あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    2023年02月

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    2023ねん 2がつ 19にち(にちよーび、晴れ)

    今日はもう春!(・∀・)つ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑マヤとテオティワカンって遠い、1000km離れてる!( ・Д・)(「Google Map」の画像を一部加工)


    今回の考古学・歴史ニュースは「マヤとテオティワカンってどんな関係?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台はグアテマラ、北部ペテン県にあるティカルと、前回説明したメキシコ、メキシコシティからやや北に位置するテオティワカンです。

    両方ともメソアメリカ文化領域の遺跡ですが、ティカルはマヤ文明、テオティワカンはテオティワカン文明に帰属します。

    上に挙げた地図で分かるように両者は直線距離でも約1000kmも離れています。




    このシリーズの第1回「マヤの話」の中でも書いたように、旧大陸文明は独自に発展したというイメージが付いて回りますが、実際には様々な文明が興亡し相互に関係し合っていました。

    マヤとテオティワカンもそうした相互関係にあった事例のひとつなのです。



    ↓以前の記事はこちらヾ(´ω`=´ω`)ノ


    ↑以前の記事はこちら(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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    ↑テオティワカンのタルー・タブレロ様式建造物(あるけまや管理人撮影)


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    ↑テオティワカンの三足円筒土器(Griffith 2018の発表画像より転載)


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    マヤ文明に与えた「テオティワカンの影響」

    前回の「テオティワカンの話」のところでも少し書きましたが、、、

    テオティワカンは古代メキシコ文化のひとつですから土器や建築などの物質文化要素に独自の特徴があるわけです。

    そうしたテオティワカン的特徴をもつ遺物・遺構、つまりテオティワカン様式遺物・遺構が異文化であるマヤ地域において広く見られるようになる(出土する)現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




    この「テオティワカンの影響」の指標となる遺物・遺構の代表例は上に挙げた写真のものになります。

    つまりタルー・タブレロ様式建造物、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器です。

    (『蓋付き高台付き碗』って碗に色々付いてるなっていう長い名前なんですけど「おわりに」で少し触れますね)

    少々細かいですが他にも、メキシコ的なモチーフ、三足形態と浅スタンプ文、土器器面への単位文配置、焼成後漆喰画技法、エメラルドグリーン色塗料などけっこうたくさんのテオティワカン要素がマヤ地域で見られるようになります。



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    テオティワカン-マヤ VS 純粋なマヤ?

    では何故1000kmも離れた異文化であるテオティワカンの要素がマヤ地域に現れるのでしょうか?

    実は、マヤ地域は当時最大の都市であったテオティワカンに侵略を受けて支配されてしまった、という説があります。

    マヤ地域がテオティワカンによって支配された/されていないという両説は常にあって、振り子のようにどちらかの説が有力な時期が行き来するような状況にあります。

    現在はどちらかというと支配されていた説が強いと思っています。

    かく言う私も支配されていた説を指示しています(一部のアッパークラスの入れ替えのみであった説を唱えています)。




    この「テオティワカンの影響」について語る際に絶対に外せないのがティカルです。

    マヤ地域の一大中心地であったティカルがテオティワカンの支配を受けることで、その後『影響』がマヤ地域に広がっていくことになるのです。




    ここで碑文学成果としてサイモン・マーティンらによる著名な研究を紹介することにします。

    伝統的な学説として、マヤ地域は個別の都市国家が林立したとする説と、有力国家を中心とする広域国家であったとする説があります。

    一方で彼らの説ではマヤ地域は王の神聖性に基づく緩い統合状態であった、つまり従来の2説の中間をいく説明をしています。




    マヤ地域は元々都市国家が林立する状態でした。

    378年にテオティワカンの軍隊が遠征してきてティカルを征服し当時の王を殺害、メキシコ系の王を擁立して新王朝を打ち立てます。

    その後、ティカルを始点として周辺の首長レベル集団あるいは初期国家レベル集団に遠征し、各地に新王を擁立していきます。

    結果として新たなメキシコ系ティカル王を頂点とした王朝間の連携、ティカルを宗主国とする都市国家同盟のような連携が誕生します。

    他方で別の一大都市国家であったカラクムルも都市国家同盟のような周辺集団との連携を図り、ティカル同盟との長きにわたる対立・武力抗争を行っていくことになります。



    マヤ文明史とテオティワカンの関係は簡単に述べるとこんな感じです。

    私見ではありますが、ティカル同盟の方はテオティワカンの力を背景にしたテオティワカン-マヤのような血統集団で、カラクムル同盟の方は純粋なマヤ系集団だったのかなと考えています。

    この辺は今やってる研究のずっと後に向かい合うものなので、証明はライフワークになりそうです( -д-)ノ




    ちなみに上に挙げた土器と下に挙げた土器は、マヤ地域で出土する三足円筒土器の典型例です。

    先に挙げたテオティワカンの三足円筒土器とはなんだか違いますよね?

    マヤ地域で見られるものの方が縦長で直線的で、蓋が付いてて、蓋の取っ手部に人物などを模した造形があります。




    これはテオティワカン産とマヤ産の土器の簡単な見分け方なので、是非博物館展示の際に着目してみてください。

    ちなみにこうした『マヤ的なテオティワカン様式』の遺物・遺構がティカル周辺域には多いこと、もっと南の南部高地域などでは様相が異なり『Theテオティワカン!』の遺物・遺構が多いことを根拠に、私はマヤ地域の中でもティカル及び周辺域では土器工人を伴うようなテオティワカン系人口の大量流入はなく、王を含む支配層の一部が入れ替わったのみであると考えています。






    おわりに 『蓋付き高台付き碗』って?

    さて、最後に『蓋付き高台付き碗』という長ったらしい名前の土器について簡単に説明しますね。

    実はこれ私が付けた名前です。

    あくまで仮なんですけどね・・・




    まずは高台についてなんですけど、これは現代のお茶碗の底に付いている環状の少し高さを出すような部位の名称です。

    この高台は元々マヤ地域には見られないものだったのです。

    テオティワカンの方にはあって、それがマヤ地域にもたらされたと考えられています。




    ちなみにオリジナルであるテオティワカンの方の高台は高く、マヤ地域のものは低い傾向にあります。

    それでおおよその見分けが付くので『古代メキシコ展』で両者の土器を見た際には着目してみてください。



    あと、「碗」って表現してますが、これも実は微妙なのです。

    マヤ地域の研究での一般的な形式分類で「浅皿(plate)」「深皿(dish)」「碗(bowl)」というのがあります。

    口径と器高の比率で機械的に分けているものです。

    テオティワカンの高台付き”土器”は深皿形のものですが、マヤ地域の高台付き”土器”は深皿形が多数派としつつ碗形もあるのです。




    それなら「深皿」と呼べよ!って思うかもしれませんが、、、

    この時期のマヤの”高台が付きそうな形状の土器”は鍔付き(flange;また『付き』が出てきた)である事例が含まれ、時期の変遷を見る上でこの鍔の位置が重要なのです。

    ちなみに位置はどんどん下がっていきます。

    鍔の位置に着目すると「テオティワカンの影響」の時期は碗が主流で、次時期に深皿形に変わっていきます。

    なのでこの時期は『碗の方が都合がいい』のです( -д-)ノ




    さあ最後に「蓋付き」ですが、、、

    実は蓋付き&高台付き碗はマヤ地域でしか出土しません。

    テオティワカンの高台付き碗(本当は深皿形で正式な名称は薄手オレンジ色土器)は蓋を伴わないのです。




    つまりマヤの人々としては土器に『土製の蓋があること』が『異文化っぽい / 異国情緒感じる』ということだったのか、オリジナルを知らないのか、分かりませんが、、、

    古典期前期後半(CE350-550)の時期はマヤ人は蓋付けたがりだったのです( -д-)ノ




    こういった状況があって、長ったらしい例のあの名前、「蓋付き高台付き碗」という名前を当てていました。

    この土器群には先ほど出てきた「鍔付き」のものとそうでないものがあるということになります。




    部位に着目すると地域性や時期の指標になるので面白いですし、展示資料を見てて見方も変わると思うので是非試してみてくださいね!



    そう言えば展示会も楽しみだけど、、、

    インディジョーンズ新作6月末公開!( ・Д・)



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    2023ねん 2がつ 14にち(かよーび、晴れ)

    お酒絶ってもたくさん食べたら太る!( ・Д・)

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    ↑月のピラミッド、右端にタルー・タブレロ建築が見える、、、ように撮った!( ・Д・)(あるけまや管理人撮影)


    今回の考古学・歴史ニュースはテオティワカンって何?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    前回はマヤ文明史概観と言っておきながら、ほんとにさらっと流して、ガチ勢向けの部分的な細かい説明をしてしまいました( -д-)ノ

    まぁというのも、次回の「マヤとテオティワカンの関係」について書く際に、どうしてもマヤ文明史を見直す必要があるからなのです。



    と言い訳をしつつ、今回はテオティワカンの話!

    でもまずは「クイクルコ」から始めましょうヾ(´ω`=´ω`)ノ








    クイクルコって何?

    さて、まずは「クイクルコ」です。

    これは遺跡名です。

    当サイトに初めて来訪される方もいるかと思い、分かりやすい図を上に用意しました。




    一般の方と話してるとメキシコの位置が分からない人が多いので、まぁこれならわかるでしょう!

    北米と南米の間の細いとこら辺で、アメリカ合衆国の南にあるやつです!

    上の2枚の図にあるポイントの位置は両方ともクイクルコの位置です。




    2枚目の地図を見て分かるように、クイクルコ遺跡はメキシコシティの中にあります。

    南の外れですし、さして見栄えも良くないので(アステカの首都テノチティトランやテオティワカン遺跡に比べたらそりゃあそう(/TДT)/)、観光客はほとんどいません。

    古代遺跡を観光名所として、外貨獲得源としてメキシコ政府は多額のお金を投資しているのですが、そんな中にありながらクイクルコ遺跡は全然力が入っておらず、博物館内の説明文も印刷された「紙」の状況でした(2014年時;下の写真参照)。




    まぁそれはさておき、遺跡の位置関係を整理すると、メキシコシティの南部にクイクルコ遺跡があって、メキシコシティの北東部にテオティワカン遺跡があって、更に北にいくとパチューカ山地があります。

    パチューカについては後からテオティワカンの話の際に出てくるので気に留めておいてくださいな(*・ω・)ノ




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    ↑手作り感いっぱいの普通紙に印刷された説明文(あるけまや管理人撮影)




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    ↑クイクルコ遺跡にある円形ピラミッド(あるけまや管理人撮影)



    なんでこんな撮り方したのか大いに謎ですが、ピラミッドの基壇が円形であることが分かるかと思います( ・Д・)

    (たぶん他の観光客が来る前に慌てて撮ったからパノラマじゃないのかと思われ……)


    こうした円形基壇のピラミッドは古代メキシコ文化にはよく見られます。

    後古典期(CE1000-1500)に特によくあるのです。




    さて、なんでクイクルコ遺跡の話をしているかというとテオティワカンの前身という説があるからなのです。

    クイクルコ遺跡は先古典期遺跡で、BCE800年頃に居住が開始されます。

    BCE150-CE1頃に最盛期を迎え、人口は2万人と推定されており、当時のテオティワカンよりも大きな重要都市だったのです。




    しかしながらCE70年頃にポポカテペトル山、CE150年頃にチチナウツィン山、CE275年頃にシトレ火山が噴火し、クイクルコは連続で被害を受けました。

    特に最後のシトレ火山の噴火の際には5~8mの溶岩がクイクルコに大量に流れ込んだために放棄されてしまったのです。



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    ↑クイクルコに流れ込んだ溶岩の痕跡(あるけまや管理人撮影)



    上に挙げた写真のようにクイクルコに流れ込んだ大量の溶岩は都市中心部(遺跡中心部)を完全に覆い尽くしています。

    壁に見えるものが溶岩が固まったもので、手前の歩道になっている面が発掘によって姿を現した当時の文化面(生活面)です。




    この先古典期に一大都市であったクイクルコが度重なる噴火によって衰退したために、噴火の影響がより少ない立地にあったテオティワカンなどの別の遺跡が急成長しました。

    そのためクイクルコの放棄に伴って大人口がテオティワカンに移動したのではないかという説があるのです。



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    ↑テオティワカン中心部の測量図(Morton et al. 2012: Figure 1より転載)



    テオティワカンって何?


    テオティワカンはBCE200年頃から居住が始まっており、CE1年頃に都市として成立しました。

    その後、上図の赤い部分の真ん中にある上下に走る直線部、「死者の大通り」が建設され、周辺部も整備されていきます。

    最も人口が増えたのはクイクルコがシトレ火山の噴火で衰退した後のCE300年以降と考えられています。




    一気に人口が増加したので、上図のような非常に計画的な都市建設が一気に行われたのかなとも思えます。

    一方で気になるのは、クイクルコは円形基壇の神殿を造っていたわけですが、テオティワカンの建造物は上図のプランを見ての通り、方形基壇です。

    大量の人口移動はあったものの、主導権はあくまで元からテオティワカンにいた集団だったということなのでしょうか?


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    ↑タルー・タブレロ建築の構造(今泉 2019: 図3-4-1より転載)



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    ↑実際のタルー・タブレロ構造(あるけまや管理人撮影)


    テオティワカンの最盛期はCE200-550年頃であり、人口は10~20万人と推定されています。

    この最盛期にはメソアメリカ最大の都市として広く周辺地域へ強い影響を与えており、それにはマヤ地域も含まれるのです。

    他文化地域にテオティワカンに由来する遺物や図像モチーフ等が現れる現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




    「テオティワカンの影響」によりマヤ地域で見られる特殊なテオティワカン様式の遺物・遺構には、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器(香炉)を代表として、他に石碑や祭壇、土器、壁画などの様々な図像モチーフにテオティワカン様式の図像が出現します。

    建造物装飾としてはタルー・タブレロ様式が有名です。

    これは上の図・写真に挙げたようにタルー(斜壁)とタブレロ(方形壁)を交互に組み合わせた基壇装飾です。

    「テオティワカンの影響」に関しては長くなるので次回の「マヤとテオティワカンの関係」の際に触れたいと思います。



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    ↑ケツァルコアトルの神殿から見た太陽・月のピラミッド(あるけまや管理人撮影)


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    ↑ケツァルコアトルの神殿の基壇装飾に見られるケツァルコアトルとトラロック(あるけまや管理人撮影)


    メソアメリカにおいて広域に影響を及ぼした大国テオティワカンは7世紀頃に急激に衰退し、放棄されてしまいます。

    滅亡理由はマヤ地域と同様で複数の候補があり、恐らく複合的と考えられています。

    つまり、よーわからんってことです( -д-)ノ




    大干ばつ、森林伐採による環境破壊、宗教対立、異民族の侵入・・・と内容は古典期マヤと大差ありません。

    メシカ人(アステカの人々)が12世紀にこの地を訪れた時にはテオティワカンは無人の廃墟でした。

    しかし多数の美しい建造物が立ち並ぶ姿を見て、ナワトル語で「神々の都市」、つまりテオティワカンと名付けたのです。



    メソアメリカには多数の文化・文明が勃興していますが、体系的な文字を使用し現在にまで残ったのはマヤ文字だけです。

    なのでテオティワカン人に関する文字記録(文字状記録を除く)は存在せず、彼らが使用していた言語も推定はされていますがはっきりとは分かっていません。




    所謂旧大陸の諸文明、ヨーロッパに代表されるそれらの事例では、大体どれもが戦争で滅びて、同じ土地が次の文明・国家の支配領域になります。

    でもメソアメリカでは放棄されがちですね。

    亜熱帯や乾燥気候だと、森林破壊+干ばつによる地力の弱体化があまりに著しくそう簡単には回復せず、放棄せざるを得ないのかも知れませんね( ・Д・)

    この辺も新大陸文明の発達の遅れと接触時の新大陸文明の勝利・支配の要因のひとつなのだと思います。



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    ↑テオティワカン遺跡の中(?)にある地下&洞窟内レストラン(あるけまや管理人撮影)




    おわりに

    上に挙げたのはレストランの写真です。

    メキシコ的な原色カラフルな椅子が可愛いですよね。




    テオティワカンは乾燥しつつ暑いなって感じです。

    遺跡公園自体が広大ですし、ティカルのようなジャングルと違って巨大だけど背の低いサボテンくらいしかないので日陰がないのです。

    だからとても暑い!




    このレストランは地下洞窟内部に造られているので涼しくて快適です。

    雰囲気も素敵!

    ただお高いです。




    ちなみに私はここで「アリの卵」と「イモムシの素揚げ」を食べました。

    それぞれ100米ドル近くした気がする。

    たぶん一人で食べるようじゃないので無駄に量が多くて辛かったです。

    後半はビールで流し込みました(笑)




    ちょっとアクセスしづらいけれど、メソアメリカの古代文明を感じる上ではとてもいいところですので、是非機会があれば行ってみてください。

    その際は少し足を延ばしてティカルへもどうぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



    何はともあれ、

    気付けば長くなった!( ・Д・)



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    2023ねん 2がつ 12にち(にちよーび、晴れ)

    もう暖かだ、春!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは70年ぶり?マヤ展やるらしいから概説するね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、東京国立博物館で古代メキシコ展が開催されるそうで、今回から連続で「マヤ文明の話」、「テオティワカンの話」、「マヤとテオティワカンの関係」について概観していこうと思います。

    私は例によって回し者ではございませんので悪しからず( -д-)ノ



    さて、今回の特別展は大阪の国立国際美術館でも開催されるそうで、国内をいくつか周るようです。

    大阪は2024年開催と書いていたので、今年(2023年)から2年くらいかけてグルグルめぐるのかな~と思ってます。

    私は詳しく調べておりませんので、是非公式サイト等の情報をご覧になってください。


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    ↑メソアメリカにおける主要諸文明・遺跡の空間・時間的分布の(今泉 2019より転載)


    マヤ文明史概観(?)


    古代マヤ文明と言えば、最近日本語のでの概説書や一般書が増えてきているのでその歴史展開について知る機会も増えてきたかと思います。

    メソアメリカ史の変遷は石期(上表にはない)・古期・先古典期・古典期・後古典期・植民地期・独立期/現代(上表にはない)の大まかな7区分が広く用いられています。




    考古学は物質文化を扱うのでモノさえあれば古代から現代まで全ての時期が射程となりますが、有名どこはやはり先古典期中期から古典期を経て後古典期の終わりまでの2500年間です。

    古代マヤ文明には例の有名なマヤ文字があるのですが、そこから得られる情報はあまりに限定的です。

    なので皆さんが古代エジプトや古代ローマ、日本の古代に関する歴史関係の書籍などを学んで得たイメージとは大きく異なります。

    ピラミッド建造に携わった人が二日酔いを理由に欠勤した、なんて具体的に分かるような世界と比べてしまうと、マヤ文明なんてほとんどよく分かっていないじゃんと感じてしまうのは仕方ないことなのです。

    だからこそ、先古典期から後古典期はマヤ文字があるものの、考古学が”強い”時期であり、対象として主流となる時期なのです。




    さて、マヤ文明史概観の話に戻すと、概説書等では先古典期から後古典期までの文化的変遷について記述されることが一般的です。

    その中では特に「マヤ文明は独特な素晴らしい文化を有する」ことが自然と記述されていると思います。

    こうしたマヤ文明を特別視する見方は1990年代以降にマヤ考古学史の中で刷新されているはずなのですが、自分の扱う対象を持ち上げる”質(たち)”は今も昔も変わっていないようです。

    だって人間だもの・・・




    上表を見ると分かるようにメソアメリカ地域にはマヤやテオティワカンの他にオルメカやサポテカなど様々な文化・文明があって、同時期に存在している事例も多々あるのです。

    何かと所謂新大陸文明は旧大陸文明と接触を持たずに独自に発展したというイメージがあると思いますし(そうしている学者がいるから)、新大陸文明の代表としてマヤ文明を用いるから(そうしている研究者の主対象だから)、、、

    結局、一般のイメージとして「マヤ文明=独自に発展した文明」を持つようになってしまっているという構造があると個人的には感じています。




    でも違います。

    メソアメリカには多数の文化・文明があって、その多くが同時併存していて相互に影響し合う関係にあったのです。

    つまりマヤ文明はそうした数多ある文化・文明のひとつに過ぎず、様々な相互関係の中、たまたま特に古典期に大きく華開いた文明なのです。


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    もう一つよくある誤解が、マヤ文明が滅んだって話に関してです。



    先古典期にマヤ文化は国家形成期として人口が増え、階層化が起き、頑張ってピラミッドなどのモニュメントを造り始めます。

    古典期には複雑なマヤ文字を使用して長期暦を含む石碑を建立し、ピラミッドや宮殿などの石造りの見事な特殊建造物をたくさん建てました。

    古典期の終わりには大干ばつや戦争が原因でマヤ文明は崩壊しました、、、




    ここまでが ”よくあるマヤ文明の概説” です。

    実際に古典期マヤの中心地であったティカル遺跡などがあるペテン地域は後古典期には空白地帯になってしまいます。

    文明としては崩壊しましたが、人が完全にゼロになったわけではなく、細々と暮らし続けていました。

    なので古代マヤ人が全滅したわけではありません。




    むしろペテン地域(ユカタン半島の真ん中ぐらいの位置)にいた人々は南北に移動したと考えられています。

    そのため後古典期にユカタンの中間部は空白っぽくなりますが、中心地が南北に移動するだけで存続はしているのです。

    現代マヤ人がいるのもそのためで、やはり全滅したり、文明が完全に失われたわけではないという点が重要です。

    様々な形で南北端の地域の後古典期文化に崩壊してしまった古典期文化が引き継がれているのです。




    ↑参考程度に…もうちょっと時間をかけたいとは思ってはいるが( -д-)ノ




    おわりに

    結局マヤ文明史の流れについてはすごいはしょりながら、皆さんが誤ってイメージしがちな部分を修正してみた形になってしまいました・・・

    次回は「テオティワカンの話」となりますが、最後の「マヤとテオティワカンの関係」について説明する際に、今回話したような、マヤ文明が決して単独で『鎖国的』に成立・発展した文明ではないことが分かってもらえるのではないかなと思っています。



    何はともあれ、

    特別展いいね!( ・Д・)



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    春よ、来い!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは考古学ではお宝発見してもお金にならんよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    まぁそう書いちゃうと夢もないのですが、、、今回はイギリスの話だからちょっと夢あります!

    ってことで、今回の舞台はイギリス北西部、カンブリア州のカーライルにある遺跡です。

    遺跡名がちょっとよく分からないのですが、ハドリアヌスの長城の傍でカーライルの中にあるようです。




    今回のお話は、古代ローマの浴場を発掘調査していたところ、排水溝から宝石が30個近く見つかった!ってことなんです。






    宝石といっても半貴石です。

    一般的に宝石というと貴石を指しますが、アメジストとかトルコ石などは希少性がさほど高くない、つまりたくさん量が取れるものなので宝石としての価値が低くなってしまい、こうしたレア度の低い宝石類を半貴石と呼んでいます。




    今回見つかった物はこの半貴石なのですが、インタリオといって沈み彫りの装飾を伴うものなのです。

    ちなみに浮彫だとカメオと呼ばれます。

    古代のインタリオを有した品は半貴石であっても価値は高いのです。




    アンティーク好きはどこにもいるもので、このインタリオはオークションでは100万円~500万円の値が付くそうです。

    今回は30個くらい見つかっているので、3000万円~1.5億円くらいの価値があるって概算できるのです。

    ただ今回の発見者は考古学者だから売れないでしょうね( ・Д・)




    ↑イギリスはトレジャーハンターの国!他にも記事あるから「お宝」で検索してね!



    上の記事に書いたようにイギリスでは見つかったお宝を博物館が買い取るシステムがあります。

    基本的には金銀で出来たものですが、夢はありますよね。

    このシステムは貴重な文化財が闇市に流れないようにするためのものなので、歴史的に貴重なものであれば金銀でなくとも買い取りはあり得ます。





    この半貴石のインタリオは本来指輪に付いていたものです。

    粘土板などにグイッと押し当てて使用していました。

    世界的にはインダス文明の印章のイメージで合ってますが、我々日本人にとってはハンコ文化が現在でも根強いのでスッと理解できますね。



    指輪の金属部分と嵌め込む石部分(インタリオ部分)は植物由来の接着剤でくっつけていました。

    しかし指輪を付けたまま浴場に入るせいで、蒸気にやられて石の部分が台座から離れてしまうことが多かったようです。

    結果として浴場のお湯・水に押し流され、排水溝に溜まってしまったのです。




    当時の浴場の清掃とかはどうなっていたのか気になりますが、、、

    ・・・古代ローマの浴場見つけて、排水溝で宝石探しするのイイかもね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!









    おわりに

    上の画像は今回のポイントとは異なるものですが、古代ローマの遺跡の発見記事って大体こんな写真です。

    綺麗に残ってるな~って印象のモザイクが特徴です。




    まぁ上の写真だと、よくこんな狭いトレンチ切ってるなぁと思いますけども。

    たぶん文献史料を駆使してピンポイントで古代ローマ期の遺構を狙ってるんでしょうね。




    古代ローマ人は碌に清掃してなかったみたいなのに、上の写真の人のように現代人がピカピカにしているのは感慨深い・・・

    分かった、見つけた遺物を買い取ってくれとは言わない!


    せめて清掃費くれ!( ・Д・)



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    2022ねん 2がつ 2にち(もくよーび、曇り)

    めちゃ眠い!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の(考古学・歴史)ニュースは年末がオートでピークだったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ

    まぁとりあえずこのグラフ見てくださいよ。



    2023年1月の下がり
    図1.年末年始がピークなグラフ




    特別何も記事書いてないからね~。

    やっぱ時間ある時はみんな見てくれてるんだな~って感じです。

    多少は期待に応えねばとほんとそう思いつつも、なんだかんがやっぱり忙殺される日々を過ごしておりまする( -д-)ノ


    ってことで、とりあえず定期報告として表を提示していきますね!



    2023年1月まで表

    表1.2023年1月までの各属性の変化



    あれ、なんだかんだ6年目に突入なのね。

    かれこれ5年くらいかなと思ってたけども不定期ながらも細々と続いてるもんですね(*^・ェ・)ノ



    今年は戦争等の影響もあって海外調査を遠隔でやってるんですけども、その分時間があるので論文書いたり、たまったこれまでの報告書を英訳したりとしているんですが、

    せっかく時間があるのだから記事もYouTubeも少しずつやりたいなと、これまでとは異なる異次元の検討を加速させております( ・Д・)




    悪ふざけもほどほどに、グラフ表示で見てみると、、、



    2023年1月までグラフ

    図2.2023年1月までの各属性の変化



    皆さんのおかげで低い位置で安定するようになってもうだいぶ時間が経ちますが、、、

    UU数はツイッターとかの宣伝のおかげなのか微妙に僅かな増加傾向を感じますが、PV数とか収益は変化が少なく、まぁどう考えても低迷し続ける記事の本数のせいなのですよね( ・Д・)



    時間かかるから記事とYouTubeの連携が出来ればいいのかなと思いもするのですが、どうしようかな・・・

    まぁひとまずは研究続けて、自己のマヤ研究や国内研究の紹介もしつつ、ほんのすこ~しだけ頑張ってみますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!






    ↑こちらもちゃっかり宣伝。。。今はズブの素人だけど、たくさんやってれば上手になるかな?( ・Д・)



    おわりに

    そう言えば今年は「メキシコ展」ってことで「マヤ・アステカ・テオティワカン」をやるらしいですね。

    なんか調べたら来年だと思ってたんだけど今年でした。

    特別書くこともないのだけど、記事にしようかな・・・




    あ、全然更新してないし、調査記録を無編集であげてるだけなのに、YouTubeの登録者数増えてきました。

    不思議なものですね(*^・ェ・)ノ

    記事と同じで、一度気合入れて作って、ホームラン打たなきゃだめかなって気がしてきました。

    今抱えてる助成金関係の仕事終えたらやりますわ!

    いや、ほんと日本の研究者って年中ず~っと申請書書いてる気がする( ・Д・)




    あと……ふと思ったんだけど、、、


    寒いと眠くなるけど暖かくても眠いよね!( ・Д・)



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