
↑死ぬまでにエジプト行ってみたい!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは「高さ2メートル、5トン超えのラムセス二世巨像上半部が見つかって、しかも王都から運ばれて再利用された痕跡まであるらしい!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ
📰 はじめに
ラムセス二世の巨像と聞くと、つい「また大王の像が出たのか」で終わりそうになるよね。
でも今回の発見のおもしろさは、像そのものの大きさだけじゃない。
エジプト北東部シャルキーヤ県テル・エル・ファラウン遺跡で見つかったのは、ラムセス二世を表すと考えられる巨像の上半部。残っている部分だけで高さ約2.2メートル、重さは5〜6トンほどあり、脚部と台座は失われている。それだけでも十分すごいんだけど、初期調査では、この像はもともとこの場所で作られたのではなく、ラムセス二世の王都ペル・ラムセスから運ばれ、宗教施設の中で再利用された可能性が高いとみられている。つまり今回の話は、「巨像を発見した」だけじゃなく、「王権の象徴が、あとから別の場所へ持ち込まれて生き延びていたかもしれない」という話でもあるんだよね。
👑 ラムセス二世って、そもそもどれくらい“巨像向き”の王なのか
ラムセス二世は新王国第19王朝の王で、おおよそ紀元前1279年から1213年ごろまでという非常に長い在位を持つ。彼の時代は建設事業の規模がとにかく大きく、エジプト本土やヌビアに多数の神殿や記念建造物が築かれた。しかも王名は各地のモニュメントにあふれるほど刻まれ、既存の古いモニュメントにまで書き加えられることもあった。要するにラムセス二世は、戦争だけではなく、「自分の存在を石で全国展開する」ことにものすごく長けた王だったわけだね。
だから今回、地方の遺跡からラムセス二世の巨像が出ること自体は、ある意味で彼らしい。
ただし、問題はその巨像が“最初からそこにあったのか”ということなんだ。ここが今回の核心になってくる。
🌊 その王都、ペル・ラムセスはどんな場所だったのか
ペル・ラムセスは、ラムセス二世が東デルタに築いた大規模な王都で、軍事・行政・宗教の中心として機能した。大きな神殿、住居、倉庫、船着場、軍事施設までそろえた都市で、シリア・パレスチナ方面へ向いた東方戦略の拠点でもあった。しかも都市の中では、王の信仰だけでなく複数の神々の祭祀が組み込まれていて、かなり政治的でもあり宗教的でもある首都空間だったらしい。
そしてこの都市は、後の時代になると衰退し、最終的には王都の機能も失っていく。重要なのはその後で、ペル・ラムセスの石材やモニュメントは各地へ持ち出され、再利用された。都市そのものが解体されながら、部材や記念物だけが別の文脈で生き延びていったわけだね。今回の巨像が本当にここから運ばれたものだとすると、その大きな歴史の流れの一部を、かなり分かりやすく示すことになる。
🐍 では、見つかったテル・エル・ファラウンはどんな場所だったのか
テル・エル・ファラウンは、古代にはイメトと呼ばれた都市遺跡で、ナイル・デルタ東部の重要な宗教拠点の一つだった。とくにここは、下エジプトを守護するコブラ女神ワジェトと強く結びついた場所として知られる。ワジェトは、王の額に立つウラエウスの原型となる守護神で、王権そのものとも深く関わる存在だね。つまりイメトは、地方都市ではあっても、かなり“王権に近い宗教空間”だったわけだ。
近年の調査でも、この場所からはワジェト信仰に関わる祭祀道路や神殿域、さらに後代の塔状住居や穀物処理施設などが見つかっていて、長い期間にわたって宗教と都市生活が重なっていたことが見えてきている。しかも神殿域はラムセス二世の時代にも改修され、さらに後のアマシス二世の時代にも手が入っていたとされる。要するにここは、一度きりの sacred place ではなく、何度も作り替えられながら使われ続けた場所なんだよね。
🪨 古代エジプトでは、像も“動く”ことがあった
こういう話って、つい「像は建立されたらそこに固定される」と思いがちなんだけど、実際の古代エジプトはそこまで単純じゃない。王都が衰退すれば、石材やモニュメントは別の都市へ移されるし、古い王の像が新しい文脈の中で再び立てられることもあった。王の像はただの飾りではなく、王権や神聖性そのものを帯びた存在だから、あとから別の ”聖なる場所(sacred space)” に置き直しても意味があったわけだね。今回の像も、そうした再配置と再利用の具体例として位置づけられている。
ここ、かなり好きなんだよなあ。
巨像って、ただでかい石の塊じゃない。
それ自体が王権のパワーを持っているから、場所を移してもまだ効く。
だからこそ、わざわざ運ぶ価値があったのかもしれないんだよね。
🗿 そして今回、その“動いた巨像”の上半身が出てきた
今回出土した像は、下半身を欠いた上半部だけの状態だけれど、残された図像的特徴からラムセス二世像と考えられている。保存状態はあまり良好ではないものの、王の図像として重要な特徴は読み取れるらしい。また、神殿空間によく見られる三体一組の彫像群、つまり王と神々を組み合わせた triad の一部だった可能性も出ている。もしそうなら、この像は単独の記念像というより、宗教儀礼の場でかなり強い役割を持っていたことになる。
しかも像は発見後、保存のためにサン・エル・ハガルの収蔵施設へ移され、修復準備に入っている。今後、石材の性質や彫刻技法、表面の残存情報が詳しく調べられれば、制作時期や移送時期についてもさらに絞れる可能性がある。つまり今回の発見は、まだ“完成形の結論”ではなく、これから中身が増えていくタイプの発見なんだね。
🧠 あるけまや的に、ここがいちばん面白い
あるけまや的に今回おもしろいのは、これが「ラムセス二世の像がありました」で終わらないところなんだよね。
本当に大きいのは、
王都で作られた王権のモニュメントが、
地方の宗教都市へ移され、
そこで再び意味を与えられていたかもしれない、
という流れが見えてくることなんだ。
これは単なる輸送の話じゃない。
王権の中心が作った象徴が、地方でも使われ続けるということは、政治と宗教のネットワークそのものが stone で見えてきた、ということでもある。しかもイメトはワジェトという下エジプトの守護神と結びつく場所だから、ラムセス二世の像がそこに置き直されたという構図は、かなり意味深だよね。王都の権威を、地方の神域に接続しなおす感じがある。
だから今回の発見って、でかい石が出た話ではあるんだけど、ほんとうは
「王の像は、王都を離れても王権の道具であり続けたのか?」
という話なんだと思うのさ。
こういうの、かなり好きなんだよなあ( ・Д・)
✍️ あるけまや的まとめ
今回の話を雑に言うと、
エジプト東デルタのテル・エル・ファラウン遺跡で、ラムセス二世を表すとみられる巨像の上半部が見つかった。残存部分だけで高さ約2.2メートル、重さ5〜6トン、脚部と台座は失われている。初期調査では、この像はもともとその場で作られたのではなく、ラムセス二世の王都ペル・ラムセスからイメトへ運ばれ、宗教複合施設の中で再利用された可能性が高いとされる。しかもこの場所は、コブラ女神ワジェトを祀る重要な宗教都市でもあった。つまり今回の発見は、王都のモニュメンタルな王権表現が、地方神殿の中で再配置されていたかもしれないことを示しているんだね。
だから今回の発見は、
「高さ2メートル、5トン超えの巨像上半部を発見」
だけじゃなく、
「ラムセス二世の王権は、王都で作られたモニュメントが地方へ運ばれ、再利用されることで、あとからも生き続けていたかもしれない」
というところまで見せてくる。
巨像って、立っているだけでも強い。
でも、動いた痕跡まであると、急に歴史の厚みが増すんだよね( ・Д・)
なにはともあれ・・・・・・
石の巨像って、重いのに、歴史の中では意外とちゃんと移動するんだね!
……モアイも歩くもんね!!!( ・Д・)












































