今回の考古学・歴史ニュースは
「韓国南西部、全羅南道羅州市の金城山で、兵士が地雷を探していたら、韓国最古の火薬武器が見つかった!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰はじめに
登山道を整備する前に、軍が「未確認地雷地帯」を調べていた。
すると山の斜面、地表から約10センチの場所で探知機が反応した。
土の中から現れたのは、現代の地雷ではない。
長さ23.75センチ、重さ1,032グラムの青銅製火器だった。
本体には28字の銘文があり、武器の名、重量、製作監督者、職人、そして製造年まで刻まれていた。
ただし、その年は「丁巳」としか書かれていない。
候補は1377年と1437年。
高麗が国家的な火薬兵器生産を始めた年なのか、それとも世宗が火器を猛烈に改良していた時代なのか。
今回は中国から東アジアへ広がった火薬、倭寇と戦った崔茂宣、朝鮮王朝の火器改良、金城山を覆った20世紀の地雷、そして600年前の武器を読み解いたCT画像と28字の銘文まで追いかける!
🧨 火薬は、長いあいだ「爆発する薬」だった
火薬は中国で生まれた。
初期には火矢、火槍、爆発物など、炎や煙を利用する兵器として発達した。
やがて金属の筒へ火薬を詰め、弾丸や矢を発射する武器が現れる。
13~14世紀には、モンゴル帝国とその後継国家、明、日本、高麗を結ぶ戦争と交流の中で、火薬技術が東アジア各地へ広がっていった。
しかし技術が伝わっても、火薬を大量に造れるとは限らない。
最大の問題は、主原料となる硝石だった。
🏴☠️ 高麗の海岸には、倭寇が押し寄せていた
14世紀後半、高麗は内外の危機に揺れていた。
元の支配力が衰え、中国では1368年に明が成立した。
日本は南北朝の争乱期にあり、海では倭寇と呼ばれた集団が朝鮮半島や中国沿岸を襲った。
彼らは一枚岩の「日本海軍」ではない。
日本人を中心としながら、地域の海民や密貿易に関わる人々も含む、流動的な武装集団だったと考えられている。
高麗にとっては、海から突然現れ、穀物や人々を奪う深刻な脅威だった。
その倭寇へ対抗するため、火薬兵器の国産化が急がれた。
↑見つかった火筒!( ・Д・)(「京郷新聞」の記事内画像より転載; credit: 国立羅州文化遺産研究所)
🧪 崔茂宣は、まず硝石の作り方を追いかけた
高麗の火薬史で中心人物となるのが、崔茂宣である。
後世に編纂された史書によれば、彼は中国人商人の李元から硝石の製法を学んだ。
火薬は、完成品を少し輸入するだけでは継続的な軍事力にならない。
原料を精製し、配合し、同じ性能の火薬を大量生産する必要がある。
崔茂宣は長い実験の末、国内で硝石を作る技術を確立したとされる。
この物語には英雄伝的な脚色が含まれる可能性もある。
それでも、高麗末に火薬製造が国家事業へ変わったことは確かである。
🏭 1377年、国家の火薬工房が生まれた
1377年、高麗は崔茂宣の提案を受け、火筒都監を設置した。
火薬と火器を製造する臨時官庁である。
史料には火筒、火砲、火箭など、さまざまな名の兵器が現れる。
ただし、それぞれが後世の大砲や銃と完全に同じ構造だったとは限らない。
2023年の研究でも、「火筒」が金属製の発射器を指す一方、「火砲」は船を焼く火炎兵器に近かった可能性が論じられている。
古い記録の武器名は、まだ整理される途中だったのだ。
🚢 1380年、鎮浦の海で倭寇船が燃えた
1377年からわずか3年後、火薬兵器は大規模な実戦へ投入された。
1380年の鎮浦海戦である。
崔茂宣らが率いた高麗水軍は、多数の倭寇船へ火薬兵器を浴びせた。
敵船の数は史料によって数百隻と幅がある。
どの兵器が何発使われたかも、現代の戦闘記録のようには分からない。
それでも、火薬が高麗の海戦を変えたことは疑いない。
国産火薬は実験室の珍品ではなく、国家を守る兵器になった。
↑内部はこんな感じ!( ・Д・)(「京郷新聞」の記事内画像より転載; credit: 国立羅州文化遺産研究所)
👑 世宗は、火器を規格化する国家を造った
高麗は1392年に滅び、朝鮮王朝が成立した。
崔茂宣の技術と記録は、息子の崔海山らへ引き継がれた。
15世紀前半、世宗の治世には火器の改良が加速する。
射程、装薬量、発射体、筒の形を試し、武器を規格化しようとした。
1437年には小型火器の試験が行われ、1445年頃には新しい規格が整えられた。
これはハングルが創製・公布される直前の時代でもある。
文字だけでなく、軍事技術も測定し、記録し、標準化する国家が造られていた。
🔎 火器史の最初の約100年には、実物がほとんどない
問題は、記録があっても武器そのものが残りにくいことだった。
銅や錫を含む青銅は、古くなれば溶かして再利用できる。
戦場で失われた火器は錆び、回収された火器は改造や鋳直しに回された。
これまで製造年が確認できる韓国の指定文化財では、1555年の天字銃筒が最古だった。
慶熙大学校博物館には、さらに古そうな火器が2点ある。
しかし1968年の購入品で、出土地が分からないため、年代を確定できなかった。
文献だけが語ってきた高麗末~朝鮮初の空白を、確かな出土品で埋める必要があった。
⛰️ 金城山は、何度も軍事の山になった
金城山は、羅州市街と栄山江流域を見下ろす標高約451メートルの山である。
古くから地域の守護山とされ、山城も築かれた。
後三国時代には王建と甄萱が争った地域を見下ろした。
高麗時代には契丹の侵入や三別抄の戦いに関わる伝承と記録も残る。
山上からは人と物が動く平野と水路を監視できる。
火器が見つかった場所として、偶然とは言い切れない地形である。
ただし、その一本がいつ、誰によって山へ持ち込まれたのかは分かっていない。
↑文字も残ってるね!( ・Д・)(「京郷新聞」の記事内画像より転載; credit: 国立羅州文化遺産研究所)
⚠️ 1966年、山頂は再び閉ざされた
金城山は20世紀にも軍事拠点となった。
1966年に空軍部隊が置かれ、山頂一帯への市民の立ち入りが制限された。
1960年代から1970年代末にかけて、施設防護のため1,800発を超える地雷が埋設された。
2000年代以降、撤去作業で大半が回収された。
だが急斜面では雨や土砂によって地雷が移動する。
数十発が残る可能性も指摘され、山頂は長く「近いのに入れない場所」だった。
🥾 57年ぶりの山頂開放が、調査のきっかけになった
2023年、羅州市と軍は金城山頂を常時開放するため協定を結んだ。
登山道、休憩施設、安全設備を整え、市民へ山を返す計画だった。
しかし道を造る前には、地雷がないことを確かめなければならない。
そこで軍が「未確認地雷地帯」を探査した。
古代の武器を探す考古学調査ではない。
現代の爆発物から登山者を守るための安全確認だった。
📡 地表下10センチで、探知機が反応した
2023年11月14日、兵士が金城山の斜面を調べていた。
山頂へ近づく、急な斜面の岩陰だった。
探知機が金属へ反応したため、地表を約10センチ掘り下げた。
現れたのは、地雷とは違う細長い青銅器だった。
軍は11月20日に関係機関へ通報した。
遺物は国立羅州文化遺産研究所へ移され、保存処理と調査が始まった。
発見から公表まで約3年かかったのは、銘文、材質、構造、年代を一つずつ確かめたためである。
🔩 長さ23.75センチの筒に、木の柄が付いていた
青銅部分の長さは23.75センチ。
外径は最大約2.95センチ、口径は1.66センチ、重さは1,032グラムである。
前方は矢や弾を出す銃身、中央には火薬を入れる薬室がある。
後部は空洞で、長い木柄を差し込む「冒柄」になっていた。
復元すると全長約1.2メートル、重さ約1.5キロになった可能性がある。
現代の拳銃より、細長い柄を持つ小型の手砲に近い。
一人で携行し、火薬の力で矢、あるいは小さな発射体を撃ち出した武器だった。
↑元々こういう感じの構造の武器!( ・Д・)(「京郷新聞」の記事内画像より転載; credit: 国立羅州文化遺産研究所)
✍️ 28字が、武器の戸籍を残していた
表面には、肉眼でも細い線が見えた。
保存処理と画像解析の結果、柄を差す部分に6列27字、銃口に1字が確認された。
銘文は次のように読まれている。
「丁巳十二月日 鍊 黃字火筒 重一斤十四兩 監造錄事安休甫 匠人石」
意味は、「丁巳年12月に黄字火筒を造った。重さは1斤14両。製作監督は録事の安休甫、職人は石」である。
銃口の「八」は、製造番号または管理番号と考えられている。
ただの武器名ではない。
製造年月、重量、責任者、職人、管理番号を記した、国家工房の製品台帳が筒そのものへ刻まれていた。
🟨 「黄」は色ではなく、千字文の整理番号だった
「黄字火筒」の黄は、黄色く塗られていたという意味ではない。
千字文の文字順を使い、物を分類した呼び名である。
後世の朝鮮火器では、天・地・玄・黄が異なる規格の銃筒名にも使われた。
日本語の「甲・乙・丙」や、アルファベットの型番に少し近い。
また「録事」は、官庁の実務を担う官職だった。
高麗末と朝鮮の軍器監にも配置され、武器鋳造に関与した記録がある。
安休甫と職人・石の経歴は分からない。
それでも銘文は、この火筒が個人の鍛冶屋の試作品ではなく、官庁の監督下で造られたことを示している。
📅 「丁巳年」は、1377年と1437年の二つある
銘文最大の謎が「丁巳」である。
干支による年の呼び名は、60年で一巡する。
火薬武器が高麗で記録に現れ始めた1356年から、新規格が整う1448年までに限ると、候補は1377年と1437年になる。
1377年なら、高麗の火筒都監が設置された、その年の製品である。
1437年なら、朝鮮の世宗が火器改良を進めていた、そのただ中の製品になる。
比較できる同時代品が少なすぎるため、研究者はどちらかを断定していない。
分からないことを「分からない」と残すのも、考古学の大切な仕事である。
🩻 CT画像には、改良前の丸い薬室が写った
研究所は硬X線撮影とCTで、外から見えない内部を調べた。
薬室の内部は丸く、火薬と発射体を連続して詰める初期的な構造だった。
世宗期に改良された火器では、火薬の爆発力を効率よく伝えるため「撃木」という木栓が使われる。
黄字火筒の内部は、その改良型とは明確に異なっていた。
形だけを見れば、かなり早い段階の火器である。
ただし構造が古いからといって、自動的に1377年製と決まるわけではない。
古い形式が1437年まで使われた可能性も残る。
🔬 青銅の不純物まで、古い鋳造を証言した
成分分析では、銅、錫、鉛を主成分とする青銅と判明した。
錫は重量比10%以内に抑えられていた。
硬さだけを上げれば、火薬の爆発で筒が割れやすくなる。
錫を調整し、強さと粘りの両方を持たせたと考えられている。
顕微鏡観察では、硫黄、ケイ素、銀など、精錬で除ききれなかった不純物も見つかった。
それは未熟さではなく、近代の材料で作った偽物ではないことを示す手がかりになった。
銘文、内部構造、金属組織が、別々の方向から同じ時代を指していたのである。
↑こんな風に使う用だけど、着火や次弾の携帯や装填はどうしてたんだろうね?( ・Д・)(「京郷新聞」の記事内画像より転載; credit: 国立羅州文化遺産研究所)
🏹 一発で矢を放ったのか、複数を散らしたのか?
火筒は、おそらく長い矢を一発ずつ撃つ武器だった。
複数の小さな矢を同時に放った可能性も、完全には否定されていない。
内部から火薬の残留物は確認されなかった。
だが、それだけで未使用品とは言えない。
土中で600年近く経てば、使用痕が失われる可能性がある。
後代の類似火器には、約150メートル先まで届き、盾を何枚も貫いたという記録がある。
しかし黄字火筒そのものを発射実験したわけではない。
その威力を数字で断定するには、復元実験と追加研究が必要である。
🏛️ 「準国宝級」ではなく、正確には“宝物級”である
この発見は、日本語では「準国宝級」と紹介されることがある。
しかし韓国側の表現は「宝物級」である。
韓国の「国宝」と「宝物」は別の正式な指定区分であり、「準国宝」という区分があるわけではない。
しかも黄字火筒は、2026年9月の公表時点ではまだ指定済みではない。
国家遺産庁は、国指定文化遺産「宝物」への指定を進める方針を示している。
仮に1437年製でも、従来最古の年銘火器だった1555年の天字銃筒より118年古い。
1377年製なら、その差は178年になる。
価値を大きく見せる肩書ではなく、確かな出土地と銘文こそが、この武器を特別にしている。
🕳️ 発掘できたのは、周囲わずか約5メートルだった
黄字火筒が見つかった後も、山から地雷の危険が消えたわけではない。
考古学者が安全に調べられたのは、発見地点の周囲約5メートルに限られた。
近くに建物、城壁、弾薬、別の火器があるのかは分からない。
武器が戦闘で失われたのか、訓練中に置き忘れられたのか、後世に移動したのかも不明である。
発見場所を広く掘れない以上、銘文は読めても「なぜそこにあったか」は読めない。
今後の調査には、地雷除去と文化財調査を同時に進める協力が必要になる。
現代の危険物が、古代の軍事史を守りながら閉じ込めているのだ。
🔥 600年前の火は、地雷の山から戻ってきた
なにはともあれ……。
1377年、あるいは1437年の12月。
官吏の安休甫が製造を監督し、「石」と呼ばれた職人が青銅を鋳込んだ。
完成した筒には、名と重さと責任者が刻まれた。
やがて長い木柄を失い、小さな青銅の筒だけが金城山の土へ入った。
その後、王朝は変わり、倭寇の船は消え、火器は大砲と銃へ進化した。
20世紀になると、同じ山へ別の時代の爆発物が埋められた。
そして2023年、地雷を探していた兵士の機械が、600年前の兵器へ反応した。
見つかったのは、派手な黄金でも王の宝冠でもない。
長さ24センチにも満たない、黒ずんだ青銅の筒である。
だが28字の銘文は、国家が火薬を管理し、役人が監督し、名もなき職人が爆発に耐える金属を調合していたことを伝えた。
黄字火筒は、韓国最古の火薬武器というだけではない。
文献の中にしかなかった技術史の空白を、地中から撃ち抜いた一発なのだ!( ・Д・)
実際に一度撃ってみたい!( ・Д・)











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