
↑人気なようなだから考古学ミステリーと呼べそうなものを探してみるね!どれだけあるか知らんけど!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは
「ローマ人同士の内戦で焼き尽くされたスペイン北部の集落から、文字を刻んだ実物大の青銅製右手が発見され、その最初の一語が現代バスク語の「幸運」に驚くほど似ていた――けれども、本当に最古のバスク語なのか、家を守る護符だったのか、それとも敵から切り取った手を表す戦勝の印だったのか、読めそうで読めない40の文字が二千年前の声を今も扉の向こうへ隠している!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰はじめに
それでは今回は、ヨーロッパの言語地図に孤独に残ったバスク語、ローマ征服以前のヴァスコン人、セルトリウス戦争で焼け落ちた山上集落、泥に覆われた右手から文字が現れるまでの八か月、彫った線を点でなぞる奇妙な刻字法、そして「sorioneku=幸運」説をめぐる言語学者たちの論争まで、イルレギの手が開いた古代文字の迷宮を追いかける!
スペイン北部、ナバーラ州の州都パンプローナから南東へ約15キロ。
標高893メートルのイルレギ山に登ると、パンプローナ盆地とピレネーへ続く谷、南のエブロ川方面へ抜ける道を一望できる。
その山頂近くで2021年6月18日、考古学者たちは焼け落ちた家の入口を掘っていた。
炭になった木材と崩れた日干しレンガの下から出てきたのは、緑青に覆われた薄い金属板だった。
長さ14.3センチ、幅12.8センチ。小柄な成人の手に近い大きさで、五本の指を広げた右手の形をしている。
発掘時には、それが何を語るのか分からなかった。
だが八か月後、表面の土を少しずつ落としていた修復家が、手の甲に並ぶ文字を見つける。
四行、約40の記号。
その最初には、ラテン文字へ写すと「sorioneku」と読める一語が刻まれていた。
現代バスク語の「zorioneko」――幸運な、良い前兆の――に、あまりにも似ていたのである。
↑素敵な場所にあるよね( ・Д・)(Aiestaran et al. 2024, Fig.0から転載、「aranzadi」の記事内画像より転載)
🗣️ ヨーロッパの言語地図に、一つだけ親戚のいない言葉が残った
現在のスペインとフランスの国境にまたがるピレネー西部では、バスク語、現地名でエウスカラが話されている。
スペイン語、フランス語、英語、ギリシャ語、ロシア語、ペルシャ語、ヒンディー語。
これらは遠い親戚をたどれば、すべてインド・ヨーロッパ語族に属する。
しかしバスク語は、現存するほかのどの言語とも系統関係が証明されていない「孤立言語」である。
だからといって、バスク語が石器時代から一語も変わらず残った言葉だという意味ではない。
言語は世代ごとに音も文法も語彙も変化する。古代に同じ地方で話されていた言葉が、そのまま一直線に現代バスク語へ続いたのか、近縁の別言語と交替したのかさえ、史料がなければ確かめられない。
これまで最も重要な手掛かりだったのは、ローマ時代のガリア南西部、現在のフランス側に残されたアクィタニア語の人名や神名である。
それらはラテン文字で記録され、「少女」を意味する現代バスク語の neska や、「男」を意味する gizon などを思わせる名前を含む。アクィタニア語とバスク語が近縁だった可能性は、かなり強いと考えられている。
一方、ピレネー南側にいたヴァスコン人については、ギリシャ・ローマの著述家が民族名と居住域を記したものの、彼ら自身の長文はほとんど残らなかった。
硬貨の銘、モザイク、壊れた青銅板、石碑に、ごく短い古ヒスパニア文字らしき記号があるだけだった。
そのため研究者は長いあいだ、ヴァスコン人はローマ支配以前には、貨幣以外でほとんど文字を使わなかったのではないかと考えてきた。
バスク語の短い文章が確実に現れるのは中世、最初の印刷本が刊行されるのは1545年である。
もし紀元前1世紀の青銅板にバスク語の祖先が書かれているなら、言葉の歴史は一気に千年以上も遡る。
イルレギの手が世界を驚かせたのは、珍しい形をしていたからだけではなかったのだ。
↑お城だぜ!( ・Д・)(「aranzadi」の記事内画像より転載)
⛰️ 100人ほどの山上集落は、ローマ以前のパンプローナを見下ろした
イルレギ山での考古学調査は、2007年に中世城郭の発掘から始まった。
山頂には13世紀に記録へ現れる王領の城があり、1494年、敵に利用されることを恐れたナバーラ王の命令で破壊されている。
ところが城の下を調べると、はるかに古い集落が眠っていた。
人々が最初に住み始めたのは、紀元前15~11世紀頃の青銅器時代である。その後も丘は利用され、紀元前8世紀頃からは防御しやすい高地へ集落を築く、当時の西ヨーロッパに広がった動きの一部となった。
最終段階のイルレギは、住居だけで約2.2ヘクタール、農耕・牧畜空間まで含めれば約14ヘクタールに達した可能性がある。
周囲には城壁が巡り、広さ約70平方メートルの家々が、幅約4メートルの主要道に面して並んでいた。
人口は正確には分からないが、およそ100~200人と推定されている。
巨大都市ではない。
それでも周囲の農地と家畜、ピレネーとエブロ川流域を結ぶ交通路を見張るには、絶好の場所だった。
出土品にも外の世界との接触が表れている。
日常用の粗い土器に交じり、地中海世界から運ばれた黒色光沢土器、地域の造幣所が発行した硬貨、武器、金属加工のくず、家畜の骨が見つかった。
ヴァスコン人はローマ文明の到来を待って孤立していたわけではない。
イベリア人、ケルティベリア人、アクィタニア人、そして進出してきたローマ人の文化が交わる境界で、物と技術と文字を選び取っていたのである。
⚔️ 「ローマ対異民族」ではなく、ローマ人同士の戦争が村を焼いた
イルレギの暮らしは、紀元前1世紀前半に突然終わる。
家々の床には武器や土器、道具が残され、炭化した木材と焼けた日干しレンガが一面を覆っていた。
価値のある物を持ち出し、静かに移転した集落ではない。
人々が再び戻れないほど急激な攻撃と火災に襲われた「凍結された一日」が、倒壊した屋根の下に保存されていた。
その時期は、紀元前82~72年頃のセルトリウス戦争と重なる。
ローマ共和国では、将軍スッラの一派と対立したクィントゥス・セルトリウスがヒスパニアへ渡り、現地勢力を味方につけて抵抗を続けていた。これに対し、元老院側は後の「大ポンペイウス」ことグナエウス・ポンペイウスらを送り込んだ。
戦場となったのは、ローマ人と異民族の単純な境界ではない。
ローマ人同士が支配権を争い、イベリア半島の共同体がそれぞれの事情で両陣営へ組み込まれた内戦だった。
イルレギを誰が攻め、住民がどちらを支持したのかは確定していない。
ただし集落全体の焼失、建物内の武器、紀元前150~80年頃の輸入土器、周辺の放射性炭素年代は、この破壊が戦争の時代に起きたことを強く示している。
皮肉なことに、住民の生活を終わらせた火が、彼らの持ち物を守った。
屋根と壁が一気に崩れ、床や入口を密閉したため、後世の耕作や略奪で遺物が移動しにくかったのである。
青銅の手もまた、玄関近くへ落ちた状態で、焼けた家そのものに封印された。
↑この環境なら現場はピクニックっぽい!( ・Д・)(「aranzadi」の記事内画像より転載)
✋ 泥に覆われた右手は、八か月後に文字を見せた
手が発見されたのは、「建物6000」と呼ばれる住居の入口だった。
発掘時の金属板は土と錆に覆われ、文字は見えなかった。保存処理のためナバーラ州の考古学研究施設へ運ばれ、2022年1月18日、修復家カルメン・ウスアが顕微鏡の下で清掃を始めると、規則的な線と点が現れた。
こうして、土から出た日と「文字が発見された日」が八か月ずれたのである。
右手は高さ143.1ミリ、幅127.9ミリ、厚さ1.09ミリ、重さ35.9グラム。
薄い青銅板を切り抜き、叩いて整えたもので、手のひら側は平らだが、手の甲側には外周の盛り上がりと爪の表現がある。人さし指、中指、薬指の先端は失われていた。
手首に近い中央には、直径6.51ミリの穴が一つ開いている。
穴の周囲に紐で揺れた摩耗痕がないため、研究チームは、吊り下げたのではなく釘で木材へ固定したと考えた。
さらに文章は、穴を上、指先を下にした時に正しい向きになる。
発見場所が戸口であることを合わせれば、手は指を下へ向け、家の扉か木枠へ打ち付けられていた可能性が高い。
ただし、入口で見つかったことは「幸運の護符」だったことまで証明しない。
壁や屋根が崩れれば、固定されていた物は移動する。扉そのものも残っていない。
確かなのは、住居の入口付近から、掲示して読まれるよう造られた右手が出たことなのである。
🔨 文字を彫った後、同じ線を小さな点で打ち直した
イルレギの手に刻まれた文章は、発表時には40字、五つの語、四行と説明された。
その後の精密な読みでは、語の切れ目をどこに置くかにも検討の余地が残っている。現在の代表的なラテン文字転写は、次のようになる。
sorioneku ·
kunekebeekiŕateŕe[n]
oTiŕtan · eseakaŕi
eŕaukon ·注目すべきは、何が書かれたかだけでなく、どう書かれたかである。
製作者はまず、文章を揃えるため三本の基準線を粗く引いた。
次に鋭い工具で文字を線刻し、最後にその線の上へ細かな点を連続して打った。
点は線から外れ、文字の形が線刻版と点刻版で少し違う箇所もある。行末では空間が足りなくなり、第二行最後の n は上へ押し出されている。
同じ人物が二工程を行ったのか、下書きを別の職人が点で仕上げたのかも分からない。
古ヒスパニア碑文で、線刻と点刻を同じ文章へ重ねる技法は、ほかに確認されていない。
点を打つ青銅碑文はケルティベリア文化、鉛板などへ線を刻む習慣はイベリア文化と関係が深い。イルレギの職人は、二つの文字文化から技法を組み合わせたのかもしれない。
使われたのはアルファベットではなく、古ヒスパニア系の半音節文字である。
母音や一部の子音は一字で表すが、破裂音などは「カ」「ケ」のように子音と母音の組を一記号で表す。日本語の仮名とアルファベットを混ぜたような仕組み、と考えると少し近い。
18種類の記号のうち、とくに重要なのが大文字の T に似た記号だった。
この記号は、それまでヴァスコン地域の二つの貨幣銘でしか確認されていなかった。音価は鼻音、破擦音、強い側面音など諸説があり、まだ決着していない。
それでも貨幣ではない長文にも同じ記号が現れたことで、イベリア文字から派生した地域独自の「ヴァスコン文字体系」が存在した可能性は大きく高まった。
↑プランとセクションと共に、何で取り出し記録写真が並べられてるのかね?( ・Д・)(「aranzadi」の記事内画像より転載)
🍀 最初の一語だけが、「幸運」と言語論争を呼び込んだ
研究者が最初に注目したのは、第一行に単独で置かれた sorioneku だった。
現代バスク語には、zori「運、運命」と on「良い」があり、zorion は「幸福」、zorioneko は「幸運な、祝福された」といった意味で使われる。
s と z の違いを古い表記法の問題と考えれば、sori-on-... という並びは、たしかに「良い運」を思わせる。
右手、家の入口、単独で目立たせた最初の語。
三つを重ねると、災いを退け、住人へ幸運を招く言葉だったという解釈は魅力的である。
発見チームはさらに、末尾の eŕaukon を「与える」に関係する古いバスク語の動詞、oTiŕtan を場所を示す語とみなし、全体を神への奉献文として読む可能性を示した。
第一語も、単なる「幸運」ではなく、幸運を司る神格の名前だったのかもしれないという。
だが、ここで「読めた」と「似ている」を分けなければならない。
点で打たれた文字は sorioneku だが、その下の線刻は sorioneke とも読める。なぜ最後の母音が違うのか分からない。
現代語の zorioneko をそのまま当てはめるなら、古い時代には予想しにくい母音や接辞の形も含まれている。
残る文章は、現代バスク語へ置き換えて意味の通る文にはなっていない。
そして一つの未知の文章には、偶然、既知の単語に似た音の並びが現れることもある。
イルレギの手は、最初の一語でこちらへ近づいた瞬間、残りの文字すべてで再び遠ざかるのである。
2022年の発表後、古ヒスパニア碑文学とバスク語史の研究者たちは、さまざまな読みを検討した。
意見は一枚岩ではない。
ヴァスコン語の最古・最長の碑文とみる研究者がいる一方、文字体系の地域性は認めても、書かれた言語までヴァスコン語と断定するのは早いとする研究者もいる。
歴史言語学者ジュレン・マンテロラとセリーヌ・ムノールは、sorion とバスク語 zori on の類似を、ほかの「名詞+on」が一語化した例の音変化と比較した。
その結果、同じ言語の古い形と新しい形だと確認できるほど規則的な対応は得られず、バスク語解釈は証明されないと結論づけた。
ホセバ・ラカラは、さらに厳しい異論を示した。
歴史的なバスク語資料を調べると、zori on「良い運」という二語の組み合わせは古くても、zorion「幸福」や zorioneko「幸運な」が一語として広く使われるのは18世紀以降であり、語尾の形成も紀元前1世紀へそのまま遡らせられないというのである。
別の研究者ミケル・マルティネス=アレタは、sori-on の部分に古バスク語的要素がある可能性を比較的高く評価しつつ、ほかの部分の系統は確定できないとした。
仮に古バスク語に近い言語だったとしても、それが現代バスク語へ続く直接の祖先なのか、後に消えた近縁語なのかは別問題だとも指摘する。
つまり現時点で安全に言えるのは、次のところまでである。
文字はイベリア系だが、ヴァスコン地域に特有らしい記号を含む。文章は文法を持つ何らかの言語で書かれている。sorion はバスク語 zori on と比較する価値がある。しかし比較できることは、翻訳できたことでも、系統が証明されたことでもない。
「最古のバスク語」という呼び方は、魅力的な仮説の名前ではあっても、確定した名札ではないのである。
🚪 家を守る手か、敵から奪った手か?
では、この右手は何のために玄関へ置かれたのだろうか。
第一の候補は、発見当初から提案された護符説である。
古代世界では、手は誓い、祈り、歓迎、神への奉献、邪悪を退ける力など、多くの意味を持った。家の入口は外の混沌と内の安全が接する境界であり、護符を置くにはふさわしい。
もし sorion が本当に「良い運」を意味するなら、形、文字、場所が一つの説明へきれいに結び付く。
しかし、別の可能性は穏やかではない。
同時代のエブロ川流域には、右手の甲を表した石造物がある。エル・パラオの碑では、イルレギと同じように指が下を向く。ラ・ビスペサの記念物には複数の手が刻まれ、エル・プイ・デ・アルカラからは、より細長い鉛製の手も見つかっている。
ギリシャ・ローマの著述家は、イベリア半島の戦士が倒した敵の頭部や手を切り取り、腰や家、神殿、集落の入口へ掲げたと記した。
この文化的背景から、青銅板は切断された敵の右手を表す戦勝記念物だったという説も提出されている。
もしそうなら、入口の手は「この家に幸運を」ではなく、「この家の敵がどうなるかを見よ」と告げていたことになる。
ただし本物の切断手がイルレギで見つかったわけではなく、文字にも「敵」や「勝利」と確実に読める語はない。
護符説は sorion の読みへ、戦利品説は手の図像と古典史料へ大きく依存する。どちらも有力な手掛かりを持つが、決定打は欠けている。
さらに奉納札、神名を記した祈願文、歓迎の印、集団や家族を示す標識など、手の象徴にはほかの可能性も残る。
指を下へ向けた右手は、答えを指し示すのではなく、いくつもの解釈を床へ並べていた。
↑これが問題のおてて!( ・Д・)(Aiestaran et al. 2024, Figure 6より転載)
🔥 火が守ったのは、翻訳ではなく「書かなかった人々」の声だった
イルレギの碑文を、今すぐ現代バスク語へ翻訳することはできない。
それでも、この発見が古代ヴァスコン社会の理解を変えたことまで消えるわけではない。
同じ建物6000からは、焼成後に文字を引っかいた土器片が二点、蝋板へ書くための骨製筆記具が一点、ヴァスコン地域の造幣所が発行した硬貨も出土した。
手の近くでは、金属を刻むのに使えた鉄製工具も見つかっている。
一枚だけが遠くから偶然持ち込まれたのではなく、この家と集落の内部に、文字を作り、読み、使う環境があった可能性が高い。
もちろん、住民100人全員が読み書きできた証拠ではない。
文字を知る専門家が一人いたのか、商人や金属工が使ったのか、祭祀を担う者だけが読めたのかは分からない。
だが「硬貨に名前を打つ時以外、ヴァスコン人は文字を使わなかった」という像は、もう維持しにくい。
彼らは周辺のイベリア文字をそのまま借りるだけでなく、地域特有の記号を加え、線刻と点刻を重ね、家の入口に四行の文章を掲げた。
そこに書かれた言語名を、私たちはまだ知らない。
最初の一語は幸運に見え、次の一語から意味が閉ざされる。
それは失敗ではない。
未知の文字を読むには、同じ記号、同じ語尾、同じ言語で書かれた碑文を、もう一つ、さらにもう一つ見つける必要がある。イルレギの手は、解読の終着点ではなく、比較できる資料が初めて現れた出発点なのである。
二千百年前、誰かが薄い青銅板を右手の形へ切り、三本の罫線を引き、文字を彫り、その上から一つずつ点を打った。
やがて戦争が来て、家も扉も焼け落ちた。
住人を守れなかった手は、崩れた屋根の下で、彼らが文字を持っていたという事実だけを守り続けた。
そこに刻まれたのが「幸運」だったのか、神の名だったのか、敵への警告だったのかは分からない。
けれども、沈黙していたと考えられてきた人々が、自分たちの言葉を金属へ残そうとした瞬間は、確かにそこにある。
イルレギの手は、最古のバスク語をこちらへ差し出したのではなく、まだ名前のない言葉を読み取るための鍵を、指先だけ失ったまま、焼けた戸口から差し出しているのかもしれない!( ・Д・)
なにはともあれ……
何で映画などに出てくる考古学者は古い文字読めるの?( ・Д・)











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