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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

カテゴリ: ニュース(一般)

2023ねん6がつ 3にち(きんよーび、台風!)

良く寝ると仕事がよく進む、今年も躍進の年かなヾ(´ω`=´ω`)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは「DNA研究で匈奴研究が進んだよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はロシア南部です。

下の地図で挙げたようにバイカル湖の南東部でモンゴルに近いですね。

赤のドットで囲んだところがバイカル湖で、オレンジ色の丸枠が今回の調査地点です。




今回の研究はDNAを中心として人骨に関するものなのですが、近年ノーベル賞を獲ったように、この方面の進展が目覚ましく、考古学に対する貢献も著しいものがあるように思えます。


扱った墓域は下に挙げた図の「TAK」と「SBB」の2か所で、合計18基の墓の人骨と副葬品を対象にしています。




今回の研究で面白いのは墓の副葬品として弓矢が入る年齢が分かったことかなと個人的には思っています。



騎馬民族ですから世界史で有名なパルティアン・ショットのような騎馬戦術のひとつとして弓術が大事だったのは当然ですので、弓矢の副葬は妥当だなと思います。

そんな大事なものなのに11歳以下の男子には弓矢が副葬されていないことが分かりました。




ということは風習として12歳で”成人”、ないし「一人前の男」だったのかも知れませんね。

個人的にはこういうことが分かるのは面白いなって思います(*^・ェ・)ノ




あとは金製品を含んで一番豪華な副葬品が出たのが女性の墓だったってことですかね。

サイヤ人のように戦闘民族っぽいのに女性の地位が高かったんだな~って驚きました。




馬上では長弓は扱わないから比較的筋力は要らないので、馬のコントロールと弓術に長ければ良いという点では男女差が少ない社会とも言えそうですね。

アマゾネスの事例でも女性の副葬品は豪華ですし、単純に女性が強い社会だったのかも知れませんけども( -д-)ノ







さて、以下に「匈奴帝国の遺伝的多様性:貴族と地域エリートの役割」に関して簡単に、まじめにまとめますね。


要約
最近の考古学的研究により、匈奴帝国が多民族国家であったことが明らかになりました。

しかし、匈奴帝国内の遺伝的多様性が地域コミュニティや社会政治的地位によってどのように構成されていたのかは不明でした。

この研究では、匈奴帝国の西側辺境にある貴族墓地と地域エリート墓地の調査結果を元に、遺伝的多様性のパターンについて報告しています。





導入
匈奴帝国は紀元前200年頃から紀元後100年頃まで、東ユーラシアの草原を支配し、最初の遊牧民の帝国を築きました。

最近の研究により、匈奴帝国は多民族国家であったことが明らかになり、その遺伝的多様性が注目されています。

しかし、遺伝的多様性が地域コミュニティや社会的地位によってどのように分布していたのかは不明でした。




方法
研究チームは、匈奴帝国の西側辺境に位置する貴族墓地と地域エリート墓地を調査しました。


そこで見つかった18人の遺体からゲノムワイドデータを収集し、遺伝的解析を行いました。


この分析により、コミュニティ内の遺伝的多様性のパターンを明らかにしました。




結果
研究結果は、匈奴帝国全体と同程度の遺伝的多様性が、貴族墓地と地域エリート墓地においても観察されたことを示しました。

さらに、拡大家族内でも高い遺伝的多様性が見られました。このことから、匈奴社会においては多様な出自を持つ人々が交配していたことが示唆されました。




また、遺伝的異質性は、社会的地位の低い人々の間で最も高くなり、多様な出自を反映していることがわかりました。

一方、高い社会的地位を持つ人々は、遺伝的多様性が低く、特定の部分集合にエリート地位と権力が集中していたことが示唆されました。




これは、匈奴帝国が多民族国家であり、社会的地位によって異なる遺伝的多様性が分布していたことを示唆しています。

今後の試料数の増加によって、さらなる匈奴帝国の社会構造や文化の解明につながるでしょう。




おわりに

途中でも書きましたけど、DNA研究の進展は著しいですね。

それだけではないのですが科学技術の発展が全体的に著しいので、理化学研究を通じた考古学の発展も凄まじいものがあります。




たぶん考古学革命がそろそろ起こりそう。

日本の手法はもちろん丁寧だけれども、世界的に従来通りの掘り方ではなくなっていきそうな気がします。



というかマヤ地域をはじめとして、未だに盗掘まがいの調査やってる考古学者を今こそ弾劾すべきだと思うな。


だって今回のような分析も何もできなくなるようなことやってるんだよ?

ばちくそ許すまじ!( ・Д・)( ・Д・)( ・Д・)




何はともあれ、

やぱ金いいな!( ・Д・)



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2023ねん 5がつ 8にち(げつよーび、曇り)

今年度はめっちゃ頑張るよ!(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースはクジラの絵が描かれた弥生土器が発見されたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は福岡県、糸島市の深江城崎(ふかえじょうざき)遺跡です!

糸島と言えば、みんな大好き「邪馬台国論争」で出てくるやつですね。

魏志倭人伝に記された伊都国があったのが糸島周辺だったとされています。

「いとこく」の名が「いとじま」の地名として残ったとする解釈から来てるものです。

これってどれだけ信憑性のあるものなのか謎だなと昔から秘かに思っているのですが、まぁきっと専門にやってる人からしたら”当然そう”なのだろうと誰にも聞けずにいます( -д-)ノ




さて、今回はこの深江城崎遺跡から弥生時代に帰属する土器が出土し、その器面に「クジラ」が刻まれていたというお話です。





出土した土器は高さ60cmの壺です。

壺のくびれ部を頸部(けいぶ)と呼びますが、そのあと器の形としては膨らみますよね?

その部分を肩部(けんぶ)と言います。




今回のクジラはその肩部に描かれていました。

日本考古学だと正確にはなんて言うのか分からないのですが(申し訳ない!)、たぶん大きく分けると沈線文として扱われるはず!

アメリカ考古学ないしマヤ考古学では大枠がないので、刻線文(incision)になりますね。

画像サイズが小さいものしか見つからなかったので見にくいですが、ちょっと「ガリガリ削った感じ」がしません?




器面が柔らかい状態で施文したのか、乾燥してから施文したのかで分類しているのです。

乾燥した状態でゴリゴリ削ると刻線文です。




このクジラは全長8cmで尾びれまで描かれています。

胴体の左右には6本のラインが伸びていますが、これは恐らく「モリ(銛)」を表現したもので、つまりは弥生時代における捕鯨を表現したものと考えられます。





これまでに見つかった同様の事例は、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡での1例のみなので今回の発見は2例目というとってもレアな発見なのです。

恐らく湾や浜辺近くに迷い込んだクジラを狩猟したのでしょうが、大量の肉や油を提供してくれるクジラはまさに豊穣の象徴だったのでしょう。

きっとこの壺にクジラに対する畏敬の念や豊穣に対する祈りを込めて描いたのだと思われます。





クジラの脳油は古代から利用されていたようですがそのお話はまた別の機会に!

あと、現在でも漂着したクジラの死骸はこの油のため危険なのでむやみに近づくことを禁止されていますのでご注意を!( -д-)ノ





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おわりに

弥生時代後期から古墳時代初頭に出現する”謎”の「手焙形(てあぶりがた)土器」というのがあるのですが、、、

クジラの脳油と関係していると考える研究者もいるようですね。

ちょっと調べてみて今度記事にしてみます。




手焙形土器自体が形態も変だし、時期も限定されてるし、何に使われたのか謎だし、面白い題材なのです。

形態が特徴的だから記事を読んで知識を得てもらえば、博物館で実際のモノを見つけた時にはきっともっと楽しめるはずです。

ということでその内ちゃんと取り組みますね(*^・ェ・)ノ



何はともあれ、

クラファン応援して!( ・Д・)



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2023ねん 5がつ 4にち(もくよーび、晴れ)

GWだね!全然関係ないけどみんな応援して!( ・Д・)

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四国一周メイン画像 (縮小版)

↑いや、実際チャリはキツイな( ・Д・)


今回の考古学・歴史ニュースは「国内研究費足りないから助けて!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は北海道です。

私はマヤ研究がメインですのでグアテマラで調査してますけども、日本国内でも調査研究しています。

国内では主に土器の胎土に含まれる砂粒鉱物を顕微鏡で観察して鉱物組成を明らかにし、河川湖沼に堆積する砂や粘土の鉱物組成と比較することで土器の生産地を推定するという研究を行っています。



砂ほり博士_190419_0026


砂ほり博士_190419_0025


まぁこんな感じでこれまで北海道と礼文島、沖縄本島、鹿児島の奄美大島でサンプリング調査を行ってきました。

ひたすら河川や湖沼を回ってサンプルを集め、処理後に顕微鏡観察を行っていきます。




これまでに日本国内では100点以上のサンプルを集めています。

それまでに何度、沼にはまったり、川に落ちたり、ぬかるみで滑って派手にコケて流血したことか、、、ほんと全身ドロドロになって悲しい気持ちになりましたよヽ(TдT)ノ





砂ほり博士_190419_0040
↑これは羊蹄山!きれいでしょ?ヾ(´ω`=´ω`)ノ



今回は北海道の話です。

北海道は大きいのでまだサンプリング調査を完了していませんが、まぁ車使って2週間くらいかければ終わるかな~という見込みでいます。

今年がある意味自由に研究活動できる最後の年かも知れないので、片付けてしまおうかなとも思っています(*^・ェ・)ノ

たぶん……




日本最古級の土器


北海道での資料調査は色々な場所で様々な時期の土器を対象にしているので、ネタはつきないのですが、今回紹介するのはわかりやすい2点です。


ひとつが上に挙げた地図にある、帯広市と遠軽町に関するお話です。




この2つの地点では日本最古級の土器である爪形文土器が出土しています。

縄文時代草創期相当で約1万3000~1万4000年前の土器です。




上の画像だと分かりにくいかもしれませんが、帯広市と遠軽町はかなり離れていますし、その間を高い山が二者を隔てるようにそびえ立っています。

北海道の真ん中には大雪山系の山々が連なっており、それを始点にたくさんの河川が発達しています。





雪解け水も豊富なので北海道はたくさんの綺麗な水に恵まれているわけです。

ちなみに、そのため日本の有名なお菓子屋さんの本店がたくさんあります。

北海道の田舎にデカい工場と共にあるわけなので、まぁ地代の関係もあるのかも知れませんね( -д-)ノ








さて、実はこの爪形文土器は非常に古いにも関わらず全国的に見られるものなのです。

つまり縄文草創期段階ですでに海さえ超えた長距離間のコミュニケーションがあった可能性があります。

それを実際に「モノの移動」で証明できたら面白いですよね?




まだまだ全国規模の研究には至っていませんが、とりあえず北海道の事例ではモノの移動がありそうです。


というのも土器の胎土(簡単に言うと焼成された粘土)を顕微鏡観察してみると、帯広市や遠軽町で出土した爪形文土器には上に挙げた写真にあるような金雲母を含むものと含まないものがあることがわかります。





そこで河川に堆積する砂粒鉱物サンプルを顕微鏡観察して鉱物組成を明らかにしたところ、帯広市側の河川は金雲母を含まないことがわかりました。

他方で山を隔てた北の遠軽町を流れる湧別川は多量の大粒の金雲母を含むことがわかりました。




まだ同地域におけるサンプリング調査が完了しているわけではありませんが、現在までのところ、1万4000年前頃の爪形文土器を作り使った人々は高い山を越えて交流があった、あるいは重い土器を運びつつ移動生活を行った可能性が示唆されるのです。




まぁ私が国内でやってる研究はこんな感じのものです。


少しわかってきました?


じゃあ次は礼文島のお話です(*・ω・)ノ






海を隔てた交流

礼文島は北海道本島の北北西にあります。

最高級ウニの馬糞ウニで有名ですね。

あとはホッケのちゃんちゃん焼きかな。




前回調査行ったときにホッケのちゃんちゃん焼きを食べたけども美味しかったですよ。

札幌人としてはシャケのちゃんちゃん焼きが基本なので物珍しさもありました。




さて、そんな海鮮系の美味しいものでいっぱいの礼文島にもたくさんの歴史があります。



arukemaya005




上に挙げたように礼文島には有名な縄文遺跡が見つかっています。

島ですからやはり漁労が重要で、貝塚のようなアルカリ性の堆積物が豊富なため、通常は残らないようなレアな遺物が残っていたりすることで知られています。




さて、そんな礼文島にはメノウ浜という地点がありまして、メノウが流れ着くのです。




綺麗ですから、観光客がこぞって拾って行ってしまうそうで、そのため、、、

地元の人との約束で論文以外の公言は避けなければならないのですが、、、




メノウの産出地がおおよそ分かっていて、メノウが拾える地点がメノウ浜以外にもあることがわかっています。

それでもそうしたメノウを拾える地点は極限られています。







私がメノウ浜に堆積する海岸砂を採取して確認したところ、おそらくはメノウ由来と思われるキラキラと綺麗な石英や長石を多量に含んでいることがわかりました。

まだメノウのサンプルを砕いて観察していないのですが、それは今年これからやります。

あと礼文島での土器資料に対する顕微鏡観察も今年実施予定です。




もし礼文島出土の土器にメノウ由来と思われる石英や長石を多量に含む土器や含まない土器があることがわかれば、土器の産地を推定することができます。

また礼文島の遺跡で見つかっている土器型式は北海道本島にも分布しています。




今後の分析次第では礼文島で作られたメノウ由来胎土の土器が、最寄りの稚内市や遥か遠く札幌市まで運ばれていたことが明らかとなる日が来るかも知れません。


まぁそんなこんなで私が国内でやっている研究について少しでもわかってもらえたら幸いです。




やっぱりメインはマヤ文明、ティカルだし、今は考古学理論の構築が楽しくてしょうがないっていう時期なんですが、、、

この産地同定研究も本来マヤ研究で使用するために考案したもので、それを日本で練習しつつ、有効性を確認しているものです。

なので無関係ではないのです。




そして現在構築中の考古学理論は日本の古代社会~現代社会へと応用する予定ですのでそういう意味でも大いに関係してきます。

最近始めたばかりではありますが、

「がんばれ人文科学」という御旗の下、私たちの身の回りの現代社会問題と乖離しない研究、「役に立つ考古学」ないし歴史学を志すものなので、

もしマヤ文明研究やそういったSDGs的な社会科学研究に興味関心のある方のご支援もお待ちしております( -д-)ノ





↑ぜひ応援してね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



おわりに 良かったらご支援お願い致します!

ここ数年はコロナ禍の関係で海外調査用の予算を国内調査に利用できていたのですが、現在はそういうわけにもいかない状況です。

これまでは車で周れましたし、研究協力者の同行もお願いできていましたが、今回はお金がないので自転車で四国を周ってサンプリング調査を行いたいと思います。




正直言うと私、ほとんどチャリに乗ったことがなく、チャリ筋がないのですよね。

だから国周ったら全身筋肉痛で死にますね( -д-)ノ




四国のそれぞれの県では講演会もやる予定なので参加無料ですし、良かったらご参加ください。

内容はたぶん産地同定の話が少々で、ティカル調査や新しい考古学理論の話がメインになるかと思います。




何はともあれ、

研究がんばろ!( ・Д・)



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2023ねん 4がつ 16にち(にちよーび、曇り)

最近ドラクエウォーク頑張ってるさ

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arukemaya1785
↑考古学界に影響を与える私の図( ・Д・)


今回の考古学・歴史ニュースは考古学理論つくったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は、、、人類社会?人類史全部?地球全体?たぶん理論上、宇宙全体です。ただし文明を築けるレベルの知的生命体が構成する社会集団に限る!( ・Д・)

そもそもこのサイトはマヤを名乗りつつもマヤ文明研究関連のニュース記事とか発見って専門として面白くないので、明らかにマヤ文明を避けているレベルに取り扱ってないんですよね。

まぁだけどしゃーないので今後はぼちぼち取り扱っていきます。




この「あるけまや」のコアなファンの方々は私が所謂マヤ考古学者であり、グアテマラの世界複合遺産ティカル国立公園にて発掘調査プロジェクトを指揮していることをご存じかと思いますが、、、

けっこう私、国内調査や土器の胎土分析を始めとして色々やってるんですよね。

そんな中でも今回は私の中核的研究である「多層的冪分布構造論」について話していきたいと思います。





タイトルに「私の研究①」とあるように長くなる予定ですし、最初は私の理論とは全く異なる話、つまり研究史のお話などなどになると思います。

なるべく分かりやすく書くのでそれなりに頑張って読んで欲しいなと思います( -д-)ノ

せめてもの応援として要所要所にマヤ遺跡の写真を貼っておきますね!


↓こんな風に
uxmal001
↑ウシュマル遺跡



あとがきのような「はじめに」


さて最初はいきなり悪口から始めようと思います。

日本においてマヤ考古学はほとんど浸透していません。

そもそも海外考古がほとんど浸透していなくて、早稲田大学の吉村作治の貢献あってエジプト考古が知られているくらいじゃないかと思います。

まぁ古代エジプトは黄金製品出るから、特別展やっても人集まるからお金落ちるし、だから開催頻度も高いしと好循環するというのも知名度の高さと関係しているとは思います。





一方、マヤ文明は最高で翡翠製品だから一般の方々にとってはつまらないですよね。

マヤとか所謂中南米好きって僅かにしかいない代わりにファンは圧倒的に「コア」なんだなと市民講座やってて最近本当にそう思います( -д-)ノ





で、悪口というのは、日本におけるマヤ考古学者って現在まだ第一世代が交代していない段階です。

未開の地に飛び込んだことはスゴイのかも知れないけれどそれだけで、最悪修士卒で教授になるくらいの『程度の低い』世界です。

当然、論文書けないし、考古学者ってよりは「許可持ちの盗掘者」って感じです。





この先、5年10年で世代交代が起きてガッと雰囲気変わるでしょうが、次の世代も問題です。

まず1番ヤバイのが、日本の大学で考古学も何も勉強してない、つまり専門外なのに、就業経験を経由してからか、あるいは突然修士課程からアメリカやメキシコの大学に入って学位取るパターン。

これまともな研究者ひとりも見たことない。

それはさすがに厳しいかな。

まともな人もいる、けれどつまらない。

アメリカ流、メキシコ流の研究をやるなら現地人にやらせておいた方がずっと効率的だと個人的には思います。

一番よくないのはアメリカやメキシコなどの海外大学出てるからと変なプライドとマウント取りに一生懸命過ぎて研究能力ないことですね、これあるある。





次によくないのは日本の学士取って、マスター以降は海外で取るパターン。

語学強くなるし、海外の様々なツテ出来るし、研究者個人としてメリットはすごいのでオススメではある。

が、これも日本考古学、海外考古学(これ以降は全てアメリカ考古学として記述するね;マヤ考古学を牽引してるのアメリカだからさ)の悪いところ取りになるか、結局中途半端に一方に偏るかっていう研究姿勢になって、誠にもってつまらんのである。




ということで、個人的見解としては日本人としてしっかり日本考古学をおさめつつ、アメリカ考古学の視点から批判的に研究を推進できることが重要かなと思ってます。

もちろんそれさえできるならば院進時点でアメリカ行くのが最強なんだけど、まぁ難しいよね( -д-)ノ

学部で日本考古学ほぼほぼ極めるって意味だからね( ・Д・)



xtampak
↑シュタムパック遺跡



「はじめに」の続き ー悪口言わないで!


さて、敢えて厳しく悪口言うことで興味を惹こうと試みたわけですが、何故こんなことをするのか、、、

日本考古学とアメリカ考古学は現状において全然違う性質を持っていると私が思うから、それを分かりやすい二項対立的な対立構図として皆さんに理解してもらいたかったからです。





日本考古学におけるニュースって最近たくさんありますよね。

世界遺産化の話でも盛り上がってるし、縄文や古墳ブームの中で大きな新発見も相次いでいます。

でもあれ、大体行政発掘、つまり建設工事に伴う緊急調査であって学術調査じゃない。





そんなこんなで日本って一応先進国だから都市圏では工事がめちゃくちゃ多くて、結果として行政調査がめちゃくちゃ多い。

アメリカと比べると埋蔵文化財保護法のおかげでけっこう調査予算はある方だけれども、とにかく緊急調査の嵐。

そうした中、真面目な性格の日本国内において発掘報告書や考古学資料が溢れ返るのは必然だと思う。





日本考古学ではこうした学術的ではない調査、つまりとりあえずやらなきゃならないからやった実験で得た膨大なデータを基に研究する傾向がある。

だから所謂「モノに即した研究」としては世界に誇れるくらいにスゴイものが多い。

他方であくまで「理論のない考古学」であり、理化学系のような理論構築と実験による検証の両輪が成立していないことが問題である。

結果として「感覚の学問」とか非科学のレッテルを貼られ、それにも関わらず「センスが大事」みたいなナンセンスな教育が大通りを肩で風を切って歩いていく状況を払拭できずにいる。





では”アメリカ様”はどうだろう?

アメリカ考古学でも元々はモノに即した研究を行っていた、当然考古学なのだから。

しかし現在では所謂「理論考古学」が支配的である。




こうした理論構築を目指す研究は良いとは思う。

この流れは1960年代以降のプロセス考古学(ニューアーケオロジー)の枠組みの中から
一気に強まったと思う。

しかし理論考古学における理論構築は文献史料に頼るところが大きく、文献史学と哲学を混ぜたような学問に感じる。

まぁそれは良いとして、理論とハッピーセットの実践面(実験;発掘調査や資料分析)はどうだろう?




日本では考古学は歴史学の仲間だが、アメリカでは考古学は人類学の仲間だ。

プロセス考古学の隆盛期の特徴のひとつである「ミドルレンジセオリー」はまさに考古学における遺物研究(実践面)を民俗学研究という現代の参与観察によって類推の難しい機能などの側面を証明しようと試みるものであった。

この流れが残っているためか、現在の理論考古学における理論の証明は人類学研究による現在の特定の集団に対する参与観察によってなされている。




ん?考古学どこいった?

文献史料で理論構築して、人類学で実証、、、まぁアメリカでは考古学が人類学の一分野だからアリなんだけど、日本考古学者としてはナシに感じてしまう。




私の言いたいことをまとめるとこうだ。

日本考古学は日本考古学で、アメリカ考古学はアメリカ考古学で、良い点も強みもある。

他方で両者に弱点もある。

そもそも理論と実験は科学の両輪のはずだ。




でも両者に歩み寄りはなさそうだ。

ならば私が両方一気にいくよ。

理論構築も発掘調査という名の実験による証明も私がやる。

ちゃんと両者とも考古学というモノを扱う学問としての枠組みの範疇で行う。

それが私の中核的研究であり、野望であり、考古学者としてのライフワークである。


yaxchilan001
↑ヤシュチランのパネル




↑日本国内でも研究しています。。。1000円ちょーだい!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ


おわりに

あれ、想像していたのと全然違う内容になった!(笑)

なんか宣言になっちゃったけど、

実際に過去にこういう気持ちでこの研究を始めたのだと思います。




タイトルにあるように理論面はほぼ完成していて、従来の考古学研究における課題を乗り越えるための応用研究も考案済みで、何もかもイイ感じです。

ただここ数年病んでて、先日快復したけれど、論文の執筆速度が間に合っていないので、今後ぼちぼち書ける範囲で書いていきます。

たぶん今の元気さだと半年以内に全部論文化してその後記事に出来るし、それまでの繋ぎとしてのネタ(研究史とか)もあるから「私の研究」シリーズはきっと大丈夫!




ただ数理モデルを利用した法則定立的研究が私の研究のキーワードなので、他の所謂文献史学的な歴史研究とは異なり、数式は記事では出さないけれどグラフとかが出てくるのはどうしようもないのでご了承願いたい!




何はともあれ、

私の研究が一番だから!( ・Д・)



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みんな、私は元気だぜ!v( ̄∇ ̄)v

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今回の考古学・歴史ニュースは金箔で覆われたミイラより、なんか気になる写真見つけた!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はエジプト、サッカラです。

サッカラはよく聞く名前ですよね、インディジョーンズを始めとして冒険ものでエジプトのシーンがある時は大体サッカラが出てくる気がします。

気のせいかも知れませんが、まぁそんなサッカラは首都カイロの南郊にあります。




今回の記事はエジプト考古学庁が展示のために出し渋っているのか写真がないんですよね。

発見したお墓や出土品の写真はあるのに肝心のミイラの写真がない……

掲載されていた痕跡もあるけれどそれだけ非表示になっているので、止められたのかな~と思ったり。

記事の最後に「しかし、エジプト政府は観光客を増やすため、学術的な研究よりもメディア受けするような発見を優先しているとの批判もある」なんて書いてるしね。

まぁこれについては「おわりに」で触れます。




ということでなるべく写真を多用しようと頑張っている当サイトですが、ないものはないので今回はご了承ください。

最初に挙げた写真は関係ない写真だけれども、金箔で覆われたマスクなんですよね。




「金箔で覆われた」なんて書かれたら気になるけれど、よくよく考えたら、あれだけ黄金製品が出るエジプトでは対して目玉にならん気がするのだが気のせいだろうか……( -д-)ノ

ただ今回の発見があった墓は4300年前のもので、ファラオなど王族以外の墓としては最古かつ完璧な状態のものとしてレアな発見なのです。

未盗掘だったので保存状態が極めて良好だったようです。

盗掘されていたらミイラごと持っていかれてそうですもんね( -д-)ノ




さてさて、とりあえず私が一番気になった写真をどうぞ!





これって一般の人が見たらたぶん何の違和感も感じない写真だと思います。

ちなみにキャプションは「サッカラでの新発見発表後、発掘したものを修復する考古学者」です。





エジプト考古学のことは知らないけれど、、、

修復作業を現場でやるの!?(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

そんなことある?

なんで???

ラボが遠いの?





写真だと小さくてよく見えないけれど、黄色の箱やチューブみたいなものが瞬間接着剤的なものに見えるけれど、、、

砂埃とか大丈夫なんでしょうか。

ってか洗浄具が周りにないけれど、土に埋まっていたわけじゃないから埃を払う程度なのかも知れないけれど、、、本当にそれでいいの?

土に埋まってないから土圧などで歪んでないから接合も楽ちんなんだろうけれど、ラボに帰ってからやればいいのにと思ってしまいます。




そんな大々的に発表するほど重要な墓から出た副葬品でしょ?

きっちり落ち着いて修復した方が展示映えもするだろうに……そう思ってしまうのは専門地域が異なるせいなのでしょうかね( ・Д・)

誰か理由を知っている方がいたら是非教えてくださいね!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ




↓ガンガンに宣伝していくぜ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

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おわりに

メディア受けする調査を優先するのは世界各地でまぁ見られる現象です。

トレジャーハンターというか「許可書持ちの盗掘者」はどこにでもいます。

マヤ地域でもそういう考古学者がいますし、そういう日本人考古学者もいます。

彼らの見分け方は簡単!




論文書かない、報告書出さない、一般誌・一般書は書く、メディアに露出する。

こんなもんかな。




まぁ露出しててもしっかり研究者してる人も中にはいるようですけどね(*^・ェ・)ノ




確かに傍から見てると、そもそもエジプト考古学自体が、学術系そのものが発見至上主義に浸かってる気がしますけどね。

エジプトってあれだけ保存状態も質も良い考古遺物が大量に出て、たくさんの碑文資料もあって、周辺地域の文献史料もあってと、たぶん世界で一番データが豊富な地域だと思うんですよ。

でも世界の考古学を牽引している気がしない。




新たな考古学理論が誕生しても良さそうだけれど、何もないよね。

というかこれまでも一度もない。




私が知らないだけかな。

周りにエジプト考古学の人いないから、適当にエジプト考古学発の理論系論文を探してみるかな(*・ω・)ノ



もしかしたらデータがあり過ぎるせいで、文献史学的な世界に突入しているのかも知れませんね。

そういう可能性もある!





考古学にとって発掘調査が実験なわけで、かつ発掘調査は有限の一回性の実験なのだから、理論もなく掘りまくると間違いなく将来困りますよ。

証明も反証もできなくなる。


博物館のための、観光収入のための考古学。

どうやらエジプト考古学者は半世紀以上前の時代を生きているようですね( ・Д・)





まぁいいや、

何はともあれ、

私の研究が世界で一番!( ・Д・)



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今回の考古学・歴史ニュースは「人類が新大陸に到達した時期が7000年も遡るかも!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はアメリカ、ニューメキシコ州、ホワイトサンズ国立公園です。


『人類がいつ所謂「新大陸」、つまりアメリカに到達したか?』というのは考古学者にとって人類史上の重大な関心事のひとつなのですが、、、

最近、この辺りの議論がアツイです!




私がかつてアメリカ大陸史を勉強した時(20年くらい前?)は、ざっと1万7000年前に北米に人類が到達、1万3000年前にチリの最南端に到達、その後新大陸における人口の増加と拡散が生じて、7000年前にメキシコ、オアハカ谷にてトウモロコシ栽培の開始……

なんて学んだので、今でも基本的にその認識というか、とりあえずその数字は覚えているわけです。





他方、近年は人類の新大陸到達は定説より早かったとする発見が相次いでいます。

このブログでも「クローヴィス・ファースト仮説が崩れるかも?」として何度か紹介しています。




ちなみにクローヴィスって文化とか石器(尖頭器)の名前です。

クローヴィスという名前の土層が放射性炭素年代測定で約1万3000年前相当とされていて、そこから見つかった石器文化、尖頭器文化がクローヴィス文化、その石器/尖頭器がクローヴィス尖頭器です。

まぁつまるところ、従来の定説ではアメリカ大陸史最古の文化であり、人類の北米到達を示す最古の記録なのです。



↓これが過去記事





↑人類の「新太陸」到達に関連する記事



今回の発見の地であるホワイトサンズ国立公園にはトゥラロサ盆地という乾燥地帯があってそこでこれほどまでに古い貴重な足跡が残っていたわけです。

当サイトでも繰り返し述べているように、貴重な考古学資料の埋没過程上の保存にはめっちゃ水分あるか、めっちゃ乾燥してる場所が最適なのです。




下に挙げた写真が実際に見つかった足跡ですが、、、はっきりし過ぎてて逆におもちゃっぽく見えるのは私だけなのか……

まぁでも本物です!





先に述べたようにクローヴィス・ファースト仮説に基づけば、人類の新大陸到達は1万6000~7000年前くらいになります。

この足跡が見つかった層から検出された炭素を用いた分析によれば、足跡の時期は2万1000~2万3000年前となります。




なのでまたもやクローヴィス・ファースト”神話”を崩す証拠の発見がなされたことになるのです。

ひとつでも反証事例が見つかったら十分じゃないかと思う方もいるでしょう。




まぁ確かにそうなんですけど、アメリカは特に学閥の影響が強いですし、所謂大御所の意見には逆らえないんですよね。

(マヤ文明研究史でもその手の定番ネタがあります( ・Д・))

なので定説の交代はいつも遅れます。




そのような実態は科学としての考古学の発展の阻害になっている気もしますが、そもそも理化学系の実験に相当する考古学調査は時間のかかるのんびりとしたものです。

なので、大御所同士であーだこーだ言っている間に、若手研究者はせっせと調査を繰り返し、類似の反証事例を地道に積み上げていくのです。

考古学は「無いことに依存した理論は弱い」側面があるので、つまり今回のように定説を覆す発見(あることに依拠した理論)が強いので、まぁこうした慎重な姿勢も大事なのです( -д-)ノ




↓アメリカ大陸関連の人気記事





↑オカルトっぽいかもだけど、個人的には好き



おわりに

マヤ文明は亜熱帯ジャングルだから保存状態的によく残ったね的なレアな発見はないんですよね。

うん、あんまりない。




見目麗しい多彩色土器の内側に古代ココアの残滓が残ってた、くらいかな。

環境的に足跡残らないだろうし、残っても元気一杯の植物の根に全部壊されてるでしょうからね。





いや~今まで小さい建造物とか地道に掘って成果上げてきたけど、やっぱ一度は大きな発見してみたいよね( ・Д・)





何はともあれ、

ネコの足跡見つけたい!( ・Д・)



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2023ねん 4がつ 10にち(げつよーび、晴れ)

熱下がった!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは最古の石器作ったのはヒトじゃないかも!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はケニアのニャヤンガ遺跡です。

古い時期の化石人類系の発見はまぁ大体アフリカですよね。

人類発祥の地ですから。




そんなアフリカでも今回のお話は300万年前なのでけっこう古い話です。

最古の人類と言えば700万年前のサヘラントロプス・チャデンシスが有名です。

ひと昔前までは400万年前のアウストラロピテクスが最古だなんて世界史の教科書にも載っていましたので、覚えている方も多いのかなと思います。





このアウストラロピテクスも当初は新発見として盛り上がりましたが、その後たくさん類例が見つかっていく中で細分され、華奢型がアウストラロピテクス、頑丈型がパラントロプスとなっています。

今回のお話はこのパラントロプスについてなので、皆さんご存じのアウストラロピテクス
と大体同じくらいの時期に存在したがっちりした猿人の話だと思って聞いてください。






ちなみに一番最初に挙げた写真がニャヤンガ遺跡の発掘風景です。

化石人類系の古いやつってどれも洞窟遺跡かと思ってましたけど、こんな開けたところでかつけっこう浅いところから出るのね~と個人的に驚きです。

まぁ浅さに関しては、マヤ遺跡も亜熱帯気候のせいで激浅ですので、暑いであろうこの地域でも同様なのは理解できます。

でも平地でこの遺跡見つけるの大変だったというか、踏査・試掘過程で奇跡的に見つかったんですかね?

ランドマークもなさそうなのに、そこだけ個人的に不思議で仕方ないです(*^・ェ・)ノ





さて、話を戻しますと、

これまで「最古の石器はヒト属の登場と共に生まれた」と考えられてきました。

時期で言うとざっと200万年前です。




道具を使う動物は数種のサルの他、ラッコなども使ってることが指摘されてかなりの時が流れ、道具がヒト属のメルクマールではなくなってきたというか、「道具使用=ヒトの特徴」という感覚がなくなってきた昨今、今回の発見に至りました。


さきほど出てきたパラントロプスは私たちヒト属とは異なる系統の化石人類ですが、ニャヤンガ遺跡にて彼らの歯と共におよそ300万年前相当の最古の石器が出土したのです。





物理学の世界でも3次元の他の異次元の存在が認められなかった過去がありますが、現在では量子レベルなどの私たちの感覚より小さなミクロな世界に異次元が隠れていることが常識となっています。

恐らくこういう事例はそれぞれの学問であるのでしょうが、学界内の常識あるいはコンセンサスというものはちょっと発見があったくらいじゃすぐに変更されず時間を要するものです。

考古学、あるいは古人類学においても、やはり「最古の石器はヒト属と共に誕生」という考え方は現在も根強く存在します。




今後、こうした事例がどんどん増えていく中で、最古の石器を作ったのはヒト属ではなく、パラントロプスということが常識になっていくのかも知れませんね。





おわりに サルが作った石器って区別付くの?


けっこう前の研究報告の話ですが、南アメリカだったかな、サルも石器を作るよって。

問題は過去にもサルが意図してか、あるいは偶然に石器を作っただろうと、

それならば、最古級の曖昧な技法の石器は本当にヒトが作ったものなのかどうかどうやって判定できるのか?という提言だったのです。




土器屋の私としては対岸の火事なので単に面白いなと思っていましたが、、、

上に挙げた写真がサルの作った石器だそうです。




この中に一つだけヒトの作った最古級の石器、オルドワン石器が含まれています。

オルドワン石器は今回の話でパラントロプスの作ったと思われる石器と同種のものです。

どれか分かります?

私は分からない!(笑)



・・・・・・・・・


・・・・・・


・・・


答えは「N」だそうです。


改めて見ても全然分からない。


まぁ私はおとなしく自分の領域の研究をやりますよ~だ( -д-)ノ



何はともあれ、

四国チャリで1周サンプリング調査のCF応援して!( ・Д・)



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2023ねん 4がつ 7にち(きんよーび、晴れ)

ブログもYouTubeもできんかったが私は満足なり

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arukemaya1777
↑とりま反省はしている!( ・Д・)(あ、疲れてる、どっから引っぱったかわからん)


今回の考古学・歴史ニュースは「ごめん書けんかった!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


まぁ聞いてくださいよ。

今日何しようかな~って思って、予定のやつ以外に、ぱっと終わる各種提出物の期限の再チェックをしようと思ったんですよ。

で、ついでに「なんかいい助成金ないかな~」って何気なく調べたらあったんですよ!



「うおー、やったー!」って思ったら今日締切りだったんですよ。


で、一日中書いてた。


さっき終わった。

23時半。




ぎりっぎりでまにあった。




他の研究者がどうしてるかは知らないけど、私は科研費だったら1か月から1カ月半使って書く。

本気だから。



企業とかの一般助成だとまぁ1週間かそこらかな。




でも1日で書いたことない!

頑張った俺、偉い。




ってことで明日早いので今日は寝るね。


明日土曜は1日詰まってるので、日曜に頑張りますわ。


本当に申し訳ない。

日曜は仕事の予定ないから、ちゃんとやる!





おわりに

どうですかね?

現在の日本では研究者の仕事の多くが研究費集めに割かれているなんて聞いたことありません?

楽勝だろうと思うかもしれませんけど、けっこう時間かかるんですよ

そんなに時間かかるんだって思いませんでした?




まぁかけない研究者もいるかも知れんけど

ん~、提出書類のフォーマットを統一してくれたら、いいな~。

あと経歴とか業績とかはリサーチマップのURLじゃだめなんかい?とか思っちゃう。

何のためのリサマなの?



はぁ疲れたよ、パトラッシュ

さっきまで、「できた、全部できた!ポテチよ、さとしくん!」ってハイテンションだったのにもうアドレナリン抜けましたわ(古い?)



まぁ研究者の世界も資本主義、、、


何はともあれ、

お金くれ!( ・Д・)



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2023ねん 2がつ 19にち(にちよーび、晴れ)

今日はもう春!(・∀・)つ

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arukemaya1768
↑マヤとテオティワカンって遠い、1000km離れてる!( ・Д・)(「Google Map」の画像を一部加工)


今回の考古学・歴史ニュースは「マヤとテオティワカンってどんな関係?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はグアテマラ、北部ペテン県にあるティカルと、前回説明したメキシコ、メキシコシティからやや北に位置するテオティワカンです。

両方ともメソアメリカ文化領域の遺跡ですが、ティカルはマヤ文明、テオティワカンはテオティワカン文明に帰属します。

上に挙げた地図で分かるように両者は直線距離でも約1000kmも離れています。




このシリーズの第1回「マヤの話」の中でも書いたように、旧大陸文明は独自に発展したというイメージが付いて回りますが、実際には様々な文明が興亡し相互に関係し合っていました。

マヤとテオティワカンもそうした相互関係にあった事例のひとつなのです。



↓以前の記事はこちらヾ(´ω`=´ω`)ノ


↑以前の記事はこちら(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑テオティワカンのタルー・タブレロ様式建造物(あるけまや管理人撮影)


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↑テオティワカンの三足円筒土器(Griffith 2018の発表画像より転載)


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マヤ文明に与えた「テオティワカンの影響」

前回の「テオティワカンの話」のところでも少し書きましたが、、、

テオティワカンは古代メキシコ文化のひとつですから土器や建築などの物質文化要素に独自の特徴があるわけです。

そうしたテオティワカン的特徴をもつ遺物・遺構、つまりテオティワカン様式遺物・遺構が異文化であるマヤ地域において広く見られるようになる(出土する)現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




この「テオティワカンの影響」の指標となる遺物・遺構の代表例は上に挙げた写真のものになります。

つまりタルー・タブレロ様式建造物、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器です。

(『蓋付き高台付き碗』って碗に色々付いてるなっていう長い名前なんですけど「おわりに」で少し触れますね)

少々細かいですが他にも、メキシコ的なモチーフ、三足形態と浅スタンプ文、土器器面への単位文配置、焼成後漆喰画技法、エメラルドグリーン色塗料などけっこうたくさんのテオティワカン要素がマヤ地域で見られるようになります。



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テオティワカン-マヤ VS 純粋なマヤ?

では何故1000kmも離れた異文化であるテオティワカンの要素がマヤ地域に現れるのでしょうか?

実は、マヤ地域は当時最大の都市であったテオティワカンに侵略を受けて支配されてしまった、という説があります。

マヤ地域がテオティワカンによって支配された/されていないという両説は常にあって、振り子のようにどちらかの説が有力な時期が行き来するような状況にあります。

現在はどちらかというと支配されていた説が強いと思っています。

かく言う私も支配されていた説を指示しています(一部のアッパークラスの入れ替えのみであった説を唱えています)。




この「テオティワカンの影響」について語る際に絶対に外せないのがティカルです。

マヤ地域の一大中心地であったティカルがテオティワカンの支配を受けることで、その後『影響』がマヤ地域に広がっていくことになるのです。




ここで碑文学成果としてサイモン・マーティンらによる著名な研究を紹介することにします。

伝統的な学説として、マヤ地域は個別の都市国家が林立したとする説と、有力国家を中心とする広域国家であったとする説があります。

一方で彼らの説ではマヤ地域は王の神聖性に基づく緩い統合状態であった、つまり従来の2説の中間をいく説明をしています。




マヤ地域は元々都市国家が林立する状態でした。

378年にテオティワカンの軍隊が遠征してきてティカルを征服し当時の王を殺害、メキシコ系の王を擁立して新王朝を打ち立てます。

その後、ティカルを始点として周辺の首長レベル集団あるいは初期国家レベル集団に遠征し、各地に新王を擁立していきます。

結果として新たなメキシコ系ティカル王を頂点とした王朝間の連携、ティカルを宗主国とする都市国家同盟のような連携が誕生します。

他方で別の一大都市国家であったカラクムルも都市国家同盟のような周辺集団との連携を図り、ティカル同盟との長きにわたる対立・武力抗争を行っていくことになります。



マヤ文明史とテオティワカンの関係は簡単に述べるとこんな感じです。

私見ではありますが、ティカル同盟の方はテオティワカンの力を背景にしたテオティワカン-マヤのような血統集団で、カラクムル同盟の方は純粋なマヤ系集団だったのかなと考えています。

この辺は今やってる研究のずっと後に向かい合うものなので、証明はライフワークになりそうです( -д-)ノ




ちなみに上に挙げた土器と下に挙げた土器は、マヤ地域で出土する三足円筒土器の典型例です。

先に挙げたテオティワカンの三足円筒土器とはなんだか違いますよね?

マヤ地域で見られるものの方が縦長で直線的で、蓋が付いてて、蓋の取っ手部に人物などを模した造形があります。




これはテオティワカン産とマヤ産の土器の簡単な見分け方なので、是非博物館展示の際に着目してみてください。

ちなみにこうした『マヤ的なテオティワカン様式』の遺物・遺構がティカル周辺域には多いこと、もっと南の南部高地域などでは様相が異なり『Theテオティワカン!』の遺物・遺構が多いことを根拠に、私はマヤ地域の中でもティカル及び周辺域では土器工人を伴うようなテオティワカン系人口の大量流入はなく、王を含む支配層の一部が入れ替わったのみであると考えています。






おわりに 『蓋付き高台付き碗』って?

さて、最後に『蓋付き高台付き碗』という長ったらしい名前の土器について簡単に説明しますね。

実はこれ私が付けた名前です。

あくまで仮なんですけどね・・・




まずは高台についてなんですけど、これは現代のお茶碗の底に付いている環状の少し高さを出すような部位の名称です。

この高台は元々マヤ地域には見られないものだったのです。

テオティワカンの方にはあって、それがマヤ地域にもたらされたと考えられています。




ちなみにオリジナルであるテオティワカンの方の高台は高く、マヤ地域のものは低い傾向にあります。

それでおおよその見分けが付くので『古代メキシコ展』で両者の土器を見た際には着目してみてください。



あと、「碗」って表現してますが、これも実は微妙なのです。

マヤ地域の研究での一般的な形式分類で「浅皿(plate)」「深皿(dish)」「碗(bowl)」というのがあります。

口径と器高の比率で機械的に分けているものです。

テオティワカンの高台付き”土器”は深皿形のものですが、マヤ地域の高台付き”土器”は深皿形が多数派としつつ碗形もあるのです。




それなら「深皿」と呼べよ!って思うかもしれませんが、、、

この時期のマヤの”高台が付きそうな形状の土器”は鍔付き(flange;また『付き』が出てきた)である事例が含まれ、時期の変遷を見る上でこの鍔の位置が重要なのです。

ちなみに位置はどんどん下がっていきます。

鍔の位置に着目すると「テオティワカンの影響」の時期は碗が主流で、次時期に深皿形に変わっていきます。

なのでこの時期は『碗の方が都合がいい』のです( -д-)ノ




さあ最後に「蓋付き」ですが、、、

実は蓋付き&高台付き碗はマヤ地域でしか出土しません。

テオティワカンの高台付き碗(本当は深皿形で正式な名称は薄手オレンジ色土器)は蓋を伴わないのです。




つまりマヤの人々としては土器に『土製の蓋があること』が『異文化っぽい / 異国情緒感じる』ということだったのか、オリジナルを知らないのか、分かりませんが、、、

古典期前期後半(CE350-550)の時期はマヤ人は蓋付けたがりだったのです( -д-)ノ




こういった状況があって、長ったらしい例のあの名前、「蓋付き高台付き碗」という名前を当てていました。

この土器群には先ほど出てきた「鍔付き」のものとそうでないものがあるということになります。




部位に着目すると地域性や時期の指標になるので面白いですし、展示資料を見てて見方も変わると思うので是非試してみてくださいね!



そう言えば展示会も楽しみだけど、、、

インディジョーンズ新作6月末公開!( ・Д・)



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2023ねん 2がつ 14にち(かよーび、晴れ)

お酒絶ってもたくさん食べたら太る!( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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↑月のピラミッド、右端にタルー・タブレロ建築が見える、、、ように撮った!( ・Д・)(あるけまや管理人撮影)


今回の考古学・歴史ニュースはテオティワカンって何?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



前回はマヤ文明史概観と言っておきながら、ほんとにさらっと流して、ガチ勢向けの部分的な細かい説明をしてしまいました( -д-)ノ

まぁというのも、次回の「マヤとテオティワカンの関係」について書く際に、どうしてもマヤ文明史を見直す必要があるからなのです。



と言い訳をしつつ、今回はテオティワカンの話!

でもまずは「クイクルコ」から始めましょうヾ(´ω`=´ω`)ノ








クイクルコって何?

さて、まずは「クイクルコ」です。

これは遺跡名です。

当サイトに初めて来訪される方もいるかと思い、分かりやすい図を上に用意しました。




一般の方と話してるとメキシコの位置が分からない人が多いので、まぁこれならわかるでしょう!

北米と南米の間の細いとこら辺で、アメリカ合衆国の南にあるやつです!

上の2枚の図にあるポイントの位置は両方ともクイクルコの位置です。




2枚目の地図を見て分かるように、クイクルコ遺跡はメキシコシティの中にあります。

南の外れですし、さして見栄えも良くないので(アステカの首都テノチティトランやテオティワカン遺跡に比べたらそりゃあそう(/TДT)/)、観光客はほとんどいません。

古代遺跡を観光名所として、外貨獲得源としてメキシコ政府は多額のお金を投資しているのですが、そんな中にありながらクイクルコ遺跡は全然力が入っておらず、博物館内の説明文も印刷された「紙」の状況でした(2014年時;下の写真参照)。




まぁそれはさておき、遺跡の位置関係を整理すると、メキシコシティの南部にクイクルコ遺跡があって、メキシコシティの北東部にテオティワカン遺跡があって、更に北にいくとパチューカ山地があります。

パチューカについては後からテオティワカンの話の際に出てくるので気に留めておいてくださいな(*・ω・)ノ




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↑手作り感いっぱいの普通紙に印刷された説明文(あるけまや管理人撮影)




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↑クイクルコ遺跡にある円形ピラミッド(あるけまや管理人撮影)



なんでこんな撮り方したのか大いに謎ですが、ピラミッドの基壇が円形であることが分かるかと思います( ・Д・)

(たぶん他の観光客が来る前に慌てて撮ったからパノラマじゃないのかと思われ……)


こうした円形基壇のピラミッドは古代メキシコ文化にはよく見られます。

後古典期(CE1000-1500)に特によくあるのです。




さて、なんでクイクルコ遺跡の話をしているかというとテオティワカンの前身という説があるからなのです。

クイクルコ遺跡は先古典期遺跡で、BCE800年頃に居住が開始されます。

BCE150-CE1頃に最盛期を迎え、人口は2万人と推定されており、当時のテオティワカンよりも大きな重要都市だったのです。




しかしながらCE70年頃にポポカテペトル山、CE150年頃にチチナウツィン山、CE275年頃にシトレ火山が噴火し、クイクルコは連続で被害を受けました。

特に最後のシトレ火山の噴火の際には5~8mの溶岩がクイクルコに大量に流れ込んだために放棄されてしまったのです。



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↑クイクルコに流れ込んだ溶岩の痕跡(あるけまや管理人撮影)



上に挙げた写真のようにクイクルコに流れ込んだ大量の溶岩は都市中心部(遺跡中心部)を完全に覆い尽くしています。

壁に見えるものが溶岩が固まったもので、手前の歩道になっている面が発掘によって姿を現した当時の文化面(生活面)です。




この先古典期に一大都市であったクイクルコが度重なる噴火によって衰退したために、噴火の影響がより少ない立地にあったテオティワカンなどの別の遺跡が急成長しました。

そのためクイクルコの放棄に伴って大人口がテオティワカンに移動したのではないかという説があるのです。



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↑テオティワカン中心部の測量図(Morton et al. 2012: Figure 1より転載)



テオティワカンって何?


テオティワカンはBCE200年頃から居住が始まっており、CE1年頃に都市として成立しました。

その後、上図の赤い部分の真ん中にある上下に走る直線部、「死者の大通り」が建設され、周辺部も整備されていきます。

最も人口が増えたのはクイクルコがシトレ火山の噴火で衰退した後のCE300年以降と考えられています。




一気に人口が増加したので、上図のような非常に計画的な都市建設が一気に行われたのかなとも思えます。

一方で気になるのは、クイクルコは円形基壇の神殿を造っていたわけですが、テオティワカンの建造物は上図のプランを見ての通り、方形基壇です。

大量の人口移動はあったものの、主導権はあくまで元からテオティワカンにいた集団だったということなのでしょうか?


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↑タルー・タブレロ建築の構造(今泉 2019: 図3-4-1より転載)



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↑実際のタルー・タブレロ構造(あるけまや管理人撮影)


テオティワカンの最盛期はCE200-550年頃であり、人口は10~20万人と推定されています。

この最盛期にはメソアメリカ最大の都市として広く周辺地域へ強い影響を与えており、それにはマヤ地域も含まれるのです。

他文化地域にテオティワカンに由来する遺物や図像モチーフ等が現れる現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




「テオティワカンの影響」によりマヤ地域で見られる特殊なテオティワカン様式の遺物・遺構には、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器(香炉)を代表として、他に石碑や祭壇、土器、壁画などの様々な図像モチーフにテオティワカン様式の図像が出現します。

建造物装飾としてはタルー・タブレロ様式が有名です。

これは上の図・写真に挙げたようにタルー(斜壁)とタブレロ(方形壁)を交互に組み合わせた基壇装飾です。

「テオティワカンの影響」に関しては長くなるので次回の「マヤとテオティワカンの関係」の際に触れたいと思います。



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↑ケツァルコアトルの神殿から見た太陽・月のピラミッド(あるけまや管理人撮影)


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↑ケツァルコアトルの神殿の基壇装飾に見られるケツァルコアトルとトラロック(あるけまや管理人撮影)


メソアメリカにおいて広域に影響を及ぼした大国テオティワカンは7世紀頃に急激に衰退し、放棄されてしまいます。

滅亡理由はマヤ地域と同様で複数の候補があり、恐らく複合的と考えられています。

つまり、よーわからんってことです( -д-)ノ




大干ばつ、森林伐採による環境破壊、宗教対立、異民族の侵入・・・と内容は古典期マヤと大差ありません。

メシカ人(アステカの人々)が12世紀にこの地を訪れた時にはテオティワカンは無人の廃墟でした。

しかし多数の美しい建造物が立ち並ぶ姿を見て、ナワトル語で「神々の都市」、つまりテオティワカンと名付けたのです。



メソアメリカには多数の文化・文明が勃興していますが、体系的な文字を使用し現在にまで残ったのはマヤ文字だけです。

なのでテオティワカン人に関する文字記録(文字状記録を除く)は存在せず、彼らが使用していた言語も推定はされていますがはっきりとは分かっていません。




所謂旧大陸の諸文明、ヨーロッパに代表されるそれらの事例では、大体どれもが戦争で滅びて、同じ土地が次の文明・国家の支配領域になります。

でもメソアメリカでは放棄されがちですね。

亜熱帯や乾燥気候だと、森林破壊+干ばつによる地力の弱体化があまりに著しくそう簡単には回復せず、放棄せざるを得ないのかも知れませんね( ・Д・)

この辺も新大陸文明の発達の遅れと接触時の新大陸文明の勝利・支配の要因のひとつなのだと思います。



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↑テオティワカン遺跡の中(?)にある地下&洞窟内レストラン(あるけまや管理人撮影)




おわりに

上に挙げたのはレストランの写真です。

メキシコ的な原色カラフルな椅子が可愛いですよね。




テオティワカンは乾燥しつつ暑いなって感じです。

遺跡公園自体が広大ですし、ティカルのようなジャングルと違って巨大だけど背の低いサボテンくらいしかないので日陰がないのです。

だからとても暑い!




このレストランは地下洞窟内部に造られているので涼しくて快適です。

雰囲気も素敵!

ただお高いです。




ちなみに私はここで「アリの卵」と「イモムシの素揚げ」を食べました。

それぞれ100米ドル近くした気がする。

たぶん一人で食べるようじゃないので無駄に量が多くて辛かったです。

後半はビールで流し込みました(笑)




ちょっとアクセスしづらいけれど、メソアメリカの古代文明を感じる上ではとてもいいところですので、是非機会があれば行ってみてください。

その際は少し足を延ばしてティカルへもどうぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



何はともあれ、

気付けば長くなった!( ・Д・)



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