
↑考古学系の画像暗いのばかりになりがちだから、青は映えるぜ!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは
「世界的なパスタの町グラニャーノで工場を広げようとしたら、地下から85基の墓とエジプトのスカラベ、エトルリアの青銅器、布や木の籠まで残る約2500年前の墓地が現れて、ローマ以前の南イタリアが想像以上に国際的だったぞ!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰 はじめに
パスタ工場を広げる。
工事の前に地面を調べる。
墓が見つかる。
一基ではない。
二基でもない。
発掘された面積は、およそ2000平方メートル。
そして、最終的に確認された墓は85基――。
しかも墓の中から出てきたのは、地元で作られた土器だけではなかった。
エジプトのナイル川デルタにあった交易都市ナウクラティス由来のスカラベ。
エトルリア系の青銅器。
銀製品。
動物を表した琥珀。
人間の姿を彫った象牙製の垂飾。
鉄剣。
文字の刻まれた器。
さらに、一部の石棺状の墓からは、本来ならとっくに腐ってなくなっているはずの布、木製品、植物繊維を編んだ籠まで残されていたのである。
場所はイタリア南部、ナポリの南東にあるグラニャーノ。
現在では世界的な「パスタの町」として知られる土地であり、発見場所の住所まで「ヴィア・デイ・パスタイ」――つまり「パスタ職人たちの通り」だった。
パスタ工場の地下から古代墓地が出てきたというだけでも十分おもしろい。
でも、あるけまや的に本当に大事なのは、そこではない。
この墓地は、ローマ帝国の墓地ではない。
ポンペイが西暦79年に火山灰へ埋まるより、600年以上も前。
ローマが南イタリア全体を支配するよりも前。
紀元前6世紀前半、ギリシア人、エトルリア人、エジプトや東地中海の品々が交差していた、もうひとつのカンパニア世界を記録した墓地なのである!( ・Д・)
🏭 発見場所は、現在も稼働するパスタ工場だった
墓地が見つかったのは、グラニャーノにあるパスティフィーチョ・ガロファロの工場敷地内である。
同社が生産施設を拡張しようとしたため、本格的な工事に先立って予防考古学調査が行われた。
調査はナポリ都市圏考古学・美術・景観監督局の科学的指導を受け、現地作業を考古学調査会社Geomedが担当した。
つまり工場の床が突然崩れ落ちて、作業員が墓へ落ちたわけではない。
開発予定地に遺跡が存在する可能性を確認し、工事で失われる前に調査する制度が機能したことで、地下の墓地を記録できたのである。
発掘調査は2025年初頭から始まり、およそ2000平方メートルが調べられた。
その結果、紀元前6世紀前半を中心とする85基の墓が確認された。発掘後の初期的な人骨調査では、これまでに成人16人、子ども4人、乳幼児15人が識別されているが、分析はまだ続いている。
85基の墓があるからといって、埋葬された人数がそのまま85人と決まるわけではない。
同じ墓へ複数の人物が葬られている場合もあれば、骨の保存状態が悪く、人数をすぐに数えられない墓もある。
ここから先は、頭蓋骨や長骨を並べて数えるだけではなく、骨の重複、年齢、性別、埋葬姿勢、墓の再利用などを一つずつ確認していく必要がある。
🌬️ なぜグラニャーノは「パスタの町」になったのか
グラニャーノは、ラッターリ山地とナポリ湾の間に位置する町である。
山から得られる水、風通しのよい地形、比較的安定した湿度は、近世以降の乾燥パスタ生産に適していた。
現在では「パスタ・ディ・グラニャーノ」が地域名を冠した食品として知られ、町には大小さまざまなパスタ工場が集まっている。ガロファロ社も18世紀末以来、この土地でパスタ生産を続けてきた企業である。
ただし、今回の墓地を使った人々がスパゲティを食べ、古代から同じパスタ産業を営んでいたという話ではない。
現在につながるグラニャーノの乾燥パスタ産業が発展するのは、墓地が使われた時代よりはるかに後である。
古代墓地と現代のパスタ工場の間に、直接的な産業の連続性が確認されたわけではない。
おもしろいのは、同じ土地が時代ごとに異なる形で、物、人、技術が集まる場所となってきたことだろう。
現在は小麦とパスタが世界へ送り出される。
約2500年前には、ギリシア、エトルリア、エジプト方面から来た品々が、この土地の有力者の墓へ納められていたのである。
🏺 墓地が作られたのは「ローマ以前」の南イタリア
墓地の中心年代は、紀元前6世紀前半と考えられている。
日本史でいえば弥生時代に当たる頃であり、ローマでは王政期の終わりへ向かっていた時代である。
しかし当時のローマは、後世のローマ帝国のように地中海全体を支配していたわけではない。
南イタリアでは、さまざまな在地集団、ギリシア系都市、エトルリア人などが並存し、交易し、争い、互いの技術や儀礼を取り入れていた。
後にポンペイやヌケリア、スタビアエが発展するナポリ湾周辺も、単一の民族や国家によって統一された世界ではなかった。
今回の墓地は、ソレント半島とサルノ平野を結ぶ地域にあり、ポンペイやヌケリアが大きな都市へ成長していく直前の社会を知る資料として注目されている。
考古学者がこの時代を「アルカイック期」と呼ぶ場合、それは単に「古めかしい」という意味ではない。
ギリシア世界を中心とした時代区分では、おおむね紀元前8世紀から紀元前6世紀頃を指し、都市国家、植民都市、文字文化、長距離交易、記念碑的な宗教建築などが大きく展開した時期である。
南イタリアでも、ギリシア系都市の成立とともに、陶器、金属器、宗教的な図像、文字、宴会文化などが広い範囲へ伝わった。

↑なんか刻まれてるね!( ・Д・)(「STORIE
& ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle
Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)
🗺️ ここは「古代スタビアエの領域」だった
グラニャーノ周辺は、古代にはアゲル・スタビアヌス、すなわちスタビアエの領域に含まれていたと考えられている。
スタビアエといえば、ヴェスヴィオ火山の噴火で埋まった豪華なローマ時代の別荘群が有名である。
海を望む丘の上には、色鮮やかな壁画、庭園、浴場、食堂を備えた巨大邸宅が築かれた。
そのため、スタビアエの考古学は長いあいだ、西暦79年に埋没したローマ時代の遺構を中心に語られてきた。
しかし今回の墓地は、その景観が形成される600年以上前に、人々がこの地域で社会を築き、死者を葬り、遠隔地との交換網へ参加していたことを示している。
ローマ時代の豪華別荘が突然何もない土地に出現したのではない。
その下には、青銅器時代、アルカイック期、サムニウム系社会、ローマ支配期という、何層もの地域史が重なっていたのである。
⚰️ 「ネクロポリス」は、死者を通じて生者を読む場所
ネクロポリスという言葉は、ギリシア語に由来する「死者の都市」という意味を持つ。
もちろん、死者が実際に店や家を構えて暮らしていたわけではない。
多数の墓が一定の区域へ集まり、道、墓標、墓域、家族ごとの区画などを構成する大規模墓地を、そのように呼ぶのである。
墓地から分かるのは、死者のことだけではない。
誰が大きな墓へ葬られたのか。
子どもにも副葬品が与えられたのか。
男女や年齢によって埋葬方法が違うのか。
どのような食器、武器、装身具が選ばれたのか。
輸入品を持つ者と持たない者の差は何か。
墓の大きさや副葬品の組み合わせを比較すれば、階層、家族、儀礼、性別役割、富の偏り、外部地域との結び付きが見えてくる。
ただし、墓の豪華さをそのまま生前の銀行残高と考えることはできない。
葬儀は死者本人が行うのではなく、遺された家族や共同体が行う。
豪華な副葬品は死者の財産であると同時に、葬った側が「この人物をどのような存在として記憶させたいか」を表現したものでもある。
今回の公式発表が、墓地を「高位エリートによる社会的自己表現」の資料として評価しているのも、そのためである。
⛏️ 実は、墓地の存在は1950年代から知られていた
今回、まったく未知の墓地が突然発見されたわけではない。
グラニャーノ周辺では1950年代、考古学者リベロ・ドルシによって、マドンナ・デッレ・グラツィエ地区の大規模墓地が調査されていた。
そこでは約300基の墓に由来する副葬品が回収され、現在はスタビア考古学博物館などで保管されている。
今回のヴィア・デイ・パスタイ墓地は、この既知の墓地が別方向へ広がっていた部分、すなわち同じ大規模墓域の延長である可能性が高い。
この点は、派手な「完全新発見」という言葉よりも、考古学的には重要である。
墓が85基増えたというだけではない。
以前に発見された約300基の墓と、新しい85基の位置、年代、副葬品、埋葬者を比較できるようになった。
古い発掘では十分に採取されなかった微細な骨、植物遺体、土壌試料、有機物も、現代の方法で回収できる。
70年ほど前の調査成果と最新の分析技術を接続することで、一つの地域社会をより広い範囲、より長い時間の中で捉えられるようになったのである。
🧱 凝灰岩の箱が、失われるはずのものを守った
今回の発見で特に珍しいのが、一部の墓に残っていた有機物である。
墓には、凝灰岩の板や石材で箱状の埋葬施設を作ったものがあった。
その内部から、布、木製品、植物繊維を編んだ籠などが確認されている。
監督局は、この年代の墓としては極めて例外的な保存状態であり、研究上特別な価値を持つとしている。
土器、石器、青銅器、金銀製品は、比較的長く地中へ残る。
一方で、人々の生活を実際に満たしていた衣服、木箱、籠、袋、紐、食物などは、多くの場合、微生物によって分解されてしまう。
その結果、考古学資料には「腐らない物が多く見え、腐る物が少なく見える」という大きな偏りが生まれる。
例えば、墓から青銅製の留め具だけが出土すれば、もともとそれが留めていた衣服は消えているかもしれない。
食物を入れた土器は残っても、食物を運んだ籠は消える。
木の柄が失われ、鉄の刃だけが残れば、道具の本来の姿も分からなくなる。
今回の墓では、その通常失われる側の物質が残った。
布の織り方や繊維を調べれば、服装や死者の包み方が分かるかもしれない。
籠の編み方からは、植物利用や手工業技術を復元できる。
木製品には、塗装、接合、工具痕が残っている可能性もある。
黄金一個より地味に見えても、社会を復元する情報量では、布の断片や籠の方が大きな意味を持つことがあるのだ。
🪲 なぜ南イタリアの墓に、エジプトのスカラベがあるのか
豪華な副葬品の中でも目を引くのが、ナウクラティス由来とされるエジプト系のスカラベである。
スカラベは、フンコロガシをかたどった護符や印章である。
古代エジプトでは、球状の糞を転がす昆虫の姿が、太陽の運行、再生、復活と結び付けられた。
そのためスカラベ形の小型製品は、生者を守る護符としても、死者の再生を願う副葬品としても用いられた。
今回の品が結び付けられているナウクラティスは、ナイル川デルタに成立した多民族的な港湾・交易都市だった。
ギリシア人商人をはじめ、エジプト、東地中海、アフリカ、中東方面の人や物が接触する重要な拠点であり、スカラベやエジプト風護符は地中海各地へ広く流通した。
ただし、墓にスカラベがあるからといって、埋葬された人物がエジプト人だったとは限らない。
本人がナイル川まで旅したとも断定できない。
ナウクラティスからギリシア系商人へ渡り、複数の港や仲介者を経て南イタリアへ届いた可能性もある。
重要なのは、一つの小さな護符が、グラニャーノの地域社会をナイル川デルタと地中海交易網へつないでいたことである。
⚒️ エトルリアの青銅器も、ギリシアの器も一緒に眠る
墓からはエトルリア系の青銅器や銀製品、装飾土器、青銅製の留め具、鉄剣、首飾り、象牙製品なども見つかった。
さらに、ギリシア系のアッティカ陶器や、エトルリアと結び付く黒色土器ブッケロなど、異なる文化圏に由来する品々が含まれている。
これらを見て、
「この墓はエトルリア人」
「こちらはギリシア人」
「スカラベがあるからエジプト人」
と、遺物一個につき民族一つを割り当てることはできない。
人は、自分の生まれた土地で作られた物だけを使うわけではない。
輸入品を購入する。
贈り物として受け取る。
外国風の品を地元で模倣する。
権威や教養を示すため、あえて遠方の様式を選ぶ。
古代カンパニアの有力者は、ギリシア風の宴会用食器を使い、エトルリア系の金属器を持ち、エジプト風護符を身に着けながら、地域固有の言語や儀礼を保っていたかもしれない。
墓の中で複数文化の品が一緒になること自体が、当時の社会の姿なのである。

↑土器の底部に刻文、いろんなとこで見られるね!( ・Д・)(「STORIE
& ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle
Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)
🍷 外来品は、宴会と権力を演出した
ギリシアやエトルリアの食器は、単なる輸入雑貨ではない。
古代地中海世界では、酒を混ぜ、注ぎ、飲むための器が、宴会儀礼と密接に結び付いていた。
有力者たちが集まり、食事と酒を共にし、贈り物を交換し、婚姻や同盟を確認する。
その場で外国製の美しい器を使うことは、遠隔地との関係、富、洗練された振る舞いを示す方法になった。
そして、生前の宴会で使われた器、あるいは宴会を象徴する器が墓へ納められる。
副葬品は「死後の生活用品」であるだけでなく、生前の社会的関係を墓の中へ再構成したものでもある。
今回の豪華な器や金属製品は、グラニャーノの一部の人々が、地域内部だけでは得られない品を入手し、それを社会的な権威へ変換できたことを示している。
✍️ 器に刻まれた文字と、消えた人の名前
いくつかの遺物には、アルファベット文字による落書きや刻書が見つかっている。
中には、器の元の所有者を示すと考えられる名前も含まれているという。
考古学では、文字が一文字あるだけで資料の見え方が変わる。
同じ形の杯が十個あっても、名前が刻まれていれば、それが集団共有の器ではなく、特定の人物に結び付く品だった可能性が生まれる。
異なる言語体系や文字の形を比較すれば、誰が文字を使い、どの文化圏の表記慣習を学んでいたのかも考えられる。
ただし、文字を刻んだ人物と、墓に葬られた人物が同一とは限らない。
器は贈与、売買、相続によって移動する。
名前入りの品を別人が所有することもある。
だからこそ、文字だけで結論を出すのではなく、墓の年代、他の副葬品、埋葬者の年齢や性別と組み合わせる必要がある。
🧜 セイレーンの小瓶は、死者に何をささやいたのか
出土品の中には、鳥の身体と女性の頭部を持つセイレーンをかたどった、テラコッタ製の小型容器もある。
紀元前580~550年頃のものとされ、香油などを納めた容器、バルサマリウムと考えられている。
この品は、現在ナポリ国立考古学博物館の展覧会で紹介されている。
現代では、セイレーンというと、美しい歌声で船乗りを誘惑する怪物として知られる。
古代ギリシア世界では死、境界、音楽とも結び付き、墓や葬送に関係する図像として表される場合があった。
しかし今回の容器が、どのような意味で墓へ入れられたのかは慎重に考える必要がある。
香油を入れる実用品だったのか。
死者の身体を整える儀礼に使われたのか。
外国風の珍しい品として所有されたのか。
あるいは、死者と異界を結ぶ存在として選ばれたのか。
一つの意味だけに固定するのではなく、容器の内容物、摩耗、墓の位置、他の副葬品との組み合わせを調べることが重要になる。
👶 乳幼児も、この墓地の歴史を構成していた
初期調査では、成人だけでなく、子どもや乳幼児の遺骸も確認されている。
これまでに識別された範囲では、成人16人、子ども4人、乳幼児15人とされる。数字は今後の分析で変わる可能性があるが、幼くして死亡した人々が相当数含まれていたことが分かる。
乳幼児の骨は薄く、小さく、分解されやすい。
過去の発掘では見落とされたり、十分に回収されなかったりすることもあった。
今回の調査で幼い子どもたちの遺骸を丁寧に記録できれば、乳幼児死亡、栄養、病気、家族構成、子どもの葬送について、新しい資料が得られる。
また、子どもの墓にどのような品が添えられたかを見ることで、その社会で子どもがどのような存在と考えられていたのかも検討できる。
豪華な副葬品を持つ子どもがいれば、社会的地位が本人の業績ではなく、家族や血縁によって受け継がれた可能性が強まる。
逆に、成人と子どもで墓の扱いが大きく異なれば、年齢によって社会的な人格や儀礼上の資格が変化したことも考えられる。

↑なんでこんな感じに撮影したのだろうか!( ・Д・)(「STORIE
& ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle
Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)
🦴 骨から、食事と移動まで調べる
発掘された人骨については、考古学、人類学、自然科学を組み合わせた分析が予定されている。
公式発表では、食生活、移動、生活環境などの復元が主要な研究課題に挙げられている。
骨や歯の形態からは、年齢、性別、成長、外傷、病気の痕跡を調べられる。
歯に残る虫歯や摩耗は、食事の性質を考える手掛かりとなる。
骨の安定同位体を分析すれば、動物性タンパク質や植物資源の摂取傾向、幼児期に育った地域について検討できる場合もある。
墓からエジプトやギリシアに関係する品が出たとしても、それだけでは人間自身が移動したのか、品物だけが移動したのか分からない。
もし歯や骨の化学的特徴から、遠方で育った人物が確認されれば、物だけでなく人もこの地域へ移住していた可能性が高まる。
一方、全員が地元で育っていたなら、遠隔地の商品を取り込んだ地域エリートの姿がより明確になるだろう。
🪨 墓地のさらに下には、もっと古い生活の跡があった
発掘では、アルカイック期の墓地より下層から、銅器時代や青銅器時代に属する構造物も確認された。
つまり、この場所の人間活動は紀元前6世紀に始まったわけではない。
墓地が作られるより何百年、場合によっては何千年も前から、人々が同じ土地を利用していたのである。
ある時代には人が暮らす場所だった。
その後、土地の使い方が変わり、死者を葬る墓地になった。
さらに長い時間が過ぎ、地表の記憶が失われると、近代的な町とパスタ工場が築かれた。
遺跡の地層は、一つの土地が永遠に同じ目的で使われるわけではないことを示している。
住居が墓地になる。
墓地が農地になる。
農地が工場になる。
私たちが現在見ている景観は、長い土地利用史の一番上にある薄い一層にすぎない。
🚧 予防考古学は、工事を止めるだけの制度ではない
開発工事で遺跡が発見されると、
「考古学のせいで工事が止まった」
という見方をされることがある。
しかし今回の事例では、工場側と文化財行政が協力し、拡張計画に伴う調査を実施した。
その結果、産業活動を行う企業が、地域の歴史を明らかにする研究を支える形となった。
監督局も、この発見を、民間事業と文化財保護が両立できる予防考古学の好例と評価している。
遺跡を一切掘らずに工事を続ければ、墓の位置や副葬品の組み合わせは永遠に失われる。
反対に、見つかった遺跡をすべて現地保存しようとすれば、現代の町や産業を動かせなくなる。
そこで、重要度、保存状態、工事内容を検討し、現地保存、設計変更、記録保存などを使い分ける。
今回の発掘区も、調査と記録を終えた後、遺構を保護するために埋め戻された。
「せっかく掘ったのに、また埋めるのか」と思うかもしれない。
けれども、石や土の遺構を露出したままにすれば、雨、乾燥、植物、温度変化によって急速に傷む。
十分な保存施設を建てられない場合、記録を取った上で再び土に覆うことは、遺構を守る現実的な方法なのである。

↑精巧な作品だね!( ・Д・)(「STORIE
& ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle
Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)
📦 重要なのは、豪華な宝物だけではない
報道では、エジプトのスカラベ、銀、青銅器、琥珀、象牙、鉄剣などが目立つ。
それらが貴重であることは間違いない。
しかし考古学的に本当に重要なのは、豪華な物だけをショーケースへ並べることではない。
スカラベが、どの墓の、遺体のどの位置から出たのか。
首飾りの一部だったのか。
袋や籠に入れられていたのか。
成人と子どものどちらに伴っていたのか。
同じ墓にエトルリア系青銅器やギリシア陶器があったのか。
布は身体を包んでいたのか、衣服だったのか、容器を覆っていたのか。
こうした位置関係が残って初めて、物が葬儀で果たした役割を考えられる。
盗掘品や出土地不明の美術品は、どれほど美しくても、この文脈を失っている。
パスタ工場の拡張予定地から出た墓地が大切なのは、85基の墓を一つの集団として調べ、遺体、副葬品、有機物、土壌を関連付けられるからなのである。
🏛️ 出土品は、どこで見られるようになるのか
発掘品の整理と分析は、これから本格化する。
今後の展示場所としては、古代スタビアエ地域との関係からポンペイ考古学公園の展示へ組み込む案や、グラニャーノで計画されるパスタ博物館に地域史資料として展示する案などが検討されている。
ただし、具体的な展示計画はまだ確定していない。
パスタ博物館に2500年前の墓地資料という組み合わせは、一見すると奇妙に見える。
しかし、地域の産業史だけを近世以降から始めるのではなく、その土地で人と物がどのように移動してきたのかを長期的に見せるなら、十分に意味のある展示になる。
古代の交易品と現代の輸出パスタは、同じ商品でも、同じ経済でもない。
それでもグラニャーノが、異なる時代に外部世界との関係の中で形作られてきたことを示すことはできる。
🍝 パスタの下に眠っていたのは、ローマ以前の国際社会だった
工場を広げようとした。
その土地から墓が出た。
さらに墓を調べると、エジプトの護符、エトルリアの青銅器、ギリシア系の器、琥珀、象牙、布、木、籠が出てきた。
一見すれば、偶然が重なった奇妙なニュースである。
しかし、この発見が見せているのは、珍品を集めた古代の宝箱ではない。
紀元前6世紀の南イタリアでは、地域の有力者が地中海各地の品を入手し、それらを食事、装身、儀礼、葬送へ組み込んでいた。
外国製品を所有できる家族と、そうではない家族がいた。
文字を使う者がいた。
鉄剣を伴って葬られる者がいた。
幼くして死亡し、小さな墓へ納められた子どもたちもいた。
布を織る者、木を加工する者、籠を編む者、凝灰岩を切り出して墓を作る者、死者へ品を供える者もいた。
スカラベ一個だけを見れば、エジプトの品である。
けれども、それがグラニャーノの墓へ置かれた瞬間、品物は地元の家族史、葬送、階層、感情の一部となった。
そして約2500年後、現代のパスタ工場を広げるための調査が、その関係を再び開いた。
工場の地下から現れたのは、単なる「古い墓地」ではない。
ローマ帝国が地中海を一つの政治世界へまとめるより前から、人、物、技術、思想が海を越えて動いていたことを示す、小さくも巨大な交差点だったのである。
パスタの町グラニャーノの地下には、エジプトの護符を身に着け、ギリシアの器で酒を飲み、エトルリアの金属器を受け入れながら、自分たちの死者を葬った人々の世界が眠っていたのだ!( ・Д・)
なにはともあれ……
まだ食べれそうなパスタって出土してないのだろうか!?( ・Д・)
↑「まだ食べれるよ?」シリーズの話ね!( -д-)ノ








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