
(「沖縄タイムスプラス」の画像より転載)
📰はじめに
沖縄・那覇。現在の県庁や市役所が立つその場所には、かつて 陶器(やちむん)を焼く村 がありました。しかし、1944年10月10日の朝、米軍の猛烈な空襲がこの地を襲い、 湧田(わくた)村 は一夜にして焼け落ちたのです。近年、その痕跡が本格的な発掘調査で明らかになり、瓦や陶器の破片、焼け焦げた土の痕跡などが見つかりました。80年の時を越えて、戦争によって奪われた人々の日常、そして文化が、静かに語り始めています。
あるけまや風に言えば──戦火に飲まれた窯の炎。その火とともに消えてしまった笑い声、釉薬をかける手のぬくもり、やちむんを囲んだ暮らし。今、地中から掘り起こされるのは、戦争という暴力だけでなく、そこにあった「文化」と「生活」の証拠です。
🔍 湧田村とは何だったのか — 瓦と陶器の村の歴史
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湧田村は那覇市の現在の 県庁敷地や泉崎あたり にあった集落で、古くから瓦や陶器を生産する「湧田窯(やかまや)」が存在した。
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歴史を遡ると、1616年ごろにはもう陶器づくりが行われていたという記録があり、琉球王国時代から続く窯業の地だった。
那覇の伝統的な陶器「やちむん/琉球焼(琉球やき)」も、この湧田村の窯から発展してきた可能性があります。
💣 10・10空襲の惨禍 — 一夜にして村が焼け落ちた日
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1944年10月10日、米軍機による「10・10空襲(テン・テン空襲)」が那覇を襲撃。
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空襲は朝6時45分ごろ始まり、延々と爆撃が続き、那覇市街のおよそ 90%が焼失したという記録が残る。
湧田村もその被害の中心のひとつで、発掘調査では 焼けた地面(黒焦げ・赤茶の土)、瓦や陶器の破片、溶けたガラス などが発見されている。
🧱 発掘調査で見えてきた村の日常の断片
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那覇市の県庁敷地で行われている 県立埋蔵文化財センター の発掘調査で、湧田村の遺構が詳しく調べられている。
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調査で見つかった遺構の面積は 700~800平方メートル に及び、焼けた足跡(火災痕)が広く残っていた。
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下層からは 窯の床面や炉跡 とみられる構造も確認され、近世後半〜近代にかけての陶器製造拠点の実態が具体化してきている。
金属加工用の炉やるつぼも出土しており、陶器だけでなく複合的な工業活動があった村であったことがうかがえる。
🔥 炎が焼いた景色、そして壊れた暮らし
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発掘現場には 割れた陶器の色絵器 が散らばっており、当時の生活の豊かさ、そして喪失の深さを物語っている。
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屋根瓦が破損し、建物の穴や爆弾痕とみられる穴が複数あったとの報告もあり、 爆撃の激しさと建物の構造破壊 を示している。
地中に残された焼土層は 高温の炎が地面を焼いたまま固まった証拠 で、空襲の火災が古い住宅地を文字どおり焼き尽くしたことが鮮明に残されていた。
🕊️ 証言が伝える「戦争の日の記憶」
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当時を生き延びた住民の証言には、「あたり一面が焼け野原になった」「爆撃とともにナパーム(焼夷弾?)が降ってきた」といった、強烈な記憶が語られている。
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10・10空襲は沖縄戦の始まりを象徴する事件ともされ、市内にはその被害の記憶を伝える証言や資料が多数残されている。
発掘調査の意義は、単に「壊れたものを見る」だけでなく、 生活を営んでいた人たちの断片を掘り起こすこと にあり、戦後世代への継承の一歩となっている。
🌱 湧田村の遺産とこれから — 戦争と復興、文化の再生へ
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発掘調査は 2024年11月から始まり、令和7年度(2025年度)まで継続予定。
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今後、出土遺物や遺構は報告書や展示を通じて 広く一般に公開される見込み がある。
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かつて焼け落ちた窯の跡が、人々の記憶と結びついて 平和のメッセージを伝える場 になる可能性も指摘されている。

↑やぱ焼失跡として生々しいな!( ・Д・)
(「琉球新報」の画像より転載)
おわりに






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