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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

カテゴリ: 歴史

2020ねん 10がつ 10にち(どよーび、晴れ)

早速さぼったよ!明日年内最後の調査終わるから暫し待たれよ!( ・Д・)

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↑たまごは旨いよね(・∀・)つ(「温泉部」の記事内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは「人類は170万年前から温泉に入って、温泉卵食べてたかもよ!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


突然ですが、卵美味しいですよね。

完全栄養食としても名高いですしね(。・ω・)ノ゙

そんな、私たちの食卓には欠かせない卵ですが、私たちが食べているのは「鶏卵」です。



鳥の卵と考えた場合、私たちは一体いつから卵を食べ始めたのでしょうか?

卵の殻って脆い一面もあるのですが、残存しやすい側面もあります。

そのため考古学的証拠から、人類が卵を食べたと思われる最古の事例は500万年前と考えられています。


500万年前というとアルディピテクスの時代です。

アルディピテクスは約580万~440万年前の猿人で、よく教科書で出てくるアウストラロピテクスの前の最古の猿人です。

ひと昔前はアウストラロピテクスが最古だったのですが、1995年に変更になりました(*^・ェ・)ノ



この頃は人類はまだまだアフリカにいましたから、食べていたのはニワトリではなく、ダチョウの卵です。

石でガンガン叩いて割って食べていたと考えられています。


時代は下って、ネアンデルタール人や私たち現生人類と近い関係にあると考えられているデニソワ人は4万9000年前にダチョウの卵の殻を使った装飾品を作っていたことが分かっています。


このように鳥の卵の利用の歴史はとっても古いのですヾ(´ω`=´ω`)ノ




さて、「人類のゆりかご」、つまり人類発祥の地として知られる東アフリカには、人類進化の秘密を探る上で重要な地点があります。

それがオルドヴァイ渓谷です。

ここではアウストラロピテクスやホモ・ハビリスといった化石人骨が多数発見されています。


近年の研究で、上に挙げた写真のように地層の中の砂(鉱物組成)を分析していたところ、170万年のオルドヴァイ渓谷にはかつて温泉があった可能性が高いことが分かりました。

170万年前というと先ほどのホモ・ハビリス(240-140万年前)などの原人の時代に当たります。

この温泉の近くで原人たちが居住していた痕跡が見つかりました。

研究者によれば、偶然温泉に落ちて茹で上がった獣などを食べた可能性が高いと述べているようですが、、、


まぁ証拠はありません( -д-)ノ


なのでタイトルに書いたような、温泉卵や茹で卵を食べていたかも知れませんが、証拠はないのです( -д-)ノ



ちなみに、現生のサルの観察では、1匹のサルが芋を海水で洗って食べたところ、ほどよく塩味が付いて美味しかったため、

群れ全体が学習し、芋を海水で洗うようになったという事例が報告されています。



アフリカは遥か昔において湿潤であった気候が、人類の進化の歴史の中で乾燥気候に変わっていきました。

そのため人類は新しい食料を求めて様々な工夫をし、結果として分化していったという説もあります。


人類の発展は偶然の発見にかなり左右されている点が伺えますし、特に食文化に関しては飢餓の影響によってか様々なチャレンジャーを生み出した結果発展した部分もあると考えられます。

最初にナマコ食べた人とか凄いですよね?Σ(・ω・ノ)ノ

そういった数多のチャレンジャーのおかげで、現代の我々の食文化は非常に豊かになっていると言えると思います(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


そういう意味では、原人が温泉を利用して温泉卵やゆで卵を食べた可能性は十分にあると思います。

ただ土器の発生(1万6500年前頃)までひどく時間の開きがありますから、仮にそういった慣習が生じていたとしても、温泉の傍を離れて拡散し、やがて出アフリカを成す人類に直接的に引き継がれはしなかったでしょう(*^・ェ・)ノ




おわりに

故意に・慣習的に作る場合、温泉卵はどうかと思いますが、茹で卵あるいは燻製卵だったらけっこう古くからありそうですね。

特に「くんたま」は保存の観点から、その方法と効果にさえ気付けばとても有用です。

まぁもちろん初期人類は保存とか考えずにさっさと食べていたと思いますけども、、、



火の使用は北京原人による50万年前が定説ですからね。

人口がある程度増えないと食料の保存も考えないでしょうし、、、



なんだか食べ物の歴史に面白さを感じ始めたよ!( ・Д・)


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2020ねん 10がつ 2にち(きんよーび、晴れ)

おぎゃ!( ・Д・)

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↑にくきゅうも可愛い!カワ(・∀・)イイ!!(「ANIMALive」の記事内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは「乾燥中の須恵器の上をネコが歩いたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


前回はオオカミ、イヌのお話だったので、今回はネコです。

前回お話したようにタイリクオオカミが家畜化されてイヌになったわけですが、

イヌは狩猟のパートナーとして活躍したこともあり、ヒトとの付き合いはとても長いのです。


一方でネコはというと、リビアヤマネコが家畜化されてイエネコになったわけですが、

ネコはネズミ対策で飼われたのが起源とされています。

ネズミ対策が必要になったのは農耕を始めて作物を貯蓄できるようになってからなので、イヌに比べるとどうしても新しい時期のお話になるのです(*・ω・)ノ


文献史料によると、平安時代には少なくともネコが飼われていたことが分かっています。

一方で考古資料では少なくとも古墳時代からネコがいたと考えられています。



その証拠がこちらヾ(´ω`=´ω`)ノ


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これは福井県、興道寺廃寺跡周辺の円墳の周溝から出土した資料です。

足跡付きの土器片では最古級の古墳時代後期(6~7世紀)のものになります。



ちょっと分かりにくいですけど、須恵器の内面に肉球の痕跡が残っているそうです。

正直、拓本にもほとんど写ってないですね。

たぶんライトを照射して肉眼観察すると判別できるレベルの薄っすらとした痕跡なのだと思います(/TДT)/



ところでこの肉球の痕跡には爪の痕がありません。

ネコは歩く時に爪を引っ込めて歩くため、これはネコの足跡だろうと推測されています。



もっと分かりやすいのがこちらヾ(´ω`=´ω`)ノ


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こちらは古墳時代終末期に相当する須恵器で、 兵庫県姫路市の 見野6号墳から出土しました。


これはもうガッツリ足跡がついてますね!( ・Д・)

先ほどの資料もそうですが、土器の乾燥中に、ネコがその上を歩いてしまったのだと考えられています。



以上の資料は古墳時代のものですが、ネコの骨が弥生時代の集落跡から出土するケースが確認されており、

考古学的には、日本におけるネコの起源はどうやら弥生時代まで遡ることができそうです(*^・ェ・)ノ











↑ネコ関連の記事、併せてど~ぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


おわりに

ネコと考えられる足跡が付いた土器は全国で3点のみ見つかっています。

その内の2点を紹介したわけですが、

2つ目の資料はまさに肉球!って感じで、


まだ柔らかい状態のあの土器の上をネコがのんびり歩いていたかと思うと、なんだかほっこりしますね(*´ェ`*)


ねこはやっぱり可愛いにゃ~!( ・Д・)


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2020ねん 10がつ 1にち(すいよーび、晴れ)

日付変わって、もう10月だ!(*^・ェ・)ノ

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↑カッコ良きもふもふ(*^・ェ・)ノ(「grape」の記事内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは「永久凍土の中からオオカミの頭部が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


まぁ今回のお話は考古学とは直接的には関係ありません。

ただ、考古学は人類を研究対象にするだけあって、どんな知識も役立つと、だから博学であれと教えられてきました。

その観点からすると、考え方によっては今回のオオカミの話も全く無関係ではないのです(*・ω・)ノ



さて、この度、ロシア北極圏の永久凍土から、約3万2000年前に死んだ成体のオオカミの頭部が、ほぼ完全な状態で見つかったわけですが、

*写真が生々しいので閲覧注意です( ・Д・)




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私的には「七つの大罪」に出てくるオスロ―に見えるんですけども……


めっちゃ似てません!??( ・Д・)




さて、話を戻しますと、


この厚い毛皮に覆われたオオカミの頭部は発掘調査ではなく、地元住民が発見したものです。


詳細な場所はシベリア地方ヤクチアに流れるチレフチャフ川の土手だそうです。


頭部の長さは41.5cmで、写真からも分かるようにとても良い保存状態で脳や軟部組織、力強い歯もそろっています。



古生物学者らによる分析の結果、このオオカミは約3万2000年前、氷河時代の更新世に死んだと考えられ、当時2~4歳だったと推定されています。


これまでに見つかっているオオカミは子どもばかりで今回のような発見は初めての貴重な事例だそうです。



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おわりに

上に挙げた記事にも多少書いていますが、ヒトとイヌの関わりはとても古いものです。

所謂、オオカミは「タイリクオオカミ」を指しますが、この大陸ってユーラシア大陸のことです。

現在でもオオカミの主な分布はユーラシアの北端に集中してます。



とあるDNA解析結果ではオオカミからイヌへの分岐は13万5000年前とされています。

でもこれってネアンデルタール人とか旧人段階の時期なのです。

我々、新人は7~5万年前にユーラシア大陸に進出しましたから、ちょっと古過ぎます。

もしネアンデルタール人がオオカミの家畜化を開始したのであれば、センセーショナルな発見になりますね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



別のDNAに関する研究結果では4万年前とか1万5000年前と言われています。

後者であれば、上に挙げた日本の縄文時代の事例とほぼ合致します。

縄文時代早期に当たる1万2000年前~7000年前にはイヌの痕跡が考古学的証拠として見つかっているからです。


前者であれば、まさに今回のケース(3万5000年前)が一つの面白い事例になるかと思います。

こういったレアな発見は、どうしても偶然に左右されてしまいます( -д-)ノ

しかしながらデータを積み上げて、いつの日かヒトとイヌの関係史における最初期のことが分かるといいですね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


それはともかくオスロ―可愛いっ!( ・Д・)


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2019ねん 4がつ 6にち(どよーび、晴れ)

AIと統計のために「Python(パイソン)」を勉強し始めた。

春だし、新年号だし(来月からだけど)、新しいことに取り組みたいなと。

プログラムは久々だけれども、まぁなんとかなりそうだ( -д-)ノ


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは『日文研が絵巻物を電子マンガにして無料配信したよ!』ってことです(*・ω・)ノ

京都に所在する国際日本文化研究センター(通称「日文研」)が所蔵する絵巻資料を電子漫画にして無料で配信する取り組みを始めました。


古典の絵巻物を漫画形式への翻訳しており、その辺に全く疎い私でも古典に触れて楽しむことができました!v( ̄∇ ̄)v


マンガ形式ということでコマ分けされていますが、図像は原本からの抜き出しに徹しているそうです。


この日文研のマンガ絵巻を配信しているのはKADOKAWAの無料漫画総合サイト「Comic Walker」です。


「まんが訳 酒天童子繪巻」の原本は全3巻からなり、電子マンガ版では1話あたり十数ページ立ての全6話構成に組み直されています。


画面上に現れる1ページずつを右へスクロールして読み進めていく形です。


酒天童子繪巻の原本は絵画のみだそうですが、日文研が所蔵する異本の酒呑童子絵巻には詞書(ことばがき)があるそうです。


この詞書を基に現代語のセリフの吹き出しやナレーションを作成したそうです。



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↑マンガ訳の絵巻物の検索結果(「Comic Walker」の検索結果ページ)




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↑まんが訳 道成寺縁起中の1頁(「Comic Walker」の「道成寺縁起」より一部加工)



「Comic Walker」のページで『まんが訳』で検索してみると、上の画像のように二つのマンガがヒットしました。

同じように検索してもいいですし、今回挙げた画像の下にあるリンクからでもそれぞれのページに飛ぶようにしてあります(・∀・)つ

さて、検索によると「まんが訳 道成寺縁起」もありまして、日文研による作品第2弾だそうです!

是非、両方とも読んでみてくださいね、『無料ですし(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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それにしても素敵なアイディアですよね~。

マヤ文明にも「絵文書」とか「絵文書様式土器」があるけど、マンガにはなりそうにないなヽ(TдT)ノ

これからも日文研とKADOKAWAによって新たな作品が配信されるのでしょうか?

楽しみですね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↓目指せ、フォロワーさん1000人!とか言ってみる( ・Д・)↓

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2019ねん 1がつ 21にち(げつよーび、晴れ)

批判的な文章はやはり書いてて楽しくない!

批判される方はもっと不快だろう( ・Д・)

なるべく楽しくワクワクするような浪漫溢れる話題を提供したい。

それが考古学や歴史の基本的な醍醐味だろう(。・ω・)ノ゙


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さて、今回紹介する考古学・歴史ニュースは「ナスカにはバンド・オブ・ホールズと呼ばれる変わった穴ぼこ群があるよ!」ってことです。


ナスカと言えば地上絵ですね!


下に挙げておきましたが、コンドル、サル、ハチドリ、クモ、ヒトみたいな図像とか有名ですね。

全部で700以上の地上絵があるそうで、近年も山形大学の調査団によって多くの新しい地上絵が発見されています。


地上絵の大きさも様々ですが、およそ50~200mあるそうです。絵にしてはやはり大きいですね!




というわけで、地上絵で有名なナスカですが、具体的な位置としては南米のペルーにあります。

乾燥した盆地状の高原において、地表面の岩石・土砂類を取り除いて下部の異なる色調の層を露出させることで地上絵を描いています。


こういった地上絵は、紀元前200年~西暦800年に栄えたナスカ文化によって製作されたと考えられています。


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今回紹介するバンド・オブ・ホールズもペルーのナスカ高原に見られる遺構です。


バンド・オブ・ホールズに関する報告は1933年、飛行士のロバート・シップピーがナショナルジオグラフィックで航空写真を発表したのが最初です。

1955年には初期の調査がなされ、現在まで数度の発掘調査が行われており、様々なことが分かっていますが、何故か日本ではあまり知られていません( -д-)ノ



最初に挙げた写真で分かるように、穴ぼこがたくさん列を成しているのが分かると思います。そのためスペイン語でMonte Sierpe(蛇の山)またはCerro Viruela(天然痘の丘)としても知られています。


穴がこれだけ密集してると気持ち悪いですからね、「天然痘の丘」という名称も納得できます(´・ω・`)



バンド・オブ・ホールズは正確にはナスカ高原のピスコ渓谷に見られます。穴は全部で約5,000〜6000程度あるそうで、それぞれの穴のサイズは人ひとりが入れるような規模です。

具体的にはそれぞれの穴には隆起した縁があり、直径約1メートル、深さ50〜100 cmです。この穴が幅が14〜21メートル(平均幅は約19メートル)で列を成しています。


このバンド・オブ・ホールズの列はピスコ渓谷の端から始まり、起伏のある地形上に南北方向に約1.5 kmも伸びているのです。







このバンド・オブ・ホールズの目的については「墓坑説」や「貯蔵穴説」があります。

上に挙げた写真だと浅く見えますけど、先ほど述べたように深さは最大で1m近くになります。


1953年のフォン・ハーゲン(Victor Wolfgang von Hagen )、1984年のハイスロップ(John Hyslop)らの記述では、それぞれの穴は石で囲われているとのことです。

写真で見ると一見、砂地を掘っただけに見えますけど、きちんとした石組みの構造を有しているんです。



最新の調査研究による仮説は、これらの穴がインカ帝国時代(西暦1438-1533年)に造られた貯蔵穴群であるというものです。

どうやらインカ帝国への貢ぎ物としての農作物を貯蔵したのではないかと考えられているようで、穴の内部から得たサンプルを基に、花粉や植物珪酸体(プラント・オパール)の検出によって証明しようと現在試みられています。



・・・・・・それにしても何故にこんなに密集体形なのでしょう?

何故にこんなに長いのでしょう? 大きな貯蔵穴をいくつか作るのではダメだったのでしょうか・・・( ・Д・)


詳しくは分かりませんが、乾燥気候ならではの独特の貯蔵方法なのかも知れませんね。

どのような目的で造られたのか?貯蔵穴なら、何故こんなに長く多いのか?皆さんも考えてみては如何でしょうか?(*・ω・)ノ

↓巨大なモグラ叩きゲームの痕跡である説に一票!( -д-)ノ↓

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2019ねん 1がつ 10にち(もくよーび、晴れ)

今日は悲しいお知らせがあった。・゚・(ノД`)

自分が弱い生き物だなと思った・・・・・・

が、まぁ死ななきゃいいか!( ・Д・)

強く生きていきます( -д-)ノ


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↑いいねぇ~、私はこういうの好き.。゚+.(・∀・)゚+.゚(「Self Promotion Marketing」の記事内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは、「世界最古!132年前のボトルメールが発見される!」です。


そもそもボトルメールとは、瓶に封じて海や川などに流された手紙のこと。上に挙げた写真がそのイメージですね。永い期間、海等を漂流して遠い地に辿り着くといったロマンティックな印象を受けます。


これまでにも古いボトルメールはいくつか発見されているので紹介しますね!



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①100年前のボトルメール、祖父から孫娘へと届く!

これはドイツの湾口都市、キールでのお話です。漁師のコンラッド・フィッシャーさんが漁をしていると、網にボトルがかかりました。


瓶の中にはポストカードが入っており、差出人はリチャード・プラッツと記されていました。内容は「これを見つけた人はベルリンの自宅の住所に届けてほしい」、でした。



ドイツ帝国の切手が2枚貼られたデンマークのポストカードの日付は1913年5月17日で、発見当時は100年前の最古のボトルメールとしてギネス記録になりました。



差出人のリチャード・プラッツプラッツさんは、当時20歳であり、バルト海沿岸を自然調査グループとハイキング中にカードが入った瓶を海に投げ込んだようです。



彼の家系図を調べた結果、孫娘に当たる62歳のアンジェラさんの連絡先が突き止められました。1946年に亡くなった祖父に会ったことがなかったアンジェラさんは、ボトルメールについて知らされた後、家族の古いスクラップブックを見返して涙したそうです(ノд・。) グスン







②108年前のボトルメールのアンケートに答えたら1シリングもらえた!
これもまたドイツのお話。元郵便局員のマリアンヌ・ウィンクラーさんは砂浜で発見したボトルメールの中身を確認したところ、アンケートであることに気付きました。


このボトルメールは1906年11月30日にイギリスの海洋生物学会によって海流研究の目的で北海に投げ入れられた1000本以上のボトルメッセージのうちの1つだったのです。

ボトルの中には送り返してくれれば1シリングを渡すとのメッセージとともに、いつどこで見つけたのかを記すアンケートが英語とドイツ語とオランダ語で書かれていたとのこと。



1シリングは約10円ですから特に要らないですけど世界最古のボトルメールを発見してギネスブックに載るのは嬉しいですよね。

この海流調査は1904年から1906年に行われたそうで、まだ発見されていないものが何点もあるそうです。最古の1904年に投げ込まれた瓶を今から18年後に発見できれば、この後に紹介する132年前のボトルメールを超えることができますよ!( ・Д・)




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↑これが現在世界最古のボトルメール!(「Western Australian Museum」のFacebookページ内の画像より転載)


③世界最古、132年前のボトルメールが博物館に展示される!
この発見はオーストラリアにおいてです。同大陸西部にある島、ウェッジ・アイランドで、浜辺を散歩していた家族が世界最古のボトルメールを拾いました。

中には手紙が入っており、「この手紙を見つけたらドイツ海軍天文台(German Naval Observatory)か、最寄りのドイツ政府機関に報告して欲しい」と書かれていました。


発見された砂浜から1,000キロも離れたインド洋で「Paula」という船から、海流調査の目的で数千もの瓶が海に放たれたことが分かっています。

今回の発見はこの内の一つで1886年6月12日に海に放たれたものであることが分かり、世界最古のボトルメールの事例としてギネスブックに載ったのです.。゚+.(・∀・)゚+.゚



これまでに世界各地の海岸で650の瓶が発見されているそうですから、このボトルメールも今後世界最古を目指せるものになります(* ̄∇ ̄*)エヘヘ


ところで、この瓶、他の2例と様子が異なりますよね? これ、実は132年前の古い「ジン」のボトルなんだそうです。

ギネス記録というだけではなく、遺物として歴史的な価値も有している素敵な発見ですね!身近なところにも夢とロマンがあるものです!

↓ボトルメール風のインテリアが好きな方~?(。・ω・)ノ゙ハーイ、ぽちっとな↓

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2019ねん 1がつ 6にち(にちよーび、晴れ)

みなさん、明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いしますヾ(´ω`=´ω`)ノ

私も今年は大きな躍進の年にしたいな~と思っておりますが、

どうでしょう……ま、どうあれ、

人間、やれることを精一杯やるしかないですよね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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今月31日まで期間限定で公開している福岡藩主・黒田官兵衛ゆかりの国宝の刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」
今回紹介するのは福岡市博物館で公開された黒田官兵衛ゆかりの国宝の名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を観に多くの刀剣女子が来たよ!ってニュースです。

1月5日にこの国宝の刀が公開され、2月3日まで観ることができるそうです。どうやらこの福岡市博物館にて新年に恒例として行われている人気企画だそうです。初日から約100人が列をなしたということでその人気ぶりが窺えますね(*・ω・)ノ


そもそもこの刀剣に対する人気のきっかけは、日本刀をモチーフにした美形男子が戦うオンラインゲーム「刀剣乱舞」だそうです。

ちなみに刀剣を美少女化した「天華百剣」というゲームもあるようですが刀剣男子はあまり聞かないですね( -д-)ノ

刀剣乱舞は2015年にゲーム配信が行われ、すでに3年以上の月日が流れていますが、刀剣女子の流行はとどまらずにいるようです。



2016年度のイベント時も上に挙げた写真のように多数の来館者が訪れたそうで、新年公開の際には毎年若い女性ファンの「刀剣女子」が殺到するとのこと。数としては来場者は毎年1万人を超えるのだそうですΣ(・ω・ノ)ノ

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↑刀剣女子の様子①(「Naverまとめ」の記事内画像より転載)


こう見てみると、本当に刀剣女子って一つのサブカルチャーになっているようですね。……ふと思うんですけど、誰か考古学遺物を擬人化つまりイケメン化や美少女化してみませんか?

縄文時代~式土器のイケメンとか、古典期マヤの石槍の美少女とか!

ゲームが入口だとしても結果として歴史や文化に興味を示してもらえるなら、理解を深めてもらえるなら、それは素晴らしいことだと思います(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

↓押せば押すほど今年の運気はイイ感じに……なるかも知れません( ・Д・)↓

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2018ねん 7がつ 24にち(かよーび、晴れ)

いい天気である。

綺麗な青空を見るは何日ぶりだろうか。

だがこうなると、蒸し暑さではなく、ふつーに暑い!

結果、やはり、そーめんばっか食べておる( ・Д・)

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今回のタイトルで使用した「指輪物語」とは、J・R・R・トールキンの『指輪物語』のことです。2001年に映画化されて2003年まで三部作として公開され、日本でもとても話題になった作品だと思います。

さてこの指輪物語に登場するのが「力の指輪」です。全部で20個ある指輪の総称です。魔王みたいな存在のサウロンの持つ指輪が「一つの指輪」、エルフが持つのが「三つの指輪」、ドワーフが持つのが「七つの指輪」、人間の王が持つのが「九つの指輪」で、合計20個になります。

RPGみたいにちょっと力が強くなるというわけではなく、この作品中の「力の指輪」自体は所有者を極めて長寿するといった神秘的な力を有しています。しかし指輪の所有者はサウロンの支配下に陥ってしまうという「呪いの指輪」でもあるんですね。

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さて、ここで本題に入りましょう。ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)はユダヤ系のオーストリアの精神医学者で、19世紀後半~20世紀前半に活躍し、精神分析学の創始者と言われています。その弟子であるユングと共に、倫理や世界史の勉強の中で聞いたことがあるかも知れません。

このフロイトは、実は「精神分析学の秘密結社」を結成していたのです! その際に愛弟子たちに授けたという印章指輪の内の6点が、中東エルサレムのイスラエル博物館で開かれる展覧会にて初めて一堂に会し、公開されることになりました。

展覧会の名前は「フロイト・オブ・ザ・リングス(Freud of the Rings)」で、まさにロード・オブ・ザ・リングとかけているわけですね( ・Д・)

フロイトは神経学、心理学、分析精神学の専門ですが、神話学や人類学、考古学にも非常に深い造形を示していたことで知られています。特に世界中の古代文明の遺物を収集しており、彼の膨大な考古学コレクションは現在、ロンドンにあるフロイト博物館で見ることができます。

さて、今回の展覧会の発端は、イスラエル博物館の学芸員助手が、「Freud Nike(フロイト・ニケ)」と書かれた小さな段ボール箱の中から金の指輪1個を見つけたことでした。この辺りも「指輪物語」の最初のシーンを彷彿とさせますよね。

さて、指輪に刻まれた「ニケ」はギリシャの勝利の女神の名です。学芸員らの調査の結果、その指輪はフロイトが弟子のエバ・ローゼンフェルド(Eva Rosenfeld)に贈り、後にローゼンフェルドがイスラエル博物館に寄贈したものだと分かったそうです。

さらなる調査で、フロイトが最も身近に置き後継者とみなしていたスイス生まれの弟子カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)と1912年に決別した(ユングはその後、分析心理学を創始する)ことが、このフロイトの「指輪物語」の背景にあると推測できるとのこと。

どういうことかと言うと、最愛弟子であるユングとの関係断絶をきっかけに、フロイトは精神分析学者の秘密結社を設立したのです。そしてフロイトの学説を信奉し、フロイト自身に対しても献身的だった創設メンバー5人に印章指輪を1個ずつ贈ったのだそうです。


指輪にはめ込まれた石はフロイトが世界中から直接収集した膨大な古代遺物から選ばれており、それぞれに神話の主題が彫りこまれているというかなりの作り込みようです。各指輪の刻印は、フロイトの学説の要素と、指輪を贈られた相手とフロイトとの関係を示唆している可能性があるようです。

最終的にフロイトはこのような印章指輪を少なくとも20個は贈っていたようです。贈られた人の中には、フロイトが恩義を感じていた精神分析学者たちや、フロイトが精神分析を行い好意を抱いた人々らも含まれていたのだとか。

さて、J・R・R・トールキンの『指輪物語』でサウロンが造った指輪の数は20個です(サウロンの技術でエルフが造ったものを含む)。そしてサウロンが指輪の所有者を支配下に置いたように、フロイトの印章指輪を受け取った人たちもフロイトを信奉し、献身的だったということで・・・・・・


とまぁ、ほんとに面白い一致だなぁと思います。まぁ全ての指輪が見つかっているわけではありませんので、「少なくとも20個」というあたりがどこまで信憑性があるのかは分かりませんね。展覧会として「指輪物語」にかけてますから、学芸員たちも敢えて「20」という数字を選択している可能性も否めないかな~とも思います( -д-)ノ

↓ここを押すとサウロンの支配下に入るよ~ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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2018ねん 6がつ 13にち(すいよーび、雨)

一時期めちゃくちゃ暑くて辛かったのに、

台風やらなんやらでずーっと雨か曇り。

気温が上がらない、てか寒い!

……人間とは我儘な生き物である( ・Д・)

・・・・・・・・・・・・

【目次】
  1. はじめに
  2. 失われたアークとは何か
  3. どこにあるのか ー日ユ同祖論ー
  4. 剣山にあると仮定した場合の依存状態について
  5. おわりに

1.はじめに
今回の記事はタイトル通り、「失われたアーク」が実在したとしたら、今どんな状態?を考えてみるということです。そのために日ユ同祖論とか紹介しますけど、紹介だけです。専門違い過ぎて検討の余地もありません( -д-)ノ

当記事では「失われたアーク」=「アーク」=「聖櫃」=「契約の箱」=「神の箱」と色々な記述の仕方をしますが全部意味する内容は同じです。

まぁでも日ユ同祖論についてはテレビ番組で何度か取り上げられてて、内容もすごく面白いですよ。私の簡易な紹介文よりは動画見た方が早いかなって本気で思うんで、リンクを貼っておきますね。

どれもけっこう面白いので良かったら見てみてくださいね。常々言ってますが、私、回し者じゃないですからね!( ・Д・)

 
↑やりすぎ都市伝説より(投稿者:Merlyn Fink


↑新説みのもんたの日本ミステリーより(投稿者:igtv4)


↑世界の何だコレ!ミステリーより(投稿者:Thi Le)


2.失われたアークとは何か
さて、結局のところ『失われたアーク』とは何かですが、上に挙げた動画などでは古代ユダヤの「三種の神器」が納められていることになっていますね。日ユ同祖論を提唱する方々にとってはきっとこれが都合がいいのでしょうね。

だって、日本にも「三種の神器」があるから。日本との繋がりをアピールというか一つの根拠として言えますもんね。

でも日本の「三種の神器」って元々『二種』なんですよ。そのような研究発表を見たことがあります。原文資料どっかに行ってしまって手元にないのがつらい( ・Д・)三種に変わった時期と古代ユダヤの民の到着時期が重なると面白いんですけどね。でも確か記憶によれば違う!

古代イスラエル王国の滅亡と離散は西暦115年だし、日本はまだ弥生時代!

まぁ何はともあれ、そもそも、アークの中に古代ユダヤの三種の神器が入っているってのはどこから来たものなのかが分からないですね。

 アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。

 箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。

 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。

 一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。

 わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。

(出エジプト記 25:10-22)
 ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。

 エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、主の箱のみならず臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った。

 祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。

 その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。

 ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。

 箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。

(列王記上歴 8:1-9)
このように旧約聖書や歴史書の記述では、「契約の箱」の中身は「モーセの十戒」を記した「二枚の石板」なのです。どこから中身が三種の神器となったのでしょうか?Σ(・ω・ノ)ノ

この「アーク」に関する最後の記述は紀元前10世紀ですね。紀元前970年以降のソロモン王の統治下において、エルサレムに神殿を造り、「至聖所」と呼ばれる内陣に「聖櫃」を納めていたそうです。旧約聖書によると1年に1回、儀礼行為として祭司たちが外にアークを運び出していました。しかし紀元前900年以降、「契約の箱」に関する記述は消えてしまいます。

日ユ同祖論的に日本に運ばれたとしても時期的になんだかおかしい気がしますけどね。京都の祇園祭と関係していたとしても平安京って794年ですし、やっぱりかなりの開きがあるように思えます。

あとダビデ王に指示されて「ウザが運んだ」ということも番組では言ってますけど、ウザがアークを運ぼうとした先はエルサレムですね。

 「彼らはアビダナブの家から、神の箱を新しい車に載せ、ウザとアフヨがその車を御した。ダビデとすべてのイスラエル人は、神の御前で力を込めて、歌をうたい、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でた。

 一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を抑えようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。

 彼はその場で、神の御前で死んだ。ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。」

(歴代誌上13:7〜11)
てか、ウザ死んでますから!( ・Д・) 運ぶ途中で神様に殺されてます。何故、神様がウザを殺したかというと、

・牛車を使ってはならない。肩に担いで運ばなければならない。

・神の箱はレビ族のケハトの家系に属する者のみが運搬が許される。

・手を触れないように、担ぎ棒を差し入れて運ばなければならない。

(参考:民数記4:6,15)
以上の項目に反していたからなのですが、何もアクシデントで落ちかけた神の箱をかばおうとしたウザを殺さなくてもいいじゃないかと思ってしまいますね( ・Д・)

ということでウザが聖櫃を運んできた先が「太秦(ウズマザ;ウザっぽい名前として番組に登場していた)」ってのもおかしい話かと思います。

ウザが死んだため、ダビデ王も恐れて聖櫃を運ぶのを一旦中止するわけですが、この「箱」やけに周りで人が死ぬのですよ。
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↑同映画のワンシーン、箱を開けると幽霊みたいのが飛んできてみんな目が光って死にます(; ̄Д ̄)(Google検索結果より画像を転載;元サイトは現在(2018.6.13)閉鎖されている)

この「神の箱」は、映画インディ・ジョーンズの中でもナチスによって古代兵器かのように利用されようとします。結果、上の写真のように自爆しますけども。

記述の中でも「神の箱」は様々な効果をもたらしています。

①イスラエルの民がヨルダン川を渡る時も川の水をせき止めながら進みました(ヨシュア記3:11〜17)。

②エリコの町を攻略する時、神の箱が町を7周回って行進すると、エリコの町の強固な城壁がたちまち崩れ落ちました(ヨシュア6:6〜8)。

③「神の箱」はサムエルの時代までシロの町に安置されましたが、異邦人ペリシテ軍との戦いの中で敵の手に渡り、敵の偶像タゴンの神殿に置かれますが、一晩でタゴンの像を切り倒してしまいました。更に異邦人に対して災難を起こし、とうとうイスラエル側に返還することになりました(サムエル記上5章)。

④その返還の途中で、箱の中をのぞいた人が70人死んでしまうという事件がありました(サムエル記上6:19)

インディ・ジョーンズの件も②や④の記述が元になっているようですね。しかしながら、ここまで来ると「呪いの偶像」のレベルじゃないですかね( -д-)ノ

まぁ最終的にダビデ王の後のソロモン王の治世に、エルサレムにて聖櫃は安置されていて、年に一回の儀礼も行われていたので、ダビデ王やウザが運んだどうこういう話に則った「アーク日本にある説」は疑わしいなぁとは思っております。


3.どこにあるのか -日ユ同祖論-
さて、とは言ったものの、日ユ同祖論自体を批判しているわけではありません。シルクロードの時代(ここでは秦や古代ローマの時代;紀元前8世紀~)に様々な人々が大陸を横断したわけですし、ユダヤ系の渡来人がいた可能性を簡単に否定できないとは思います。

ま、というかぶっちゃけ今回の記事の落としどころ的に、日本にないと困るんで!( ・Д・)海外にあった場合、他宗教の民族によって略奪・破壊されている可能性が高いですし、金なんて簡単に溶かされてしまいますからね。日本まで運んできて、山に隠しておく方が安全なのです!

簡単に言うと、古代イスラエル王国の滅亡後、古代ユダヤの民「失われた10支族」のメンバーが日本までやってきたという説ですね。

日本語とヘブライ語の共通点が多いとか、カタカナが似ているとか、神輿がアークと似ているとか、祇園祭りの装飾が中東系だとか、京都の神社のお祭りや儀礼が聖書の記述の儀礼に似ているだとか、まぁ色々な点で面白い話です。

で、なんだかんだ徳島県の剣山にまで古代ユダヤの民がやってきたようで、ここでは毎年7月に神輿を山の上まで運び上げるお祭りが残っているそうです。これがかつて剣山に聖櫃を運んだ儀礼の名残だ!っていう推論ですね。

まぁ真偽はさておき、そういうことにしておきましょう!この記事のオチのために!( -д-)ノ


4.剣山にあると仮定した場合の依存状態について
さて、ここで聖櫃の作り方をおさらいしておきましょう。

 アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。

 箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。

 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。
 
 一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。

(出エジプト記 25:10-22)
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↑失われたアーク型の小物入れ。欲しい(*・ω・)ノが、回し者ではないっ!(「Never Land」より転載)

つまるところ、形態は上の写真のようになります。箱があって、担ぎ棒があって、上に蓋があって、そこには一対のケルビム(智天使)が備え付けられているという構造です。

大きさはと言いますと、アンマという単位が使われています。これはヘブライ語ですね。キュビットと呼んだ方が馴染みがあるかも知れません。古代イスラエルでは神聖キュビットという単位があって、約44cmだったそうです。

つまり箱自体のサイズは110×66×66cmで、けっこう小型ですね。まぁ中身が石板二枚ですからそんなもんでしょう!

注目したいのは基本的に箱は木製なんですよね。アカシアの木を材料として、金で内外が覆われています。メッキでしょうかね?最古のメッキの技術については定説がありませんが、2000年前のパルティア人、1700年前のスキタイ人が最初と言われているようです。

一方で十戒を託されたモーセは、実在したと考えた場合は、ヘブライ人がエジプトにいた紀元前14世紀末~前13世紀の新王国第19王朝の頃と考えられています。するとかなり時間に開きがありますね。

ダビデ王(前1000年 - 前961年頃)、ソロモン王( 紀元前1011年頃 - 紀元前931年頃)の時代にもまだ金メッキ技術はなさそうですし、古代ローマ王国によって古代イスラエル王国が征服された西暦135年の時点でも、本当に金で覆われていたのか謎です。

映画インディ・ジョーンズの「最後の聖戦」で出てくる「聖杯」のように、本当は金ぴかじゃないのかも知れませんねヽ(TдT)ノ

金製品自体を発見するのはさほど問題ないですけど(後世にて溶かされ再加工されなければ)、「メッキ加工の技術」を考古学的に発見するのはけっこう大変なのです。

なので、仮に現在分かっていないだけで、実はもう少しメッキ加工技術の歴史は古かったとしましょう。古代イスラエルを脱出する間際にメッキできた!でもいいかも知れません。その場合、旧約聖書の記述とズレますけど、まぁあらゆる書物は後から書き換えられますからね、どこぞの国の政治問題のように( ・Д・)

さて、ここで話は変わって、日本で「失われたアーク」が眠っているとされる徳島県の剣山は石灰岩質の山だそうです。石灰岩は雨水に弱いですから、溶けちゃうんですよね。そのため山の内部は鍾乳洞っぽくなっていて、あちこちに空洞が張り巡らされているようです。

この剣山の洞窟内部に「契約の箱」を安置したとしましょう。で、番組で言われていたように、入り口が崩れたか何かで場所が分からないとしましょう。

可能性① 石灰岩は脆いので崩れやすい。入口だけなら良いが、神の箱も潰れている可能性がある。押しつぶされて露出した母材である木材は腐敗し、いつこの崩落が起きたかは不明であるがざっと1000年の時の流れの中で木材は残らない。仮に金メッキが施されていた場合、雨水で流され離散し、地下水まで到達している可能性が高い。蓋やケルビムは純金製なので残るが潰れている。

可能性②a 入り口だけが崩落したため、空洞中にまだ「神の箱」が残っている。メッキ加工というのは母材を腐食から守る効果があるが、「大目に見ても」最も初期のメッキ加工技術にて製作されている。この場合、湿気が強く雨水の影響の強い鍾乳洞内で母材が腐敗する可能性は高い。腐敗した場合、可能性①と同様の結果となる。蓋やケルビムは純金製なので残る。

可能性②b 入り口だけが崩落したため、空洞中にまだ「神の箱」が残っている。日本における最古のメッキ加工の痕跡は1871年に仁徳天皇陵で副葬品として発見された甲冑である。仁徳天皇の時代(およそ西暦313-399)以降、剣山に埋納されるであろう西暦700~1000年くらい(?)の間により進んだメッキ加工技術によって、日本に持ち込まれた「神の箱」の金メッキが再施工された場合、もしかしたら箱が残ってるかも知れない。蓋やケルビムは純金製なので残る。

可能性③ そもそもメッキじゃなくて、金細工で覆われていた場合、潰れようが潰れまいが金製のパーツは残っている。しかし母材は腐敗しているため、原型を留めてはいない。埋納空間が保たれているならば、箱や担ぎ棒を覆う金製のパーツは完全に残っている。特に蓋の部分や装飾のケルビムは純金製なので残っているだろうし残っていたらその価値は計り知れない。


……どの状況でも、中身の石板はけっこう危うい感じがしますね。石板が何の石材で作られているのか分かりませんしね。まぁ可能性③のような場合は良いとして、それ以外の場合は、全てが残存する可能性は低いですから、「ケルビムといった分かり易い部位」+「石板(の破片)」くらいのセット関係で発見されると物的証拠としては十分でしょう。

ちなみに、十戒を託されたモーセは、自分の帰りを待てず偶像崇拝に走った人々を見て、怒り狂い、授かった石板を叩き割ります。

このあと、モーセは再び十戒の石板を託されて、「契約の箱」に納めるわけですが……

やぱ、なんでウザ殺した!?モーセは?モーセはいいの?

確かにモーセは神の約束を破ってはいない。が、託された石板を直後に激情に任せて叩き割ったんだよ?体張って「契約の箱」守ろうとしたウザは打ち殺したのに!

これが世の不条理というものだよ( ・Д・) ……まぁ(数千年前に)終わったことを嘆いても仕方ない。きっとウザは死ぬほどウザかったのでしょう( -д-)ノ


5.おわりに
番組見てると、剣山でミイラが100体も見つかったとかも述べているけども、そんなに大量のミイラを作る風習は古代日本にも古代イスラエルにもないのではないのかなと思います。そして剣山の中って鍾乳洞なんだから、湿気強くてミイラ持ち込んでも腐敗すると思うんだけどな~なんて思ったり( ・Д・)

まぁ今回は、「適度に」現実的に考えつつも、「しっかり夢は残しておく」というスタンスでまとめましたが、いかがでしたでしょうか。このテーマの真偽はどうあれ、こういった浪漫溢れるテーマに私達は古くから魅了されてきました。

正直、私としては「契約の箱」が発見される場所が日本でなくても構いません。聖杯にせよ、今回の「聖櫃」にせよ、21世紀最大の発見!なんて言われるような発見を一考古学・歴史学ファンとして期待しております( -д-)ノ

・・・・・・・・・・・・

実は今回の記事はTwitterフォロワーさんからのコメントから派生したものになります。なかなかコメントなんて頂かないので(怪しげなDMばかり( -д-)ノ)、テンション上がりました!.。゚+.(・∀・)゚+.゚

考古学・歴史に限定して、皆さんに喜んでもらえる記事を探し続けるのはけっこう大変なものでして、こうして実際のコメントを通して記事のアイディアに繋がったことはすごい良いことだなぁと感じております。

今後とも頑張りますのでよろしくお願いいたします。「歩け、マヤ」の更新頻度は皆さんの応援にかかっています!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

最後に、今回の記事のきっかけを与えて頂いた「愛香さん」に末筆ながら感謝申し上げる次第です(*_ _)ペコリ

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↓…顔が少しソース系になるかも。なるなら、私は猛烈連打!!!( ・Д・)↓

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2018ねん 5がつ 19にち(きんよーび、雨)

仕事で論文や書類といった様々な文章を書くことに疲れている。

そこで息抜きにブログを書いている。

新たな趣味で考古学ミステリー小説を書いている。

もはや病気である( ・Д・)

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↑超能力で古代文字を読み取っていそうなイメージ( -д-)ノ(「恋愛と人間関係」さんより転載)

【目次】
  1. 心霊考古学とは何か?
  2. 前世の記憶をもつエジプト考古学者のお話
  3. おわりに -サイコメトリーと考古学-

1.心霊考古学とは何か?
世の中には「~考古学」というのがありふれてます。この「なんちゃら」の部分に様々な単語が入って、学術的に使われてるものもあればそうでないものもあります。そして学術的な名称として使われていたとしても、その「なんちゃら」が何を示すかという点についてはある種の約束事は定められていません。

例えば、近現代の戦争の痕跡を扱った「戦跡考古学」だと研究対象を示しています。マヤ考古学も研究対象を示していますが、この場合は地域と時間も限定しています。主に難破船等を対象とする「水中考古学」はフィールドが水の中であることを示しているでしょう。

「実験考古学」であれば、研究の手法のことを指してますし、「認知考古学」は研究のテーマを指し、心理学を手法として古代人の認知・認識の側面から精神世界を明らかにする領域でしょうか。

では「心霊考古学」とは?これは日本では馴染みが薄いと思います。簡単に言うと超能力によって過去を知る考古学(?)です。

まぁ念力(サイコキネシス)とか使えても、過去は明らかにならないので、多くの場合はサイコメトリーが使えることが条件になります。

サイコメトリーは一時期日本のドラマでも使われていましたが、物体に残る残留思念を読み取る能力のことです。ちなみにこのサイコメトリーという言葉はアメリカ人神霊研究家のジョセフ・ローズ・ブキャナン(1814 - 1899)が提唱した用語だそうです。

専門とするメソアメリカ関係で言えば、考古学者クラレンス・ワイアントがオルメカ文明(かつてマヤ文明の祖と言われていた)の重要な遺跡トレス・サポテスを発見した後に、人類学会の年次総会で「この発見はある超能力者の援助がなければできなかっただろう」と述べているそうです。

トレス・サポテスはオルメカ終末期の重要遺跡ですから、そんなこと言わなければ普通に大発見だと思うんですけどね。私、ちなみにこのワイアントさんの名前をメソアメリカ関係の本で見たことがないです。今度からオルメカ文明に関係しそうな論文等を読む時は気を付けようと思いますけど、これが原因で弾かれてる(二重の意味で)かも知れませんね(学会怖いヽ(TдT)ノ)。

以下、wikiより引用して事例を紹介します。専門外過ぎて、書き足すことないので( -д-)ノ

ステファン・オソヴィエツキーによるサイコメトリー

 ポーランド人であるステファン・オソヴィエツキーは、発掘された考古学品の過去を見通す能力があることで知られていた。1935年、ポーランドの民俗学者であるスタニスラフ・ポニアトスキーは世界中の遺跡から集めた火打石や石器などを使ってオソヴィエツキーの能力の実験を行った。それらの石類は外見からは正体がわからず、まだオソヴィエツキー自身の目に触れられないよう細心の注意が払われていた。実験が行われた結果、オソヴィエツキーは石器類の使用されていた年代、発見された場所やそれを生み出した文化などを次々と正確に描写した。オソヴィエツキーの描写がポニアトスキーの情報と食い違う時が幾度かあったが、後にポニアトスキーの情報に誤りがあった事が判明した。

 

 紀元前15000年から紀元前10000年前の間にフランスで栄えたマグダレニアン人の石器を手にしたオソヴィエツキーは「マグダレニアン人の女性はとても手の込んだ髪型をしている」と描写した。これは当時の通説からは離れた見解だったが、後にマグダレニアン人の女性の彫像が発見されるに及んで、正しい見方であった事が実証された。この例のように、当初誤っていると判断されたオソヴィエツキーの描写が、後に正しいと判明した事例は100を超える。オソヴィエツキーは石器時代の人々は油のランプを使っていたと発言したが、後にフランスのブルゴーニュ地域圏で彼が描写した通りの形と大きさのランプが発掘された。またオソヴィエツキーは石器時代の人々の、住居形態や埋葬習慣、狩猟対象の動物などの詳細な絵を描いたが、それらは後に考古学上の発見で正しいと立証された。

ジョージ・マクマレンによるサイコメトリー

 カナダ考古学会の副会長であったノーマン・エマーソンは、サイコメトリーを通した考古学研究の可能性について言及している。エマーソンは当初懐疑的であったが、ジョージ・マクマレンという名のトラック運転手の能力を研究した結果、肯定的な見方に転回した。マクマレンは物や遺跡を眺めるだけでそれらの過去を言い当てることが出来たとされている。マクマレンは何もない大地の上を歩き、そこがイロクォイ族の共同生活があった場所だと発言したが、6か月後の発掘によりそれが事実であることが判明した。エマーソンは1973年の年次学会の席上で「考古学調査において、超能力者の使用を広げていくことは最優先事項」だと述べている。

ヘルマン・ヒルプレヒトの「夢」

1892年3月、ペンシルヴァニア大学の教授ヘルマン・ヒルプレヒトはバビロニアの古代都市ニップルから出土した刻文の写しをチェックしていた。一向に解釈できない刻文を前にヒルプレヒトは疲労し、眠りに落ちた。そして「驚くべき夢」を見た。

夢の中ではバビロニアの長衣をまとった神官が訪れ、ヘルプレヒトをニップルのベル神殿の宝物庫に案内した。神殿の床には瑪瑙が散らばっていた。神官は「あなたが22ページと26ページに別々に掲載した断片は本来一つの物だ」と語りその由来を説明し始めた。それによればクリガルズ王による勅命に従い、ニニブ神像の耳飾りを創るために、円筒を3つに切り分け、それぞれが元の文の一部を含む3つのリングに分割した。うち2つはヒルプレヒトが持つリングで、最後の1対はまだ見つかっていない、という。

夢から覚めたヒルプレヒトは、ニップルの刻文をもう一度調べ直した。すると2つのリングに刻み込まれた文字が1つに繋がることに気付いた。文字は以下のように解読できた。「主であるベルの息子ニニブ神に、ベルの大神官たるクリガルズがこれを奉納した。」

その後にヒルプレヒトがこの夢について同僚に話した際、イスタンブールの博物館にある2つの瑪瑙のリングの色が何故か互いに異なっている、という話を聞かされた。イスタンブールに旅したヒルプレヒトは、博物館の2つのリングを重ね合わせ、元が同じ円筒であった事を確認した。ヒルプレヒトは「夢」を見たことで数百マイル離れたところにあり現物を見たこともない出土品を結びつけることが出来た。

とまぁこんな感じです。話は変わりますが、最近本当にwikiってすごいなぁと感心します。大体のこと調べたら分かりますものね。参考文献も乗ってるし、いい時代になったなぁとしみじみ感じます・゚・(ノД`;)・゚・


2.前世の記憶をもつエジプト考古学者のお話
オカルト的な内容って外国では大好きな人が多いと感じているのは私だけでしょうか。どうやら古代エジプトに限ったことではことではなくて、前世の記憶があると主張する人は多いようです。しかも何故か一般人じゃないんですよね。

だいたいどこかの古代文明の王であったとか王妃であったと主張しております。まぁそういった特殊な方々は霊的な何かも強いのでしょう!

今回のお話するのは、イギリス人考古学者の故ドロシー・イーディーです。

さて、ドロシーは4歳の頃、家族と共に大英博物館を訪れ、エジプト展のガラスケースに入ったミイラの側から離れなくなり「この人達は私の仲間なのよ」と言い張ったそうです(上写真の年齢で言われるとなんだか納得してしまいそうですと思ったのは秘密です( -д-)ノ)。

ドロシーは27歳の時にエジプト人教員と恋に落ち、エジプト移住を果たします。エジプトに着くなり、結婚を宣言したそうなので、エジプトが目当てだったように思えるのは私だけでしょうか。

そうして初めてエジプトに足を踏み入れた彼女は、ひざまずいて地面にキスをして「ただいま帰りました」と二度とこの地を離れないことを誓ったそうです。


その後、ドロシーは男の子を出産。そして我が子にファラオの名である「Sety(セティ)」と名付けた彼女は、これをエジプトで「母親」を意味する「Omm(オンム)」と組み合わせて「Omm Sety(オンム・セティ)」、つまり「セティの母」と名乗るようになります。


彼女の記憶によれば、前世の彼女は古代エジプト第19王朝ファラオ、セティ1世の愛人だったそうです。そのためセティ1世の神殿の庭の位置を言い当てることができたそうです。発掘作業員がオンム・セティの指示に従い神殿周囲を発掘してみると、切り株が多数見つかったそうです。またオンム・セティは神殿の北側で地中に走るトンネルがあると断言し、実際にこれを発見したとのこと。


ちょっと状況がよく分かりませんけど、セティ1世の神殿って分かってるくらいにその神殿は地上に露出していたのだと思います。だったら庭の位置くらい予想できそうですけどね。トンネルの例は不思議ですけど、当時掘られたトンネルならば何のためのトンネルなんでしょうね。


まぁ私は非常に懐疑的ですけども、発見に繋がっているようなのでいいでしょう!ふと思うに、これを認めると、輪廻転生を認めることになって、遥かに大きな問題になるような気がしますね( ・Д・)



3.おわりに -サイコメトリーと考古学-
ドロシーの事例は特殊ですけども、心霊考古学で主に話題に上るサイコメトリーとは物体に残る残留思念を読み取る能力なわけです。他方で考古学もモノから過去を復元する研究分野なわけです。

学生の頃、モノとしっかり対話しなさいと言われたことを思い出します(一方で初めてマヤの地を踏み、土器洗い中に観察に没頭していた私は、とある教授に土器なんて見てないで現地の人と話しなさいと怒られたことがあります)。

現代社会はモノに溢れているとよく言われますが、普通はなかなか身の回りのモノを注視する機会ってあまりないように思います。

良かったら、身の回りにあるモノを取ってじっと見つめてみてください。素材とか造り、摩耗・傷・汚れ、製作上の痕跡などなど色々目に付くものです。そして全てのモノには歴史があります。原点を辿るもよし、個人的な思い出を回想するもよしです。

私たち常人にはサイコメトリーは使えないけれど、きっとモノとの対話はできるはずです(。・ω・)ノ゙

↓念力で押しても構いませんよ( -д-)ノうぉ~~~~!!!↓

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