
↑今日もサムネ画がまぁまぁ素敵な感じで良い!考古学関係は基本茶色ばっかになるからね!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは
「エルサレムの聖墳墓教会で傷んだ床を修復するため石板を外したところ、その下から古代の採石場、土を詰めた小さな耕作区画、ブドウやイチジクの痕跡、オリーブ栽培を思わせる花粉、そして岩盤を削った墓の残骸が現れ、ヨハネ福音書が描いた「処刑場のそばに園があり、その園に新しい墓があった」という二千年前の風景が、本当にこの場所に存在した可能性を高めた――けれども、それはイエス本人の墓まで証明したことになるのか!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰はじめに
今回は、ローマの十字架刑とユダヤ人の埋葬習慣、城壁の外に広がった採石場と墓地、4世紀にコンスタンティヌス帝が築いた最初の教会、破壊と再建で失われた地形、19世紀に現れたもう一つの「園の墓」、2016年に大理石の下から見えた石灰岩、そして2022~2025年の大発掘まで、信仰と考古学が重なる床下へ降りてみよう!
エルサレム旧市街のキリスト教徒地区に、聖墳墓教会は立っている。
教会へ入ると、右手上方にはイエスが十字架にかけられたと伝わるゴルゴタがあり、奥の円形広間には墓を覆う小さな礼拝堂がある。
現在の見た目では、丘と墓が巨大な建物の内部へ押し込まれている。
しかも教会は、今の旧市街を囲む城壁の内側にある。
「処刑場と墓は、町の外にあったのでは?」
当然の疑問である。
ところが床を外して地層を読み直すと、現在の町並みとはまるで違う、岩と土と墓が入り交じった古代の郊外が現れ始めた。
⚔️ 十字架刑の場所は、当時の城壁の外だった
イエスが処刑されたのは、ローマ皇帝ティベリウスの治世、ユダヤ属州総督ポンティウス・ピラトゥスの時代である。
一般には西暦30年頃、または33年頃と考えられている。
十字架刑は、反逆者や奴隷などを人目にさらして威嚇するローマの刑罰だった。福音書では、ゴルゴタと呼ばれる場所でイエスが処刑され、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取り、岩を削った新しい墓へ納めたとされる。
安息日が始まる前に埋葬を終える必要があったため、墓が処刑場の近くにあったという筋書きである。
当時のエルサレムでは、裕福な家族が町の外の岩盤へ墓室を掘り、遺体を石の寝台や壁の穴へ納めることがあった。
十字架刑の犠牲者が必ず野ざらしにされたとも限らない。
1968年には、エルサレムの墓から、かかとの骨を鉄釘で貫かれた男性ヨハナンの骨が発見された。少なくとも一部の磔刑死者が、ユダヤ式の墓へ葬られたことを示す直接的な例である。
そして現在の聖墳墓教会が立つ場所は、イエスの時代には城壁の外側だった可能性が高い。
今見える旧市街の城壁は16世紀のもので、二千年前と同じ線を通っているわけではないのだ。
↑これ発掘調査プランらしいけれど、めちゃくちゃ掘る気満々だね!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)
⛏️ 岩を切り出した跡が、そのまま丘と墓になった
教会の床下にある最古の大きな痕跡は、石灰岩の採石場である。
岩肌には工具の痕、切り出した石材の輪郭、途中まで加工しながら持ち出されなかった石が残っている。
採石は鉄器時代から長く続き、場所によって深さが異なった。
硬くて質のよい部分は建築石材として切り出され、割れやすい部分や形の悪い岩は残された。
その結果、地面には段差、穴、孤立した岩の突起が生まれた。
採石が終わると、人々は窪地へ土を入れ、低い石壁で囲んで小さな耕作区画を造った。
別の場所では、露出した岩盤へ墓室を掘った。
つまり当時の景観は、滑らかな丘に一基だけ墓がある風景ではない。
採石場の傷跡に畑と墓地が入り込み、その間から切り残された岩が突き出す、不規則な郊外だった。
ゴルゴタと呼ばれた岩山と、その近くにある園と墓。
三つが同じ狭い場所に存在しても、不思議ではない地形ができていたのである。
🏛️ 4世紀、皇帝は一つの墓を岩山から切り離した
西暦70年、ローマ軍はユダヤ戦争でエルサレムを破壊した。
2世紀には皇帝ハドリアヌスがローマ都市アエリア・カピトリナを建設し、かつて郊外だった場所も市街地へ取り込まれた。
4世紀の教会史家エウセビオスによれば、イエスの墓と信じられていた場所は土で埋められ、その上にはローマの聖所が築かれていたという。
やがてキリスト教を保護したコンスタンティヌス帝が、その建造物と盛り土を取り除かせた。
工事では、信徒がイエスの墓として崇敬していた一つの岩窟だけを残し、周囲の岩盤を削って独立させたと考えられている。
東には大聖堂、西には墓を囲む円形堂アナスタシスが建てられ、複合施設は335年に献堂された。
この大工事が、現在の難問を生んだ。
墓を守るために周囲の岩を削った結果、墓が本来どのような岩山の一部だったのか、比較できる外形の多くが失われたのである。
確かなのは、4世紀にはすでに、一つの墓が特別な場所として選ばれていたことだ。
だが、その記憶を1世紀まで切れ目なく遡れるかは、別の問題として残った。
↑インディジョーンズのワンシーンを思い出す光景だぜ!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)
🔥 破壊されるたび、「本当に同じ墓か」が疑われた
聖墳墓教会は完成した姿のまま残らなかった。
614年にはサーサーン朝ペルシャ軍の侵攻で損傷し、1009年にはファーティマ朝のカリフ、アル・ハーキムによって大規模に破壊された。
11世紀に再建が始まり、十字軍時代の12世紀に教会全体が再構成された。
1808年には火災が起き、墓を覆う現在の小礼拝堂は1810年に造り直された。
石材は再利用され、床は張り替えられ、壁や柱は増減した。
古い記録も、ギリシャ正教会、カトリックのフランシスコ会、アルメニア使徒教会など、管理する共同体ごとに分かれていた。
20世紀にはシャルル・クアノンやヴィルジリオ・コルボが教会内を調査し、古い教会の姿を復元しようとした。
しかし発掘場所が限られ、異なる区域の地層を一つの時間軸へ結び直すことは難しかった。
墓は破壊を生き延びたのか。
それとも中世に別の岩や場所を「同じ墓」と呼ぶようになったのか。
長い再建史そのものが、聖地の真正性をめぐる疑いを育てたのである。
🌳 19世紀の「園の墓」は、見た目が聖書に似すぎていた
19世紀になると、聖墳墓教会とは別の候補が注目された。
旧市街のダマスカス門の北にある「園の墓」である。
近くの岩壁が人間の頭蓋骨に見え、墓の周囲には庭園、貯水槽、ブドウ搾り場と解釈された設備があった。
1880年代にはイギリス軍人チャールズ・ゴードンが、この一帯こそゴルゴタとイエスの墓ではないかと主張した。
暗く複雑な教会より、緑の庭に開いた岩窟の方が、福音書の場面を想像しやすい。
とくに一部のプロテスタントに支持され、現在も祈りの場所として大切にされている。
ところが墓の形を比較すると、最初に掘られたのは紀元前8~7世紀頃、ユダ王国時代である可能性が高い。
後世に改造されていても、イエスの時代に「まだ誰も葬られていない新しい墓」だったとは考えにくい。
聖書らしく見える景観と、考古学的な年代が一致するとは限らない。
園の墓をめぐる研究は、その重要な教訓を残した。
↑こんなところで発掘してみたい!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)
🧱 2016年、500年以上隠れていた石の寝台が現れた
聖墳墓教会の墓を覆う小礼拝堂は、長年の湿気、ろうそくの煤、地震、建物の圧力で傷んでいた。
2016年、ギリシャのアテネ国立工科大学を中心とする修復チームが、構造を補強する大工事を行った。
その途中、墓室内の石の寝台を覆う大理石板が、少なくとも500年以上ぶりに外された。
上の板の下には十字架を刻んだ割れた大理石板があり、さらにその下から元の石灰岩の表面が現れた。
墓が中世に別の場所から運び込まれた模型ではなく、現地の岩盤に属することが改めて確認されたのである。
石灰岩と大理石の間に使われたモルタルを測定すると、西暦345年頃という年代が得られた。
これは歴史記録どおり、コンスタンティヌス帝の時代に墓が覆われ、記念建築へ組み込まれたことを科学的に支える。
ただし、測ったのはモルタルである。
墓が1世紀に掘られたことや、そこへイエスが葬られたことを直接測定したわけではなかった。
🔎 礼拝を止めず、床下を一片ずつ掘りつないだ
次の機会は、老朽化した教会の床を修復する計画から生まれた。
2019年、主要三教派は床、排水、配管などを改修する大規模事業に合意した。
床石を外すなら、その下を考古学的に調査できる。
発掘はローマ・サピエンツァ大学のフランチェスカ・ロマーナ・スタソッラが率い、2022年に始まった。
ただし、世界中から巡礼者が訪れ、毎日礼拝が行われる教会を閉鎖することはできない。
作業区域は11に分けられ、一か所を掘って記録し、保護してから次へ移った。大祭の前には仮設床を戻し、人々が通れるようにした。
一度に見えるのは、巨大なパズルの一片だけである。
そこで過去の発掘記録、古地図、写真、出土品、測量結果を共通データベースへ集め、写真測量と3D GISで離れた穴を仮想空間上につないだ。
2022年から毎年、暫定報告が刊行され、2025年の調査報告は約100ページに達した。2026年には、方法と過去資料をまとめた600ページを超える第1巻も公刊された。
今回の話題は、突然の一発発見ではない。
四年分の小さな床下を、古い調査まで含めてつないだ結果なのである。
↑土がしまってるだろうから掘るのつらそうだね!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)
🌿 土を囲った石壁から、穀物・ブドウ・イチジクが出た
採石場の利用が終わった後の層から、低い石壁で囲まれた小区画が見つかった。
岩の窪みへ土を運び込み、流れ出さないよう石で押さえた耕作地と考えられている。
その土を水で洗い、種子や木片を選別すると、穀物、ブドウ、イチジク、イネ科植物の遺存体が確認された。
一つの区画からはブドウの木片も見つかったため、現地でブドウを栽培していた可能性が提案された。
花粉分析からは、オリーブ栽培の可能性も示された。
ここで「二千年前のオリーブの木とブドウ畑が、そのまま発見された」と想像してはいけない。
出土したのは、石壁、持ち込まれた土、微細な植物遺存体、木片、花粉である。
地層の順序から、採石場の後、4世紀の教会建設より前に行われた耕作と判断されている。
しかし2025年3月の発表時点では、植物試料の放射性炭素年代測定はまだ行われていなかった。
紀元33年に実ったブドウだと、年単位で結び付けられたわけではないのである。
⚰️ 「園と墓が隣り合う風景」までは、たしかに一致した
ヨハネ福音書は、イエスが十字架にかけられた場所に園があり、その園に、まだ誰も葬られていない新しい墓があったと記す。
今回の発掘で見えてきたのは、まさにその文章と比較できる景観だった。
第一に、この場所はイエスの時代には市街地の外だった。
第二に、古い採石場が残した岩の突起と窪地があった。
第三に、窪地へ土を入れた耕作区画が造られていた。
第四に、同じ採石場の岩盤には複数の墓が掘られていた。
処刑に使える人目につく岩場、園と呼び得る耕作地、すぐ近くの岩窟墓。
聖墳墓教会の地下が、福音書の地理的説明と矛盾しないことは、以前よりはるかに具体的になった。
だが、発見された墓の残骸から「新品」の札が出たわけではない。
耕作区画がアリマタヤのヨセフの所有地だったことも確認できない。
文章と遺跡が一致したのは、人物の身元ではなく、まず場所の性格なのである。
↑絶対どこかの石板の裏側に秘密のボタンとかあるよね!( ・Д・)(「The Times of Israel」の記事内画像より転載;credit: Rossella Tercatin)
🧪 遺体も名前もない。それでも何が「裏付け」られたのか?
今回の発掘で、イエスと書かれた墓誌、人骨、十字架刑の釘、1世紀の所有証書は見つかっていない。
たとえ骨が出ても、比較できる本人のDNAがなければ、ナザレのイエスだと同定することはできない。
まして復活は信仰の領域であり、考古学が実験によって証明したり否定したりできる出来事ではない。
今回、強くなった証拠は三段階に分けられる。
最も確かなのは、教会の下に採石場、耕作区画、植物の痕跡、岩窟墓があり、1世紀のエルサレム郊外として無理のない景観だったこと。
次に、4世紀には現在の場所の岩窟が墓として覆われ、崇敬されていたこと。2016年のモルタル年代と今回の建築遺構が、歴史記録を支えている。
そして最も証明が難しいのが、その墓を1世紀に使った人物の名前である。
考古学は、三段目を飛び越えて結論を出すことはできない。
スタソッラたちの2025年報告も「暫定報告」であり、植物、土器、石材、モルタル、動物骨などの分析は続いている。
なにはともあれ、二千年前の一日を直接保存した墓誌は、まだ現れていない。
けれども、香の煙と祈りに満ちた教会の床を一枚外すと、その下には都市になる前の郊外が残っていた。
石工が石灰岩を切り出し、農民が穴へ土を運び、ブドウや穀物を育て、別の誰かが同じ岩盤へ家族の墓を掘った土地である。
そこへ4世紀の人々が巨大な教会を築き、戦争と火災で壊れるたび、後の人々が同じ場所をもう一度覆った。
今回の発見は、「ここにイエスがいた」と刻んだ答えではない。
それでも福音書に短く書かれた、処刑場のそばに園があり、園のなかに墓があったという舞台が、想像だけではなく実在した可能性を、石壁と花粉と岩の傷が語り始めた。
聖墳墓教会の本当の驚きは、墓が空だったという信仰の物語だけではない。
その墓を包んだ二千年分の町が、いまも床下で一層ずつ、失われたエルサレムを返していることなのである!( ・Д・)
なにはともあれ……
私の過去への興味の始まりのひとつは聖書だったな……あと恐竜!( ・Д・)










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