あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    イタリア

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    2026ねん 10がつ5にち(げつよーび、くもり)

    今週からまた色々とがんばるや~!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




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    ↑青銅って残り易くていいよね!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「イタリアのメッツァーノ湖の底から、保存状態の良い3000年以上前の青銅剣が発見された。同じ湖で見つかった剣はこれで三本目となり、神々へ捧げられたのか、燃えた湖畔集落から落ちたのか、その謎がさらに深まった!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ





    📰はじめに



    イタリア中部の小さな火山湖から、3000年以上前の剣が現れた。

    しかも、一本目ではない。

    二本目でもない。

    同じ湖から見つかった、三本目の剣である!( ・Д・)

    発見場所は、ラツィオ州北部のメッツァーノ湖。

    湖底には、紀元前1700年頃から1150年頃まで続いた杭上集落が眠っている。

    今回の剣は、ほとんど調査されていなかった南岸で見つかった。近くからは、割れていない土器、青銅の斧、そして髭剃りまで出土している。

    過去に見つかった二本の剣は、実戦用として十分に仕上げられていなかった可能性があり、神々へ捧げた品ではないかと考えられてきた。

    だが、この湖には火災で崩れた木造建築もある。

    剣は儀式のために沈められたのか。

    それとも、燃える床から落ちただけなのか。

    今回は、青銅器時代のイタリア、湖畔集落の暮らし、水中へ武器を捧げたヨーロッパの文化、1970年代から続く研究史、そして2026年9月28日に姿を現した三本目の剣まで、静かな湖が抱え込んだ謎を追いかける!


    🌋 直径800メートルの湖に、村が沈んでいる

    メッツァーノ湖は、ローマから北西へ100キロあまり離れたトゥーシャ地方にある。

    約40万年前の火山活動で生まれた、ほぼ円形の湖である。

    直径は約800メートル。面積は約0.47平方キロメートルしかない。

    ところが水深は30~40メートルに達する。

    この小さく深い湖の岸辺に、青銅器時代の人々は600年近く暮らした。

    現在の水面下には、住居を支えた木杭、床材、土器、石臼、動物骨、木製品、青銅器が残っている。

    湖は村を消したのではない。

    村の一部を、底へしまい込んだのである。


    🏘️ 「湖上都市」が、深い水の上に浮かんでいたわけではない

    この遺跡は、イタリア語で「パラフィッテ」と呼ばれる杭上集落である。

    名前だけ聞くと、水深30メートルの真ん中に巨大な桟橋を造ったように思える。

    しかし、そうとは限らない。

    木杭は現在、水深約2.5~10メートルの範囲で確認されている。

    集落が使われた長い期間に湖面は上下し、人々も岸辺に沿って住む場所を動かしたらしい。

    浅瀬や湿地へ杭を打ち、地面や木の床を安定させた建物もあっただろう。

    いま深い水の下にあるからといって、当時も同じ水深だったわけではないのだ。


    🌾 湖畔の人々は、農民であり職人だった

    出土した鎌や石臼は、穀物を刈り、挽いた暮らしを伝える。

    動物の骨は、狩りや家畜利用の手がかりになる。

    大小の壺、鉢、杯、貯蔵容器は、調理し、食べ、飲み物や食料を蓄えた日常そのものだ。

    衣服を留めるフィブラやピン、装身具もある。

    さらに青銅の鋳塊の破片が見つかった。

    完成品を外から受け取るだけでなく、湖畔で金属を溶かし、道具や飾りを作った可能性がある。

    剣だけが突然現れた場所ではない。

    食事も仕事も火災もあった、生活の現場なのである。





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    ↑綺麗に湖底に沈んでいる!( ・Д・)(「TusciaUp」の記事内画像より転載)


    🌍 それは、ローマ人にもエトルリア人にも早すぎる時代だった

    集落の年代は、およそ紀元前1700~1150年。

    今回の剣は、青銅器時代後期のうち「後期青銅器時代」と訳されることの多いブロンゾ・レチェンテ、広く紀元前13~12世紀頃の品とみられている。

    ローマの伝統的な建国年、紀元前753年より数百年も前である。

    この地方を、すぐに「古代エトルリアの村」と呼ぶのも早い。

    歴史時代のエトルリア都市が栄える前、イタリア半島ではスバペンニーノ文化からプロト・ヴィラノーヴァ文化へ移る時期だった。

    東地中海ではミケーネ宮殿社会が崩れ、各地の交易と権力構造が組み替わっていた。

    メッツァーノの人々がその混乱へ直接参加したとまでは言えない。

    だが彼らも、金属技術と物資の広い交流網から切り離されてはいなかった。


    🔥 青銅の剣は、落としても諦められる日用品ではない

    青銅は、主に銅と錫を混ぜた合金である。

    鉱石を集め、精錬し、配合し、型へ流し込み、冷えた刃を叩いて整えなければならない。

    刃先を鍛えて硬くし、研ぎ、柄を取り付ける。

    失敗すれば、気泡や割れが生じる。

    そして古代の金属は、溶かして再利用できた。

    壊れた道具でさえ回収する価値がある。

    まして一本の剣には、大量の材料と熟練した技術が必要だった。

    だから湖底の剣は、「うっかり落とした」で終わらないのである。


    🗡️ 「舌のある剣」は、木の柄を着せて完成した

    新しい剣は、「スパーダ・ア・リングア・ダ・プレーザ」と発表された。

    日本語にすれば、柄舌式、あるいは舌状茎式の剣である。

    刃と一体で鋳造された細長い部分が、柄の中心まで伸びている。

    その両側へ木や骨などの握り材を当て、鋲で固定した。

    有機質の柄は腐って失われやすい。

    そのため出土品では、青銅の刃と舌状部分だけが一本につながって見えることが多い。

    突くだけでなく、斬りつける動きにも対応した、後期青銅器時代の重要な武器形式だった。


    🧊 粘土は、青銅と木を3000年守った

    メッツァーノ湖の底は、厚い粘土に覆われている。

    遺物が水を含んだ泥へ密閉されると、酸素が届きにくくなる。

    木を分解する生物の活動や、金属表面の急速な変化も抑えられる。

    2025年には、光沢さえ残す鎌などが回収された。

    ただし、水中で安定していた遺物は、陸へ上げた瞬間から環境が変わる。

    乾燥、酸素、塩分、温度変化によって劣化が進む危険がある。

    今回も水中修復士が回収を担当し、青銅器はすぐに保護・強化処置へ回された。

    発見とは、引き上げて写真を撮れば終わりではないのだ。





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    ↑刃こぼれもせず凄い良い保存状態だね!( ・Д・)(「TusciaUp」の記事内画像より転載)


    🎣 研究は、釣り針に掛かった二つの壺から始まった

    地域公園の記録によると、1972年、湖を囲む土地の管理人フォルトゥナート・ソンノが釣りをしていた。

    魚の代わりに針へ掛かったのは、青銅器時代の小さな土器二点だった。

    翌1973年、南部エトルリア考古監督局による予備調査が始まった。

    湖底を調べると、土器だけではなかった。

    木杭が並び、保存状態の良い生活道具と青銅器が次々に現れた。

    静かな釣り場が、イタリア中部有数の水中先史遺跡へ変わった瞬間である。


    🤿 1990年代まで潜り、その後研究は長く途切れた

    調査は1970年代から1990年代まで、断続的に続いた。

    1996年には湖底の木杭を記録する調査も行われた。

    二本の青銅剣、槍先、斧、土器、装身具などが回収され、ヴァレンターノのトゥーシャ先史・ロッカ・ファルネーゼ博物館へ収蔵された。

    しかし水中発掘には、潜水設備、保存処理、測量技術、専門職が必要になる。

    湖全体を継続して調べるのは簡単ではない。

    長い中断の後、本格的な水中調査が再開されたのは2025年だった。


    🗺️ 2025年、湖底を丸ごと測り直した

    新調査では、湖盆全体の水深と地形を測る形態・水深測量が行われた。

    潜水調査では、視界の悪い冷たい水の中で、吸引装置を使って硬い粘土を少しずつ除いた。

    ローマの水中カラビニエリ部隊も、安全確保と調査支援に参加した。

    その結果、湖底から露出する木杭は600本を超えた。

    だが、位置を記録できた範囲は、知られている集落の約3分の1にすぎない。

    50年以上研究されてきた遺跡なのに、地図はまだ途中なのである。


    🌀 村は、湖面の変化に合わせて同心円状に動いた?

    杭は、現在の水深約10メートルから2.5メートルまで分布する。

    調査隊は、古い遺物ほど深い場所、新しい遺物ほど浅い岸寄りに現れる傾向を見ている。

    湖面の上下に合わせて、居住域が少しずつ移った可能性がある。

    その結果、湖底の遺跡は上下に積み重なるだけではない。

    湖の中心から岸へ、年代の違う帯が同心円のように広がっているらしい。

    ただし、斜面を転がった遺物や、後世に岸から流された物もある。

    深さだけを見て年代を決めることはできない。





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    ↑色々みつかってるぜ!( ・Д・)(「TusciaUp」の記事内画像より転載)


    🪓 斧、槍、鎌、太陽――青銅器が一か所へ集まった

    2025年の再開調査では、25点を超える青銅器が見つかった。

    翼状の斧、槍先、フィブラ、環、ピン、鎌などである。

    太陽を思わせる文様を刻んだ、穴のある青銅製の飾りもあった。

    多くは、溶岩の石が集まる場所から出土した。

    古い地滑りが、木杭と遺物を巻き込んだ可能性もある。

    青銅鋳塊の破片は、近くに金属工房があった可能性を示す。

    武器だけを集めた聖域なのか、職人の作業場が崩れたのか。

    この段階ですでに、二つの物語が競い始めていた。


    ⚔️ 最初の二本は、「戦えない剣」だったのか?

    以前に見つかった二本は、驚くほど良い状態で保存されていた。

    博物館の解説では、加熱と鍛打の工程が完了せず、実戦用に必要な硬さへ達していないとされる。

    そのため、初めから神へ捧げるために作った剣ではないかという説が生まれた。

    一方、この解釈には異論もある。

    2018年に刊行されたイタリア中部の青銅武器研究では、ヴィンチェンツォ・デロルコレが、硬さの不足だけで「偽物」とは言えないと反論した。

    硬すぎる刃は衝撃で折れるが、柔らかい刃なら曲がっても折れにくい。

    つまり金属組織の分析は重要でも、それだけで用途や儀礼を決定することはできない。

    一本の柔らかい剣が、実用品か奉納品かをめぐる論争まで残していたのである。


    🌊 ヨーロッパの川と湖は、なぜ武器を飲み込んだのか?

    青銅器時代のヨーロッパでは、川、湖、沼から剣や槍が繰り返し見つかる。

    イタリアでも、トラジメーノ湖、旧フチーノ湖、キアーナ川やペスカーラ川などに例がある。

    チェトーナの洞窟では、二本の剣を地面へ置き、切っ先を交差させた例も知られる。

    戦闘の落とし物だけでは説明しにくい配置や、わざと曲げ、壊した武器もある。

    そのため研究者は、武器を水へ返す奉納儀礼を考えてきた。

    水は生活を支える一方、人を沈め、向こう側を見せない。

    古代人にとって、岸は日常と別世界の境界だったのかもしれない。


    🛐 捧げ物なら、なぜ最も高価な剣を手放したのか?

    儀礼とは、不要品を捨てることではない。

    価値のある物を戻らない場所へ置くからこそ、行為の重みが生まれる。

    剣は材料と技術の塊であり、持ち主の戦士としての地位を示す物でもあった。

    勝利への感謝、誓い、死者の記念、共同体の境界、湖への祈り。

    考えられる意味はいくつもある。

    ただしメッツァーノには、その儀式を説明する文字がない。

    「湖の神へ捧げた」と具体的な物語を決めてしまえば、それは考古学ではなく想像になる。


    🔥 しかし、村は実際に燃えて崩れていた

    祭祀説に対する最大の注意点が、湖底集落そのものの存在である。

    調査では、焼けた木造構造と、熱を受けた青銅器が確認された。

    火災で床が抜ければ、家の中の道具は水へ落ちる。

    建物が倒れれば、剣、斧、食器、装身具が同じ場所へ集まる。

    さらに湖面の変化、岸の浸食、地滑りが、落下後の遺物を動かした。

    いま隣り合う品が、同じ日に置かれたとは限らない。

    水中遺跡では、「どこにあったか」だけでなく、「そこへどう移ったか」を解かなければならないのだ。


    🤿 2026年9月28日、南岸から三本目が現れた

    2026年9月28日、水中考古学チームは南岸の調査区へ入った。

    そこは、従来ほとんど調べられていなかった場所だった。

    粘土質の湖底で見つかったのが、保存状態のきわめて良い柄舌式青銅剣である。

    1970年代の調査開始以来、三本目だった。

    同じ区域からは、割れていない土器、青銅の斧、髭剃りも回収された。

    金属遺物は、おおむね共通する高さの帯から出ているという。

    剣一本のニュースではない。

    まとまりを持った堆積が、南岸にも続いていた発見なのである。


    🏺 三本目は、偶然を「型」に変えるのか?

    一本なら、持ち主が落としたのかもしれない。

    二本なら、同じ事故が重なったのかもしれない。

    三本になり、槍や斧まで加わると、意図的な選択を考えたくなる。

    しかも過去の剣には、用途をめぐる金属学的な議論がある。

    ただし、三という数字だけで祭祀は証明できない。

    大きな集落が600年近く続けば、三本の紛失は多いとも少ないとも言い切れない。

    重要なのは、剣と土器、木杭、焼土、深さ、堆積層の関係である。

    三本目は答えではなく、ようやく比較できる資料が一つ増えたのだ。


    🧪 新しい剣の刃は、これから何を語るのか?

    今回の剣が奉納品かどうかは、まだ発表されていない。

    合金の成分、鋳造後の鍛打、刃先の硬さ、研磨、修理、使用痕を調べる必要がある。

    刃こぼれや微細な変形があれば、実際に使われた可能性が高まる。

    工程が途中なら、未完成品、工房の在庫、あるいは儀礼専用品という複数の解釈が残る。

    周囲の粘土を層ごとに掘れば、一度の出来事か、長年の堆積かも見えてくる。

    剣そのものより、剣を包んでいた数センチの泥が、最後の証人になるかもしれない。


    🧩 湖底集落の3分の2は、まだ地図にない

    新調査が記録したのは、既知の集落範囲の約3分の1である。

    南岸の発見は、未調査区にも木造建築と遺物群が残ることを示した。

    これから木杭の樹種と年代を調べれば、建物がいつ建て替えられたか分かるかもしれない。

    土器と青銅器を深さの帯へ結び付ければ、湖面と村が動いた600年間を復元できる。

    そして剣が特定の岸、建物、時期へ集中するなら、祭祀説は強くなる。

    反対に火災層や工房跡と重なるなら、生活の中の事故が見えてくる。

    答えは、残る3分の2の湖底に眠っている。


    🌅 湖は、剣を隠したのか、それとも受け取ったのか?

    3000年以上前、誰かがこの剣を握った。

    あるいは、握るための最後の仕上げをしないまま、水辺へ運んだ。

    火に包まれた家から落ちたのかもしれない。

    人々が見守る中、祈りとともに沈められたのかもしれない。

    村は岸辺を移り、やがて消えた。

    木の柄も、持ち主の名前も、剣を水へ入れた理由も失われた。

    それでも粘土は、刃の形だけを守った。

    一本目と二本目では、奇妙な発見だった。

    三本目が現れたいま、湖そのものが遺跡の一部だった可能性が見え始めている。

    メッツァーノ湖は、村の道具を偶然ため込んだ場所だったのか。

    それとも人々が、最も大切な物を渡しに来る場所だったのか。

    その答えを知っているのは、まだ測られていない湖底と、三本目の剣に残る小さな傷だけなのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    マヤでは槍とナイフくらいしか出ないから剣いいな!( ・Д・)







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    2026ねん 8がつ14にち(きんよーび、晴れのち雨)

    今日は頑張るぜ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y950

    ↑マスターキートンで文明の数はたくさんあるって知ってるよなぁ!?( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「イタリア・サルデーニャ島で、森に覆われていたヌラーゲ文明の巨大な集団墓を発掘したら、入口近くの内部空間だけが異例の“二つの高さ”に造り分けられていて、しかも周囲には原始ヌラーゲ、聖なる井戸、集落、さらに文明以前のドルメンまでそろっていたぞ! この一つの墓から、ほとんど文字を残さなかった地中海の謎の文明が、死者をどう扱い、巨大石造建築をどう発達させたのか分かるかもしれない!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    「巨人の墓」が見つかった。

    そう聞くと、

    身長3メートルの人骨でも出たのか?

    と期待してしまう。

    残念ながら、巨人はいない!( ・Д・)

    「巨人の墓(Tombe dei Giganti)」とは、イタリア・サルデーニャ島の青銅器時代に造られた、巨大な石造集団墓を指す伝統的な呼び名である。

    何十人、場合によっては何百人もの死者を一つの長い墓室へ繰り返し葬った巨大な墓だったため、後世の住民が、

    「こんな巨大な墓なら、巨人が眠っていたに違いない」

    と考えたことから、この名前が定着した。

    実際には普通の人間の共同墓である。

    ところが2026年夏、サルデーニャ島中北部のボルティガリにあるCarrarzu Iddia(カッラルズ・イッディア)遺跡で、これまで知られていなかった新しい「巨人の墓」が姿を現した。

    密生した植物を取り除くと、粗面岩の巨石で築かれた長い埋葬室と、その入口前に半円形に広がる巨大な前庭――エクセドラが現れた。

    そして内部を調べた考古学者が首をかしげた。

    入口付近だけ、床面が一続きではない。

    内部空間が、二つの高さに分けられていたのである。

    典型的な「巨人の墓」ではめったに見られない構造だった。

    だが、この発見がおもしろい理由を理解するには、まず、

    そもそもヌラーゲ文明とは何なのか?

    から始めなければならない。

    日本では本当に知名度が低い。

    しかし地中海考古学で見ると、とんでもなく巨大な石造文明なのである。


    🏝️ そもそも「ヌラーゲ文明」とは何者なのか?

    サルデーニャ島は、イタリア半島の西、コルシカ島の南に浮かぶ地中海第2の大島である。

    現在はイタリア領だが、青銅器時代にはもちろん「イタリア」という国家は存在しない。

    この島で紀元前2千年紀に発達した独特の文化を、現在の考古学者はヌラーゲ文明(Nuragic civilization)と呼んでいる。サルデーニャ州の文化財行政では広い意味で紀元前1800年頃からローマによる征服期までをヌラーゲ時代として扱う一方、石造塔を中心とする典型的なヌラーゲ文化が本格化するのは紀元前1600年頃以降とされる。

    「ヌラーゲ人」という民族名が古代文書に書かれているわけではない。


    文明名の由来は、島じゅうに残る巨大石造建築、

    ヌラーゲ(nuraghe)

    である。

    つまり、

    エジプト文明→エジプト人の記録

    ローマ文明→ローマ人の記録

    のように当人たちの文字史料を大量に読める文明ではない。

    主要な情報源は、塔、集落、墓、井戸、青銅器、陶器などの考古資料なのである。

    そして、ここはかなり重要なのだが、ヌラーゲ文明を一つの巨大王国や統一帝国と考えてはいけない。

    島全体で似た建築、儀礼、物質文化を共有してはいるものの、それを一人の王が統治していた証拠はない。

    強い首長層や社会階層の存在を想定する研究がある一方、地域共同体同士が緩く結び付いた、中央権力を欠く社会だったとみる研究もある。

    つまり「文明」と呼んではいるが、その政治構造そのものが研究テーマなのである。





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    ↑どうよ?古墳時代の石室みたいだぜ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🏰 島に何千基も立つ「石の塔」――ヌラーゲ

    この文明を象徴する建物が、ものすごい。

    巨大な石をほとんどモルタルなしで積み上げ、円錐台状の塔を造る。

    内部には石を少しずつ内側へ張り出しながら積むことで、偽ドーム状のトロスを形成する。

    単独の塔もあれば、中央塔の周囲へ複数の塔と城壁を追加し、まるで石造城塞のようになった複雑なヌラーゲもある。

    島全体では完全な悉皆調査がないため数字には幅があるが、古典的ヌラーゲだけでも7000~1万基程度が存在すると推定されている。

    もっと古い段階には、いきなり巨大円塔が現れたわけではない。

    紀元前1800~1600年頃のボンナナーロ文化からヌラーゲ文明へ移る時期には、低く横長で、内部に細い通路を持つプロトヌラーゲ(原始ヌラーゲ、corridor nuraghe)が造られた。

    そこから建築技術が発達し、紀元前1600年頃以降、巨大な円形塔を持つ典型的ヌラーゲが増えていく。

    つまりヌラーゲは、突然空から降ってきた建築ではなく、サルデーニャ島で長く続いていた巨石建築の伝統から徐々に発達したのである。

    有名なのが島南部のスー・ヌラージ・ディ・バルーミニ。

    中央塔を複数の塔と城壁が取り囲み、さらに周囲には円形住居が密集する巨大複合遺跡で、1997年にユネスコ世界遺産へ登録された。

    ただしヌラーゲの用途は一つに決着していない。

    防御施設。

    首長の居館。

    食料や財の集積拠点。

    共同体の象徴。

    宗教施設。

    時代によって役割が変化した可能性もある。

    巨大建築なのに文字説明がないからこそ、考古学者は建築配置と遺物から社会を逆算しなければならないのである。


    ⚒️ 農牧民なのに巨大建築、青銅器、海上交易まであった

    ヌラーゲ文明の基盤は農耕と牧畜だった。

    しかし、それだけの孤立した島社会ではない。

    サルデーニャ島には銅や鉛などの鉱物資源があり、青銅器製作が盛んだった。

    小型の青銅人形、武器、船形模型、工具など、独特の金属製品が大量に残されている。

    そして島だから孤立していた、というイメージもかなり違う。

    サルデーニャ産黒曜石はヌラーゲ文明以前の新石器時代から地中海各地へ流通していたし、青銅器時代後半にはミケーネ世界、キプロス、東地中海の商人たちとの交流を示す資料が増える。

    紀元前9~8世紀頃になるとフェニキア人の拠点も沿岸部に成立した。

    つまりサルデーニャ島は、地中海世界の端ではなく、東西をつなぐ海上ネットワークの途中にあった。

    宗教建築も独特である。

    特に有名なのが、地下水へ向かって精密な石段を降りていく聖なる井戸(pozzo sacro)。

    整然と切られた石を積み、地下の泉や水を祭祀対象とした。

    ヌラーゲ、井戸神殿、集落、墓が一つの景観の中に組み合わされる例もあり、この文明では巨大建築が居住・政治・宗教・祖先祭祀を分離せず、地域社会全体を形作っていたらしい。

    そしてヌラーゲ時代後半になると、もう一つ強烈な遺物が登場する。

    モンテ・プラマの巨人像である。

    高さ2メートル前後の石像で、戦士、弓兵、盾を持つ人物などが表現されている。

    紀元前10~8世紀頃の墓域と結び付くと考えられ、およそ150基の個人墓と、多数の巨大石像の破片が発見されている。

    ただし注意。

    今回の「巨人の墓」と、

    モンテ・プラマの「巨人像」は、

    別物である。

    巨人墓の中に巨人像が入っているわけではないし、巨大人骨も出ていない。

    サルデーニャ考古学には「巨人」が二種類登場するので、ここが非常に紛らわしい!( ・Д・)


    ⚰️ 「巨人の墓」は、共同体そのものを葬った巨大墓だった

    典型的な「巨人の墓」は、上空から見ると非常に特徴的な形をしている。

    中央に細長い石室。

    その入口から左右へ、石壁が弧を描いて広がる。

    その形から、巨大な牛の頭や角にたとえられることもある。

    全長30メートル近くに達する例もあり、高さ4メートルを超えるものも知られる。

    もっとも重要なのが入口前のエクセドラである。

    ここは単なる玄関ではない。

    半円形の空間へ人々が集まり、死者や祖先に関する儀礼を行ったと考えられている。

    低いベンチ状施設や石造祭祀物が伴う例もあり、墓は死体を収納する倉庫ではなく、

    生者が死者と関係を結び直す場所

    でもあった。

    そして墓室には、一人の王だけを入れたのではない。

    何度も開けて、多数の遺体を追加していく。

    2003年段階の集成では、サルデーニャ島に約800基の「巨人の墓」が知られ、一つの墓に多数の個体が葬られた例も確認されている。

    ここにはヌラーゲ社会のおもしろい矛盾がある。

    巨大な塔を建てる。

    特殊な青銅器を持つ。

    社会的な階層差もあった可能性が高い。

    なのに墓では、少なくとも長い期間、

    多数の人間を一つの共同墓へ入れる。

    王だけを巨大な墓へ一人で葬るエジプトやミケーネとは違う。

    死後には個人よりも祖先集団や共同体への帰属を強調したのかもしれない。

    だから「巨人の墓」は、ヌラーゲ文明の社会構造を考えるうえでも非常に重要なのである。





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    ↑こんなんだったら発見とは言わない!ってくらい綺麗じゃない?( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    📚 ただの「謎の石塔」から文明へ――研究を変えた1950年代

    ヌラーゲ自体は昔から地上に見えていた。

    古代ギリシア・ローマ時代にも、サルデーニャ島の巨大石造建築は知られ、後世には神話的な建築家ダイダロスや英雄イオラオスと結び付けられることさえあった。

    しかし、現在の意味で「ヌラーゲ文明」という文化体系が本格的に組み立てられたのは20世紀である。

    大きな転機となったのが、考古学者ジョヴァンニ・リッリウによるスー・ヌラージ・ディ・バルーミニの発掘だった。

    1950年代、土に埋もれていた巨大石造複合遺跡を系統的に発掘し、塔、城壁、集落、時期変化を明らかにした。

    この研究によって、島じゅうに点在する巨大建築を単独の「謎の遺跡」として見るのではなく、一つの長期的な社会・文化システムとして研究する現代ヌラーゲ考古学が大きく発展した。

    その後、巨人墓、井戸神殿、青銅小像、集落、交易品、古代DNAなどが加わり、現在では「戦士王がヌラーゲから島を支配した」という単純なモデルだけでは説明できないことも分かってきた。

    地域ごとに強い共同体を持ちながら、島全体で建築様式や祭祀を共有する。

    統一国家ではないのに、驚くほど共通した物質文化が広がる。

    むしろ、その仕組みこそヌラーゲ文明最大の謎なのである。


    🌿 そして2026年、植物の下から新しい「巨人の墓」が現れた

    今回の舞台、カッラルズ・イッディア遺跡は、単独の墓地ではない。

    サルデーニャ島中北部、マコメール近郊のボルティガリにあり、Crastu Littu台地の南端付近から周囲の平野や谷を広く見渡せる場所に位置する。

    以前からこの一帯には、

    二基のプロトヌラーゲ。

    集落。

    聖なる井戸。

    広い墓域。

    さらにヌラーゲ文明以前のドルメン。

    が確認されていた。

    つまり同じ場所が、ヌラーゲ文明が成立する前から長期間にわたり、生活と祭祀と埋葬の場所として選ばれ続けていたのである。

    今回も最初から巨大墓を探していたわけではない。

    濃密な植生を取り除き、既知の遺跡周辺を整備していたところ、石造構造が姿を現した。

    掘り進めると、粗面岩のブロックを整然と積み上げた埋葬室と、入口前の巨大なエクセドラが確認された。

    ただし遺跡は過去に盗掘を受けており、内部の一部は攪乱されている。

    それでも陶器片が残っており、墓の利用時期を考える重要な資料になっている。

    そして、この墓はボルティガリで知られる「巨人の墓」として3基目。

    近年周辺では墓の発見が相次ぎ、この地域が従来考えられていた以上に巨大な先史時代景観だった可能性が見えてきている。





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    ↑外観!元々こんな感じ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🚪 谷を向いた入口――そして、問題の「二層構造」

    墓の造りもかなり丁寧である。

    壁には粗面岩を比較的規則正しく水平に積む技術が使われ、入口は左右の縦石に横長の石を載せる三石式、いわゆるトリリトン構造になっている。

    墓は谷を見下ろす方向へ向けて造られていた。

    典型的な古いタイプの「巨人の墓」では、入口中央に巨大な立石――湾曲した頂部を持つ中央ステーレが立つものがある。

    今回の墓では、現段階でその典型的な中央ステーレは確認されていない。

    一方、石を水平に積み重ねて壁を造る方式は、巨人墓の建築が時代とともに変化していく過程を考える重要な材料になる。

    そして問題の二層構造。

    ここは報道を少し慎重に読む必要がある。

    今回確認されたのは、

    墓全体が二階建てになっている

    という意味ではない。

    公式発表の表現は、

    「入口付近で内部空間が二つのレベルに分けられている」

    というものだ。

    つまり現代住宅の1階・2階のように、上下に二つの完全な墓室が重なっているとは、まだ発表されていない。

    それでも珍しい。

    典型的な「巨人の墓」は基本的に一つの細長い埋葬空間を持つため、入口付近だけ床面や空間構成を変える理由が分からない。

    死者を置く場所を区別したのか。

    遺骨と副葬品を分けたのか。

    埋葬儀礼の途中で使う空間だったのか。

    古い墓を後から改築した結果なのか。

    あるいは施工上の事情なのか。

    現段階では、どれも仮説にすぎない。

    だが、だからこそ重要なのである。


    🧩 二つの高さは、「墓をどう使ったか」を残しているかもしれない

    考古学では、奇妙な建物ほどおもしろい。

    定型から外れている部分には、

    「なぜ普通と違うことをしたのか?」

    という社会の選択が残っているからだ。

    特に集団墓では、一度遺体を置いて終わりとは限らない。

    新しい死者を追加する。

    古い骨を端へ寄せる。

    一部だけ取り出す。

    副葬品を入れる。

    入口を閉じる。

    再び開ける。

    何世代にもわたって墓が使われる。

    そうした行為の積み重ねによって、内部構造そのものが変化する場合がある。

    だから今回の二つの高さが、最初から設計されたものなのか、使用途中で改変されたものなのかが分かれば、

    ヌラーゲ人が死者をどんな順序で墓へ入れ、墓を何世代使い続けたのか

    まで復元できる可能性がある。

    さらに「巨人の墓」自体にも建築上の変化がある。

    より古い例には、巨大な板石を立て、その上へ別の石を載せるドルメン的な構造が多い。

    後になると、切り整えた石を水平に何段も積み上げ、長い壁と天井を造るタイプが増える。

    この変化は、単なる建築技術の上達ではない。

    墓を利用する人数。

    儀礼を行う規模。

    共同体の人口。

    祖先を記憶する方法。

    そうした社会の変化と結び付いていた可能性がある。

    Carrarzu Iddiaの二層構造は、その建築進化の途中に存在する特殊例なのかもしれない。

    だから研究者たちは、墓を一個増やしたこと以上に、

    ヌラーゲ墓制の変化をつなぐ資料になる可能性

    に注目しているのである。






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    ↑元々はちゃんと埋もれてるぜ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)



    🕰️ 「3800年前の墓」なのか? 年代はまだ少し慎重に

    海外や日本のニュースでは、今回の墓を「約3800年前」と紹介する例もある。

    「巨人の墓」という建築伝統自体の起源を、紀元前1800年頃までさかのぼらせる研究があるためだ。

    ただし、今回のカッラルズ・イッディア遺跡の墓そのものが紀元前1800年に造られた、と年代測定で確定したわけではない。

    現地報道では内部から出た陶器について、中期青銅器時代末に属するものと説明されている。

    サルデーニャの一般的な編年では、中期青銅器時代はおおむね紀元前1600~1300年頃。

    したがって現段階では、

    「ヌラーゲ文明初期から使用された可能性がある墓」

    程度に考える方が安全である。

    さらに、陶器の年代=建物の建設年とも限らない。

    墓を建ててから何世代も使ったなら、内部には後の陶器も入る。

    逆に周囲から古い資料が混入することもある。

    今後、詳細な層位記録、人骨が残っていれば放射性炭素年代、陶器型式などを組み合わせて初めて、建設と使用の時間幅が見えてくる。

    だからこそ今回の発見は、「3800年前の珍しい墓を発見して終わり」ではなく、これから年代を組み立てる研究材料なのである。


    🌍 同じ頃、地中海では宮殿文明が栄えていた

    カッラルズ・イッディア遺跡の墓が使われた可能性の高い紀元前2千年紀中頃。

    エーゲ海ではミケーネ文明の宮殿社会が成長し、クレタ島ではミノア文明の文化を受け継ぐ世界が展開していた。

    エジプトでは新王国時代。

    東地中海では銅や錫、象牙、ガラス、陶器などが船で移動し、王宮を結ぶ巨大な交易圏が形成されていた。

    サルデーニャも、この広い海上世界と無関係ではなかった。後の青銅器時代になるほど東地中海系の製品や交流の痕跡が増えていく。

    しかしヌラーゲ文明は、ミケーネ文明の地方版ではない。

    島では島の石材を使い、巨大塔を造り、共同墓を造り、水の聖域を造った。

    外部と交易しながらも、建築や葬送は極めてサルデーニャ的だった。

    ここが面白い。

    古代地中海は、

    「先進的な東から技術が伝わり、西の辺境が真似した」

    という単純な世界ではない。

    各地域が外来品や技術を取り込みながら、それぞれ異なる社会を作っていた。

    ヌラーゲ文明は、その代表例なのである。

    そして紀元前1200年前後、東地中海の多くの宮殿社会が崩壊する時代を迎えても、ヌラーゲ社会がそのまま消えたわけではない。

    新しいヌラーゲ塔の大規模建設は次第に終わる一方、既存の塔の周囲では集落が成長し、聖域や祭祀施設が発達する。

    後にはモンテ・プラマの巨大石像まで登場する。

    つまり、

    塔を建てなくなった=文明崩壊

    ではない。

    社会の中心が、巨大塔建設から別の活動へ移った可能性が高いのである。


    🏺 一つの墓ではなく、「何千年も選ばれた場所」が見つかった

    カッラルズ・イッディア遺跡で本当に重要なのは、二層の墓だけではないと思う。

    周囲を見てみる。

    文明成立以前のドルメンがある。

    その後、プロトヌラーゲが造られる。

    集落ができる。

    聖なる井戸が造られる。

    共同墓が並ぶ。

    そして今回、さらに新しい「巨人の墓」が見つかった。

    つまり人々は、

    「空いている土地だから、ここに墓を造った」

    のではないかもしれない。

    すでに昔の墓がある。

    昔の巨大石造物がある。

    祖先が住んだ場所がある。

    そこへ次の世代が、新しい建物を追加する。

    さらにその次の世代も同じ場所を使う。

    そうして数百年、あるいはそれ以上の時間をかけ、

    土地そのものが祖先の記憶を蓄積した巨大な文化景観

    になった可能性がある。

    そして、その中で「巨人の墓」のエクセドラに人々が集まり、共同体の死者を何度も葬った。

    入口付近だけ二つの高さに造られた今回の墓は、そうした長期間の使用と建築変化を記録しているのかもしれない。





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    ↑こんなに綺麗になりましたっ!( ・Д・)(「イタリア文化省」の記事内画像より転載)


    🪨 巨人ではなく、「共同体」が眠る墓

    数千年前。

    サルデーニャ島の谷を見下ろす丘に、人々が巨大な石を運んだ。

    一個。

    また一個。

    粗面岩を積む。

    左右に石壁を広げる。

    半円形の前庭を造る。

    中央へ入口を開ける。

    その奥に長い死者の部屋を造る。

    そして何らかの理由で、入口近くの床を同じ高さにはしなかった。

    二つのレベルを設けた。

    最初の死者が入る。

    次の死者が入る。

    何年か後、また墓が開く。

    骨が動かされる。

    新しい人間が加わる。

    前庭には生きている人々が集まる。

    死者は一人の英雄としてではなく、祖先の集団へ加わっていく。

    やがて墓は使われなくなる。

    植物が覆う。

    建物の意味が忘れられる。

    後世の人々は、その巨大さだけを見て考えた。

    「ここには巨人が眠っているのだろう」

    そして数千年後。

    植物を取り除いた考古学者が、入口を見つける。

    石室へ入る。

    すると床の高さが変わっている。

    たったそれだけの違いが、

    「この墓は、なぜ他と違うのか?」

    という新しい問いを生んだ。

    ヌラーゲ文明には、巨大な王の墓も、王名を書いた碑文も、征服戦争を記した年代記もほとんどない。

    だからこそ、

    石をどこに置いたか。

    墓をどう開けたか。

    死者をどこへ置いたか。

    何度建て替えたか。

    そんな小さな違いが、社会そのものを語る。

    今回発見されたのは、巨人の骨ではない。

    何世代もの普通の人間が、祖先と共同体をどう理解していたかを閉じ込めた巨大な石の記憶装置なのである。

    しかもその墓は、まだ掘り終わってすらいない。

    二層になった理由も、

    建設年代も、

    誰が葬られたのかも、

    まだ分からない。

    だからこそ、ここからがおもしろい。

    地中海の島に何千もの石塔を残しながら、自分たちの物語を文字では残さなかったヌラーゲ人。

    その失われた社会を読み解く次の一ページが、今、カッラルズ・イッディア遺跡の「巨人の墓」から開き始めたのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    巨人よりも、、、ミニチュアみたいな遺跡ないかな!?( ・Д・)








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    2026ねん 7がつ22にち(すいよーび、晴れ)

    今日明日は残業になるなという予測!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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    ↑考古学系の画像暗いのばかりになりがちだから、青は映えるぜ!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「世界的なパスタの町グラニャーノで工場を広げようとしたら、地下から85基の墓とエジプトのスカラベ、エトルリアの青銅器、布や木の籠まで残る約2500年前の墓地が現れて、ローマ以前の南イタリアが想像以上に国際的だったぞ!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに


    パスタ工場を広げる。

    工事の前に地面を調べる。

    墓が見つかる。

    一基ではない。

    二基でもない。

    発掘された面積は、およそ2000平方メートル。

    そして、最終的に確認された墓は85基――。

    しかも墓の中から出てきたのは、地元で作られた土器だけではなかった。

    エジプトのナイル川デルタにあった交易都市ナウクラティス由来のスカラベ。

    エトルリア系の青銅器。

    銀製品。

    動物を表した琥珀。

    人間の姿を彫った象牙製の垂飾。

    鉄剣。

    文字の刻まれた器。

    さらに、一部の石棺状の墓からは、本来ならとっくに腐ってなくなっているはずの布、木製品、植物繊維を編んだ籠まで残されていたのである。


    場所はイタリア南部、ナポリの南東にあるグラニャーノ。

    現在では世界的な「パスタの町」として知られる土地であり、発見場所の住所まで「ヴィア・デイ・パスタイ」――つまり「パスタ職人たちの通り」だった。

    パスタ工場の地下から古代墓地が出てきたというだけでも十分おもしろい。

    でも、あるけまや的に本当に大事なのは、そこではない。

    この墓地は、ローマ帝国の墓地ではない。

    ポンペイが西暦79年に火山灰へ埋まるより、600年以上も前。

    ローマが南イタリア全体を支配するよりも前。

    紀元前6世紀前半、ギリシア人、エトルリア人、エジプトや東地中海の品々が交差していた、もうひとつのカンパニア世界を記録した墓地なのである!( ・Д・)


    🏭 発見場所は、現在も稼働するパスタ工場だった

    墓地が見つかったのは、グラニャーノにあるパスティフィーチョ・ガロファロの工場敷地内である。

    同社が生産施設を拡張しようとしたため、本格的な工事に先立って予防考古学調査が行われた。

    調査はナポリ都市圏考古学・美術・景観監督局の科学的指導を受け、現地作業を考古学調査会社Geomedが担当した。

    つまり工場の床が突然崩れ落ちて、作業員が墓へ落ちたわけではない。

    開発予定地に遺跡が存在する可能性を確認し、工事で失われる前に調査する制度が機能したことで、地下の墓地を記録できたのである。

    発掘調査は2025年初頭から始まり、およそ2000平方メートルが調べられた。

    その結果、紀元前6世紀前半を中心とする85基の墓が確認された。発掘後の初期的な人骨調査では、これまでに成人16人、子ども4人、乳幼児15人が識別されているが、分析はまだ続いている。

    85基の墓があるからといって、埋葬された人数がそのまま85人と決まるわけではない。

    同じ墓へ複数の人物が葬られている場合もあれば、骨の保存状態が悪く、人数をすぐに数えられない墓もある。

    ここから先は、頭蓋骨や長骨を並べて数えるだけではなく、骨の重複、年齢、性別、埋葬姿勢、墓の再利用などを一つずつ確認していく必要がある。





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    ↑ネクロポリスの構造!( ・Д・)(「STORIE & ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)


    🌬️ なぜグラニャーノは「パスタの町」になったのか

    グラニャーノは、ラッターリ山地とナポリ湾の間に位置する町である。

    山から得られる水、風通しのよい地形、比較的安定した湿度は、近世以降の乾燥パスタ生産に適していた。

    現在では「パスタ・ディ・グラニャーノ」が地域名を冠した食品として知られ、町には大小さまざまなパスタ工場が集まっている。ガロファロ社も18世紀末以来、この土地でパスタ生産を続けてきた企業である。

    ただし、今回の墓地を使った人々がスパゲティを食べ、古代から同じパスタ産業を営んでいたという話ではない。

    現在につながるグラニャーノの乾燥パスタ産業が発展するのは、墓地が使われた時代よりはるかに後である。

    古代墓地と現代のパスタ工場の間に、直接的な産業の連続性が確認されたわけではない。

    おもしろいのは、同じ土地が時代ごとに異なる形で、物、人、技術が集まる場所となってきたことだろう。

    現在は小麦とパスタが世界へ送り出される。

    約2500年前には、ギリシア、エトルリア、エジプト方面から来た品々が、この土地の有力者の墓へ納められていたのである。


    🏺 墓地が作られたのは「ローマ以前」の南イタリア

    墓地の中心年代は、紀元前6世紀前半と考えられている。

    日本史でいえば弥生時代に当たる頃であり、ローマでは王政期の終わりへ向かっていた時代である。

    しかし当時のローマは、後世のローマ帝国のように地中海全体を支配していたわけではない。

    南イタリアでは、さまざまな在地集団、ギリシア系都市、エトルリア人などが並存し、交易し、争い、互いの技術や儀礼を取り入れていた。

    後にポンペイやヌケリア、スタビアエが発展するナポリ湾周辺も、単一の民族や国家によって統一された世界ではなかった。

    今回の墓地は、ソレント半島とサルノ平野を結ぶ地域にあり、ポンペイやヌケリアが大きな都市へ成長していく直前の社会を知る資料として注目されている。

    考古学者がこの時代を「アルカイック期」と呼ぶ場合、それは単に「古めかしい」という意味ではない。

    ギリシア世界を中心とした時代区分では、おおむね紀元前8世紀から紀元前6世紀頃を指し、都市国家、植民都市、文字文化、長距離交易、記念碑的な宗教建築などが大きく展開した時期である。

    南イタリアでも、ギリシア系都市の成立とともに、陶器、金属器、宗教的な図像、文字、宴会文化などが広い範囲へ伝わった。






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    ↑なんか刻まれてるね!( ・Д・)(「STORIE & ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)


    🗺️ ここは「古代スタビアエの領域」だった

    グラニャーノ周辺は、古代にはアゲル・スタビアヌス、すなわちスタビアエの領域に含まれていたと考えられている。

    スタビアエといえば、ヴェスヴィオ火山の噴火で埋まった豪華なローマ時代の別荘群が有名である。

    海を望む丘の上には、色鮮やかな壁画、庭園、浴場、食堂を備えた巨大邸宅が築かれた。

    そのため、スタビアエの考古学は長いあいだ、西暦79年に埋没したローマ時代の遺構を中心に語られてきた。

    しかし今回の墓地は、その景観が形成される600年以上前に、人々がこの地域で社会を築き、死者を葬り、遠隔地との交換網へ参加していたことを示している。

    ローマ時代の豪華別荘が突然何もない土地に出現したのではない。

    その下には、青銅器時代、アルカイック期、サムニウム系社会、ローマ支配期という、何層もの地域史が重なっていたのである。


    ⚰️ 「ネクロポリス」は、死者を通じて生者を読む場所

    ネクロポリスという言葉は、ギリシア語に由来する「死者の都市」という意味を持つ。

    もちろん、死者が実際に店や家を構えて暮らしていたわけではない。

    多数の墓が一定の区域へ集まり、道、墓標、墓域、家族ごとの区画などを構成する大規模墓地を、そのように呼ぶのである。

    墓地から分かるのは、死者のことだけではない。

    誰が大きな墓へ葬られたのか。

    子どもにも副葬品が与えられたのか。

    男女や年齢によって埋葬方法が違うのか。

    どのような食器、武器、装身具が選ばれたのか。

    輸入品を持つ者と持たない者の差は何か。

    墓の大きさや副葬品の組み合わせを比較すれば、階層、家族、儀礼、性別役割、富の偏り、外部地域との結び付きが見えてくる。

    ただし、墓の豪華さをそのまま生前の銀行残高と考えることはできない。

    葬儀は死者本人が行うのではなく、遺された家族や共同体が行う。

    豪華な副葬品は死者の財産であると同時に、葬った側が「この人物をどのような存在として記憶させたいか」を表現したものでもある。

    今回の公式発表が、墓地を「高位エリートによる社会的自己表現」の資料として評価しているのも、そのためである。





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    ↑石棺がたくさん!( ・Д・)(「STORIE & ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)


    ⛏️ 実は、墓地の存在は1950年代から知られていた

    今回、まったく未知の墓地が突然発見されたわけではない。

    グラニャーノ周辺では1950年代、考古学者リベロ・ドルシによって、マドンナ・デッレ・グラツィエ地区の大規模墓地が調査されていた。

    そこでは約300基の墓に由来する副葬品が回収され、現在はスタビア考古学博物館などで保管されている。

    今回のヴィア・デイ・パスタイ墓地は、この既知の墓地が別方向へ広がっていた部分、すなわち同じ大規模墓域の延長である可能性が高い。

    この点は、派手な「完全新発見」という言葉よりも、考古学的には重要である。

    墓が85基増えたというだけではない。

    以前に発見された約300基の墓と、新しい85基の位置、年代、副葬品、埋葬者を比較できるようになった。

    古い発掘では十分に採取されなかった微細な骨、植物遺体、土壌試料、有機物も、現代の方法で回収できる。

    70年ほど前の調査成果と最新の分析技術を接続することで、一つの地域社会をより広い範囲、より長い時間の中で捉えられるようになったのである。


    🧱 凝灰岩の箱が、失われるはずのものを守った

    今回の発見で特に珍しいのが、一部の墓に残っていた有機物である。

    墓には、凝灰岩の板や石材で箱状の埋葬施設を作ったものがあった。

    その内部から、布、木製品、植物繊維を編んだ籠などが確認されている。

    監督局は、この年代の墓としては極めて例外的な保存状態であり、研究上特別な価値を持つとしている。

    土器、石器、青銅器、金銀製品は、比較的長く地中へ残る。

    一方で、人々の生活を実際に満たしていた衣服、木箱、籠、袋、紐、食物などは、多くの場合、微生物によって分解されてしまう。

    その結果、考古学資料には「腐らない物が多く見え、腐る物が少なく見える」という大きな偏りが生まれる。

    例えば、墓から青銅製の留め具だけが出土すれば、もともとそれが留めていた衣服は消えているかもしれない。

    食物を入れた土器は残っても、食物を運んだ籠は消える。

    木の柄が失われ、鉄の刃だけが残れば、道具の本来の姿も分からなくなる。

    今回の墓では、その通常失われる側の物質が残った。

    布の織り方や繊維を調べれば、服装や死者の包み方が分かるかもしれない。

    籠の編み方からは、植物利用や手工業技術を復元できる。

    木製品には、塗装、接合、工具痕が残っている可能性もある。

    黄金一個より地味に見えても、社会を復元する情報量では、布の断片や籠の方が大きな意味を持つことがあるのだ。





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    ↑副葬品も立派だね!( ・Д・)(「STORIE & ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)


    🪲 なぜ南イタリアの墓に、エジプトのスカラベがあるのか

    豪華な副葬品の中でも目を引くのが、ナウクラティス由来とされるエジプト系のスカラベである。

    スカラベは、フンコロガシをかたどった護符や印章である。

    古代エジプトでは、球状の糞を転がす昆虫の姿が、太陽の運行、再生、復活と結び付けられた。

    そのためスカラベ形の小型製品は、生者を守る護符としても、死者の再生を願う副葬品としても用いられた。

    今回の品が結び付けられているナウクラティスは、ナイル川デルタに成立した多民族的な港湾・交易都市だった。

    ギリシア人商人をはじめ、エジプト、東地中海、アフリカ、中東方面の人や物が接触する重要な拠点であり、スカラベやエジプト風護符は地中海各地へ広く流通した。

    ただし、墓にスカラベがあるからといって、埋葬された人物がエジプト人だったとは限らない。

    本人がナイル川まで旅したとも断定できない。

    ナウクラティスからギリシア系商人へ渡り、複数の港や仲介者を経て南イタリアへ届いた可能性もある。

    重要なのは、一つの小さな護符が、グラニャーノの地域社会をナイル川デルタと地中海交易網へつないでいたことである。


    ⚒️ エトルリアの青銅器も、ギリシアの器も一緒に眠る

    墓からはエトルリア系の青銅器や銀製品、装飾土器、青銅製の留め具、鉄剣、首飾り、象牙製品なども見つかった。

    さらに、ギリシア系のアッティカ陶器や、エトルリアと結び付く黒色土器ブッケロなど、異なる文化圏に由来する品々が含まれている。

    これらを見て、

    「この墓はエトルリア人」

    「こちらはギリシア人」

    「スカラベがあるからエジプト人」

    と、遺物一個につき民族一つを割り当てることはできない。

    人は、自分の生まれた土地で作られた物だけを使うわけではない。

    輸入品を購入する。

    贈り物として受け取る。

    外国風の品を地元で模倣する。

    権威や教養を示すため、あえて遠方の様式を選ぶ。

    古代カンパニアの有力者は、ギリシア風の宴会用食器を使い、エトルリア系の金属器を持ち、エジプト風護符を身に着けながら、地域固有の言語や儀礼を保っていたかもしれない。

    墓の中で複数文化の品が一緒になること自体が、当時の社会の姿なのである。





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    ↑土器の底部に刻文、いろんなとこで見られるね!( ・Д・)(「STORIE & ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)


    🍷 外来品は、宴会と権力を演出した

    ギリシアやエトルリアの食器は、単なる輸入雑貨ではない。

    古代地中海世界では、酒を混ぜ、注ぎ、飲むための器が、宴会儀礼と密接に結び付いていた。

    有力者たちが集まり、食事と酒を共にし、贈り物を交換し、婚姻や同盟を確認する。

    その場で外国製の美しい器を使うことは、遠隔地との関係、富、洗練された振る舞いを示す方法になった。

    そして、生前の宴会で使われた器、あるいは宴会を象徴する器が墓へ納められる。

    副葬品は「死後の生活用品」であるだけでなく、生前の社会的関係を墓の中へ再構成したものでもある。

    今回の豪華な器や金属製品は、グラニャーノの一部の人々が、地域内部だけでは得られない品を入手し、それを社会的な権威へ変換できたことを示している。


    ✍️ 器に刻まれた文字と、消えた人の名前

    いくつかの遺物には、アルファベット文字による落書きや刻書が見つかっている。

    中には、器の元の所有者を示すと考えられる名前も含まれているという。

    考古学では、文字が一文字あるだけで資料の見え方が変わる。

    同じ形の杯が十個あっても、名前が刻まれていれば、それが集団共有の器ではなく、特定の人物に結び付く品だった可能性が生まれる。

    異なる言語体系や文字の形を比較すれば、誰が文字を使い、どの文化圏の表記慣習を学んでいたのかも考えられる。

    ただし、文字を刻んだ人物と、墓に葬られた人物が同一とは限らない。

    器は贈与、売買、相続によって移動する。

    名前入りの品を別人が所有することもある。

    だからこそ、文字だけで結論を出すのではなく、墓の年代、他の副葬品、埋葬者の年齢や性別と組み合わせる必要がある。





    🧜 セイレーンの小瓶は、死者に何をささやいたのか

    出土品の中には、鳥の身体と女性の頭部を持つセイレーンをかたどった、テラコッタ製の小型容器もある。

    紀元前580~550年頃のものとされ、香油などを納めた容器、バルサマリウムと考えられている。

    この品は、現在ナポリ国立考古学博物館の展覧会で紹介されている。

    現代では、セイレーンというと、美しい歌声で船乗りを誘惑する怪物として知られる。

    古代ギリシア世界では死、境界、音楽とも結び付き、墓や葬送に関係する図像として表される場合があった。

    しかし今回の容器が、どのような意味で墓へ入れられたのかは慎重に考える必要がある。

    香油を入れる実用品だったのか。

    死者の身体を整える儀礼に使われたのか。

    外国風の珍しい品として所有されたのか。

    あるいは、死者と異界を結ぶ存在として選ばれたのか。

    一つの意味だけに固定するのではなく、容器の内容物、摩耗、墓の位置、他の副葬品との組み合わせを調べることが重要になる。


    👶 乳幼児も、この墓地の歴史を構成していた

    初期調査では、成人だけでなく、子どもや乳幼児の遺骸も確認されている。

    これまでに識別された範囲では、成人16人、子ども4人、乳幼児15人とされる。数字は今後の分析で変わる可能性があるが、幼くして死亡した人々が相当数含まれていたことが分かる。

    乳幼児の骨は薄く、小さく、分解されやすい。

    過去の発掘では見落とされたり、十分に回収されなかったりすることもあった。

    今回の調査で幼い子どもたちの遺骸を丁寧に記録できれば、乳幼児死亡、栄養、病気、家族構成、子どもの葬送について、新しい資料が得られる。

    また、子どもの墓にどのような品が添えられたかを見ることで、その社会で子どもがどのような存在と考えられていたのかも検討できる。

    豪華な副葬品を持つ子どもがいれば、社会的地位が本人の業績ではなく、家族や血縁によって受け継がれた可能性が強まる。

    逆に、成人と子どもで墓の扱いが大きく異なれば、年齢によって社会的な人格や儀礼上の資格が変化したことも考えられる。




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    ↑なんでこんな感じに撮影したのだろうか!( ・Д・)(「STORIE & ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)


    🦴 骨から、食事と移動まで調べる

    発掘された人骨については、考古学、人類学、自然科学を組み合わせた分析が予定されている。

    公式発表では、食生活、移動、生活環境などの復元が主要な研究課題に挙げられている。

    骨や歯の形態からは、年齢、性別、成長、外傷、病気の痕跡を調べられる。

    歯に残る虫歯や摩耗は、食事の性質を考える手掛かりとなる。

    骨の安定同位体を分析すれば、動物性タンパク質や植物資源の摂取傾向、幼児期に育った地域について検討できる場合もある。

    墓からエジプトやギリシアに関係する品が出たとしても、それだけでは人間自身が移動したのか、品物だけが移動したのか分からない。

    もし歯や骨の化学的特徴から、遠方で育った人物が確認されれば、物だけでなく人もこの地域へ移住していた可能性が高まる。

    一方、全員が地元で育っていたなら、遠隔地の商品を取り込んだ地域エリートの姿がより明確になるだろう。


    🪨 墓地のさらに下には、もっと古い生活の跡があった

    発掘では、アルカイック期の墓地より下層から、銅器時代や青銅器時代に属する構造物も確認された。

    つまり、この場所の人間活動は紀元前6世紀に始まったわけではない。

    墓地が作られるより何百年、場合によっては何千年も前から、人々が同じ土地を利用していたのである。

    ある時代には人が暮らす場所だった。

    その後、土地の使い方が変わり、死者を葬る墓地になった。

    さらに長い時間が過ぎ、地表の記憶が失われると、近代的な町とパスタ工場が築かれた。

    遺跡の地層は、一つの土地が永遠に同じ目的で使われるわけではないことを示している。

    住居が墓地になる。

    墓地が農地になる。

    農地が工場になる。

    私たちが現在見ている景観は、長い土地利用史の一番上にある薄い一層にすぎない。


    🚧 予防考古学は、工事を止めるだけの制度ではない

    開発工事で遺跡が発見されると、

    「考古学のせいで工事が止まった」

    という見方をされることがある。

    しかし今回の事例では、工場側と文化財行政が協力し、拡張計画に伴う調査を実施した。

    その結果、産業活動を行う企業が、地域の歴史を明らかにする研究を支える形となった。

    監督局も、この発見を、民間事業と文化財保護が両立できる予防考古学の好例と評価している。

    遺跡を一切掘らずに工事を続ければ、墓の位置や副葬品の組み合わせは永遠に失われる。

    反対に、見つかった遺跡をすべて現地保存しようとすれば、現代の町や産業を動かせなくなる。

    そこで、重要度、保存状態、工事内容を検討し、現地保存、設計変更、記録保存などを使い分ける。

    今回の発掘区も、調査と記録を終えた後、遺構を保護するために埋め戻された。

    「せっかく掘ったのに、また埋めるのか」と思うかもしれない。

    けれども、石や土の遺構を露出したままにすれば、雨、乾燥、植物、温度変化によって急速に傷む。

    十分な保存施設を建てられない場合、記録を取った上で再び土に覆うことは、遺構を守る現実的な方法なのである。



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    ↑精巧な作品だね!( ・Д・)(「STORIE & ARCHEOSTORIE」の記事内画像より転載;credit: Soprintendenza Arqueologia, Belle Arti e Paesaggio per l'Area Metropolitana di Napoli)


    📦 重要なのは、豪華な宝物だけではない

    報道では、エジプトのスカラベ、銀、青銅器、琥珀、象牙、鉄剣などが目立つ。

    それらが貴重であることは間違いない。

    しかし考古学的に本当に重要なのは、豪華な物だけをショーケースへ並べることではない。

    スカラベが、どの墓の、遺体のどの位置から出たのか。

    首飾りの一部だったのか。

    袋や籠に入れられていたのか。

    成人と子どものどちらに伴っていたのか。

    同じ墓にエトルリア系青銅器やギリシア陶器があったのか。

    布は身体を包んでいたのか、衣服だったのか、容器を覆っていたのか。

    こうした位置関係が残って初めて、物が葬儀で果たした役割を考えられる。

    盗掘品や出土地不明の美術品は、どれほど美しくても、この文脈を失っている。

    パスタ工場の拡張予定地から出た墓地が大切なのは、85基の墓を一つの集団として調べ、遺体、副葬品、有機物、土壌を関連付けられるからなのである。


    🏛️ 出土品は、どこで見られるようになるのか

    発掘品の整理と分析は、これから本格化する。

    今後の展示場所としては、古代スタビアエ地域との関係からポンペイ考古学公園の展示へ組み込む案や、グラニャーノで計画されるパスタ博物館に地域史資料として展示する案などが検討されている。

    ただし、具体的な展示計画はまだ確定していない。

    パスタ博物館に2500年前の墓地資料という組み合わせは、一見すると奇妙に見える。

    しかし、地域の産業史だけを近世以降から始めるのではなく、その土地で人と物がどのように移動してきたのかを長期的に見せるなら、十分に意味のある展示になる。

    古代の交易品と現代の輸出パスタは、同じ商品でも、同じ経済でもない。

    それでもグラニャーノが、異なる時代に外部世界との関係の中で形作られてきたことを示すことはできる。


    🍝 パスタの下に眠っていたのは、ローマ以前の国際社会だった

    工場を広げようとした。

    その土地から墓が出た。

    さらに墓を調べると、エジプトの護符、エトルリアの青銅器、ギリシア系の器、琥珀、象牙、布、木、籠が出てきた。

    一見すれば、偶然が重なった奇妙なニュースである。

    しかし、この発見が見せているのは、珍品を集めた古代の宝箱ではない。

    紀元前6世紀の南イタリアでは、地域の有力者が地中海各地の品を入手し、それらを食事、装身、儀礼、葬送へ組み込んでいた。

    外国製品を所有できる家族と、そうではない家族がいた。

    文字を使う者がいた。

    鉄剣を伴って葬られる者がいた。

    幼くして死亡し、小さな墓へ納められた子どもたちもいた。

    布を織る者、木を加工する者、籠を編む者、凝灰岩を切り出して墓を作る者、死者へ品を供える者もいた。

    スカラベ一個だけを見れば、エジプトの品である。

    けれども、それがグラニャーノの墓へ置かれた瞬間、品物は地元の家族史、葬送、階層、感情の一部となった。

    そして約2500年後、現代のパスタ工場を広げるための調査が、その関係を再び開いた。

    工場の地下から現れたのは、単なる「古い墓地」ではない。

    ローマ帝国が地中海を一つの政治世界へまとめるより前から、人、物、技術、思想が海を越えて動いていたことを示す、小さくも巨大な交差点だったのである。

    パスタの町グラニャーノの地下には、エジプトの護符を身に着け、ギリシアの器で酒を飲み、エトルリアの金属器を受け入れながら、自分たちの死者を葬った人々の世界が眠っていたのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    まだ食べれそうなパスタって出土してないのだろうか!?( ・Д・)


    ↑「まだ食べれるよ?」シリーズの話ね!( -д-)ノ






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    2020ねん 11がつ 29にち(にちよーび、晴れ)

    昔の脳細胞から歴史に関して分かることがあったらスゴイねΣ(・ω・ノ)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは「ガラス化した無傷の脳細胞が発見されたよ、ちなみに脊髄の中の神経細胞も!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台はイタリア、ヘルクラネウム遺跡です。

    以前にも取り上げてきた遺跡ですが、ポンペイがあまりに有名なため、比べるとあまり一般的ではありません。

    しかしながら所謂ポンペイ遺跡の世界遺産としての登録名は『ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域』であることからも分かるように、ヘルクラネウムはポンペイと並んで現代の我々に古代に関する様々な情報を与えてくれる稀有なものとして非常に重要な遺跡なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


    ↓ヘルクラネウムに関する過去の記事(。・ω・)ノ゙




    上に挙げた過去記事では、ヘルクラネウムの人々は高温の火砕流に飲み込まれて脳みそが沸騰して頭蓋骨が爆発したとか、脳みそがガラス化したとかかなり激しい内容のものになっています。

    ポンペイの事例では火砕流と降灰によって一瞬で死亡し包み込まれために、検出された灰の空洞部分に石膏を流すことで、当時の人々の生々しい最期の姿を見ることができます。

    一方でヘルクラネウムはヴェスヴィオス火山との位置関係により、過去記事や今回の発見のように『ガラス化した系』の事例が多数確認されているのです(*・ω・)ノ



    上に挙げた写真がCE79年、今からおよそ2000年前のヴェスヴィオス火山の噴火で死亡したヘルクラネウムの男性の頭蓋骨から見つかった脳細胞です。

    頭蓋骨の発見自体は1960年代の調査時です。

    この男性は25才程度で、ローマ皇帝を崇拝する目的で使用された施設(下部の写真を参照)にあるベッドにうつ伏せの状態で見つかりました。

    この男性の頭蓋骨の内側にガラス状の輝く物質を発見したため、電子顕微鏡で観察したところ、『無傷の脳細胞』であることが分かりました。

    この男性の脳は500度程度の高温の火山灰にさらされて一気に液体となった後で急速に火山灰の温度が低下することで即座にガラス化したため、このような良好な保存状態で残ったと推測されています。

    またガラス化した脊髄中の神経細胞も無傷の状態で発見されたそうですΣ(・ω・ノ)ノ





    おわりに、ー古代人の記憶を読み取るー

    上の写真が、件の男性の遺体が見つかった「アウグストゥスのコレギウム」と呼ばれるヘルクラネウムの施設です。

    鮮やかな彩文も残っているのものなのですねΣ(・ω・ノ)ノ

    以前にも考古学調査で発見された「ウィルスで死亡した人骨」に対して医学者チームによるDNA研究が行われるといった学際的な研究の紹介をしました。

    直接的な関わりはなくとも人類はウィルスと闘い続ける運命にあるわけですから、コロナウィルスですったもんだしている現代社会には大きく貢献する研究と言えるでしょう。

    以上の事例を代表として考古学が他学問と協力関係にあることは少なくないわけですが、今回の発見も新たな協力関係を構築、あるいは新たな学問領域を拓くことになるかも知れません。

    今回の発見をした研究者チームは考古学者だけではなく、生物学者や法医学者、数学者、神経遺伝学者から成るそうです。

    特に神経遺伝学者というのが気になりますね( ・Д・)

    世界広しと言えども、この長い人類史の中で、『ガラス化した無傷の脳細胞』の発見は前例がありません。

    脳については分かっていないことが多いと思いますが、SF映画のようにはっきりとした映像にならなくとも、

    古代人の脳から太古の記憶の断片を読む……

    ことができる世の中がやってくるかも知れませんね。

    そのような時代の前に、現代の容疑者の脳を覗いて犯行を実際に行ったかどうかの判定ができる時代が来るのかな( ・Д・)

    被害者の記憶から犯人を特定するとか( ・Д・)

    ・・・・・・

    研究チームか、、、

    私も大きな野望を達成するために、

    異分野の仲間が欲しいね!( ・Д・)



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    2020ねん 11がつ 21にち(どよーび、雨)

    ふっか~つ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya1230
    ↑イタリア北部に位置するってことが分かる図(「イタリア政府観光局」のページ内画像より転載)



    今回の考古学・歴史ニュースは「人類最古の地図って知ってる!?( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台はイタリア、ヴァルカモニカです。

    ヴァルというのが「谷」を意味します。

    しかし文法上は接頭辞なので、区切らずに一つの単語として扱うそうです(ヴァル・カモニカとはならないという意味)。

    日本では「カモニカ渓谷」と表記されることの方が一般的なようですね( -д-)ノ


    arukemaya1232


    カモニカ渓谷はモンテ・フレロネなどの高い山々に囲まれた中、南側に位置するイゼーオ湖に向かって流れるオリオ川によって形成された渓谷です。

    このカモニカ渓谷には「ヴァルカモニカの岩絵群」と呼ばれるものがあります。

    イタリアで最初の世界遺産として1979年に登録されました。

    ヴァルカモニカの岩絵群と呼ばれる特定の場所があるわけではなく、カモニカ渓谷内に点在する国立公園の中で様々な岩絵が見られ、それらをまとめて岩絵群としています。

    有名なところではナクアネ岩壁彫刻国立公園、セラディーナ-ペドリーナ公園、チェート岩壁彫刻国立公園、チンベルト岩壁彫刻国立公園、パスパルド岩壁彫刻国立公園を始めとして色々な公園があります。


    arukemaya1233
    ↑これが世界最古の地図!(「星埜 ????(発表年不明)」より画像を転載)

    arukemaya1227
    ↑全体はこんな感じの刻線文になっている(「??? 2016(発表者不明)」の画像より転載)




    さて、今回紹介する世界最古の地図が『ペドリーナ図』です。

    カモニカ渓谷の岩絵群のひとつなので、単純に「カモニカ地図」として日本では広まっているようです。

    しかし先に紹介したようにカモニカ渓谷内には多数の国立公園があり、この岩絵地図はその内の一つで見られるものです。

    それがセラディーナ-ペドリーナ公園です。

    恐らく距離が近い二つの公園がまとまって、このセラディーナ-ペドリーナ公園となっているのだと思いますが、正確には二つに分かれるようです。

    ペドリーナ公園の方は実は「国立」と付いていないだけあって、正確には私有地だそうです。

    このペドリーナ公園にある岩絵地図なので、現地では人類最古の地図「ペドリーナ図」として知られていますヾ(´ω`=´ω`)ノ

    「カモニカ渓谷の岩絵群」は約1万年前から紀元前後のローマ帝国期に至る約8000年の間に人類によって描かれた様々な線刻画が見られます。

    モチーフは農耕、航海、戦争と様々なものが計14万点も描かれており、それぞれの文化の様子を知る上での重要な資料となっています。

    この人類が描いた最古の地図「ペドリーナ図」はBCE1500年、つまり今からおよそ3500年前に描かれたもので、当時の集落の様子を描写しています。

    良く見ると、人の形や、家畜などの動物のモチーフ、家屋のモチーフが見られますね。

    下に挙げる別の岩絵にも家屋が見られるのですが、当時のこの辺りの家屋は高床式倉庫みたいに背の高いものだったのでしょうか、気になります。

    家屋に梯子が付いていて、屋根裏に人が入っている様子も描かれています。

    それにしても全体としてかなり大きい集落ですし、行き交う道も複雑で、かなり正確に描かれた地図のように伺えます(。・ω・)ノ゙




    おわりに

    数日、不可思議な腹痛(?)で伏せておりましたが、その間に「社会経済物理学」とか「都市地理学」の勉強を軽くやっていた時に、この世界最古の地図について偶然知りました。

    地図というと、私のイメージではバビロニアの粘土板に描かれた地図が思い浮かぶのですが、そちらはBCE600年なのでペドリーナ図の方が古いですね。

    まぁ世界地図としてはバビロニアが最古なのか……

    続けて、バビロニアを扱ってもいいかも知れませんね(*^・ェ・)ノ

    そう言えばマヤで地図って知らないな、焼かれたか!?( ・Д・)



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    2020ねん 10がつ 23にち(きんよーび、晴れ)

    10日サボった後、10日くらい毎日更新中、えらいっ(・∀・)つ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya1062


    今回の考古学・歴史ニュースは「イタリア南部、古代ローマの遺跡が沈むバイア海底遺跡がかっちょいいよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はイタリア南部、カンパニア州の町、バイアにある海底遺跡です。

    正式名称は「バイア海底考古学公園」となっています。

     


    上に挙げた写真は1956年にバイア上空からイタリア軍のパイロットが撮影したもので、それを機に発見されたのだそうです。



    海外からかなり近いですし、浅い部分にあることが分かります。




    グーグルマップの解像度って場所によってはかなり高いので、もしかしたら見えるかも~

    って探してみましたけどダメでした( -д-)ノ


    さて、このバイア海底遺跡は、ポンペイのような悲劇の都市とは性格が異なります。

    この辺りは、少なくとも古代ローマ期から現在に至るまで、地殻変動の影響により地盤が浮き沈みしている地域なのです。

    この地盤の上下運動はとても緩やかなものなので、古代ローマ人は水没の危険を察知して海沿いの邸宅を意図的に放棄したそうです。

    さて、では海底遺跡の様子を見ていきましょう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!





    深度は浅いのでスキューバダイビングとして難易度は高くないそうです。

    また船底から海底を覗けるようになっている遊覧船もあるので、ライセンスなくても楽しめるようです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


    上の写真には破損した壺が映っていましたが、少なくとも中心部における大体の遺物の引き上げは終わってるようです。

    特に彫像は全て引き上げられ、博物館にてオリジナルを見ることができます。

    海底に設置してあるのはダイバー用のレプリカなのです(・∀・)つ



    ↑おわりに、で使用している「ポンペイ前提」について触れてます(難易度:高)


    おわりに

    地上の発掘調査ですら大変なのに、

    海の中だと調査も記録も本当に大変だろうなと思います( ・Д・)

    知人が海で調査したことあるのですが、聞いたところ、潮の満ち引きの影響で時間の勝負の側面が大きく、せっかく掘って露出させたそばから砂を被って嫌になると言ってました( -д-)ノ


    考古学の基本理論である「ポンペイ前提」も使えなさそうだし、水中考古学は新しい分野ではありますが考古学界内でも課題が山積みな気がしますね。

    海外ではもうけっこう盛んですが、日本ではまだまだ認められていない部分も少なくないと思うのです( -д-)ノ



    このバイア海底遺跡周辺は現在でも地殻変動で浮き沈みしているようですから、私が死ぬまでにもし浮いてきていい感じに露出したら行きたいなと思います( -д-)ノ

    そんなこと言ってないで、スキューバのライセンスを取るべきか……


    マヤでも水中考古学やりたいね!( ・Д・)

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    2018ねん 6がつ 6にち(すいよーび、曇り)

    暑いから麺類ばかり食べておる。

    痩せはするが、

    筋肉が落ちそうだ。

    たんぱく質も摂らにゃ( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・
    a135

    ぼん じょるの!(。・ω・)ノ゙今回紹介するのはイタリアで出土した古代の甕のお話。上の写真の甕がそれです。記載によると大きさは3.5フィート、およそ1mですね。デカい!なのに、使われてるスケールが小さ過ぎるんですけど!これじゃ拡大してもよく見えないよ( -д-)ノ

    口縁部付近に把手が三つ付いてます。このサイズだと片手で扱うものじゃないので、把手はビールジョッキみたいな縦方向じゃなくて横方向に付いてますね。

    文様は粘土紐の貼り付けのようですが、モチーフはロープでしょうかね。もしかしたら従来は木製容器とかでオリーブオイルが作られていて、運ぶ用にロープで縛ってあったのかも知れません。文様モチーフが左右対称ではないですし、紐状のモチーフが把手近くまで延びてるので、まぁたぶん痕跡器官かな~と思います。

    この文様の解釈については私見ですので、間違ってたらごめんなさい。合っててかつ誰も言ってなかったら、この記事引用文献ってことでよろしく!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    この土器は1990年代にシチリア島南東のカステルッチオ遺跡で出土したそうですが、400片程度に破砕された状態だったそうです。それがここまで接合されたようですね。ほぼ完形ですからね、接合のし甲斐がありますね!(・◇・)ゞ

    底部破片の内面に残滓があったようで、それをス・クロマトグラフ分析、質量分析と核磁気共鳴分析を使って調べた結果、リノール酸とオレイン酸が検出されたそうです。この成分がオリーブオイルに特徴的なものだそうです。


    これまでの研究ではイタリアにおける最古のオリーブオイルの存在は3300年前だったようで、700年遡る結果となったとのことです。約4000年前のイタリアは青銅器時代初期に相当します。


    さっきの私の見解が正しければ、腐敗してしまう有機物質製の容器を用いたオリーブオイルの精製が行われていた可能性が高いですし、より古い歴史を持っていることになりそうですね。

    ちなみに世界最古のオリーブオイルはイスラエルで見つかっていて8000年前だそうです。「料理の歴史」も面白そうですね!

    ↓オリーブオイルを摂取したことがある人は左を、ない人は右を押しましょうΣ(・ω・ノ)ノ↓

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    2018ねん 5がつ 13にち(にちよーび、めちゃ雨)

    考古学って面白いなと久しぶりに思えた。

    考えることは面白い。

    さて、あと3時間くらい頑張りますか。

    ひと缶だけガソリン入れながらさ(*・ω・)ノカンパーイ!

    ・・・・・・・・・・・・
    a068
    ↑冒涜してはおりませぬ。あまりに悲痛な表情だから笑いに変えた方がいいかなって…(下部に載せたYoutube動画を基に加工)

    【目次】
    1. ポンペイでめちゃリアルな馬が新たに発見されました!
    2. 「原位置論(ポンペイ理論)」について考えてみた
    3. おわりに

    1.ポンペイでめちゃリアルな馬が新たに発見されました!

    さて、まずポンペイについてさらりとご紹介しますね。場所はイタリアのナポリです。ヴェスヴィオス火山の大噴火の際に、火砕流によって飲み込まれた古代都市として有名です。

    ポンペイは二度の大きな自然災害に襲われています。一度目は西暦62年2月5日、激しい地震によりポンペイや周辺都市は大きな被害を受けました。しかしポンペイの町はすぐに以前より立派に再建されました。

    二度目は西暦79年8月24日午後1時頃にヴェスヴィオス火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続け、太陽を覆ったと記録されています。 噴火から約12時間後、ちょうど25日になった頃に、噴火末期として火砕流が発生し、ポンペイは一瞬にして完全に地中に埋まったと言われています。

    ヴェスヴィオス火山の噴火は、以前の地震から歳月がさほど流れていなかったため、地震被害からの復興作業は完了していなかったようです。つまり今日、発掘調査で明らかになるポンペイの姿とは、地震前の生き残った建物、地震後に再建された新しい建物、再建中の建物といったまさに古代の地震災害からの復興の過程なのです。←ここ大事です、テストに出ます(。・ω・)ノ゙


    ↑参考までに、ポンペイの悲劇についての紹介動画(「雑学とりびあん」さんの投稿動画より)

    さて、ポンペイはその「悲劇の古代都市」として印象付けられていましたが、調査研究の進展により華やかな文化面に焦点が当てられるようになりました。
    a069
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    ↑上の写真は火砕流に飲まれた人々、下の図像は娼館に残っていた壁画(wikiより転載)

    ポンペイはぶどうの産地であり、ワインの醸造を主産業としていたそうです。湾港都市としてワインの物流を中心とした商業都市でもあったようですね。またポンペイのの守護者は美と恋愛の女神ウェヌスでした。娼館と推測される建造物内では、男女の交わりを描いた壁画(上図)が多く出土したことから、ポンペイは「快楽の都市」とも呼ばれているそうです。「悲劇の都市」よりずっといいですね!

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    ↑今回発見された馬の全身の化石(JIJI.COMより一部加工)

    さて、この写真が今回新たに発見された馬の化石ですね。これまでどうしても先に挙げたようなポンペイの人々に焦点が当たっていましたが、今回は動物です!

    このお馬さん、ほぼ全身骨格が残った状態なのです。内部の残った骨が見える写真もあったのですが、行方不明になってしまいました。申し訳ない!まぁそれでもこの写真、いかにも発掘現場という感じでいいでしょう!

    このお馬さんは、当時のポンペイ内にあった大邸宅の敷地内で出土・検出されています。どうやらお偉いさんのパレードの際にカッコよく着飾って行進していたようです。きっと毛並みの綺麗なお馬さんだったのでしょう。

    なんだ、馬だけか!って思うかも知れませんが、こうした地道な発見の繰り返しによって少しずつ「埋もれた過去」が復元されていくものなのです。


    2.「原位置論(ポンペイ理論)」について考えてみた
    さて、考古学基礎理論のひとつとして原位置論というものがあります。別名としてポンペイ理論とかポンペイ前提、ポンペイ的前提とも呼ばれます。

    火砕流に襲われてポンペイでは2000人もの人が亡くなりました。最大人口は2万人と推定されているので10%も亡くなったのですね。この人々や今回の発見の馬のような動植物、建造物はあっという間に大量の火山灰でパッキングされて、当時の状況を今に残しているわけです。

    つまり発掘調査で出土する遺物、検出される様々な状態=当時の状況と考えるわけです。これが「ポンペイ前提」です(私としてはこの用語を用います)。

    このポンペイの状況は世界的にみて、とてもレアなケースです。他には古代マヤ地域のエル・サルバドルのホヤ・デ・セレン(セレンの宝石という意味)くらいでしょうか。「『新大陸』のポンペイ」、「中米のポンペイ」、「マヤのポンペイ(異論アリ)」などと呼ばれています。

    このポンペイ前提を、考古学者は通常、その他全ての考古学的な出土状況に応用しているわけです。使い方には個人差があると思いますが、通常は出土する遺物・遺構の出土地点は当時と変わらず、その配置に何からしらの歴史的解釈が可能であることを「前提」とするということですね。

    もちろん、出土地点が斜面である等の物理的条件や雨雪の働きによる移動、さらに動植物の働きによる攪乱、後世の人類活動による攪乱といった様々な現象によって、「原位置」から遺物が移動する場合が考えられます。

    しかし動物あるいはヒトの農耕等の掘削の痕跡といった明確な痕跡が残らない場合、遺物が「原位置」からズレていることも証明できないのです。そのため「基本的に遺物は原位置であることを前提」に考えるのですね。この問題は「遺跡形成過程論」とも結び付いてかなり複雑な議論が展開されています。

    ところで、日本考古学における「原位置論」といえば、麻生優という考古学者が有名でしょうか。ここでの原位置は遺物・遺構の「使用方法」に関係して議論されています(以下、考古学のお話になります)。
    • 麻生1969「「原位置」論序説」『上代文化』第38号 pp.1-5. 国学院考古学学会
    • 麻生1975「「原位置」論の現代的意義」『物質文化』第24号 pp.1-14.物質文化研究会

    上記2つが著名な論文になりますが、内容を抜粋すると以下のようになります。

     「原位置は出土状態そのものである。その道具が使用されていたあるがままの出土状態、そのものが使用されて機能を果たしていたであろうと思われるあるがままの状態でなければ、本来の原位置の意味とはならない。
     さらに原位置の意味は、考古学的出土状態から直接判断することは非常に難かしく、ましてや考古学的出土遺物からも、そくざに判断しにくい。原位置の意味、それは、あるがままの状態、本来の機能を果たしている状態であったか、二次堆積の状態であったか、現在の考古学研究では、考古学的出土状態から直ぐさま認定することは困難である。その道具が本来使用されていた状態のままで出てくれば、大変好都合で、“原位置”としては、本来の狭い意味での使用法となるのである。」(麻生 1975:1)
    また麻生は、本来の位置を保った構造物の一部を「残存物」、本来の位置を失った構造物の一部を「分離物」と定義し、本来の位置があるものが「構造物」であり、その残存形態が遺構と部材であり、本来の位置がないものが「道具」であり、その残存形態が遺物であると述べています。

    ここで麻生が述べている「原位置論」とはポンペイ前提とは異なります。広義の原位置について言及しているのがポンペイ前提(出土した時点、廃棄・残存の時点)で、狭義の原位置について言及しているのが原位置論(使用されていた時点)になります。

    麻生の「原位置論」は日本における原位置についての理論的研究の端緒であるわけですが、彼によれば全ての道具、つまり遺物は原位置にないことになります。そのため原位置についての議論は構造物やその部材に対して行われるのです。

    また過去に非加工の自然物が利用された場合に対する考古学者の認識についてある種の問題提起を行っています。つまり、特定の状況下において「残存物」として見出されるが故に、「部材」として認定される。しかし全く同じものでも異なる状況において「分離物」として見出されれば、単なる遺物として認定される。そして状況次第では多くの場合、遺物として認定されないことを指摘しています。

    最終的には、
    部材における本来の位置(原位置)とは、ある種の使用の痕跡(「使用痕」)といっていいのではないか(「第2考古学」の記事より転載)
    ということのようですが、どうなんでしょう。木製の柱が出土しないマヤ地域では何とも想像しにくいです。柱穴や木製壁の痕跡の周囲に支えとして置かれる人頭大のレキ群がこの場合の部材に当たるのでしょうが、だとすると、ある種の使用の痕跡といってももちろんいいでしょう。

    それで、その後この議論はどう発展するのか?……古代マヤでは柱穴遺構自体が珍しいですしね。主に石造建造物(主に切り石が使用されるので加工物です)を扱いますし。でも土製や木製の構造物もあったのは確かです。「原位置」について考察するかは分かりませんが、先の問題提起のように特殊な事例における非加工の遺物の認定方法や出土状況に基づく解釈の仕方については、今後精緻な調査による木造構造物の遺構の検出事例を増やしつつ、慎重に考えていくべきかなと感じております。( ・Д・)


    3.おわりに
    最後に、こんな内容になる予定ではありませんでしたが、結果、なんだか意味わからん研究ノートみたいになってしまって申し訳ないなと反省しています。まぁでも基本ニュース記事ですからね、ポンペイについても、原位置論についても今後追記・修正したいなと思っています。

    あとあまりに考古学の話に踏み込むのもどうかなとも思っています。楽しく分かりやすい考古学がいいですよね!まぁでも「ポンペイ前提」は分かってもらえたでしょうか? あとかつての「ポンペイはワインとエロスの世界」だった!くらいを覚えて頂ければ、明日の話題には困らないはずです(*・ω・)ノ……あ、本来はお馬さんの話だったか( -д-)ノ

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