2021ねん 1がつ 27にち(すいよーび、くもり)
もう1月が終わってしまう~ヽ(TдT)ノ
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↑白い大きな石がごろごろ転がってるね( ・Д・)(「東愛知新聞」の記事内画像より転載;現在、リンク先が存在しない)
今回の考古学・歴史ニュースは「古墳時代のお墓の石が、戦国時代のお城の石になったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ
さて、今回の舞台は愛知県豊橋市、大塚南古墳です。
上に挙げた写真で分かるように、調査のトレンチ内には真っ白な石というか岩がごろごろ転がっていますね。
何の岩石なのか分かりませんが、白い色調と解像度の甘さが相まって、私には大きなレキが骨のように見えてしまいました( -д-)ノ
さて、今回紹介する大塚南古墳は国指定史跡である馬越長火塚古墳群の中のひとつです。
ちなみに馬越長火塚古墳群は6世紀末~7世紀初頭に東三河地方を治めた豪族の墓とされている前方後円墳です。
これまでに朝鮮半島由来の金銅装馬具が出土し、大和王権との関わりが推定されているそうです。
一方で大塚南古墳は直径約19mの円墳で、今回初めて石室内部が調査されました。

上に挙げたどの写真でも、結局白い岩がごろごろしてるだけのように思えるのですが、実はこれ、大塚南古墳の内部にある横穴式石室の残骸のようです( ・Д・)
どういうことかと言うと、本来石室を構成していた側壁の石材がほとんど持ち去られているのです。
つまり後世の人間活動による破壊を受けているわけですが、古墳の石材をお城の石垣として再利用する事例がこれまでにいくつか確認されています。
こうした古代の遺跡の石材を後世の人が利用する事例は世界的に見られるのですヾ(´ω`=´ω`)ノ
今回のケースでは大塚南古墳から持ち去られた石材が、近くに位置する吉田城の石垣に使われた可能性があるようです。
ちなみに古墳から吉田城までの距離は約8kmということで、ありえそうな距離感ですね(*^・ェ・)ノ
おわりに
最後に挙げたのが豊橋市内にある吉田城です。
戦国時代の16世紀初頭に最初の築造が行われ、江戸時代には吉田藩の政庁として機能しました。
石垣の石材を調べたら、大塚南古墳から持ち出した石材を特定することが出来たりしないものなのでしょうかね?
直接利用されているのではなく、運んだ後に再加工されていると難しいかも知れませんが、絞ることくらいはできそうですね(*^・ェ・)ノ
もし出来たらお城の説明として深みが出る!( ・Д・)
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