
↑やぱ墓はいいよね、考古学者的に!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは
「エルサルバドルの首都郊外で、約3000年前の人骨がうつ伏せの状態で見つかり、海亀形の土器や火山灰に覆われたキャッサバ畑まで現れたけれど、この人物を早くも『最古の生贄』と呼んでよいのかは、まだ分からないぞ!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰 はじめに
火山灰の下から現れたのは、家でも神殿でもなかった。
人間の骨だった。
身体は、仰向けではない。
顔を地面へ向けた、うつ伏せの姿勢で葬られていた。
その傍らには、海亀をかたどった小さな土器。
さらに周囲の地層からは、かつてキャッサバを栽培していた畝や溝の痕跡まで見つかった。
場所は中米エルサルバドル。
首都サンサルバドルに隣接するアンティグオ・クスカトランの「パサヘ4遺跡」である。
人骨は2026年7月2日、発掘区の一つから発見され、同月21日に慎重な取り上げ作業が行われた。
人骨が埋まっていた層は、近隣のプラン・デ・ラ・ラグーナ火山活動による灰の下に位置しており、文化当局は暫定的に紀元前850年頃、すなわち今から約2900年前の埋葬と推定している。
しかし、まだ放射性炭素年代測定は終わっていない。
性別も分かっていない。
死因も分かっていない。
そしてもちろん、誰かに殺され、神々へ捧げられた人物なのかどうかも、現段階では証明されていない。
それにもかかわらず、この発見が「最古の生贄遺跡と関連か」と報じられているのは、エルサルバドル西部のチャルチュアパ遺跡で、過去に33人分の人骨が発見されているからである。
その多くは、うつ伏せで、手足を縛られたような姿勢を取り、集団的な人身供犠の犠牲者と解釈されてきた。
では今回の一人も、同じような犠牲者なのだろうか。
およそ700年以上も異なる二つの発見を、どこまで結び付けてよいのだろうか。
今回は、火山とともに生きた古代エルサルバドルの人々、キャッサバ農耕、ウスルタン様式土器、そしてメソアメリカ最古級の人身供犠研究を見ながら、このうつ伏せの死者へ近づいていきましょう!( ・Д・)
🗺️ 小さな国の地下に、巨大な歴史が重なっている
エルサルバドルは、太平洋に面した中央アメリカの国である。
国土は九州のおよそ半分ほどしかなく、アメリカ大陸の大陸部では最も小さい国だが、その狭い土地に火山、湖、肥沃な盆地、海岸平野が密集している。
古代の人々にとって、火山は恐ろしい災害の原因である一方、農作物を育てる肥沃な土壌を生み出す存在でもあった。
エルサルバドルの遺跡を発掘すると、住居、畑、墓、神殿の間に、何枚もの火山灰層が挟まっていることがある。
人々が土地を開き、作物を育てる。
噴火が起き、集落や畑が灰に覆われる。
しばらく後、別の人々がその上へ戻り、新しい生活を始める。
さらに別の噴火が、その生活を再び覆う。
地層には、人間の歴史と火山の歴史が交互に積み重なっているのである。
今回の発見場所であるアンティグオ・クスカトランは、現在では首都圏の市街地に組み込まれている。
住宅、道路、商業施設が並ぶ現代都市の地下に、紀元前の農地と墓が残されていた。
遠い密林の奥に放棄された遺跡ではない。
多くの人々が毎日歩き、車で通過する都市空間の下に、約3000年前の生活面が眠っていたのである。
🏺 紀元前850年は、「古典期マヤ文明」よりはるかに古い
暫定年代とされる紀元前850年頃は、メソアメリカ考古学では先古典期、あるいは形成期と呼ばれる時代に当たる。
ティカル、パレンケ、コパンなどで王たちが石碑を建て、マヤ文字で歴史を刻んだ古典期より、1000年以上も前である。
当時すでにメソアメリカ各地では、トウモロコシや豆、カボチャ、キャッサバなどを利用する農耕社会が成立していた。
メキシコ湾岸ではオルメカ文化が発展し、巨大石頭像や儀礼空間が作られていた。
グアテマラ高地、太平洋岸、エルサルバドル、ホンジュラスの間でも、土器、黒曜石、ヒスイ、儀礼様式などが動いていた。
小さな農村が存在する一方で、人口を集め、大規模建築を築く中心地も形成され始めていた時代である。
ただし今回の人骨を、すぐに「マヤ人」と呼ぶのは慎重でなければならない。
現在の国境はもちろん、16世紀に記録された民族名や言語集団を、そのまま紀元前9世紀まで遡らせることはできない。
当時のエルサルバドル中部に、どのような言語を話し、どのような自己認識を持つ人々が住んでいたのかは、文字記録から確認できない。
考古資料から分かるのは、周辺地域と技術や土器を共有しながら、地域固有の生活を営んでいた人々が存在したということである。
エルサルバドルの先古典期、特に紀元前1000年頃から紀元後数世紀までの社会は、重要性に比して発掘資料が不足しており、文化的な境界や集団形成には未解明の部分が多い。

↑人骨・・・思いの外インパクト弱い!( ・Д・) (「The Standard」の記事内画像より転載;credit: EL SALVADOR'S PRESIDENCY PRESS OFFICE / AFP)
⛏️ パサヘ4遺跡で見つかった一人の死者
人骨が発見されたのは、パサヘ4遺跡の「トレンチ1」と呼ばれる発掘区だった。
「パサヘ」は通路や小道を意味する一般的な地名であり、巨大なピラミッドや王宮として知られてきた観光遺跡ではない。
今回の調査によって、現代都市の一角にも、古代の埋葬と農耕地が残っていることが明らかになった。
文化当局が公開した写真では、発掘坑の深い位置に人骨が横たわっている。
頭蓋骨、脊椎、腕や脚の骨が確認され、身体は腹部を下にした腹臥位、考古学用語では「伏臥伸展葬」に近い状態だったと報告されている。
発掘現場から人骨をそのまま持ち上げれば、骨が崩れ、位置関係が失われてしまう。
そこで周囲の土ごと固め、支持材と帯を使って大きなブロックとして取り上げる作業が行われた。
今後は室内で土を少しずつ除去し、骨の配置、損傷、埋葬姿勢、付着物などを詳しく調べることになる。
🌋 年代を教えた、プラン・デ・ラ・ラグーナの火山灰
文化当局が紀元前850年頃という暫定年代を示した大きな根拠は、人骨の上を覆っていた火山灰層である。
アンティグオ・クスカトランには、プラン・デ・ラ・ラグーナと呼ばれる火口地形がある。
かつて地下のマグマと水が接触し、激しい水蒸気爆発を伴う噴火が起きた場所である。
その噴火で飛散した灰や火山砕屑物が周辺を覆い、噴火以前の地面を封じ込めた。
人骨がこの灰層より下にあるならば、少なくとも噴火より前に埋葬されたことになる。
文化当局は噴火を紀元前850年頃と見積もり、埋葬も同時期か、それ以前に位置付けている。
これは、地層の上下関係から年代を決める層位学的な推定である。
灰より下の物は噴火より古い。
灰より上の物は噴火より新しい。
非常に強力な方法だが、これだけで人が死亡した年を一点まで決められるわけではない。
埋葬から噴火まで数日だったのか、数十年だったのかは、さらに検討が必要である。
そのため、人骨や関連する有機物を用いた放射性炭素年代測定が予定されている。
測定結果が出れば、暫定的な紀元前850年という位置付けが支持されるのか、それとも修正されるのかが分かるだろう。
🌱 墓の近くには、キャッサバ畑まで残っていた
今回の調査では、人骨だけでなく、キャッサバ栽培に関係するとみられる畝や溝も発見された。
しかも、異なる火山灰層に覆われた二つの時期の耕作痕が確認されている。
古いものはプラン・デ・ラ・ラグーナの噴火に、新しいものは数百年後のイロパンゴ巨大噴火に関係すると説明されている。
つまり同じ土地では、一度だけ偶然キャッサバが植えられたのではない。
火山災害を挟みながら、人々が繰り返し土地を耕し、地下に芋を作る作物を育てていた可能性がある。
キャッサバは、熱帯アメリカで重要な根菜である。
しかし考古学的には、トウモロコシより発見しにくい。
トウモロコシの穂軸や種子は炭化して残る場合があるが、キャッサバの食用部分は地下の柔らかい根であり、普通は腐って消えてしまう。
そのため、キャッサバを食べていた社会でも、遺跡から直接証拠が出ないことがある。
火山灰が畑を一気に覆うと、畝、植穴、根の空洞、作物の配置が地面の形として保存される。
古代農耕を知るうえで、灰に封じられた畑は、人骨や美しい土器に負けないほど重要な資料なのである。
エルサルバドルでは、火山灰に埋まったホヤ・デ・セレン遺跡でも、住宅とともに畑、庭、果樹、作物配置が保存され、一般住民の食生活や農作業を復元する研究が進められてきた。

↑頑張って取り出してるね!( ・Д・) (「The Standard」の記事内画像より転載;credit: EL SALVADOR'S PRESIDENCY PRESS OFFICE / AFP)
🔥 火山は生活を奪い、生活を保存した
エルサルバドル考古学では、火山灰は破壊の痕跡であると同時に、年代を測り、生活を保存する鍵でもある。
プラン・デ・ラ・ラグーナの噴火から千年以上後には、イロパンゴ・カルデラが巨大噴火を起こした。
いわゆるティエラ・ブランカ・ホベン噴火である。
噴火年代については、西暦431年頃とする研究と、西暦539~540年頃とする研究があり、現在も議論が続いている。
いずれにしても噴火は広範囲へ厚い灰を降らせ、エルサルバドル中部の居住や農耕へ大きな影響を与えた。
パサヘ4遺跡では、この異なる噴火の灰が、別々の時代の生活面を仕切る目印となった。
古い灰の下に紀元前の墓と畑。
さらに上の層には、後代の耕作痕。
火山によって土地利用が断絶し、それでも人々が戻って再び作物を育てた過程が、断面の中に保存されているのである。
🐢 死者に添えられた、海亀形の小さな器
埋葬坑からは、海亀をかたどった小型土器も発見された。
文化当局はこれを「ウスルタン様式」の器と説明している。
ウスルタン様式土器は、オレンジ色や赤褐色の表面に、波線、縞、斑点などの装飾を作ることで知られる。
表面へ液体や顔料を塗り分け、焼成時の化学変化を利用して文様を生み出す「レジスト技法」と関係する土器群である。
後の時代にはエルサルバドルだけでなく、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグアなどへ広がり、地域間交流を示す代表的な資料となった。
ただし、海亀形の器があるからといって、ただちに「海の神へ捧げた生贄」と解釈することはできない。
器は飲食物を入れる容器だったかもしれない。
個人が生前に使った品かもしれない。
死者の旅に必要な品として添えられた可能性もある。
海亀が水、海岸、生命、祖先などを象徴した可能性は考えられるが、今回の器だけから具体的な神話を復元することはできない。
器の内部に残る微量物質、表面の摩耗、煤、破損状態を調べることで、実用品だったのか、埋葬専用品だったのかを検討できるかもしれない。
また、一般に整理されてきたウスルタン様式土器の主要な展開時期と、今回の紀元前850年という暫定年代との関係も注目される。
正式な土器型式の判定や放射性炭素年代が確定すれば、既存の土器編年を再検討する資料となる可能性もある。
🙇 なぜ死者は、うつ伏せにされていたのか
人間を普通に寝かせるなら、顔が上を向く仰向けの姿勢を想像しやすい。
それだけに、うつ伏せの遺体は目を引く。
過去の社会では、うつ伏せ葬が、処罰された者、共同体から排除された者、身分の低い者、戦争捕虜、危険視された死者などと関連付けて解釈されることがある。
顔を地面へ向ける姿勢が、尊厳を奪う行為だった可能性もある。
そのため今回の人骨も、「生贄だったのではないか」という見方につながった。
しかし、うつ伏せという姿勢だけで生贄と判定することはできない。
チャルチュアパの人骨を分析した研究者自身も、伏臥位が供犠犠牲者に指定された姿勢だった可能性を示しながら、低い社会的地位を示す姿勢だった可能性も認めている。
遺体が自然に回転した可能性も調べる必要がある。
棺や布が腐った結果、身体の一部が崩れたのか。
最初からうつ伏せに置かれたのか。
墓を後から開けた際に動かされたのか。
洪水、地震、動物の活動は影響していないか。
墓坑の形、関節のつながり、骨の位置を丁寧に記録しなければならない。
「うつ伏せだから生贄」という推理は、魅力的だが、考古学的にはまだ一段階目の仮説にすぎない。

↑現場は街中なのね!( ・Д・) (「The Standard」の記事内画像より転載;credit: EL SALVADOR'S PRESIDENCY PRESS OFFICE / AFP)
🔪 考古学者は、何を見て「人身供犠」と判断するのか
人身供犠とは、単に誰かが暴力で死亡したことではない。
宗教的・政治的・儀礼的な目的のため、人間の生命や身体を意図的に差し出す行為を指す。
しかし骨だけを見て、殺した人間の思想まで直接読むことはできない。
そこで考古学者は、複数の証拠を組み合わせる。
死亡前後についた切創や刺創。
首を切断した痕跡。
手足を縛った姿勢。
通常の墓とは異なる投げ込まれ方。
神殿、祭壇、建物の基礎など、儀礼的な場所との関係。
特定の性別や年齢だけが繰り返し選ばれていること。
一度ではなく、建物の改築ごとに同じ埋葬行為が行われていること。
武器、顔料、ヒスイ、動物、香など、儀礼用品との組み合わせ。
これらが重なって、通常の葬儀、戦闘死、処刑、虐殺、供犠のうち、どの解釈が最も妥当かを考えるのである。
今回発表された情報の中に、明確な切創、斬首、手足の拘束は含まれていない。
発表されているのは、うつ伏せの姿勢と、海亀形土器を伴う埋葬だったということまでである。
したがって現時点では、
約3000年前の珍しい埋葬が見つかった
とは言える。
しかし、
約3000年前の生贄が見つかった
と断定することはできない。
🏛️ 比較対象となった、チャルチュアパの33人
今回の発見と関連付けられたチャルチュアパは、エルサルバドル西部にある巨大な考古学遺跡群である。
エル・トラピチェ、カサ・ブランカ、タスマルなど、異なる時代の神殿、広場、住居が広い範囲へ連なっている。
少なくとも約3200年にわたる居住の歴史を持ち、先古典期後半には、エルサルバドルを代表する大規模な祭祀・政治中心地へ成長した。
1977~1978年、開発に伴う緊急調査で、エル・トラピチェ地区のE3-7号建造物が発掘された。
この建物は、紀元前200年頃から紀元後200年頃にかけて、何度も増築された土製基壇だった。
その建築土の中から、合計33人分の人骨が発見された。
研究では、26体の比較的完全な骨格、4体の部分骨格、3点の単独頭蓋骨が区別された。
性別を判定できた人物は成人男性で、多くがうつ伏せに置かれ、手足を縛られていた可能性があった。
一部には切断や斬首を思わせる状態も確認された。
建物は一度に完成したのではなく、複数回の建築工事によって大きくなった。
人骨も、すべて同じ日にまとめて埋められたわけではない。
異なる増築段階の盛土へ繰り返し納められていた。
この反復性が、偶然の集団墓や疫病墓ではなく、建築儀礼の一環として人間が供えられたという解釈を支えている。
分析者は、彼らがチャルチュアパ外部から連れてこられた戦争捕虜だった可能性を示した。
⏳ 今回の死者とチャルチュアパでは、700年以上も違う
ここで、年代を並べてみよう。
今回のパサヘ4遺跡の人骨は、暫定的に紀元前850年頃。
チャルチュアパE3-7号建造物の集団埋葬は、主として紀元前200年頃から紀元後200年頃。
両者の間には、少なくとも600~700年ほどの開きがある。
同じ国の中で見つかり、どちらもうつ伏せの人骨を含むからといって、同じ王国、同じ宗教、同じ儀礼制度に属していたとはいえない。
現在のエルサルバドルという国家は、古代には存在していない。
二つの遺跡は地域も年代も異なり、直接の連続関係はまだ示されていない。
今回の人骨が「チャルチュアパと似た埋葬である可能性がある」というのは、今後比較すべき仮説であり、同じ生贄集団が別の場所で見つかったという意味ではない。
もし今回の人骨に拘束痕、致命傷、儀礼的な身体処理が確認され、本当に人身供犠だったと結論付けられれば、エルサルバドルの供犠儀礼をチャルチュアパより数百年さかのぼらせることになる。
それは非常に大きな発見である。
だからこそ、結果が出る前に結論を急いではならないのである。

↑副葬品はウスルタン土器らしいけどよくわからんね!( ・Д・) (「The Standard」の記事内画像より転載;credit: EL SALVADOR'S PRESIDENCY PRESS OFFICE / AFP)
🥇 「メソアメリカ最古の生贄」という言葉は簡単ではない
チャルチュアパの33人は、報道では「メソアメリカ最古の人身供犠の証拠」と紹介されることがある。
しかし「最古」は、何を確実な供犠証拠と認めるかによって変わる。
メキシコ湾岸のエル・マナティ遺跡では、紀元前1600~1200年頃の湿地祭祀遺構から、木製胸像、石斧、ゴム球、植物束とともに、胎児や新生児の骨が発見されている。
これらを幼児供犠の証拠と見る研究者もいる。
一方、子どもたちがどのように死亡したのかは分からず、自然死した乳幼児を儀礼的に埋葬した可能性も残る。
つまり、
最も古い「人骨を伴う儀礼遺構」
最も古い「供犠の可能性がある人骨」
最も古い「殺害痕を伴う供犠」
最も古い「集団的人身供犠」
では、該当する遺跡が異なる可能性がある。
チャルチュアパの重要性は、単に古いことだけではない。
成人男性が選択的に埋められ、拘束姿勢を取り、建築の増築に合わせて反復的に納められたという、複数の証拠がまとまっている点にある。
今回の一体がその比較対象になり得るかは、これからの分析次第なのである。
🧬 DNA分析で、何が分かるのか
今回の人骨については、DNA分析を行い、まず生物学的性別を調べる計画が発表されている。
骨格が完全で、骨盤などが良好に残っていれば形態から性別を推定できる場合もあるが、保存状態や年齢によっては難しい。
DNAが得られれば、性染色体に基づく判定が可能になる。
さらに保存状態と研究計画が許せば、血縁関係や集団の遺伝的特徴を検討できる可能性もある。
ただし、DNAが取れたからといって、その人が「マヤ人」「レンカ人」など、後世の民族名へ簡単に分類できるわけではない。
遺伝的な近縁性と、言語、政治的所属、文化的アイデンティティは同じものではない。
また、一人のDNAだけで地域全体の人口史を語ることもできない。
最も確実なのは、この人物の性別を確認し、将来ほかの人骨が見つかった場合に比較資料とすることだろう。
🦴 骨に残る傷は、生前のものか、死後のものか
生贄説を検討するには、骨の表面を詳しく観察する必要がある。
刃物が生きた骨へ当たると、骨がまだ水分と弾力を持っているため、乾燥後の破損とは異なる割れ方をする。
首の骨に鋭い切創があれば、斬首や喉の切断を検討できる。
肋骨や胸骨の傷は、胸部を開いた行為と関係する場合がある。
手首や足首を縛った痕跡は、骨そのものには残らないことも多いが、不自然に寄せられた姿勢や、土中に残る紐の痕跡から推測できる可能性がある。
一方、発掘時のスコップ、土圧、植物の根、動物、火山活動でも骨は傷つく。
傷を見つけただけでは、生前の暴力と断定できない。
傷の断面、色、治癒反応、位置、周囲の骨との関係を調べ、死亡前、死亡時、埋葬後のどの段階で生じたのかを分ける必要がある。
生贄という結論は、発見時の印象ではなく、こうした地味な骨表面の分析から導かれるのである。

↑ちなみにウスルタン文様というのはこういうネガティブ文のこと!( ・Д・)(McCafferty 2009; Fig. 3より転載)
🍠 この人物は、キャッサバを育てた人だったのか
墓の近くにキャッサバ畑があると、この人物も畑を耕して暮らしていたように想像したくなる。
しかし、墓と耕作痕が正確に同時代であるかは、まだ確認が必要である。
墓地が作られる前は畑だったのかもしれない。
墓を作った後も、少し離れた場所では農耕が続いたのかもしれない。
火山灰が降る直前に葬られた人物かもしれないし、数世代前の人物かもしれない。
層位、土器年代、放射性炭素年代を合わせることで、墓と畑の時間関係が明らかになる。
もし埋葬と耕作面がほぼ同時期なら、約3000年前の地域社会について、死者の扱いと日常の食料生産を同じ遺跡から研究できる。
神殿や王墓だけでは見えにくい、普通の人々の暮らしへ近づける発見となるだろう。
🌾 人身供犠の歴史だけでなく、農村史の発見かもしれない
「最古の生贄」という言葉は強い。
恐ろしく、謎めいていて、記事を読みたくなる。
しかし、今後の分析で外傷も拘束も確認されず、通常とは少し異なる埋葬だったと判明する可能性も十分にある。
その場合、この発見の価値がなくなるわけではない。
むしろ紀元前9世紀頃のエルサルバドル中部では、人骨資料そのものが貴重である。
年齢、性別、身長、歯の状態、病気、骨への負荷を調べれば、人々が何を食べ、どのように働き、どのような健康状態にあったのかを研究できる。
同じ地層から畑と土器が出ているため、身体、農業、食器、火山災害を一つの生活史として結び付けられる。
劇的な殺人の証拠ではなくても、約3000年前の一人の生活と死を復元できること自体が重要なのである。
🔬 今回の発見で、これから確かめるべきこと
まず、放射性炭素年代測定によって、埋葬年代を確定する必要がある。
紀元前850年頃という推定は支持されるのか。
プラン・デ・ラ・ラグーナ噴火の直前なのか、さらに古いのか。
次に、骨格から年齢、性別、病気、外傷を確認する。
死亡時または死の直前についた傷はあるか。
手足を縛られた配置は認められるか。
遺体は最初からうつ伏せだったのか。
そして、海亀形土器の型式、製作技術、内容物を調べる。
墓へ意図的に置かれた副葬品なのか。
土器と人骨は完全に同時代なのか。
周囲のキャッサバ畑とは、どのような時間関係にあるのか。
さらに調査範囲が広がれば、ほかの墓が見つかる可能性もある。
一人だけが特殊な姿勢で葬られたのか。
同じ姿勢の人物が複数並ぶのか。
通常の仰向け葬と混在しているのか。
単独の特殊墓なのか、墓地全体の慣習なのかによって、解釈は大きく変わる。

↑これもウスルタンの事例、美しいぜ!( ・Д・)(「THE MET」の収蔵品画像より転載)
📚 一体の人骨が、古い研究を問い直す
チャルチュアパの33人が発見されたのは、1970年代である。
当時の研究は、発見現場で骨を観察し、姿勢、性別、年齢を記録することを中心としていた。
現在では放射性炭素年代、DNA、安定同位体、顕微鏡による切創分析、三次元記録など、利用できる方法が増えている。
今回の人骨を新しい方法で調べることで、将来的にはチャルチュアパ資料も再検討されるかもしれない。
本当に外来の戦争捕虜だったのか。
どの地域で育ったのか。
33人は同じ集団から来たのか。
異なる建築段階で選ばれた人々に共通点があるのか。
新発見は、それ単独で歴史を書き換えるだけではない。
過去に掘られ、博物館へ保管されている資料へ、新しい質問を投げかける役割も持つ。
🌋 灰の下で、死者と畑が同じ時間を待っていた
約3000年前、一人の人間が地面へ葬られた。
顔は下を向いていた。
傍らには、小さな海亀の器が置かれていた。
近くでは、人々が土を盛り、キャッサバを植えていた。
やがて火山が噴火した。
灰が降り、墓と畑を覆った。
その上で別の世代が暮らし、再び土地を耕した。
さらに数百年後、イロパンゴの巨大噴火が別の灰を積もらせた。
墓の存在は忘れられ、土地は現代都市の一部となった。
そして2026年、発掘坑の底で人骨が再び姿を現した。
この人物が、生贄だった可能性はある。
チャルチュアパで後に行われた集団的人身供犠へつながる、古い儀礼の証拠かもしれない。
けれども、今はまだそう言い切れない。
うつ伏せの姿勢は、死者の身分を表したのかもしれない。
共同体から外された人物だったのかもしれない。
あるいは、この地域では当時、それほど異常ではない埋葬方法だった可能性さえある。
考古学で大切なのは、強い言葉へ飛び付くことではない。
骨の傷。
関節の位置。
灰の上下。
土器の年代。
畑との重なり。
一見地味な証拠を積み上げて、最も無理のない物語へ近づくことである。
「最古の生贄」という答えが出るかもしれない。
まったく別の答えが出るかもしれない。
それでも、火山灰の下で約3000年待ち続けたこの人物は、エルサルバドルの古代史が、巨大な神殿や有名な王だけではできていないことを教えてくれる。
一人の死者。
一個の海亀。
一本のキャッサバの畝。
その小さな組み合わせが、メソアメリカにおける農耕、葬送、暴力、火山災害の歴史を、もう一度考え直させようとしているのだ!( ・Д・)
なにはともあれ……
私も研究したい気持ちが強くなったぜ!( ・Д・)





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