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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

カテゴリ: 知識

2020ねん 11がつ 17にち(かよーび、くもり)

やる気スイッチを下さい(*^・ェ・)ノ

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↑天空の城ですね~(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: PHILIPPE MICHEL/AGE FOTOSTOCK)


今回はシーギリヤ遺跡がラピュタみたい!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台はスリランカ、マータレーにあるシーギリヤ遺跡です。

考古学ニュースではなく、遺跡紹介なのでのんびりと写真を眺めてみてくださいな( -д-)ノ

サムネイル画像に使ったライオンを模した入り口の写真を見かけた瞬間、「カッコイイ(・∀・)」ってなったので取り上げることにしました。

正直、私もこれまで全然知らなかった遺跡です( -д-)ノ


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スリランカにはアヌラーダプラを首都とした王国、「アヌラーダプラ王国」が紀元前4世紀~後11世紀まで存続していました。

この王国の5世紀にはシンハラ王朝として栄えていましたが、477年、時の王であったダートゥセーナが息子であるカッサパ1世のクーデーターにより殺害、王権の簒奪が起きます。

この新たな王であるカッサパ1世は、首都アヌラーダプラを離れ、より安全なシーギリヤへと遷都しました。

484年にはマグマが固まってできたシーギリヤロックの頂上に要塞化した王宮が完成し、これが現在のシーギリヤ遺跡なのです。



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シーギリヤはカッサパ1世の元で繁栄しましたが、弟であるモッガラーナによって攻撃を受けます。

495年、カッサパ1世は喉を掻き切り自害し、シーギリヤは陥落しました。

シーギリヤは13世紀~14世紀まで修道院として存続し、16世紀~17世紀にキャンディ王国によって利用されました。

イギリス統治下の1851年にイギリス人によって再びシーギリヤロックは登頂され、1875年にイギリス人によって岩山に描かれたフレスコ画であるシーギリヤ・レディが再発見されました。

その後、考古学的調査も進み、1982年に世界遺産に登録されました。


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おわりに

シーギリヤは「ライオンの岩」という意味だそうです。

上に挙げた写真のようにかなり巨大なものなのですが、19世紀にイギリス人に再発見される時でさえ、ジャングルに覆われていてなかなか発見できなかったそうです。

あの巨大な前足と爪がジャングルを分け入った先に出てきたらと思うと、その時の感動と興奮は只ならぬものでしょうね( ・Д・)

「シーギリヤ・レディ」と呼ばれているフレスコ画はアプサラと呼ばれる天上界の歌い手や踊り子たちを描いたものと考えられています。

1500年前のものなのにこの美しさですから、スリランカ芸術遺産の最高傑作に数えられているそうです。

ただ残念ながら、元々500体以上のシーギリヤ・レディが描かれていたようですが、風化により現存するのは21体のみだそうです。

文化財の修復・保存の必要性がここでも見られますね。

またこうしたフレスコ画の近くの壁には、シーギリヤ陥落後から修道院時代に相当する8世紀から13世紀にかけて、この場所を訪れた僧侶や巡礼者による落書きが今も1000点以上残されており、こちらも歴史を伺える資料となっています。

……現代の落書きはただの破壊だからね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 11にち(すいよーび、曇り)

もう冬かぁ( ・Д・)


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↑ディズニーランドのイベントかと思うほど綺麗に燃えゆく文化財(「ニッケイ新聞」の記事内画像より転載credit: Tania Rego / Agencia Brasil)


今回の考古学・歴史ニュースは「ブラジル国立博物館が全焼して貴重な収蔵品の約9割が失われたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


このニュースは2018年9月2日に起きた火災のことなのですが、こういったケースは日本でも他人事ではないなと思い、取り上げることにしました。

場所はブラジル、リオデジャネイロにあるブラジル国立博物館です。

博物館の建物は元々、ナポレオンから逃れるために1807年にリオデジャネイロに渡ってきたポルトガル王家が暮らしていた邸宅でした。

1818年に王家の収蔵品などが科学研究の促進を目的に寄贈され博物館となりました。

こうした建物自体が歴史的価値の高い博物館だったわけですが、ブラジル最古の科学機関であり、南米で最大級の施設としても名高いものでした。

この博物館が2018年に起きた火災により全焼してしまったのですヽ(TдT)ノ




ブラジル博物館の建造物が全焼して失われただけではなく、当然博物館で所蔵していた重要な科学的、文化的遺産も焼失しました。

幸い死者はいなかったものの、収蔵されていた2000万点の品の90%以上が焼失しました。


重要な収蔵品には、南米最古の人類化石とされる1万1500年前の頭蓋骨「ルチア」や、ブラジル固有の恐竜マシャカリサウルスの骨格などが含まれていました。


19世紀のブラジルの皇帝たちがオークションを好んだことから、南米で最も古いエジプトのミイラや工芸品などのコレクションも収蔵されていたそうです。



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↑これがマシャカリサウルス!(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: VANDERLEI ALMEIDA, AFP/GETTY IMAGES)



2018年はブラジル国立博物館の設立200年で記念すべき時であったので、最悪の事態となりました。


古い木造の建物であったため老朽化の問題やシロアリの問題が数年前より指摘されていました。


また木造故にスプリンクラーなどの消火設備の設置の必要性も指摘されていたのです。


博物館側は博物館の維持のために数世代の政権に対し予算を申請し続けたものの、予算が下りないどころか、予算が削減されてしまいました。


結果、火災が起き、消火設備はないため火の手はあっという間に木造建造物全体に広がりました。


消防隊が駆けつけても最寄りの消火栓は機能すらせず、近くの湖の水を使用したそうです。


この火災による博物館及び重要な資料の消失は、政府の認識不足と予算削減が原因として、ブラジルでは大規模なデモが起きたのです。



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↑見事に焼け落ちている(「Yamanashi Prefecture」の記事内画像より転載)



おわりに

ブラジルは赤字財政が続いていたため、予算削減もやむなしだったのかも知れません。

デモが起きるくらいですから、他に浪費していた部分もあったのかも知れませんね。

さて、日本でも博物館や図書館、学術研究などは予算カットにより苦しい思いをしていると思います。

政治とカネとは言うものの、先を見据えて投資していかないと大変なことになります。

日本ではデモや暴動は起きないでしょうが、だからと言って好き勝手やっていいわけではないでしょう。

多くの文化財は守り、活用するのはなかなかに困難かも知れませんが、失われるのは一瞬で、もう二度と元には戻りません。

この「ブラジルの悲劇」こそ、人類の失敗の歴史として胸に刻み、文化財の保護と活用について考えていかなければならないのではないでしょうか?

目先の欲ばかりに走ると足元すくわれるよ!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 3にち(かよーび、くもり)

最近いつも2連休が待ち遠しい(・∀・)つ


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今回の考古学・歴史ニュースは「チュニジアでロイヤルパープルが一般人によって再現されたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


ここで述べる「一般人」とは研究者ではないって意味で使ってます。

上に挙げた写真に載っているおじさん、モハメドさんはコンサルティング会社を経営している人だそうです。

この人が、ふと思い立って、古代フェニキア人のつくっていた貴重な染料であるロイヤルパープルを作ろうとしたそうです。


古代フェニキアの最期の都市であるカルタゴはチュニジアにあったので、モハメドさんは学校で習う自国の歴史で勉強していたことを思い出したことがきっかけになったようです。

古代において紫色は、最も高貴な色であり、とても希少価値の高いものでした。

クレオパトラがカエサルのマントをこのロイヤルパープルで染めたなど、その存在は歴史書などでも知られていたわけですが、製法については残っていませんでした。

これを自力でクリアしたそうです、凄いですねヾ(´ω`=´ω`)ノ







さて、今回のお話は古代フェニキアにまつわるものです。

BCE15世紀に都市国家を形成し始め、BCE12世紀には地中海交易で大活躍したため「海の民」とも呼ばれています。


高校の世界史でも重要事項として登場しますが、フェニキア人の海上交易は盛んであったため彼らの用いたフェニキア文字は古ヘブライ文字・アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源となりました。

そう、フェニキア文字は「アルファベットの起源」なのです(。・ω・)ノ゙



この海上交易で栄えたフェニキアの特産品がレバノンスギと貝紫だったのです。

その名の通り、貝紫は貝から作られる染料なのですが、パープル腺という分泌腺と分泌液を原料としているため希少性が非常に高かったのです。

巻貝100kgから取れる染料は僅か1gだそうですΣ(・ω・ノ)ノ




おわりに

フェニキアや貝紫の話となると長くなりそうなので、次回続きを書きますね( -д-)ノ

ちなみに世界的に貝紫は貴重なのですが、古代日本や古代マヤでも使われていた染料なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


今回のニュースは一般の人が頑張り、貝紫を得るための一つの方法が分かったという点でニュースとなりました。

実際には、貝紫の成分分析は現代科学の力を用いて完了しており、化学合成も可能なのです。

でも現代社会でよく目にする紫はロイヤルパープルではありません。

なんででしょう?




……化学合成するとコスト面の問題として経済的じゃないから。


世の中、金!( ・Д・)


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2020ねん 10がつ 16にち(きんよーび、晴れ)

最近YouTubeの「シークレット」を聴きながら寝てます(*^・ェ・)ノ


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↑対馬の位置(「Google Map」の画像を一部改変)



今回の考古学・歴史ニュースは「1200年も前の渡来仏が民家から見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


発見の舞台は長崎県、対馬市です。


上に挙げた地図で分かるように、対馬は朝鮮半島の近くに位置する大きな島です。

その立地条件から、古代より大陸との交流が深い地域です。

邪馬台国について書かれていることで有名な魏志倭人伝の中にも倭国のひとつとして「対馬国」として登場します。


そんな対馬では渡来仏が多数発見されており、これまでに130体が確認されているそうです。

これらの渡来仏は中国や朝鮮半島で5~17世紀に作られたものと推定されています。

この中で比較的古い部類に入る8~9世紀の統一新羅時代に作られたものは新羅仏として知られており、日本では奈良時代や平安時代初頭に渡ってきました。

この新羅仏はこれまでに約30体確認されていましたが、今回民家で発見された新羅仏はこれまでに登録されていなかったものになります(*・ω・)ノ


仏壇に普通に飾られていたもので、家を片付けする際に博物館に調査を依頼したことで発覚しました。

下に写真を挙げましたが、新発見の新羅仏は高さ7.8cmの銅造如来立像です。

高く盛り上がった頭部の肉髻(にっけい)や、両肩からU字を描くように表現された衣紋(えもん)などが統一新羅時代に作られた仏像の特徴とのことです。

印相(いんそう)を示す手先は欠損しています。

また過去に火災に遭ったとみられ、表面の一部にその痕跡が見られます。

 
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おわりに

新発見というと、職業病なのか「土から出た」と思ってしまうのですが、、、


今回のように民家やその蔵から発見、ないし『再発見』されることも結構あるものです(*^・ェ・)ノ



古代マヤ文明の多彩色土器が良い例ですが、見た目が美しく美術的価値の高い遺物は世界中に点在しているものです。

博物館だけではなくて、個人のコレクターの手元にあることも多々あります。


特別展以外でも、実は日本でも古代マヤ文明の遺物が見れる場所があったりします。

今回の件のように、個人収蔵の資料に対する調査やカタログ化がけっこう大事なのですが、そういう研究予算はなかなか獲れないものなので難しい側面があります。

コレクションを没収されることはありませんので、是非お家で眠っているお宝があれば近くの博物館等に連絡してみてくださいね(*^・ェ・)ノ

お宝は身近なところにもあるものなのです!( ・Д・)


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2020ねん 2がつ 2にち(にちよーび、曇り)

アルコール&トマト効果が切れてきた。

暑い……ヽ(TдT)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは「古代マヤ文明の中心地を研究するための拠点、フローレスを紹介するよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

『中心地』とか言うと、専門が被るレベルの同業者には文句言われるでしょうけどね。

日本におけるマヤ文明の知名度はたかが知れてますから、古典期マヤ(CE250-1000)を語る上で絶対に外せないペテン地域を中心と言っても過言ではないのです!

……なんて強い心で、今回の記事をお届けします(*^・ェ・)ノ



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フローレス市はどこ?

所在地としてはグアテマラ共和国、ペテン県、フローレス市ですね。

そもそもグアテマラってどこよ?

ってよく訊かれますけど、私はこう応えるようにしています。

「アメリカの南がメキシコでしょ? そのさらに南!」

まぁ経験上、これで大体伝わります。

伝わらなければ、メキシコってことにします。

それでもだめならアメリカ、さらにダメなら地球の裏側!って言いますね( ・Д・)


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↑(「Pinterest」の画像より転載)


フローレスの歴史


フローレス自体はとっても大きいのです。

北に約60kmに位置するティカル国立公園まで含みます。

普段「フローレス」と言うならば基本的に「イスラ(島)」の意味で使いますね。

まぁ間違えないように現地人は「イスラ」の方を良く使います。

混乱を避けるため、この記事では以下、「フローレス島=島の範囲」という意味で表記していきますね。

じゃないと観光客とかには訳分からんことになるので( ・Д・)



写真にあるように、フローレスは島です!



島と言っても大きな湖にある島です。

この湖を「ペテン・イツァ湖」と呼びます。

気付いたでしょうか?

ペテンは、フローレス市を含む『県』の名前です。

ペテンは元々マヤ語で『島』を意味する言葉なのです。

「イツァ」も聞いたことありませんか?

メキシコ、ユカタン半島北部にある有名な世界遺産、「チチェン・イツァ」です。


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↑「歩け、マヤ」のトップ画にも使用しているチチェン・イツァのエル・カスティーヨ


チチェン・イツァは観光地として非常に有名で、特に春分・秋分の日にエル・カスティーヨで見られる「ククルカンの降臨」イベントが大人気ですね(*・ω・)ノ

1221年にこのチチェン・イッツァのトルテカ・マヤ系の支配者に対して反乱が起き、ユカタンに中心となる統治機構をつくろうと集まり、「マヤの旗」を意味する「マヤパン」を建設します。

15世紀にはこのマヤパンが衰亡し始め、それに伴ってチチェン・イツァの王族が現在のペテン県に向かって南下、設立した王国が「タヤサル」です。

このタヤサルは「イツァの場所」を意味するタフイツァ(TajItza)に由来した現在の呼称で、かつては王国として首都だけでなくイツァ族の支配する土地全体を意味していました。

現在はタヤサルはフローレス島の北に位置する1遺跡を指します。

先ほどのペテン・イツァ湖は「イツァ族の島」を意味しており、この島がフローレス島のことなのです。

つまりタヤサル王国の王都がかつてノフペテン(Nojpetén;大きな島)と呼ばれたフローレス島にあったのです(*^・ェ・)ノ


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↑これが王都だ!( ・Д・)(「ドラクエウォーク」の画面のスクショ)


さて、16世紀前半までにスペイン人は北のユカタン半島と南の高地マヤを征服しました。

しかし亜熱帯ジャングルであるマヤ中部低地の内陸部であるペテン地方は侵略が困難でした。

そのためペテン県のマヤ王国、つまりタヤサルは独立を維持できていました。

タヤサルに関する西洋人の最初の記録は1525年で、エルナン・コルテスはホンジュラス遠征の途上でタヤサルを通過し、タヤサルのカネク王に歓迎されたとあります。


17世紀にはいると宣教師による布教が何度か試みられたが、成功しませんでした。


その結果、ユカタン総督のマルティン・デ・ウルスアはユカタン半島北部のメリダからタヤサルまでの道を建設して侵攻、1697年にタヤサルは軍事的に征服されました。


ちなみにこの時のスペイン軍はたったの108人だったのですΣ(・ω・ノ)ノ





フローレスにまつわる伝説

かつての王都であるフローレス島やその周辺には写真の通り、スペイン植民地期に西洋風の建物が建てられました。

征服者であるスペイン人はどこでもやったことですが、ここフローレス島でも例外なく、マヤ人の神殿や建物を破壊し、その石材を使ってキリスト教会や他の建造物を建設しました。

結果として現在タヤサルの正確な領土の範囲等は分かっておらず、そのまま観光地になり得るような地上に残る遺跡もありません。

かつてのマヤ王国の王都ならば博物館などもありそうなものですが、当時はそういった文化財を守るような感覚はなく、何もかも徹底的に破壊されたため、博物館も何もありません。

一方でタヤサル王国やその王都であったフローレス島にまつわる伝説・逸話は数多く残っているのですが、どれも後世の創作であるようです。

有名なのはタヤサル王国のお姫様「サク・ニクテ(白い花)」のお話などです。

今回はタヤサル王国の滅亡に関わる伝説を紹介しますね!(*・ω・)ノ



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↑島の外はサンタ・エレナと呼ばれていますがここもかつてはタヤサル王国の領域だったでしょうね(「ドラクエウォーク」の画面のスクショ)


先に述べたように17世紀にはタヤサル王国をキリスト教化しようと布教活動が開始されます。

1695年にはフランシスコ会のアンドレス・デ・アベンダーニョ・イ・ロヨラが直接タヤサル王国を訪れました。

この時、スペイン側からタヤサル王国へ、『1頭の馬』が贈られたそうです。

馬は新大陸にはいませんし、侵略戦争時にはマヤ人にとって大きな脅威となっていました。

そんな珍しい馬をタヤサルの人々はもらい受けたはいいものの、馬が何を食べるのかも知りません。

飼い方をそもそも知らないため、ほどなく馬は死んでしまいます。

この馬を大切に思っていたカネク王は『馬の石像』を造らせました。

さっそく完成した『馬の石像』を石工のいる領域から、王都フローレスへとペテン・イツァ湖を通して舟で運ぼうとします。

しかし舟が転覆して『馬の石像』が湖に沈んでしまったそうです。

結局、スペイン人宣教師はカネク王への布教が失敗に終わり、ま『たせっかく送った馬を殺した』という口実の下、軍を派遣してタヤサル王国を滅ぼしてしまいます。

タヤサルは滅び、かつての栄華を象徴する遺物はほとんど残っていませんが、最後の傑作である『石の馬』は今でも巨大な湖のどこかに眠っているそうです。


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馬の写真追加スペース( ・Д・)


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おわりに

この伝説に出てくる「石の馬」は現地では有名な話で、現在はフローレス島の対岸にこの伝説を象徴した馬の石像が造られて設置されています。

カネク王の下に辿り着けなかった『石の馬』が遥か遠くの対岸からフローレス島の方を見つめるように設置されていたかと思います。

近々、別の調査でこの対岸に行く予定なので、上に追記として馬の写真アップしておきますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

さて、地名等、聴き慣れない名前がたくさん出てきましたが、これまでの文章を暗記すればもう現地のツアーガイドより詳しくなれますよ( ・Д・)

↓出張中は物凄く高いモチベーションで仕事とダイエットが捗ります!(*・ω・)ノ↓

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2019ねん 12がつ 24にち(かよーび)

気付けば世間はクリスマス・イブ!

そんな中、グーグルアドセンスに「収益下がってるから対処しなさい」って言われたよ!

慌てて記事ガンガン書くよ!!!ヽ(TдT)ノ


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さて、今回のニュースは「イグノーベル賞を狙って、おバカな研究をしてみるよ!」ってお話です(。・ω・)ノ゙



イグノーベル賞の概要

「イグノーベル賞」を知っていますか?

1991年という比較的新しく発足したイグノーベル賞ですが、日本人が大好きなノーベル賞をパロったジョーク賞みたいなものです。

知っての通り、ノーベル賞は「物理学、化学、生理学・ 医学、文学、経済学の進展、及び人類平和に対して大きく貢献した人物に送られる賞」です。

一方でイグノーベル賞は「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる業績」に対して贈られる賞です。

そもそもイグノーベル賞の名称は、本家のノーベル賞に否定を表す接頭辞イグ(ig)を加えて、英語の形容詞 ignoble(恥ずべき、不名誉な、不誠実な)にかけた造語です。

そのため皮肉を込めて贈られることもあり、一部の受賞した科学者は激怒することもあるそうです。

まぁ自身の本気の研究をバカにされたら、誰でもブチ切れそうですよね( -д-)ノ

多くの場合は「(色んな意味で)面白いね!」ってな感じで笑いと賞賛を授与されるようです。

特に日本人研究者はイグノーベル賞の常連で、2019年現在で13年連続で受賞しているそうです。




飲み屋で女の子にモテるための方法論 ー私が行う研究についてー

日本三大歓楽街と言えば、東京の歌舞伎町、福岡の中洲、そして北海道のすすきのです。

すすきのの飲み屋(クラブ・ラウンジ、ニュークラ、キャバ、ガールズバー、パブスナ、メンパ、ホス等)では様々な種類の「飲みゲーム」があります。

中でも定番で、大体どこでも出来て、駆け引きというゲーム性があって、程良いスピード感なのが「チンチロ」です(回転の速いゲームは飲みが早いので死にますヽ(TдT)ノ)。

日本では正式には「チンチロリン」と言います。

起源はかなり新しく、1893年に在米中国人労働者の遊びとして「四五六(スンルク)」があったという記録が最古のものになります。

1930年代の中国では「打骰子(ダーサイヅ)」という同じルールのゲームがあり、同時期に所謂「満州」から日本に伝わったものと考えられています。

個人的には、綺麗な飲み方ももちろん大事ですが、たまには羽目を外して若い飲み方もできることが大事かなと思っているわけで、

その時に大事なのが「チンチロ」に強いこと!( ・Д・)

チンチロには「ションベン」という罰符があり、椀の外にサイコロを振ると強制一気飲みになります。

このルールを利用して、勝ち続けた後に、負け続けの女の子のフォローをしてあげるという強者にのみ許された飲み方があるわけです。

しかしそれをスマートにこなすにはやはり連勝が大事なわけで、基本的に確率に支配されているチンチロで無理やり勝っていかねばなりません。

そこで自称、すすきのチンチロマスターとして私の振り方(SCM投法;すすきのチンチロマスター投法)が通常の振り方よりも出目率が高いことを、有意な差があることを統計的に示そうと思います!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

通常の投法とSCM投法を10000回ずつ試行すれば、有意差の有無を確認できるのかなと思ってます。

全然、考古学とは関係ないのは仕方がないのですが、それも癪ですよね(  ̄っ ̄)ムゥ

ですのでジョークとして、使用する碗については土器の実測法で図化し、使用するサイコロも無駄に石器の展開法で実測しようかなと考えています。

思いっきりふざけた論文が出来たら、ちゃんとアップしますので是非読んでみて下さいね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

(ちゃんとこの逃避が終わったら、通常の研究に打ち込むんだからねっ!( ・Д・))


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↑ピンゾロ出したらカッコイイ(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


おわりに

まぁ本来はわざとおバカな研究成果を作り出すものではないのでしょうが、私自身、悪ふざけが好きなのでちょっとやってみようかなと思い立ったわけです( -д-)ノ

2019年はブラックホールの撮影に成功したりだとか、量子力学や宇宙物理学の話題が常に人気です。

一方で世の中には脚光の当たりにくい分野が多々あるわけです。

研究費も取りにくいし、本当に大変な中、研究者は非常に地道な研究に心を砕いていると思います。

そのようなあまりお目にかかることのない様々な研究に対して一般の人々の注目を集めさせ、科学の面白さを広く再認識させてくれるという貢献にイグノーベル賞は繋がっているのです。

「科学者を、引いては科学をバカにしている」という批判も理解できますが、個人的にはこういうの好きですね。

皆さんはいかがでしょうか?ヾ(´ω`=´ω`)ノ


↓本気でイグノーベル賞が欲しいよっ!!!( ・Д・)↓

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2019ねん 7がつ 27にち(どよーび、晴れ)

明日は久々の休みなので、朝から調査行きます。

楽しみだ!(・∀・)つ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・



はじめに

さて、今回扱うのは『考古学の未来』です。

関係諸者には確実に叩かれる内容でしょう( ・Д・)

だから私も真面目に書かなければならず、文量も増えるでしょう。

しかし!

明日は調査なので、今回は導入ということで手短に終わらせたいと思います( -д-)ノ


ビッグデータと人文科学

ビッグデータという言葉が出現してからけっこう経ちますが、考古学における論文でも流行りとして「ビッグデータ」の用語をタイトルに冠した論文が投稿されています。


ビッグデータ とは、一般的なデータ管理・処理ソフトウエアで扱うことが困難なほど巨大で複雑なデータの集合を表す用語である。
(wikiより転載)

このようなビッグデータの定義からすると、今現在、考古学におけるビッグデータなんてものは存在しないように私は思っています。

一方で十分な潜在性はあるかなとも思っており、これからの発掘調査や資料調査において考古学情報をいかに定量化できるか、そしてそのデータをいかに蓄積して「考古学的ビッグデータの構築」を図るかが重要なポイントになるかなと浅く考えております( -д-)ノ

これまで考古学においても定性的分析だけではなく、定量的な分析が行われてきた歴史を有します。

しかしながら所謂「数理考古学」は「数理経済学」や「数理社会学」とは比較にならないくらいにレベルが低いと言わざるを得ません(方法論や方向性に大きな違いがあります)。

昨今、ビッグデータの登場により、「経済物理学」や「社会物理学」といった分野が発生、発展を開始しています。

(*研究史上、後者の発生は古いですが、本当の意味で物理学的手法を取るようになったのは最近だと門外漢ながらに整理しています( -д-)ノ)

「扱うデータに差があるため、考古学の出遅れは仕方ない」という見方もありますが、より考古学に近い領域である文献史学でも「学界内での情報革命」が生じ始めているかなと思います。

例えば、イギリス国立図書館を始めとして今や多くの大図書館がそれぞれ所蔵する歴史史料のデジタルデータ化を促進させており、インターネットで簡単に閲覧可能な時代がやってきています。

このネット上の多量の歴史史料を用いて、数学者チームが戦争の頻度に関する数理的分析を行ったことが有名ですが、それから早くも20年近く経過しています。

定義的な意味で扱うデータが真にビッグデータかどうかは問題ですが、今や、あるいは非常に近い将来において、多量のデータを準備し、それを定量的に扱う必要性が人文科学で生じていると言って良いのではないでしょうか。




誰でもドラッグ&ドロップでデータ分析が出来る時代に!

定量的分析に利用可能な形でのデータの準備が必要ですから、考古学あるいは人文科学においてビッグデータを扱うのはもう少し先になるとは思います。

一方でデータ分析という分野はかなり伸びてきており、義務教育及び高等教育課程で基礎統計学やデータ分析に関わる項目が算数・数学の教科書に載るようになって久しい状況となっています。

そのためこれからの若手研究者は基礎的なデータ分析が可能な人材ばかりになってくることが予想されるわけで、私も含めた従来型の定性的分析しか出来ない考古学者は隅に追いやられるのではないかなと思っています。

そういった古いタイプの考古学者の重鎮たち(愛情たっぷりに「旧人」と呼ぶことにしましょう( ・Д・))は所謂「型式学大好きおじさん」なわけですが、彼らの重要性がゼロになるわけではありません。

なのでしぶとく生き抜くでしょう。

そんな旧人たちに朗報なのが、「ドラッグ&ドロップでデータ分析が出来てしまうシステム」の登場です!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

マサチューセッツ工科大学とブラウン大学の研究チームは、対話型データサイエンスシステム「Northstar」向けに、最適な機械学習モデルを即時に生成するツール「仮想データサイエンティスト(VDS)」を発表しました。


このツールに関する研究結果は、2019年6月30日から7月5日まで開催された「ACM SIGMOD conference」で発表されたそうです。


そもそもNorthstarとは、長年MITとブラウン大学が共同で開発している対話型のクラウドプラットフォームなのだそうで、上に挙げた画像のようにタッチスクリーン上で直感的に操作でき、スクリーン上にデータをドラッグアンドドロップして繋げていくというシンプルで分かりやすいものなのだとか。


研究チームは、この「Northstar」の新しいツールとして、「仮想データサイエンティスト」を開発しています。


このツールを使えば、データサイエンスの知識が不足している人々でもAIモデルをトレーニングできるということで、注目の研究開発なのです。


例えば医者がある患者が特定の病気を患う可能性を計算したり、事業主は売り上げを予想したりできます。


例えば、データサイエンスのことを知らないコーヒーショップのオーナーでも、数週間先の売り上げを予測して、仕入れの量を把握できるようになるということで素晴らしいですね。


こんなシステムが登場したら基礎しか学んでいない、巷に溢れている「なんちゃってデータサイエンティスト」や「なんちゃってコンサルタント」は激減するかも知れませんね。


一方でこの「仮想データサイエンティスト」を使えば、データ予測、画像分類、複雑なグラフ構造の分析など、ユーザーのタスクにモデルを合わせて予測分析を実行することもできるので、考古学でも利用する研究者が現れそうですね( -д-)ノ





おわりに

境界領域を専門とする某教授(彼は研究・分析に統計学手法を用いている)に伺ったところ、最初は自分で統計ソフトを使用して分析していたが、現在は統計を専門とする共同研究者に任せているそうです。

分析者自身が統計学やデータ分析に関する知識が十分でなければ、数ある分析手法の中でどうしても望む結果の出る手法を恣意的に選択してしまっていると思う、自分自身がそう感じてしまう、というのが理由なのだそうです。

今回は「考古学の近未来予想図」として定量的な分析が比重を増すだろうと考えつつ、誰もが手軽に分析できる時代もすぐそこということを示したわけです。

しかしながらこれからの考古学者、特に若手研究者らは自らが統計学やデータ分析、あるいは数学や物理学、それを既に応用している諸学問に関して十分に学び、理解する必要があるでしょう。

そうしてこそ「本当の意味で考古学の未来が拓ける」のはないでしょうか?

ま、実際には「学際的研究」という魔法の言葉を用いて、「多額の研究費」という膨大な魔力を消費して、共同研究者に分析をぶん投げてふんぞり返る考古学者(旧人、時に新人)が多数出現するのでしょうけどねっ!( ・Д・)

ちなみに、そういった方々は高い確率で、膨大な基礎データの収集の仕事を学生・院生に無報酬でぶん投げるであろうと『機械学習もとい経験的に学習したAI(Archaeological "Insei"; 考古学研究室の院生)』は現段階で予測しております( ・Д・)

↓皮肉スパイスが利き過ぎてた?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2019ねん 6がつ 10にち(げつよーび、晴れ)

天気が良いので散歩した。

「真の散歩とは目的がないものを言う」という本を読んだ。

個人的には目的地があっても、辿り着くまで&帰り道を楽しめればそれで良いと思う( -д-)ノ


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↑どうです?この「いかにも」な怪しいタイトル画像.!?。゚+.(・∀・)゚+.゚(「Forbes」の記事内画像を加工)


今回はちょっと趣向を変えて、「よく見かける成功者がやっている習慣を、実際にやってみた!」というお話です。

いつもの考古学・歴史ニュースとは関係ないので悪しからず( ・Д・)

さて、先日Youtubeを見てて、『成功者が共通して行っている朝の習慣』というのを発見しました。

まぁ前からこういうのは巷に溢れているなぁと思ってはいました。

コメント欄に、「成功した後に時間余ってるからやっているのではないか?」、「一般の人は日々に疲れててそのような余裕はない」などと批判的な内容がずらりとあったのが気になりまして、実際にやってみたらどうかなと思い至ったわけです。

40連勤の最後の一週間に実施したので、忙しくて疲労困憊な方にも、「あ~、こんな感じかぁ」とわかってもらえるかと思います( ・Д・)




成功者がやっている朝の3つの習慣+アルファ

まずは成功者がやっている朝の習慣を紹介します。

  1. 早起きする
  2. 運動する
  3. 瞑想する

こう並べてみると、驚くような特別なことは何もしていないものですね。

習慣にしているかは別にして、個別の項目はけっこうよく聞きますし、まぁ普通なことかなと思います。


私の場合は、
  1. 6時に起きる
  2. 筋トレする
  3. 10分の瞑想をする
という感じでやってみました。


「6時に起きる」に関しては何時でも良かったのですが、キリよく12時に寝て6時に起きてみようと思ったのが理由ですね。

何よりも「睡眠時間を6時間」に設定して、残りの18時間を有効に研究生活に充てようと考えたからです。

かのアインシュタインは研究職に就くまでの在野研究者であった期間に、1日を8時間×3時間と考えて、「生活していくための勤労時間」、「睡眠時間&炊事・洗濯等の諸々の生活時間」、「研究時間」にしっかりと分けて生活していたそうです。

「運動する」は軽く筋トレすることにしました。

朝起きてすぐに簡単な体操と筋トレ(腕立て、腹筋、背筋、スクワット×10を1セット)をするだけです。

「瞑想」は10分間だけで、何も考えないのではなく、今日やるべきことに打ち込む自分を想像することにしました。

『世の成功者』がやっている朝の習慣は上記のものだけですが、私はいくつかアレンジを加えることにしました。

  1. 筋トレ後に冷たいシャワーで目を覚ます
  2. 朝に梅干しを食べる
  3. 朝にコップ一杯の水を飲む
  4. 朝ご飯は「炭水化物」を積極的に摂取する
  5. 朝、その日に行うタスクをスケジュール帳に書いてから朝の瞑想を行う
  6. 腕時計を身に着け、スマホを極力使わないようにする
  7. 心身ともに本当に疲れたと思ったら、酒を飲まずに、美味しい物食べて即寝る
  8. 夜寝る前に、何も考えない方の「瞑想」をする

「梅」についてはこの前、調査の時にお土産として買ったものが家にあったというのが理由として大きいですが、「酸っぱいから目が覚めるかな、身体に良さそう」という理由もちゃんとありますヽ(TдT)ノ

「コップ一杯の水」については、今は亡き祖母が「身体にいいよ」ってそんなこと言ってたな~とふと思いだしたからです、ただそれだけ!

スマホとお酒については依存してると感じていたので改善することにしました( -д-)ノ


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↑この人は疲労困憊してないね!( ・Д・)(「マナラボ」の記事内画像より転載)


心身ともに疲労困憊な状況で実際にやってみた結果

【1日目の夜】
夜に思い立ったので、夜からスタートしました。

なので、「何も考えない方の瞑想」をしつつ、12時頃に就寝しました。

結果、瞑想に不慣れなため「雑念が多過ぎて、むしろ考え事し過ぎて寝付けなかった」です( ・Д・)

まぁ落ち着いて自分と向き合うことはできたように思えます。


【2日目】
やると決めた「成功者の習慣+α」は全て実行しました。

ただ朝は起きれませんでした。

そもそも寝れてないし!(´・ω・`)

そのこともあって、この日の晩は睡眠不足と疲労ですぐに寝れました。


【3日目】
やると決めた「成功者の習慣+α」は全て実行しました(毎回実行しているのでこの後はもう書きません( ・Д・))。

ふと気づくと、ブログはあまり進まないものの、研究は進んでいました。

一日のやるべきことを記入しているおかげか、優先順位の高いものを後回しにしなくなっています。

良い傾向です、ブログ書いてないけどね(/TДT)/


【4日目】
ルーティンをさくっとこなして、朝の梅干しとお茶漬けが美味いな~と感じるだけでしたので、ようやくこの習慣に慣れてきたのだと思います

まぁ朝は起きれていないんですけどね!(TДT)

夜の「何も考えない方の瞑想」にこの日ようやく慣れることができました。


【5日目】
5日経ってようやく朝6時に起きることができました。

睡眠時間はこれまでよりも短くなったわけですが、快調です。

筋トレも軽過ぎるかなと思って、もっとアドレナリン出て目が覚めるように、各15回にしてみました。

一方で朝の瞑想の効果がイマイチ分かりませんヽ(TдT)ノ


【6日目】
「数学者は服を着ない」という話を聞きました。

京都大学の某教員は大学院生時代にほぼ裸で徘徊していて警察のお世話になったとか……

アルキメデスも裸で町を走り回ったのだとか……

「やはり研究者には休日などなく、気が触れるまで研究に没頭しなきゃ」と思っていましたが、気が変わりました。

「メリハリをつけて研究を行えば良いのであって休む時は休まなきゃだめだ」と、ようやくまともな思考能力が返ってきました( -д-)ノ


【7日目】
体重が自然と減って、腹筋割ろうかなと再び思えるようになりました。

また仕事のための最低限の身だしなみでいいやと思っていたのに、もうちょっと気を遣おうと思えるようになりました。

そして何よりも40連勤が終わり、久々の休みが来ることが嬉しくてたまりません(・∀・)つ




実際にやってみた結果、結論!

以前は、土器等の遺物を扱うのに邪魔なので腕時計をしなくなってしまい、スマホで時間を確認していたし、何かとスマホ依存していたのに、スマホなしでも問題なくなりました。

これが精神面・時間面で一番大きい成果かも知れません。

一気に生活習慣を見直した形になったので、どれが効果あるのか分かりませんし、プラシーボ効果かも知れません。

まぁでも「成功者の朝の習慣」は悪くないなという結論に至りました。

ただ、これを習慣化したからと言って「成功者の仲間入りするかどうかは別問題」であると思います(( ・Д・))

個人的にはプラスの効果があったので、継続してみようと思っています。

……何事も気持ちの持ちようですかね?

結局、変わろうと思い立って、前向きに実践する姿勢が最も大切なのかも知れませんね(。・ω・)ノ゙

↓気が向いたら押しておくれ……あ、さては気が向いたね!!!?( ・Д・)↓

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2019ねん 4がつ 17にち(すいよーび、晴れ)

研究機材が欲しい……

やはりクラウドファンディングか!?( ・Д・)


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元記事: hitkno.com; *インドネシア語サイト)


さて、今回の考古学・歴史ニュースは『Twitterで話題のインドネシアで見つかった古代のガンダムみたいな石像が本物かどうかについて考えてみたよ!』ってことです(*・ω・)ノ

上に挙げた画像の通り、見た目は完全にガンダムですね。

昔、「ガンダムSEED」とか好きだったんですけどね。

このガンダムは知りませんでした。

このガンダムは2007年に放送された「機動戦士ガンダム00」に出てくる「GN-001ガンダムエクシア」という機体だそうです。


arukemaya210
↑比べてみると確かに似ている(「はちま起稿」の記事内画像より転載)



問題の石像はインドネシア中部、ジャワ州のスマランにあるニャマトで見つかったそうです。

地元の人たちはこの石像がマジャパヒト王国時代に作られたと言っていたそうです。

しかしながら、ガンダムそっくりであることから、GN-001ガンダムエクシアがアニメで登場した2007年に作られたガンダムエクシアの石像が2019年に苔むしている可能性は否定できないとも地元メディアは冷静に書いています。


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ちなみにマジャパヒト王国は1293年~1478年にジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国だそうです。

本当にその時代に造られたものなら500~700年も経過していることになりますΣ(・ω・ノ)ノ

さて、このガンダムの像が本当にそれほど過去のものなのか、あるいはある種のフェイクのような現代の作品なのかについて検討してみます。


ポイントは3つあります。

①石像である(素材が石材である)
②コケが生えるのにかかる時間
③インドネシアにおける伝統的モチーフと造形の特徴との違い

さて、それぞれを見ていきましょう!(*・ω・)ノ



①対象が石像である点

学生時代にひたすら年号を覚えてきたせいか、「歴史」と聞くと何でもかんでも時期が分かっている気がしますよね。

まぁ歴史時代であれば、様々な事柄が暦年や日付レベルで分かると思います。

でも考古学が扱う「モノ」に関しては時期を判定するということ自体がなかなかに難しいことなのです。

とは言っても、普段の記事で「○○○○年前の墓!」とか書いてるじゃないか!と思われるかも知れません。

基本的にはこれまでの研究の積み重ね、多くの場合は土器編年研究によって時期が判定されます。

この場合は当然ですが土器が出土しなければなりません

また炭素年代測定法も近年は活躍していますが、これも炭化物が検出されなければなりません。

今回のケースではどちらもありませんね( -д-)ノ

さて、ここまでの話で「石」に関する話が出てきませんでしたが、というのも石材を対象とした時期判定は非常に困難なのです。

地質学では母岩の年代が判定されていますが、石材として切り出してしまっては話が異なります。

例えば、古い地層から石を取り出してきて自分の名前を刻んだとしても、あくまでそれは現時点で彫ったのであって、その作品が古い地層の年代に作られたものになるわけではありません。

つまり特殊な事例を除き、基本的に石材の加工時期の判定は難しいのです。

逆に言えば、フェイクでオーパーツを作るには石材は最適ですね。

これが土器や絵画だと形態や炭化物、モチーフ、塗料の原料等の諸分析からすぐにフェイクとバレてしまいますから(/TДT)/




②コケは長く経過した時間の判定基準になるか?

結論から言ってなりません。

一時期流行った(今も?)苔テラリウムを考えれば分かりますが、苔を人為的に載せれば苔は育ちます。

僅かな土壌ごと石材に載せてしまえば、インドネシアの熱帯性気候における大気中の水分でも十分に育ちます。

降雨も多いですから、石材からもぐいぐいと水分を吸収できます。


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↑プランバナン寺院の石像(「LINEトラベル」の記事内画像より転載)

③在地の美術伝統とガンダムの造形特徴の比較

著作権フリーな画像が全然見つからなかったため、適切な画像を集めることができませんでした( ・Д・)

ま、しかしながら、マジャパヒト王国はヒンズー教国ですから美術様式もヒンズー教のそれなのだと思います。

正直言って、そんなにガンダムみたいな石像がゴロゴロしてたら、もっと早い時点で既に話題になっているはずですよね。

インドネシアは人類学研究の対象地域として昔から頻繁に取り上げられる地域ですから(。・ω・)ノ゙

さて、美術様式以外にも不可解な点があります。

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↑再掲(同上)


一般的な石像は、腕が身体とか頭部に接続しているものです。

丸彫りにせよ、その方が造り易いし、強度も保証されるからです。

時に、このガンダムのように脇が開くようなモチーフのものもありますが、その場合は何かしらの特殊なポーズ(宗教的な、あるいは芸術的な)を取るために敢えてそのようにしています。

では、このガンダムの場合はどうでしょう?

無駄に脇が開いています( ・Д・)

このポーズの意味は「より一層、ガンダムのように見える」しかないように思えます。


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さて、個人的にはガンダムは好きだし、こういうのもいいですよね。

今ある現代作品としてのガンダムもいずれこのようになるのかも知れないと思うと感慨深いものがあります。

「時を感じるアート」としていいな~と思います。

(もし今後、ガンダム的遺物が多数発見されて、新しく認定される古代文化であることが分かった場合はごめんなさいヽ(TдT)ノ……でも、今のところ、限りなく黒に近いと思います(TДT))

↓私と同意見な人はブログリーダーになりましょー!( ・Д・)↓

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2019ねん 1がつ 20にち(にちよーび、晴れ)

自由に研究できる環境というのはとても重要であると実感している。

「金と政治」と言うが、

「金と研究」、「金と考古学」といって良い。

あるいは「コネと考古学」か……( ・Д・)


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日ユ同祖論01
↑現代のユダヤ人と侍並べてほとんど同じってあり得ませんけど、まぁイメージってことで( -д-)ノ(「いらすとや」さんの素材を使用して作成)



【目次】
  1. はじめに
  2. 日本までの移動可能性について
  3. 使用ルートの判定
  4. 移動手段からみた到達時間について
  5. おわりに 


1.はじめに
バックナンバー紹介しておきます(*^・ェ・)ノ

↓問題のつまらんお話ヽ(TдT)ノ

↓関係する人気記事ヾ(´ω`=´ω`)ノ


↓前回の記事

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さて早くも「日ユ同祖論」のテーマで第四回となりました( -д-)ノ


これまでに主として確認してきたことは、


①紀元前721年のアッシリア捕囚が契機

②移動主体者は古代イスラエル(北王国)の指導者層

③移動者数は27,290人

④移動距離は直線距離で9079km

⑤移動ルートは「草原の道」

以上の5点になります。


今回は紀元前721年にサマリアないしアッシュールを出発した北王国の指導者層が、どのような手段で、いつ日本に到達したのか?について検討したいと思います。


前半部では移動手段の検討を行い、実際にいつ到達し得るのかを問題とします(今回の記事(*・ω・)ノ)。


後半部では「日ユ同祖論」における先行研究(支持者)が根拠とする日本の史料を取り上げ、いつ到達すべき、あるいはいつ到達しなければならないのかを問題とします(次回の記事です( -д-)ノ)。


では、元気にいってみましょー!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


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↑めちゃ綺麗!それでも砂漠を陸路移動したくないけど!( ・Д・)(「エアトリ」の記事内画像より転載)


2.日本までの移動可能性について
さて、前回みてきたように現在のイスラエル(当時の位置とほぼ同じ)から日本までの距離は9079kmでした。

「草原の道」はステップ地帯を利用してユーラシアを東西に横断するルートですが、イスラエルから北部のステップ地帯まではかなり遠いことも分かりました。


現在の舗装道路や高速道路と違って、舗装されてもいないし、直線的な道でもないわけですから、実際に移動すべき距離は延びるでしょう。


時期は紀元前8世紀の終わりですから、「草原の道」はスキタイによってルートとして開けていたかどうかは不明であり、ルートとして使用できたとしても最初期のものとなります。

そのためルートに関する情報も遠く離れた他国では限られていたと考えられます。


よって北イスラエル王国の指導者層は、スキタイの中心地であるウクライナまで移動して情報を得た後に東に向かった(aルート)と仮定することができます。

一方で北イスラエル王国はその存続時から他国との交易を行っていたため、何かしらの情報を入手していた、あるいは経験知に基づき砂漠地帯を避けてステップ地帯を移動する方法に自ら辿り着いた(bルート)とも仮定できるでしょう。


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↑イスラエルから日本への移動経路(青ラインがaライン、赤ラインがbラインである;「Google Map」の画像を加工)


上に示した図が、現在の地図に基づき、イスラエルから日本への経路を示した概略図になります。

ステップ地帯はモンゴルの東端で一度北上しますのでルートは三角形状を呈しています(参照;前回の記事にステップ地帯の分布図を載せています)。


素直にステップ地帯を抜けると朝鮮半島から日本への渡航ルートを選択することが想定されるため、図にはそのようにラインを挿入しています。ただし、日本のどこに着いたかは不明であり、かつ歴史上あるいはその他の諸点で大きな問題であると予想されるため敢えてラインの挿入を避けています( ・Д・)


さて、この図に則して考えた場合、aルートは黒海を東から回り込んでスキタイの中心地に寄り道するルートbルートは黒海とカスピ海を抜けて最短でステップ地帯に侵入するルートになります。


aルートではウクライナまでイスタンブールから黒海を渡るルート(約2590km)もありますが、大集団ですので船は使わなかったと仮定しています。

よって陸路で黒海を東回りするとウクライナまで約2726km、カザフスタンのアスタナまで約5933km、モンゴルのウランバートルまで約3281km、北上してブラゴベシチェンスクまで約2631km、韓国の釜山まで約1713kmとなります。


(経由地はステップ地帯のルートからおおよそで選択しており、距離は現代の車道ないし車が通行できる道を利用しています)

以上から、aルートの総距離は約16,284kmと推定できます。


一方でbルートでは、黒海とカスピ海を抜けてカザフスタンのアスタナまでが約5515km、以降のルートはaルート同様となります。

そのため、bルートの総距離は13,140kmと推定できます。


b017


実際に移動主体者(古代イスラエルの民)がaとbのどちらを選択したかは不明(史料もないので検討不可)ですので、以上のことから、移動主体者がイスラエルから日本まで「草原の道」を利用して移動した場合、少なくとも釜山まで約13,000~16,000km移動する必要があるということになります。



3.使用ルートの判定
さて、イスラエルから日本までの直線距離9000kmよりかなり長い推定値となりました。

地球は赤道直下を一周すると約40,000kmですから、少なく見積もっても4分の1周以上する必要があることになります。

16,000kmで考えると地球半周とはいきませんが、40%も移動する計算になります。



さて、実際に移動するとなると可能なのでしょうか?

そしてどれくらいかかるものなのでしょうか?



古代や中世においてキャラバンはシルクロードを交易路として東西に移動していたかに思えますが、実際には東西の起点から中間地点にある敦煌やバーミヤンといった都市までを移動して交易を行っていたため、東西を横断する必要がなかったと考えられています。


まぁ何かしらの理由で横断する必要がある場合にはしていたでしょうけども、『東方見聞録』で有名な13世紀のマルコ・ポーロは「オアシスの道」を使って横断していました。

先に述べた敦煌とバーミヤンも「オアシスの道」にあります。



一方でこれまでの検証で、紀元前721年頃に古代イスラエル王国(北王国)の指導者層が使用できたと考えられるルートは「草原の道」です。

当時「草原の道」を使った東西交流を支えていたのがスキタイの遊牧民たちですから、「草原の道」に特定の固定的な中間地点、あるいは休憩地点はないと思われます。


つまり所謂「古代イスラエルの民」が「草原の道」を使って東西を横断するためには、約3万人の大移動を支える食料・水の確保の問題から、スキタイとの接触と協力なしでは極めて困難と考えられます。



そうすると「古代イスラエルの民」は一度、スキタイの中心地を訪れてから「草原の道」や東国に関する情報、長期移動のための援助を得る必要があるため、前述のaルートの使用、及び16,000kmの移動が必要であった蓋然性が高まります。






4.移動手段からみた到達時間について
さて、古代~中世における移動手段と移動可能距離については様々なデータがあります。


①徒歩:時速5km
やはり徒歩が基本となる移動手段です。古代の都市の立地を見てみると、徒歩半日圏内、一日圏内に立地する傾向が見られるなんていう研究もあります。

実際の歩く速度の平均は4~6km程度で、一日で25~40kmほど移動できます。


仮に一日6時間歩いて30km移動したと仮定すると、単純計算では「16,000÷30」で534日で踏破できます(小数点以下繰り上げ)。

釜山からの海路、日本上陸後の陸路移動の時間を加味しても2年あれば到着できることになります。



実際には肉体・精神的疲労や体調、地形の緩急、天候といった様々な条件でより時間がかかるでしょう。

現代の事例ではシルクロードを徒歩で横断した際に2年半かかったとありますので、諸条件を加味しても3~4年あれば到着しそうですね(*・ω・)ノ


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↑暑い砂漠より、涼しいプール!・・・って溺れるゥ~!( ・Д・)(「産経ニュース」の記事内画像より転載)


②馬:1日40km
さて、古代の移動手段として馬があります。馬に全力疾走(ギャロップ)させると、時速20~25kmで走るそうです。

でも長旅で全力疾走させるわけありませんので、急いでても1日で50~60km程度と言われています。


総距離が16,000kmに及ぶと移動者らは知らなかったでしょうが、具体的な目的地や期限があったわけではありません。

そのため「古代イスラエルの民」は恐らく商人や隊商(キャラバン)のように急がずに移動したと考えられます。

この場合の移動速度は1日30~45km程度となります。



馬での旅では、4~6日置きに休息を取ると言われています。馬も疲れますから( ・Д・)

18世紀には替え馬のできる駅も登場しますが、「古代イスラエルの民」は当然馬を替えることができません。

そして馬での旅も天候等の諸条件で遅れますから、1日40km程度で400日、およそ1年と1ヶ月で移動できることになります。




③ラクダ:時速5km
「ラクダの移動速度、徒歩と同じじゃん!( ・Д・)」と思った方もいらっしゃるかと思います。

ラクダは一日で約48kmを移動することができます。これをアラブでは「ラクダ日」と言います。

スピードは遅いのですが、ずっと歩き続けるのです。そのため「砂漠の船」という別名が付いています。



さて、馬と比べると、長距離の連続走行に耐えるアラブ馬はイネ科植物の草だけを食べ、1頭あたり1日に4~5kgも食べます。


一方でラクダはあらゆる植物を食べ、サボテンすら食べますし、食料がなくても背中のこぶに蓄えた脂肪で生きていられます

また体重の4割もの水分を失っても生存可能で、130~180kgの荷物を載せたままで数か月間の旅ができます。


ただし時速5kmです!

さすがは「砂漠の船」ということで「草原の道」のステップ地帯を移動するにしても、長距離移動の観点から馬よりも有用だったと考えられます。

徒歩だと荷物が問題になりますし、恐らく「古代イスラエルの民」は頭数は不明ですがラクダを用いた移動を行った蓋然性が高いと思います。


……まぁ古代イスラエルの民が滅ぼされた直後に大量の馬を有しているのもおかしいですからね( ・Д・)


ということで、「古代イスラエルの民」がラクダと共に移動したとして、やはり2年~4年で横断できる見込みとなります。





5.おわりに 
長くなりましたが、とりあえず古代イスラエル王国(北王国)の指導者層の一団、つまり所謂「失われた十支族」は、(移動したのであれば)スキタイの土地に寄ってから「草原の道」を使って2~4年で日本まで移動可能であったと分かりました(*・ω・)ノ


これだけのことを言うのにこんなに長くなりましたが、次回も引き続き「時間性」の問題についてお付き合いくださいヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓ラクダに乗ると楽だ( ・Д・) くすっとしたらぽちっとな!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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