2026ねん 7がつ22にち(すいよーび、晴れ)

暑くてつらいが頑張らねば!( ・Д・)
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↑考古学系の画像暗いのばかりになりがちだから、青は映えるぜ!( ・Д・)





今回の考古学・歴史ニュースは

今日は、埼玉県鴻巣市の生出塚遺跡で、約30年ぶりとなる新たな埴輪窯3基と、原料を掘り出した粘土採掘坑が隣り合って発見され、そこから「巫女」と呼ばれる人物埴輪まで出土した――派手ではないけれど、古墳時代の生産と流通を考えるうえで本当に大切な発見だって( ・Д・)」

ってお話です(*・ω・)ノ




📰 はじめに


土の中から現れたのは、黄金の冠でも、巨大な石室でもなかった。

焼けて赤黒くなった土。

炭の混じった地層。

斜面状に掘り込まれた、埴輪を焼くための窯跡。

そして、そのすぐ近くに残されていた、原料の粘土を掘り出した穴だった。


一見すれば、海外で相次いで報じられる王墓や黄金製品、保存状態の良いミイラなどと比べて、ずいぶん「地味」な発見に見えるかもしれない。

けれども考古学にとって重要なのは、必ずしも最も美しく、最も高価で、最も目立つ遺物ではない。

誰が、どこで、どの材料を使い、どのような設備で作り、それをどこへ運んだのか。

その一連の仕組みが残っている場所こそ、過去の社会を動かした人間、技術、労働、流通、権力を読み解くための、極めて重要な証拠なのである。


それでは今回は、そもそも埴輪とは何だったのか、人物埴輪の「巫女」は何を表しているのか、東日本最大級の生産拠点・生出塚遺跡がどのように研究されてきたのかを見ながら、今回発見された三つの窯と粘土採掘坑へ近づいていきましょう!( ・Д・)


🏺 そもそも埴輪とは何だったのか

埴輪は、古墳の墳丘や周囲に立て並べられた、素焼きの土製品である。

最も基本的なのは、筒状の胴体に帯を巡らせた円筒埴輪で、古墳の縁や段の上に列を作って配置された。

その後、家、盾、武器、船、馬、鳥、猪、人間などを表現した形象埴輪も作られるようになる。

埴輪は単なる墓の飾りではない。

古墳という空間の境界を示し、死者のための儀礼を構成し、古墳を築いた首長や有力者の権威、社会的地位、他の集団との関係を表現したものと考えられている。大量の埴輪を製作して古墳へ並べるには、粘土、燃料、職人、運搬者、食料、作業場所を組織する力も必要だった。

つまり埴輪は、古墳に葬られた人物の世界を表す造形物であると同時に、その人物が生前に動員できた労働力や生産組織の大きさを示す資料でもある。


🧱 最初から人や馬の形だったわけではない

埴輪という言葉を聞くと、目と口に穴が開いた人物像を思い浮かべる人が多いかもしれない。

しかし、人物や動物を表現した埴輪は、埴輪の歴史の途中から登場したものである。

初期には円筒埴輪や壺形埴輪などが中心で、やがて家、盾、蓋、船といった器物を表す埴輪が加わった。5世紀頃になると女性や馬の埴輪が現れ、その後、武人、農夫、馬を引く人、楽器を演奏する人、鳥や鹿など、さまざまな存在が作られるようになった。

複数の人物や動物が古墳の上に配置されることで、宴会、儀礼、行列、狩猟、馬の飼育といった場面を構成していた可能性もある。

ひとつの埴輪だけを見るのではなく、それがどの埴輪と一緒に、古墳のどこへ置かれていたのかを見ることで、初めて物語が浮かび上がるのである。





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↑今回の舞台!( ・Д・)(「埼玉新聞」の記事内画像より転載)


👩 「巫女の埴輪」は、本当に巫女なのか

今回出土した人物埴輪は、報道や鴻巣市の資料で「巫女の埴輪」と紹介されている。

写真を見ると、幅のある髪形を表現した頭部から胸元にかけてが残り、首の周囲には玉を連ねたような装飾が表現されている。

ただし「巫女」という分類は、その人物の名前や職業が埴輪に書かれているから分かるわけではない。

考古学では、人物埴輪の髪形、衣服、首飾り、腕輪、持ち物、手の動作などを比較し、祭祀に参加した女性、酒や食物を捧げる女性、首長に仕えた女性などを推定してきた。

例えば、豪華な装身具を着け、腰に鈴の付いた鏡や袋を下げた女性埴輪は、祭りの中で中心的な役割を担った高位の女性、すなわち「巫女」と解釈されている。杯を捧げ持つ女性像も、神へ酒などを供える姿だった可能性が指摘される。

しかし、古墳時代の女性の役割は、現代の「職業」のように明確に分けられていたとは限らない。

祭祀を行う女性が、首長一族の構成員や地域の有力者でもあった可能性はある。

したがって今回の資料も、厳密には「祭祀に関係する女性を表現したと考えられる人物埴輪」と理解しておくのが安全だろう。


🗾 6世紀末、東日本では埴輪文化が続いていた

今回発見された窯跡は、古墳時代後期の6世紀末頃に位置付けられている。

この時期、近畿地方を中心とする政治的中枢では、巨大な前方後円墳の築造や埴輪生産が縮小しつつあった。

一方、関東地方ではなお多くの古墳が築かれ、人物や馬などを表現した埴輪も盛んに作られていた。

埴輪生産を考古学的に検討した研究では、5世紀後半以降、一か所の生産拠点から複数の古墳へ埴輪を供給する、より専門化・恒常化した生産体制が成立したと考えられている。その体制が近畿地方で衰退した後も、関東では埴輪生産が続いた。

その関東地方における代表的な大規模生産拠点のひとつが、今回の舞台となった生出塚遺跡なのである。


🏭 東日本最大級の「埴輪工場」生出塚遺跡

生出塚遺跡は、埼玉県鴻巣市東・天神地区に広がり、元荒川の低地を望む台地上に位置している。

1979年に埼玉県教育委員会の調査によって埴輪窯が確認されて以降、住宅建設や道路工事などに伴う発掘・試掘調査が繰り返されてきた。

今回の発見以前までに、埴輪窯40基、工房跡、粘土採掘坑、竪穴住居、古墳などが確認されており、5世紀末から6世紀末までのおよそ100年間、埴輪が作られていたことが明らかになっている。

ここで作られたのは円筒埴輪だけではない。

武人、貴人、女性、馬、家、水鳥、鹿、猪、盾、武器など、多種多様な形象埴輪が生産されていた。

その規模と製品の質から、生出塚は単に地域の小さな古墳へ必要な埴輪を供給した臨時の作業場ではなく、複数の古墳へ継続的に製品を送り出す専門的な生産地だったと考えられている。






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↑見つかった巫女の埴輪!( ・Д・)(「埼玉新聞」の記事内画像より転載)


🔥 埴輪は、土をこねれば完成するものではない

埴輪製作は、粘土を掘り出して形を作れば終わる仕事ではない。

まず、適した粘土を採取し、砂や小石、植物の根などを除き、必要に応じて別の土を混ぜながら、均一になるまで練る。

円筒埴輪では粘土紐を積み上げ、表面を整え、帯状の突起を貼り付け、穴を開ける。

人物や動物の埴輪では、胴体、腕、顔、髪、装身具などを別々に作り、接合しなければならない。

完成した埴輪は、すぐには焼けない。

厚い粘土の内部に水分が残ったまま加熱すれば、蒸気によって割れたり、爆発するように壊れたりするため、時間をかけて乾燥させる必要がある。

その後、窯へ並べ、薪を燃やし、温度と空気の流れを調整しながら焼成する。

途中で窯の温度が急激に変化すれば、何日もかけて作った埴輪が一度に失敗品となる。

生出塚から多くの破損品や焼成に失敗した資料が出土するのは、古代の職人たちが常に完璧な製品を作れたわけではなかったことも物語っている。


👥 埴輪の表面には職人の癖まで残っている

埴輪研究では、完成した形だけでなく、表面に残された刷毛目、粘土の接合方法、工具の痕跡、内面に刻まれた記号なども調べられる。

同じ方向へ繰り返し動く刷毛の痕や、粘土を押さえる指の動きには、製作者ごとの癖が残る場合がある。

こうした痕跡を比較することで、ひとつの古墳の埴輪を何人の職人が作ったのか、職人が小さな班に分かれていたのか、複数の班が共通する規格に従っていたのかを推定する研究が進められてきた。

古墳時代の大規模な埴輪生産では、4~5人ほどの小集団が複数組織され、同じ規格に従いながら大量の円筒埴輪を作った可能性も示されている。

一見すると同じように見える筒形の埴輪でも、細かな製作痕を追えば、名も残らなかった職人たちの手の動きが見えてくるのである。


🚚 鴻巣から埼玉古墳群、そして東京湾沿岸へ

生出塚の埴輪が重要なのは、巨大な生産地だったからだけではない。

製作技法や形、粘土、赤彩などを比較した研究によって、生出塚で作られた埴輪が、鴻巣周辺だけでなく、行田市の埼玉古墳群、千葉県市原市、神奈川県川崎市や横浜市など、東京湾沿岸の古墳へ運ばれていたことが分かっている。

埼玉古墳群では、古墳築造に用いられた石材、埴輪、土器などが離れた場所から集められていた。

河川を通じて人や物が移動し、埼玉北部から東京湾沿岸に至る広い交通ネットワークが形成されていた可能性が指摘されている。

壊れやすく、大きく、重い埴輪を遠方へ運ぶには、単に道があればよいわけではない。

埴輪を壊さずに積み、舟や陸路で運び、指定された古墳へ届ける人々が必要だった。

生出塚は、土器工房というより、原料調達、生産、品質管理、保管、輸送までを含む古代の物流拠点だったのである。






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↑画像が小さいが41 号窯遺物出土状況!( ・Д・)(「鴻巣市」の広報内画像より転載)


👑 埴輪の移動は、首長同士の関係を映している

遠く離れた古墳から、生出塚と同じ特徴を持つ埴輪が発見されるということは、単に「商品が売られた」というだけではない。

古墳を築いた首長が、生出塚の生産を管理する勢力へ埴輪を注文したのかもしれない。

職人や製作技術が派遣された可能性もある。

埴輪の贈与や供給が、政治的な同盟、婚姻関係、儀礼の共有、上下関係を表していた可能性も考えられる。

埴輪生産の研究は、中央の政治勢力と地方首長の関係、地方勢力同士の結び付き、技術の伝達、専門職人の組織化を考える重要な方法となってきた。埴輪は国家形成期の葬送儀礼と生産組織を結び付ける資料なのである。

だからこそ、生産地である窯跡の構造と分布を知ることが重要になる。

完成品だけを見ていても、その背後にあった生産体制までは十分に復元できないからだ。


🔍 発見のきっかけは、ひとつの住宅建設だった

今回の発見は、巨大な国家プロジェクトによる発掘から始まったわけではない。

個人住宅の建設予定地が埋蔵文化財包蔵地に含まれていたため、2025年11月18日に試掘調査が実施された。

すると地表から約1メートル下で、大量の埴輪片、焼けた土、炭などが見つかった。

そこに埴輪窯が残されている可能性が高く、予定されていた工事によって遺跡が破壊される範囲に含まれていたことから、記録保存のための本格的な発掘調査が行われた。

調査期間は2026年2月4日から3月31日まで。

その結果、新たな埴輪窯3基と粘土採掘坑が確認されたのである。

この調査は、生出塚遺跡における93回目の調査だったと報じられている。

一度の大発掘ですべてが判明したのではない。

住宅や道路が作られるたびに少しずつ調査区が開かれ、何十年もかけて古代の工房の輪郭がつなぎ合わされてきたのである。


🔥 30年ぶりに見つかった、41・42・43号窯

今回発見された3基には、既に知られていた40基に続いて、41号窯、42号窯、43号窯という番号が付けられた。

これによって、生出塚遺跡で確認された埴輪窯は合計43基となった。

新たな窯跡が確認されたのは、鴻巣市内では約30年ぶりである。

しかも今回の3基は、これまで窯が集中して確認されてきた範囲からやや離れた場所に位置していた。なぜこの場所に別の窯群が設けられたのかは、現段階では分かっていない。

操業時期は6世紀末頃とされ、生出塚における約100年間の埴輪生産のうち、終末に近い時期の施設と考えられる。

これは、生出塚の工房が最後にどの方向へ拡張したのか、窯の配置がどのように変化したのか、埴輪生産が終わる直前に何が起きていたのかを考える手掛かりとなる。






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↑43 号窯土層断面!( ・Д・)(「鴻巣市」の広報内画像より転載)



⛰️ 自然の斜面ではなく「人が作った土」に窯を掘った

今回の窯には、さらに珍しい特徴があった。

窯は通常、熱と炎が下から上へ抜けるように、自然の斜面を利用して築かれることが多い。

ところが今回の窯跡は、自然に堆積した地層へ直接掘り込まれていたのではなく、古墳時代かそれ以前に人間が積み上げた土を掘り込んで作られていた。

誰が、いつ、何のために最初の盛土を作ったのかは、今後の検討が必要である。

古い造成地を再利用したのか。

窯を築くために、職人たちが意図的に斜面を造成したのか。

別の施設や古墳に関係する盛土が、後になって窯場へ転用されたのか。

現段階で結論は出せないが、自然の地形へ窯を並べただけではなく、人間が土地そのものを作り変えながら生産空間を整備した可能性が浮かび上がる。


⛏️ 窯のすぐ隣に見つかった粘土採掘坑

さらに重要なのが、窯跡のすぐ近くから粘土採掘坑が見つかったことである。

粘土採掘坑とは、埴輪を作る原料となる粘土を掘り出した穴である。

生出塚では以前にも粘土採掘坑が確認されていたが、埴輪窯と隣接した状態で発見されたのは鴻巣市内で初めてで、全国的に見ても珍しい例とされる。

これは考古学的に非常に大きな意味を持つ。

完成した埴輪だけなら、それが別の場所で作られて運ばれてきた可能性もある。

窯だけなら、原料をどこから運んできたのか分からない。

しかし、粘土を採取した穴と埴輪を焼いた窯が並んでいれば、

粘土を掘る

粘土を精製する

埴輪を成形する

乾燥させる

窯で焼く

完成品を古墳へ運ぶ

という生産工程を、ひとつの場所の中で追跡できる可能性が高まる。

派手な一級品が一つ増える以上に、古代の生産システム全体へ近づける発見なのである。


👩‍🦰 「巫女」は粘土を掘った穴から出てきた

今回注目を集めた「巫女」の人物埴輪は、窯の内部ではなく、粘土採掘坑から出土した。

ほかにも馬形、家形、円筒埴輪などの破片が多数見つかっている。今回の主要出土品はいずれも破損品である。

なぜ原料を採取した穴の中に、完成または製作途中の埴輪が入っていたのだろうか。

粘土を掘り終えた後、不要になった穴が廃棄場所として使われ、焼成に失敗した埴輪や壊れた埴輪が捨てられた可能性がある。

窯から取り出す際に割れたもの、乾燥中に壊れたもの、運搬前の検品で不良品とされたものが含まれているかもしれない。

ただし、粘土採掘坑へ埴輪を廃棄した正確な経緯は、遺物の出土位置、重なり方、焼け具合、接合関係などを分析しなければ分からない。

この「巫女」が、古墳へ並べられる直前に壊れたのか、製作途中で失敗したのか、使用後に戻されたのかも、今後の研究課題である。


🗑️ 「失敗作」だからこそ分かることがある

美術品として埴輪を見るなら、破損品や失敗品より、完全な形へ復元できる美しい人物埴輪の方が価値あるものに見える。

しかし、生産技術を研究する考古学者にとって、失敗品は極めて重要である。

焼成中に割れた断面を見れば、粘土の厚さや混ぜ物が分かる。

歪んだ埴輪からは、窯の内部でどの方向から熱を受けたのかが見える。

表面だけが焼け、内部の焼成が不十分な資料は、窯の温度や酸素供給を考える材料となる。

接合部分が剥がれた腕や装飾品からは、職人がどの順番で部品を付けたのかが分かる。

完成品は職人が成功させた最終結果である。

失敗品は、そこへ至るまでの試行錯誤そのものを保存しているのだ。





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↑41、42 号窯土層断面図作成の様子!( ・Д・)(「鴻巣市」の広報内画像より転載)


📚 埴輪研究は「形の分類」から「生産組織」へ

埴輪研究では長いあいだ、円筒埴輪の形や帯、穴、表面調整などの変化を整理し、古墳の年代を決める研究が重視されてきた。

形象埴輪についても、武人、女性、馬、家、武器などの種類を分類し、その意味や配置を考える研究が行われた。

こうした分類と編年は、今でも考古学の基礎である。

しかし研究が進むにつれて、「何を表したのか」だけでなく、「誰がどのように作ったのか」「どこへ供給したのか」という生産と流通の問題も注目されるようになった。

製作痕から職人集団を復元する。

窯の数と操業期間から生産規模を推定する。

古墳出土品と窯跡出土品を比較し、供給先を特定する。

そこから首長間の政治関係や専門職人の管理体制を考える。

現在の埴輪研究は、かわいらしい古代の人形を眺める研究ではなく、古墳時代社会の経済、労働、技術、政治を読み解く研究へ広がっている。


🏠 普通の住宅建設が、古代史を一歩進める

今回の発見が示しているのは、都市の地下に残る遺跡を守る制度の重要性でもある。

埴輪窯は地上から見える巨大建築ではない。

現代の住宅地の下に埋まり、普通に歩いているだけでは、そこに1500年前の工房があるとは分からない。

今回も、住宅建設前の試掘調査が行われなければ、窯跡や粘土採掘坑は基礎工事によって壊されていた可能性がある。

調査後、遺跡そのものを現地に残せない場合でも、平面図、断面図、写真、三次元記録、土壌試料、出土品を保存することで、後の研究者が検討できる資料となる。

考古学上の大発見は、遠い砂漠や密林だけで起きるわけではない。

住宅地の一角で行われる数週間の記録保存調査が、古代の生産体制を塗り替えることもあるのである。


✨ 海外の黄金より地味でも、考古学的には大きい

黄金のマスクや王墓は、ひと目でその価値が伝わる。

美しい人物埴輪も、写真映えし、多くの人の関心を集めやすい。

それに対して、窯の断面、黒く焼けた土、炭の層、粘土を採った穴は、説明がなければ単なる土の色の違いにしか見えない。

けれども考古学は、珍しい物を集める学問ではない。

過去の人間社会が、どのような仕組みで動いていたのかを、物質的な証拠から復元する学問である。

今回の発見によって、生出塚の埴輪工人がどのような土地を選び、どのように窯を増設し、どこから原料を得て、6世紀末まで生産を続けていたのかを考えられるようになった。

さらに窯の年代と埴輪の特徴を比較すれば、どの古墳へどの時期の製品を供給したのかも、より詳しく追跡できるかもしれない。

「巫女」の顔は、今回の発見を象徴する美しい資料である。

しかし、考古学的にさらに重要なのは、その顔が粘土採掘坑のどの位置から、どの破片と一緒に、どのような状態で出土したのかという文脈なのである。


🔎 三つの窯から、これから分かること

発掘調査が終わっても、研究は終わらない。

むしろ遺物を洗浄し、接合し、図面を作り、窯の土層と出土位置を整理する段階から、本格的な分析が始まる。

41・42・43号窯は同時に使われていたのか。

一基が壊れるたびに、隣へ新しい窯を作ったのか。

窯ごとに焼かれた埴輪の種類は違うのか。

同じ職人集団が三基を管理したのか。

粘土採掘坑の土と埴輪胎土は一致するのか。

「巫女」や馬形埴輪は、同じ窯で焼かれたのか。

既に埼玉古墳群や東京湾沿岸で見つかっている埴輪の中に、新発見の窯と結び付く製品はあるのか。

一つひとつの問いに答えていけば、生出塚遺跡は単なる「窯が43基ある場所」ではなく、時間とともに変化した巨大工房として見えてくるだろう。


🏺 巫女の後ろにいた、名もなき職人たち

今回発見された人物埴輪が表した女性の名前は分からない。

それを作った職人の名前も、窯へ薪を運んだ人の名前も、粘土を掘った人の名前も残っていない。

けれども、粘土採掘坑から原料を掘り出し、何度も土を練り、髪や顔、首飾りを作り、乾燥させ、窯へ入れ、火の様子を見守った人々がいた。

窯の中では炎が走り、煙が立ち上り、熱で空気が揺れていたはずである。

焼き上がった埴輪の一部は、埼玉古墳群へ運ばれた。

さらに遠い製品は、河川を下り、東京湾沿岸の古墳へ旅をした。

一方で、割れた「巫女」は古墳へ向かうことなく、原料を掘り終えた穴の中へ置かれたのかもしれない。

1500年後、その失敗品あるいは廃棄品が、古代の工房全体を読み解く入口となった。

黄金の王冠は、ひとりの王の富を伝える。

けれども窯跡と粘土採掘坑は、社会を実際に動かした無数の人々の仕事を伝えてくれる。

30年ぶりに発見された三つの窯は、決して地味なだけの遺構ではない。

それは東日本最大級の埴輪工房が、どのように土地を整え、資源を集め、人を働かせ、製品を遠くへ送り出していたのかを記録した、古墳時代の生産現場そのものなのだ!( ・Д・)



なにはともあれ……

インパクト少ない地味な発見の方が考古学的には重要だったりするよね!( ・Д・)








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