2021ねん 4がつ 27にち(かよーび、晴れ)

4コマ漫画でマヤ文明知識を普及させたい(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースは日本の井戸の歴史について考古学で分かってることを調べてみたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は三重県、松坂市の古轡通りB遺跡と、岡山県、岡山市の鹿田遺跡です。

今回はニュースではなく、考古学調査で見つかった井戸について紹介します。


ところで、日本における縄文時代ってとても特徴的で面白いと思うのですが、、、

世界史的な見方をすると縄文時代は中石器時代~新石器時代に相当します。

でも竪穴住居に定住しているんですよね( ・Д・)

人間に限った話ではないですけども、やはり私たちの生活に「水」は不可欠であり、海水じゃダメなわけです。

なのでヒトは古くから河川の水や湧き水を利用して生きてきました。

縄文時代の人々も水を容易に利用できるように河川の傍に集落を作る傾向にありました。

そのせいか縄文人は「井戸」を使っていませんでした。


日本における井戸の使用開始は弥生時代と考えられています。

初めは湧水部を掘ることで穴を大きくして湧き出る水の量を増やそうとしたようです。

弥生時代と言えば農耕の本格的な開始ですから、農業には多量の水が必要なわけで井戸の使用開始と重なるのも納得ですね(*・ω・)ノ

では実際に、発掘調査で検出された井戸を時系列順に見ていきましょう!


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↑弥生時代後期の井戸(「岡山大学 埋蔵文化財調査センター報第 4号 1990」p.3の写真6より転載)

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↑弥生時代後期後半の井戸(「岡山大学 埋蔵文化財調査センター報第 4号 1990」p.2の写真2より転載)

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↑古墳時代の井戸(「三重県埋文センター通信 みえ no.28 1999」p.1の写真を転載)

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↑12世紀前半の井戸(「岡山大学 埋蔵文化財調査センター報第 4号 1990」p.2の写真3より転載)


井戸の検出状況の写真を並べましたが、弥生時代と古墳時代の井戸にはいずれも土器が入ってますね。

これは井戸の廃棄の際に儀礼を行ったためです。

鹿田遺跡では弥生時代の井戸だけで27基も見つかっているのですが、つまりそれだけ水が枯れやすかったのでしょう。

井戸を廃棄する際に、「枯渇してしまった水の復活」を願って土器を奉納したのだと考えられています。

こうした奉納品は井戸の底から完形の土器として綺麗に出土することもありますが、写真のように割れてしまっている事例も多いです。

でも接合してみると完形に戻ることから、壊れた土器を適当に捨てたわけではないと推測しています(*^・ェ・)ノ


弥生時代の井戸は素掘りの井戸で、岩盤の固いしっかりしたところを直接掘って井戸を作ります。

この時点では井戸の廃棄に伴って、壺や甕、高坏、鉢といった多種の器種を奉納し、またその数量も多いのです。

弥生時代の終わりから古墳時代になると井戸の木枠や矢板が登場します。

これは柔らかい岩盤を掘った際に、壁面が崩れてこないように支えるために使用するものです。

上の3枚目の古墳時代の井戸は平面形状が円形ですが、これは大きな樹を刳り貫いて木枠として使用した事例です。

この時期には奉納品は甕が主体となり、1点のみが奉納されるケースが多くなります。

共用で使う井戸に対する集団的な井戸祭祀から、個人による井戸祭祀へと移り変わっていったと推測されています。

その後、古代の時期には木組みの井戸が一般的となり、奉納品は斎串(いぐし;木製のまじない札)が選ばれます。

中世では石組み井戸が主体となり、奉納品は色々なものが捧げられるようになります。

古来より水神が大好きと言われる馬を1頭丸々捧げた事例もあるのですΣ(・ω・ノ)ノ


↓前回の井戸のニュース記事!(*・ω・)ノ


↑水と馬を関係づける風習は古くからあるのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


おわりに

長々と井戸の技術的な変遷と、廃棄儀礼の変遷を簡単に書き連ねましたが、、、

うん、個人的にはとても勉強になった!( ・Д・)

世の中、知らないことばかりですね( -д-)ノ

とにかくこれで私も皆さんも「井戸の歴史マスター(日本編)」ですね!

良かった、良かった・・・


ところで、最初に井戸の底を見下ろした写真を挙げて、貞子出そうって書きましたが、

怖いのはダメ!( ・Д・)



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