2026ねん 7がつ17にち(きんよーび、くもり)

毎日半歩でいいから進めば良いのだなという気持ちになた( ・Д・)
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↑レアな発見って昔は嫌いだったな!( ・Д・)





今回の考古学・歴史ニュースは

北イタリアの18世紀墓地「モルトリーノ」の地下墓室から、布に包まれ、毛髪まで残った新生児の小さな木棺が発見され、近世ヨーロッパの子どもの死、葬送、健康状態を知る極めて貴重な資料になるかもしれない( ・Д・)」

ってお話です(*・ω・)ノ




📰 はじめに


地下墓室の暗がりから、土に潰されることなく残った小さな木棺が現れた。

棺は、大人のものとは比べものにならないほど小さい。

考古学者たちが慎重に内部を確認すると、そこには生まれて間もなく亡くなった赤子の遺骸が、葬られたときとほとんど同じ姿勢で横たわっていた。

身体は布でしっかりと包まれ、その頭には毛髪まで残されていた。

およそ200年以上の時間が過ぎているにもかかわらず、木棺と布、骨、そして髪が、ひとつの埋葬としてそのまま残っていたのである。


それでは今回は、発見地サン・フィオラーノと18世紀北イタリアの社会、教会と墓地の関係、当時の乳幼児死亡、そして長らく考古学の中で見えにくい存在だった「過去の子どもたち」の研究史を見ながら、この小さな木棺へと近づいていきましょう!( ・Д・)




🏘️ ミラノの南東にある小さな町、サン・フィオラーノ

発見地のサン・フィオラーノは、北イタリアのロンバルディア州ローディ県にある町である。

大都市ミラノから見れば南東方向に位置し、ポー川流域に広がる平野の農村地帯に含まれる。近くにはコドーニョがあり、歴史的には農業と地域交通によって成り立ってきた土地だった。

今回調査された墓地は、町の人々から親しみを込めて「モルトリーノ」と呼ばれている。

直訳すれば「小さな死者の場所」や「小さな墓地」といった響きを持つ名称で、現在では墓地と礼拝空間が一体となった歴史的建造物として残されている。

中央の空地を四方から回廊が囲む「クアドリポルティコ」と呼ばれる構造を持ち、回廊の壁にはキリストの受難を描いた「十字架の道行き」が並んでいる。

しかし、その静かな回廊の床下には、かつて町で暮らしていた人々を納めた複数の地下墓室が隠されていたのである。





⛪ 墓地であり、祈りの空間でもあった「モルトリーノ」

モルトリーノは、単に遺体を埋めるためだけの空間ではなかった。

回廊には28の区画が設けられ、そのうち14区画には、イエスが処刑場へ向かい、十字架に掛けられ、埋葬されるまでを表した「十字架の道行き」が描かれた。

これらの壁画は1767年、ヴァレーゼ出身の画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ロンケッリによって制作されたとされる。ロンケッリはローマでも絵画を学び、ロンバルディア地方を中心に宗教画を残した18世紀の画家だった。

遺族や町の人々は、回廊を歩きながらキリストの苦難を追体験し、その足元に眠る死者のために祈ったのだろう。

つまりモルトリーノでは、地上の壁画が救済の物語を示し、その真下の地下墓室には、救済を祈られた町の人々の身体が納められていた。

建築、絵画、祈り、そして埋葬が、ひとつの空間として結び付いていたのである。


⚰️ 教会のそばに死者が眠っていた時代

中世から近世にかけてのヨーロッパでは、死者を教会の内部や、そのすぐ周囲へ葬ることが広く行われていた。

教会は礼拝を行う建物であると同時に、死者と生者が共存する場所でもあった。

聖人や祭壇の近くへ葬られることは、死後の救済に近づくと考えられた。身分の高い人々は教会内部の床下や個別の墓室へ入り、一般の人々は教会墓地や共同の納骨施設へ葬られる場合が多かった。

日曜日になれば、住民は自分たちの親、祖父母、兄弟、そして早くに亡くなった子どもたちの上を歩き、礼拝へ向かったことになる。

現代の都市では死者の空間と生活空間が分けられているが、近世の村では、死者は共同体の外へ完全に追い出された存在ではなかった。

教会の鐘が鳴る場所に、何世代もの住民が積み重なるように眠っていたのである。


🇦🇹 赤子が生まれたのは、まだ「イタリア」がなかった時代

モルトリーノが使われた18世紀後半、現在のような統一国家としてのイタリアはまだ存在していなかった。

ロンバルディア地方の多くはオーストリア・ハプスブルク家の支配下にあり、女帝マリア・テレジアや皇帝ヨーゼフ2世の時代には、徴税、行政、教育、医療、宗教制度などを国家が整理し直す改革が進められた。

啓蒙思想の広がりとともに、墓地もまた宗教だけの問題ではなく、公衆衛生や都市行政の問題として捉えられるようになる。

教会内部や人口密集地で繰り返される埋葬は、臭気や地下水汚染、感染症への不安と結び付けて議論された。

そしてフランス革命とナポレオン戦争によって北イタリアの政治体制が大きく変化すると、墓地を市街地の外へ移す政策が本格化した。

1804年にフランスで定められたサン=クルー勅令の原則は、1806年以降イタリアにも導入され、原則として居住地域や教会内部での埋葬を避け、町の外に公共墓地を整備する方向が示された。





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🚪 1808年、古い墓地は役割を終えた

モルトリーノの墓地としての使用は1808年に終了した。

町の北西側に新しい墓地が設けられ、そこが祝別されたことで、古い回廊墓地へ新たな死者を葬る必要がなくなったのである。

モルトリーノの地下墓室に納められた人々は、主として1767年頃から1808年までのおよそ40年間に亡くなった住民と考えられている。

今回発見された新生児も、この期間のどこかで生まれ、ほとんど成長する時間を与えられないまま、小さな木棺へ納められた可能性が高い。

ただし現段階では、この赤子の正確な埋葬年、名前、家族関係は発表されていない。

町の洗礼簿や埋葬簿などに該当する記録が残っていれば、将来的に埋葬された人物を絞り込める可能性はあるが、棺だけから名前を読み取ることはできない。


👶 「生まれた子どもの多くが亡くなる」社会

18世紀から19世紀初頭のヨーロッパでは、乳幼児の死は現在よりはるかに身近だった。

早産、難産、低出生体重、先天的な疾患に加え、肺炎、胃腸炎、天然痘、百日咳、破傷風など、現在であれば治療や予防が可能な病気が新生児の生命を奪った。

衛生的な出産設備も、抗生物質も、近代的な新生児医療も存在しない。

母乳が十分に得られない、母親が出産時に死亡する、乳母へ預けられる、汚染された代替乳を与えられるといった事情も、乳児の生存を左右した。

北イタリアの歴史人口学研究では、19世紀に入ってからも乳児死亡が極めて高く、特に冬の寒さが新生児死亡の増加と関連していたことが示されている。低い室温、栄養状態、感染症、家族の経済状態が重なれば、生まれたばかりの子どもの生命は容易に失われた。

ただし、今回の赤子がなぜ死亡したのかは、まだ分かっていない。

「当時は乳児死亡が多かった」という一般的背景だけから、この子の死因を感染症や栄養不良と決めつけることはできないのである。


💧 生まれるとすぐに洗礼を受けた子どもたち

カトリック社会では、洗礼は子どもを宗教共同体へ迎え入れる重要な儀礼だった。

そのため乳児死亡の多い時代には、生まれてからできるだけ早く洗礼を行うことが重視された。

18~19世紀のイタリアでも、出生後の早い段階で洗礼を行う慣習が長く続いていた。

これは宗教的には、洗礼を受ける前に子どもが死亡することへの強い不安があったためである。他方で、冬に生まれた赤子を寒い屋外へ連れ出し、教会まで運ぶこと自体が健康上の負担になるという矛盾もあった。

洗礼を受ける前に死亡した子どもの埋葬をめぐっては、中世以来複雑な問題が存在した。

正式な墓地へ入れられず、教会の軒下や境界部分など、通常とは異なる場所へ葬られた例も考古学的に確認されている。

しかし地域、時代、聖職者、家族の判断によって実際の扱いは異なり、教会の公式教義と、我が子を丁寧に葬りたい親の感情が常に一致したわけではなかった。

今回の赤子は、小さいながらも木製の棺へ納められ、布で包まれて地下墓室に安置されていた。

洗礼を受けていたかどうかは不明だが、少なくとも誰かがその身体を整え、布を巻き、棺を作り、共同体の墓地へ運んだのである。





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😢 子どもが多く死んだなら、悲しまれなかったのか?

過去の乳幼児死亡を語るとき、「昔は子どもがすぐ亡くなったため、親もそれほど深く愛着を持たなかった」という説明がなされることがある。

しかし、これはあまりにも単純である。

死亡が頻繁だったことと、悲しみが小さかったことは同じではない。

手紙、祈祷書、墓碑、奉納品、教区記録などには、子どもを失った親の悲嘆が記されている。考古学的にも、小さな身体を丁寧に包み、専用の棺や墓を用意し、家族の近くへ葬った事例が数多く見つかっている。

今回の木棺も豪華なものではない。

単純な木板を組み合わせた小さな棺だった。

しかし、新生児のために身体の大きさへ合わせた容器が作られ、布で包まれ、地下墓室へ納められたという一連の行為には、少なくとも葬送を行った人々の手間と意思が残されている。

貧しい家族であっても、亡くなった子どもを「何もなかった存在」として扱ったとは限らないのだ。


🦴 それなのに、子どもの骨は遺跡から消えてしまう

近世社会で乳幼児死亡が多かったのであれば、墓地からも大量の子どもの遺骸が見つかるはずである。

ところが、発掘された墓地では、歴史人口学から予想される人数より、乳幼児の骨が少ないことが珍しくない。

この不一致は、長らく「子どもたちはどこへ消えたのか?」という考古学上の問題となってきた。

理由のひとつは、子どもの骨そのものが小さく、薄く、壊れやすいことである。

新生児の骨格はまだ成長途中で、多くの骨が完全には結合していない。土壌が酸性であったり、地下水が出入りしたりすれば、大人の太い長骨よりも早く分解される。

浅く掘られた墓は、後世の建築工事、農耕、動物の活動によって壊されやすい。

さらに昔の発掘では、小さな骨片が人骨として認識されず、動物骨や瓦礫とともに見落とされることもあった。子どもの骨が少ないことは、その社会に子どもが少なかったことを、そのまま意味しないのである。


📚 「王と戦士」から「子どもの人生」へ

初期の考古学では、豪華な副葬品、武器、王墓、宮殿、巨大建築などが研究の中心となった。

歴史を動かした人物として想像されるのも、多くの場合は成人男性だった。

日常生活を担った女性、老人、障害のある人々、そして幼い子どもは、物質的な痕跡が見えにくいため、研究の外側へ置かれがちだった。

しかし20世紀後半以降、考古学と人類学の方法が発達すると、子どもの身体そのものから過去の社会を読み解く「子どもの生物考古学」が成長していった。

子どもは社会の未完成な付属物ではない。

食事を与えられ、教えられ、働き、遊び、病気になり、家族や地域社会の価値観を身体に受けて成長する存在である。

子どもの骨を調べれば、その社会が最も弱い構成員をどのように育て、どのような危険へさらしていたのかが見えてくる。

現在では乳幼児や若年者の遺骸を、年齢、成長、栄養、病気、暴力、移動、授乳と離乳、葬送儀礼など、複数の方向から分析する研究が進められている。





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🔬 小さな骨から、どこまで人生を読めるのか

新生児の年齢は、単に骨格の大きさだけで判定するわけではない。

長骨の長さ、頭蓋骨や下顎骨の大きさ、骨化の段階、そして顎の内部で形成されつつある乳歯などを組み合わせて推定する。

特に歯の形成は、栄養状態などによって大きく変化しやすい身体全体の大きさより、年齢推定に役立つ場合がある。

胎児期の何週頃まで成長していたのか、出産後に数日あるいは数週間生存していたのかについても、保存状態が良ければ検討できる可能性がある。

骨の表面には、感染症や代謝性疾患の痕跡が残ることもある。

ビタミンD不足によるくる病、ビタミンC不足による壊血病、貧血、慢性的な炎症などは、条件が整えば骨の異常として識別できる。

ただし新生児は生存期間が短いため、病気が骨へ痕跡を残す前に死亡している場合も多い。

骨に病変がないからといって、健康だったとは限らないのである。


🧬 歯、骨、髪、布――ひとつの棺に残った複数の資料

今回の埋葬が重要なのは、骨だけが発見されたのではない点にある。

木棺、身体を包んだ布、毛髪、そして遺骸の位置関係が一体となって残っていた。

毛髪はケラチンを主成分とするため、皮膚や筋肉より分解されにくいことがある。保存状態が良ければ、形状の観察だけでなく、元素や同位体を調べ、一定期間の食生活や移動歴を検討できる場合もある。

布からは繊維の種類、織り方、製作技術、染料、修繕痕などを調査できる。

それが特別に用意された死装束なのか、日常的に使われた布なのか、あるいは乳児を包む「産着」に近いものだったのかという問いも生まれる。

ただし、今回の布の材質や織り方についてはまだ公表されていない。「布に包まれていた」という事実から、直ちに高価な衣服や特殊な儀礼を想定することはできない。


🌡️ なぜ、200年以上も髪と布が残ったのか

通常、毛髪や布、皮革、木材、軟部組織などの有機物は、埋葬後に微生物や昆虫によって分解される。

地中の水分、酸素、温度、酸性度、塩分、微生物相などの条件が少し違うだけで、同じ墓地でも保存状態は大きく変わる。

モルトリーノの地下墓室では、温度、湿度、空気の流れ、周囲の化学環境が特殊な組み合わせとなり、通常は失われる物質の一部が残ったと研究チームは考えている。

ほかの埋葬からも、布、皮革、毛髪、爪、軟部組織、さらには脳組織とみられる物質まで確認されているという。

脳は人体の中でも速やかに分解されると考えられがちだが、世界各地の考古資料を集成した研究では、特定の環境下で脳だけが残る例も多数確認されている。

しかし、地下墓室の湿気は「保存に良い環境」と単純に呼べるものではない。

同じ湿気と水の浸入が、回廊壁画を劣化させ、建物の保存を脅かしている。

人体の一部を偶然残した環境が、文化財である壁画には破壊的に作用しているのである。


🧹 発掘の目的は、宝探しではなかった

モルトリーノの地下墓室調査は、珍しい遺体を探すためだけに始められたわけではない。

繰り返される水の浸入と高湿度によって、地下墓室の壁から水分が上昇し、回廊の「十字架の道行き」を傷めていた。

そこで地下墓室を清掃・整備し、湿気の原因へ対処する保存修復事業が進められることになった。

墓室内の人骨は、作業中に破損させたり混乱させたりしないよう、一時的に取り出し、記録、整理、分析する必要があった。

調査は地域団体「イル・クアドリポルティコ」とサン・フィオラーノ市が支援し、クレモナ、マントヴァ、ローディ各県を管轄する考古学・美術・景観監督局の監督下で実施されている。





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🌍 世界から学生が集まった地下墓室のフィールドスクール

地下墓室の調査を担っているのは、AITA Bioarchaeologyが開催する国際的なフィールドスクールである。

考古学、人類学、法医学、生物学などを学ぶ学生や専門家が各国から参加し、考古学者・形質人類学者のナターシャ・シャルキッチと、生物工学・解剖学を専門とするロベルト・チゲッティらの指導を受けている。

最初の本格的な実習は2025年に行われ、参加者は防護服、手袋、マスクなどを着用して地下墓室へ入り、人骨と有機物を慎重に回収した。

目的は、1767~1808年頃のサン・フィオラーノ住民の健康、食生活、病気、死亡年齢、葬送方法を復元することだった。

そして2026年、第2回の調査中に、極めて保存状態の良い小さな木棺が姿を現したのである。


⚰️ 壊れずに残っていた、小さな板張りの棺

木棺は、装飾を施した豪華なものではなかった。

簡素な木板を組み合わせて作られた、赤子の身体に合わせた小さな棺だった。

しかし通常、木材は腐敗し、棺の天板が落ち、内部へ土や瓦礫が流れ込む。

遺骸は押し潰され、骨の配置は崩れ、布や毛髪は失われる。

ところが今回の棺は、全体の構造が例外的なほどよく残っていた。

内部には新生児の遺骸が、葬られた当時の位置を保ったまま横たわっていた。身体は布によってしっかりと包まれ、その頭部には毛髪が確認された。

木棺、遺骸、布、毛髪が、本来の位置関係を保ったまま発見されたことこそ、この発見の最大の価値なのである。


🧵 布の包み方は、最後に赤子へ触れた人の動きを残す

骨だけが残った墓では、遺体がどのような服を着せられていたのか、誰が身体を整えたのかを知ることは難しい。

しかし布が残れば、身体のどこを覆い、どの方向から巻き、どの程度きつく包んだのかを観察できる。

それは抽象的な「葬送習慣」だけではない。

亡くなった赤子を持ち上げ、布を広げ、その身体へ巻き付け、棺の中へ置いた誰かの手の動きである。

母親だったのか、父親だったのか、助産婦だったのか、親族だったのか、聖職者だったのかは分からない。

それでも布の重なりや身体の姿勢は、200年以上前に行われた最後の世話を、物質として残している。


🦷 この赤子は、どれほど生きたのか

今後、研究チームは骨と歯を調べ、死亡時年齢をさらに詳しく推定する予定である。

報道では「新生児」とされているが、それが出産直後に死亡した子どもなのか、数日あるいは数週間を生きた乳児なのかは、分析結果を待つ必要がある。

早産だった可能性もあれば、満期まで成長して出産された可能性もある。

骨の長さと発達段階、歯胚の形成状況を比較すれば、胎児期の成長状態や出生後の生存期間について、一定の推定ができるかもしれない。

感染症や代謝性疾患を示す変化も調査される。

さらに保存状態が許せば、DNA、安定同位体、毛髪、軟部組織などから、血縁、食生活、母乳、病原体などを研究できる可能性がある。

ただし、DNA分析や病原体の検出が成功するとは限らず、現段階で性別や死因が判明したわけでもない。


🧠 ひとりの赤子から、町全体の歴史へ

この木棺だけを調べても、18世紀サン・フィオラーノの乳児死亡率全体を求めることはできない。

しかし地下墓室に葬られたほかの乳幼児、成人、老人を合わせて分析すれば、町の人口構成や健康状態が見えてくる可能性がある。

どの年齢層が多く死亡しているのか。

男女で栄養状態に違いがあったのか。

感染症や歯の病気はどれほど広がっていたのか。

子どもの成長は現代人と比べて遅れていたのか。

地下墓室ごとに埋葬された人々が家族集団を形成していたのか。

骨の同位体から、地元で生まれた住民と、外から移住してきた人々を区別できるのか。

個々の死者を丁寧に記録することによって、文書に名前を残さなかった農村住民の生活史を組み立てられるかもしれない。


♻️ 調べ終わった遺骨は、元の場所へ戻される

モルトリーノの人骨は、研究機関の標本として永久に持ち去られる予定ではない。

地下墓室の清掃と保存処置、そして必要な人類学的分析が完了した後、回収された遺骨は元の場所へ戻される方針である。

これは、遺骨を単なる研究材料として扱うのではなく、現在の地域住民と歴史的につながる人々の身体として尊重するためでもある。

考古学的な情報を記録しながら、壁画と建築を守り、最終的には死者を再び墓地へ戻す。

今回の事業では、考古学、人類学、文化財修復、地域史、死者への倫理的配慮が、ひとつの地下墓室で重なっている。


🕯️ 名前を失っても、髪は残った

この赤子の名前は、今のところ分からない。

男児だったのか女児だったのかも分からない。

どの家に生まれ、母親がその身体を抱くことができたのか、何時間あるいは何日生きたのか、家族がどのような言葉で別れを告げたのかも分からない。

しかし、その存在が完全に消えてしまったわけではなかった。

小さな木棺が残った。

身体を包んだ布が残った。

そして、頭に生えていた毛髪が残った。

歴史書に名を記されなかった赤子が、200年以上の時を越え、身体の一部とともに私たちの前へ戻ってきたのである。

この発見の価値は、珍しい「保存遺体」が見つかったという驚きだけではない。

過去の人口統計では数字のひとつとなり、教区記録では短い一行で終わり、考古学では小さすぎて失われがちだったひとりの子どもが、棺、布、髪、そして誰かに丁寧に包まれた姿によって、再び個人として立ち現れたことにある。

モルトリーノの地下墓室から見つかった小さな棺は、乳幼児死亡が日常だった時代にも、ひとつひとつの小さな身体には人生があり、それを見送った人々がいたことを伝えている。

200年間残った毛髪は、死者の身体の一部であると同時に、その赤子を最後に抱き、布で包んだ人へと続く、細く切れそうな歴史の糸なのだ!( ・Д・)




なにはともあれ……

200年前なら日本だとたくさん事例がある気がする!







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