
↑マヤの記事は緊張するけど、今回気を遣ってない気がする!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは「メキシコ・カンペチェ州のマヤ遺跡エル・パルマルで、マヤ低地最古とみられる長期暦の日付が確認されたぞ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ
📰 はじめに
確認された可能性が高い日付は、
長期暦 8.7.1.0.0
西暦に直すと、
180年8月31日
である。
これまで、マヤ低地で最古の長期暦をもつ石碑としてよく知られていたのは、グアテマラのティカル石碑29だった。
その日付は西暦292年。
つまり今回の発見は、それより112年も古いことになる。
これは、かなり大きい。
でも同時に、マヤ考古学的にはちょっと面倒くさい( ・Д・)
なぜなら、マヤ文明の「古典期」という時代区分そのものが、長期暦をもつ石碑と深く関係しているからだ。
では、西暦180年の長期暦がマヤ低地で見つかったら、古典期は180年から始まるのか。
それとも、従来通り250年ごろからでよいのか。
あるいは、原古典期の中に吸収して考えるべきなのか。
今回は、この面倒だけど面白い問題を見ていきたい。
🏛️ まず、エル・パルマルとはどこなのか
エル・パルマルは、メキシコ南東部、カンペチェ州にある古代マヤ都市である。
現在のメキシコ南部からグアテマラ北部に広がるマヤ低地の一角に位置する。
この地域は、古典期マヤの王国や都市国家が数多く展開した場所である。
ティカル。
カラクムル。
ナランホ。
ヤシュハ。
エル・ミラドール。
ベカン。
そしてエル・パルマル。
こうした都市は、それぞれ独自の王朝、神話、政治関係、戦争、同盟、祭祀を持っていた。
つまり、マヤ文明といっても、ひとつの統一国家ではない。
多くの都市国家が並び立つ世界だった。
だから、マヤ文明の始まりや発展を考えるときも、「マヤ全体が一斉に同じ段階へ進んだ」と考えると危ない。
都市ごとに、国家形成の時期も、王権の形も、石碑建立のタイミングも違っていた可能性が高い。
今回の発見は、まさにそのことを思い出させてくれる。
📜 長期暦とは何か
今回の主役は、長期暦である。
長期暦は、マヤ碑文を読むうえで非常に重要な暦である。
ざっくり言えば、神話的な起点からの日数を数え続ける暦だ。
だから、長期暦が石碑に刻まれていると、現代の西暦に換算して、その出来事がいつ起きたのかをかなり正確に考えることができる。
これは考古学的には非常にありがたい。
土器型式や建築段階だけではなく、碑文に具体的な日付が出る。
王が即位した。
戦争があった。
儀礼が行われた。
石碑が建立された。
そうした出来事を、暦の上に置くことができる。
だから長期暦は、単なるカレンダーではない。
歴史を記録する道具であり、王権を示す道具であり、時間そのものを政治化する道具だった。
王は、自分の行為を宇宙の時間の中に刻む。
これがマヤの石碑文化のすごいところである。
🗿 石碑は、王の広告塔でもあった
マヤの石碑、つまりステラは、ただの記念碑ではない。
そこには王の姿が彫られる。
豪華な衣装をまとい、神や祖先と関係し、儀礼を行い、戦争や即位を記録する。
そして、その横には長期暦や暦日、称号、出来事が刻まれる。
つまり石碑は、王の広告塔であり、歴史記録であり、神話的な演出装置でもあった。
現代風に言えば、
「私はこの日に、この儀礼を行った」
「私はこの王朝の正当な支配者である」
「私の権力は、神聖な時間の中に位置づけられている」
というメッセージを、公共空間に立てるものだった。
だから、長期暦をもつ石碑の登場は、単なる文字文化の発展ではない。
王権の発展でもある。
王が時間を使い始めた、ということなのだ。
🔍 今回の発見は何が新しいのか
今回調査されたのは、エル・パルマルの石碑20、45、46である。
このうち特に重要なのが、石碑46だ。
石碑46は以前から知られていたが、風化が激しく、碑文の読み取りがとても難しかった。
そこで研究チームは、フォトグラメトリーと高解像度3Dスキャンを組み合わせ、石碑表面のわずかな凹凸をデジタルモデル化した。
その結果、肉眼では読み取りにくかった文字の輪郭が見えやすくなった。
そして、石碑46に長期暦 8.7.1.0.0 が刻まれていた可能性が高いことが示された。
西暦180年8月31日である。
ただし、ここで大事なのは、「完全に疑いなく確定」というより、「現時点で最も妥当な読み」ということだ。
碑文はかなり傷んでいる。
研究者たちも、別の読みの可能性を完全には排除していない。
それでも、この石碑がマヤ低地における非常に早い長期暦の記録であることは、かなり重要である。
🐆 王は神の頭を抱えていた?
石碑46は、日付だけでなく図像も面白い。
そこには、支配者が描かれていたとされる。
しかも、その人物は、冥界と関係するジャガー神の頭部のようなものを抱えている可能性がある。
これは、かなりマヤっぽい。
マヤの王は、ただ政治的な支配者だったわけではない。
神々と関わり、祖先と関わり、儀礼を行い、宇宙の秩序を保つ存在でもあった。
王が神の頭部を抱える姿は、その王が神聖な力と関係していることを示す可能性がある。
つまり、石碑46は単に「古い日付がありました」という資料ではない。
王が神聖な儀礼を行い、その出来事を長期暦で記録した可能性がある。
ここが重要である。
長期暦は、ただの数字ではない。
王の身体、儀礼、神話、権力と結びついていたのだ。
👑 西暦131年の即位も見えてくる?
さらに興味深いのは、石碑46の碑文が、180年の出来事だけではなく、それ以前の王権継承にも関わる可能性があることだ。
研究では、エル・パルマルの王アハウ・カアル・ウバーが、西暦131年に即位した可能性が示されている。
そして、その49年後に、石碑46が建立され、王が儀礼を行った可能性がある。
もしこれが正しければ、エル・パルマルでは2世紀前半にはすでに王権が成立していたことになる。
これはかなり早い。
しかも、後の石碑20や石碑45も、エル・パルマル王朝の継承や称号の連続性を示している。
つまり、エル・パルマルは一時的に古い日付を刻んだだけの場所ではない。
長く続く王朝の歴史を持っていた可能性がある。
西暦180年の石碑は、その始まり近くにある記録なのかもしれない。
🧩 ここで古典期の定義が面倒になる
さて、ここからが面倒な話である。
マヤ考古学では、古典期はだいたい西暦250年から900~1000年ごろとされる。
この時代は、マヤ低地で長期暦をもつ石碑が盛んに建立され、都市国家が発展し、王朝史が碑文に記録される時代である。
つまり、かなり乱暴に言えば、
マヤ低地で長期暦付きの石碑が本格的に建てられる時代
が古典期なのである。
そして、これまで古典期開始を考えるうえで重要だったのが、ティカル石碑29だった。
ティカル石碑29の日付は西暦292年。
そこから、古典期の開始を少し前倒しして、だいたい250年ごろとする考え方が使われてきた。
ところが、今回エル・パルマル石碑46で西暦180年の長期暦が出てきた。
では、古典期は180年から始まるのか。
うーん、面倒である( ・Д・)
🌀 古典期を180年開始にすればよいのか
単純に考えるなら、こう言いたくなる。
「最古の長期暦付き石碑が180年なら、古典期も180年開始でいいじゃん!」
でも、話はそんなに簡単ではない。
時代区分は、ひとつの発見で機械的に変えるものではない。
古典期とは、単に最古の日付を示すラベルではない。
都市国家の発展。
王権の制度化。
石碑建立の広がり。
碑文記録の一般化。
大規模建築の展開。
政治的ネットワークの形成。
こうした複数の現象をまとめるための時代区分である。
だから、エル・パルマルで180年の長期暦が見つかったとしても、それだけでマヤ低地全体が古典期に入ったとは言いにくい。
むしろ、こう考えた方がよいかもしれない。
西暦180年のエル・パルマルは、古典期的な王権表現をかなり早く始めていた。
しかし、それがマヤ低地全体に広がるのは、もう少し後だった。
つまり、古典期的なものは、ある日突然始まったのではない。
原古典期の中で、少しずつ準備され、地域ごとに異なる速度で現れたのだ。
🏺 原古典期に吸収するのが現実的かもしれない
今回の発見をどう整理するか。
個人的には、原古典期(1~250 CE)、あるいは終末先古典期から古典期初頭への連続的変化の中に位置づけるのが、現実的な理解ではないかと思う。
つまり、
「古典期の開始が180年に早まった!」
と単純に言うより、
「マヤ低地の一部では、原古典期の段階ですでに古典期的な王権表現と長期暦の使用が始まっていた」
と考える方がよい。
この方が、マヤの実態に合っていると思う。
そもそも、古代マヤにはたくさんの都市国家がある。
それぞれが同じタイミングで国家になったわけではない。
それぞれが同じタイミングで滅んだわけでもない。
ティカルの歴史。
カラクムルの歴史。
コパンの歴史。
パレンケの歴史。
エル・パルマルの歴史。
それぞれ違う。
だから、国家成立期もバラバラでよい。
むしろ、バラバラである方が自然だ。
📌 もっと古い長期暦はある、でも問題はそこではない
ここで注意したいのは、今回の発見が「メソアメリカ全体で最古の長期暦」ではないということだ。
もっと古い長期暦の例や候補は、マヤ南部高地、太平洋岸域、あるいはマヤ外のメソアメリカ世界にもある。
だから、今回の発見を、
「マヤ文明そのものにおける長期暦の最初」
と単純に言うと少し危ない。
(そもそもマヤ文明の定義も面倒である( ・Д・))
今回の重要性は、あくまでマヤ低地にある。
マヤ低地で、王権の出来事と結びついた長期暦が、西暦180年までさかのぼる可能性が出た。
ここが問題なのだ。
なぜなら、古典期マヤの中心的特徴は、まさにマヤ低地の王たちが長期暦を使って自分たちの歴史を石碑に刻むことだからである。
つまり、今回の発見は、長期暦の起源そのものよりも、
マヤ低地の王権が、いつから長期暦を政治的に使い始めたのか
という問題に関わる。
ここが重要である。
⏳ 歴史は、きれいな線では区切れない
時代区分は便利である。
先古典期。
原古典期。
古典期。
後古典期。
こう分けると、説明しやすい。
でも、現実の歴史は、そんなにきれいに線で区切れるわけではない。
多くの変化は連続的である。
王権は少しずつ制度化する。
文字は少しずつ使われる。
石碑は少しずつ政治化する。
都市は少しずつ拡大する。
儀礼は少しずつ変化する。
そして、ある地域では早く進み、別の地域では遅く進む。
その結果、後から見ると「古典期の始まり」のような境界があるように見える。
でも、実際にはその境界の前後に、たくさんの中間的な状態がある。
エル・パルマル石碑46は、まさにその中間的な状態を見せているのかもしれない。
まだ古典期と呼ぶには早い。
でも、すでに古典期的な王権表現がある。
そういう、境界の上にある資料である。
👀 ティカル中心史観から少し離れる
今回の発見は、ティカル中心の見方を少し揺さぶる。
もちろん、ティカルはものすごく重要である。
マヤ低地最大級の都市であり、古典期マヤを考えるうえで外せない。
ティカル石碑29が、古典期開始を考えるうえで重要だったのも当然である。
でも、ティカルが最初だったとは限らない。
ティカルがすべての基準になるわけでもない。
エル・パルマルのような都市が、ティカルより前に長期暦を使い、王権を表現していた可能性があるなら、マヤ低地の政治発展はもっと多中心的に考える必要がある。
古典期マヤは、ひとつの中心から広がった文明ではない。
複数の都市が、それぞれのタイミングで王権を発展させ、互いに影響し合いながら、マヤ低地全体の政治文化を作っていった。
今回の発見は、その多中心性をよく示している。
🧠 王はなぜ時間を使ったのか
では、なぜ王は長期暦を使ったのか。
これはとても重要な問題である。
王が石碑に日付を刻むという行為は、ただの記録ではない。
それは、自分の行為を宇宙の時間に接続することでもある。
マヤの王は、儀礼を行う。
神や祖先と関わる。
政治的な権威を示す。
そして、その出来事を長期暦に刻む。
これは、
「私の支配は一時的なものではない」
「私の王権は、神聖な時間の中に位置づけられている」
「この出来事は、忘れてよいものではなく、石に刻まれるべき歴史である」
という主張でもある。
つまり、長期暦は王権の道具だった。
時間を記録することは、時間を支配することに近い。
エル・パルマル石碑46は、その政治的な時間支配が、マヤ低地でかなり早く始まっていた可能性を示している。
🌆 国家成立は、一斉には起こらない
今回の発見を考えるうえで、もう一つ大事なのは、国家成立の地域差である。
マヤ地域には多くの都市国家があった。
だから、マヤ国家の成立も一斉ではないはずだ。
ある都市では、早くから王権が制度化した。
別の都市では、少し遅れて石碑文化が発達した。
また別の都市では、巨大建築はあっても、長期暦碑文はまだ少ない。
ある地域では、先古典期の大規模社会が崩れた後に、新しい王権が現れる。
こうしたバラつきは、むしろ当然である。
現代の研究では、マヤ文明を一枚岩のように見るよりも、都市ごとの発展史、地域ごとの政治動態、ネットワークの変化として見る必要がある。
エル・パルマル石碑46は、その意味でとてもよい資料である。
それは「古典期の開始日を変える資料」というより、「国家成立の速度が都市によって違ったことを示す資料」として重要なのだと思う。
⚠️ ただし、まだ慎重さは必要
もちろん、今回の読みには慎重さも必要である。
石碑46はかなり風化している。
3Dスキャンによって見えやすくなったとはいえ、全ての文字が完全に明瞭なわけではない。
研究者たちも、別の日付の可能性を完全には排除していない。
また、日付が180年だとしても、それがマヤ低地全体の時代区分を即座に変えるわけではない。
重要なのは、今回の発見を大げさにしすぎないことだ。
「古典期が完全に書き換わった!」
というより、
「古典期的な王権表現が、従来考えられていたより早く、少なくとも一部地域で始まっていた可能性が強まった」
くらいに見るのがよいと思う。
その方が、研究としては誠実である。
✨ おわりに
今回のエル・パルマル石碑46の発見は、かなり面白い。
西暦180年の長期暦。
マヤ低地最古級の日付。
王の儀礼。
ジャガー神の頭部。
エル・パルマル王朝の長い歴史。
そして、古典期の始まりをめぐる面倒な問題。
単に「古い日付が見つかった!」というだけではない。
この発見は、マヤ文明の時代区分そのものを考え直すきっかけになる。
ただし、答えは単純ではない。
古典期を180年開始にすれば解決、という話でもない。
むしろ重要なのは、マヤ低地の各都市で、王権や長期暦や石碑文化が、異なるタイミングで発展していたことを認めることである。
歴史は、教科書のようにきれいに区切れない。
先古典期が終わった翌日に、古典期が始まるわけではない。
社会は連続的に変化する。
でも、その中で、ある都市が早く新しい政治文化を取り入れることがある。
エル・パルマルは、その一例かもしれない。
西暦180年。
マヤ低地のどこかで、王はすでに時間を石に刻んでいた。
それは、古典期の始まりを告げる鐘だったのか。
それとも、原古典期の中で静かに生まれた、古典期的王権の先触れだったのか。
どちらにしても、石碑46は、マヤ考古学を少しややこしく、そしてかなり面白くしてくれる資料である。
こういう面倒くささこそ、考古学の醍醐味なんだよね( ・Д・)
科学技術が進展してることだけは間違いないぜ!( ・Д・)









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