あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    2025年11月

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    2025ねん 11がつ 16にち(にちよーび、晴れ)

    締切明日だが間に合わん気持ちでいっぱい!( ・Д・)

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    今回の考古学・歴史ニュースはあ~モーセの開いた海の道みたいなもんね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    エーゲ海──今では美しい島々と青い波が広がる観光地として知られていますが、数万年前にはかつて陸続きだった場所があった、という驚きの研究成果が報じられました。西トルコ、アイワルク(Ayvalık)の海岸線沿いで、考古学者たちは 138点もの旧石器時代の石器 を発見。これらはかつて海面が低かった氷河期に、アナトリア(現在のトルコ)とヨーロッパ本土をつなぐ陸橋が存在したことを示すものです。もしこの発見が描く通りであれば、人類がヨーロッパ大陸に拡散したルートの通説を大きく書き換える可能性があります。




    🔍 氷河期に現れた、もう一つの人類の道

    氷河期には地球規模で水が凍結し、海水面が現在よりも 100 m以上も低かった と推定されています。その頃、現在は島や半島として点在しているアイワルク周辺の地形は、連続した陸地を形成し、人の移動を可能にしていたのです。この「陸橋仮説」は、アイワルクの新しい調査によって裏付けられつつあります。



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    ↑これがどこなのか全然分らん地図も珍しい、元論文見ても分らんかた!( ・Д・)

    (Mazza et al. 2013: Fif.2より転載)

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    ↑とりあえずエーゲ海はここ!( ・Д・)

    (「Google Map」の画像より一部加工)


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    ↑右側がトルコで左側がギリシャでヨーロッパなんだけど、エーゲ海の中で一番距離が短くて島が今でもあるのはこの辺りでない!?( ・Д・)

    (「Google Map」の画像より一部加工)



    🗿 海岸線で発見された、旧石器の証拠

    考古学チームはアイワルクの 10か所 にわたる調査地点で、138点の石器を収集しました。
    出土した道具の内訳は以下のように多様です:

    • ルヴァロワ(Levallois)方式 のナイフ状の破片 — 中石器〜旧石器時代で高度な技術を示唆。

    • ハンドアックス(手斧)クリーバー(割る道具) などの大型石器。

    • 原材料として 燧石(フリント)カルセドニー (玉髄)を利用した石器が含まれ、地元資源の活用も示唆される。

    これらの道具は、ネアンデルタール人やホモ・サピエンスの活動と結び付けられる典型的な旧石器遺物であり、単なる通過点というより 居住や長期利用の痕跡 を示す可能性があります。



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    ↑海の中、調べてるわけじゃないのね。このレキ群の中から拾うのね!( ・Д・)
    (「Popular Science」の記事内画像より転載;Credit: Kadriye, Göknur, and Hande)



    🌐 新たな人類拡散モデルへの挑戦

    従来、ヨーロッパへの人類進出は、バルカン半島やレヴァント(中東)経由が中心的なルートと考えられてきました。しかしこのアイワルク陸橋仮説が正しければ、 エーゲ海を横断する別ルート が古代から機能していた可能性が出てきます。研究者たちは、単なる移動経路ではなく「技術と文化の交差点」として、この地域の重要性を指摘しています。




    🌿 地形の復元と生活の場としての陸橋

    古地理学的解析によれば、かつてのアイワルク地域は島々ではなく 内部陸地をもつ大きな平原 だった可能性があります。これは単なる通過地ではなく、 定住や道具づくりが行われた「暮らしの場」 であった可能性を示唆しており、研究チームはこの場所を移動経路以上の意味を持つ「ハビタット(生息地)」とみなしています。さらに、原材料の採集地点と道具製作地点の地理的な関係から、石器技術がローカルな資源を反映していたことも読み取れます。




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    ↑この石材は割り方が分かり易いね!( ・Д・)

    (Karahan et al. 2025より転載)




    👩‍🔬 女性研究者チームとその情熱

    この発見を主導した調査チームは 完全女性メンバー という点でも注目を浴びています。Hacettepe大学の Göknur Karahan 博士らは、アイワルク地域の未踏性に挑み、小さな海岸沿いの草地や池などを丹念に調べました。彼女たちは発見した石器を手にした瞬間を「感動的で忘れられない」と語っており、これまで見過ごされてきた古代世界の扉を開いた喜びが伝わってきます。




    📈 今後の考古学・地質学へのインパクト

    • 人類史の教科書を書き換える可能性:これまで主流だった移動モデルとは異なるルートが、学術議論を再構築するターニングポイントとなりうる。

    • 水没地形の再評価:今後、沈んだ沿岸地形に対する地形復元や海底考古学の重要性がより認識される。

    • 技術伝播の新視点:レヴァロワ石器が示す技術共有や地域間交流の経路について、新たな比較研究が期待される。

    • 多分野協働のモデル:考古学・地質学・古地理学が融合するパイオニア的な研究アプローチとして注目される。



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    ↑こう見ると島近いんだよな、いったいどこなんだ!( ・Д・)
    (「Popular Science」の記事内画像より転載;Credit: Kadriye, Göknur, and Hande)

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    ↑地域名で調べたらまさかのここ?( ・Д・)

    (「Google Map」の画像より一部加工)



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    ↑いやそりゃ隣のレスボス島までは近いけども・・・!( ・Д・)

    (「Google Map」の画像より一部加工)





    おわりに

    今回の発見は面白いんだけど、タイトルからしてまた水中考古学かぁ。流行ってるなぁと思ったけど、全員女性メンバーだから水着かぁとか思ったけど、海の中調べたわけじゃないみたいですね。そして場所が全然分からなくて、あんなに不親切な図面久々に見たわ。1970年代の図面を修正したらしいんだけど、全体図入れないのね。きっとトルコやヨーロッパの人々にとっては当たり前の図面なんだろうな。

    で、最後に調べた地図を上に載せたけども、、、どこに陸橋あったのだろう。広大な平野だった可能性もあるって言ってるから、確かにこのアイワクから直線的にギリシャを繋ごうとするとエーゲ海ほとんど陸地になる気がするよね。それはもう橋じゃないよ!考古学者なんだから橋の定義を考えろよ!記事用で注目集めるための言葉選びなんだろうけどさ!( ・Д・)





    何はともあれ、、、

    そういえばロシアから北海道まで泳いで逃げてきた人いたね!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 15にち(どよーび、晴れ)

    頑張って2日で論文書いてる!( ・Д・)

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    ↑たまたま原体踏んだまま焼いちゃったんだろうね( ・Д・)
    (「石岡市定例記者会見」用のPDFの画像より転載)




    今回の考古学・歴史ニュースはあ~原体の痕跡ね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    白久台(しらくだい)遺跡から、考古学界をざわめかせる発見がありました。縄文時代中期(およそ5,000年前)と推定される土器の破片、その底に残されたわずかな凹み──しかしその痕は、ただの傷ではありません。研究チームはそれを「縄文原体(じょうもんげんたい)」、つまり土器の文様をつけるために実際に使われた縄の形跡だと断定しました。


    これが何を意味するかというと、人類学・考古学ファンだけでなく、縄文文化のロマンを追うすべての人にとって大きな意味を持つのです。なぜなら、土器に縄目模様をつける技術は縄文文化を象徴する特徴のひとつですが、実際にどんな縄が使われていたかを示す物理的な証拠は非常に希少です。今回の発見は国内でわずか3例目であり、しかも加曽利貝塚(千葉市)より古い可能性が指摘されていて、「国内最古」の縄文原体の証跡となる可能性が高いのです。




    🧭 白久台遺跡とは?

    茨城県石岡市所在の白久台遺跡は、縄文時代の集落として報告されており、小さな土坑や縄文土器などが出土しています。2025年2月の定例記者会見で、市教育委員会などの共同調査グループが、土器片から縄の圧痕(痕跡)を確認したことを発表しました。




    🔍 “縄文原体” 圧痕の発見 — その中身

    • 圧痕は長さ約 50ミリ、幅 3ミリ

    • 推定年代は縄文中期、約 5,000年前

    • これが意味するのは、土器の底面に、縄を転がして文様を付ける際に使われた「縄」の物理的な痕跡。

    • 実際の縄(縄文原体)は発見されていないケースが多く、その圧痕だけを頼りに縄の形を復元するレプリカ調査が行われています。

    • 圧痕はこれまで国内で 3例目

    • 研究グループはこれを、加曽利貝塚(千葉)での同様の痕跡より古い可能性があるとみています。



    🧶 技術の復元とその意義

    この発見を受けて、考古・文化財研究の現場では再現実験が始まっています。記者会見資料や学会発表では、圧痕から型を取り、樹脂を使って縄を復元。また、将来的にはその縄文原体を使って、実際に縄で模様付けした土器を再現するプロジェクトも視野に入れられています。


    このアプローチは、単なる「痕跡」の確認を超えて、縄文時代の土器製作技術や生活空間、道具の使われ方をよりリアルに理解するための強力な手がかりになります。




    🌍 縄文の文様技法をめぐって — ほかの事例との比較

    • 同じ石岡市の東大橋原遺跡からは、土器底部に敷物や編組(あみくみ)の圧痕が見つかっており、地域特有の編み技術が推定されてきました。

    • 学際研究では、縄目・網代・編組といった装飾技術を通して、地域間の技術伝播や衣食住のスタイルの違いを探る動きもあるようです。

    • また、縄文文化全体を俯瞰すると、縄目模様の土器は日本列島ほぼ全域で見られ、縄文時代の土器文化を象徴する技法となっています。


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    ↑原体の復元もあるね~( ・Д・)
    (「茨城新聞クロスアイ」の記事内画像より転載)



    おわりに

    縄文原体って考古学の実習で作ったな~って想い出がありますね。記事の性質上、今回の発見も大事って書きましたけども、確かに大事には大事。でももう遥か昔の研究でたくさん実験的に作られて製作過程復元されてるから、そういう意味では大きな意義は内かなって思います。特にね、実際に原体作って縄文土器の実寸復元作ったこともありますが、あれって短いとけっこう大変なんだよね。

    かといって、長い原体作るのも大変なのさ。元々の紐がめちゃくちゃ長くないといけないからさ。まぁ折り返して作らないで紐を複数用意すればいいんだろうけども。でも長くつくると今度は回転させてる時に手で押せてない部分がぶんぶん暴れて器面に変な圧痕残したりするし困ったさんなんだよね。そう思うと原体って大体どれくらいの長さだったんだろうな~って個人的には思います。その意味で今回の発見は一部しか分からないから全体の長さは分からないよね。やっぱ完形で出てくれないとだめなのかな。


    何はともあれ、、、

    レプリカ法流行ってるね!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 14にち(きんよーび、晴れ)

    原稿2本、締め切りなまらやばい!( ・Д・)

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    ↑こんな感じだった?( ・Д・)
    (「Durham University」の画像より転載)




    今回の考古学・歴史ニュースはネアンデルタール人が分かっても私は芸術がよくわからん!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは、「あるけまや」風に、少し長めでワクワクする導入からお届けします。私たち人類の旧友であるネアンデルタール人。「原始的」「野性」「文化はなかった」――そう思われてきた彼らですが、最近の考古学的発見がそのイメージを大きく塗り替えつつあります。洞窟の壁に手形や幾何学模様を残し、骨に意図的な刻みを入れ、赤いオーカー(顔料)で線を描いた――そんな“創造活動”の痕跡が、実はネアンデルタール人自身の手によるものだった可能性が高まっています。


    「象徴」「芸術」「創造」という言葉は、長らくホモ・サピエンスだけの特権と思われてきました。しかし、もしネアンデルタール人も“芸術的存在”だったとしたら?それは、人間とは何か、文化とは何かを根底から問い直す出来事です。では、最新の研究と鮮やかな発見をもとに、ネアンデルタール人の“創造の世界”を一緒に探ってみましょう。





    🖼️ 洞窟壁画と手形:64,000年前の記号とあかし

    スペイン北部のラ・パシエガ洞窟(La Pasiega洞窟)やマルトラビエソ洞窟、アルダレス洞窟などでは、「赤い手形」「梯子状の模様」「指で引いた曲線」が約64,000年以上前の層で確認されており、科学的年代測定からそれが現代人到来前のもの、すなわちネアンデルタール人の活動圏に属する可能性が強く指摘されています。 


    特に、手形はただ押された跡ではなく、壁に沿ってきれいに配置され、顔料がその上に結晶化しており、意図的な記号行為だったことが示唆されています。このような“壁面を使った表現”は、「象徴的行為」「空間の意味化」「他者と共有するメッセージ」の可能性を含んでおり、ネアンデルタール人に「創造・芸術・共有」という人間的特徴があった可能性を浮かび上がらせます。



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    ↑これがオーカー!( ・Д・)
    (Straffon and Tennie 2025より転載)


    🏺 刻まれた骨とオーカー:創造活動の“素材”痕跡

    創造=絵を描くことだけではありません。ネアンデルタール人による象徴的・装飾的行為として、次のような発見も報じられています。例えば、ドイツ・ハルツ山脈近くのEinhornhöhle洞窟では、約51,000年前とされる巨大鹿の骨に意図的な彫り込み模様が入っており、これがネアンデルタール人による芸術的表現と評価されています。 


    また最近発表された研究では、クリミアおよびウクライナの遺跡から、赤・黄のオーカー(顔料)を「クレヨン」的に使った可能性がある石片が出土しています。先端が研がれていた痕跡などから、「線を描く・記号を刻む」という創造行為と解釈されるのです。これらは、「ネアンデルタール人は工具と顔料を使っていた」「単に機能的ではなく意味を付与しうる行為をしていた」という側面を支える証拠です。




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    ↑これ骨!( ・Д・)
    (「Live Science Plus」の画像より転載; d'Errico et al., Sci. Adv. 11, eadx4722



    🧬 脳と創造力:ネアンデルタール人も“アートのための思考”を持っていた?

    創造的な行為には、技術・素材・思考・社会という複数の要素が絡み合います。研究によれば、ネアンデルタール人は次の要素を備えていた可能性があります。

    • 顔料・顔料加工・線描・記号化:上記のオーカー・手形・図形痕跡がその基盤です。

    • 構造的な社会・交流・模倣:たとえば、洞窟深部にまで赴いて壁面を使うという行動は、共同体・儀礼・知識伝達の要素を含みます。

    • 象徴を作る・象徴を共有する能力:刻まれた記号や図形は、それ自体が“意味”を持たされていたと解釈される研究があります。 

    これらを総合すると、ネアンデルタール人に「アートを創るための思考・意味づけ・共有」という人類的営みがあった可能性が出てきます。もちろん「われわれが描くような絵画・写実」というレベルではないかもしれませんが、「象徴する」「意味を与える」「技術を使う」という点で、非常に人間的な創造力があったことは明らかです。

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    ↑ネアンデルタール人の物質文化って色々あるもんだね。下の画像は貝に穴を開けたビーズ状のもの、ネックレスになるのかな!( ・Д・)
    (Straffon and Tennie 2025より転載)


    🌍 人間性再考:ホモ・サピエンスだけが“芸術する種”ではない

    この発見が持つ社会的・文化的インパクトは大きいです。

    • 「芸術・創造性=ホモ・サピエンスの特権」という図式が揺らぎます。ネアンデルタール人にも創造・表現・意味付けという能力があったというなら、人類が“唯一の創造者”ではなく、複数の人類系統が文化的営みをしてきたことになります。

    • 考古学・文化史・人類史において、「道具と狩猟だけ」のネアンデルタール像から、「創造・装飾・象徴」をも含む複雑な社会像へと変化します。

    • 現代の「創造」あるいは「芸術」をどう捉えるかにも影響します。創造性は写実性や複雑性だけではなく、“意味づくり”の深さと社会的共有の幅が鍵であるという再認識を促されます。

    このように、ネアンデルタール人の芸術・創造というテーマは、過去の発見を越えて、「人間とは何か」「文化とは何か」という根本に迫る旅でもあるのです。


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    ↑装飾品がけっこうあるものだ!( ・Д・)
    (Straffon and Tennie 2025より転載)




    おわりに

    私は今、人類史全体というか物質文化史全体を数理的に記述する研究やってますけども、元々の主要研究テーマは「国家形成」ですからね。国家形成やってて、文化進化・社会進化を考えてて、からの財の社会不均衡分布として物質文化史を統一的に記述・分析するっていう流れなんですよね。だからほんとに旧石器とか全然興味ない(笑) 元々のメイン遺物は土器だし、ほんと石に興味ない。あ、胎土内の鉱物組成分析もやってるから「鉱物」は割と好き!けど旧石器好きくない!( ・Д・)

    だからよく知らなかったし、どこかで見たことある気もするんだけれど、興味ないから積極的に記憶してなかった・・・ネアンデルタール人の残した物質文化を調べてみたら、上に挙げたように装飾品もたくさんあるし、なかなかすごいね!でもどうしても自分の興味に引き付けて考えちゃうから、、、財の種類はたくさんあるのに、財の社会分布がほぼ平等ってデータが取れれば最高なんだけどなぁって思っちゃう。いつかはやらんとならないね~( -д-)ノ



    何はともあれ、、、

    クレヨンで子供っぽく絵を描くのは好き!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 12にち(すいよーび、晴れ)

    今日はやるべき仕事が進んで良き!( ・Д・)

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    ↑このアボカド、まだやや固そうだな……( ・Д・)
    (「Wikipedia」の画像より転載)




    今回の考古学・歴史ニュースはアボカド旨いよね、大好き!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは、「あるけまや」風に、ちょっと長めでキャッチーな導入から始めましょう。私たちが今、朝食にのせたりサラダに混ぜたりする “アボカド”。そのクリーミーな果肉と種の大きさ、そして健康ブームとともに人気が世界中で爆発しています。でも、そんなポップな現代の姿を想像する前に――なんと 約 7,500 年前 のメソアメリカ(現在のホンジュラス高地)で、すでに人びとがアボカドを「育て」、「選抜」していたという研究が発表されたのです。しかも、種(核)の大きさが時間とともに増え、皮が厚くなり、果肉部分がより多くなるという明快な“人による改変”の物理的証拠まで出ています。 


    「アボカド=メキシコ起源・比較的最近の栽培植物」という常識がひっくり返され、そこには「木の果実を意図的に育てる技」が穀物より先に芽吹いていた可能性まで浮上してきました。今回は、この驚きの発見が示す「種が大きくなる過程」「農耕開始の転換点」「現代アボカド栽培とのつながり」を、じっくりと見ていきましょう。



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    ↑発掘現場の様子!( ・Д・)
    (「Smithonian Magazine」の画像より転載;credit:  Ken Hirth / UC Santa Barbara


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    ↑洞窟遺跡らしいけど岩陰遺跡のようにも見えるね!( ・Д・)

    (「UC Santa Barbara」の画像より転載;credit: Alejandro Figueroa)


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    ↑さすが洞窟遺跡は層序が細かいし、残りもいいぜ!( ・Д・)

    (「UC Santa Barbara」の画像より転載;credit: Tim Scheffler)




    🌱 起源を探る:ホンジュラス高地の “El Gigante” 遺跡

    メソアメリカのホンジュラス西部、高地の岩屋 “El Gigante Rockshelter” では、約1,700以上におよぶアボカドの炭化・乾燥遺存体が見つかりました。  このデータをもとに放射性炭素年代測定と形態測定が行われ、「およそ 7,500 年前から人びとがアボカドの栽培・選抜を行っていた」ことが明らかになったのです。


    具体的には、古い層では種(核)が比較的小さく、果実もワイルド系統の特徴を示していた一方、時代が下るにつれて種が大きくなり、皮や果肉の厚み/大きさが変化してきたという結果が出ています。 つまり、「人が選ぶことでより“使いやすく”“大きく”“運びやすく”」という方向へアボカドが変化していたわけです。



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    ↑アボカドの種がどんどんデカくなっている!( ・Д・)

    VanDerwarker et al. 2025


    🔍 種が巨大化・果実が変化:人による選抜の物証

    研究チームの観察によると、アボカドの種のサイズ・果皮の厚み・果肉量などが時間を経て明らかに変化しており、それは “人による操作” を示す典型的なパターンと言えます。たとえば「種の直径の増大」に関してデータが示されており、これがより大きな果実を得るための選抜だったという解釈が支持されています。 


    さらに、研究記事では「アボカドの栽培がトウモロコシより早く始まっていた可能性」が指摘されており、これは農耕史の通説に大きな問いを投げかけています。 このような形質変化が示すものは、「野生の果実をそのまま食べる」だけではなく、「より大きく/より厚く/より運びやすく」という人間のニーズを反映した、明らかな作物化の方向です。アボカドという果実が、数千年の間、われわれ人間によって“改良”されてきた軌跡がここにあるのです。




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    ↑トウモロコシについては知ってたけど、アボカドも場所によって形違うのね!( ・Д・)

    VanDerwarker et al. 2025




    🌳 なぜアボカドだったのか?木の果実としての優位性

    穀物(麦・米・トウモロコシ)に比べて、果樹=木の果実を栽培対象とすることにはいくつかのハードルがありますが、アボカドが早期に人びとによって扱われた理由もまた、そこにあります。研究者らは以下のようなポイントを挙げています。

    • アボカドは栄養密度が高く、脂肪・エネルギーを豊富に含むため、人類の食料基盤として魅力的だった。

    • 原野に自生していたアボカドの木を“手入れ”することで、果実収量が安定する可能性があった。

    • メガファウナ(巨大動物)が種子散布していた時代の終了後、人による種子散布・栽培管理が重要になった。

    • 果実が比較的大きく、種が一つ、収穫・運搬・貯蔵という点で利点があった。木の果実として“選抜”に適していたというわけです。

    このように、アボカドという果実が「木の果実として栽培対象となる理由」が既に古代に存在しており、人びとの知恵と手が早くから働いていた可能性が浮かび上がります。


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    ↑洞窟遺跡は残りがいいから、色々な食物が見つかってる!( ・Д・)

    VanDerwarker et al. 2025



    📉 現代へのつながり:遺伝多様性・気候変動・栽培危機

    この古代研究が現代に持つ意味も重大です。現在、世界的なアボカド産業はほぼ1品種(たとえば ハス・アボカド)に依存する傾向が強く、「遺伝的多様性の極度な低下」が懸念されています。 古代からのアボカド遺存種・野生系統の解析によって、「果実サイズ・皮厚・種子サイズ」の変化の記録が得られたことで、今後の耐病性・耐乾燥性を備えた品種開発のヒントになると研究者は言います。


    また「木の果実を早期に栽培していた」という事実は、われわれの作物起源・農耕史の理解を広げるものであり、「穀物優先・草本作物起点」という常識を改める議論の一端ともなりえます。つまり、この発見は過去の考古学的好奇心で終わるものではなく、未来の農業・気候変動・食料安全保障とも深く結びついているのです。




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    ↑アボカド断面図、これは食べ頃な気がする!( ・Д・)




    おわりに

    アボカド好きなんですよね。グアテマラにいる間は毎日食べてると思う。安いからね!大体手作りセビーチェ作って食べてる。トマトとアボカドと、濃いMIXトマトジュースと、あと何入れるかな・・・あ、玉ねぎと生のエビと白身魚と、ハバネロとハラペーニョ、チリテペ(全部辛いやつ)かな。あとは塩と黒コショウで整えて、冷えたビール準備すればOK!

    あとね、グアテマラにいるとマグロ食べれないからね。アボカドにわさび醤油かけたらマグロの刺身っぽくなるってあれ、よくやる。安くて美味しいから死ぬほど食べれる。だけどね、問題はね、醤油とワサビが高い or 激マズの醤油かどうかすらよく分らん韓国の黒い液体と安かろう悪かろう粉ワサビしか買えないので、日本から持ってかなきゃならない。

    あとね、アボカドにわさび醬油かけてマグロの刺身な気がするのはうそだと思う。全然そうは思わない。ただ丸1年とか海外にいたら、めちゃくちゃ美味しくは感じる。だが全くマグロではない!わさび醬油の味がするアボカドだよ( -д-)ノ





    何はともあれ、、、

    日本でお金あるなら生ハムアボカド!( ・Д・)







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    昨晩はまったりしてしまった、今日からメメントモリ!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑ビール飲みたいな……( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは断酒したいのに酒の神かぁ……!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは!「あるけまや」風に、少し長めの導入から始めます。今回は、古代ローマの町ポンペイで、まるで時を止めたかのような驚きの発見がありました。紀元前40〜30年頃に描かれたと思われる、ワインの神 ディオニュソス(ローマ神話ではバッカス)の神秘的かつ華やかな儀式が壁画になって眠っていたのです。会食の場と酒の祝祭、狩猟と復活、女性たちの解放と神秘主義――そんな複層的なテーマが、一つの壁面に重ね描かれていたこの壁画は、「まだ知られていない古代世界の側面」を鮮やかに私たちの眼前に引き出しました。


    瓦礫の下にあった宴会室、その三面を覆う大きなフレスコ画。そしてそこに描かれたのは、女性たちが剣を構え、山羊を肩に担ぎ、笛を吹くサテュロスと共に踊り、ワインを捧げる…そんなシーン。これを見た瞬間、「古代の宴」が現代に語りかけてきたと感じた方も少なくないことでしょう。では、この発見がどこから来たのか、何を語っているのか、一緒に掘って行きましょう。




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    ↑遺構遠景、綺麗だね!( ・Д・)



    🎨 発見現場:インスーラ 10(Region IX)「ティアソス館」の宴会室

    今回発見されたのは、ポンペイ遺跡の一角、Region IX・Insula 10の「ティアソス館(Casa del Tiasus)」と名付けられた建物内。公式発表によれば、宴会室の三壁を覆う大規模な壁画(“メガログラフィア”)が掘り起こされました。この壁画は第一世紀BC、具体的には紀元前40〜30年ごろと日付が特定されています。つまり、79年のヴェスヴィオ火山の噴火で町が埋まる時点で、すでに100年近く経過していたということです。 


    壁画には、肉を手にした女性たち、笛を吹くサテュロス、ワインを捧げる儀式行為、そして中央に松明を持った“儀式参入を待つ女”の姿が描かれており、これは「ディオニュソス信仰・入会儀礼(Mysteries of Dionysus)」を示す貴重な場とされています。




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    ↑遺構近景、さすがよく残ってるね!( ・Д・)



    🥂 祭儀の意味:酒・狩猟・再生の象徴として

    この壁画が示すものは単なる装飾ではありません。そこには、酒の神ディオニュソスの祭儀、そしてその背後にある「死と再生」「束縛と解放」というテーマが横たわっていたようです。例えば、女性たちが山羊を担ぎ、剣を持ち、森を駆ける姿。これは「狩猟=破壊」「宴=恵み」「解放=再生」という象徴的な行為の重層性を描いていると研究者は指摘しています。


    また、中央に配置された松明を持つ女性は「儀式への参入者(イニシエイト)」と解され、「死と再生を司る神秘宗教」の構図を体現しているとされます。 つまりこの壁画は、古代ローマの“ワイン宴”を越えて、信仰・身体・自然・共同体が交錯する複雑な儀礼空間を私たちに見せてくれているのです。



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    ↑そのまま残ってる感がすごい!( ・Д・)


    ⏳ 保存・技法・新しい視点:100年を経ても色鮮やかに

    今回の壁画のもう一つの驚きは、その保存状態と技法です。深紅の背景、彫像のように立つ人物、動きを感じさせる衣装のひだ――こうした「実物大に近い描写(ライフサイズフレスコ)」が残っていたことが報告されています。 これらの特徴は、同じポンペイの「神秘の館(ヴィラ・デイ・ミステリ)(Villa of the Mysteries)」のそれと並ぶものであり、ポンペイにおける“ディオニュソス信仰の視覚表現”を改めて問い直しています。発見者らは、近年の「大ポンペイ再発掘プロジェクト(Great Pompeii Project)」のなかで、新たな建物群・壁画・装飾が次々と明らかにされており、この壁画もその一環です。遺跡全体の新たな価値が再評価されています。




    🌍 広がる意味:古代地中海・宗教変容・宴会文化の再考

    今回の発見が示すのは、「ポンペイ=災害で終わった町」という枠を越え、「生きた儀礼空間」であったという視点です。


    ワイン、宴、神秘宗教、女性・狩猟・飲酒・再生というキーワードが揃うこの壁画は、当時の地中海世界における“酒と宗教”“身体表現と象徴空間”を問い直す契機となります。また、近年の研究でポンペイの女性像・宴会像・宗教像が再評価されており、この壁画は女性たちのアクティブな参加・身体表現・神秘的役割という観点からも新たな視野を開いてくれます。さらに言えば、ワインという物質がただの飲料ではなく、儀礼・共同体・再生という構造のなかで機能していたことを、この壁面は示しているのです。


    そう考えると、この発見は「古代ローマの壁画が美術として語られる」だけでなく、「信仰・身体・酒・性・共同体」が交錯する生きた文化を我々に見せてくれていると言えます。



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    ↑ここ発掘したらもう他は掘れないよ!( ・Д・)



    おわりに

    さすがポンペイだなぁって感じですね。考古学の理論(?)で『ポンペイ前提』というのがあるけれど、確かに一瞬でパッキングされてそのまま最良好な状態で現代まで保存されているんだから、遺物や遺構の位置関係も動いてないよね。ポンペイの被害者には申し訳ないけれど、こうした良好な遺跡がもっとたくさんあったのならば考古学は大いに前に進む気がするんだけどなぁ( -д-)ノ

    ってか、マヤ文明掘ってて綺麗に彩色された土器が莫大に出てくる環境に慣れると、日本の縄文掘ってて何出てきてもゴミみたいとまではいかないものの何も感じない(笑) そう考えると、ポンペイで発掘している人たちってもう他のどの現場も行けないんじゃない? つまらなさすぎに感じる気がする。たぶんポンペイを基礎としている考古学者も普遍的な研究はできそうにないね( ・Д・) まぁそれくらいにポンペイはあまりに特別だよ!




    何はともあれ、、、

    今日からちゃんと断酒する!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 11にち(かよーび、くもり)

    恢復してきたからまたダイエットしなきゃ!( ・Д・)

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    ↑ねぇ、これって座布団ってこと!? え、座布団?( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは久々の『まだ食べれるよ?系』、なまら嬉しい!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは、みなさん。「あるけまや」風にじっくり、長めの導入でお届けします。トルコ中部、カルアマン(Karaman)県の遺跡 Topraktepe(古代名:Eirenopolis)で、なんと 約 1200年前(7〜8世紀) の炭化したパン5個が発見され――そのうち1個には驚くべきことに「農夫姿のキリスト」の姿が刻まれていたのです。しかもそのパンには「恵みのキリストに感謝を込めて(With our gratitude to Blessed Jesus)」というギリシャ語の銘が刻まれており、まさに「パンに込められた信仰」と「農耕生活」が交錯する発見となりました。


    この出土は、古代キリスト教の儀礼・農耕社会・食文化の三つを横断する物語を我々に投げかけています。焼かれ、時間を越えて残ったパンと刻印、それらが語るのは「信仰が日常に根ざしていた」証でもあり、「パン=命・儀礼」の象徴でもありました。では、この奇跡的な発見が何を語り、何を問いかけているのか――ともに旅を始めましょう。




    🕰️ 発見の舞台:Topraktepe遺跡と炭化した5個のパン

    トルコ・カルアマン県にある Topraktepe 遺跡では、最近の発掘により 炭化したパン5個が出土。これらは7〜8世紀(ビザンツ時代)のもので、恐らくは悲劇的とも言える火災などによる炭化保存という偶然が、今日発見を可能にしました。

    5つのうち1つにはギリシャ語の刻印「With our gratitude to Blessed Jesus」が確認され、さらにその表面にはキリストを農夫(穀物を蒔く者=sower/farmer)と描いた図像が刻まれていました。この遺物は「聖体パン(Eucharist bread)」「儀礼用パン」としての解釈が有力で、パンという“日常物”が“儀礼物”へと変換されていたことを示す稀少な物証です。




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    ↑遺跡全景、やぱ空撮って美しいね!( ・Д・)




    🌾 パンに刻まれた「農夫キリスト」:信仰・農耕・象徴の交差点

    この発見のハイライトは、なんといっても「農夫姿のキリスト像」です。通常ビザンツ期のキリスト図像は「キリスト・パントクラトール(全能者)」が主流ですが、このパンに刻まれていたのは、耕す姿=農作業を行うキリストであり、農村社会に根ざした信仰表現が現れていると研究者は指摘しています。


    さらに、パン出土現場の周辺が農耕地帯であり、この地域のキリスト教共同体が「パン/麦/農耕」という物質と信仰を結びつけていた可能性も示唆されています。つまり、パンに記された姿は単なる装飾ではなく、「日々の労働」「豊穣」「神の恵み」が結びついた、農村キリスト教文化の“象徴”だったのかもしれません。




    🧪 技術と保存:炭化パンが語る保存環境と材料解析

    このパンたちが1,200年以上にもわたって形を留めていた理由として、研究者らは「突然の火災による炭化」「低酸素・安定した土中埋没環境」という二重の条件が整った可能性を挙げています。また、今後の研究課題として、「麦種・酵母・製パン技術」「刻印・図像の技法」「パンが作られた場所・配布・儀礼の場」などが挙げられており、考古学・食文化・宗教研究が交差するテーマとなっています。


    このように、パンという一点から見えてくるのは、単に“食べ物”ではなく、「象徴された食」=儀礼的パンとしての存在であり、それを保存した環境と技術の奇跡でもあります。




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    ↑ごめん、これ最古のパンだった!食べれなくもない!( ・Д・)





    📜 宗教・文化史の再考:農耕パンと儀礼文化

    この発見を宗教・文化史の枠で捉えると、いくつかの興味深い問いが浮かびます。

    • パンという「日常の必需品」が、儀礼パンとして宗教的意味を帯びていた。そこには「命を支える穀物」「神の恵みを象徴するパン」「教義と農作村の結びつき」が見えます。

    • 図像としての農夫キリストは、都市的エリート向けの教義ではなく、農村・労働基盤のキリスト教信仰を示す可能性がある。

    • 近年明らかになってきた「物質文化」と「信仰表現」の交錯――食・農・信仰が一体化していた地域社会の姿が、パンという物質から立ち上がります。

    こうして、発見された1200年前のパン5個とその図像は、過去を“味わう”だけでなく、信仰・生活・労働の世界を再考させる窓となっているのです。



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    ↑これ、今回のパン!私だったらパンって思わんわ!RPGに出てくるスモールシールドかなと思う!( ・Д・)




    おわりに

    今回のパンも驚くべき保存状態なんだけどさ、ほんと私が出したなら、パンって分らん!全然パンっぽくないんだもん。まぁ保存状態最高だから主旨的に食べれそうなんだけどさ・・・やぱパンって感じしない( ・Д・) 小麦色なら食べれる気がするんだろうけども、、、なんだろう、やぱこの”余計な”装飾が食欲を削いでるぜ!

    マヤ文明フィールドにしてる以上、食べ物出ることないもんね。少なくとも『まだ食べれるよ?シリーズ』で使えるようなものは出ない。そもそも現代グアテマラ人含めて、毎日同じものしか食べん文化だしね。あ、ドイツもそんな感じらしい、グアテマラがそうってことはスペインもそうだろうし、ってことはヨーロッパもそうだろうし、、、日本だけがグルメかな!( ・Д・)



    何はともあれ、、、

    たまにはパン食べたいよね、焼きそばパンかメロンパン!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 11にち(かよーび、くもり)

    一度抱えた負債を返すのは困難だな( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑場所は意外と住宅地!( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは昔からみんなアイドル好きだね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは、「あるけまや」風にじっくりとお届けします。今回はトルコ西部、デニズリ(Denizli)近郊の遺跡で、なんと約2,700年前(紀元前約700~500年)に遡るとされる“祭祀遺跡”が発見され、宗教・信仰の歴史を塗り替える可能性が出てきました。


    発見されたのは、岩をくり抜いた洞窟‐遺構、双子の岩刻像、そして液体を流すための排水溝など――いずれも「儀礼・奉献」の場を示す明確な証拠と言えます。しかも、その場はこれまでの学説が想定していた「フェリギア文明の中心域」から遥か西、アナトリアのこの地に位置していたのです。この発掘は「宗教が発達・拡大してきた地域の想像図」を大きく揺さぶる可能性を秘めています。では、その発見内容、社会的背景、そして私たちが見落としてきた“信仰の風景”を、一緒に深掘りしていきましょう。



    🏛️ 発見の舞台:デニズリ近郊、アトトゥダ(Attouda)遺跡

    発掘が行われたのは、デニズリ県サライキョイ(Sarayköy)地区、古代都市アトトゥダの旧市街近く。研究チームによれば、岩盤をくり抜いた洞窟構造や、双子の岩刻像(ツイン・ロック・アイドル)、流路・湯鉢状の岩皿が確認され、「母なる女神祭祀」の場として明確に機能していたと考えられています。


    この発見は、「フェリギア王国」が栄えた時期(およそ紀元前1200~650年)以降とされる宗教遺構が、これまで想定されていた範囲(現在トルコ中部・東部)よりも西側に広がっていた可能性を示唆します。また、洞窟や水を流す構造から、単なる「祭壇」ではなく「儀式場としての機能」が想定されており、発見地が平地部ではなく山岳・岩盤帯である点も注目です。




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    ↑近くの子供の秘密基地になってそう!( ・Д・)




    🔮 儀礼の構造:洞窟・岩刻像・液体奉献のための設備

    研究報告によると、この遺跡から出てきた構造・遺物は、以下のような特徴を持っています:

    • 岩盤に刻まれた「双子の岩刻像(ツイン・ロック・アイドル)」。フェリギア宗教圏で女神を象徴する形態とされており、この地域で発見されるのは極めて希少。

    • 湯鉢状の岩皿・流路・排水溝。これらは液体奉献(リバティオン)用の構造と解釈され、たとえばオイル・ワイン・香料などを捧げたと見られています。

    • 洞窟‐岩盤祭祀場というロケーション。自然岩盤を利用し、洞窟という“神秘の空間”を祭祀場とした点が、地形と宗教が密接に関わった創造的な儀礼空間といえます。 

    これらの構造が示すのは、単なる「祠」や「神殿」ではなく、継続的・組織的に行われた祭祀活動の場だったという可能性です。その点で、「宗教史を塗り替える」という表現にも十分な重みがあります。



    🌍 宗教・文化拡散の新しい地図:フェリギア宗教の西限?

    この発見が重要なのは、宗教・文化拡散の地理的範囲に関わる点です。これまで、フェリギア文明の神格(特に女神マタル/マテラン/キュベレ)崇拝は、主として現在の中部トルコから東部にかけて確認されてきました。しかしこの遺跡は、デニズリ近郊という海岸平野・山麓地域に位置し、宗教の地理的拡がりを“より西・より低地”にまで押し広げる証拠となる可能性があります。 


    さらに、石刻像・洞窟祭祀・液体奉献構造といった“祭祀の共通装置”がここでも機能していたことから、「宗教形式が環境や地理を超えて普遍的に展開された」あるいは「地方特異化された変形を伴っていた」という視点も浮上しています。つまり、この発見を通じて、私たちは「宗教の拡散」だけでなく「宗教の変形と地方化」という二重の流れを見直す必要が出てきたのです。




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    ↑遊び場にはちょうどいい感じのサイズだよね!( ・Д・)




    🧭 社会・技術・環境:なぜこの場所が祭祀場になったのか?

    では、なぜこの地域・この岩盤帯が祭祀場に選ばれたのでしょうか?いくつかの視点から考えてみます。

    • 地形・岩盤の特性:岩盤の傾斜・洞窟・天然流路など、自然そのものが「神聖なる場」に転換可能な環境だった。岩=神、洞窟=冥界/神域という古代的象徴がここで機能した可能性があります。

    • 交通・交流の拠点:デニズリ地域は、内陸の山岳部と海岸部を結ぶルートに位置しており、交易・移動の通路であった可能性があります。祭祀場としてのアクセス性も含めて機能的だったかもしれません。

    • 自然資源・人間活動:岩盤採掘・トラバーチン層の存在、温泉地パムッカレ(Pamukkale)近くという地理も含め、「人と自然の交錯点」として常に注目されてきた場所。祭祀はこのような“交錯地”を選ぶ傾向があります。

    こうした要因が重なったことで、この地が「地方的祭祀場」ではなく「広域的な宗教拠点」の可能性を持ったわけです。



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    ↑これがアイドル・・・素朴だぜ!( ・Д・)





    おわりに

    考古学やってると「心の目」が必要な瞬間がけっこうあるんですよね。経験で養われるものだと思うんですけどね。例えば、この時期の穴の並びだから、柱穴判定、この時期のこの規模の建造物の柱穴だからこれくらいの大きさで形状はこんな感じになるはず、、、だから、えいや!ってなります( -д-)ノ

    まぁもちろん広がりが不明瞭な時に行うものですが、今行政発掘に参加してる経験からすると、みなさん「えいや」しまくりですね。時間がないのか、面倒なのか、いい加減がこの業界のスタンダードなのか、、、たぶん自分の名前が載って業績になる素敵な報告書を書くのに一生懸命過ぎて他は期限守ればそれでいいという感じなんでしょうね。日本考古学の未来は暗いなと思います( ・Д・)

    あ、脱線したけど、最後に挙げた画像は「双子の岩刻像(ツイン・ロック・アイドル)」です。この場合の「アイドルは偶像の意味」ですけども、思った以上に素朴な加工で驚きました。まぁ加工痕あるからってことなんでしょうけども、「すごいの見つけたぜって無理やりにでも言いたい感」と「えいや感」が凄まじいですね(*^・ェ・)ノ

    それと、緊急で保護しないとあっという間に失われるレベルの文化財だなって思います!



    何はともあれ、、、

    作業BGMとしてアイドル曲聴くけどライブは楽しみ方が分からない!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 10にち(げつーび、はれ)

    たまに鼻炎調子いい!なんで?( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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    ↑壊れてるし瓦礫もあるけど、そもそも建物が古い感じ?( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは内戦で町が壊れてもみんな頑張ってるね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは、「あるけまや」風にじっくりお届けします。今回は、内戦で荒廃したシリア北部の町 Ma‘arrat al‑Numan(マアラト・アン=ヌウマーン)で、まさに廃墟となった住居のがれき撤去中に発見された、約 1,500年前(6世紀) の地下墳墓――“戦火を潜り抜けた石棺室”が私たちの物語の舞台です。
    瓦礫を掘る作業員の手がすべって開いた穴。そこには象徴的な十字架を刻まれた石柱と、古代のガラス器・陶器片とともに、二つの地下チャンバーに収まる石棺が並んでいました。戦争が街を破壊した“上の世界”の下に、歴史がひそかに眠っていたのです。


    この発見は、考古学的な価値にとどまらず、「戦争と考古学」「復興と遺産」「住民帰還と記憶の回復」という3つの視点でも重く響きます。廃墟の下に眠る墳墓が、私たちに何を語るのか。少し長めに、その現場と意味を一緒に深掘りしていきましょう。






    🔍 発見現場:瓦礫のなかで開いた古代の扉

    発見の舞台は、シリア北部、イドリブ県にあるマアラト・アン=ヌウマーン。内戦下で建物が激しく破壊されたこの町で、住居のがれき撤去作業中、地面にぽっかりと空いた穴が発見されました。作業員が誤って掘り進めたその穴は、地下の石室に通じていたのです。


    調査の結果、二つの石室にはそれぞれ六基の石棺が並び、石棺の上部には十字架を刻んだ柱が立っていました。これはキリスト教化されたビザンツ時代の埋葬だと考えられています。 住居跡の真下、瓦礫とコンクリートの破片の中で見つかったこの“地下墳墓”。そのコントラストが、まさに“破壊と記憶の交差点”を映し出しています。



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    ↑確かに崩れてるね!( ・Д・)




    🏛️ 墳墓の構造と年代:6世紀ビザンツ期の埋葬事情

    この地下墳墓は、6世紀と推定され、ビザンツ帝国期のキリスト教墓制を示す貴重な遺構です。石棺が整然と並び、陶器・ガラス片・十字架刻印といった副葬・儀礼要素が確認されています。前述の通り、廃墟となった住居の下にあるため、細部の破損状況や倉庫代用とされた可能性も含めて、かなり“戦争後の発掘”ならではの状況が重なっています。 


    また、町自体がダマスカス–アレッポ間の交通拠点にあったことから、この墳墓は地域のキリスト教コミュニティや交流の痕跡を示す可能性もあります。さらには、内戦によって遺跡がむき出しになった「偶然性」も含まれているのです。






    💔 戦争と遺産:壊れた街がひらいた過去の裂け目

    この発見は、単なる遺跡ニュースではなく、戦争と文化遺産の関係を問う契機でもあります。マアラト・アン=ヌウマーンは、14年に及ぶ内戦で建物が破壊・略奪され、多くの遺跡が被害を受けてきました。
    その瓦礫の中から「1500年前の地下墓」が顔を出すという出来事は、戦争が“過去を掘り起こす”偶然を生んだとも言えます。そしてここで問い直されるのは「誰が遺産を守るのか」「壊された街でどう復興と記憶をつなぐのか」ということです。


    住民の一人は「昔は観光客が来た」「また歴史が戻れば町も戻る」と語っており、遺跡が復興の希望として機能し得ることも示唆されています。




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    ↑瓦礫だらけの状況で記録取るのね!( ・Д・)



    🌍 時代・地域を貫く意味:地下墳墓が教えるもの

    この地下墳墓の意味を広く捉えると、いくつかの視点が浮かびます。

    • 地下墳墓という形式は、上部構造が失われても残る埋葬の痕跡であり、戦争や破壊を超えて「埋葬・記憶」の強さを示しています。

    • ビザンツ時代のキリスト教的埋葬という属性は、地域の宗教・文化の遍歴を浮かび上がらせ、この地が単なる戦争舞台ではなく、千年以上の歴史を持つ場所であったことを思い起こさせます。

    • さらには、再建と発掘・観光・遺産保存という“未来”の側面―壊れた街から歴史を掘り起こし、それを復興の軸にできるか―という問いも含まれています。

    つまり、この発見は「過去の発掘」ではなく「現在と未来の問い」であり、瓦礫と石棺のギャップがそのまま私たちに問いを突き付けているのです。





    おわりに

    シリア内戦は2011年に始まったので、今年で14年目? アサド政権が倒された後もまだ続いているので長いね。いつ終わるんでしょう。この町も内戦中&復興中の調査だから瓦礫が撤去出来ないままデータ取ってるんだろうね。緊急の意味が違うけれど、緊急調査だね( -д-)ノ

    日本もいつか内戦・・・まぁ外国人関係で大規模デモや暴動は起きそうな予感( ・Д・)




    何はともあれ、、、

    戦争に興味出てきた、今日この頃!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 10にち(げつーび、くもり)

    風邪治らん!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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    ↑消えちゃうイメージ!( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは「え、ごめん、どーゆーこと!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは、「あるけまや」流で、やや長めのキャッチーな導入からお届けします。今回は驚愕の発見です。南米・ Bogotá Altiplano(ボゴタ高原)周辺、今のコロンビアで、約 6000年前 に暮らしていた人たちの遺骨から、既知のどの先住民グループともつながらない「未知の遺伝系統」が検出されたというのです。そのDNAは、現代に続く子孫も、古代に繋がる祖先も、どちらも持っていませんでした。まさに「系統にぽっかり空いた穴」が浮かび上がったのです。


    この発見は、「南米への人類移動」「民族系統の分岐」「人口置換・混合の過程」を考えるうえで、これまでの人類史観を揺るがしかねないインパクトを持っています。では、その足跡を、骨片と遺伝子という“物証の言葉”から、一緒にたどっていきましょう。




    🧬 “消えた系統”を示す21人のゲノム

    研究チームは、ボゴタ高原の5つの遺跡から出土した21体のヒト遺骨(歯・骨)を対象に、ゲノム解析を行いました。この21体のうち、最古のものは約6000年前、そして最も新しいものは約500年前までのものです。


    解析の結果、これら古代人は:

    • 北米先住民や南米先住民、いずれの既知系統とも近縁性が低く、独立した遺伝的枠組みに属している。

    • 6000年前あたりの個体群は、この高原地域では後世まで子孫を残さず、遺伝的な連続が見られない。

    特に、「先史時代の住民がそのまま現代人へと繋がっていない」という点が、この発見を格別なものにしています。



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    ↑寄り添ってる遺骨ってなんか響くものがあるよね!( ・Д・)



    🏔️ 考古学的背景:ボゴタ高原という“交通の要衝”

    ボゴタ高原(標高約2500~3000 m)とは、現在のコロンビア中部、アンデス山脈の東側高地に位置する地域です。ここは北米 → 中米 →南米を結ぶ人類移動ルートの一部とも考えられており、古代における重要なハブの一つです。発見された遺骸は、狩猟採集から農耕社会へと転換期にあったとされ、約6000 年前~500 年前という長い時期にわたる人類活動の証拠です。


    しかし、解析によると、6000年前のこのグループは、その後この地域の人々と混ざることなく“消えてしまった”ようです。研究者は「約2000年前頃、新たな集団に入れ替わった可能性がある」などと指摘しています。





    🔍 なぜ系統が絶えたのか?複数のシナリオ

    この「消えた系統」について、研究者は以下のような可能性を検討しています。

    • 環境変化:高地環境の変動(氷期後期→ホロシーン変動)、気候変化などが人口減少をもたらした。

    • 文化・人口流入:別系統の人々(中央アメリカからの移民群)が流入し、元来のグループを置換した。

    • 混血・遺伝子希釈:元住民が別集団と融合・希釈され、遺伝的に消えてしまった可能性。

    ただし、研究者は「このように完全に遺伝的連続が消える事例は南米では例外的」としており、今回の発見は例外的なケースと捉えられています。




    🌐 南米人類史を書き換える?遺伝子が語る深層

    この発見が示す意義は非常に大きいです。

    • 南米の人類遷移・拡散モデル:従来、「北米から南米へ移動した集団がそのまま現代先住民へと繋がった」とされてきましたが、今回の例はその単純な流れを覆します。

    • 地域の多様性:高地アンデス地域において、中央系とは別の初期集団が居住していた可能性が浮上したことで、「人類史=一本道」ではなく「枝分かれ・断絶・交換」の複雑性が改めて浮かび上がります。

    • 遺伝学・考古学の統合研究:骨・歯・ゲノムという複数の証拠を交えた解析により、人類史研究がより多層的・立体的になってきたことを示しています。

    このように、「6000年前のコロンビアの人たち」という一見小さな話題が、人類全体の移動と変化を改めて問い直す契機となっているのです。



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    ↑この図からすると交代が多い気がする!( ・Д・)
    (Krettek et al. 2025)



    おわりに

    人類がアフリカを出て拡散して、南米の南部に広がるチリの南端に到達したのがざっと1万3000年前(情報古いかもだけど( -д-)ノ)。メソアメリカ、オアハカ谷でトウモロコシの原種テオシンテの栽培が開始されたのが7000年前。今回の6000年前って時期は石期(リシック)から古期(アーカイック)に移って定住が始まっている時期なんですよね。

    記事を見て最初ほんとにどーゆーこと?って思ったけど、記事を整理していて、『従来は北米から南米へ移動した集団がそのまま現代先住民へと繋がったとされてきました』と書いたけど、確かに私は単純化して捉えていたんですよね~。実際、マヤ地域の最古の土器は見事な精製土器なわけで、明らかにどこかで発生・発達したものが到着してるんですよね。まぁ古い時期の研究は難しいから、知識として知ってても深く追求してこなかったけれど、、、

    今回の研究からすると、コスタリカやパナマを抜ける南北移動や交流は石期だけではなく古期以降もずっと続いていたんだろなって気がします。6000年前に突如現れたかに見え、また突如消えたかのように見える彼らは集団として他の地域へ移動している可能性がありますよね。

    専門である私からすると、中南米というくくりだけではなく、メソアメリカの中であっても地域や時期によって全然文様モチーフとか違うんですけれど、、、一般の方々からすると一緒に見えるようですよね。先入観もミクロな属性も捨てて、ニュートラルにマクロな視点で見ると中南米の遺物・遺構が一緒に見えるのならば、それくらい交流が活発で様々な情報が行きかってて全地域で共通するような意識が萌芽していたのかも知れませんね。



    何はともあれ、、、

    早く風邪と鼻炎治れ!Youtubeの録音できない!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 8にち(どよーび、くもり)

    今日データ取りまくった、えらい!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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    ↑現地説明会のために片道30分の登山だってさ!( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは「みんな大好き、最古級!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは、「あるけまや」風にじっくりと長めにお届けします。今回は、鳥取県鳥取市・本高・古海(もとだか・ふるみ)古墳群で、約 1,700年前(古墳時代前期)に築造された「前方後方墳」とみられる墳丘が発見されたというニュースを取り上げます。かねてより当地は「方墳/方形墳」が主体とされてきたなかで、前方部・後方部を備えた墳丘形式の出現というだけでも注目を浴びています。「最古級」という言葉が示すのは、単なる年代の古さだけでなく、墳形・社会構造・地方政権の展開という、三重の新発見を内包しています。では、この発見が私たちに何を語り、何を問いかけているのか。発掘現場から、時代の地層を遡る旅へご案内しましょう。




    🏔️ 発見の舞台:本高・古海古墳群「古海36号墳」とは?

    新たに発掘調査が進められているのは、鳥取市・山陰道の鳥取西インター東側に位置する「本高・古海古墳群」です。令和7年10月時点では、同群内にある「古海36号墳」が全長約65メートル、墳形が「前方後方墳」と確認され、築造時期がおよそ1,700年前=古墳時代前期と推定されました。 


    「前方後方墳」という墳形は、言ってみれば前方部が四角ないし長方形、後方部が方形または四角形、というタイプ。一般に「前方後円墳」がよく言われる中で、この形式の出現は地方における墳墓形式の変化、そして中央政権との関係性・地域王権の形成過程を浮き彫りにします。しかも、墳丘の裾(すそ)から出土した土器によって古墳時代前期に位置付けられ、「鳥取平野でも最古級の墳墓の一つ」である可能性が高まっているという点も、研究者にとって胸躍る材料です。




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    ↑調査風景、当時の旧地表面まで浅いね!( ・Д・)



    🧱 墳形と年代が語る:地域王権と墳墓形式の転換

    何がこの発見を「特別」とさせているか。それは、墳形・規模・年代の三つが揃って「地方における王権成立期の証拠」として機能し得ること。


    通常、古墳時代初期・前期に地方でみられるのは「方墳」「方形墳」「前方後方墳」などが多く、「前方後円墳」は近畿を中心とする中央勢力の影響下で拡大した形式とされています。 鳥取において、この約1,700年前という時期に「前方後方墳」が築造されていたということは、地方王権あるいは有力者層が早期に墳墓形式を変化させ、ここに王権・儀礼・象徴の構図が生まれていた可能性を示唆しているのです。しかも全長65 mという墳規模も地方とはいえ有力な勢力を感じさせる数字です。


    更に墳頂部から出土したとされる「葬儀に使用された土器・埴輪」も確認されており、これらは被葬者の社会的地位・儀礼の内容・他地域との交流関係を探る上での重要な手掛かりとされています。




    🔍 出土物・調査手法・今後の焦点

    調査報告によれば、古海36号墳の裾部から古墳時代前期の土器が出土しており、その分析から築造時期の推定が成されています。 また、調査チームは墳丘の墳形・造営手法について今後詳細な地形測量・3Dモデリング・土層分析を行う予定とされており、この墳丘がそのまま「地方初期墳墓の変化を示すモニュメント」になる可能性があります。 特筆すべきは、今回の調査で「墳丘の地山削り出し/盛土の少ない築造方法」や「墳形が変形している可能性」について理解できる見込みであること。。これらは、古墳造営における技術・労働体制・地域資源の情報を読み解く上で重要です。




    🌏 日本列島と地方王権:鳥取における古墳文化の新地平

    この発見を日本列島の古墳文化という大きな枠で捉えると、以下のような視点が開けます。

    • 全国には古墳時代に約16万基以上の古墳が存在しており、その多くは3〜7世紀にかけて築造されたものです。

    • 墳形・規模・副葬品の違いが、「中央政権(大和朝廷)と地方有力者」「モノづくり・交易・儀礼の変化」を反映しています。

    • 鳥取県という山陰・地方において、「最古級」とされる前方後方墳の出現は、中央からの一方的な影響だけではなく、地方独自の王権・儀礼システムの存在を示すものと言えそうです。

    つまり、この古墳は「地方からの構図変化」「地域王者の出現」「墳墓形式の進化」という日本古代史の隠れたピースを提示しており、考古学・歴史・文化人類学にとって極めてエキサイティングな場となっています。



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    ↑現地説明会の様子、トレンチなまら狭い!( ・Д・)



    おわりに

    こんなところにビル建てるわけないし、行政の調査のようだけど学術調査みたいですね。頂上部かな、トレンチめちゃ狭くてサブトレクラスだな~って思うけれど、こういう調査の仕方もあるんですね。予算とか期間の問題のせいかな。日本考古学って長いトレンチ入れてバカ細かく分層しまくるの大好きなイメージなんだけど、、、トレンチ長いのはいいとして、幅やばくない?( -д-)ノ

    まぁ現地表面から目標の層まで浅いし、この山の中で後世の人口攪乱もなさ気だし、ってことは層序が単純なわけで、幅激狭くてもOKってことかな。まぁ予算は石室当てる時の本調査に集中して使いたいという思惑の現れかもね、、、てか、だろうね!( ・Д・)



    何はともあれ、、、

    早く副葬品たっぷりの墓当ててくれ!( ・Д・)







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