2020ねん 11がつ 9にち(げつよーび、雷を伴う暴風+霰)

今日は論考一気に書き終える日( ・Д・)


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arukemaya1161


今回の考古学・歴史ニュースは「人類史上とても重要な発見、最古の大戦場跡が見つかったよ!ー前編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


戦争は「行為」であって、土器や石器のように「道具」として残るわけではないので、その痕跡はなかなか発見されにくいものです。

そのため、人類史研究において「戦争」は重要な研究対象なのですが、その残りにくさから扱いにくいテーマでもあります。

遺体は野ざらしになる傾向が強いですから、丁寧に埋葬された場合と違って腐敗が進んで朽ちてしまいますし、戦死者が埋葬されてしまうと普通の埋葬墓との区別が付かなくなってしまいます( -д-)ノ

火事場泥棒的に、戦死者の武具などが回収されてしまう場合もありますし、どうしても戦争はその性格から考古学では取り扱いにくいものなのですヽ(TдT)ノ

そういうこともあって、今回紹介する古戦場跡はその発見自体がレアな大発見なわけですが、それだけではなく欧州最古の事例&青銅器時代に大規模な戦争の痕跡という点で重要な発見なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ





発見の舞台はドイツ北部のトレンゼ遺跡です。

上の1枚目に挙げた写真で見られるように、河のほとりにある遺跡です。

河から供給される水分が遺物や人骨の良好な保存状態を保ち、今回の大発見に繋がったと言えるでしょう。

ここではBCE1200年頃に河岸で戦って死んだと考えられる1万2000点もの人骨や武器類が見つかっています。

上の2枚目の写真に見られるように、かなりの量の人骨が集中しており、この写真の地点では12㎡の範囲から20個体分の頭蓋骨を含む1478点もの人骨が出土しました。

人骨が集中して見つかっただけでは「戦争」があったことにはならず、乱雑に配置された合葬事例や共同墓地ということも考えられます。

この事例の場合では多数の武器だけではなく、明白な状況証拠が揃っていたため、見つかった多量の人骨は戦死者と考えられたのです。

その証拠を見ていきましょう。






これらが武器を伴う人骨よりも直接的証拠として扱われた例になります。

最初の写真では、見事なフリント製の石鏃が上腕骨に突き刺さっています。

2枚目の写真では、保存状態の良い頭蓋骨の頭頂部付近に、不自然な陥没が見られます。

これは棍棒などによる強い打撃で頭を割られたことに起因する痕跡だと推定されています。

3枚目の写真では、石鏃が頭蓋骨を貫通して脳まで到達している状態を示しています。

これに加えて発見された1万2000点もの人骨が少なくとも140人分であるとの個体数を推定する結果が出たこと、この140人のほどんどが20~30代の上記のような外傷以外で病気などの見られない健康な「男性」であったことがトレンゼ遺跡がバトルフィールドである根拠になっています(*・ω・)ノ






おわりに、ートレンゼ・バトルフィールドの謎(前編)ー

さて、最後に挙げた写真と図は「Science」誌に載ったものです。

上の写真のような出土品が多数見られ、これらが「青銅器時代の戦士」の携行品と考えられています。

こうした携行品や他に出土した武器類から推定されたのが下の図の「青銅器時代の戦士」です。

勇ましく描かれていますねヾ(´ω`=´ω`)ノ

さて、人類史は戦いの歴史であり、特にヨーロッパ史は常に戦争ばかりなわけですが、20世紀までは青銅器時代のヨーロッパは比較的平和な社会だと考えられていました。

より古い時代にヨーロッパで大規模な戦いがあったという歴史記述が、ギリシャやエジプトなどに残されていましたが、最初に述べた「戦争」の痕跡は発見されにくいため、これまでトレンゼ・バトルフィールド級の古戦場の遺跡は見つかっていなかったのです。

これまでにも青銅器時代の武器は出土していましたが、埋葬遺構における副葬品や、儀礼に伴う埋納品としての出土しかなかったのです。

トレンゼ・バトルフィールドの特徴は考古学的に認められる最古の事例というだけではなく、最大規模の戦闘行為の痕跡が残る事例だということです。

調査範囲からは140人分の人骨が出ましたが、遺跡全体の10%ほどを調査したと考えられることから、全体の死者数は1400人程度になる見込みです。

戦争は生き残りをかけたバトルロワイアルではありませんので、実際に戦争に参加したのはその2~3倍程度、4000~5000人ではないかと推定されています。

戦闘自体はおそらく1日で終わったと考えられていますが、この規模の戦闘行為は青銅器時代ではこれまでに見られない圧倒的なものなのです。

ここで問題なのは、何故トレンゼ遺跡で大規模な戦闘が起こったのかということです。


欧州各地から来た他集団同士が争ったのか、トレンゼ地方の同一集団における内紛だったのか・・・・・・


誰が、何故この地で戦ったのかは現在も謎のままなのです。


どう思いますか?ー後編へ続くー( ・Д・)



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