2026ねん 8がつ5にち(すいよーび、くもり)

外めちゃ暑い時期を乗り越えた感があるけど、JR速攻冷房切ったのか車内暑い!( ・Д・)
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↑たまにお腹いっぱいたこ焼き食べたくなる!( ・Д・)





今回の考古学・歴史ニュースは

埼玉県本庄市の薬師堂東遺跡展で、国内唯一の完形品を含む大量のガラス小玉鋳型が公開されているけれど、調べてみたら、ここは単なる古代集落ではなく、朝鮮半島から届いたガラスを再加工し、東日本へ小さな輝きを送り出した飛鳥時代の先端技術拠点だったかもしれないぞ( ・Д・)」

ってお話です(*・ω・)ノ




📰 はじめに

直径、およそ14センチメートル。

厚さは、わずか1センチメートルほど。

円盤の表面には、小さな穴が規則正しく並んでいる。

その数、161個。

見た目は、古代の「たこ焼き器」。

しかし、穴へ入れたのは小麦粉でもタコでもない。

細かく砕いたガラスだった。

穴の中央へ細い芯を立てる。

その周囲へガラスの粒や粉を詰める。

鋳型ごと高温で加熱する。

ガラス同士が溶け合い、冷えて固まる。

芯を抜けば、中央に紐を通す穴を持った、小さなガラス玉が完成する。

今から約1400年前。

飛鳥時代の職人たちは、この一枚の鋳型だけで、百個を超えるビーズをまとめて作っていたのである。

その鋳型が発見されたのは、奈良県の飛鳥宮や藤原京ではない。

埼玉県北西部、本庄市日の出。

現在の本庄東中学校周辺に広がる、薬師堂東遺跡である。

これまでに確認された竪穴住居跡は384軒。

土坑は506基。

さらに、ガラス小玉を作る鋳型は、資料整理後の集計で188個体に及ぶとされる。

その中には、国内で唯一、円盤全体が残った完形品まで含まれていた。

古代の農村から、なぜこれほど大量のガラス加工道具が出たのか。

原料となったガラスは、どこから来たのか。

ここで作られた小玉は、誰の身体を飾ったのか。

今回は、開催中の企画展「薬師堂東遺跡―ガラス小玉の生産拠点となった大規模集落―」を入口に、飛鳥時代の東日本へ現れた、小さくも巨大な工房の謎を見ていきましょう!( ・Д・)


🏛️ 140点の鋳型が並ぶ「薬師堂東遺跡展」

企画展は、埼玉県本庄市の本庄早稲田の杜ミュージアムで、2026年7月1日から9月13日まで開催されている。

会場は早稲田リサーチパーク・コミュニケーションセンター2階の情報資料室。

入館料は無料である。

展示されているのは、国内唯一の完形品一枚と、多数の破片を含むガラス小玉鋳型約140点。

ほかにも、薬師堂東遺跡の長い歴史を示す土器や、用途がまだ分かっていない棒状土製品、集落や周辺遺跡を紹介する資料などが並べられている。

展示の中心に置かれた完形鋳型は、直径約13~14センチメートル。

報道では約13センチ、発見当初の計測では約14センチとされており、厚さは約1センチ、型穴は161孔である。

円盤全体が残っているため、職人がどのように穴を配置し、どれほどの小玉を一度に作ろうとしたのかを、破片資料よりはるかに具体的に読み取れる。


新しい中学校を建てたら、古代集落が現れた

薬師堂東遺跡では、本庄東中学校の校舎やプールなど、教育施設の整備に伴って、これまで4回の発掘調査が行われてきた。

なかでも大規模だったのが、2012~2013年に新校舎建設予定地で実施されたC地点の調査である。

約5756平方メートルが発掘され、密集する竪穴住居、土坑、溝などとともに、大量のガラス小玉鋳型が発見された。

2016年には、新しいプール棟の建設予定地にあたるD地点も調査された。

そこでは古代集落だけでなく、中世の城館に伴うとみられる堀も確認されている。

つまり薬師堂東遺跡は、一つの時代だけの遺跡ではない。

古墳時代の集落。

飛鳥時代のガラス加工。

奈良・平安時代の居住。

中世の城館。

現在の学校。

同じ土地が、千年以上にわたって異なる目的に使われてきたのである。





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↑ガラス小玉鋳型、完形もあるのがすごいね!( ・Д・)(「本庄早稲田の杜ミュージアム」の収蔵品画像うより転載)


🏘️ 384軒が一度に並んでいたわけではない

「竪穴住居384軒」と聞くと、巨大な村に384世帯が同時に暮らしていたように思える。

しかし、発掘された住居跡は、古墳時代中期から平安時代前半まで、何百年にもわたって建てられた家の累積である。

古い住居を埋め、その近くへ新しい住居を造る。

家族が移動する。

火災や老朽化によって建て替える。

世代が変わるたび、地面の下には新たな住居跡が重なっていく。

したがって、384軒すべてが同時に存在したわけではない。

それでも、限られた調査範囲だけでこれほど多くの住居が見つかったことは、この場所が長期間にわたって選ばれ続けた、埼玉県内でも屈指の高密度集落だったことを示している。

竪穴住居は、地面を方形や長方形に掘り下げ、柱を立て、屋根を掛けた半地下式の家である。

古墳時代後半以降になると、住居の壁際には煮炊きのためのカマドが造られるようになる。

薬師堂東遺跡で暮らした人々も、土器で米や雑穀を煮て、農具を使い、衣服を作りながら日常生活を営んでいた。

しかし、その集落の一角では、一般家庭の仕事だけでは説明しにくい、特殊なガラス加工が行われていたらしい。


🗺️ 遺跡は、本庄台地と低地の境にあった

薬師堂東遺跡は、元小山川右岸に広がる本庄台地の北東縁に位置する。

北には利根川を越えて群馬県があり、西方には神流川、南には児玉地域の丘陵が続く。

現在の行政区分では埼玉県だが、古代の物や技術の動きを考えると、ここは関東平野北西部と上毛野、信濃方面を結ぶ交通の結節点だった。

台地上は洪水の影響を受けにくく、住居を造りやすい。

一方、近くの低地や河川沿いには、水田、畑、水、魚、植物資源がある。

川は生活用水を与えるだけでなく、人と物を運ぶ道にもなった。

重い土器や金属、遠方から届いたガラス素材を運ぶには、陸路だけでなく河川交通も重要だっただろう。

薬師堂東遺跡が長期間にわたる大集落になった背景には、生活条件のよさに加え、北関東を横断する交通上の立地があったと考えられる。


⏳ ガラス工房が動いたのは、7世紀前半から中頃

ガラス小玉鋳型が使われた年代は、おおむね7世紀前半から中頃と考えられている。

日本史の区分では、古墳時代の終末から飛鳥時代にあたる。

聖徳太子が活動したとされる時代の後、大化改新、白村江の戦い、壬申の乱へ向かう頃である。

近畿地方では、ヤマト王権が官僚制や地方支配を整え、後の律令国家へ変化しようとしていた。

しかし、国家の変化は奈良盆地の宮殿だけで進んだのではない。

地方では、新しいカマド、須恵器、馬具、武器、仏教に関係する品、文字、金属加工などが広がった。

中央から派遣された人物。

地域の有力首長。

朝鮮半島に出自を持つ技術者やその子孫。

各地を移動する職人。

そうした人々の関係を通じて、新しい技術が地方社会へ組み込まれていった。

薬師堂東遺跡のガラス小玉生産も、その大きな変化の一部だった可能性がある。



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↑遺構の写真!( ・Д・)(「報告書」の画像より転載)


💎 ガラス小玉は、ただの安いビーズではなかった

ガラス小玉は、外径3~5ミリメートルほどの小さなビーズである。

中央には1~2ミリメートルほどの穴があり、糸や細い紐へ通して使用した。

首飾り。

腕輪。

髪飾り。

耳飾り。

衣服や冠、馬具への縫い付け。

大量の小玉を組み合わせれば、一本の首飾りだけでも強い色彩と輝きを生み出せる。

古墳から出土する玉類は、単なるおしゃれ用品ではない。

死者の身体を飾り、身分や集団への所属を表し、葬送儀礼の中で重要な役割を果たした。

青、緑、黄色、赤などのガラス玉は、石製の勾玉や管玉、金銅製耳環などと組み合わされることもある。

本庄・児玉地域にも、6~7世紀の古墳から水晶、瑪瑙、碧玉、ガラス玉、金銅製耳環などが出土している。

一粒は小さい。

しかし、一人の装身具に数十、数百粒を使うなら、大量生産が必要になる。

薬師堂東遺跡の161孔の鋳型は、まさにその需要へ応える道具だったのである。


🫕 「鋳型」といっても、液体ガラスを注いだのではない

金属の鋳造を想像すると、溶けた青銅や鉄を鋳型へ流し込む姿が浮かぶ。

しかしガラス小玉の製作方法は、少し違っていたらしい。

鋳型の表面に開けられた半球形の穴へ、細かく砕いたガラス片やガラス粉を入れる。

穴の中央には、紐通し孔を作るための芯棒を立てる。

そして鋳型全体を炉へ入れ、およそ800度以上の高温で加熱する。

ガラス粒が軟化して互いに溶着し、穴の形に沿った小玉となる。

冷却後に芯を抜き、鋳型から玉を取り出すのである。

鋳型で作られた小玉の表面には、原料となったガラス片の境目や色むら、十分に溶け切らなかった小さな突起などが残る場合がある。

その特徴を顕微鏡で観察すれば、完成品だけを見ても、鋳型製なのか、別の方法で作られたのかを判断できることがある。


📍 161個の穴すべてに、芯を立てた

完形鋳型の穴の中心には、それぞれ極めて細い貫通孔が開けられている。

ここへ植物の茎、粘土製の芯、細い金属針などを差し込んだと考えられている。

芯がなければ、完成品は穴のない小さなガラス粒になってしまう。

161個の小玉を一度に作るなら、161本の芯をほぼ垂直に立て、倒れないよう調整しなければならない。

ガラスを詰めるだけでも細かな作業である。

色の異なるガラスを混ぜれば、予定しない色になる。

量が多すぎれば穴からあふれる。

少なすぎれば不完全な玉になる。

加熱温度が低ければ粒同士が接着しない。

高すぎればガラスが流れ、芯や鋳型へ強く付着する。

一見単純な「たこ焼き型」でも、安定して同じ大きさの玉を作るには、原料、火力、時間、芯材の性質を理解した熟練が必要だった。




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↑遺構の写真その2、写真上部に煙道らしきものが見えるね!( ・Д・)(「報告書」の画像より転載)


♻️ 原料からガラスを作ったのではなく、輸入品を再利用した

ここは、今回の発見を理解するうえで最も重要な点である。

薬師堂東遺跡の職人が、砂や石英、鉛鉱石からガラスそのものを合成していた証拠は、現在のところ確認されていない。

7世紀前半から中頃の日本列島では、ガラスの原料を調合して素材を作る技術は、まだ一般化していなかった。

職人たちは、すでにガラスとなっていた破片や、壊れた輸入ガラス玉を砕き、鋳型で新しい小玉へ作り直していたと考えられている。

現代風にいえば、これはガラスのリサイクルである。

しかし、単なるごみの再利用ではない。

海外から届いた希少素材を集める。

材質や色を選ぶ。

細かく砕く。

鋳型へ詰める。

高温で再成形する。

一つの高価な輸入品を、多数の小玉へ分割し、地域社会で使いやすい形へ変換していたのである。


🌏 ガラスそのものは、海の向こうから来た

日本列島へ人工ガラス製品が入ってくるのは、弥生時代までさかのぼる。

しかし初期のガラスは、列島内で原料から作られたものではなく、中国、朝鮮半島、南アジア、東南アジア、西アジアなど、遠隔地から運ばれてきた素材や完成品だった。

化学組成を調べると、日本の古代墓から出土する小さな玉の中に、非常に広い交易圏の痕跡が残っている。

特に6世紀末から7世紀中頃に日本で流通した鉛ガラスには、鉛同位体比から朝鮮半島産と判断される一群がある。

薬師堂東遺跡の鋳型に付着したガラスも分析され、朝鮮半島産の鉛ガラスが使われていたことが明らかになった。

つまり、埼玉県本庄市の職人が手にしていた原料は、地域の川原で拾った透明な石ではない。

朝鮮半島で製造され、海峡を越え、九州や近畿を経由し、関東平野の北西部まで運ばれたガラスだった可能性が高いのである。


🧪 鉛ガラスは、なぜ加工しやすかったのか

ガラスは、主成分である二酸化ケイ素だけでは、非常に高い温度でなければ溶けにくい。

そこへ鉛を多く含む成分を加えると、融点を下げ、比較的低い温度で軟化させやすくなる。

透明感があり、屈折率が高く、光を受けると美しく輝くことも特徴である。

古代の職人が現代化学の数式を知っていたわけではない。

それでも、

この種類のガラスは、どのくらい熱すれば軟らかくなるのか。

どの火の色ならよいのか。

何色のガラスを混ぜてよいのか。

経験によって、その性質を理解していた。

原料を作る知識と、既製ガラスを再加工する知識は別である。

薬師堂東遺跡の職人たちは、少なくとも後者を高度に身に付けていた。





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↑鋳型以外も色々でてるね!( ・Д・)(「報告書」の画像より転載)


🏯 近畿中心だった技術が、なぜ本庄へ来たのか

7~8世紀のガラス製作関連遺物は、飛鳥池遺跡や平城京など、中央政権に近い近畿地方で多く見つかる。

飛鳥池遺跡では7世紀後半、金、銀、銅、鉄、ガラス、漆などを扱う巨大な総合工房が操業し、富本銭を含む多様な製品が作られていた。

原料となる石英や鉛鉱石、坩堝、ガラス片、鋳型がそろっており、日本列島で原料から鉛ガラスを作った初期の拠点と考えられている。

ところが薬師堂東遺跡の操業年代は、それより少し早い7世紀前半から中頃である。

しかも中央から遠く離れた東日本で、近畿の多くの遺跡を上回る大量の鋳型が出ている。

このことから、中央政権や朝鮮半島系の技術ネットワークと結び付いた地域拠点が本庄周辺にあり、そこから職人や製作知識が移転した可能性が考えられている。

ただし、中央政府が直接工房を経営していたことを示す命令文や木簡が見つかったわけではない。

地元首長が職人を招いたのか。

中央から技術者が派遣されたのか。

渡来系集団が地域へ定住していたのか。

複数の可能性が残されている。

「中央と直結した生産拠点」は、有力な仮説ではあるが、今後さらに検証すべき問題なのである。


👑 ガラス工房を支えたのは、地域の有力者だった?

特殊な技術を持つ職人が暮らすには、食料と燃料を供給する集落が必要になる。

ガラス加工だけをしていては、米も野菜も作れない。

炉を燃やす薪。

鋳型を作る粘土。

ガラスを砕く石器。

芯材。

作業場所。

完成品を運ぶ人。

それらを維持するためには、一般の農民や手工業者を含む広い社会的基盤が必要だった。

384軒の竪穴住居が累積する大集落は、専門職人を養い、大量生産を継続する人口的な土台になったのだろう。

そして、遠方のガラス素材を入手し、完成品の行き先を調整できる人物がいたはずである。

それは地域首長だったかもしれない。

古墳へ葬られる有力家族だったかもしれない。

後に武蔵国児玉郡を構成する地方行政層へつながる集団だった可能性もある。


⚰️ 工房の近くには、ガラス玉を必要とする古墳があった

本庄・児玉地域には、多数の古墳群が分布している。

薬師堂東遺跡に近い御堂坂古墳群とは、立地だけでなく年代にも重なりがあり、集落と墓域の密接な関係が推測されている。

周辺の長沖古墳群などからも、6~7世紀の玉類や金銅製耳環、武器などが出土している。

ガラス小玉は、近くの古墳へ納める副葬品として作られたのかもしれない。

衣服や装身具として、生きた人々が使用した後、死者とともに葬られた可能性もある。

さらに、薬師堂東遺跡は、関東や東北地方の終末期古墳から大量に出土する鋳型製ガラス小玉の供給地候補として注目されている。

ただし、完成した小玉一粒ごとに「薬師堂東産」という印があるわけではない。

成分、製作痕、年代、分布を比較し、この工房の製品がどこまで運ばれたのかを、今後より細かく調べる必要がある。




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↑完形土器も出てるね!( ・Д・)(「報告書」の画像より転載)


📈 東日本では、鋳型製小玉が8割を占めることもあった

古墳時代の終わり頃になると、東日本の古墳から出土するガラス小玉の中で、鋳型を使って作られたものの割合が急増する。

遺跡によっては、出土小玉の約80%を占めることもあるという。

ところが長いあいだ、それほど大量の小玉をどこで作ったのか分からなかった。

製品はある。

しかし工場がない。

この問題に対して、薬師堂東遺跡は初めて巨大な生産拠点候補を示した。

完成品が消費地の古墳から見つかるのに対し、生産地では壊れた鋳型、失敗品、ガラスの付着物、作業廃棄物が見つかる。

両者を結び付けることで、古代の生産と流通を復元できるのである。


🗑️ 鋳型が出た家は、本当に工房だったのか

薬師堂東遺跡の鋳型の多くは、使用中の炉の横へ整然と置かれていたわけではない。

竪穴住居が使われなくなった後、そのくぼみへ廃棄された状態で見つかっている。

完形鋳型も、257号住居跡から、ほかの鋳型片とともに出土した。

したがって、鋳型が出た住居そのものが、そのままガラス工房だったとは限らない。

別の場所に作業場があり、不要になった鋳型を廃絶住居へ捨てた可能性がある。

壊れた鋳型を一カ所へ集めて廃棄したのかもしれない。

発掘された「ごみ捨て場」から、生産活動の規模を逆算しているのである。

考古学では、完成品より、ごみの方が生産の実態を詳しく語ることがある。


💥 なぜ鋳型は、ほとんど割れているのか

土製鋳型は、高温へ何度もさらされる。

加熱と冷却を繰り返せば、膨張と収縮によってひびが入る。

ガラスが穴へ強く付着すれば、玉を取り外す際に割れることもある。

薄い円盤へ161もの穴を開けた構造は、効率的である一方、強度の弱い部分を多数作ることでもある。

そのため、鋳型は長期間使える耐久財ではなく、ある程度使用した後に廃棄する消耗品だった可能性が高い。

完形品が国内で一枚しか確認されていないことも不思議ではない。

むしろ、薬師堂東遺跡の一枚が、使い終わった後も割れずに地中へ残ったことの方が奇跡的なのである。


🪵 謎の「棒状土製品」は、芯だったのか

薬師堂東遺跡からは、細長い棒状の土製品も多数発見されている。

今回の展覧会でも鋳型とともに展示されているが、用途はまだ確定していない。

見た目からは、ガラス小玉の穴を作る芯や、炉内で何かを支える道具を想像したくなる。

しかし、鋳型との直接的な対応は証明されていない。

太さが鋳型の芯穴と一致するか。

高熱を受けた痕跡があるか。

ガラスが付着しているか。

折れ方や出土位置に規則性があるか。

こうした分析が必要になる。

用途不明だから価値が低いのではない。

むしろ製作工程の中で欠けている道具を示す可能性があり、ガラス小玉生産の復元を左右する資料なのである。





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↑たぁくさん出てるね!( ・Д・)(「埼玉新聞」の記事内画像より転載)


🔢 110点、140点、188個体――数字が違うのはなぜ?

薬師堂東遺跡の鋳型について調べると、110点、140点、188個体という異なる数字が出てくる。

110点は、2013年の発見直後に公表された初期集計。

140点は、今回の企画展で実際に展示されている完形品と破片の数。

188個体は、その後の整理・分類を経て、ミュージアムが現在紹介している出土鋳型の総数である。

発掘資料では、一枚の鋳型が何十個もの破片に割れている場合がある。

逆に離れた場所から出た破片が、接合すると一枚になることもある。

「破片数」と「元の鋳型の個体数」と「展示点数」は同じではない。

数字の違いは矛盾というより、発掘直後の速報から、接合・分類を経た資料研究へ進んだ過程を表している。


🌐 技術は、原料だけでは運ばれない

朝鮮半島産のガラスが本庄まで届いたとしても、素材だけでは161粒の小玉を作れない。

鋳型の作り方。

粘土の選び方。

穴の配置。

芯材。

ガラスの砕き方。

炉の温度管理。

冷却時間。

完成品の取り外し方。

失敗した時の修正法。

言葉にしにくい身体的な技術が必要になる。

そうした技術は、製品だけを眺めて覚えられるものではない。

実際の職人が移動したか、職人のもとで地域の人間が学んだ可能性が高い。

古代の日韓技術交流研究でも、渡来技術者による直接製作、在来の補助者との共同作業、在来職人による技術習得と独立という、段階的な技術移転が想定されている。

薬師堂東遺跡の大量生産は、完成品の輸入から一歩進み、外来技術を地域社会の内部へ定着させた出来事だったのかもしれない。


🏭 古代本庄に「一大工業団地」があったのか

薬師堂東遺跡を、現代の工業団地のように、ガラス工場だけが並ぶ専用区域として想像するのは少し違う。

人々は同じ集落で食事をし、農耕を行い、子どもを育て、土器を作り、その一部が専門的な手工業へ従事していたと考えられる。

生活と生産は、完全に分離していなかった。

それでも、他の遺跡を圧倒する鋳型の量は、家庭で時々ビーズを作っただけでは説明しにくい。

複数の職人。

一定期間継続する作業。

原料を供給する仕組み。

完成品を受け取り、各地へ運ぶ流通網。

それらを備えた、地域的な生産拠点だった可能性は高い。

古代の「工場」は、煙突の立つ巨大建物ではなく、住居と作業場が混ざる大集落の中に存在したのである。


📜 7世紀後半には、国家工房が原料からガラスを作り始める

薬師堂東遺跡の職人が輸入ガラスを再利用していた頃から、少し時代が下る。

7世紀後半、奈良県の飛鳥池工房では、国内産の鉛鉱石などを用いて、原料から鉛ガラスを作る一次生産が始まった。

ガラス素材を作る工程と、それを玉へ加工する工程が、一つの巨大工房内で行われるようになる。

この変化は重要である。

それ以前は、海外から来るガラス素材の量に生産が左右された。

原料から国内生産できれば、国家は必要な色や量のガラスを、より計画的に確保できる。

仏像や寺院の装飾。

宮殿の調度品。

高位者の装身具。

祭祀用品。

ガラスは、成立しつつある律令国家の権威を視覚化する素材へ組み込まれていった。

薬師堂東遺跡は、輸入素材の再加工から国内原料生産へ移る、その直前の技術段階を東日本で示している。


🏡 先端技術は、都だけにあったのではない

古代国家の技術史を語ると、飛鳥京、藤原京、平城京といった都の巨大工房が中心になる。

確かに中央工房には、最上級の職人、原料、行政組織が集まっていた。

しかし完成品を必要としたのは都だけではない。

地方首長も装身具を求める。

古墳の葬送にも大量の玉が必要になる。

地方祭祀にも色鮮やかな品が使われる。

中央と地方を結ぶ流通の途中に、素材を地域向けの製品へ作り替える拠点が必要になる。

薬師堂東遺跡は、技術が「中央から地方へ完成品として届いた」だけでなく、地方側にも生産能力が形成されていたことを示す。

古代の地域社会は、都から一方的に物を受け取るだけの消費地ではなかったのである。


🧭 作られた玉は、どこまで運ばれたのか

今後の大きな課題は、薬師堂東遺跡の製品分布を特定することである。

鋳型の穴の直径や深さ。

完成品に残る形。

ガラスの化学組成。

鉛同位体比。

色。

気泡。

溶け残った粒の特徴。

こうした情報を、関東や東北の古墳から出土した小玉と比較する。

一致する特徴がまとまって見つかれば、古代の流通圏を復元できるかもしれない。

本庄を中心に、利根川沿いへ東へ運ばれたのか。

北の上毛野へ渡ったのか。

東北南部まで送られたのか。

あるいは近隣の古墳群で主に消費されたのか。

188個体もの鋳型が示す生産規模に対して、消費地はまだ十分に見えていない。

小さな玉の分布を追うことは、古代東日本の政治・交易ネットワークを追うことでもある。


🏰 ガラス工房が消えた後も、土地の歴史は続いた

7世紀のガラス生産が終わっても、薬師堂東遺跡から人間活動が消えたわけではない。

奈良・平安時代にも集落が営まれた。

律令制の下では、本庄市域の多くが武蔵国児玉郡に編成される。

さらに中世には、同じ土地へ城館の堀とみられる施設が築かれた。

ガラス工房だけを切り取ると、特別な短い時代に見える。

しかし、工房を成立させた人口、交通、農業生産、地域権力は、前後の時代にも形を変えて続いていたはずである。

今回の展覧会が、鋳型だけでなく集落の歴史や周辺遺跡との関係を扱うのも、そのためだろう。


🎓 8月22日には、ガラス小玉研究の講演会も開催

関連イベントとして、2026年8月22日午後1時30分から、「古代のガラス小玉とガラス小玉鋳型―薬師堂東遺跡出土のガラス小玉鋳型から考える―」と題する講演会も予定されている。

講師は、古代遺跡出土の玉類を研究する大田区立郷土博物館学芸員の斎藤あや氏。

会場は同センター3階レクチャールーム1で、参加無料、定員100人の事前申込制となっている。

展覧会は9月13日まで。

完成鋳型だけでなく、割れた破片が大量に並ぶ姿を実際に見ることで、生産規模と廃棄の実態を感じられる展示になっている。


🔥 161個の小さな穴が、巨大な社会を映している

約1400年前。

職人は、円盤状の粘土へ穴を開けた。

一つ。

二つ。

十個。

百個。

最終的に、161個。

それぞれの中央へ、さらに細い芯穴を通す。

鋳型を焼く。

朝鮮半島から海を越えて届いたガラスを砕く。

穴へ少しずつ詰める。

芯を立てる。

炉へ入れる。

薪を燃やす。

温度を保つ。

冷めるのを待つ。

そして一粒ずつ、鋳型から取り外す。

その作業を行った職人の名前は残っていない。

どの言葉を話したのかも分からない。

中央から来たのか。

地域で育ったのか。

家族で技術を継承したのかも分からない。

しかし、壊れた鋳型は残った。

その数、188個体。

周囲には、何世代にもわたって造られた384軒の竪穴住居が残った。

一枚の鋳型だけを見れば、小さなビーズを作る道具である。

けれども、その背後には、

朝鮮半島の鉱山とガラス工房。

海を越える交易。

近畿の中央政権。

北関東の有力者。

古墳へ葬られた死者。

薪を集めた人。

土を掘った人。

食料を作り、職人を支えた大集落。

そして完成した玉を、遠方へ運んだ人々がいる。

薬師堂東遺跡で見つかったのは、古代の「たこ焼き器」ではない。

小さなガラス玉を通して、東アジアと東日本を結んだ巨大な生産・流通システムの一部分だったのである。

都から遠く離れた本庄の地で、朝鮮半島のガラスを溶かし、161個の輝きへ作り替えた人々。

その小さな穴の一つ一つが、飛鳥時代の地方社会が想像以上に国際的で、技術的で、組織的だったことを、今も静かに語っているのだ!( ・Д・)




なにはともあれ……

今月末あたりに鋳型観てくるかな!( ・Д・)








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