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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

カテゴリ: 考古学

2023ねん 2がつ 19にち(にちよーび、晴れ)

今日はもう春!(・∀・)つ

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↑マヤとテオティワカンって遠い、1000km離れてる!( ・Д・)(「Google Map」の画像を一部加工)


今回の考古学・歴史ニュースは「マヤとテオティワカンってどんな関係?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はグアテマラ、北部ペテン県にあるティカルと、前回説明したメキシコ、メキシコシティからやや北に位置するテオティワカンです。

両方ともメソアメリカ文化領域の遺跡ですが、ティカルはマヤ文明、テオティワカンはテオティワカン文明に帰属します。

上に挙げた地図で分かるように両者は直線距離でも約1000kmも離れています。




このシリーズの第1回「マヤの話」の中でも書いたように、旧大陸文明は独自に発展したというイメージが付いて回りますが、実際には様々な文明が興亡し相互に関係し合っていました。

マヤとテオティワカンもそうした相互関係にあった事例のひとつなのです。



↓以前の記事はこちらヾ(´ω`=´ω`)ノ


↑以前の記事はこちら(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑テオティワカンのタルー・タブレロ様式建造物(あるけまや管理人撮影)


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↑テオティワカンの三足円筒土器(Griffith 2018の発表画像より転載)


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マヤ文明に与えた「テオティワカンの影響」

前回の「テオティワカンの話」のところでも少し書きましたが、、、

テオティワカンは古代メキシコ文化のひとつですから土器や建築などの物質文化要素に独自の特徴があるわけです。

そうしたテオティワカン的特徴をもつ遺物・遺構、つまりテオティワカン様式遺物・遺構が異文化であるマヤ地域において広く見られるようになる(出土する)現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




この「テオティワカンの影響」の指標となる遺物・遺構の代表例は上に挙げた写真のものになります。

つまりタルー・タブレロ様式建造物、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器です。

(『蓋付き高台付き碗』って碗に色々付いてるなっていう長い名前なんですけど「おわりに」で少し触れますね)

少々細かいですが他にも、メキシコ的なモチーフ、三足形態と浅スタンプ文、土器器面への単位文配置、焼成後漆喰画技法、エメラルドグリーン色塗料などけっこうたくさんのテオティワカン要素がマヤ地域で見られるようになります。



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テオティワカン-マヤ VS 純粋なマヤ?

では何故1000kmも離れた異文化であるテオティワカンの要素がマヤ地域に現れるのでしょうか?

実は、マヤ地域は当時最大の都市であったテオティワカンに侵略を受けて支配されてしまった、という説があります。

マヤ地域がテオティワカンによって支配された/されていないという両説は常にあって、振り子のようにどちらかの説が有力な時期が行き来するような状況にあります。

現在はどちらかというと支配されていた説が強いと思っています。

かく言う私も支配されていた説を指示しています(一部のアッパークラスの入れ替えのみであった説を唱えています)。




この「テオティワカンの影響」について語る際に絶対に外せないのがティカルです。

マヤ地域の一大中心地であったティカルがテオティワカンの支配を受けることで、その後『影響』がマヤ地域に広がっていくことになるのです。




ここで碑文学成果としてサイモン・マーティンらによる著名な研究を紹介することにします。

伝統的な学説として、マヤ地域は個別の都市国家が林立したとする説と、有力国家を中心とする広域国家であったとする説があります。

一方で彼らの説ではマヤ地域は王の神聖性に基づく緩い統合状態であった、つまり従来の2説の中間をいく説明をしています。




マヤ地域は元々都市国家が林立する状態でした。

378年にテオティワカンの軍隊が遠征してきてティカルを征服し当時の王を殺害、メキシコ系の王を擁立して新王朝を打ち立てます。

その後、ティカルを始点として周辺の首長レベル集団あるいは初期国家レベル集団に遠征し、各地に新王を擁立していきます。

結果として新たなメキシコ系ティカル王を頂点とした王朝間の連携、ティカルを宗主国とする都市国家同盟のような連携が誕生します。

他方で別の一大都市国家であったカラクムルも都市国家同盟のような周辺集団との連携を図り、ティカル同盟との長きにわたる対立・武力抗争を行っていくことになります。



マヤ文明史とテオティワカンの関係は簡単に述べるとこんな感じです。

私見ではありますが、ティカル同盟の方はテオティワカンの力を背景にしたテオティワカン-マヤのような血統集団で、カラクムル同盟の方は純粋なマヤ系集団だったのかなと考えています。

この辺は今やってる研究のずっと後に向かい合うものなので、証明はライフワークになりそうです( -д-)ノ




ちなみに上に挙げた土器と下に挙げた土器は、マヤ地域で出土する三足円筒土器の典型例です。

先に挙げたテオティワカンの三足円筒土器とはなんだか違いますよね?

マヤ地域で見られるものの方が縦長で直線的で、蓋が付いてて、蓋の取っ手部に人物などを模した造形があります。




これはテオティワカン産とマヤ産の土器の簡単な見分け方なので、是非博物館展示の際に着目してみてください。

ちなみにこうした『マヤ的なテオティワカン様式』の遺物・遺構がティカル周辺域には多いこと、もっと南の南部高地域などでは様相が異なり『Theテオティワカン!』の遺物・遺構が多いことを根拠に、私はマヤ地域の中でもティカル及び周辺域では土器工人を伴うようなテオティワカン系人口の大量流入はなく、王を含む支配層の一部が入れ替わったのみであると考えています。






おわりに 『蓋付き高台付き碗』って?

さて、最後に『蓋付き高台付き碗』という長ったらしい名前の土器について簡単に説明しますね。

実はこれ私が付けた名前です。

あくまで仮なんですけどね・・・




まずは高台についてなんですけど、これは現代のお茶碗の底に付いている環状の少し高さを出すような部位の名称です。

この高台は元々マヤ地域には見られないものだったのです。

テオティワカンの方にはあって、それがマヤ地域にもたらされたと考えられています。




ちなみにオリジナルであるテオティワカンの方の高台は高く、マヤ地域のものは低い傾向にあります。

それでおおよその見分けが付くので『古代メキシコ展』で両者の土器を見た際には着目してみてください。



あと、「碗」って表現してますが、これも実は微妙なのです。

マヤ地域の研究での一般的な形式分類で「浅皿(plate)」「深皿(dish)」「碗(bowl)」というのがあります。

口径と器高の比率で機械的に分けているものです。

テオティワカンの高台付き”土器”は深皿形のものですが、マヤ地域の高台付き”土器”は深皿形が多数派としつつ碗形もあるのです。




それなら「深皿」と呼べよ!って思うかもしれませんが、、、

この時期のマヤの”高台が付きそうな形状の土器”は鍔付き(flange;また『付き』が出てきた)である事例が含まれ、時期の変遷を見る上でこの鍔の位置が重要なのです。

ちなみに位置はどんどん下がっていきます。

鍔の位置に着目すると「テオティワカンの影響」の時期は碗が主流で、次時期に深皿形に変わっていきます。

なのでこの時期は『碗の方が都合がいい』のです( -д-)ノ




さあ最後に「蓋付き」ですが、、、

実は蓋付き&高台付き碗はマヤ地域でしか出土しません。

テオティワカンの高台付き碗(本当は深皿形で正式な名称は薄手オレンジ色土器)は蓋を伴わないのです。




つまりマヤの人々としては土器に『土製の蓋があること』が『異文化っぽい / 異国情緒感じる』ということだったのか、オリジナルを知らないのか、分かりませんが、、、

古典期前期後半(CE350-550)の時期はマヤ人は蓋付けたがりだったのです( -д-)ノ




こういった状況があって、長ったらしい例のあの名前、「蓋付き高台付き碗」という名前を当てていました。

この土器群には先ほど出てきた「鍔付き」のものとそうでないものがあるということになります。




部位に着目すると地域性や時期の指標になるので面白いですし、展示資料を見てて見方も変わると思うので是非試してみてくださいね!



そう言えば展示会も楽しみだけど、、、

インディジョーンズ新作6月末公開!( ・Д・)



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2023ねん 2がつ 14にち(かよーび、晴れ)

お酒絶ってもたくさん食べたら太る!( ・Д・)

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↑月のピラミッド、右端にタルー・タブレロ建築が見える、、、ように撮った!( ・Д・)(あるけまや管理人撮影)


今回の考古学・歴史ニュースはテオティワカンって何?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



前回はマヤ文明史概観と言っておきながら、ほんとにさらっと流して、ガチ勢向けの部分的な細かい説明をしてしまいました( -д-)ノ

まぁというのも、次回の「マヤとテオティワカンの関係」について書く際に、どうしてもマヤ文明史を見直す必要があるからなのです。



と言い訳をしつつ、今回はテオティワカンの話!

でもまずは「クイクルコ」から始めましょうヾ(´ω`=´ω`)ノ








クイクルコって何?

さて、まずは「クイクルコ」です。

これは遺跡名です。

当サイトに初めて来訪される方もいるかと思い、分かりやすい図を上に用意しました。




一般の方と話してるとメキシコの位置が分からない人が多いので、まぁこれならわかるでしょう!

北米と南米の間の細いとこら辺で、アメリカ合衆国の南にあるやつです!

上の2枚の図にあるポイントの位置は両方ともクイクルコの位置です。




2枚目の地図を見て分かるように、クイクルコ遺跡はメキシコシティの中にあります。

南の外れですし、さして見栄えも良くないので(アステカの首都テノチティトランやテオティワカン遺跡に比べたらそりゃあそう(/TДT)/)、観光客はほとんどいません。

古代遺跡を観光名所として、外貨獲得源としてメキシコ政府は多額のお金を投資しているのですが、そんな中にありながらクイクルコ遺跡は全然力が入っておらず、博物館内の説明文も印刷された「紙」の状況でした(2014年時;下の写真参照)。




まぁそれはさておき、遺跡の位置関係を整理すると、メキシコシティの南部にクイクルコ遺跡があって、メキシコシティの北東部にテオティワカン遺跡があって、更に北にいくとパチューカ山地があります。

パチューカについては後からテオティワカンの話の際に出てくるので気に留めておいてくださいな(*・ω・)ノ




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↑手作り感いっぱいの普通紙に印刷された説明文(あるけまや管理人撮影)




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↑クイクルコ遺跡にある円形ピラミッド(あるけまや管理人撮影)



なんでこんな撮り方したのか大いに謎ですが、ピラミッドの基壇が円形であることが分かるかと思います( ・Д・)

(たぶん他の観光客が来る前に慌てて撮ったからパノラマじゃないのかと思われ……)


こうした円形基壇のピラミッドは古代メキシコ文化にはよく見られます。

後古典期(CE1000-1500)に特によくあるのです。




さて、なんでクイクルコ遺跡の話をしているかというとテオティワカンの前身という説があるからなのです。

クイクルコ遺跡は先古典期遺跡で、BCE800年頃に居住が開始されます。

BCE150-CE1頃に最盛期を迎え、人口は2万人と推定されており、当時のテオティワカンよりも大きな重要都市だったのです。




しかしながらCE70年頃にポポカテペトル山、CE150年頃にチチナウツィン山、CE275年頃にシトレ火山が噴火し、クイクルコは連続で被害を受けました。

特に最後のシトレ火山の噴火の際には5~8mの溶岩がクイクルコに大量に流れ込んだために放棄されてしまったのです。



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↑クイクルコに流れ込んだ溶岩の痕跡(あるけまや管理人撮影)



上に挙げた写真のようにクイクルコに流れ込んだ大量の溶岩は都市中心部(遺跡中心部)を完全に覆い尽くしています。

壁に見えるものが溶岩が固まったもので、手前の歩道になっている面が発掘によって姿を現した当時の文化面(生活面)です。




この先古典期に一大都市であったクイクルコが度重なる噴火によって衰退したために、噴火の影響がより少ない立地にあったテオティワカンなどの別の遺跡が急成長しました。

そのためクイクルコの放棄に伴って大人口がテオティワカンに移動したのではないかという説があるのです。



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↑テオティワカン中心部の測量図(Morton et al. 2012: Figure 1より転載)



テオティワカンって何?


テオティワカンはBCE200年頃から居住が始まっており、CE1年頃に都市として成立しました。

その後、上図の赤い部分の真ん中にある上下に走る直線部、「死者の大通り」が建設され、周辺部も整備されていきます。

最も人口が増えたのはクイクルコがシトレ火山の噴火で衰退した後のCE300年以降と考えられています。




一気に人口が増加したので、上図のような非常に計画的な都市建設が一気に行われたのかなとも思えます。

一方で気になるのは、クイクルコは円形基壇の神殿を造っていたわけですが、テオティワカンの建造物は上図のプランを見ての通り、方形基壇です。

大量の人口移動はあったものの、主導権はあくまで元からテオティワカンにいた集団だったということなのでしょうか?


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↑タルー・タブレロ建築の構造(今泉 2019: 図3-4-1より転載)



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↑実際のタルー・タブレロ構造(あるけまや管理人撮影)


テオティワカンの最盛期はCE200-550年頃であり、人口は10~20万人と推定されています。

この最盛期にはメソアメリカ最大の都市として広く周辺地域へ強い影響を与えており、それにはマヤ地域も含まれるのです。

他文化地域にテオティワカンに由来する遺物や図像モチーフ等が現れる現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




「テオティワカンの影響」によりマヤ地域で見られる特殊なテオティワカン様式の遺物・遺構には、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器(香炉)を代表として、他に石碑や祭壇、土器、壁画などの様々な図像モチーフにテオティワカン様式の図像が出現します。

建造物装飾としてはタルー・タブレロ様式が有名です。

これは上の図・写真に挙げたようにタルー(斜壁)とタブレロ(方形壁)を交互に組み合わせた基壇装飾です。

「テオティワカンの影響」に関しては長くなるので次回の「マヤとテオティワカンの関係」の際に触れたいと思います。



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↑ケツァルコアトルの神殿から見た太陽・月のピラミッド(あるけまや管理人撮影)


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↑ケツァルコアトルの神殿の基壇装飾に見られるケツァルコアトルとトラロック(あるけまや管理人撮影)


メソアメリカにおいて広域に影響を及ぼした大国テオティワカンは7世紀頃に急激に衰退し、放棄されてしまいます。

滅亡理由はマヤ地域と同様で複数の候補があり、恐らく複合的と考えられています。

つまり、よーわからんってことです( -д-)ノ




大干ばつ、森林伐採による環境破壊、宗教対立、異民族の侵入・・・と内容は古典期マヤと大差ありません。

メシカ人(アステカの人々)が12世紀にこの地を訪れた時にはテオティワカンは無人の廃墟でした。

しかし多数の美しい建造物が立ち並ぶ姿を見て、ナワトル語で「神々の都市」、つまりテオティワカンと名付けたのです。



メソアメリカには多数の文化・文明が勃興していますが、体系的な文字を使用し現在にまで残ったのはマヤ文字だけです。

なのでテオティワカン人に関する文字記録(文字状記録を除く)は存在せず、彼らが使用していた言語も推定はされていますがはっきりとは分かっていません。




所謂旧大陸の諸文明、ヨーロッパに代表されるそれらの事例では、大体どれもが戦争で滅びて、同じ土地が次の文明・国家の支配領域になります。

でもメソアメリカでは放棄されがちですね。

亜熱帯や乾燥気候だと、森林破壊+干ばつによる地力の弱体化があまりに著しくそう簡単には回復せず、放棄せざるを得ないのかも知れませんね( ・Д・)

この辺も新大陸文明の発達の遅れと接触時の新大陸文明の勝利・支配の要因のひとつなのだと思います。



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↑テオティワカン遺跡の中(?)にある地下&洞窟内レストラン(あるけまや管理人撮影)




おわりに

上に挙げたのはレストランの写真です。

メキシコ的な原色カラフルな椅子が可愛いですよね。




テオティワカンは乾燥しつつ暑いなって感じです。

遺跡公園自体が広大ですし、ティカルのようなジャングルと違って巨大だけど背の低いサボテンくらいしかないので日陰がないのです。

だからとても暑い!




このレストランは地下洞窟内部に造られているので涼しくて快適です。

雰囲気も素敵!

ただお高いです。




ちなみに私はここで「アリの卵」と「イモムシの素揚げ」を食べました。

それぞれ100米ドル近くした気がする。

たぶん一人で食べるようじゃないので無駄に量が多くて辛かったです。

後半はビールで流し込みました(笑)




ちょっとアクセスしづらいけれど、メソアメリカの古代文明を感じる上ではとてもいいところですので、是非機会があれば行ってみてください。

その際は少し足を延ばしてティカルへもどうぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



何はともあれ、

気付けば長くなった!( ・Д・)



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2023ねん 2がつ 12にち(にちよーび、晴れ)

もう暖かだ、春!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは70年ぶり?マヤ展やるらしいから概説するね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、東京国立博物館で古代メキシコ展が開催されるそうで、今回から連続で「マヤ文明の話」、「テオティワカンの話」、「マヤとテオティワカンの関係」について概観していこうと思います。

私は例によって回し者ではございませんので悪しからず( -д-)ノ



さて、今回の特別展は大阪の国立国際美術館でも開催されるそうで、国内をいくつか周るようです。

大阪は2024年開催と書いていたので、今年(2023年)から2年くらいかけてグルグルめぐるのかな~と思ってます。

私は詳しく調べておりませんので、是非公式サイト等の情報をご覧になってください。


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↑メソアメリカにおける主要諸文明・遺跡の空間・時間的分布の(今泉 2019より転載)


マヤ文明史概観(?)


古代マヤ文明と言えば、最近日本語のでの概説書や一般書が増えてきているのでその歴史展開について知る機会も増えてきたかと思います。

メソアメリカ史の変遷は石期(上表にはない)・古期・先古典期・古典期・後古典期・植民地期・独立期/現代(上表にはない)の大まかな7区分が広く用いられています。




考古学は物質文化を扱うのでモノさえあれば古代から現代まで全ての時期が射程となりますが、有名どこはやはり先古典期中期から古典期を経て後古典期の終わりまでの2500年間です。

古代マヤ文明には例の有名なマヤ文字があるのですが、そこから得られる情報はあまりに限定的です。

なので皆さんが古代エジプトや古代ローマ、日本の古代に関する歴史関係の書籍などを学んで得たイメージとは大きく異なります。

ピラミッド建造に携わった人が二日酔いを理由に欠勤した、なんて具体的に分かるような世界と比べてしまうと、マヤ文明なんてほとんどよく分かっていないじゃんと感じてしまうのは仕方ないことなのです。

だからこそ、先古典期から後古典期はマヤ文字があるものの、考古学が”強い”時期であり、対象として主流となる時期なのです。




さて、マヤ文明史概観の話に戻すと、概説書等では先古典期から後古典期までの文化的変遷について記述されることが一般的です。

その中では特に「マヤ文明は独特な素晴らしい文化を有する」ことが自然と記述されていると思います。

こうしたマヤ文明を特別視する見方は1990年代以降にマヤ考古学史の中で刷新されているはずなのですが、自分の扱う対象を持ち上げる”質(たち)”は今も昔も変わっていないようです。

だって人間だもの・・・




上表を見ると分かるようにメソアメリカ地域にはマヤやテオティワカンの他にオルメカやサポテカなど様々な文化・文明があって、同時期に存在している事例も多々あるのです。

何かと所謂新大陸文明は旧大陸文明と接触を持たずに独自に発展したというイメージがあると思いますし(そうしている学者がいるから)、新大陸文明の代表としてマヤ文明を用いるから(そうしている研究者の主対象だから)、、、

結局、一般のイメージとして「マヤ文明=独自に発展した文明」を持つようになってしまっているという構造があると個人的には感じています。




でも違います。

メソアメリカには多数の文化・文明があって、その多くが同時併存していて相互に影響し合う関係にあったのです。

つまりマヤ文明はそうした数多ある文化・文明のひとつに過ぎず、様々な相互関係の中、たまたま特に古典期に大きく華開いた文明なのです。


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もう一つよくある誤解が、マヤ文明が滅んだって話に関してです。



先古典期にマヤ文化は国家形成期として人口が増え、階層化が起き、頑張ってピラミッドなどのモニュメントを造り始めます。

古典期には複雑なマヤ文字を使用して長期暦を含む石碑を建立し、ピラミッドや宮殿などの石造りの見事な特殊建造物をたくさん建てました。

古典期の終わりには大干ばつや戦争が原因でマヤ文明は崩壊しました、、、




ここまでが ”よくあるマヤ文明の概説” です。

実際に古典期マヤの中心地であったティカル遺跡などがあるペテン地域は後古典期には空白地帯になってしまいます。

文明としては崩壊しましたが、人が完全にゼロになったわけではなく、細々と暮らし続けていました。

なので古代マヤ人が全滅したわけではありません。




むしろペテン地域(ユカタン半島の真ん中ぐらいの位置)にいた人々は南北に移動したと考えられています。

そのため後古典期にユカタンの中間部は空白っぽくなりますが、中心地が南北に移動するだけで存続はしているのです。

現代マヤ人がいるのもそのためで、やはり全滅したり、文明が完全に失われたわけではないという点が重要です。

様々な形で南北端の地域の後古典期文化に崩壊してしまった古典期文化が引き継がれているのです。




↑参考程度に…もうちょっと時間をかけたいとは思ってはいるが( -д-)ノ




おわりに

結局マヤ文明史の流れについてはすごいはしょりながら、皆さんが誤ってイメージしがちな部分を修正してみた形になってしまいました・・・

次回は「テオティワカンの話」となりますが、最後の「マヤとテオティワカンの関係」について説明する際に、今回話したような、マヤ文明が決して単独で『鎖国的』に成立・発展した文明ではないことが分かってもらえるのではないかなと思っています。



何はともあれ、

特別展いいね!( ・Д・)



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春よ、来い!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは考古学ではお宝発見してもお金にならんよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




まぁそう書いちゃうと夢もないのですが、、、今回はイギリスの話だからちょっと夢あります!

ってことで、今回の舞台はイギリス北西部、カンブリア州のカーライルにある遺跡です。

遺跡名がちょっとよく分からないのですが、ハドリアヌスの長城の傍でカーライルの中にあるようです。




今回のお話は、古代ローマの浴場を発掘調査していたところ、排水溝から宝石が30個近く見つかった!ってことなんです。






宝石といっても半貴石です。

一般的に宝石というと貴石を指しますが、アメジストとかトルコ石などは希少性がさほど高くない、つまりたくさん量が取れるものなので宝石としての価値が低くなってしまい、こうしたレア度の低い宝石類を半貴石と呼んでいます。




今回見つかった物はこの半貴石なのですが、インタリオといって沈み彫りの装飾を伴うものなのです。

ちなみに浮彫だとカメオと呼ばれます。

古代のインタリオを有した品は半貴石であっても価値は高いのです。




アンティーク好きはどこにもいるもので、このインタリオはオークションでは100万円~500万円の値が付くそうです。

今回は30個くらい見つかっているので、3000万円~1.5億円くらいの価値があるって概算できるのです。

ただ今回の発見者は考古学者だから売れないでしょうね( ・Д・)




↑イギリスはトレジャーハンターの国!他にも記事あるから「お宝」で検索してね!



上の記事に書いたようにイギリスでは見つかったお宝を博物館が買い取るシステムがあります。

基本的には金銀で出来たものですが、夢はありますよね。

このシステムは貴重な文化財が闇市に流れないようにするためのものなので、歴史的に貴重なものであれば金銀でなくとも買い取りはあり得ます。





この半貴石のインタリオは本来指輪に付いていたものです。

粘土板などにグイッと押し当てて使用していました。

世界的にはインダス文明の印章のイメージで合ってますが、我々日本人にとってはハンコ文化が現在でも根強いのでスッと理解できますね。



指輪の金属部分と嵌め込む石部分(インタリオ部分)は植物由来の接着剤でくっつけていました。

しかし指輪を付けたまま浴場に入るせいで、蒸気にやられて石の部分が台座から離れてしまうことが多かったようです。

結果として浴場のお湯・水に押し流され、排水溝に溜まってしまったのです。




当時の浴場の清掃とかはどうなっていたのか気になりますが、、、

・・・古代ローマの浴場見つけて、排水溝で宝石探しするのイイかもね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!









おわりに

上の画像は今回のポイントとは異なるものですが、古代ローマの遺跡の発見記事って大体こんな写真です。

綺麗に残ってるな~って印象のモザイクが特徴です。




まぁ上の写真だと、よくこんな狭いトレンチ切ってるなぁと思いますけども。

たぶん文献史料を駆使してピンポイントで古代ローマ期の遺構を狙ってるんでしょうね。




古代ローマ人は碌に清掃してなかったみたいなのに、上の写真の人のように現代人がピカピカにしているのは感慨深い・・・

分かった、見つけた遺物を買い取ってくれとは言わない!


せめて清掃費くれ!( ・Д・)



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2023ねん 1がつ 29にち(にちよーび、晴れ)

後輩に話したら、それは大学生の若気の至りでやることだと言われてしまいましたヽ(TдT)ノ

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今回の考古学・歴史ニュース(!?)は国内研究費をクラファンで集める代わりに、人生でほとんどチャリ乗ってない研究者が無謀にもサンプリング調査しつつチャリで四国一周1000kmチャレンジするぜ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回のタイトルは所謂 ”なろう系” みたいな超長い、内容が全部分かってしまうようなものにしてみました~( -д-)ノ




↑これがクラファンのサイト


上に挙げたように、これまではアカデミスト社のCF(クラファンの略語)を利用してマヤ文明、ティカル遺跡の調査研究のために色々とやってきたわけですが、

今回は国内調査のために新たにCFを行うことにしました。



上のものは諸事情により月額型なのですが、今回やるのは単発の寄付型です。

まだ公開していないので、今回の記事は事前の宣伝を兼ねております(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑砂って色々違うのよ(。・ω・)ノ゙


何するの?どんな調査?

日本だと古墳時代以降、窯焼きが普及すると高温焼成された硬質土器が出てきます。

これは窯跡遺跡がたくさん見つかっていて、各遺跡の灰原で出土する土器片をそこの在地土器とした上で蛍光X分析などの手法を用いる産地同定法が確立しているといって過言ではないと個人的には思っています。



一方で野焼きによる低温焼成の軟質土器、つまり縄文土器とか弥生土器などの産地同定法は未確立です。

これは土器資料同士が胎土として似てる似てないは言えるけど、土地と結びつかないことが問題となっています。



土器の胎土を削って試料とする分析方法も詳しく分かって良いのですが、著名マヤ遺跡で国宝級の土器資料を扱う私としては「非破壊」の分析手法が好ましいのです。

なので、非破壊の分析手法を三つ、

①器形や文様などの ”見た目” を対象とした型式学的研究法

②胎土中の粘土という ”中身” に着目した蛍光X線分析法

③胎土中の砂粒鉱物という ”中身” に着目した岩石学的手法



を組み合わせた方法による胎土分析、産地同定法を実践しています。





これらの内、①は考古学者が普通にやっていることなので置いておくとして、②は機材があまりに高価(800万円くらい)なので置いておくとして、③が低予算でやりやすいのです。


ただ基礎データとして現在の各地域の河川・湖沼に堆積する砂粒の鉱物組成を明らかにする必要があるので、それが面倒くさいのです。

お金もかかるし、面倒くさいし、基礎研究だからお金獲れない、の3コンボなために日本ではなかなかやられていません。



日本だけではありませんが、土器資料は膨大に、まさに腐るほどあるので、それを活かせればな~と思っています。

あまり細かな産地同定はできないんですけど、小地域的、特徴的な鉱物組成分布の範囲で特定できるので、古代の地域間交流について型式学以外の手法で多角的に迫ることができるというのが利点です。




これまでは北海道本島、北海道の離島、沖縄、鹿児島の離島を対象にサンプリング調査を実施してきました。

今回は四国を一周して一回で四国のサンプリング調査を終えたいなと思っています!



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何でチャリなの?

実は科研費で行っている場合は車を使ってます。

その方が早いので( ・Д・)



でも車だと一人で調査できないんですよ。

運転してると地形見れないし、露頭発見が難しいし、2級河川以下の河川は通り過ぎちゃうし、そもそも「わき見運転」になるし!




また今回はCFなので予算が40万円(手取り32万円)なので、研究協力者への謝金、交通費、宿泊費の捻出が困難なのです。

だから自転車なら一人でも何とかなるだろうなと、そんな軽い気持ちでやることにしました。

高い確率で筋肉痛で連日死んで、酷く後悔することになると思います。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン





おわりに サイエンスカフェの実施&プレゼントは何にしよう?


返礼とは違うんですけど、サンプリング調査旅行の最中に、四国の各県庁所在地でサイエンスカフェを実施しようかなと思ってます。

内容はマヤ文明に関する研究紹介と今回の調査内容の紹介になるでしょうか・・・



ちょうど来年、「マヤ・アステカ・テオティワカン」文明展みたいなのが開催されるそうで(メキシコ展なのかな?)、展示されるであろう遺物の説明でもいいかなと思ってます。

もちろん無料かコーヒー1杯分で実施しますので(各県の担当者等と相談します)、お近くの方は是非ご参加ください。



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↑100均のコンタクトケースなんだけども、これにオリジナル/粗砂/細砂をそれぞれ入れようかと。


それと今回のCFは購入型なので何らかの返礼が必要なのですが、、、

基本的には先達者の例に従って「お礼の手紙(メール?)」とか「謝辞に記載」になると思うんですけど、それだけじゃつまらないので、、、

実際に取ったサンプルを処理して試料化したものをプレゼントしようかなと・・・


ちょっと欲しくない?( ・Д・)



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2022ねん 12がつ 31にち(どよーび、晴れ)

もう今年最後だね!( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




今回の考古学・歴史ニュースは「木製の埴輪ってあるんだね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今の所属の関係もあり、元々国家形成研究の一環としてマヤ文明社会と古墳時代社会の比較をやってみたかったということもあり、ちょちょちょっと古墳の勉強してましたけど、、、

木製の埴輪ってあるんですね!?




知りませんでした( -д-)ノ


まぁ木製品にあまり興味ないもので、、、マヤってほぼ木製品出ないしね( ・Д・)




……話を戻すと、やはり埴輪って土製のイメージですよね。

古墳時代には石製品で様々なものの模造品とか作ってるから、木製で埴輪作っててもおかしくはないとは思うのだけれども、

埴輪って古墳の上に並べて使用するイメージもありますよね。




だとすると、これまでの記事でも紹介してきたようにレアな遺物が残存する条件はかなり狭くて、日本の木製品の事例だと大体が水分が供給され続けて酸素の供給が滞ってる場所なんですけど、

古墳のような墳丘上の所で絶えず水分が供給されるところなんてイメージ湧かないじゃないですか。

もし古墳が滝に打たれてたら別だけど!( ・Д・)




だから木製の埴輪があっても残存しないだろうな〜って思ってたら、あるんですね!Σ(・ω・ノ)ノ

世の中知らないことで一杯ですわ(*^・ェ・)ノ



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ってことで、今回の舞台は大阪府、羽曳野(はびきの)市にある峯ケ塚古墳です。



近年、世界遺産に登録されたことで有名な百舌鳥・古市古墳群はご存知の方も多いかと思います思います。

2019年の登録ですから本当に最近の話です。

今回紹介する峯ケ塚古墳はこの百舌鳥・古市古墳群を構成する古墳の一つなのです。

見つかったのは木製埴輪で長さは352cmと日本最大の記録をおよそ90cmも更新しました。



さて、最初に挙げた写真は真上から撮影したもので、考古学的にはそのような写真がベストですね。

さすがは市教委が撮影したものです。

一般的にはサイズ感が分かりにくいですが、専門としては周りに開いているサブトレンチの形状から大体の予想がつきます。

恐らくは別撮りでスケール入りのバージョンも撮影しているはずです。



続く2枚目の写真では人間がスケールの代わりを果たしているのですが、斜めから撮影しているのでせっかくの日本最大サイズの遺物が小さく見えますよね。

まぁこれも遺物の隣にスタッフ(長い定規みたいなもの)が置いてあるので3mちょいの長さがあることは確認できます。


3番目の写真は人間がイイ感じのスケール感を出しているのでデカいってことを知る上で一般的にはこれが一番良いのかなと思います。


こう見てみると、現場写真って先入観に囚われず色々撮った方が良いようですね(*^・ェ・)ノ









さて、今回のレアな遺物の出土地点は周濠です。

先に述べたように木製品の残存には水分が必要なことが多いですが、これで納得です。

完全に濠(ほり)の存在を忘れていました( -д-)ノ



出てきた木製埴輪の形状はやや分かりにくいのですが、上に挙げたような石見型木製品(いわみがた)です。

2枚目のものは類似形状の土製埴輪の事例です。




記事を見つけた時は本当に木製埴輪ってなんぞ?って思いましたが、写真探してて、ふと、あ、これ見たことあるやつだ!ってなりました。

皆さんも知ってたやつでした?



この「石見型」の資料は権力者の玉杖を模したものとか、儀礼の際に使う杖や武器、旗を模したものと色々な解釈がなされています。

また神聖な場を区切るための結界の意味があったとも言われています。



今回のケースでは、峰ケ塚古墳の北部に祭祀の場と考えられる造り出しがあり、その周辺の周濠から石見型木製品が出土したことから、本来は造り出し部に立てられていたものかも知れません。

造り出し部の調査や、今後こうした事例が増えていく中で、石見型木製品あるいはこうした形状の遺物の役割が明らかになるかも知れませんね。






おわりに

なんだかんだ今年も終わりますね~。

今年も古墳時代とか日本の研究や勉強する時間をあまり取れなかったけども、来年は少しはなんとかしたいですね。

まぁ来年は来年で、マヤ関係の欧米研究史をガガガっとまとめにゃならんのですが、、、

記事に少し力入れつつ最低限情報収集をするよう努めますね( -д-)ノ



そんなこんなで皆様も良いお年をお過ごし&お迎えください。


良いお年を!( ・Д・)



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2022ねん 12がつ 3にち(どよーび、曇り、寒い)

他の考古学者に勧められてカルチャーセンターの講師に応募してみた!どこかで合おう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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今回の考古学・歴史ニュースは日本のポンペイは他にもあるよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は群馬県、渋川市金井の金井平氏裏遺跡です。

この遺跡は榛名山の北東部の麓に位置しています。

榛名山は古墳時代の後期に当たる6世紀頃に2度噴火しており、当該遺跡を含めて広い地域が火山灰などの多量の降下火砕物によって覆われました。

そのため周辺には他にも黒井峰遺跡、白井遺跡群などの火山災害を示す遺跡があります。




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↑これが激レア遺物です、「骨の鎧」Σ(・ω・ノ)ノ(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)



イタリアのポンペイ遺跡で状態の良い様々な遺物・遺構が見つかっているように、日本のポンペイこと、ここ金井平氏裏遺跡でも多数の素晴らしい遺物が出土しています。

隣接する金井下新田遺跡では鍛冶工房が見つかっており、そのためか金井平氏裏遺跡では多数の金属製の遺物、写真に挙げたような鎧や兜が見つかっています。

ちなみにRPGゲームでは鎧・兜と書くけれども、この時代・地域のそれらは甲・冑と書きます。

甲冑(かっちゅう)のそれですね。



一番最初に挙げた甲は1800枚もの鉄製小札(こざね)を絹糸で連結したもので、当時の”武器屋”では「最強の鎧」だったことでしょう。

上に挙げた白っぽい甲は実は動物骨で作られたもので国内初の発見事例です。

まさに「骨の鎧」なわけですねヾ(´ω`=´ω`)ノ



ちなみにこれらの甲の数え方は領(りょう)です。


*あとRPGに例えて一般向けに書いている時が鎧・兜表示で、考古学として書いてる時が甲・冑表示なんですけど分かりにくくてごめんなさい( -д-)ノ




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↑これが赤玉(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)




鉄製の鉾や鏃の他、馬も見つかっています。

当時、馬は飼育も大変でとても貴重なものでした。



様々なレアな発見がある遺跡ですが、上に挙げた甲を着た武人がうつ伏せになって発見された点が他に類を見ない事例だと思います。

被災されて亡くなったようですねヽ(TдT)ノ




上に挙げた赤玉は赤色顔料を丸めて団子状にしたもので100点ほど見つかっています。

当時の高級品が一堂に介した状況ですが、噴火によりパッキングされないと消費されてしまうのでこうした当時の具体的な生活の様子は分からないわけです。

災害の被害を受けたことは悲しいことですが、考古学者として感謝して余すところなくきちっとデータ化して活用する&皆さんに公開することが供養になるのかも知れませんね。



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↑これ古墳時代の人の足跡!(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)



おわりに

この遺跡、古代人の足跡まで出てるんですよね。

本当に色々出る。



ちなみに住居址も複数見つかっていて、それぞれのおうちの中に遺物が残されていました。

被災して慌てて逃げてますから当然でしょう。

そうした状態のそれぞれの遺物の配置をデータ化して、当時の一般的な”間取り”というか生活空間の利用方法の特徴について分析した研究などがあります。

事例自体は少ないので考古学としては扱いにくいことが難点ですが、火山大国でもある日本では今後こうした良好なデータを得られる遺跡、『日本のポンペイ』が多数見つかる可能性が十分にあると思います。



今後に期待ですね。

ということで、


・・・私もレアな発見したい!( ・Д・)



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2022ねん 12がつ 2にち(きんよーび、晴れ)

次の銀英伝っていつ?って気持ちでいっぱい(*^・ェ・)ノ

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↑これサムネを画像化したやつ、動画は記事の真ん中辺りにあるよ( ・Д・)(「公式トレーラー」の動画より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは「インディ・ジョーンズ!!!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


映画待ってたよ!ってだけのニュースなんですけどね。

いやほんとに待ってた!




正確にはマヤ文明ではないんだけど、中南米系の文明をテーマにしたって意味で前作(4作目)の「クリスタル・スカルの王国」は良かった。

もちろん中身がオカルト過ぎて叩かれてたけど、落ち着いて考えてみると元々インディって全部オカルト的な内容だからね。




世界征服のために超自然的な力を持つ古代遺物を収集するナチス・ドイツと博物館に収蔵すべきという考古学者の戦いを描いたものだから。

ナチス側もアーネンエルベがモチーフになってるしね。

この辺は最後にYouTubeに載せた動画を是非見ておくれ!


まぁなんだかんだ叩かれ酷評された理由はトンデモが過ぎたかなってのもあるけれど、私たちが期待し過ぎたってのが大きいかなと思ってます。

でもファンサービス的なシーンも盛り込んであって個人的にはそれなりに良かったかな!

想い出の作品の続編だしねヾ(´ω`=´ω`)ノ





↑これ動画に飛ぶよ!(英語だよ)



最新作のタイトルは「Indiana Jones and the Dial of Distiny」です!

邦題は決まってないようですが、そのまんま「インディ・ジョーンズ 運命のダイアル」ってとこでしょうかね?




ハリウッド映画らしいトレーラーで面白そうだなって思いますね。

日本公開も2023年7月辺りになるのかな?

楽しみでなりません(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




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↑クリスタルスカルの時のインディと息子(「FILMAGA」の記事内画像より転載)



ところでインディ・ジョーンズ役のハリソン・フォードは御年80歳だそうでこれがインディとしてある意味最後の聖戦になるようです。

インディ・ジョーンズはディズニーが権利を購入・取得しているので、是非シリーズとして続けて欲しいんですよね。

考古学ファンの形成・維持に大いに役立つと思うんだけどなぁ(。・ω・)ノ゙




クリスタル・スカルでインディの息子が出てきているので「ジュニアのジュニアシリーズ」でもいいよ、何でもいい。

配役変わってインディ続けてもいいし、息子がインディジョーンズを名乗って続けてもいい!




まぁ後者の場合何と戦うことになるのか分からんけども、、、

クリスタルスカルで一部出てきたように、ロシアかな?




ファンとして、一考古学者として本当に是非どんな形でもいいから続いて欲しいなと思います。

回し者ではないけれど、是非皆さんも劇場で観ましょう!




↑聞き取りづらいけど勘弁、最近滑舌良くする練習頑張ってる( -д-)ノ




おわりに

上に挙げた動画は元々、クラウドファンディングの返礼の一環として、みんな大好きTDSのロストリバーデルタの考察用に作ったのだけど、

最後の方にインディ・ジョーンズのモチーフに関する考察(新説)もあるから観てみてね!

この記事の最初に書いた、ナチスとインディの関係について触れてるからね!




あと、普通の人の考察と違って、考古学者としてその立地/環境や学史的な背景を基に組み立ててるから他にはないものだと思うし、面白いと思ってもらえる自信あり!




ただね、滑舌わっるい!

長いのに一発撮りだし、字幕付けようかと思ったらAIも聞き取れてなかった(ノд・。) グスン

ま、そんなこんなで、


YouTubeも収益化したい!( ・Д・)



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2022ねん 10がつ 21にち(きんよーび、晴れ)

すごく休んだらすごく元気になってきたんだけどすごく仕事溜まるんだよね、当然か( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「何か生々しい……反省します!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は群馬県嬬恋(つまごい)村の鎌原(かんばら)地区にある「天明三年浅間やけ遺跡」です。

何が生々しいかはこの先を読んで頂ければ分かるサクッと思います。

反省します!って箇所は「おわりに」の部分で書きますが「考古学者として反省します」の意味です( -д-)ノ




反省の部分、思いの外長くなって真面目ながらも最後は楽しい仕上がりになったので是非読んで欲しい!

むしろ今回の『日本のポンペイ』の話を飛ばしてもいいから読んで欲しい!( ・Д・)











さてさて、上にも挙げたように本場(?)のイタリアのポンペイに関する記事はこれまでにもたくさん書いてきました。

マヤにも「マヤのポンペイ」があるし、上の3番目の記事は「アジアのポンペイ」だし、、、

世界的に火山噴火被害に遭って火山灰などにパッキングされてしまった遺跡はけっこうあるのです。

なので、火山大国な日本にもそうした遺跡があってもおかしくありません。

今度記事にしようかと思いますが、他の有名な事例として古墳時代の榛名山噴火関連の遺跡があります(*・ω・)ノ



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今からおよそ300年前、天明3年(1738年)に浅間山が大噴火しました。

この噴火で流出した溶岩はおよそ幅1~2km、長さ5.5kmと考えられています。

溶岩は吾妻川に流れ込み、大規模な火砕流となって旧鎌原村(現在の嬬恋村鎌原地区)を襲い、152戸、477名が死亡したとされています。

これは村の住民のおよそ8割に相当する数であり、被害の大きさが分かります。






天明三年浅間やけ遺跡は昭和31年(1956年)に群馬県の県指定史跡に指定され、昭和54年(1979年)に最初の発掘調査が実施されました。

サムネ画像や上に挙げた写真はその当時のものです。




現在の鎌原観音堂は被災を免れて残っているもので、当時この高台に辿り着いた村人たちは生き残ることができました。

現在の鎌原観音堂の前方にある石段は15段ありますが、昭和54年時の発掘調査によって下部(先に挙げた観音堂の写真の真新しい赤い橋の下)に更に35段があり、本来は50段であったことが分かっています。




上に挙げた写真のように下方35段で二人の被災者の人骨が見つかりました。

この折り重なるような状態の2人分の人骨は、年老いた女性を背負った若い女性と判定されています。

ようやく観音堂まで逃げてきてあと少しというところで被害に遭ってしまったのです。





この遺跡での発掘調査は1991年にも実施され、今年2020年から6年計画で更に観音堂周辺を広く調査する予定です。

同調査は被害の状況だけではなく同区域の復興の様子を明らかにし、防災意識の向上にも貢献していくことを目的にしています。

今後の調査成果が楽しみですね(。・ω・)ノ゙










おわりに ~私が反省した点~

考古学だけではないのですが、広い意味での歴史学で、、、

「歴史なんて役に立たない!」

なんて表現はSNSが浸透した昨今、よく目にするなぁと思います。



昔は「考古学も役に立たんっぽい・・・シュン(ノд・。) グスン」

ってなってたんですけども、




ここ最近は立場が変わりまして、

確かに現状、考古学は現代社会の役に立たないかも知れない、ならば役に立つようにすればよい!

と思って調査・研究活動をしています(*・ω・)ノ

私の考古学研究における法則定立的な研究志向はそのせいです(*^・ェ・)ノ




↓これがそう……コラムなんだけど、どうやらちょっと難しいらしい( -д-)ノ




研究とは無関係な一般の人々に、歴史が役に立たないなんて言われてしまうのはある意味仕方ないことなのですが、

仕方ないと安住してしまったことも一因と私は考えています。




「歴史は役に立たない」というのは「歴史は現代の社会と繋がりを感じない」ということなのだと思っています。

もちろん、研究者や歴史が好きな方は過去と現在が歴史的に繋がっているのは当然なのですが、、、

要は「歴史研究のテーマ設定や問題設定が、現代社会における特に歴史の重要性が理解できない/しない人々の身の周りの問題と無関係である」ことが問題なのだと思っています。




なので、その解決策として私はSDGsの中でも重要視されているような貧困や格差の問題に繋がるように、古代マヤ社会における格差について研究し、

そもそも国家あるいは集団が自然と有する格差のシステムについて理解することを目標にしています。

(ちなみにSDGsについて悲しき若手研究者が触れるのは全て助成…のためです、秘密ですからね、約束だよ!( ・Д・))




……前置きが長くなりましたが、つまり私は「考古学研究テーマと現代社会の問題の乖離」が問題と思っていたのですが、

今回の記事を書いていて、ふと気づいたのです( ・Д・)



私自身が過去と現在を結び付けていなかったなと、、、( ・Д・)




本当のポンペイの方は場所も遠いし、時代も古いので身近なものとは全く感じておらず、

「さすがに残りがいいな!」

「レアデータがいっぱいだけど他の通常の出土状況の遺跡とどう比較研究できるだろうか」

「ってかこのパン、絶対まだ食べれるじゃん!( ・Д・)」

なんて考えていたのです(*^・ェ・)ノ




今回は日本の話ですし、たかだか300年前(私の感覚)なので最近の話と感じてしまって、『ただ、お、人骨出た!」ではなく、災害で亡くなってしまった人に対して自然と思いを馳せてしまったのです。

まぁもちろん研究者として客観的な立場であろうとすることは大事なのでそのせいであることが原因とも言えるのですが、

どこか心の上で過去と現在を結び付けてないのは自分も同じだったかなと反省しています(*_ _)ペコリ





って思ったよって話なんですけども、皆さんは本記事を通して何か感じましたか?

まぁとりあえず考古学者なんてお墓出ても喜ぶだけの生き物だと思ってほぼ間違いないということを知ってお帰り頂ければ幸いです(?)




・・・・・・

「歴史は役に立たない」

実は、私はかつて隣に座ってた方に突如言われた経験があります。

所謂飲み屋のカウンターで、私を挟んでの医者と会社員の口喧嘩の仲裁に入った時のことですが、



『人の命も救えないやつに喋る権利はない!』



って会社員に怒鳴られ、かつて「考古学は科学か」、「考古学は現代社会の役に立たないお荷物なのか」なんて悩んでいた私は悲しくて涙を流しました・・・



懐かしいものです( -д-)ノ




……でも今なら言える!

お前も救えないから喋んな、このハ~ゲ~!( ・Д・)(ハゲてない)



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2022ねん 10がつ 9にち(すいよーび、くもり/雨)

予定組んだ12月末まで埋まった( -д-)ノ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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↑現場はこんな感じ( ・Д・)(筆者撮影)


今回の考古学・歴史ニュースは2022年調査の内容紹介するよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はグアテマラ、ペテン県のティカル遺跡です。

あくまで「調査内容の紹介」であって成果紹介ではないのは論文発表の関係があるからです。

なので、簡単になら紹介してもいいかな~っていうものについては今回紹介していきますね。

とりあえず私が実施している研究の概要と、これまでの調査報告としてあげていた記事を載せておきます。











小さなマウンドの調査の結果について

今回紹介するのは小さなマウンド群を掘った時のお話です。

2022年の調査では大きいマウンド群も掘っていますが、それはまた次回にお話します。

ちなみにマヤ地域で言うのところの「マウンド」とは昔の建造物が崩れて風化・浸食を受けた結果、土饅頭のようになっている状態のものを言います。

「小さな古墳」だと思えばイメージは大体合ってます。

他の地域だと指す内容が異なるのであくまでこれはマヤ地域でのお話です。




ちなみに最初に挙げた写真のところが現場なのですが、真っ平でマウンドが分からない状態になっています。

これはこの地点にかつて存在した建造物がとても小さく、また遺構として残りにくい木材などの有機物製の建物であったからです。

なのでマウンドってどんなものかを視覚的に理解してもらうには、大きなマウンド群について話す次回の記事の方が良いと思います。



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↑Str.4F-26、27の傍にある大きな穴(筆者撮影)


ティカル遺跡の中心部(9㎢)には約2400基のマウンドが確認されています。

これらのマウンドにはそれぞれ名前が付いていて、建造物(Structure)の略称としてStr.が付いています。

今回紹介する小さなマウンド群はStr.4F-26と27です。

4Fというのは測量図の図面番号のようなもので、26、27というのはその4Fというエリアの中での26番目、27番目の建造物マウンドであるという意味です。




このマウンド群の地点はあまりに平らでマウンドとしての土の高まりを確認することが困難でしたが。すぐ近くに現代遺構である大きな掘削痕があるために位置を特定することができました。

ちなみにこの大きな穴は、1950~60年代のアメリカ、ペンシルベニア大学の調査が実施される際に滑走路を造るために掘ったものです。

この大穴から取り出した土や石灰をばら撒いて滑走路予定地を平らにならしたのです。

最後に紹介するYouTube動画でも説明で出てきますが、この滑走路の一部は現在、駐車場として利用されています。




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↑堀り始めの状況(筆者撮影)

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↑手帚がなかったので自作(筆者撮影)

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↑地表面のすぐ下から当時の石列が出てくる(筆者撮影)


ラテンあるあるですが、面会の約束とかしててもすっぽかされるんですよね。

そんなこんなで時間を無駄に取られて調査用の備品を一部購入できないままスタートしました。

まぁお手製の杭とか箒を自作して使ってますが、こんな風景もラテン考古あるあるかなと思います。

水糸だけは日本から運んでいて、それできっちり計測して実施しているので問題はほとんどありません。

まぁ見栄えが悪いってことくらいでしょうかねヽ(TдT)ノ




上の三枚目の写真で掘った範囲の内側の壁に小さな切り石が見えます(とても分かりにくいと思うけれど)。

壁のほとんどが切り石だと思っていいです。

問題は切り石が現地表面から僅か数センチの位置にあるってことです。




亜熱帯ジャングルの中にあるティカルでは、微生物の活動がとても活発なので所謂腐植土が発達しません。

全部あっと言う間に分解されてしまいます。

なのでほぼ「現地表面=旧地表面」です。

つまりティカルを散策するとほぼほぼ古代マヤ人が歩いていた台地上を歩いているということになるってことです。



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↑母岩の石灰岩(筆者撮影)

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↑石灰岩層直上に土器片を発見(筆者撮影)



Str.4F-26と27は小さなマウンドなので、かつては木製の小さな家だったと思われます。

きっと農民のような一般層の人が暮らしていたのでしょう。




調査区を掘り進めるとあっという間に母岩である石灰岩層に到達してしまいます。

古代マヤの建築法として有名な「重層建築」はここでは見られません。

重層建築は”お金持ちの家”にしか見られないものだということが分かります。




家の中の床面も漆喰で覆われていません。

土の表面を平らにして硬く押し固めたような床面しか見られませんでした。

使用している石灰岩の切り石も小さく、加工が甘いものです。




現代で言うならばお金持ちが鉄筋コンクリート製のマンションに住んでいる一方で、低所得層は木造アパートに住んでいるようなものです。

そう考えると技術的な違いを除けば、古代マヤも現代日本社会も根本的には類似してるなぁと思います(*^・ェ・)ノ




……ちなみに、石灰岩層上面から土器が1点出土しました。

近い内、YouTube動画の「考古学講座」で取り扱おうかと思っていますが、、、

これは古代マヤ人が建物を建造する際に最初に石灰岩を露出するレベルまで掘って広場の広がりを確定させたことによるものです。



↓今年の調査の記録をアップしていますヾ(´ω`=´ω`)ノ

↑今後も毎週5本くらいずつ投稿していきます(*・ω・)ノ


おわりに

かつての調査動画も今回の動画もそれぞれ1本の動画あるいはまとめて1本の動画としてちゃんと作りたいのですが、時間がねぇ……

論文とか大学の仕事だけで11月末まで予定埋まってるので、kindke出版用に本書いたり、報告書書いたりしたら12月末まで使っちゃうんですよね( -д-)ノ

燃料費高騰とか記録的円安の影響を受けて、今年の調査は小規模になる予定なので、1月~3月の中でもしかしたら時間を作ることができるかも知れません。



まぁしゃーなし、、、



いつも通りのんびりやるさ!( ・Д・)



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