2026ねん 8がつ25にち(かよーび、晴れ)

昨日図版作業進めた、えらい!今日も頑張りたい!( ・Д・)
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↑やぱ日本の記事は海外で人気あるね!( ・Д・)





今回の考古学・歴史ニュースは

長崎県松浦市の海底に沈んだ弘安の役の元軍船から、黒い漆を塗り、末端だけを赤く彩った長さ約3センチの「矢筈」が見つかり、弦を掛ける深い溝がないことや板状の矢羽を備える構造から、元が滅ぼした南宋の兵器を接収して日本遠征へ持ち込んだ可能性が高まった――たった一本の矢の最後尾が、元寇を「モンゴル人だけの軍隊による侵略」ではなく、征服した王朝の船・兵士・技術・武器まで動員した巨大帝国の戦争として見せ始めた( ・Д・)」

ってお話です(*・ω・)ノ





📰はじめに


「元寇の矢が見つかった」と聞けば、まず想像するのは鋭い鉄の矢尻だろう。

鎧を貫き、馬を倒し、人の骨に食い込む、いかにも戦場らしい遺物である。

ところが今回、海底の泥から現れたのは、敵へ向かって飛んでいく先端ではなかった。

矢のいちばん後ろ。弦の力を受け止め、矢を前へ送り出す「矢筈」と呼ばれる部分だった。

長さは約3センチ。黒い漆に覆われ、端には赤い漆が残っていた。

しかもそれは、単に「元軍の船に矢が積まれていた」と教えるだけの遺物ではないらしい。

形を調べると、日本の武士が使った手弓の矢とは異なる特徴があり、その向こうには、元によって滅ぼされた南宋の水軍と兵器工房が見えてきたのである。

一本の矢の後ろから、滅んだ王朝が姿を現したのだ!( ・Д・)





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↑ざっくりとこんなとこ!( ・Д・)(「全国文化財総覧」のページ内地図より転載)


🏹 矢の発見なのに、矢尻はどこにもなかった

矢は、大きく分ければ、敵へ突き刺さる鏃、細長い矢柄、飛行を安定させる矢羽、そして弦と接する矢筈からできている。

手で引く弓の矢筈には、一般に弦を挟み込むための深い切れ込みがある。射手はそこへ弦を掛け、矢と弦を一体にしたまま引き絞る。

だが、鏃が鉄や石で造られるのに対し、矢柄や矢筈、矢羽は竹、木、羽毛などの有機物でできている。

地上の遺跡では腐って消えやすく、戦場から鏃だけが大量に見つかっても、「一本の矢がどのような構造だったのか」までは分からないことが多い。

今回の発見が珍しい理由は、まさにそこにある。

鷹島の泥は、竹や木だけでなく、黒漆と赤漆、矢羽を取り付けた痕跡まで残していた。武器の破片というより、元軍が船内へ持ち込んだ矢の製作技術そのものが保存されていたのである。

ただし、この矢が実際に日本軍へ向けて射られたのか、戦う前の予備弾として積まれていたのかは分からない。

今のところ確実に言えるのは、弘安の役の元軍船が、この構造を持つ矢を装備していたというところまでだ。





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↑ちなみにこれが見つかったやつ、思いの外ちっちぇ~!が、矢だからそんなもんか!( ・Д・)(「熊本日日新聞」の記事内画像より転載;credit: 奈良文化財研究所、国武貞克



🌏 「蒙古軍」だけではなかった――海を渡った巨大な混成軍

元寇は、文永11年(1274)の文永の役と、弘安4年(1281)の弘安の役という二度の日本遠征を指す。

命令を下したのは元の皇帝フビライ・ハンだったが、海を渡った軍勢を「モンゴル人の騎馬軍団」とだけ考えると、その実像を大きく見誤る。

最初の遠征には、モンゴル系の兵だけでなく、漢人、女真人、高麗の兵士や船員が参加した。二度目の弘安の役では、朝鮮半島から出発した東路軍に加え、中国南部から出航する江南軍が編成された。

『元史』などに基づく伝統的な数字では、東路軍は約4万人と約900隻、江南軍は約10万人と約3,500隻とされる。

しかし、これらは中世の編纂史料に記された名目上の動員数を含み、実際に出航した人数や船数については現在も議論がある。数字をそのまま現代の乗船名簿のように扱うことはできない。

重要なのは、江南軍の多くが、つい最近まで元と戦っていた南宋の旧領から集められた兵士、船乗り、造船技術者によって構成されていたことだ。

元は1273年に襄陽を攻略し、1276年には南宋の都・臨安を降伏させ、1279年の崖山の戦いで最後の抵抗を終わらせた。

そのわずか2年後、南宋の人々と船は、今度は元の命令で日本へ向かわされていたのである。





🏯 滅亡直前の南宋――水軍と弩を抱えた海の王朝

南宋は、中国北部を失った弱い亡命王朝というだけの存在ではない。

都の臨安、現在の杭州は運河と海上交易につながる巨大都市として繁栄し、中国南部の港から陶磁器、絹、銅銭などが東アジアと東南アジアへ運ばれた。鷹島の元寇船から大量の中国陶磁器が出る背景にも、この江南の生産力と海運技術がある。

一方で南宋は、金やモンゴルとの長い戦争を続けた軍事国家でもあった。

騎兵で不利になりやすい南方の王朝にとって、城壁、河川、水軍、そして遠距離から敵を射る弩は重要だった。弩は弦をあらかじめ機械で保持できるため、通常の弓ほど射手の腕力を使い続けずに狙いを定められ、城や船の上でも運用できる。

宋代には火薬兵器も発達したが、それで弓矢が消えたわけではない。高価で扱いの難しい新兵器と、大量生産しやすい弓矢や弩矢は、同じ戦場で併用された。

鷹島から先に見つかっていた弩の部品には、宮廷軍に関係する組織名と、修理・検査を示す文字が残っていた。これは武器が使い捨てではなく、軍の管理下で修理され、点検され、再び配備されていたことを示す。

新発見の矢筈を覆う漆も、竹と木を固め、湿気や水から守る実用的な役割を持っていたはずだ。末端だけを赤くした理由は、装飾、識別、製作工程上の印のいずれなのか、まだ分かっていない。

つまり元が受け継いだのは、完成した一本の矢だけではない。

それを設計し、組み立て、塗り、検査し、船へ積み込むまでの南宋の軍事文化だった可能性がある。


🧱 一騎打ち対集団戦? 元寇の古い物語を疑う

元寇は長いあいだ、「名乗りを上げて一騎打ちを求める日本の武士」と「集団戦法や火薬兵器で襲う元軍」の対決として語られてきた。

たしかに戦い方や武器には違いがあり、元軍は弓矢、槍、盾、毒矢と伝えられる武器、爆発する「てつはう」などを組み合わせた。

しかし、日本側も武士が一人ずつ無秩序に突撃しただけではない。

文永の役の後、鎌倉幕府は異国警固番役を強化し、建治2年(1276)には博多湾岸約20キロに石築地、現在の元寇防塁を築かせた。場所によっては高さ約3メートルに達する石塁が、二度目の上陸を阻む防御線となった。

弘安の役では武士たちが防塁を利用して戦い、小舟で敵船へ接近して切り込む海上襲撃も行っている。暴風雨が元軍へ壊滅的な打撃を与えたことは疑いないが、それまでの防衛戦や艦隊の合流の遅れを消して、「神風だけが日本を救った」とするのも単純すぎる。

有名な『蒙古襲来絵詞』も、戦場を写した写真ではない。

肥後の御家人・竹崎季長が、自らの戦功と恩賞を得るまでの経緯を示すために作らせた絵巻である。矢を放つ元軍や「てつはう」、防塁の前を進む武士を生々しく描く一方、主人公の活躍を訴える作品でもある。

元寇研究は、後世の神国物語や教科書的な構図を一度ほどき、絵巻、日記、軍忠状、中国・高麗の史料、そして海底の実物を付き合わせることで進んできた。




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↑船もけっこう綺麗に残っている!( ・Д・)(「松浦市」のサイト内画像より転載)


🌊 「神風の海」は、1980年から発掘現場になった

長崎県松浦市の鷹島南岸では、漁師の網に中国陶磁器や木片、金属器が掛かり、海岸からも元軍の官印などが見つかっていた。

本格的な海底調査が始まったのは1980年である。

海底からは中国製の陶磁器、漆器、武器、武具、碇石、船材などが次々と確認された。1994年の調査では、木製の碇と碇石が、元軍船が投錨した当時に近い状態で海底へ残っていることも分かった。

2011年には、水深23~25メートル、海底下約1メートルから、ついに船体そのものが発見された。

長さ約12メートルの竜骨と外板が残り、船の全長は約20メートルと推定された。周囲から中国陶磁器や磚、火薬兵器「てつはう」の破片が出たことから、これが弘安の役の元軍船、現在の鷹島1号沈没船と考えられた。

翌2012年、鷹島神崎遺跡は水中遺跡として日本で初めて国の史跡に指定された。

2014年に見つかり、2015年に元寇船と確認された2号沈没船は、船底の木組みが良好に残っていた。船体は引き揚げず、砂で埋め戻して海底で保存し、劣化の有無を監視する方法が選ばれている。

日本では200か所を超える水中遺跡が知られる一方、調査や保存の仕組みは陸上遺跡ほど整ってこなかった。鷹島は元寇研究の現場であると同時に、日本の水中考古学が保存方法を学ぶ実験場でもあるのだ。


🚢 3隻目の元寇船――水深18メートルの船底を掘る

今回の矢筈が見つかったのは、2023~2024年度に発掘された鷹島3号沈没船である。

場所は鷹島南岸から約150メートル沖、水深約18メートル。2号沈没船の南約50メートルという、三隻の元寇船が集まる海域だった。

海底を掘ると、船底板や船倉を区切る隔壁板が現れ、白磁の皿、褐釉陶器、銅製品、鉄製品、漆を塗った刀の柄、金属製の箸に似た道具なども出土した。2025年度の継続調査では、船の背骨にあたる竜骨と船材の接合部も確認されている。

木材五点の放射性炭素年代は、12世紀から13世紀前半を中心に分布した。

これは1281年より古く見えるが、木の中心に近い部分を測れば伐採年より古い値が出る「古木効果」や、古材の再利用を考えなければならない。報告書も、最も新しい試料の中央値1238年を船の建造年と断定してはいない。

むしろ船体構造、出土陶磁器、元軍の装備品、鷹島沖という場所を合わせて、弘安の役の沈没船と判断しているのである。

さらに船底からは、赤外線画像で「至元十二年」と読める可能性が高い墨書木板も見つかった。西暦1275年、文永の役の翌年にあたる。ただし「至元十三年」、1276年と読む余地も残る。

一本の年代だけで船を決めつけず、文字、木材、船体、積荷、堆積物を重ねていく。それが沈没船考古学の年代の組み立て方なのである。





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↑壺もあるね!( ・Д・)(「松浦市」のサイト内画像より転載)


🧪 直径10センチの泥の柱に、六本の棒が写った

矢筈は、発掘中にダイバーが海底で拾い上げたわけではなかった。

研究チームは、船が沈んだ年代と、その後に土砂で覆われた過程を調べるため、船内へ透明なアクリル製の円筒を押し込み、三本の柱状堆積物を採取した。

一本目は長さ35センチ、二本目は47センチ、三本目は43センチ。直径はいずれも10センチで、船の外板寄り、中心線寄り、中心線上と位置を変えて採取されている。

粒の大きさ、花粉、珪藻、含有元素、年代を調べる一方、二本目のコアは高知大学海洋コア国際研究所でCT撮影された。

すると、船底板から約12センチ上の泥の中に、六本の細長い棒状遺物が写っていた。

研究者はそのうち一本だけを泥から分離し、周囲に土を残したまま、さらに細かなマイクロCT撮影を行った。

船底に近い約15センチの層は、有機物を多く含む黒いシルト質粘土だった。上の層より酸素の少ない還元的な環境が形成され、竹、木、漆のような壊れやすい素材が、結果として七世紀以上も守られたと考えられる。

2026年3月に刊行された正式報告書の段階では、研究者はまだ結論を急がなかった。

「矢筈の可能性を含め、中国中世の類例を調べる必要がある」――六本の棒は見つかったが、その一本が何なのかは、まだ仮説だったのである。


🔴 黒漆、赤漆、溝のない矢筈――南宋の矢だった?

泥を少しずつ除去すると、棒状遺物の奇妙な構造が見えてきた。

中心にあるのは管状の竹で、その中へ栓のような木製部品が差し込まれていた。竹管の外側には、120度ずつ等間隔に三本の竹ひご状部材が取り付けられ、全体が黒漆で固められている。

栓形の木製部品の末端だけは、鮮やかな赤漆で塗られていた。

正式報告書では外側の部材を「竹ひご」と記述し、その後の比較検討では板状の矢羽を備える構造として整理された。

竹管には切り欠きがあり、内部の木製芯より少し細い竹を締め付けることで、部品を強く固定していた。小さな破片に見えて、実際には複数の素材を精密に組み合わせた製品だったのである。

その後の類例比較によって、これが長さ約3センチの矢筈、すなわち矢の末端部分だと判断された。

決め手の一つは、普通の手弓の矢筈にあるはずの、弦を掛ける深い溝がないことだった。末端は皿のように浅くくぼみ、板状の矢羽を備える構造も、中国・南宋の矢と共通していた。

機械仕掛けで弦を保持し、引き金で発射する弩では、矢は台の上に置かれ、解放された弦が後端を押して飛ばす。そのため、手弓の矢のように弦を深い溝へ挟み込む必要がない。

この形は、南宋系の弩矢だった可能性を強く感じさせる。

ただし、遺物に「南宋製」と書かれているわけではない。形、材料、製作法、船の年代、過去の鷹島出土品を重ねて導かれた考古学的な同定であり、製作地を直接測定した結果ではないことには注意が必要だ。





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↑元寇で戦う武士!( ・Д・)(「Wikimedia」の画像より転載)


⚔️ 滅ぼした王朝の武器で、日本を攻めたのか

新しい矢筈を南宋と結びつける証拠は、それ単独ではない。

鷹島では2001~2002年の港湾工事に伴う発掘で、黒漆を塗った弩の一部とみられる木製品が見つかっている。そこには赤漆で、南宋の宮廷軍を管轄した殿前司、修理、検査に関係する文字が記されていた。

研究が進むと、この弩は南宋の水軍で修理・点検された後、元に拿捕または接収され、范文虎が率いる日本遠征の江南軍へ配備された可能性が高いと考えられるようになった。

3号沈没船の墨書木板も、1275年前後という、最初の日本遠征の直後であり、南宋が元へ降伏しつつあった時期を示す。

船そのものが南宋水軍から接収された可能性もあるが、元の支配下で新たに建造された可能性も消えてはいない。

そこへ今回、南宋系の矢筈が加わった。

船、弩、矢という三つの手掛かりが重なると、元が南宋を滅ぼした後、その水軍の兵士だけでなく、軍船、工房の技術、修理済みの武器、矢の規格まで遠征軍へ組み込んだ姿が見えてくる。

元寇船は、単なる「モンゴル船」ではなかった。

それはモンゴル高原、華北、高麗、江南という異なる地域から、人間と物資と技術を集めた帝国の浮かぶ兵站基地だったのである。

まだCTに写った残り五本が矢なのか、六本が同じ束に収められていたのか、実戦で使われる直前だったのかは分からない。赤漆が部隊、用途、製造工房のどれを示すのかも未解明だ。

なにはともあれ、七世紀以上も海底へ沈んでいた矢は、鋭い先端ではなく、赤く塗られた小さな最後尾から、世界帝国が滅ぼした王朝の力まで持ち去ったことを語り始めた。

矢筈は弦から外れてしまったけれど、歴史の謎には、いまようやく深く引っかかったのだ!( ・Д・)




なにはともあれ……

道産子なのでチンギスハンよりジンギスカンが好き!( ・Д・)








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