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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

2021年04月

2021ねん 4がつ 29にち(すいよーび、晴れ)

最近、記事を夜寝る前に書くようになってる( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは「世界の井戸マスターにもなろう!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はチェコ、オストロフの町の近郊です。

3連続で井戸についてお伝えしておりますが、今回は『世界編』です(*・ω・)ノ

日本では弥生時代の井戸が最古でしたので、古くとも今からおよそ2500年程度前ということになります。

一方で世界で最も古い井戸は、アメリカのニューメキシコ州にあるクローヴィス文化期の遺跡で見つかっています。

時期はなんと今から1万3500年前です。Σ(・ω・ノ)ノ

クローヴィスはニューメキシコ州にある町の名前ですが、当サイトでもアメリカ大陸に関連する記事で良く出てくる、「クローヴィス尖頭器」や「クローヴィス・ファースト仮説」の名前の由来になっています。

古いだけあって、直径60cm、深さ1.4mのサイズの素掘りの井戸です。

これが世界最古の井戸の事例になります(・∀・)つ




今回メインで紹介するのはチェコの事例ですが、サムネイル画像や上に挙げた写真に映る黒っぽい四角い塊が問題の井戸です。

見て分かるようにこれは木製の井戸です。

保存状態が良いので、材木はオークの木であると判明しており、年輪も残ってることから、今から約7000年前に造られた井戸であると推測されています。

さっきの事例よりも新しいじゃないかと思うかもしれませんが、、、

これまでに見つかった「木製の構造物」として世界最古の事例になるのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


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高速道路の建設現場で見つかったのですが、重機で掘っててよく見つかるなぁと感心しますねΣ(・ω・ノ)ノ

ショベル使ってても遺物や遺構に当たる感覚があるそうです、本当にスゴイ( ・Д・)

見つかった井戸の近くに水が溜まっているように、この井戸は水分を多く含んだ土層に覆われていたために腐敗せずに残ったようです。

年輪が綺麗に残ってることから、正確には紀元前5256年頃に伐採された木であると分かっています。

ポールが立っている写真も含め、ここで挙げた写真は全てまだ井戸を全部出し切っている状態の写真ではないようです。

記録では井戸の高さは約140cmあるそうです。

写真だと125cmくらいしかないように見えますもんね(*^・ェ・)ノ

木製の枠は80cmの正方形で、こうした構造物としての形状と木材の表面に残る石器・骨角器の道具の痕跡から、加工や接合に先進的な技術が用いられていたと推測されています。



↓日本の巨大な井戸の検出事例(*^・ェ・)ノ


↑日本の最古の井戸のお話(*・ω・)ノ



おわりに

このチェコの事例は約7000年前ですから新石器時代初期に相当するのですが、ここ数年の間に他に2例も見つかっているそうです。

チェコすごいですね!

でもこうした高い技術力で作られ、保存状態も良好な物は今回紹介した事例のみになります。

・・・3連続で「井戸」ばかりだったけども、、、

これで世界の井戸マスターになれる!( ・Д・)



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2021ねん 4がつ 27にち(かよーび、晴れ)

4コマ漫画でマヤ文明知識を普及させたい(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースは日本の井戸の歴史について考古学で分かってることを調べてみたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は三重県、松坂市の古轡通りB遺跡と、岡山県、岡山市の鹿田遺跡です。

今回はニュースではなく、考古学調査で見つかった井戸について紹介します。


ところで、日本における縄文時代ってとても特徴的で面白いと思うのですが、、、

世界史的な見方をすると縄文時代は中石器時代~新石器時代に相当します。

でも竪穴住居に定住しているんですよね( ・Д・)

人間に限った話ではないですけども、やはり私たちの生活に「水」は不可欠であり、海水じゃダメなわけです。

なのでヒトは古くから河川の水や湧き水を利用して生きてきました。

縄文時代の人々も水を容易に利用できるように河川の傍に集落を作る傾向にありました。

そのせいか縄文人は「井戸」を使っていませんでした。


日本における井戸の使用開始は弥生時代と考えられています。

初めは湧水部を掘ることで穴を大きくして湧き出る水の量を増やそうとしたようです。

弥生時代と言えば農耕の本格的な開始ですから、農業には多量の水が必要なわけで井戸の使用開始と重なるのも納得ですね(*・ω・)ノ

では実際に、発掘調査で検出された井戸を時系列順に見ていきましょう!


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↑弥生時代後期の井戸(「岡山大学 埋蔵文化財調査センター報第 4号 1990」p.3の写真6より転載)

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↑弥生時代後期後半の井戸(「岡山大学 埋蔵文化財調査センター報第 4号 1990」p.2の写真2より転載)

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↑古墳時代の井戸(「三重県埋文センター通信 みえ no.28 1999」p.1の写真を転載)

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↑12世紀前半の井戸(「岡山大学 埋蔵文化財調査センター報第 4号 1990」p.2の写真3より転載)


井戸の検出状況の写真を並べましたが、弥生時代と古墳時代の井戸にはいずれも土器が入ってますね。

これは井戸の廃棄の際に儀礼を行ったためです。

鹿田遺跡では弥生時代の井戸だけで27基も見つかっているのですが、つまりそれだけ水が枯れやすかったのでしょう。

井戸を廃棄する際に、「枯渇してしまった水の復活」を願って土器を奉納したのだと考えられています。

こうした奉納品は井戸の底から完形の土器として綺麗に出土することもありますが、写真のように割れてしまっている事例も多いです。

でも接合してみると完形に戻ることから、壊れた土器を適当に捨てたわけではないと推測しています(*^・ェ・)ノ


弥生時代の井戸は素掘りの井戸で、岩盤の固いしっかりしたところを直接掘って井戸を作ります。

この時点では井戸の廃棄に伴って、壺や甕、高坏、鉢といった多種の器種を奉納し、またその数量も多いのです。

弥生時代の終わりから古墳時代になると井戸の木枠や矢板が登場します。

これは柔らかい岩盤を掘った際に、壁面が崩れてこないように支えるために使用するものです。

上の3枚目の古墳時代の井戸は平面形状が円形ですが、これは大きな樹を刳り貫いて木枠として使用した事例です。

この時期には奉納品は甕が主体となり、1点のみが奉納されるケースが多くなります。

共用で使う井戸に対する集団的な井戸祭祀から、個人による井戸祭祀へと移り変わっていったと推測されています。

その後、古代の時期には木組みの井戸が一般的となり、奉納品は斎串(いぐし;木製のまじない札)が選ばれます。

中世では石組み井戸が主体となり、奉納品は色々なものが捧げられるようになります。

古来より水神が大好きと言われる馬を1頭丸々捧げた事例もあるのですΣ(・ω・ノ)ノ


↓前回の井戸のニュース記事!(*・ω・)ノ


↑水と馬を関係づける風習は古くからあるのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


おわりに

長々と井戸の技術的な変遷と、廃棄儀礼の変遷を簡単に書き連ねましたが、、、

うん、個人的にはとても勉強になった!( ・Д・)

世の中、知らないことばかりですね( -д-)ノ

とにかくこれで私も皆さんも「井戸の歴史マスター(日本編)」ですね!

良かった、良かった・・・


ところで、最初に井戸の底を見下ろした写真を挙げて、貞子出そうって書きましたが、

怖いのはダメ!( ・Д・)



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2021ねん 4がつ 26にち(げつよーび、晴れ)

実は最近4コマ漫画を描くべく、絵の練習をしている(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースは井戸の歴史って古いのね!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は高知県、安芸市の瓜尻遺跡です。

遺跡のすぐ傍にある地元の中学校の新校舎を建設するために、2019年より試掘調査が行われてきました。

試掘段階で古墳時代から中世の文化層が広がっていることが確認されました。

そのため拡張して調査が実施された結果、これまでに古代寺院や律令制度期の役所、船着き場など貴重で重要な遺構が多数発見されました。

どうやらこの一帯は豪族の拠点だったようです(*・ω・)ノ






さて、今回紹介するのは『最大級の井戸』

ちなみに時期はおよそ1700年前です。

上に挙げた写真の内、下の2枚が井戸の写真です。

2枚目は検出段階と思いますが、何だか分かりにくいし、サイズも小さく見えます。

もしかしたら井戸が2基以上、複数確認されている可能性もありますが、スケールが置かれていないんでサイズ感が掴めません( -д-)ノ

3枚目はスケール代わりに遺構内に人が入っているのでその大きさが分かりますね!

井戸の掘削のための足場を含めると直径9.5mのサイズの井戸なのですΣ(・ω・ノ)ノ

もちろん国内最大級の井戸の発見ということになります。

これだけ大きい井戸ですから、日常生活用という意味合いよりも儀礼的な意味合いが強かった可能性が指摘されています。

中学校は予定通り建設されるそうですが、これだけ重要な遺構が集まった遺跡なので、国指定史跡になる可能性があります。

もしかしたら学校の地下に素敵な博物館が建設されるような形で史跡化されるかも知れませんね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


↓この学校の下もこうなると素敵ヾ(´ω`=´ω`)ノ


↑頑張ってる自治体を紹介しがちだけど、一方で酷い市長もいるのだ( ・Д・)



おわりに ~日本最古の井戸?~

さて、おまけで日本最古の井戸を紹介します(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

鹿児島県、指宿(いぶすき)市にある玉乃井という井戸です。

神話によれば、山幸彦が水汲みにきた豊玉姫(龍神の娘)と出会うエピソードがあり、それがこの井戸だったということです。

なので「神代」からある井戸、つまり「日本最古の井戸」として観光スポットになっています。


・・・現存している井戸としてはスゴイけど、、、

実際にいつのものなのだろう?( ・Д・)



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2021ねん 4がつ 23にち(きんよーび、晴れ)

毎日TKG食べてる(*^・ェ・)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースはどーきーを探せ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は埼玉県、北本市のデーノタメ遺跡です。

普段、記事とか考古学情報調べてたら、考古学の専門が撮っている記録用あるいはスナップ写真か、遺跡説明会時の写真ばかりなのです。

当たり前なのですが( ・Д・)

でも今回の記事を調べてたら、出土してから間もない写真を見つけたので「ドーキーを探せ!」を開催することにしました。

今後もそのような写真を見つけたらやります(*・ω・)ノ

あと調査時にそういう状況になったら意識的に撮影しますv( ̄∇ ̄)v

さて、問題は以下の2問!

ドーキー(土器)はどこか分かりますか?

答え合わせは「おわりに」で!


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記録用の写真を撮る時には「クリーニング」といって、壁を垂直に立てたり(垂直になるように壁面を削るの意味)、落ち葉拾ったり、細かな根を切ったりします。

その際にレキ(石のこと)や土器などの遺物も分かりやすくきっちりとその形状が分かるようにします。

そうこうしてると、けっこう乾くんです。

乾き過ぎると困るので水を撒いたりします。

丁度良い状態でも、土器などの遺物と土は乾く速度が異なるので遺物はやはりはっきりと分かります。

でも問題として上に挙げた写真の土器はまだ十分に湿っていて、ちょっと分かりにくい状態です。

上の発掘現場の写真を見て分かるように、この現場はそもそも水分を多く含む土壌だからこそ、こういった問題になるような写真が撮れたのですね(*・ω・)ノ

考古学あるあるですが、発掘調査未経験だと土器や石器などの遺物が土から出ても分からないことが多く、経験を積むと簡単に判別できるようになります。

・・・「ドーキーを探せ」、流行ればいいのに( -д-)ノ



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このデータノメ遺跡は関東最大の環状集落です。

でも、ここまでに調査現場の写真を2枚挙げましたが、”環状集落”感がないですよね( -д-)ノ

なので遺跡全体の模式図を表示しました。

この遺跡は縄文時代における3つの環状集落が残っている遺跡であることが分かります。

また上に挙げたように貴重な遺物も出ています。

そのため北本市はこのデータノメ遺跡を国指定史跡として保存・活用しようと尽力しているそうです。

どのような史跡になって、どのように活用していくのか、今後が楽しみな遺跡です(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




おわりに ~情報と流行の伝播の仕方&解答~

ヒトに限らず動物にとって水は生きていく上で不可欠です。

なので人類が集落や都市を築く場所は水辺であることが多いのです。

時期にもよるのですが、上に挙げた地図のように河川沿いに集落がいくつも発達する傾向があります。

一方で海岸沿いにも集落が発達します。

漁業は生業として重要ですし、塩も得ることができますから。

なので、河川に沿って上流~下流・海岸間では古くから交流があったことが分かっています。

製塩するにも大量の燃料用の木材が必要ですから、上流の山間部に住む人々が運んだと考えられています。

だから、河川に沿って上下に集落間関係が構築されるのは分かるんだけど、「横方向」にはどうやって情報や流行が伝わるのだろう?って時折疑問に思います。

古代の情報や流行の伝播の方法について明らかにできれば面白そうですよね?(*・ω・)ノ



・・・さて、最後に解答です。

問1の答えは左にあるのが土器!

右にあるのは縄文のような文様にも見えるけども、クルミです!(*^・ェ・)ノ

問2はたくさんのクルミが出土している状況ですが、、、

ちょっと怪しいなって思う小破片が2点ほどありますが、まぁとりあえず下部の赤っぽいやつは土器の口縁部だと思います(*^・ェ・)ノ


分かりました?



ところで、ねぇ、、、

・・・縄文ってクルミの文様でない!?( ・Д・)


↑歩けマヤ管理人(2021.4.24)(・∀・)つ


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2021ねん 4がつ 22にち(もくよーび、晴れ)

今月はけっこう頑張ってます(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースはオウムやインコのミイラが見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は南米、チリ、アタカマ砂漠です。

上に挙げた地図で見と取れるようにチリの北部のほとんどを広大な砂漠が占めています。

これがアタカマ砂漠で、「世界で最も乾燥した砂漠」としても知られています。

一方で星がとても綺麗に見えるため、観測拠点として多くの天文学者が訪れる地域でもあります。


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上に挙げた写真の中に花が咲いているものがありましたが、このアタカマ砂漠にも他の砂漠と同様にオアシスがあります。

どこの砂漠でもそうですが、オアシスに人が集まり交易の要所として機能します。

今回の記事はそうしたチリの古代文明が利用したオアシス遺跡での発見のお話です(。・ω・)ノ゙




さて、当然ですがアタカマ砂漠にはインコやオウムは生息していません。

コンゴウインコなど色鮮やかな鳥たちは熱帯のジャングルに住んでるイメージです。

今回のケースでは直線距離でおよそ500kmも離れたアマゾン地方に生息しているオウムやインコを、アンデス山脈を越えて遥々このアタカマ砂漠まで連れてきたことが分かりました。

時期はCE1100-1450頃で、オウムやインコはオアシス遺跡の有力者の権力の象徴として機能しました。

遠隔地由来の簡単に手に入らないオウムやインコはペットとして飼育された他、権威を示す頭飾りの材料としてその綺麗な羽が用いられました。

この鳥のミイラの調査に当たったのはペンシルベニア州立大学の研究チームですが、オウムやインコが死後にミイラにされていることを明らかにしました。

また口を大きく開けていたり、飛んでいるかのように翼を広げた状態のミイラが見つかっています。

そのことから研究チームは、オウムが人の言葉を真似る能力に関係した儀礼の一部だった可能性があると解釈しています。



・・・このアタカマ砂漠のオアシス遺跡における文化(11~14世紀)がどのようなものだったのか知らないので何とも言えませんが、、、

素人質問で大変恐縮ではございますが、、、


そんな儀礼あるんですかね?( ・Д・)


剥製の起源って古代エジプトとかで2000BCEとかだから古いですけど、そちらもミイラです。

剥製標本の技術が高くなるのは日本だと明治期です。

江戸時代でもミイラ状にする技術はありました。

なのでアタカマ砂漠におけるこの時期のミイラ作りって、乾燥気候と夜の寒さを利用した所謂フリーズドライ(冷凍乾燥)法で剥製標本を作っているような感覚なのじゃないかなと思いますけどね。

希少なオウムやインコだからこそ、死後も剥製として飾っておくことに価値があったので、まるで生きているかのように口を大きく開けた状態にしたり、翼を広げた状態にしたのではないでしょうか?


↓動物のミイラ関係の記事を挙げてみた(*・ω・)ノ




↑最後のだけ動物と関係ない!みんな好きかと思って・・・( ・Д・)





おわりに

上に挙げた写真はコンゴウインコの一種です。

とても綺麗ですよね。

確かにこれで羽飾り作ったら映えますねΣ(・ω・ノ)ノ

古代マヤ文明でもコンゴウインコやケツァル鳥の羽が奢侈品あるいは威信財として重要視され、頭飾りなどの装飾品を製作する上で重宝されていました。

元記事に「定期的に羽を毟り取っていた」と書かれていて、一瞬可哀想だなと思ってしまいましたが、、、

この可哀想という感覚は倫理的に間違っていないかもしれませんが、声を大にして言うには難し過ぎる問題だと思います。

現代社会でも有力者・お金持ちは高価な物や所謂贅沢品を消費し誇示することが一種のステータスとして機能しています。

そう、モノは変わったかもしれないけど、本質的に私たち人類社会の在り方は遥か昔から全然変わっていないのです( -д-)ノ

ブランド物の代表格はバッグとか財布とかでその多くは皮革製ですし、原材料を得るために動物を殺してるわけですからね。


そう、我々は何も変わってないよ!( ・Д・)



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2021ねん 4がつ 21にち(すいよーび、晴れ)

引っ越しで金欠・・・二か月くらい頑張って生きなきゃ( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは「岡山初!古墳から煙突が出たよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は岡山県、津山市、高尾北ヤシキ古墳です。

この遺跡では近くの国道の改築工事に伴って、2020年より緊急調査が行われています。

高尾北ヤシキ古墳は「佐良山古墳群」の一つであり、直径約13mの円墳です。

上に挙げた写真が発掘現場の遠景ですが、大きな切株が「座布団」状に残されていて、そのすぐ左側に石列が見られます。


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近寄って角度を変えて見てみると、上に挙げた写真のような感じになります。

玄室の壁面を構成する石列が綺麗に残っていますね!(・∀・)つ

この円墳の築造年代は6世紀と考えられており、けっこう立派な横穴式石室が墳丘の中心に設置されています。

サイズは残存長6.5m、最大幅1.7m、最大高1.9mです。



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そして今回目玉がこれ!

『煙突』ですヾ(´ω`=´ω`)ノ

考古学用語としては「筒形土製品」と呼んでいます。

出土時点で割れていた部分は綺麗に接合されていますね。

古墳時代と言えば、カマドの伝来です。

この煙突はカマドに備え付けられていたものを模倣して作っていたもので、煤などの付着はなく使用痕跡はありませんでした。

カマドという新技術の伝来と関係して儀礼的な意味合いでお墓に入れられたものだと考えられます。

煙突はこれまでに韓国はもちろんのこと、近畿地方で多く見つかっています。

しかし岡山県で発見されるのは今回が初めてで、カマド技術や製鉄技術といった当時の朝鮮半島との関係が伺えます。


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↑石室を出した時の写真(「岡山県教育委員会」の報道発表資料より転載;図番号等は画像に記載)


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↑棺の横に煙突とその他の副葬品が見られる(「岡山県教育委員会」の報道発表資料より転載;図番号等は画像に記載)


ニュースの画像だとちょっと何だかなって感じだったので、「概報(概報の概報みたいな簡易なもの)」に当たってみたところ、見やすい写真を見つけましたので紹介しますねヾ(´ω`=´ω`)ノ

上に挙げた写真が石室の検出時の写真と、陶棺と副葬品の位置関係を示した平面図的な写真になります。

綺麗で見やすい写真ですね!

そしてこんな風に綺麗に出土するのですね。

掘るの大変そうだけど、出してみたい(*^・ェ・)ノ

ちなみに副葬品もかなり豪華で、須恵器、土師器、鉄製の鏃(鉄鏃;てつぞく)、馬具、ガラス製装身具が見つかっていますΣ(・ω・ノ)ノ



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↑展開図的な写真(「岡山県教育委員会」の報道発表資料より転載;図番号等は画像に記載)


そしてこれが出土した「煙突」こと筒形土製品の展開図的な写真です。

これだと中が空洞であることや、厚みの程度がよく分かりますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

また正しい置き方が三角コーンみたいな感じであることが分かります。

尖底土器みたいに尖った方を下にはしません( -д-)ノ

この「煙突」がどのように使われたかについては、下の図がとても分かりやすくて良きです(。・ω・)ノ゙

まぁこの復元図ではカマド(高温焼成による土器作り用の窯)の煙突ではなく、住居の中の炉(これはこれでカマドだが)の煙突として描いていますが使い方は同じです。


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↑遠くから見るとこんな感じ( ・Д・)(「岡山県教育委員会」の報道発表資料より転載;図番号等は画像に記載)


おわりに

世界中で色々な考古学的発見が起きてるなと思いますが、国内でも大発見がある地域って少し偏りがあるかな~って気がしますね。

岡山県の考古学ニュースはそんなにないので、こうしたレアな発見があるとちょっと嬉しいです。

地方でかつ小さな遺跡だと、せっかくの良い発見もなかなか良い記事になってないなと思います。

考古学の専門の記者の不在も理由にあるでしょうが、写真も文章も明らかに少ないのですヽ(TдT)ノ

是非、そういったニュースを当サイトで取り上げて、少し詳しく紹介出来たらなと思います(。・ω・)ノ゙


・・・ところで、私、このニュースのタイトルをチラッと見た瞬間、、、

古墳に煙突立ってるのかと思った!( ・Д・)



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毎日少しずつだが、着実に仕事が進んでいく感じも悪くない(*^・ェ・)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは「法面工事の時に色々と重要なものが見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は富山県、富山市、番神山横穴墓群です。

この番神山(ばんじんやま)横穴墓群は呉羽丘陵に位置し、これまでに15基の横穴墓が発見されています。


・・・ところで記事タイトルにある「法面工事」って読めました?

普通に「ほうめん」かと思いきや、正しくは「のりめん」でした( -д-)ノ


”法面(のりめん)”とは、

 ”切土や盛土により作られる人工的な斜面のことです。 道路建設や宅地造成などに伴い、地山掘削、盛土などによりのり面が形成されます。 こののり面の斜面崩壊や地すべりなど土砂災害の拡大防止を目的として施工する工事のり面工事です。”


ということで、最初に挙げた写真が法面と法面工事の施工後の状態を示したものになります。

うん、ドライブしてるとよく見るやつね!(*^・ェ・)ノ

「落石注意!」って標識に書いてるけど、なにをどう注意したらいいか分からないやつね!( ・Д・)


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上に挙げた写真がテレビニュースの動画からもってきたものになります。

画像は粗いので、是非、上のリンクから元のニュース動画を見てみてください(*・ω・)ノ

さて、法面といっても再工事とかではなくて、本当に今にも土砂崩れしそうなポイントなのだなと驚きましたΣ(・ω・ノ)ノ

先にも述べたように番神山横穴墓群ではこれまでに15基の横穴墓が見つかっていて、今回の2基を加えて17基となりました。

ちなみに番神山には2基の古墳もあるそうです(。・ω・)ノ゙

今回の出土遺物としては完形の須恵器2点と土師器1点、そして馬具の轡(クツワ)が出土しています。

この見つかった馬具がレアな発見で、県内でこれまで見つかっている約360基もの横穴墓の中で副葬品として馬具が共伴する事例は今回で3例目なのです。

また今回の横穴墓は玄室部(埋葬部)の長軸が3mと北陸最大級であることも大きな特徴です!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


今回のお墓の副葬品は立派ですし、有力者の墓だと分かります。

有力者の数は限られているとはいえ、古墳時代の横穴墓群として全部で17基って少し少ない気もしませんか?

全国に横穴墓群があるのですが、100基~300基級の遺跡もけっこうありますし、福岡の竹並遺跡なんて1000基もあるのです。

この番神山横穴墓群の場合は、一つの横穴墓の玄室から複数体の人骨が見つかっていて、それぞれの横穴墓が再利用されていたことが分かっています。

それが家族なのかどうかは分かりませんが、まぁ恐らくは少なくとも有力な家系の親族関係者でしょう。

過去の調査では人骨も出ているわけですから、保存状態にもよりますがDNA分析とかできるといいですねヾ(´ω`=´ω`)ノ




おわりに

番神山横穴墓群を調べてみたところ、報告書はさすがにありましたが、、、

遺跡の写真が出てこない。

出てきたのは上に挙げた写真だけ( ・Д・)

どうやら史跡整備はされていないようですね。

まぁ法面工事で墓出すくらいだからそんなもんか( -д-)ノ


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↑山が半裁されていますね(富山市埋蔵文化財調査報告書102 2020の巻頭図版〇三より転載)

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↑陶芸館とか考古資料館のために山を掘削してますね(富山市埋蔵文化財調査報告書102 2020の第1図を一部改変)


報告書に当ってみたら少し写真と図が見つかりました。

南西から北東にかけて古墳が並んでて、そのおおよそ中間部に番神山横穴墓群があるのですね。

そして道路のためではなくて、建造物建設のために山を掘削したようですね。

今回のは珍しい発見ですし、予定されている出土資料の博物館展示だけではなく、是非何らかの遺跡保存をして欲しいなと思います。

考古資料館がこんなに近くにあるのだから、是非、周りの古墳も含めて史跡化して欲しいものです。

そしたら富山に行く理由ができる!( ・Д・)



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2021ねん 4がつ 16にち(きんよーび、くもり)

無理して働くより、コツコツ確実にの方がいいね、今更気付いたよ( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは沖縄、与那国島海底遺跡の真偽について考えてみたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は沖縄県、与那国島です。

「与那国島海底遺跡」って聞いたことありません?

私は昔、特命リサーチ200Xで見たのが最初だったような気がします。

というのもこの遺跡の発見はけっこう昔のことなのです。


簡単に概要を示すと、、、

この遺跡は1986年に地元のダイバーによって巨大な階段状構造が発見され、1995年に地元紙に大きく取り上げられて広く注目を集めるようになりました。

1992年以降に琉球大学理学部教授であった(現在は同大学名誉教授)木村政昭を中心として調査が実施されています。


ただ沖縄県文化局は人が関与した痕跡があると判断できないとの理由で、『遺跡として認定していない』そうです。


まぁ記事の関係上(私が面倒なので( -д-)ノ)、本記事では「与那国島海底遺跡」のことを、『この遺跡は・・・』みたいな感じで記述しますが、省略以外の意味はありません( ・Д・)



*当サイト「歩けマヤ」が大好きな人はもうご存知でしょうが、現役考古学者が運営していますので、宇宙人やUFO、UMA等々の専門外のオカルトには寛容がありますが、『超古代文明』系オカルトのような、私たち考古学者に喧嘩を売るエセ科学はボコボコにしますので、オカルト大好きな方はこの先読まないことをお勧めします( -д-)ノ





この与那国島海底遺跡については日本のメディアではもう下火になっています。

というのも「人工説、遺跡説、古代文明説」みたいなことを言ってる研究者って、先に挙げた木村政昭しかいないのです。

彼が現在、名誉教授になっているので年齢的に以前ほどの活発な調査研究を行っていないというのが、日本での話題性が下火になっている理由の一つでしょう。

一方で海外では最近特にとても人気が高いんですよね。

YouTube動画見てても、オカルト系番組はもちろんのこと、まっとうな海外の歴史系番組でもけっこう取り上げられています。

なんでだろう?

まぁ良くも悪くも、日本人はなんだかんだリアリストで、海外の人は夢見がちな傾向ありますからね( ・Д・)

(例:私「実は考古学者なんだ!」
   海外の女性「え~ロマンあるね!」
   日本の女性「え、それ稼げるの?」)


arukemaya1480


さて、内容を見ていくと、木村政昭はこの与那国島海底遺跡に関して考古学や地質学の学会での研究発表業績がないそうです。

まぁ確かに考古学雑誌では少なくとも見たことない気がします。

本記事の趣旨とずれるので詳細は省きますが、地質学者からは自然地形説、浸食説が提示されていて、この巨大な「遺跡」は人工物ではないと結論付けられています。

まぁこれは専門外ですしとやかく言いませんけど、解釈も妥当かなと感じます。

他方で考古学者もまともに取り合ってる人はいないと思うのですが、理由は簡単!

考古学的な証拠が一つもないからです。

そもそも検討の余地すらない( -д-)ノ

でも遺跡・古代文明説や超古代文明説についてそれぞれ見ていこうかなと思います、私、優しいので( ・Д・)


arukemaya1479
↑デカすぎなのさ( ・Д・)(「蔵瀬抜刀」さんのTwitter画像より転載)


さて、上に挙げた図もそうですが、この遺跡はデカすぎなのですよ。

一般的にはデカいからインパクトあるし、一見良さそうに見えるけど、人工説・遺跡説を唱えるならばこれは良くないです( -д-)ノ


何故か?( ・Д・)




これが遺跡ならば、単に遺跡とは言えず、自動的に文明説になっちゃうからです

この遺跡が、都市遺構だろうが、神殿跡だろうが、サイズの問題で文明ありきを前提にしてしまうのです。

ところで、よくYouTube動画で「縄文時代は世界最古の古代文明」とかそれに近いことうたってる動画ありますけど、間違いです。

研究者の定義にもよりますが、私に言わせれば、『文明=国家段階』です。

(*簡易に記述しています。詳細を書くと長くなるので、気になる方は考古学や人類学辞典をご参照下さい( -д-)ノ)

なので縄文時代は国家段階ではないので文明って呼称はダメってことです。

この遺跡の場合は、あまりに巨大な構造物なので、これが人工物ならばそれが何であれ文明段階つまり国家段階、少なくとも国家形成期段階の遺構と言えるでしょう。


また少し話は逸れて、最近、量子力学等の物理分野で『時間は存在しない』ってのが流行ってますね。

他分野の理論や考え方が他でも活きる事例が近代以降多々確認されている科学界ですが、考古学では「時間はない」って感覚が遥か昔からあると思っています。

だってまさに我々にとって「時間=変化」ですから(*^・ェ・)ノ




さて、話を戻すと、仮に「与那国島海底遺跡」が人工物と仮定してみましょう。


①与那国島海底遺跡が人工物、つまり遺跡である(仮説)

②ならば、対象遺構は莫大な労働力が用いられた巨大な建造物なので、都市あるいは神殿といった機能・用途が不明であったとしても、少なくとも国家形成期あるいは初期国家段階の遺構と想定できる。

③ならば、初期国家段階の人口はおよそ1万人程度との伝統的な先行研究事例を基に考えると、近隣の島(与那国島、あるいは沖縄本島など)にそのレベルの人口を有した社会が存在したことになる。

④保存・依存状態や海流などの様々な事情により遺構周辺の海底から土器や石器などの関連遺物が発見できないにしても、周辺の島々には巨大建造物を建設・利用した人々の生活の痕跡が残るはずである。

⑤そうした生活の痕跡は、最初期のヒトの移住から始まり、巨大建造物を建造可能な技術を有する人口およそ1万人の社会に達するまでの全過程に関して考古学的に痕跡が残るはずである。


とまぁこんな感じに論理展開していくことになります(。・ω・)ノ゙


「時間=変化」の話と繋がってるのですが、分かりましでしょうか?

いきなりポンとモノは出来ないのです。

必ず過程があります。

モノが大きかったり、複雑であったりすればするほど、その分過程は長くなり、各過程における痕跡が残り、考古学的に認められる可能性が増大するのです。





arukemaya1482




さて、では先述の論理展開を基に、遺跡・文明説と超古代文明説を見ていきましょう。

A:遺跡・文明説:最も新しい発表では2000~3000年前の遺跡と推定

B:超古代文明説:古代の海面上昇を根拠に1万年前の遺跡と推定


・・・Bの超古代文明説は簡単な説明でサクッと片付けます!( ・Д・)

去年あたりから縄文時代草創期の土器研究とか始めてみたのですが、対象の土器で1万3000~4000年前ですよ。

1万年前は縄文時代早期ですもの・・・そんな大きな社会は当然ないですよ( -д-)ノ

ちょうど今年度は沖縄で資料調査をする予定なので、しかもちょうど沖縄の最古の土器の爪形文土器を扱うのですが、これで縄文時代後期(ca.3500-4500年前)並行の判定(国分ら 1959: 49)ですよ?



【参考文献】

国分直一、川口貞徳、曾野寿彦、野口義麿、原口正山

1959 『奄美大島の先史時代』九学会連合奄美大島共同調査委員会編、日本学術振興会




一方でAの遺跡・文明説だと2000~3000年前という推定だから、おおよそ新しく見積もって弥生時代、古くとも縄文晩期相当になります。

ここで沖縄の土器の例として私が述べているのはあくまで上記参考文献中の奄美大島の爪形文土器についてですが、縄文後期に南九州で代表的な市来式土器の影響を受けて、奄美大島の爪形文土器が成立したとされています(国分ら 1959: 49-50)。

この爪形文土器は奄美大島だけではなく、沖縄本島や宮古島などの南琉球でも出土しており、時期に大きな違いはないようです。



ということはAの遺跡・文明説を取ると、南九州の縄文人の影響を受けて土器を作り始めた人々が資源の限られた小さな島にも関わらず、僅か1000年で一気に九州の縄文人・弥生人を追い抜いて国家段階に達し、与那国島海底遺跡を建造したということになります。

そんなスゴイ人たちはその後一体どうなったのでしょう?




これも「時間=変化」の感覚です。

文化も社会も突然現れないだけではなく、突然消えませんから(´・ω・`)

ちなみに人口だけで言うと、現在の与那国島の人口は1625人( ・Д・)


↓実際の海(?)底遺跡と言えばこんなのがあります(*・ω・)ノ



↑スキューバのライセンス欲しい…って昔から思ってる( -д-)ノ


おわりに

エジプトのスフィンクスが1万年前に造られたっていう地質学研究者もいたけど(今度記事にしますね)、オカルトはさておき、超古代文明系で一応ちゃんと研究やってるのに明らかに間違った解釈を述べる研究者って、考古学との協調性がない点で共通していると思います。

いくら考古学が比較的新しい学問とは言え、これまでに地道に積み上げてきたものが一気にひっくり返ることは滅多にないですからね( -д-)ノ

アメリカ大統領のジェファーソンによる科学的な考古学調査の開始を始点にしたとしても、約250年の歴史があるわけですから!( ・Д・)


↓ジェファーソンについて紹介してます(*^・ェ・)ノ

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まぁ予定通りに与那国島海底遺跡の人工物説・遺跡説を批判してきましたが、、、

もし本当に遺跡ならそれはスゴイことなのですが、どうやら違うので、間違った情報を流すのは良くないという想いから本記事を書きました。

現代社会では情報はあっという間に飛んでいきますから、仮に与那国島海底遺跡を「超古代文明の遺構だ!」って言って持ち上げて観光客を呼び込むことも可能ですが、すぐに世界中から日本の研究者は何をやっているのかと厳しいご指摘を頂くことになるでしょう...(#`皿´) ムキーーーー!(´・ω・`)ゴメン

そんな危ないことしなくても既に観光的には、与那国島海底遺跡は「遺跡ポイント」と呼ばれていて、人気のあるダイビング・スポットになっています。

これから先、たくさん訪れるダイバー達によって重要な何かが発見されることで新たな局面を迎えるかも知れないけれど、もう十分に与那国島海底遺跡は与那国島の貴重な観光資源となっていると思います(*・ω・)ノ


・・・大きな発見で目立つのはいいけど、叩かれるのはやだね!( ・Д・)



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2021ねん 4がつ 15にち(もくよーび、くもり)

自分で研究環境を整えるのも楽しい気がしてきた(*・ω・)ノ

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arukemaya1474


今回の考古学・歴史ニュースは縄文時代のものなのに、炭化してない樹や葉っぱ、虫、鳥の羽が出てきたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は神奈川、伊勢原市の西富岡・向畑遺跡です。

上に挙げた写真が見つかった樹のひとつなんですけどどうですか?

発掘したことある人あるいは土木工事関係者なら分かると思うのですが、現在まだ生きている樹の根とか土の中からこんな感じで出てきます。

掘る時に邪魔なのでサイズによって根切りやノコで切断するわけですが、、、

まさにそれと同じ!(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

時期判定では縄文時代後期、つまりおよそ3000~4000年前の樹ということになります。

そんなに古いのに炭化せずにこの保存状態というのは奇跡ですね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

本当に生木にしか見えない(´・ω・`)


arukemaya1476


上に挙げた写真が今回の目玉の植物依存体です。

デカいです。

幹がほとんど残っていそうですねΣ(・ω・ノ)ノ

こうした炭化せずに残った古代の樹の出土事例としては本事例が国内初となります。

しかもこうした樹々が大小含めると100本ほど検出されています。

驚くべき大発見ですね( ・Д・)

上に挙げた写真の樹は大きいため、種の同定が容易でカエデであることが分かっています。

他の樹々の同定はこれからで、理化学的手法を用いたより正確な年代判定もこれからだそうです。

縄文時代の植生や環境など、新たなデータをたくさん与えてくれそうですね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



arukemaya1473


樹々や葉っぱといった植物依存体の保存状態が極めて良い遺跡ですが、当然、動物依存体の保存状態も良好です。

上に挙げた写真のように虫や、鳥の羽も検出されています。

昆虫では色彩が綺麗に残っていますね。

下に挙げた記事の中の玉虫は別ですが、通常の昆虫の色彩は色素によるものなので死後に失われるはずなのですが、、、どうなってるのだろう?( ・Д・)

羽もスゴイですよね。

その辺歩いてて見かけるような自然な残り方していますΣ(・ω・ノ)ノ

どれを見ても、私には発掘中に現地表面近くから出てくるものにしか見えない!(; ̄Д ̄)



↓上2つは古代の昆虫のお話ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ





↑最後のは古代人の『脳みそ』が見つかってるよ!ってお話( ・Д・)



おわりに

私のやりたいこととは全く方向性が異なるのですが、こういう成果も羨ましいなぁと思います。

まぁ何が見つかるかは宝くじみたいなもんだからなぁ( ・Д・)

掘ってく上で予想できるものとできないものがあるのです。

私のマヤ文明、ティカル遺跡の調査現場だと偶然に出てくるもの(狙っていくけど出るとは限らない)として、墓を当てるのが3等賞、副葬品が出てくるのが2等賞、副葬品が豪華なのが1等賞かな( -д-)ノ

私は引きがイイ方なのですが、そんな「考古学ガチャ」では去年の3等賞がこれまでのベストです。

コロナ禍に邪魔されているけども、次回の調査が今から楽しみですわ。

うん、別に発見至上主義ではないけども、、、『上手に』研究を続けていく上で大事なことだと思う・・・

やぱスゴイの見つけてニュースになりたい、博物館に展示されたい!( ・Д・)



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2021ねん 4がつ 14にち(すいよーび、雨)

当然なんだけど、無理しないで働いていると、論文も研究もその他業務もゆっくりと進んでいくね( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは最古の地図の記録が塗り替えられたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はフランス、西ブルターニュです。

上に挙げた写真が世界最古の地図が描かれた石板なのですが、思いの外、大きいのですΣ(・ω・ノ)ノ

まぁ紙にインクで描くのとは違って、石に刻むわけですから、当時の技術からしてどうしてもサイズが大きくなるのは仕方ないのかなと思います。

思い返せば、下に過去記事として挙げたペドリーナ図などの石に刻む系のモノはいずれもサイズが大きいですよね(*^・ェ・)ノ

これまでに紹介してきたように「世界地図」として最古なのはカルデア王国で造られたBCE6世紀、今からおよそ2500~2600年前のものです。

「地図」としては、これまでの最古の地図はペドリーナ図でBCE1500年、つまり今からおよそ3500年前のものでした。

今回の新たな発見はこの後者の方、つまり人類が遺した「地図」としての最古の記録が更新されたわけです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


↓まだの方は是非ヾ(´ω`=´ω`)ノ








記事タイトルに『再』発見と書きましたが、この石板は今からおよそ100年前の1900年頃に西ブルターニュの埋葬塚で発見されたものなのです。

恐らく墓の棺や石室の壁材として再利用された状況だったと考えられています。

その後、「サン・ベレクの石板」と呼ばれるこの石板はサン・ジェルマン・アン・レー城内の考古学博物館に移されて忘れ去られており、近年、地下室で再発見されたものなのです。

最初に挙げた写真で、背景が普通の博物館や収蔵庫とは異なる感じがすると思うのですが、これがお城の中の地下室だからです(*・ω・)ノ

サン・ベレクの石板は出土時点で一部破損しており、上に挙げた写真でも上部の方に表面が浮いたようなひび割れが見て取れると思います。

これは当時修復した時の接合部になります。

『慣れ』のせいか、図面の方が見やすいのですが、見当たらなかったのでこの白黒写真を載せてみました。


どうでしょうか?地図に見えます?( ・Д・)


円形っぽいラインや、角丸方形のラインの中にぽつっと「点」が打たれていて、とっても適当に描いた『細胞』みたいな図形がたくさん集合しているように見えます( -д-)ノ

これだけだと地図と言われれば、そんな気もするけれど、、、

って感じです( ・Д・)

でも地図ではなく、幾何学模様を組み合わせた文様として見ると、何だか違和感を覚えます(´・ω・`)

感覚的なものなのでしょうか、私には少なくとも文様には見えないんですよね。

まぁそこで『地図だ!』って発想が出てくるところが、「さすがこの地域の専門、スゴイぜ!」って思います(・∀・)つ



arukemaya1469


arukemaya1472
↑あ~ね、ってなる( ・Д・)(「北の国から猫と二人で想うこと」の記事内画像より転載)


さて、上に挙げた画像が論文で用いられた3Dスキャン画像と、石板の地図と実際の地図とを対比した図になります。

並べて比べてみると分かりやすいかと思います。

この研究の発表は2021年4月8日なので、本当にごく最近の話です。

カラー画像の方を見て分かるように、昔の写真とは異なって上部の中央から右側が欠損しています。

これだけ大きく重いものですし、城内博物館への移送や地下室に運んでる間などに欠損してしまったのでしょうか?( -д-)ノ

さて、地図の画像を見てみると、4枚組になっていて、左上がサン・ベレクの石板を図化したものです。

これを実際の地図に当ててみて、地図の縮尺を変えたものが残りの3枚になります。

こう見るとどうでしょう?

地図っぽく思えてきませんか?ヾ(´ω`=´ω`)ノ

人類最古の地図のような気がしてきましたね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



↓こちらは地球儀のお話(*^・ェ・)ノ




おわりに ~時期判定はいかに~

このサン・ベレクの石板は青銅器時代のもので、4000年前の遺物という時期判定がなされています。

ペドリーナ図より500年古いわけです。

土器と違って、石の時期判定なんて難しいですからね。

出土状況も、サン・ベレクの石板を石材として再利用しているわけですし、その墓より古いことは確実ですけども・・・

これが地図であることの論証は良いとして、どのようにして最古って言ってるんだろうと不思議に思います。

古ければ古いほど、500年なんて誤差の範疇になる気もするけれど( ・Д・)!?

埋蔵塚の墓の年代が初期青銅器時代の末期で、1900BCE-1640BCEとなっているので、一番古い年代である紀元前1900年より古いと考えて、4000年前ってことでしょうかね。

”正確に”サン・ベレクの石板がいつ作られたか分からないけれど、一番新しく見積もってもおよそ3600年前になるから、まぁどのみち最古にはなるのでしょう( -д-)ノ

それでも古い方に合わせて、4000年前にしたのは切りがいいからか?

世の中、インパクトだぜ!( ・Д・)



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