2020ねん 11がつ 16にち(げつよーび、くもり)

寝付けなくてずっと「アンチャーテッド」観てた _(:3」∠)_


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arukemaya1199



今回の考古学・歴史ニュースはロアノーク集団失踪事件が少し解明に近づいたかも!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台はアメリカ、ノースカロライナ州のロアノーク島です。

以前に取り扱ったので、是非先に読んでみてくださいね( -д-)ノ

下に挙げた前の記事を書いた時は、たぶん時間もなかったのか地図の理解で混乱してました(私たち、基本的に上が北なもので( -д-)ノ)

本記事の作成に当たり、読み直してみたらすっと理解できました。

記事内容の修正はしていませんので、皆さんも古地図と現代の地図を見比べながら色々と考えてみると楽しさを実感できるかなと思います(。・ω・)ノ゙


↓↓↓先に読んでね!(・∀・)つ↓↓↓



私個人としてはとっても大好きなストーリーで、これぞ歴史ミステリーだな~って思ってます。

YouTubeとかで考古学・歴史ミステリーをいくつか選ぶなら間違いなく、ロアノークの話を選びますね(*・ω・)ノ

また最後に述べますように、この「ロアノーク島の謎」を解明すること、あるいはそのための方法論の開発は考古学の新たな未来を拓くと考えていますので、そういう意味でもお気に入りのテーマですヾ(´ω`=´ω`)ノ




事件のおさらい

さて、ひとまず「ロアノーク島集団失踪事件」をサクッとおさらいしましょう。

1585年にジョン・ホワイト総督により北米最初の人開拓地の一つとしてロアノーク植民地が設置されました。

しかし重度の食糧難に陥り、1587年にホワイト総督は入植者115名を残したまま、イギリスに一時帰還します。

スペインとの戦争で遅れつつも3年後の1590年8月にロアノークに戻ってみると、入植者は1人もいませんでした。

残ったのは樹や防御柵に刻まれた「CRO」、「CROATOAN」の文字だけでした。




新しい発見とぶつかる意見

この「ロアノーク集団失踪事件」はアメリカでは人気のある逸話となっていて、現代でも紙芝居や劇で取り扱われています。


有名なところではホラー作家のスティーブン・キングの「悪魔の嵐」の題材ともなっているそうです。


さて、前の記事では『地図に隠された砦のマーク』を発見したという、「ナショナルトレジャー」のような冒険映画に出てきそうな大きな発見について紹介しました。


この砦があったと思われるポイントを『サイトX』と名付けて、「ファースト・コロニー基金」の調査チームが調査したところ、砦の痕跡は見つからなかったそうです。


その代わりに24点の英国製陶器片を発見し、ロアノークから移動した入植者達が運んで使用したものだと解釈しています。


またこのサイトXの北方3kmほどの地点を「サイトY」として発掘調査を実施したところ、英国製だけではなく、ドイツ製、フランス製、スペイン製の陶器を大量に発見したそうです。


サイトYを何故掘ったのか、出土遺物量はどれほどなのかについては、まだ調査が終了して間もないためか「ファースト・コロニー基金」のページを見てもまだ何も書かれていません。


しかしながら彼らの意見としては、「ロアノークの人々はホワイト総督を待つ間にロアノークから西方80kmの砦に移動していた」と考えているようです。


また別の調査チームはロアノーク島の80km南方にあるハッテラス島で、消えた入植者たちに関係する遺物を発見したと報告しています。


こちらでは16世紀の礼装用の剣(レイピア)の柄や銃の一部を含む、ヨーロッパ製の遺物が見つかったのです。



arukemaya1197
↑ワニが描かれてるのでやっぱりアリゲーター川にはワニがいたんでしょうね!(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit表記は図内左下)



どう解釈するべきか?


ファースト・コロニー基金のチームを「チームA」、もう一方を「チームB」としましょう。

チームAでは「ロアノークから西方80kmの砦に向かった」と考えており、サイトXの発掘では砦は見つからなかったものの、80~100人の人々が生活していただろうと述べています(根拠不明)。

チームBでは「ロアノークから南方80kmのハッテラス島に向かった」と考えています。

両方とも『80km』なのは偶然だとは思いますけども、重大な食糧難の渦中にある100名もの大集団がそれほどまでの距離を移動するものなのかなと、まずは疑問に思います。

移動するのであれば、相応の理由があったはずで、

①先住民による攻撃の手から逃げるため

②食糧難を克服するアテがあったため

が、真っ先に考えられます。

①に関して、ロアノーク植民地内で事前に決めていた約束事で、万が一「島を去るときには行き先を木か柱に刻んでいく」、さらに「緊急事態の場合には十字も彫っていく」というものがあります。

発見された文字は「CRO」、「CROATOAN」だけで、「十字文」は発見されませんでした。

素直に受け取ると緊急事態ではなく、ただ行先だけを記したことになります。

「CRO」はクロアトアンの略のようにも思えます。

クロアトアンは先住民とクロアトアン島(現在のハッテラス島)を指します。

そうなるとチームBの仮説の方が有力かなという気もしてきます。

ところが、気になる点も散見されます。

先住民は比較的穏やかで友好的と記録に残っているのですが、ホワイト総督がイギリスに一時帰還する前にノアロークの入植者の内の1名は先住民との争いの中で命を落としているのです。

またホワイト総督がノアロークに戻った時には、ノアローク植民地には以前にはなかった防御柵が張り巡らされていたと記録にあります。

こういった点から一部の先住民との争いがあった可能性も残っています。

特に当時の環境に関する研究から、彼らが入植した1585年頃からの10年間は降雨量が少なく、作物の生産量が低かったであろうことが指摘されています。

友好的とは言え、先住民も一枚岩ではなかったかも知れませんし、飢餓に悩まされれば争いになることは、人類史において常と言えるでしょう。

この先住民との争いに着目するとチームAの仮説が有力のようにも感じます。



両方とも正しい説!

歴史研究の場合、二つの仮説が対立して、両者とも正しいことがあり得ます。

両者とも違って、いきなりブラックホースが飛び出すこともありますが( -д-)ノ

今回の場合、入植者の数が100名規模と大きく、飢餓状態にあったことから分散して各方面に散らばったと考えているようです。

そうして散らばった人々は先住民文化に同化していったと結論付けています。

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私はもちろんこの研究テーマを専門としていませんが、個人的には、、、

チームAの仮説に関して、ノアロークの人々は砦に行くかな?ってやっぱり思うんですよね。

入植時期等々から考えて、「砦って建設予定」であって、砦は当時なかった気がするんですよね。

食料の備蓄があるわけでもないのにそんなとこに飢饉の中、心機一転行くでしょうかね?

少なくとも「砦の建設には最適な条件」なのでしょうから、一部の先住民の襲撃から逃げる先としては良いと思いますけどね(*・ω・)ノ

当時のイギリスはスペインに負けじと北米に入植するために力を入れていたわけで、ホワイト総督も大量の食料と人員を連れて戻ってきて、重要拠点であるノアローク植民地やその周辺の探索を行ったわけです。

ホワイト総督は砦のことを計画した人物ですからその存在は知っているでしょうし、クロアトアンと刻まれていれば、クロアトアンの集落も訪ねるでしょう。

僅か3年後ですよ?

同化する?Σ(・ω・ノ)ノ

「あ~助けに来てくれた!ノアロークに戻ります~」ってならん?( ・Д・)

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野ざらしにされた場合、ヒトの白骨化は1週間から数か月で十分です。

長く見積もっても1年あれば足ります。

私の『憶測』だと、ホワイト総督の出港後、飢饉の中で一部の先住民の襲撃を受けて、防御柵を設置、その後耐え切れそうになくなり、クロアトアン集落の本拠地に助けを求めたが半ばで全員死亡( ・Д・)

まぁこの説だと考古学的な証拠は見つからないので困るのですけどね( -д-)ノ

誰かクロアトアン集落に辿り着いていれば、そこにはロンドンを二度も訪れ、エリザベス1世から貴族の称号さえ受けているマンティオという先住民もいたでしょうし、無下には扱われないでしょう。

ホワイト総督の到着前に死亡したとしても手厚く葬られるでしょうし、ホワイト総督にそのことを告げるでしょう。

葬られてさえいれば、考古学的に色々と分かるのですが、野戦で殺されて、ないし力尽きて野ざらしだと何も残らないでしょう。

今後の調査と陶器片などの遺物のデータ収集成果に期待するのは当然ですが、現状、私的には全員死亡です( ・Д・)


おわりに ー考古学研究の壁ー

チームAの見解によるとチームBの成果も取り入れ、ノアロークの人々は四散した可能性があると考えています。

こうしてなかなか自ら、他者の意見を受け入れることは少ないと思うので、面白いなと思ってますが、お互いがお互いを批判できない状態にあることも一因でしょう。

前回の『地図に秘められた謎の記号』ように新た歴史史料が発見されない限り、今後も発掘調査によって地道なデータ集めをして検証を行っていく必要があります。

つまり考古学の出番なわけですが、ここに考古学研究における一つの壁が立ちはだかります。

それは『時間』です( ・Д・)

考古学では主に土器や陶器を型式学的研究法によって分類し、時期ごとに変化を追って、編年を組みます。

結果、土器や陶器はタイムスケールとして機能するわけですが、この時間幅が問題になってくるのです。

現代の食品のように「製造年月日」が書いてあれば楽なのですが、そんなことはありません。

土器や陶器の部分的な変化に着目して時期を判定しているわけなので、「変化していなければ分からない」のが事実です。

今回のお話は16世紀のイギリスをはじめとするヨーロッパ産陶器が年代の手がかりとなる主要な遺物です。

この頃の陶器の様式はさほど大きく変化していなかったようですし、モノの保ちも良いので長く使用されたり、生産を終えた後も長く販売されることもあります。

ホワイト総督が帰ってきたのは僅か3年後ですし、20年後にはジェームズタウンから南下してきた人々もいます。

1650年までには英国商人が多数流入していたことも考えると、長く見積もっても僅か100年の間を細分する必要があるのです。

時期・地域、特定の出土状況にもよりますが、考古学的には100年はけっこう短いスケールです!

感覚的には50年ごとの細分が出来たらかなり優秀だと思います。

なので、「ノアローク集団失踪事件」を解明するためには、「徹底した時期の細分」が一つの目標になると思います。

仮に使用条件が極めて限定されたものだとしても、ここでもし画期的な方法が開発されたら、今後の考古学の未来は明るい気がしますヾ(´ω`=´ω`)ノ

ところで、、、

「古代マヤ人集団失踪事件」にも基金を募りたい!( ・Д・)



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