今回の考古学・歴史ニュースは
「世界最古級の貨幣と「黄金王」クロイソスで知られるリュディアの都サルディスで、ローマ時代の大通りを掘ったところ、舗装材として顔を伏せた高さ2.2メートルの青年像が現れ、しかも王国滅亡後のペルシア支配下に造られたはずの彼が、100年も昔の髪型と正体不明のリュディア衣装をまとっていた――いったい誰を表し、なぜ壊されて人々の足元へ落とされたのかを追いかける!( ・Д・)」
ってお話です(*・ω・)ノ
📰はじめに
トルコ西部、ボズダー山脈の裾野に、サルディスという古代都市がある。
かつてここには、アナトリア西部を支配したリュディア王国の都があった。
川からは黄金が採れ、王たちは神殿へ莫大な財宝を献じ、やがて人類史を変える鋳造貨幣が生まれた。
だが、その王国は紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシアに滅ぼされた。
それから約80年後、サルディスのどこかに、一人の青年を表した大理石像が立てられた。
彼はギリシア彫刻の新しい人体表現を知りながら、滅びた王国の時代を思わせる長い髪と衣服を身につけていた。
そして何世紀か後、像は二つに割られ、うつ伏せにされ、ローマ時代の道路へ埋め込まれた。
誰が造らせたのか。どこに立っていたのか。右手の果実は、誰へ捧げられたのか。
今回は黄金を運んだ川から始まり、貨幣の誕生、神託に敗れた王、ペルシアによる征服、女神とライオン、100年以上に及ぶ発掘史、そして舗装の下から現れた謎の青年像まで、古都サルディスの長い記憶を掘り起こす!
🏔️ 黄金の川と難攻不落の丘に、王国の都が生まれた
サルディスは、現在のトルコ西部マニサ県、サルトの近くにある。
北には肥沃なヘルモス川流域の平野が広がり、南には古代にトモロス山と呼ばれた山地が迫る。
山の尾根に築かれた城塞は天然の要害だった。平野とエーゲ海沿岸、さらにアナトリア内陸部を結ぶ交通路も通っていた。
そして山から流れ下るパクトロス川では、金と銀が自然に混ざった砂金が採れた。
リュディアは紀元前7世紀頃から急速に勢力を拡大する。ギュゲスに始まる王朝は、東方の遊牧民キンメリア人と戦い、やがてエーゲ海沿岸のギリシア都市まで服属させた。
サルディスは、山・平野・交易路・黄金が交わる場所だった。
王国の富は、偶然そこに積み上がったのではない。土地そのものが、都を巨大化させる条件を備えていたのである。
↑舗装道路と巨像、どこにあるかわかる?( ・Д・)(「TRT HABER」の記事内画像より転載)
🪙 「世界最初のお金」は、本当にリュディア人が造った?
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、リュディア人を金貨と銀貨を鋳造して使った最初の人々だと記した。
そのためサルディスは、しばしば「貨幣発祥の地」と呼ばれる。
ただし、これは少し慎重に言う必要がある。
紀元前7世紀後半に現れた最古級の鋳造貨幣は、純金ではなく、金銀の自然合金エレクトラムで造られていた。発見地もリュディアだけでなく、隣接するイオニアのギリシア都市に広がっている。
初期貨幣の一部にはリュディア王家を思わせるライオンが刻まれたが、誰が最初の一枚を発行したのかは確定していない。
それでも、サルディスが発展の中心だったことは間違いない。
エレクトラムは一枚ごとに金銀の比率が違い、見た目だけでは価値を測りにくい。そこで一定の重さに整え、権力者の刻印によって価値を保証する仕組みが生まれた。
のちにクロイソス王は、純度を管理した金貨と銀貨を別々に発行した。
川底の砂金は、ただの富ではなく、「刻印を信じて物を交換する」という新しい社会の仕組みに変わったのだ。
👑 神託は「大帝国が滅びる」と告げた
リュディア最後の王クロイソスは、その富で古代世界に名を残した。
彼はエフェソスやデルフォイなどの聖地へ、金銀の器や彫像を大量に奉納した。英語の「クロイソスのように金持ち」という表現も、この王に由来する。
ところが東方では、キュロス2世がアケメネス朝ペルシアを急速に拡大していた。
ヘロドトスによれば、クロイソスは戦うべきか神託へ尋ねた。返ってきたのは、「ペルシアを攻めれば、大帝国を滅ぼすだろう」という答えだった。
王は勝利の予言だと考えた。
しかし紀元前547年頃、キュロス軍はサルディスへ迫った。難攻不落と思われた城塞も陥落し、滅びた「大帝国」はクロイソス自身の王国だったという。
これは戦いから約100年後に書かれた物語であり、細部や正確な年代には議論がある。
一方、発掘では焼けた家屋、武器、倒れた兵士、市民が最後まで握っていたらしい石などが見つかっている。
伝説の下には、実際に都市を包んだ激しい破壊の跡が残っていた。
↑背中平らだったからそのまま利用されたのかね、折られているけども!( ・Д・)(「TRT HABER」の記事内画像より転載)
🔥 王国が滅びても、リュディア人は消えなかった
征服後のサルディスは、ペルシア帝国の重要な地方行政都市となった。
つまりリュディア王国は終わったが、都そのものが放棄されたわけではない。
人々はリュディア語を書き、古い神々を祀り、独自の習慣を保ちながら、ペルシア帝国の内部で暮らし続けた。
紀元前499年には、ペルシア支配へ反乱を起こしたイオニアのギリシア人がサルディスへ攻め込み、市街地の一部と女神の聖域を焼いたと伝えられる。
この反乱は、のちのペルシア戦争へつながった。
そして今回の青年像が造られたとみられる紀元前470~450年頃は、まさにその戦争の終盤に重なる。
ギリシア世界では、硬直したアルカイック彫刻から、筋肉や骨格を自然に表す初期クラシック彫刻へ移行していた。
一方のサルディスは、政治的にはペルシアの都市でありながら、住民の文化にはリュディアの記憶が残っていた。
青年像は、三つの世界が交差する時代に生まれたのである。
🦁 黄金炉のそばで、母なる女神がライオンを従えた
リュディアの信仰も、アナトリアとギリシアの文化が混ざり合っていた。
重要な女神の一人が、クババ、のちにキュベレと呼ばれる母なる女神である。
彼女はしばしばライオンを従えた姿で表された。
パクトロス川近くの発掘では、金銀を精錬した炉や灰吹き皿とともに、小さな祭壇と石造ライオンが見つかっている。職人たちは、精錬の成功を女神へ感謝したのかもしれない。
別の地区では、土器、鉄のナイフ、若い犬の骨を一組にして土中へ納めた、紀元前6世紀の儀礼跡も発見された。
誰に捧げた食事なのかは、まだ分からない。
リュディア人はギリシアの神々を受け入れながら、すべてを同じ形で祀ったわけではなかった。
今回の像が、見慣れない服と果実を持っている理由を考えるとき、この土地独自の信仰は重要な手がかりになる。
↑このサイズ、ティカルだったら持ち上げたり運ぶのがつら過ぎる!( ・Д・)(「TRT HABER」の記事内画像より転載)
⛰️ 王たちは、平野に山を造って眠った
サルディス北方の平野には、「ビン・テペ」と呼ばれる巨大な墳丘墓群が広がる。
その名はトルコ語で「千の丘」を意味する。現在知られている墳丘は100基を超えるが、農地化などで失われたものも多い。
最大級のアリュアッテス王墓は、直径約355メートル、高さ約63メートル。
内部の小さな石室を覆うため、およそ78万5,000立方メートルもの土石が積み上げられたと推定される。
黄金、城壁、貨幣、巨大墳丘。
リュディア王家は富を所有しただけでなく、景観そのものを変えることで権力を見せた。
だからこそ、高さ2.2メートルの大理石像も、単なる美術品とは限らない。
人より大きな身体を公共空間へ立たせる行為には、身分や信仰、記憶を目に見える形へ変える力があった。
⛏️ 1910年、失われた都の大発掘が始まった
サルディスの最初の大規模な科学調査は、1910年に始まった。
調査隊を率いたのは、アメリカの建築史家ハワード・クロスビー・バトラーである。計画には、イスタンブール考古学博物館を育てたオスマン帝国の考古学者オスマン・ハムディ・ベイも関わった。
調査隊はアルテミス神殿を掘り、墓地では1,100基を超える墓を調べた。
しかし第一次世界大戦と地域の政治的混乱によって調査は中断する。バトラーの死後、発掘は長く止まった。
再開されたのは1958年だった。
ハーバード大学とコーネル大学を中心とする新しい調査隊は、ローマ時代の浴場・体育施設、巨大なシナゴーグ、商店街、リュディアの城壁、金銀精錬所などを次々に調査した。
文字史料の少ないリュディアにとって、土中から出る建物や道具こそが、失われた歴史書だったのである。
🏛️ 20メートルの城壁が、ギリシア人の物語を書き換えた
古代のリュディアについて残る文章の多くは、ギリシア人やローマ人が外側から書いたものだった。
そこではリュディア人が、豪奢で音楽や香水を好む「東方の人々」として描かれることがある。
だが考古学は、別の姿を明らかにした。
紀元前6世紀のサルディスには、厚さ約20メートルに達する巨大城壁があった。近年は王宮域と考えられる高台の下から、紀元前8世紀、場合によっては9世紀まで遡る建築段階も確認されている。
王国の都市化と権力形成は、後世の文献が語るより早く始まっていた可能性がある。
2025年には、サルディスとビン・テペの墳丘墓群が世界遺産に登録された。
そしてその翌年、100年以上掘り続けられてきた遺跡から、なお類例のない像が現れた。
古都は調べ尽くされていたのではない。時代が重なりすぎて、古い都市ほど深く隠れていたのだ。
↑綺麗に割られてるね!( ・Д・)(「TRT HABER」の記事内画像より転載)
🛣️ ローマ街道の下に、人の形をした舗装材があった
2026年5月末、調査隊はサルディス入口付近の大きな列柱道路を発掘していた。
道路はローマ時代に整備されたもので、両側に柱廊が延びていた。
その舗装の一部に、妙な形をした二つの大理石があった。
土を取り除くと、一方には衣服をまとった胴体が現れた。もう一方には、長い髪を持つ頭部と下半身が続いていた。
二つは、本来一体だった像の破片だった。
像は二つの大きな部分に割られ、彫刻面を下にして道路へ埋め込まれていた。足先といくつかの小片は失われていたが、身体の大部分は残っていた。
いつ、なぜ壊されたのかは分からない。
少なくともローマ時代の工事をした人々にとって、それはすでに礼拝や顕彰の対象ではなく、平らで大きな建築材料になっていた。
🗿 顔を起こすと、2.2メートルの青年が現れた
保存修復の専門家たちは、像をすぐには動かさなかった。
周囲の土を少しずつ除き、亀裂と重量を確認しながら、全体の輪郭を露出させた。
当初は、男性か女性かも判然としなかったという。
頭部を清掃すると、頬の横に長く伸びたもみあげが現れ、若い男性像だと分かった。
復元される高さは約2.2メートル。人間より一回り大きいが、数十メートル級の建造物を意味する「世界七不思議の巨像」とは違う。
ここでいう巨像とは、見る者を見下ろす等身大超の記念像である。
7月13日、二つの部分は道路から慎重に吊り上げられ、調査隊の保存施設へ運ばれた。
皮肉なことに、顔を下へ向けて踏み石にされたことが、繊細な目鼻や衣文を風雨から守っていた。
👘 体は紀元前5世紀、服と髪は100年前だった?
像の年代は、石そのものを測って決めたわけではない。
研究者は、顔、手、血管、身体の構造、衣文などを同時代の彫刻と比較し、紀元前470~450年頃の作とみている。
ところが、まっすぐに立つ姿勢、長く整えた髪、衣服の見せ方は、約100年前のアルカイック彫刻を思わせる。
青年は薄いキトンの上に、斜めに巻いた厚い外套を着ている。その下には、細かな横線の襞を刻んだ、用途も名称も分からない衣服が見える。
この組み合わせには、ギリシアにもアナトリアにも明確な類例がないという。
同時代のギリシアでは、若い男性を裸身で表すことが多かった。だがリュディアを含むアナトリアの人々には、若者を裸で表す伝統がなかった。
像は新しいギリシア彫刻を知りながら、古いリュディアの装いを選んでいる。
ペルシア風の特徴も、今のところ目立っていない。
それが文化的な誇りなのか、祖先を演出した権力者の宣伝なのか、単なる宗教上の決まりなのかは分からない。
↑最近は色んな機材があって・・・考古学は金かかるしやること多いぜ!( ・Д・)(「TRT HABER」の記事内画像より転載)
🍐 右手の果実は、誰へ捧げられたのか?
青年の右手には、丸みを帯びた果実が握られている。
研究者はマルメロの可能性を挙げているが、確定した同定ではない。
果実が神や女神への供物なら、青年は礼拝する人物として聖域に立っていたのかもしれない。
候補の一つが、母なる女神クババの主要聖域である。
古代文献はサルディスに重要な聖域があったと伝え、古い彫刻や建築材も断片的に見つかっている。しかし、その中心施設がどこにあったのかは、いまだ確定していない。
有力者が自分の像を神の近くへ置けば、人々に権威を示すと同時に、像を通じて永遠に礼拝し続けることができた。
とはいえ、この青年が王族、役人、祭司、英雄のいずれなのか、名前を示す銘文はない。
クババ聖域に立っていたという説も、現時点では魅力的な仮説にすぎない。
🎨 古代の青年は、白い大理石ではなかった?
発見された像の表面は、長年にわたって固まった付着物に覆われている。
保存修復班はそれを慎重に取り除きながら、顔料の痕跡を探している。
古代ギリシアやアナトリアの大理石像は、現在の博物館で見るような白一色ではなく、肌、髪、衣服、装飾に色を塗られていたことが多い。
この青年も、横襞の衣服や外套を鮮やかな色で塗り分けられていた可能性がある。
顔料が残れば、衣服の構造だけでなく、模様や社会的意味まで分かるかもしれない。
二つに割れた像は、保存処置の後に接合され、サルディス出土品とともにトルコの考古学博物館で公開される予定である。
しかし欠けた足が見つかるか、像の石材がどこで採られたか、道路へ移された年代をどこまで絞れるかなど、調査はまだ続いている。
❓ 誰かは分からない。だが「いつの人でいたかったか」は見える
2.2メートルの青年像は、リュディア王国の最盛期に造られた像ではない。
最後の王クロイソスの像でもなく、「リュディア王」と確認された巨像でもない。
独立王国が滅びて数十年後、ペルシア帝国の都市となったサルディスで造られた、名前の分からない青年像である。
それでも彼の姿は、征服によって文化が一夜で消えるわけではないことを示している。
人々は別の帝国の臣民になっても、昔の髪型を知り、古い衣服へ意味を与え、土地の女神に果実を捧げた。
やがて、その意味を知る人がいなくなったのだろうか。
青年は台座から降ろされ、身体を割られ、顔を地面へ向けて道路の下に置かれた。
それは偶像を辱める破壊だったのか、古い石を無駄なく使った工事だったのか、災害後の応急処置だったのか。
答えは、まだない。
だが人々に見上げられるために造られた像が、見下ろされ、踏まれ、そのおかげで顔を未来まで残したことだけは確かである。
なにはともあれ……。
黄金王の都から現れた本当の謎は、「この青年は誰だったのか?」だけではない。
なぜペルシア支配下の青年が、滅びたリュディアの過去をわざわざ身にまとったのか。そして、なぜ後世の人々は、その記憶を道路の下へ伏せたのか。
サルディスの舗装石を一枚起こした瞬間、そこには2,500年前の顔だけでなく、征服されても残り続けた文化と、いつか忘れられた記憶まで眠っていたのだ!( ・Д・)
トルコ料理日本人の口に合うらしいね、ケバブしか知らんけど!( ・Д・)

































































