早速さぼったよ!明日年内最後の調査終わるから暫し待たれよ!( ・Д・)
↑たまごは旨いよね(・∀・)つ(「温泉部」の記事内画像より転載)
おわりに
「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙
私的には「七つの大罪」に出てくるオスロ―に見えるんですけども……
めっちゃ似てません!??( ・Д・)
さて、話を戻しますと、
この厚い毛皮に覆われたオオカミの頭部は発掘調査ではなく、地元住民が発見したものです。
詳細な場所はシベリア地方ヤクチアに流れるチレフチャフ川の土手だそうです。
頭部の長さは41.5cmで、写真からも分かるようにとても良い保存状態で脳や軟部組織、力強い歯もそろっています。
これまでに見つかっているオオカミは子どもばかりで今回のような発見は初めての貴重な事例だそうです。
京都に所在する国際日本文化研究センター(通称「日文研」)が所蔵する絵巻資料を電子漫画にして無料で配信する取り組みを始めました。
古典の絵巻物を漫画形式への翻訳しており、その辺に全く疎い私でも古典に触れて楽しむことができました!v( ̄∇ ̄)v
マンガ形式ということでコマ分けされていますが、図像は原本からの抜き出しに徹しているそうです。
この日文研のマンガ絵巻を配信しているのはKADOKAWAの無料漫画総合サイト「Comic Walker」です。
「まんが訳 酒天童子繪巻」の原本は全3巻からなり、電子マンガ版では1話あたり十数ページ立ての全6話構成に組み直されています。
画面上に現れる1ページずつを右へスクロールして読み進めていく形です。
酒天童子繪巻の原本は絵画のみだそうですが、日文研が所蔵する異本の酒呑童子絵巻には詞書(ことばがき)があるそうです。
この詞書を基に現代語のセリフの吹き出しやナレーションを作成したそうです。
↑マンガ訳の絵巻物の検索結果(「Comic Walker」の検索結果ページ)
↑まんが訳 道成寺縁起中の1頁(「Comic Walker」の「道成寺縁起」より一部加工)
これはドイツの湾口都市、キールでのお話です。漁師のコンラッド・フィッシャーさんが漁をしていると、網にボトルがかかりました。
瓶の中にはポストカードが入っており、差出人はリチャード・プラッツと記されていました。内容は「これを見つけた人はベルリンの自宅の住所に届けてほしい」、でした。
ドイツ帝国の切手が2枚貼られたデンマークのポストカードの日付は1913年5月17日で、発見当時は100年前の最古のボトルメールとしてギネス記録になりました。
差出人のリチャード・プラッツプラッツさんは、当時20歳であり、バルト海沿岸を自然調査グループとハイキング中にカードが入った瓶を海に投げ込んだようです。
彼の家系図を調べた結果、孫娘に当たる62歳のアンジェラさんの連絡先が突き止められました。1946年に亡くなった祖父に会ったことがなかったアンジェラさんは、ボトルメールについて知らされた後、家族の古いスクラップブックを見返して涙したそうです(ノд・。) グスン
アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。
箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。
次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。
一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。
わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。
(出エジプト記 25:10-22)
ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、主の箱のみならず臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った。祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。(列王記上歴 8:1-9)
「彼らはアビダナブの家から、神の箱を新しい車に載せ、ウザとアフヨがその車を御した。ダビデとすべてのイスラエル人は、神の御前で力を込めて、歌をうたい、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でた。一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を抑えようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。彼はその場で、神の御前で死んだ。ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。」(歴代誌上13:7〜11)
・牛車を使ってはならない。肩に担いで運ばなければならない。・神の箱はレビ族のケハトの家系に属する者のみが運搬が許される。
・手を触れないように、担ぎ棒を差し入れて運ばなければならない。(参考:民数記4:6,15)
アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。(出エジプト記 25:10-22)
ステファン・オソヴィエツキーによるサイコメトリー
ポーランド人であるステファン・オソヴィエツキーは、発掘された考古学品の過去を見通す能力があることで知られていた。1935年、ポーランドの民俗学者であるスタニスラフ・ポニアトスキーは世界中の遺跡から集めた火打石や石器などを使ってオソヴィエツキーの能力の実験を行った。それらの石類は外見からは正体がわからず、まだオソヴィエツキー自身の目に触れられないよう細心の注意が払われていた。実験が行われた結果、オソヴィエツキーは石器類の使用されていた年代、発見された場所やそれを生み出した文化などを次々と正確に描写した。オソヴィエツキーの描写がポニアトスキーの情報と食い違う時が幾度かあったが、後にポニアトスキーの情報に誤りがあった事が判明した。
紀元前15000年から紀元前10000年前の間にフランスで栄えたマグダレニアン人の石器を手にしたオソヴィエツキーは「マグダレニアン人の女性はとても手の込んだ髪型をしている」と描写した。これは当時の通説からは離れた見解だったが、後にマグダレニアン人の女性の彫像が発見されるに及んで、正しい見方であった事が実証された。この例のように、当初誤っていると判断されたオソヴィエツキーの描写が、後に正しいと判明した事例は100を超える。オソヴィエツキーは石器時代の人々は油のランプを使っていたと発言したが、後にフランスのブルゴーニュ地域圏で彼が描写した通りの形と大きさのランプが発掘された。またオソヴィエツキーは石器時代の人々の、住居形態や埋葬習慣、狩猟対象の動物などの詳細な絵を描いたが、それらは後に考古学上の発見で正しいと立証された。
ジョージ・マクマレンによるサイコメトリー
カナダ考古学会の副会長であったノーマン・エマーソンは、サイコメトリーを通した考古学研究の可能性について言及している。エマーソンは当初懐疑的であったが、ジョージ・マクマレンという名のトラック運転手の能力を研究した結果、肯定的な見方に転回した。マクマレンは物や遺跡を眺めるだけでそれらの過去を言い当てることが出来たとされている。マクマレンは何もない大地の上を歩き、そこがイロクォイ族の共同生活があった場所だと発言したが、6か月後の発掘によりそれが事実であることが判明した。エマーソンは1973年の年次学会の席上で「考古学調査において、超能力者の使用を広げていくことは最優先事項」だと述べている。
ヘルマン・ヒルプレヒトの「夢」
1892年3月、ペンシルヴァニア大学の教授ヘルマン・ヒルプレヒトはバビロニアの古代都市ニップルから出土した刻文の写しをチェックしていた。一向に解釈できない刻文を前にヒルプレヒトは疲労し、眠りに落ちた。そして「驚くべき夢」を見た。
夢の中ではバビロニアの長衣をまとった神官が訪れ、ヘルプレヒトをニップルのベル神殿の宝物庫に案内した。神殿の床には瑪瑙が散らばっていた。神官は「あなたが22ページと26ページに別々に掲載した断片は本来一つの物だ」と語りその由来を説明し始めた。それによればクリガルズ王による勅命に従い、ニニブ神像の耳飾りを創るために、円筒を3つに切り分け、それぞれが元の文の一部を含む3つのリングに分割した。うち2つはヒルプレヒトが持つリングで、最後の1対はまだ見つかっていない、という。
夢から覚めたヒルプレヒトは、ニップルの刻文をもう一度調べ直した。すると2つのリングに刻み込まれた文字が1つに繋がることに気付いた。文字は以下のように解読できた。「主であるベルの息子ニニブ神に、ベルの大神官たるクリガルズがこれを奉納した。」
その後にヒルプレヒトがこの夢について同僚に話した際、イスタンブールの博物館にある2つの瑪瑙のリングの色が何故か互いに異なっている、という話を聞かされた。イスタンブールに旅したヒルプレヒトは、博物館の2つのリングを重ね合わせ、元が同じ円筒であった事を確認した。ヒルプレヒトは「夢」を見たことで数百マイル離れたところにあり現物を見たこともない出土品を結びつけることが出来た。
そうして初めてエジプトに足を踏み入れた彼女は、ひざまずいて地面にキスをして「ただいま帰りました」と二度とこの地を離れないことを誓ったそうです。
その後、ドロシーは男の子を出産。そして我が子にファラオの名である「Sety(セティ)」と名付けた彼女は、これをエジプトで「母親」を意味する「Omm(オンム)」と組み合わせて「Omm Sety(オンム・セティ)」、つまり「セティの母」と名乗るようになります。
彼女の記憶によれば、前世の彼女は古代エジプト第19王朝ファラオ、セティ1世の愛人だったそうです。そのためセティ1世の神殿の庭の位置を言い当てることができたそうです。発掘作業員がオンム・セティの指示に従い神殿周囲を発掘してみると、切り株が多数見つかったそうです。またオンム・セティは神殿の北側で地中に走るトンネルがあると断言し、実際にこれを発見したとのこと。
ちょっと状況がよく分かりませんけど、セティ1世の神殿って分かってるくらいにその神殿は地上に露出していたのだと思います。だったら庭の位置くらい予想できそうですけどね。トンネルの例は不思議ですけど、当時掘られたトンネルならば何のためのトンネルなんでしょうね。
まぁ私は非常に懐疑的ですけども、発見に繋がっているようなのでいいでしょう!ふと思うに、これを認めると、輪廻転生を認めることになって、遥かに大きな問題になるような気がしますね( ・Д・)