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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

カテゴリ: 調査速報

2022ねん 10がつ 9にち(すいよーび、くもり/雨)

予定組んだ12月末まで埋まった( -д-)ノ

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↑現場はこんな感じ( ・Д・)(筆者撮影)


今回の考古学・歴史ニュースは2022年調査の内容紹介するよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はグアテマラ、ペテン県のティカル遺跡です。

あくまで「調査内容の紹介」であって成果紹介ではないのは論文発表の関係があるからです。

なので、簡単になら紹介してもいいかな~っていうものについては今回紹介していきますね。

とりあえず私が実施している研究の概要と、これまでの調査報告としてあげていた記事を載せておきます。











小さなマウンドの調査の結果について

今回紹介するのは小さなマウンド群を掘った時のお話です。

2022年の調査では大きいマウンド群も掘っていますが、それはまた次回にお話します。

ちなみにマヤ地域で言うのところの「マウンド」とは昔の建造物が崩れて風化・浸食を受けた結果、土饅頭のようになっている状態のものを言います。

「小さな古墳」だと思えばイメージは大体合ってます。

他の地域だと指す内容が異なるのであくまでこれはマヤ地域でのお話です。




ちなみに最初に挙げた写真のところが現場なのですが、真っ平でマウンドが分からない状態になっています。

これはこの地点にかつて存在した建造物がとても小さく、また遺構として残りにくい木材などの有機物製の建物であったからです。

なのでマウンドってどんなものかを視覚的に理解してもらうには、大きなマウンド群について話す次回の記事の方が良いと思います。



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↑Str.4F-26、27の傍にある大きな穴(筆者撮影)


ティカル遺跡の中心部(9㎢)には約2400基のマウンドが確認されています。

これらのマウンドにはそれぞれ名前が付いていて、建造物(Structure)の略称としてStr.が付いています。

今回紹介する小さなマウンド群はStr.4F-26と27です。

4Fというのは測量図の図面番号のようなもので、26、27というのはその4Fというエリアの中での26番目、27番目の建造物マウンドであるという意味です。




このマウンド群の地点はあまりに平らでマウンドとしての土の高まりを確認することが困難でしたが。すぐ近くに現代遺構である大きな掘削痕があるために位置を特定することができました。

ちなみにこの大きな穴は、1950~60年代のアメリカ、ペンシルベニア大学の調査が実施される際に滑走路を造るために掘ったものです。

この大穴から取り出した土や石灰をばら撒いて滑走路予定地を平らにならしたのです。

最後に紹介するYouTube動画でも説明で出てきますが、この滑走路の一部は現在、駐車場として利用されています。




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↑堀り始めの状況(筆者撮影)

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↑手帚がなかったので自作(筆者撮影)

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↑地表面のすぐ下から当時の石列が出てくる(筆者撮影)


ラテンあるあるですが、面会の約束とかしててもすっぽかされるんですよね。

そんなこんなで時間を無駄に取られて調査用の備品を一部購入できないままスタートしました。

まぁお手製の杭とか箒を自作して使ってますが、こんな風景もラテン考古あるあるかなと思います。

水糸だけは日本から運んでいて、それできっちり計測して実施しているので問題はほとんどありません。

まぁ見栄えが悪いってことくらいでしょうかねヽ(TдT)ノ




上の三枚目の写真で掘った範囲の内側の壁に小さな切り石が見えます(とても分かりにくいと思うけれど)。

壁のほとんどが切り石だと思っていいです。

問題は切り石が現地表面から僅か数センチの位置にあるってことです。




亜熱帯ジャングルの中にあるティカルでは、微生物の活動がとても活発なので所謂腐植土が発達しません。

全部あっと言う間に分解されてしまいます。

なのでほぼ「現地表面=旧地表面」です。

つまりティカルを散策するとほぼほぼ古代マヤ人が歩いていた台地上を歩いているということになるってことです。



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↑母岩の石灰岩(筆者撮影)

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↑石灰岩層直上に土器片を発見(筆者撮影)



Str.4F-26と27は小さなマウンドなので、かつては木製の小さな家だったと思われます。

きっと農民のような一般層の人が暮らしていたのでしょう。




調査区を掘り進めるとあっという間に母岩である石灰岩層に到達してしまいます。

古代マヤの建築法として有名な「重層建築」はここでは見られません。

重層建築は”お金持ちの家”にしか見られないものだということが分かります。




家の中の床面も漆喰で覆われていません。

土の表面を平らにして硬く押し固めたような床面しか見られませんでした。

使用している石灰岩の切り石も小さく、加工が甘いものです。




現代で言うならばお金持ちが鉄筋コンクリート製のマンションに住んでいる一方で、低所得層は木造アパートに住んでいるようなものです。

そう考えると技術的な違いを除けば、古代マヤも現代日本社会も根本的には類似してるなぁと思います(*^・ェ・)ノ




……ちなみに、石灰岩層上面から土器が1点出土しました。

近い内、YouTube動画の「考古学講座」で取り扱おうかと思っていますが、、、

これは古代マヤ人が建物を建造する際に最初に石灰岩を露出するレベルまで掘って広場の広がりを確定させたことによるものです。



↓今年の調査の記録をアップしていますヾ(´ω`=´ω`)ノ

↑今後も毎週5本くらいずつ投稿していきます(*・ω・)ノ


おわりに

かつての調査動画も今回の動画もそれぞれ1本の動画あるいはまとめて1本の動画としてちゃんと作りたいのですが、時間がねぇ……

論文とか大学の仕事だけで11月末まで予定埋まってるので、kindke出版用に本書いたり、報告書書いたりしたら12月末まで使っちゃうんですよね( -д-)ノ

燃料費高騰とか記録的円安の影響を受けて、今年の調査は小規模になる予定なので、1月~3月の中でもしかしたら時間を作ることができるかも知れません。



まぁしゃーなし、、、



いつも通りのんびりやるさ!( ・Д・)



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2020ねん 2がつ 13にち(もくよーび、晴れ)

日本時間で日記書いてると混乱してくるので、現地時間に変更したよ( -д-)ノ


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↑建造物4F-19、3層上面の様子(
柳田康雄氏提供
「歩け、マヤ」管理人、撮影)


今回の考古学・歴史ニュースは「2020年度ティカル遺跡発掘調査、第1週目の成果をまとめるよ」ってお話です(*・ω・)ノ

「歩け、マヤ」では既に何度か紹介したことがあると思いますが、マヤ文明で最も重要な遺跡の一つであるティカル遺跡で発掘調査を実施しています。

ティカル遺跡はグアテマラ共和国の北部、ペテン県フローレス市にあります。

ティカル遺跡は、ティカル国立公園として世界複合遺産に登録されており、世界中から大勢の観光客が訪れる著名な大遺跡の一つです(*・ω・)ノ




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↑ティカル遺跡中心部の図(Carr and Hazard 1961のTikal Mapを加工)


上の3番目の図に示したように、紫色の四角部分が2016年に調査したエリアになります。

今回の調査エリアは赤色の四角部分です。

これまでにい古代マヤの土器焼成址(窯)は発見されていないのですが、それと思しき遺構を2017年の資料調査の際に検出しました。

それが赤色四角部分のすぐ東になります。

この古代の窯と思しき遺構に最寄りの一般層住居を発掘し、窯と思しき遺構との関係性について明らかにし、当該エリアが土器工人集団の工房エリアと言えるかどうかをチェックすることが今回の調査の主要な目的となります(・∀・)つ

国内最古級となる弥生時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかり、市教育委員会が1日、発表した。この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭(わ)国(日本)が文字を用いて外交した裏づけとなる。

 出土したすずりは石製で、長さ6・0センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの破片。薄く裏面の粗い加工など中国・漢代の板石すずりと特徴が一致し、復元すると長さ10~17センチのほぼ長方形とみられる。弥生土器や朝鮮半島製の楽浪(らくろう)系土器が集積した「土器だまり」で見つかった。弥生時代のすずりは田和山遺跡松江市)に続き国内2例目。

 中国や朝鮮半島に近いこの一帯は日本列島と海外をつなぐ外交窓口だった。倭人伝は、伊都国には女王卑弥呼が派遣したともいわれる役人や海外からの使いがおり、文書類も点検したと記す。市教委は、すずりは倭人伝の記述を裏づけ贈答品の返礼書作成など外交文書のやりとりが行われていた、とみる。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「文字文化や外交文書行政の始まりを知る資料だ。先進文化は外交拠点のここに入り、国内に広がったのではないか。すずりの時期は(紀元前の)弥生中期にさかのぼる可能性もある」と話す。



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↑今回の調査エリアの拡大図(Carr and Hazard 1961の図を加工)


調査エリアの名称は『4F』です。

上に挙げた図がエリア4Fの拡大図になります。

「Op.~(オペレーション・ナンバー)」は窯と思しき遺構群の位置で、特にOp.14が重要な遺構になります。

このOp.14に近い住居として、青色の網掛け部分を調査対象にしています。

今回の調査対象である建造物グループは2つの建造物から成り、西側が建造物4F-19、北側が建造物4F-20になります。

調査第1週目はこの内の、『建造物4F-19』を対象に発掘を実施しました(*^・ェ・)ノ



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↑調査開始前の様子(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


調査開始前はこんな感じです。

ティカル国立公園で最も高級なホテルの裏手の従業員宿舎の更に裏に位置しています。

ホテルの拡大は禁止なのですが、実際には拡張しちゃってるので、いずれこの住居も無くなりそうですね( -д-)ノ



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↑石の列が見えます(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


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↑横から撮ってみました(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


地表面の土をどかしていくとすぐに石の列が出てきました。

2枚目の横から撮った写真が分かり易いのですが、一番左の一列は綺麗に直線的に並んでますよね。

それが住居の壁の一番下の切り石に当たります。

それより右にあるのは全て元々壁として上に積んであったもので、右側に倒壊した状態になっています(*^・ェ・)ノ



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↑倒れた壁をどかした状態(「歩け、マヤ」管理人、撮影)


一番下の礎石だけを残して、倒壊した壁を取り除きました。

そうすると上の写真のように一面真っ白になりました。

これが『床面』です。

漆喰でコーティングされているので白いのです。

これが最終居住面になり、出土した遺物から古典期後期(ac.CE500-800)から終末期(ac.CE800-1000)頃に使用されたものと考えられます


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↑(「歩け、マヤ」管理人、撮影)

どんどん掘っていくと2番目の床、3番目の床が出てきました。

上の写真の左側、壁の礎石の下側に階段状に、帯状に残してあるのがそれぞれの床面です。

第1週目ではこの先も掘り進めて、母岩である石灰岩層まで到達しています。


【簡単なまとめ】

第1週目の成果は、

① 3回の床面の張替えを行っていることが分かった。

② 建造物4F-19における居住時期は全体的に古典期後期(CE500-800)だと分かった。

以上の2点です。

遺物の分析が進めば、土器焼成址(窯)との関係も分かるかも知れませんが、残念ながらこれまでのところ分かり易い明瞭な土器生産の証拠は見つかっていませんヽ(TдT)ノ


↓動画もアップして解説してますので、ぽちっとチャンネル登録と共に是非視聴してみて下さい。











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一番下の動画、「くるくるシリーズ」は現地の人には大好評だったのですが、、、

実は『リコーシータV』がエラー起こして使えなくなりました。

よくあること(!?)らしく、問い合わせたところ、交換しないとダメらしいんですよねヽ(TдT)ノ

悲しいけど仕方ないので、また次の調査で「くるくるシリーズ」やりたいなと思いますヾ(´ω`=´ω`)ノ

ネット環境があまり良くないのでアップも難しいのですが、何とか頑張ります。

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