2023ねん 2がつ 19にち(にちよーび、晴れ)
今日はもう春!(・∀・)つ
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今回の考古学・歴史ニュースは「マヤとテオティワカンってどんな関係?( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ
さて、今回の舞台はグアテマラ、北部ペテン県にあるティカルと、前回説明したメキシコ、メキシコシティからやや北に位置するテオティワカンです。
両方ともメソアメリカ文化領域の遺跡ですが、ティカルはマヤ文明、テオティワカンはテオティワカン文明に帰属します。
上に挙げた地図で分かるように両者は直線距離でも約1000kmも離れています。
このシリーズの第1回「マヤの話」の中でも書いたように、旧大陸文明は独自に発展したというイメージが付いて回りますが、実際には様々な文明が興亡し相互に関係し合っていました。
マヤとテオティワカンもそうした相互関係にあった事例のひとつなのです。
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↑テオティワカンの三足円筒土器(Griffith 2018の発表画像より転載)
マヤ文明に与えた「テオティワカンの影響」
前回の「テオティワカンの話」のところでも少し書きましたが、、、
テオティワカンは古代メキシコ文化のひとつですから土器や建築などの物質文化要素に独自の特徴があるわけです。
そうしたテオティワカン的特徴をもつ遺物・遺構、つまりテオティワカン様式遺物・遺構が異文化であるマヤ地域において広く見られるようになる(出土する)現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。
この「テオティワカンの影響」の指標となる遺物・遺構の代表例は上に挙げた写真のものになります。
つまりタルー・タブレロ様式建造物、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器です。
(『蓋付き高台付き碗』って碗に色々付いてるなっていう長い名前なんですけど「おわりに」で少し触れますね)
少々細かいですが他にも、メキシコ的なモチーフ、三足形態と浅スタンプ文、土器器面への単位文配置、焼成後漆喰画技法、エメラルドグリーン色塗料などけっこうたくさんのテオティワカン要素がマヤ地域で見られるようになります。
テオティワカン-マヤ VS 純粋なマヤ?
では何故1000kmも離れた異文化であるテオティワカンの要素がマヤ地域に現れるのでしょうか?
実は、マヤ地域は当時最大の都市であったテオティワカンに侵略を受けて支配されてしまった、という説があります。
マヤ地域がテオティワカンによって支配された/されていないという両説は常にあって、振り子のようにどちらかの説が有力な時期が行き来するような状況にあります。
現在はどちらかというと支配されていた説が強いと思っています。
かく言う私も支配されていた説を指示しています(一部のアッパークラスの入れ替えのみであった説を唱えています)。
この「テオティワカンの影響」について語る際に絶対に外せないのがティカルです。
マヤ地域の一大中心地であったティカルがテオティワカンの支配を受けることで、その後『影響』がマヤ地域に広がっていくことになるのです。
ここで碑文学成果としてサイモン・マーティンらによる著名な研究を紹介することにします。
伝統的な学説として、マヤ地域は個別の都市国家が林立したとする説と、有力国家を中心とする広域国家であったとする説があります。
一方で彼らの説ではマヤ地域は王の神聖性に基づく緩い統合状態であった、つまり従来の2説の中間をいく説明をしています。
マヤ地域は元々都市国家が林立する状態でした。
378年にテオティワカンの軍隊が遠征してきてティカルを征服し当時の王を殺害、メキシコ系の王を擁立して新王朝を打ち立てます。
その後、ティカルを始点として周辺の首長レベル集団あるいは初期国家レベル集団に遠征し、各地に新王を擁立していきます。
結果として新たなメキシコ系ティカル王を頂点とした王朝間の連携、ティカルを宗主国とする都市国家同盟のような連携が誕生します。
他方で別の一大都市国家であったカラクムルも都市国家同盟のような周辺集団との連携を図り、ティカル同盟との長きにわたる対立・武力抗争を行っていくことになります。
マヤ文明史とテオティワカンの関係は簡単に述べるとこんな感じです。
私見ではありますが、ティカル同盟の方はテオティワカンの力を背景にしたテオティワカン-マヤのような血統集団で、カラクムル同盟の方は純粋なマヤ系集団だったのかなと考えています。
この辺は今やってる研究のずっと後に向かい合うものなので、証明はライフワークになりそうです( -д-)ノ
ちなみに上に挙げた土器と下に挙げた土器は、マヤ地域で出土する三足円筒土器の典型例です。
先に挙げたテオティワカンの三足円筒土器とはなんだか違いますよね?
マヤ地域で見られるものの方が縦長で直線的で、蓋が付いてて、蓋の取っ手部に人物などを模した造形があります。
これはテオティワカン産とマヤ産の土器の簡単な見分け方なので、是非博物館展示の際に着目してみてください。
ちなみにこうした『マヤ的なテオティワカン様式』の遺物・遺構がティカル周辺域には多いこと、もっと南の南部高地域などでは様相が異なり『Theテオティワカン!』の遺物・遺構が多いことを根拠に、私はマヤ地域の中でもティカル及び周辺域では土器工人を伴うようなテオティワカン系人口の大量流入はなく、王を含む支配層の一部が入れ替わったのみであると考えています。
おわりに 『蓋付き高台付き碗』って?
さて、最後に『蓋付き高台付き碗』という長ったらしい名前の土器について簡単に説明しますね。
実はこれ私が付けた名前です。
あくまで仮なんですけどね・・・
まずは高台についてなんですけど、これは現代のお茶碗の底に付いている環状の少し高さを出すような部位の名称です。
この高台は元々マヤ地域には見られないものだったのです。
テオティワカンの方にはあって、それがマヤ地域にもたらされたと考えられています。
ちなみにオリジナルであるテオティワカンの方の高台は高く、マヤ地域のものは低い傾向にあります。
それでおおよその見分けが付くので『古代メキシコ展』で両者の土器を見た際には着目してみてください。
あと、「碗」って表現してますが、これも実は微妙なのです。
マヤ地域の研究での一般的な形式分類で「浅皿(plate)」「深皿(dish)」「碗(bowl)」というのがあります。
口径と器高の比率で機械的に分けているものです。
テオティワカンの高台付き”土器”は深皿形のものですが、マヤ地域の高台付き”土器”は深皿形が多数派としつつ碗形もあるのです。
それなら「深皿」と呼べよ!って思うかもしれませんが、、、
この時期のマヤの”高台が付きそうな形状の土器”は鍔付き(flange;また『付き』が出てきた)である事例が含まれ、時期の変遷を見る上でこの鍔の位置が重要なのです。
ちなみに位置はどんどん下がっていきます。
鍔の位置に着目すると「テオティワカンの影響」の時期は碗が主流で、次時期に深皿形に変わっていきます。
なのでこの時期は『碗の方が都合がいい』のです( -д-)ノ
さあ最後に「蓋付き」ですが、、、
実は蓋付き&高台付き碗はマヤ地域でしか出土しません。
テオティワカンの高台付き碗(本当は深皿形で正式な名称は薄手オレンジ色土器)は蓋を伴わないのです。
つまりマヤの人々としては土器に『土製の蓋があること』が『異文化っぽい / 異国情緒感じる』ということだったのか、オリジナルを知らないのか、分かりませんが、、、
古典期前期後半(CE350-550)の時期はマヤ人は蓋付けたがりだったのです( -д-)ノ
こういった状況があって、長ったらしい例のあの名前、「蓋付き高台付き碗」という名前を当てていました。
この土器群には先ほど出てきた「鍔付き」のものとそうでないものがあるということになります。
部位に着目すると地域性や時期の指標になるので面白いですし、展示資料を見てて見方も変わると思うので是非試してみてくださいね!
そう言えば展示会も楽しみだけど、、、
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