀にキャンディ王国によって利用されました。

イギリス統治下の1851年にイギリス人によって再びシーギリヤロックは登頂され、1875年にイギリス人によって岩山に描かれたフレスコ画であるシーギリヤ・レディが再発見されました。

その後、考古学的調査も進み、1982年に世界遺産に登録されました。


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おわりに

シーギリヤは「ライオンの岩」という意味だそうです。

上に挙げた写真のようにかなり巨大なものなのですが、19世紀にイギリス人に再発見される時でさえ、ジャングルに覆われていてなかなか発見できなかったそうです。

あの巨大な前足と爪がジャングルを分け入った先に出てきたらと思うと、その時の感動と興奮は只ならぬものでしょうね( ・Д・)

「シーギリヤ・レディ」と呼ばれているフレスコ画はアプサラと呼ばれる天上界の歌い手や踊り子たちを描いたものと考えられています。

1500年前のものなのにこの美しさですから、スリランカ芸術遺産の最高傑作に数えられているそうです。

ただ残念ながら、元々500体以上のシーギリヤ・レディが描かれていたようですが、風化により現存するのは21体のみだそうです。

文化財の修復・保存の必要性がここでも見られますね。

またこうしたフレスコ画の近くの壁には、シーギリヤ陥落後から修道院時代に相当する8世紀から13世紀にかけて、この場所を訪れた僧侶や巡礼者による落書きが今も1000点以上残されており、こちらも歴史を伺える資料となっています。

……現代の落書きはただの破壊だからね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 16にち(げつよーび、くもり)

寝付けなくてずっと「アンチャーテッド」観てた _(:3」∠)_


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今回の考古学・歴史ニュースはロアノーク集団失踪事件が少し解明に近づいたかも!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台はアメリカ、ノースカロライナ州のロアノーク島です。

以前に取り扱ったので、是非先に読んでみてくださいね( -д-)ノ

下に挙げた前の記事を書いた時は、たぶん時間もなかったのか地図の理解で混乱してました(私たち、基本的に上が北なもので( -д-)ノ)

本記事の作成に当たり、読み直してみたらすっと理解できました。

記事内容の修正はしていませんので、皆さんも古地図と現代の地図を見比べながら色々と考えてみると楽しさを実感できるかなと思います(。・ω・)ノ゙


↓↓↓先に読んでね!(・∀・)つ↓↓↓



私個人としてはとっても大好きなストーリーで、これぞ歴史ミステリーだな~って思ってます。

YouTubeとかで考古学・歴史ミステリーをいくつか選ぶなら間違いなく、ロアノークの話を選びますね(*・ω・)ノ

また最後に述べますように、この「ロアノーク島の謎」を解明すること、あるいはそのための方法論の開発は考古学の新たな未来を拓くと考えていますので、そういう意味でもお気に入りのテーマですヾ(´ω`=´ω`)ノ




事件のおさらい

さて、ひとまず「ロアノーク島集団失踪事件」をサクッとおさらいしましょう。

1585年にジョン・ホワイト総督により北米最初の人開拓地の一つとしてロアノーク植民地が設置されました。

しかし重度の食糧難に陥り、1587年にホワイト総督は入植者115名を残したまま、イギリスに一時帰還します。

スペインとの戦争で遅れつつも3年後の1590年8月にロアノークに戻ってみると、入植者は1人もいませんでした。

残ったのは樹や防御柵に刻まれた「CRO」、「CROATOAN」の文字だけでした。




新しい発見とぶつかる意見

この「ロアノーク集団失踪事件」はアメリカでは人気のある逸話となっていて、現代でも紙芝居や劇で取り扱われています。


有名なところではホラー作家のスティーブン・キングの「悪魔の嵐」の題材ともなっているそうです。


さて、前の記事では『地図に隠された砦のマーク』を発見したという、「ナショナルトレジャー」のような冒険映画に出てきそうな大きな発見について紹介しました。


この砦があったと思われるポイントを『サイトX』と名付けて、「ファースト・コロニー基金」の調査チームが調査したところ、砦の痕跡は見つからなかったそうです。


その代わりに24点の英国製陶器片を発見し、ロアノークから移動した入植者達が運んで使用したものだと解釈しています。


またこのサイトXの北方3kmほどの地点を「サイトY」として発掘調査を実施したところ、英国製だけではなく、ドイツ製、フランス製、スペイン製の陶器を大量に発見したそうです。


サイトYを何故掘ったのか、出土遺物量はどれほどなのかについては、まだ調査が終了して間もないためか「ファースト・コロニー基金」のページを見てもまだ何も書かれていません。


しかしながら彼らの意見としては、「ロアノークの人々はホワイト総督を待つ間にロアノークから西方80kmの砦に移動していた」と考えているようです。


また別の調査チームはロアノーク島の80km南方にあるハッテラス島で、消えた入植者たちに関係する遺物を発見したと報告しています。


こちらでは16世紀の礼装用の剣(レイピア)の柄や銃の一部を含む、ヨーロッパ製の遺物が見つかったのです。



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↑ワニが描かれてるのでやっぱりアリゲーター川にはワニがいたんでしょうね!(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit表記は図内左下)



どう解釈するべきか?


ファースト・コロニー基金のチームを「チームA」、もう一方を「チームB」としましょう。

チームAでは「ロアノークから西方80kmの砦に向かった」と考えており、サイトXの発掘では砦は見つからなかったものの、80~100人の人々が生活していただろうと述べています(根拠不明)。

チームBでは「ロアノークから南方80kmのハッテラス島に向かった」と考えています。

両方とも『80km』なのは偶然だとは思いますけども、重大な食糧難の渦中にある100名もの大集団がそれほどまでの距離を移動するものなのかなと、まずは疑問に思います。

移動するのであれば、相応の理由があったはずで、

①先住民による攻撃の手から逃げるため

②食糧難を克服するアテがあったため

が、真っ先に考えられます。

①に関して、ロアノーク植民地内で事前に決めていた約束事で、万が一「島を去るときには行き先を木か柱に刻んでいく」、さらに「緊急事態の場合には十字も彫っていく」というものがあります。

発見された文字は「CRO」、「CROATOAN」だけで、「十字文」は発見されませんでした。

素直に受け取ると緊急事態ではなく、ただ行先だけを記したことになります。

「CRO」はクロアトアンの略のようにも思えます。

クロアトアンは先住民とクロアトアン島(現在のハッテラス島)を指します。

そうなるとチームBの仮説の方が有力かなという気もしてきます。

ところが、気になる点も散見されます。

先住民は比較的穏やかで友好的と記録に残っているのですが、ホワイト総督がイギリスに一時帰還する前にノアロークの入植者の内の1名は先住民との争いの中で命を落としているのです。

またホワイト総督がノアロークに戻った時には、ノアローク植民地には以前にはなかった防御柵が張り巡らされていたと記録にあります。

こういった点から一部の先住民との争いがあった可能性も残っています。

特に当時の環境に関する研究から、彼らが入植した1585年頃からの10年間は降雨量が少なく、作物の生産量が低かったであろうことが指摘されています。

友好的とは言え、先住民も一枚岩ではなかったかも知れませんし、飢餓に悩まされれば争いになることは、人類史において常と言えるでしょう。

この先住民との争いに着目するとチームAの仮説が有力のようにも感じます。



両方とも正しい説!

歴史研究の場合、二つの仮説が対立して、両者とも正しいことがあり得ます。

両者とも違って、いきなりブラックホースが飛び出すこともありますが( -д-)ノ

今回の場合、入植者の数が100名規模と大きく、飢餓状態にあったことから分散して各方面に散らばったと考えているようです。

そうして散らばった人々は先住民文化に同化していったと結論付けています。

・・・・・・・・・・・・

私はもちろんこの研究テーマを専門としていませんが、個人的には、、、

チームAの仮説に関して、ノアロークの人々は砦に行くかな?ってやっぱり思うんですよね。

入植時期等々から考えて、「砦って建設予定」であって、砦は当時なかった気がするんですよね。

食料の備蓄があるわけでもないのにそんなとこに飢饉の中、心機一転行くでしょうかね?

少なくとも「砦の建設には最適な条件」なのでしょうから、一部の先住民の襲撃から逃げる先としては良いと思いますけどね(*・ω・)ノ

当時のイギリスはスペインに負けじと北米に入植するために力を入れていたわけで、ホワイト総督も大量の食料と人員を連れて戻ってきて、重要拠点であるノアローク植民地やその周辺の探索を行ったわけです。

ホワイト総督は砦のことを計画した人物ですからその存在は知っているでしょうし、クロアトアンと刻まれていれば、クロアトアンの集落も訪ねるでしょう。

僅か3年後ですよ?

同化する?Σ(・ω・ノ)ノ

「あ~助けに来てくれた!ノアロークに戻ります~」ってならん?( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・

野ざらしにされた場合、ヒトの白骨化は1週間から数か月で十分です。

長く見積もっても1年あれば足ります。

私の『憶測』だと、ホワイト総督の出港後、飢饉の中で一部の先住民の襲撃を受けて、防御柵を設置、その後耐え切れそうになくなり、クロアトアン集落の本拠地に助けを求めたが半ばで全員死亡( ・Д・)

まぁこの説だと考古学的な証拠は見つからないので困るのですけどね( -д-)ノ

誰かクロアトアン集落に辿り着いていれば、そこにはロンドンを二度も訪れ、エリザベス1世から貴族の称号さえ受けているマンティオという先住民もいたでしょうし、無下には扱われないでしょう。

ホワイト総督の到着前に死亡したとしても手厚く葬られるでしょうし、ホワイト総督にそのことを告げるでしょう。

葬られてさえいれば、考古学的に色々と分かるのですが、野戦で殺されて、ないし力尽きて野ざらしだと何も残らないでしょう。

今後の調査と陶器片などの遺物のデータ収集成果に期待するのは当然ですが、現状、私的には全員死亡です( ・Д・)


おわりに ー考古学研究の壁ー

チームAの見解によるとチームBの成果も取り入れ、ノアロークの人々は四散した可能性があると考えています。

こうしてなかなか自ら、他者の意見を受け入れることは少ないと思うので、面白いなと思ってますが、お互いがお互いを批判できない状態にあることも一因でしょう。

前回の『地図に秘められた謎の記号』ように新た歴史史料が発見されない限り、今後も発掘調査によって地道なデータ集めをして検証を行っていく必要があります。

つまり考古学の出番なわけですが、ここに考古学研究における一つの壁が立ちはだかります。

それは『時間』です( ・Д・)

考古学では主に土器や陶器を型式学的研究法によって分類し、時期ごとに変化を追って、編年を組みます。

結果、土器や陶器はタイムスケールとして機能するわけですが、この時間幅が問題になってくるのです。

現代の食品のように「製造年月日」が書いてあれば楽なのですが、そんなことはありません。

土器や陶器の部分的な変化に着目して時期を判定しているわけなので、「変化していなければ分からない」のが事実です。

今回のお話は16世紀のイギリスをはじめとするヨーロッパ産陶器が年代の手がかりとなる主要な遺物です。

この頃の陶器の様式はさほど大きく変化していなかったようですし、モノの保ちも良いので長く使用されたり、生産を終えた後も長く販売されることもあります。

ホワイト総督が帰ってきたのは僅か3年後ですし、20年後にはジェームズタウンから南下してきた人々もいます。

1650年までには英国商人が多数流入していたことも考えると、長く見積もっても僅か100年の間を細分する必要があるのです。

時期・地域、特定の出土状況にもよりますが、考古学的には100年はけっこう短いスケールです!

感覚的には50年ごとの細分が出来たらかなり優秀だと思います。

なので、「ノアローク集団失踪事件」を解明するためには、「徹底した時期の細分」が一つの目標になると思います。

仮に使用条件が極めて限定されたものだとしても、ここでもし画期的な方法が開発されたら、今後の考古学の未来は明るい気がしますヾ(´ω`=´ω`)ノ

ところで、、、

「古代マヤ人集団失踪事件」にも基金を募りたい!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 15にち(にちよーび、晴れ)

謎の頭痛は抜けたので、今週は思いっきり頑張る!(*^・ェ・)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは国宝級の大発見!福岡県の船原古墳から玉虫装飾の馬具が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台は福岡県、古賀市に所在する船原古墳です。

この船原古墳は7世紀初頭に帰属する古墳です。

ここから「玉虫の羽」で装飾された馬具が出土したのですヾ(´ω`=´ω`)ノ

この玉虫装飾の馬具が国宝級なわけですが、そもそも「玉虫」とは何でしょうか?




タマムシは「吉丁虫」とも書くそうです。

本記事では種として書く時は「タマムシ」とカタカナ表記で、遺物名等では「玉虫」と表記することにします。

(お気づきの方もいると思いますが、当サイトでは基本的に「種」の時は、ヒト、ウシ、ブタ、シカのようにカタカナ表記にしています(*^・ェ・)ノ 一般語として使っている時は漢字表記にしています( -д-)ノ)

このタマムシは日本国内に広く生息しており、「ヤマトタマムシ」として知られています。

見た目通り、カミキリムシの仲間(近縁種)だそうです。

このヤマトタマムシの上翅は構造色(色素由来ではなく、微細構造に対する光の干渉作用によって生じる発色効果)によって金属光沢を発しているため、死後も色褪せません。

そのため古来より装身具等に加工されて珍重されてきました。

たかだか虫なんだから珍重されるほどでもないのでは?と思うかもしれませんが、珍しさはタマムシの生態に由来しています。

タマムシの幼虫はエノキやリンゴの木の幹の中を食害するので、発見が困難です。

また成虫になると警戒心が強く人間が近づくとすぐに飛び去る上に、寿命が1か月しかありません。

古代において金属光沢自体レアなわけですが、野生のタマムシを見つけることもレアなので、その希少価値は非常に高いものだったのです。


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上に挙げた写真が古墳で見つかった玉虫装飾としてタマムシの羽が用いられてた馬具にななります。

2枚目の図で分かるように、この馬具は、馬の胸や尻などを飾る杏葉(ぎょうよう)と呼ばれる装飾品です。

短軸が約8cm、長軸が約10cmで、20枚の玉虫の羽を金属の板の全面に敷き詰めていたと考えられています。

死後も色あせない構造色と書きましたが、長期間の埋没過程の中でその微細な構造が失われているため、かつての金属光沢はありません( -д-)ノ

こうした玉虫で装飾された品は、国内ではこれまで法隆寺の国宝「玉虫厨子」や福岡県沖ノ島の金銅製帯金具を代表として僅か4例しか確認されていないのです。

ちなみに馬具として初の事例になります!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!





この日本では初の出土となる「玉虫装飾の馬具」ですが、朝鮮半島では5世紀の王陵級の古墳で見つかっており、最高級とされる遺物になります。

タマムシは日本で広く生息していると紹介しましたが、北海道には生息していません。

理由は寒いからです!

今からおよそ1500年前の朝鮮半島は今よりもやや寒冷な気候であったため、ヤマトタマムシはほとんど生息していなかったのです。

そのため当時の日本と朝鮮半島との外交関係の中で重要な役割を担ったのがこの玉虫装飾の品々だと考えられています。

先に述べたように朝鮮半島では5世紀の王陵で出土しており、一方でこの船原古墳の事例では7世紀初頭なのですが、古墳そのものではなく周囲にある墓壙から出土しています。

時代の移り変わりもあるのでしょうが、今回の遺物は朝鮮半島等との外交や交易に重要な役割を果たしていた人物に贈らたと考えられるのです


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↑最後に紹介したい写真、(「朝日新聞デジタル」の記事内画像より転載;credit: 金子 淳)

福岡県古賀市教委は13日、同市の国史跡・船原(ふなばる)古墳(6世紀末~7世紀初頭)の1号土坑で出土した馬具から、玉虫の羽を使った装飾品を確認したと発表した。古代の玉虫装飾品が国内に現存するのは法隆寺(奈良県)の玉虫厨子(ずし)(国宝)、沖ノ島(福岡県)の帯金具や正倉院中倉(ちゅうそう)(奈良県)の刀子(とうす)の3カ所で、馬具で確認されたのは初。朝鮮半島では5世紀代の王陵級の古墳などから玉虫装飾の馬具が見つかっており、朝鮮半島との交流を研究する上でも貴重で「国宝級の発見」との声も上がっている。

 船原古墳の石室入り口付近の土坑からは、2013年に6~7世紀の金銅製馬具一式や武具などが大量に出土し、市教委と九州歴史資料館(福岡県小郡市)が調査を進めてきた。

船原古墳

 今回はその中の金銅製馬具の一つで、馬の飾りに使われる「二連三葉文心葉形杏葉(にれんさんようもんしんようけいぎょうよう)」(長さ約8センチ、幅約10センチ、厚さ0・7センチ)。羽は、金銅製の板と鉄板で挟まれ、文様の隙間(すきま)から見えるようになっていた。CTスキャンで確認したところ、羽は約20枚使われ、一部には羽の先端を切断するなど加工した跡も見られるという。国産か朝鮮半島製かは不明で、玉虫の種類などから解明を進めていく。

 玉虫装飾を使った馬具は、5~6世紀代の朝鮮半島・新羅(しらぎ)の首都だった慶州の古墳5カ所などで発見されている。なかでも5世紀中ごろの玉虫装飾馬具は王陵級の古墳で見つかっており最上位階級者用の馬具とされる。

 桃崎祐輔・福岡大教授(考古学)は「新羅と、7世紀の重要な仏教工芸品である法隆寺の玉虫厨子の間をつなぐもので、その文化的意義は国際的なものに及ぶ。国宝級の発見といっていい」と話している。





おわりに

最後に再度、玉虫装飾の馬具を紹介しました。

日常的に良く目にする女性モデルの写真などは、女性だけにピントを合わせて他をボカすものがほとんどのように感じます(素人目線だと( -д-)ノ)。

一方で考古学ではモノあるいは遺構を撮るわけですが、特にモノに関しては被写体深度を限界まで深くしてどこもかしこもピントが合うようにします。

特に日本考古学では未だに写真は補助的な役割を果たし、実測図が中心なわけですが、色彩豊かなマヤ考古学では写真が中心です。

というかアメリカ人考古学者は実測図描けないので、プロの絵描きに任せちゃいます( -д-)ノ

そうした写真記録が重要なマヤ考古学で生きていると、写真と言えど実測図を描く時のようなモノの見方や、「これを映したいんだ!」という気迫が重要になってくると思います。

そういう意味で、上に挙げた写真は見事だなと思います。

国宝級の発見ということで、様々な写真が挙がっていましたが、他の記事の写真はただ全体を映しているだけのように感じます。

この写真だけは全体を捉えながら、しっかりと全体に敷き詰められたタマムシの羽の筋が分かるように撮られているんですよね。

光の当て方も実測図そのものだし、考古学関係者なのでしょうか……失礼ながら、、、

プロだな、と感じました( ・Д・)

こんな写真を撮りたいものです( -д-)ノ

・・・・・・・・・・・・

いや~、それにしても「国宝級の発見!」ってスゴイですよね。

私もいずれ、ティカルで国宝級の発見しますから期待していてくださいね!

国宝級見つけても金にはならん!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 14にち(どよーび、晴れ)

急な仕事が入り過ぎて論文終わらん( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースはブリテン島の人々は盛大な焼肉祭りをやっていたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台はイギリスの世界遺産、ストーンヘンジです。

古代のストーンサークルとして有名なストーンヘンジですが、この辺りは中石器時代に相当する紀元前8000年、つまり今から1万年前の柱穴が確認されており、とても古くから重要な場所であったと推測されています。

ストーンヘンジを囲む円形の土塁と堀は紀元前3100年頃、巨石が並べられたのは紀元前2000~2500年頃に造られたと考えられています。

今回の調査成果はストーンヘンジの近くに立地する古代の祭祀場と推定されている遺跡でのものです。

この遺跡では大量の動物骨が検出され、C14等の分析結果から新石器時代後期(紀元前2800年~前2400年頃)に相当すると推定されています。

ストーンヘンジを築いた人々が住んでいたと考えられているブリテン島南部のダーリントン・ウォールズや、ブリテン島最大の環状列石であるマーデンの近くでは祭祀場と思われる遺構が発見されており、それぞれ大量の動物骨が発見されているのです。

ダーリントン・ウォールズの祭祀場遺跡の発掘調査に際して、検出された8500点の骨を分析した結果、動物骨はブタとウシのものであると同定され、その割合はブタ:ウシ=10:1であることがわかりました。


これらの骨は日常の生活の中で食された後の廃棄物として堆積したわけではなく、季節性が認められており、冬の間にまとめて大量に廃棄されていることが分かっています。


このことからストーンヘンジなどのイギリスにおける環状列石群周辺では冬の間に大規模な宴が開かれ、大量の豚肉と少しの牛肉を焼いて食べていたと考えられているのですヾ(´ω`=´ω`)ノ



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↑私も調査の懇親会としていつもバーベキュー大会してますヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ(「ブライダル総合情報マガジン クラウディア」の記事内画像より転載)



こうしたブタの骨が大量に出る祭祀場遺跡が多数確認されていることから、新石器時代後期のブリテン島南部で『ブタ肉焼き放題パーティー』の習慣が広まっていたことが伺えるわけです。


ストーンヘンジに関する近年の研究では、人間や動物が住んでいた土地の情報が分かるストロンチウム同位体分析によって、パーティーに参加した人々の広がりを特定しようとしています。

これまでの研究ではストーンヘンジで検出された人骨と、ダーリントン・ウォールズから検出されたウシの骨を対象に分析が行われ、ストーンヘンジ周辺域以外のかなり遠いところからやって来たことを示唆していました。


経験的にウシは遠くから連れて来ることが比較的容易なのに対し、「長距離の移動が苦手なブタは祭祀場の近くで飼われていたはず」という先入観が研究者にはあったため、祭祀の参加者がどこから来たかを知る手がかりにはならないと考えられており、これまでにブタの骨を対象としたストロンチウム同位体分析を行おうとする研究者はいませんでした。


今回のニュースの元になっている研究では、イギリスにおける4カ所の新石器時代後期の遺跡(ダーリントン・ウォールズ、マーデン、マウント・プレザント、ウエスト・ケネット・パリセード・エンクロージャー)から出土したブタの骨131点について同位体分析を行いました。


結果、それぞれの場所で食べられたブタの大多数が、現地で育てられたものではなく、ブリテン島各地から連れてこられたものであることが明らかになったのです。


その距離は少なくとも50kmで、最大で550kmに及ぶこともあり、ウェールズやスコットランドから連れてこられたブタもいたようです。


この研究結果から、新石器時代の祭祀場にブリテン島全土から人々が集まってきた、つまりストーンヘンジなどの環状列石と周辺の祭祀場は歴史上最初の「汎ブリテン島」イベントの会場だったということになるのです(*・ω・)ノ



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↑綺麗だねぇ(・∀・)(「ニコニコニュース」の記事内画像を一部加工)



またこの研究結果は、ブタにより人間の移動を推定する手法について、研究者たちに再考を促すことになりました。


他の同位体分析結果から、近現代の牧畜産業で見られるように地域で残飯を与えられたブタをかき集めたのではなく、ブタの大群を森で餌を食べさせながら移動させたことが示唆されたのです。


つまり、ブタの群れを移動させることなどできないというのは現代に生きる私たちの間違った思い込みであり、新石器時代のブタはイノシシのように痩せていて脚が長く、徒歩で長旅をできるだけの敏捷性があったのです(*^・ェ・)ノ





おわりに

日本の貝塚研究だと、貝の成長線を観察することで季節性について考察するような研究がありますけども、このストーンヘンジ周辺の事例ではどうやってるのでしょうね。

同位体分析で生まれ育った環境を推定する研究は広く行われているので分かるのですが、、、

横着して元論文読んでないので、すみませんヽ(TдT)ノ

日本でも環状列石はありますし、比較してみると面白いかも知れませんね!

あ、今思い出した!w(゚o゚)w オオー!



こんなふざけた環状列石関連の記事書いたことありましたね。

後輩に一部事実と異なると指摘されましたが、どこが違うのか覚えてなくて修正してません(再度教えてください( -д-)ノ)。

ま、イカ飯もいいけど、


焼肉パーティーいいね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 13にち(きんよーび、晴れ)

さ、寒いよ、パトラッシュ( ・Д・)


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↑イッヌが遠い目をしている(*^・ェ・)ノ(「10MTV」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは「狩猟採集社会において、男は狩り、女は採集っていう通説が崩れる!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、アメリカを代表としてフェミニストが世間を騒がせる世の中になっておりますが、まぁヴィーガンとか捕鯨反対運動とか、所謂「欧米社会」では自分たちの意見を押し通すべくゴリゴリの活動を行う傾向が強いのかな~って個人的には思ってます。

日本を始め、アジア社会や中南米でそういったものを聞きませんからね。

もちろん、日本からすると過度だなと思えるような単発的なデモはありますけどね。

ちなみに考古学者でもフェミニストはいるんですよってお話を最後にしようかなと思います( -д-)ノ

さて、話を戻しまして、今回の話題は『これまでの通説がひっくり返るかも?』ってお話ですが、ニュースとして話題性はあるものの、実際、考古学的にはけっこう難しい問題だよって内容です(*・ω・)ノ




このニュースの元記事は上の画像のリンクに挙げたように「ナショナルジオグラフィック」です。

ペルーのアンデス山脈で発掘された約9000年前の墓域から成人のものと思われる骨に共伴して、多種多様な狩猟用の石器が出土しました。

その後の分析によって石器と共に見つかった人骨は女性のものであることが分かりました。

この結果を受けて、アメリカ大陸全域で発掘された同時代の墓の調査結果も見直したところ大型動物ハンターの30~50%が女性だった可能性が明らかとなったそうです。

*ニュースとしての記事はここまでです。この後、一気に難しくなります。「おわりに」まで飛ぶことをお勧めします( ・Д・)


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今回の発見は、普通に考えると新しい事例が見つかったということで大発見と言えるのですが、何が問題かというと現代におけるジェンダー問題に結びつく点です。

考古学は歴史の中でも古い部分(先史時代)を得意としているため、それぞれの集団のルーツに関わることも多いのです。

第二次世界大戦の事例が考古学において最も有名なものですが、グスタフ・コッシナの研究成果をナチス・ドイツが利用し、「『本来の』ゲルマン民族の領地を奪還する」ことを大義名分として戦争に突入しました。

考古学や歴史学は現代社会の役に立たないなんて思われがちかも知れませんが、実際に為政者等によって都合よく利用される事例は古今東西、後を絶ちません。

そういう意味で、考古学はなかなかに発言が難しい部分もあるのです( -д-)ノ

考古学者がニュートラルに発言しているつもりでも、受け手に都合よく曲解してしまわれますし、そういった曲解をした人々を扇動することで甘い蜜を吸う考古学者(所謂、お抱え考古学者)もいるのが実態です( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・

さて、今回の話に戻りますと、私たちのイメージでは「男は狩猟、女は採集」ですよね?

男性の方が体格もいいし、オスが狩りを行う動物も多いわけです。

もちろん逆もあるのですが……

私たち人類を含む哺乳類は比較的子供の数が少なく、育児に手間がかかります。

特に類人猿になると子供の数は圧倒的に減少し、その分大事に育て上げるわけです。

魚類等と比べれば一目瞭然ですが、私たちは「数の勝負」、つまり数打ちゃ当たる戦法をやめたわけです。

そのため増大した育児という役割を担ったのが女性(哺乳類ですから哺乳させる必要もあります)であり、より危険の少ない採集活動も行っていたと考えられてきました。

だから「こうした役割分担はそもそも生物学的・肉体的特徴に基づくもので、本来人間にはジェンダー(社会的性差)があるのだ」という論理がまかり通っていました。

更にはこうした事例が、特に1960年代以降の人類学研究・文化人類学研究によって精力的になされた世界中の現存する狩猟採集社会の観察によって裏付けられたため、「定説」となっていました。

1960年代以降、考古学においては「プロセス考古学」が主流となっており、人類史あるいは人類の活動に対する法則定立的研究が求められていました。

1970年代以降の「ポストプロセス考古学」の台頭により、個別記述主義とそれに基づく「多様性の受容」が求められ、これは現在の考古学にも色濃く残っていると私は考えています。

で、あれば、現在では「女性が狩りに出るというパターンを多様性として認めて良いのでは?」となりますが、これまでの『定説』の反例となる発見がなかったのです。

今回の発見がまさにその反例になるのです。

そのため「ニュートラルな立場では」大発見ですし、人類活動における新たな多様性が発見されたことになります。

・・・・・・・・・・・・

ここで問題になるのが特定の考古学者の発言です。

 9000年前に埋葬されたこの女性がハンターだったという見解に、アリゾナ州立大学のヒル氏は完全に納得しているわけではない。狩猟道具などの副葬品は、象徴的あるいは宗教的な意味で埋められたとも考えられると氏は指摘する。

 新たに発見された石器は、埋葬された人物の所有物だったのだろうか? スターリング氏は、そうした疑問そのものに異議を唱える。「こうした副葬品が男性の遺骨とともに見つかったときには、こんな疑問が浮かぶことはありません」と氏は言う。「そんな疑問を抱くのは、男女の役割に関する通説にそぐわない場合だけです

 ゲラー氏も、「女性が狩猟道具とともに葬られている理由をひねり出そうとして、頭の体操をしている人はたくさんいます」と同意する。


NACIONAL GEOGRAPHICの記事より引用


「普通に」考えれば、これまでの定説とは異なる発見があったのだから、「どうしてこうのような出土状況になるのだろう?」と考察することは必要な過程です。

慎重な立場として、「儀礼的に副葬された可能性もある」と述べることも私は「普通」だと思います。

該当する遺跡や周辺の遺跡などでの追加調査によって根拠を増やして、慎重に結論を出すことは当然だと思うのですが、、、


女性が狩猟道具とともに葬られている理由をひねり出そうとして、頭の体操をしている人はたくさんいます

これは痛烈な批判ですよね。

逆に言えば、そんな必要はない、ただちに「女性が狩猟に参加していた」と結論付けよ!と言ってるわけです。

研究者としてはおかしな話に思えますが、それでもニュースはこういった内容を取り上げます。

そもそも多様性を認めるという立場ならば、南米において女性がハンターであったという事例が追加されるだけであって、定説が覆るわけではないのです。

でもこうしたフェミニスト的な考古学者は、結論を一気に普遍化し、女性と男性は対等だった、だから現在のジェンダーは不当という論理を導くのです。

そうなると考古学の問題は一気に現代社会との強い繋がりを有し、最悪の場合、歪んだ形で社会問題に利用されていくことになるのです( ・Д・)


おわりに

今回の発見自体はとても興味深いものです。

狩猟採集社会において、必要に応じて若い健康な女性が参加していたなんてことは感覚的に考えられることですし、その中でも優秀なハンターとして活躍した女性に狩猟用具が副葬されることも十分考えられることだと思います。


さて、、、

考古学は役立つよ!( ・Д・)

現代社会と関係あるんだよ!( ・Д・)

って宣伝してきたつもりですが、実際に考古学が社会に出ると「悪用」ばかりされてしまうのは何故でしょうか?

そして「真っ当な」考古学者は保身のために問題に触れないようにそっと口を閉ざすのです。


考古学のリアルな側面だね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 11にち(すいよーび、曇り)

ポッキーの日だよ!!!( ・Д・)


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arukemaya1171
↑ポッキーの日!!!(「雑学ネタ帳」の記事内画像より転載


今回の考古学・歴史ニュースは「ポッキーの日だから、『ポッキーの考古学』をやってみたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


江崎グリコの公認になりたいだけで、バッチリ非公認ですヽ(TдT)ノ

11月11日の今日は「ポッキーの日」だと知ったので、急遽、『ポッキーの考古学』をやってみることにしました。

軽い気持ちでご覧ください(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


【目次】
  1. ポッキーを型式分類してみた!( ・Д・)
  2. 変化を予測して並べてみた!( ・Д・)
  3. おわりに、ー実際の変化と比較してみようー





1.ポッキーを型式分類してみた!( ・Д・)

さて、ポッキーって色々種類があるので属性を決めて、型式分類していきたいと思います。

分類のための属性(基準)を決めていきましょう。

私がまず着目したのは①「径(太さ)」です(*・ω・)ノ

一般的なポッキーが並みあるいは普通と思ってましたが、『極細』って商品があるので、、、

①「径」は、「極細・細・太」に分けましょう!



次は、②「粒々の有無」です(*・ω・)ノ

多少の粒々の大小はありますが、まぁ②「粒々の有無」は有るか無いかの二択で分けましょう!



更に③『色調』です(*・ω・)ノ

これは実際に味と関係しているわけですが、考古学的には「色調」ということでいきましょう。

だから③「色調(味)」で分けましょう!



次に④「柄の色調」!(*・ω・)ノ

掴む部分にもバリューションが見られます。

なので、④「柄の色調」は「乳白色・明茶褐色・黄褐色・黒色」で分けましょう!



最後に⑤「包装」です(*・ω・)ノ

商品によって包装のパターンが見られます。

なので、⑤「包装」は「方形箱型、円筒形箱型、プラ袋」で分けましょう!


↓↓↓すると、こうなります↓↓↓ヾ(´ω`=´ω`)ノ


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↑ポッキーを分類してみた( ・Д・)



arukemaya1178
↑感覚的に「ノーマル」なポッキー(B1aタイプとして分類)


2.変化を予測して並べてみた!( ・Д・)

ポッキー食べたことある私としては「感覚的にノーマル」なのは上に挙げた写真のポッキーです。

でも層位的なデータ、この場合はポッキーに関する歴史的なデータがない限り、形態的変化から時間の変化を推測していきます。

つまり「①径」を頼りにすると、『極細⇒細⇒太』という変化、あるいは逆もあり得るわけで、『太⇒細⇒極細』という変化になると思います。

ポッキーの種類を見てみると極細タイプ(A)が1種しかないのに対し、太タイプはC1~2と恐らく太?タイプのD1~2を含めた4種あるので、『単純から複雑へ』という「考古学的なエントロフィーの増大」に着目して私はここでは『極細⇒細⇒太』という変化を選択しました。


②粒々の有無については、これが土器ならば『粒々有⇒無』なのですが、、、

粒々を夾雑物(余計なもの( ・Д・))と捉えて、夾雑物有から混じり物のないピュアなものへという変化を導くかも知れません。

でもまぁ粒々は明らかにバリエーションで、『余計なもののわけない』ですからね。

本来は検討すべき問題ですが、ここでは単純化して、感覚を優先します、粒々の触感好きですし( -д-)ノ

なので変化は「粒々無⇒粒々有」です!


③④⑤において最も頻度の高いものがノーマルとするならば、それぞれ③色調『黒褐色(所謂ノーマル)⇒多彩な色調』、④柄の色調『黄褐色⇒多彩な色調』、⑤包装『方形箱型⇒材質・形態的バリエーション』という変化が考えられます。

↓↓↓総合するとこうなります↓↓↓ヾ(´ω`=´ω`)ノ

arukemaya1178

↑ポッキーを形態・色調属性を主としてその変化を推定してみた!( ・Д・)


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↑色んなポッキーがあるよ!( ・Д・)


3.おわりに、ー実際の変化と比較してみようー

空間的な、分布の変化とか色々できそうなのですが、11月11日午後11時11分までに投稿するという使命感からここで打ち切りとします( ・Д・)

まぁまた来年取り組みます!

今回は考古学における型式分類の感覚を分かってもらおうと、わざと間違った変遷感を提示しています。

先にも述べたように、感覚的に「ノーマルポッキー」が原点であろうと思ってはいるのですが、その先入観は置いておいて、形態的な変化を優先してポッキーの編年案を組んでみました。

ポッキーのサイト江崎グリコのポッキーのサイトへのリンク;今回の転載標記のない画像は全てここの画像を利用させて頂きました。遅れながらこの場を借りて感謝申し上げます。ありがとうございました(*_ _)ペコリを見たり、wikiなので調べてみると、『本当のポッキーの歴史』や『ポッキーの変遷』について知ることができると思います。

本当はここで書く予定でしたが、時間の関係で……( -д-)ノ

『身の回りのどんなことにも歴史はある!( ・Д・)』

ということで是非「ポッキーの日」にポッキーを食べながら、ポッキーの歴史についてちょちょっと調べてみてはいかがでしょうか?ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ


・・・・・・

最初に挙げた画像で分かるように11月11日は正確には『ポッキー&プリッツの日』なんですね。

来年は『プリッツの考古学』について書いて、再来年は『ポッキー&プリッツの考古学』にしようかな~、なんて(*^・ェ・)ノ

……ところで今回の記事はどうでしょうか?

考古学は「モノの研究」なので、現代社会でも適用可能です。

まぁ今回の記事は突貫工事なのでざっくりしたものですけども、少しでも皆さんの「モノの見方」が変わったならば幸いですヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

ところで私は太いポッキーが好き!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 11にち(すいよーび、曇り)

もう冬かぁ( ・Д・)


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↑ディズニーランドのイベントかと思うほど綺麗に燃えゆく文化財(「ニッケイ新聞」の記事内画像より転載credit: Tania Rego / Agencia Brasil)


今回の考古学・歴史ニュースは「ブラジル国立博物館が全焼して貴重な収蔵品の約9割が失われたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


このニュースは2018年9月2日に起きた火災のことなのですが、こういったケースは日本でも他人事ではないなと思い、取り上げることにしました。

場所はブラジル、リオデジャネイロにあるブラジル国立博物館です。

博物館の建物は元々、ナポレオンから逃れるために1807年にリオデジャネイロに渡ってきたポルトガル王家が暮らしていた邸宅でした。

1818年に王家の収蔵品などが科学研究の促進を目的に寄贈され博物館となりました。

こうした建物自体が歴史的価値の高い博物館だったわけですが、ブラジル最古の科学機関であり、南米で最大級の施設としても名高いものでした。

この博物館が2018年に起きた火災により全焼してしまったのですヽ(TдT)ノ




ブラジル博物館の建造物が全焼して失われただけではなく、当然博物館で所蔵していた重要な科学的、文化的遺産も焼失しました。

幸い死者はいなかったものの、収蔵されていた2000万点の品の90%以上が焼失しました。


重要な収蔵品には、南米最古の人類化石とされる1万1500年前の頭蓋骨「ルチア」や、ブラジル固有の恐竜マシャカリサウルスの骨格などが含まれていました。


19世紀のブラジルの皇帝たちがオークションを好んだことから、南米で最も古いエジプトのミイラや工芸品などのコレクションも収蔵されていたそうです。



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↑これがマシャカリサウルス!(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: VANDERLEI ALMEIDA, AFP/GETTY IMAGES)



2018年はブラジル国立博物館の設立200年で記念すべき時であったので、最悪の事態となりました。


古い木造の建物であったため老朽化の問題やシロアリの問題が数年前より指摘されていました。


また木造故にスプリンクラーなどの消火設備の設置の必要性も指摘されていたのです。


博物館側は博物館の維持のために数世代の政権に対し予算を申請し続けたものの、予算が下りないどころか、予算が削減されてしまいました。


結果、火災が起き、消火設備はないため火の手はあっという間に木造建造物全体に広がりました。


消防隊が駆けつけても最寄りの消火栓は機能すらせず、近くの湖の水を使用したそうです。


この火災による博物館及び重要な資料の消失は、政府の認識不足と予算削減が原因として、ブラジルでは大規模なデモが起きたのです。



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↑見事に焼け落ちている(「Yamanashi Prefecture」の記事内画像より転載)



おわりに

ブラジルは赤字財政が続いていたため、予算削減もやむなしだったのかも知れません。

デモが起きるくらいですから、他に浪費していた部分もあったのかも知れませんね。

さて、日本でも博物館や図書館、学術研究などは予算カットにより苦しい思いをしていると思います。

政治とカネとは言うものの、先を見据えて投資していかないと大変なことになります。

日本ではデモや暴動は起きないでしょうが、だからと言って好き勝手やっていいわけではないでしょう。

多くの文化財は守り、活用するのはなかなかに困難かも知れませんが、失われるのは一瞬で、もう二度と元には戻りません。

この「ブラジルの悲劇」こそ、人類の失敗の歴史として胸に刻み、文化財の保護と活用について考えていかなければならないのではないでしょうか?

目先の欲ばかりに走ると足元すくわれるよ!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 10にち(かよーび、晴れ)

次の休み、カモン!( ・Д・)


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arukemaya1160
↑川の右側の発掘区がトレンゼ遺跡(「DW」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは「トレンゼ・バトルフィールドで新たな発見と共に新たな謎が生まれたよ!ー後編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、ドイツ北部、トレンゼ川のほとりにあるトレンゼ遺跡(トレンゼ・バトルフィールド)の復習をさらっとしましょう。

今からおよそ3200年前の青銅器時代に4000~5000人による大規模な「戦争」があった証拠がトレンゼ・バトルフィールドから見つかっています。

これは最古の戦争の事例であり、これほど昔から大規模な闘争が起きていたことを示す重要な事例でもあります。

前の記事にも書いたように、この争いは「1日で終わった」と考えられていますが、恐らく明確な証拠はないでしょう。

戦闘規模からの類推や、兵糧の存在を示す証拠の不在から、恐らく1日で終わったと推定しているのだと思います。

最古の戦跡なのに、この頃から既に兵糧を準備し、長期の戦闘行為に備えていたとあればそれこそこれまでの歴史の常識がひっくり返されることになります( -д-)ノ

恐らく1日で終わったとは言え、こうした大規模な戦闘(少なくとも2000人 V.S. 2000人)が何故このトレンゼ・バトルフィールドで起きたのでしょうか?

誰が戦ったのでしょうか?

ドイツ北部に住む同一集団内の抗争でしょうか?

ドイツ北部に住む他集団間の抗争でしょうか?

あるいはドイツ北部の地元集団と、他地域の集団との抗争なのでしょうか?

これがトレンゼ・バトルフィールドにおける『大規模戦闘の謎』なのです(*^・ェ・)ノ




さて、トレンゼ・バトルフィールドにおける発掘調査で進展がありました。

調査範囲が拡大することで、どうやら戦いはトレンゼ河の両岸の土手道で始まり、河下へと移動していったと推定されています。

両岸の土手道で戦闘があったのは考古学的に分かるとして、河下へ移動していったと何故考えるのかはよく分かりません( -д-)ノ

もしかすると、河下で上に挙げた写真に見られる『一風変わった』遺物が出土したことに根拠を置いているのかなと思います。

これらの遺物集中は古代の土手道から約300m下流の川床の堆積物から見つかったものです。


合計31点の青銅器で、本来有機物製の入れ物に入っていたものがここに流れ着いて堆積したと推定されています。


こうした証拠から下流へと逃げながら戦闘が続いたと考えているのだと思いますが、上流で死んだ戦士の持ち物が下流へと流されたとも考えられるので、私としてはこれだけでは下流方向へと移動しながら戦闘が続いたとは言えないと思っています。


そもそも考古学は時間を扱うとは言え、「一日で終わった戦闘中の更に細かな時間の変化」なんて捉えることができません。


考古学で扱う時間とは土器などの遺物の変化に着目したもっと長期的な時間なのです(*^・ェ・)ノ



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↑丸いカンカンのような青銅製ケース(「ナショナルジオグラフィック」の記事内画像より転載)



これらの青銅製の遺物はキリ、ノミ、ナイフ, 青銅のくずなどでした。


また上に挙げた写真に見られる円筒形をした青銅製の小さな丸い箱が見つかっています。


この丸い箱はベルトに取り付けられる形になっています。


同じ下流の川底の堆積物の中から人骨も見つかっているそうです。


この人骨が破片なのか全身骨格なのかで、河に流されたのか、下流まで来てここで死んだのかを考える上で大きく変わってくるポイントなのですが、それに関する情報はまだありません( -д-)ノ


他に先に挙げた写真の中に見られる青銅製の筒状の遺物が3点見つかっています。


これは個人的な持ち物を入れる袋か箱の付属品だったと想定されており、同様の品は数百キロ離れたドイツ南部とフランス東部でしか今のところ見つかっておらず、この場所では珍しい出土品だということです。


これはトレンゼ・バトルフィールドで戦った戦士たちの少なくとも一方が遥か遠くの地域からやってきた集団である可能性を示しています。


ただ新たな疑問が生まれます。


戦場へ赴く戦士が何故、キリ、ノミといった工具類や青銅のくずといった加工過程でできる副産物を携行しているのでしょう?


「考古学あるある」であり、且つ、ある意味考古学の限界とも言えるのですが、『よく分からないことは(とりあえず)儀礼行為とする』というものがあります。


トレンゼ遺跡の調査者たちも、恐らくは青銅器時代の戦士たちが儀礼的・呪術的な目的で戦闘とは無関係に思える金属加工用品を携行していたと推定しています。


繰り返しになりますが、トレンゼ・バトルフィールドのようなケースは「SSR」級ですから、今後青銅器時代の類例が見つかるまでは、こうした金属加工用品を戦士が携行することが「普通」なのかそうではないのか未定のままとなるでしょう。


また人骨のDNA分析結果では、ドイツ北部の現地人集団と、南ヨーロッパを含む遠隔地の多様な戦士の集団との戦いであったことを示しており、ドイツ南部やフランス東部でしか出土例のない金属加工用品の出土を根拠とした現地集団と遠隔地集団との戦いという類推を後押ししています。


戦士の歯の同位体分析でも2つの戦闘集団を特定しており、1つはドイツ北部出身の現地人集団、もう1つは多様な中央ヨーロッパ、ボヘミア(ドイツ南東部)などから来たと考えられる集団です。


こうした研究成果は異なる少なくとも2つの集団が交戦したことを示唆しています。


おわりに、ー謎は謎のままー

実は新たな研究成果として、別の人骨のDNAに関する分析では戦士たちがヨーロッパ中部と北部の人々だったと結論付けています。

よくヒトとチンパンジーは2%しかDNAの違いがないなんて言い、なので人類における所謂「人種」なんてものはそれ以下の僅かな違いでしかない、だから「人種差別は不当」なんて論理展開も多々見受けられます。

ということはヨーロッパ内、特にドイツ北部を中心とした「狭い」エリアの中で、かつて住んでいた人々の間のDNAの違いはいかほどなのでしょうか?

少なくともドイツ北部の同一集団内における闘争という解釈は非常に弱まっていますが、現地人集団 V.S. 他地域集団の構図が適当にせよ、他地域集団というものが多様な複数地域出身者から成る集団なのか、そしてそれはどれだけ遠隔地なのかという点については現在も謎のままなのです。

今や、人骨に対する形質人類学的分析や、理化学的なDNA分析や歯の分析は、考古学における学際的研究として不可欠なものとなっています。

しかし地道な考古学調査も重要なわけで、やはりトレンゼ・バトルフィールドにおける調査範囲の更なる拡大によってデータを収集すること、トレンゼ・バトルフィールド周辺の「集団が居住したと考えられる拠点」の発見などがこの謎を解く上での鍵となることは間違いないでしょう。

一方で今ある状況証拠だけでも色々と考えることができると思います。

我々考古学者は「鑑識」として働きますので、皆さんも「考古学探偵」としてこの考古学ミステリーに挑戦してみてはいかがでしょうか?

(名探偵コ〇ン!)


真実はいつも土の中!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 9にち(げつよーび、雷を伴う暴風+霰)

今日は論考一気に書き終える日( ・Д・)


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arukemaya1161


今回の考古学・歴史ニュースは「人類史上とても重要な発見、最古の大戦場跡が見つかったよ!ー前編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


戦争は「行為」であって、土器や石器のように「道具」として残るわけではないので、その痕跡はなかなか発見されにくいものです。

そのため、人類史研究において「戦争」は重要な研究対象なのですが、その残りにくさから扱いにくいテーマでもあります。

遺体は野ざらしになる傾向が強いですから、丁寧に埋葬された場合と違って腐敗が進んで朽ちてしまいますし、戦死者が埋葬されてしまうと普通の埋葬墓との区別が付かなくなってしまいます( -д-)ノ

火事場泥棒的に、戦死者の武具などが回収されてしまう場合もありますし、どうしても戦争はその性格から考古学では取り扱いにくいものなのですヽ(TдT)ノ

そういうこともあって、今回紹介する古戦場跡はその発見自体がレアな大発見なわけですが、それだけではなく欧州最古の事例&青銅器時代に大規模な戦争の痕跡という点で重要な発見なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ





発見の舞台はドイツ北部のトレンゼ遺跡です。

上の1枚目に挙げた写真で見られるように、河のほとりにある遺跡です。

河から供給される水分が遺物や人骨の良好な保存状態を保ち、今回の大発見に繋がったと言えるでしょう。

ここではBCE1200年頃に河岸で戦って死んだと考えられる1万2000点もの人骨や武器類が見つかっています。

上の2枚目の写真に見られるように、かなりの量の人骨が集中しており、この写真の地点では12㎡の範囲から20個体分の頭蓋骨を含む1478点もの人骨が出土しました。

人骨が集中して見つかっただけでは「戦争」があったことにはならず、乱雑に配置された合葬事例や共同墓地ということも考えられます。

この事例の場合では多数の武器だけではなく、明白な状況証拠が揃っていたため、見つかった多量の人骨は戦死者と考えられたのです。

その証拠を見ていきましょう。






これらが武器を伴う人骨よりも直接的証拠として扱われた例になります。

最初の写真では、見事なフリント製の石鏃が上腕骨に突き刺さっています。

2枚目の写真では、保存状態の良い頭蓋骨の頭頂部付近に、不自然な陥没が見られます。

これは棍棒などによる強い打撃で頭を割られたことに起因する痕跡だと推定されています。

3枚目の写真では、石鏃が頭蓋骨を貫通して脳まで到達している状態を示しています。

これに加えて発見された1万2000点もの人骨が少なくとも140人分であるとの個体数を推定する結果が出たこと、この140人のほどんどが20~30代の上記のような外傷以外で病気などの見られない健康な「男性」であったことがトレンゼ遺跡がバトルフィールドである根拠になっています(*・ω・)ノ






おわりに、ートレンゼ・バトルフィールドの謎(前編)ー

さて、最後に挙げた写真と図は「Science」誌に載ったものです。

上の写真のような出土品が多数見られ、これらが「青銅器時代の戦士」の携行品と考えられています。

こうした携行品や他に出土した武器類から推定されたのが下の図の「青銅器時代の戦士」です。

勇ましく描かれていますねヾ(´ω`=´ω`)ノ

さて、人類史は戦いの歴史であり、特にヨーロッパ史は常に戦争ばかりなわけですが、20世紀までは青銅器時代のヨーロッパは比較的平和な社会だと考えられていました。

より古い時代にヨーロッパで大規模な戦いがあったという歴史記述が、ギリシャやエジプトなどに残されていましたが、最初に述べた「戦争」の痕跡は発見されにくいため、これまでトレンゼ・バトルフィールド級の古戦場の遺跡は見つかっていなかったのです。

これまでにも青銅器時代の武器は出土していましたが、埋葬遺構における副葬品や、儀礼に伴う埋納品としての出土しかなかったのです。

トレンゼ・バトルフィールドの特徴は考古学的に認められる最古の事例というだけではなく、最大規模の戦闘行為の痕跡が残る事例だということです。

調査範囲からは140人分の人骨が出ましたが、遺跡全体の10%ほどを調査したと考えられることから、全体の死者数は1400人程度になる見込みです。

戦争は生き残りをかけたバトルロワイアルではありませんので、実際に戦争に参加したのはその2~3倍程度、4000~5000人ではないかと推定されています。

戦闘自体はおそらく1日で終わったと考えられていますが、この規模の戦闘行為は青銅器時代ではこれまでに見られない圧倒的なものなのです。

ここで問題なのは、何故トレンゼ遺跡で大規模な戦闘が起こったのかということです。


欧州各地から来た他集団同士が争ったのか、トレンゼ地方の同一集団における内紛だったのか・・・・・・


誰が、何故この地で戦ったのかは現在も謎のままなのです。


どう思いますか?ー後編へ続くー( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 8にち(にちよーび、晴れ)

昨日は一日中頭痛でぽんこつだった(´・ω・`)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

arukemaya1153


今回の考古学・歴史ニュースは「17世紀の子供の共同墓地に見られる葬制が古代ギリシアものだったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の発見の舞台はポーランド南東部のポトカルパチェ県です。

ここでポーランドを縦断する形でバルト3国とギリシャを接続する高速道路を建設していたところ、子供の共同墓地と思われる埋葬遺構集中が検出されました。

合計115体もの遺体が発見され、全体の70~80%は子どもの遺骨だと推定されています。

この埋葬遺構集中に見られる葬制の特徴は、頭部を西に向けている点、伸展葬である点、口に硬貨が入った状態である点です。

この区域では1604年にこの地域で最初の教区教会が建立されたことが分かっており、工事開始時は墓標等はなかったものの、小さな礼拝堂が残っていたことから、かつて子供用の共同墓地であったと考えられています。



こうした推測される教会との関係や共伴した硬貨の鋳造時期から、この子供の共同墓地は17世紀に帰属すると推定されています。

上に挙げた写真が工事現場、且つ発掘現場なのですが、人骨の周囲には石棺や木棺の痕跡が見当たりません。

またお墓は家族と共に埋葬されるケースが多いですから、もしかしたら孤児院のような身寄りのない子供たちのためのお墓だったのかも知れません。

そうであるならば、埋葬行為を行った側の人間、恐らく教会関係者には経済的な余裕がなく、木棺を使用することができなかったと解釈できると思います。

上の写真ではけっこう浅いところから発見されている気がしますし、深く掘るのも大変ですから余裕の無さを感じます。

一番上に挙げた写真では人骨の周りは根切りをしきれていない状態で、細かな植物の根が見て取れます。

そうした点から、けっこう浅いのかなと思います。

ただ遺構の周囲にはやや粘土質か、シルト質のようなしまりの強さを感じる土が積み上げられていて、黒っぽい腐植土が見られません。

上の写真では重機も写ってますし、高速道路の建設のために重機で粗方削平した後に埋葬遺構群が見つかったというのが妥当かなと思います。

なので、きっと野犬などの野生生物に掘り返されない程度には深く掘って、埋葬されていたと考えられます。




人骨の口の中から見つかった硬貨は、1587年から1632年までポーランドを治めていたジグムント3世の時代に鋳造されたものや、1659年から1668年にかけてポーランド・リトアニア共和国で使用されていた硬貨でした。

こうした口の中に硬貨を入れる風習は古代ギリシア(BCE???-BCE3650-BCE146)から受け継いだ埋葬儀礼におけるひとつの風習なのです。

ギリシア神話に登場する冥界の河の渡し守カロンには河の渡し賃として1オボロスを払わなければならず、払えないと死者は後回しにされ、200年間あたりをさまよわなければならないとされていました。

こうした風習は古代ローマにも引き継がれ、CE313年のミラノ勅令によりキリスト教が公認となった後、少しずつと廃れていきました。

それがこうして17世紀にまで細々と受け継がれていたということが今回のニュースなわけです(*・ω・)ノ




おわりに、渡し賃を計算してみた(・∀・)つ

今回発見された115体もの人骨は、研究・分析の後で別の教会にて再び埋葬されるそうです。

一度露出させた人骨を再埋葬すると空気に触れたこともあって、一気に分解が進んで研究資料としてはダメになってしまいます。

17世紀というとおおよそ300年前ですから、遺族(?)のことを想っての行為なのかもしれません。

日本のアイヌの事例やアメリカの先住民の事例だと500年くらい前でも返還を要請したりしていますからね。

本当に「土に返す」前に十分なデータの取得を行って欲しいものです( -д-)ノ


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ところで冥府の河の渡し賃が「1オボロス」なわけで、これが「1ドラクマの1/6」の価値だそうです。

1ドラクマはBCE500年段階で25USドル(2600円)の価値と推定されていて、古代ローマ期初期に当たるCE60年頃には一日の労働の対価ということで58USドル(約6000円)と推定されています。

ということは、渡し賃は約430円~1000円ってことになりますね。


冥府でも物価上昇か!( ・Д・)



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