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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:トルコ

2024ねん 9がつ 27にち(きんよーび、雨)

結局睡眠時間削って研究時間確保してるけどヤバい眠い( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「青銅器時代の盾と兜が素敵な保存状態で見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台はトルコ東部、ヴァン県のアヤニス城です。

上に挙げた画像で分かるように山というかけっこうな高さの丘?の上に立地しています。



ウラルトゥ王国が築いた城で、古代より前の先史時代に相当する遺跡です。

時期的には900 BCE-585 BCEで、アジアの最西端の位置するアナトリア地域(アナトリア半島域)に栄えたのがウラルトゥ王国です。

近くにヴァン湖があるためヴァン王国とも呼ばれていました。



ウラルトゥの呼称もアッシリア人によるもので、ウラルトゥ語ではビアインリ王国という名前でした。

このビアインリがヴァン湖のヴァンの語源になっていて、またウラルトゥの名は聖書の洪水伝説で有名なアララト山と関係があるそうです。

知らないことで一杯です!( -д-)ノ



arukemaya_z052


最初に挙げた画像から近づいてみると、こんな感じです。

柱なのか右側に方形の遺構が並んでいます。

右側上方にはガラス張りみたいな新しい建造物がありますが、恐らくこの中に保護すべき特別な遺構があるのでしょう。

レリーフとか壁画みたいなものでしょうか。




さて、その新しい建物の更に上方と左側には何やら四角い窪みが見られますが、これらは全て発掘で開けたグリッドでしょうね。

今回の遺物の発見場所は左下の赤丸を加えた箇所です。




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で、発見した遺物がこちら!

同じものを別の角度で撮影しています。

大きな丸い円盤状のものが青銅製の盾で2点写ってます。

盾は内側が上向きになっていて、中に置かれているものが青銅製の兜です。




これで2700年前!

凄い良い出土状態ですよねΣ(・ω・ノ)ノ




でも落ち着いて考えてみると、、、



青銅と言えば、日本だと銅鐸とかがパッと浮かびますが、やはり鉄器時代以前のものの方が遺物として残りは良いですね。

新しい技術のものって使い勝手は良いけれど、遺物として残りにくいんですよね。

現代社会のデジタル情報なんて最たるもののような気がします( -д-)ノ




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おわりに

私、RPG好きなんで、「青銅の盾」とか「青銅の兜」って聞くだけでうぉ~!ってテンション上がります。

実は大学に入るまではヨーロッパの考古学をやりたかったので、、、

なんでかマヤ文明やってますけどね(笑)



ところでこの地域の兜ってとんがりコーンみたいな形なんですね。

受け流すには良い形状なのかも知れませんが、それにしてはかなり薄い感じがします。

防御力低そうですね・・・

いや~、趣味で古代・中世の武器・武具のレプリカ作って、能力値のデータ化したいけど、、、お金も時間もないから無理だな~ヽ(TдT)ノ



ほんと、一般ウケするような面白い研究するから、誰か超金持ちにスポンサーになってもらいたいよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

知り合いに富豪がいたら紹介&説得してね!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ





何はともあれ、

やぱヨーロッパ(?)史はどこ取っても不思議な風情があるね!( ・Д・)



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2024ねん 8がつ 10にち(どよーび、晴れ)

良く寝て程良く研究してるヾ(´ω`=´ω`)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは忘れない内にチャタル・ヒュユクについて紹介するよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


前にチャタル・ヒュユクに関して記事を書いた時に、「この遺跡面白い!」って思って、「今度紹介しますね~」って言ってたのが今回の記事です!

覚えてる内にやらないと忘れちゃうんですよね( -д-)ノ

モチベ高い内に色々やらんとダメなのです( ・Д・)



↓件の前回の記事(*・ω・)ノ
↑読んでない方は是非!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


ということで、今回の舞台はトルコのチャタル・ヒュユク遺跡です!

時期はBCE 7500年~6300年に帰属します。

チャタル・ヒュユクの名が「分岐した丘」を意味し、東と西の丘に分かれています。

東の方が古く、西の丘の上層部はBCE 4300年頃に帰属し、青銅器時代の遺構となっています。




日本で言うならばチャタル・ヒュユクの古い時期はおおよそ縄文時代の前期(1万1000~7000年前)に相当します。

この時期は両者共に新石器時代です。

チャタル・ヒュユクの西の丘は上に述べたように約6000年前にはすでに青銅器時代に突入していますので日本よりも遥かに人類社会の発展スピードは速いですねΣ(・ω・ノ)ノ

弥生時代のスタートが約2000年前なので4000年も先行していることになります( ・Д・)




……あ、格差の人類史を数式と動画で描くのが今の研究の目標だけれども、『社会の発展度合い』って尺度で描いても面白そうですね。

まぁ現代社会まで描くと問題が起きそうですが( ・Д・)

産業革命までなら・・・問題ない?( -д-)ノ




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さて、チャタル・ヒュユクの住居は保存状態が良く、構造も調度品の配置も判明しています。

これが面白いところです。

上に挙げた画像の左端に梯子がありますが、なんと屋根から入る構造の家屋だそうです。

変わってますねΣ(・ω・ノ)ノ




この保存状態がとても良い住居群ですが、何故かというと古い住居の内部に土と瓦礫を詰めて埋め、その上部に新たな家を造る慣習があったようです。

そのため東の丘では18層もの住居が積み重なっていて、高さは21mにもなるそうです。




これってマヤ文明の重層建築のもっと凄いバージョンですよね。

めちゃくちゃ良質なデータが獲れるじゃない!( ・Д・)




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↑古い時代の家屋なのに保存状態いいよね( ・Д・)(「TURKISH Air & Travel」の記事内画像より転載)



しかもチャタル・ヒュユクでは亡くなった家族をベッドの下や床下に埋葬する文化を持っていました。

祖先崇拝の一種ですね。




これもマヤ文明と同じ!

年代ごとの埋葬遺構と副葬品のデータが得られる!

凄すぎる!

考古学的に超重要遺跡ですね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ





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さて、更なるチャタル・ヒュユクの面白いところは、、、

新石器時代なのに「都市構造」を有している点です。




下に挙げた画像のように物凄い数の住居が密集しています。

住居と住居の間の隙間はなく、人々は屋根伝いに移動していたようです。

ちなみに人口は平均で5000~8000人程度で、最大で10000人に達していたようです。




都市構造を持っていて、1万人の大人口、、、

初期国家の定義からして、もうこれ国家レベルの規模なんですけど、

なんとチャタル・ヒュユクは平等な社会と考えられています。




なので国家じゃないのです、たぶん、今のところ( ・Д・)




先行研究によれば、各住居のサイズは一定で大小の差はほとんどないそうです。

また墓には副葬品が含まれ、木製容器、籠、食べ物が共通してみられ、男性の場合は木製・骨製柄付き剣、石製棍棒、土製印章、銅製腕輪、S字状骨製バックル、女性の場合は、化粧用石製パレット、各種装飾品、黒曜石製鏡が出土しています。

またタカラガイを目にはめ込んだ頭骨も検出されています。


・・・でもこうした副葬品を伴う事例は”例外”であるそうです( ・Д・)

そしてこれまでには分業化の証拠も見つかっていないのです。



つまりチャタル・ヒュユクは人類社会の発展史の中で国家形成2歩(?)くらい手前の最後の平等社会の状態だったのかも知れないのです(*・ω・)ノ






おわりに

いやー、こんな遺跡あるの知らなかった!(*・ω・)ノ

ほんといいもの見つけましたわ。



考古学者ってやはり人の子というか、自分がやってる地域・時代のものが最高と考えがちなんですよね。

マヤ研究でも「あるある」です。

だからここ、チャタル・ヒュユクでも、この遺跡が”理想の平等社会”として描かれている可能性があります。



私は最近数理考古学をやってるせいか、やはり物事は連続的に変化すると考えがる傾向にあります。

そうした視点に立つとチャタル・ヒュユックの18層の中で、平等な社会から階層化社会への変化が見て取れてもおかしくないかなと思ってしまいます。




”例外的”に広い居間を持つ住居もあるそうですし、”例外的”に副葬品を伴う墓もあるわけです。

そうした点が階層化の兆候かもしれませんよね。



建造物の重層性と埋葬遺構の特殊性から明らかに発掘が大変な遺跡ですから、現段階でどれだけのデータが取れるか謎ですが、今度頑張ってみようと思います(・∀・)つ




何はともあれ、

やぱ考古学は楽しいぜ!( ・Д・)



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2024ねん 8がつ 3にち(にちよーび、晴れ)

なんだかんだ眠い( ̄▽ ̄;)!!ガーン

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今回の考古学・歴史ニュースは「最古級のシャーマンの墓が見つかった!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



今回の舞台はトルコ南西部のチャタル・ホユック遺跡です。

最近(?)、考古学の常識を塗り替えた(?)みたいな内容で有名なトルコのギョベクリ・テペ遺跡の東240kmに位置するのがチュタル・ホユック遺跡です。


遠いじゃんって思うかもしれないけれど、

まぁ確かに遠いんだけれど、




先土器時代、新石器時代だからね!

大きい遺跡がそんなにごろごろしている時代じゃないのです( -д-)ノ




上に挙げた写真がチュタル・ホユック遺跡ですが、ドーム状に屋根が付けられていて、発掘調査の様子が一般公開されている遺跡です。

公共考古学(パブリック・アーキオロジー)、つまり「市民のための考古学」として公園のように活用実践がなされている遺跡です。

考古学遺跡・活動の観光資源化としても面白いやり方です。



この遺跡のメイン居住期間は約9500年前、BCE 7500年頃と考えられています。

乾燥地帯のためか土壁で造られた住居壁が良く残っています。

調べてみると私の研究的にもかなり興味深い遺跡なので今度別枠で紹介しますね(*・ω・)ノ







さて、上に挙げた写真が今回見つかった人骨です。

右上に頭蓋骨があって左を向いていて、屈葬という膝を抱え込むような姿勢になっている状態です。




人骨の分析から女性だということが分かっています。

シャーマンというのは自然崇拝の中で精霊や霊魂とコミュニケーションが取れる人物であることが多いです。

というのも考古学では使いやすい用語なのです。

精神世界って考古学的には難しいので呪術的な行為を行う特殊な人をシャーマンって言っておけばとりあえずなんとかなるのです( -д-)ノ

時期によっては神官って言えば何とかなる( ・Д・)



さて、今回のケースではこの時期としては珍しく土壙墓の上部、つまるところ人骨の上に大きな石灰石が多数並べられていた点

ヤマウズラの翼やテンの脚、ヒツジやヤギなど、様々な動物の骨が副葬されていた点からシャーマンと推測されています。



チャタル・ホユック遺跡ではマヤ遺跡のように古いお墓が家の中にあるため、深く掘っていくと古い時期のものに当たります。

今回のシャーマンは1万2000年前に帰属すると推定されていますので最古級ですし、人類の発展史を考える上で非常に重要な発見と言えます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!






おわりに


いやほんと、今度別枠でチャタル・ホユック遺跡について書きますね。

正直、ギョベクリテペ遺跡は騒がれているけれどそこまで興味なかったのですが、、、



ここは面白い!

研究費たくさん獲れたらトルコ行きたい!





何はともあれ、

やぱ金なきゃどこも行けん!時間もか!( ・Д・)



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2022ねん 6がつ 18にち(どよーび、晴れ)

スマホ割ったヽ(TдT)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは「史上最大の地下都市が見つかった!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はトルコ南東部、マルディン県のミドヤトにあるマティアテ遺跡です。

 

最大ってのはインパクトあるので“考古学者は大好き“(有名になれるし、お金獲れるから)なわけですが、、、専門外だけれどもそれにしてもパッと記事読んでいる限りちょっとよく分からない……( ・Д・)




「建造されたのは紀元前2世紀頃、1900年もの間使われていた」

西暦1700年まで使われてたのなら文献に残ってるだろうし、よく今まで見つかっていないもんだと逆に驚きますΣ(・ω・ノ)ノ


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↑これが発見現場Σ(・ω・ノ)ノ(「ナゾロジー」の記事内画像より転載)



このミドヤト地区自体が世界遺産なのですが、そのための清掃や保全作業中に「発見」されたそうです。

そしてこの遺跡は「マティアテ(洞窟の街の意)」と名付けられたそうです。

つまり新発見ってことですよね、、、




上の写真を見ると、洞窟の天井部が崩落して見つかった感があります。

作業員や現場の様子を見ていると、住宅街における工事か何かで空洞部が見つかった様に見て取れますね(*^・ェ・)ノ

だって考古学調査に使う機材が一つもないんですもの( -д-)ノ



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↑内部の保存状態の良さよ!(「Gigazine」の記事内画像より転載)



で、まだ全体の3%しか発掘が進んでいないが、6〜7万人もの人口を収容することができた最大級の地下都市なのだとか……

上に挙げた写真で分かるように内部は大きな空洞です。




掘る必要なくない?( ・Д・)




で、全体の3%しか調査進んでないのに、最大級とか6〜7万人収容とかなぜ分かるのか……

踏だけは100%終えて測量図は作成したと言うことなのでしょう……




つまり歩いて踏破できている、、、

何度でも言おう、



掘る必要なくない?( ・Д・)
 






このマティアテ遺跡には多数の部屋があって、換気シャフト、井戸、水のタンク、厩舎、アパート、集会所、墓地などが揃っていて、充実した居住空間だったようです。


まぁ都市と言うだけあって、、、っていうか1700年頃まで使われていたならそりゃあ都市構造持っているでしょうよ!って思うけど( -д-)ノ





遺物などの写真が全然ないなと感じていてふと思ったのですが、こういう空間って観光(話題)にはいいかもしれないけど、考古学的にはつまらん気がします。( ・Д・)




何故かというと、岩盤をくり抜いて空間を作っているわけですが、石材加工時期の判定は極めて困難だから、内部に残っていた最古の遺物や意匠から紀元前2世紀頃に造られた都市だと分かったにしても、どのように拡張されたかといった過程は分からないから。



そしてこれだけ長く使われていると清掃活動によって遺物はほとんど残らないし、層位データも得られない。


このマティアテ遺跡は多層構造なので、まぁきっと下へ下へと横へ横へと拡張したのでしょうけども、、、

墓域があるから墓の副葬品で年代幅決めたり、その年代幅が決まった墓域がどの階層にあるのかで各階層の拡張時期をおおよそ判定するのか、、、

パッと思い付く研究はそんなもんかな( -д-)ノ



……歴史考古学的には文献史と照らし合わせてもっとやることあるんでしょうね、きっと。



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↑アリの巣みたいヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ(「カラパイア」の記事内画像より転載)



上に挙げたのが同じトルコの有名な地下都市遺跡、カッパドキアの地図です。

暑く乾燥した地域だから、こうした地下都市は理に適っていたのかも知れませんね。

地下は涼しそう!(。・ω・)ノ゙




地下水は飲料水などの生活水として利用できるし、乾燥地帯なら水の確保は必要で、どの道ここまで深く掘るならば、そりゃあ途中の空間も掘って利用しようと思いますよね。

そもそもただただ垂直に落としたら(考古学では掘り下げたらの意)、井戸としては深過ぎる問題もあるからね!( ・Д・)




当然環境条件として岩盤の性質も関係してますけども、上記のような解釈が正しいのか、トルコにはすでに40を超える巨大な地下都市が発見されています。




……でも水利と空間利用としては優秀な地下都市だけれども、「数万人の人口を収容」ってのは何だか引っ掛かりますね。

電気のない時代なのだから採光のために燃料使うし、現在のようにラボ内(屋内)で生産は行えず基本的に食糧生産自体は地上で行うのだから地下に余剰人口を維持できるわけない。





そう考えると地下都市という表現はおかしい気もします。

あくまで「地上とセットでひとつの都市」なのであり、通常の都市に見られる周縁部に拡張する中で建設される貯蔵庫、礼拝所や墓域といった占有空間を、縦方向に拡張しただけな気がします。






あ、最後真面目になり過ぎたのでふざけます( ・Д・)





ところで、、、

「人がゴミのようだ!」とは言わんけど、

アリの巣と地下都市の拡張方法の共通性とか研究したら、“こんがり焼けそう“ですよね。

研究者の炎上商法が上手くいくかは謎だけれども、論理的にしっかりしてればイケる?( ・Д・)



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↑こう見ると綺麗だね(「tabiyori」の記事内画像より転載)



おわりに

……実は私、中学生の頃、地理の先生がラリホーマの使い手だったこともあり、めちゃくちゃ苦手なんですよね( -д-)ノ

空間認識能力(?)はめちゃくちゃ高いので行ったとこあるところは脳内でばっと地図が作れちゃうんですけども、世の中行ったことないとこばかりだからね~( ・Д・)




考古学との関連性からも地理の基礎も地理学(〇〇地理学系も)も勉強しなきゃと思いつつ、なかなか進んでいないのですが、、、

今回の記事でも「トルコってどのへんだっけかな~」ってなると思いきや、ウクライナ情勢で周辺地図を見る機会がぐっと増えたので、なりませんでした(・∀・)つ




いや~そう思うと、小中高の先生の責任って重いですよね・・・・・・

たくさんの子供たちの将来に響いてる気がする(´・ω・`)

まぁ大学の先生も当たりはずれはヤバイですけど




「親ガチャ」とか「国ガチャ」って言葉もあるけど、、、

「教員ガチャ」もあるね(*^・ェ・)ノ

……てか、人生全部ガチャでない?

だってこの世の中、確率の集まりだもんね~( ・Д・)




まぁなんだかんだ、、、


ラリホーマ怖い!( ・Д・)



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2020ねん 5がつ 4にち(げつよーび、曇り時々雨)

昨日から米津玄師の「灰色と青」をエンドレスリピートしつつ作業している。

……悲しい気持ちになったヽ(TдT)ノ


・・・・・・・・・・・・・・・



今日の考古学・歴史ニュースは、「2000年前のレアな日時計が見つかったし、日時計に刻まれた碑文も解読されたよ!」ってお話です(*・ω・)ノ


人類が農耕を開始して以降、どの地域でも暦の役割は大きくなっていきました。

正確な暦を作るには正確な天文観測が重要であり、太陽の観察による『時間の流れに対する意識』の目覚めはかなり古いものになります。

地域差もありますが、農耕開始直後の紀元前7000年以降には簡単な日時計(木の枝を地面に突き立てたようなもの)もあったと推測されます。

時代は下って、古代シュメール文明や古代バビロニアでも天文観測が盛んでしたのであったと思われますが、さくっと調べたところ遺構はなさそうでした。

遺構として確認できているのは紀元前3000年の古代エジプトの事例のようです。

往々にして非常に古い日時計は、『ほんとに日時計か?』って怪しいものですが、古代エジプトでは少なくとも紀元前1500年までには確定的な遺構として確認できています。



今回紹介するのは約2000年前ですからおよそ紀元前後の遺構であり、古代ローマに帰属するものになります。

さすがにこの時期のものは、熟練した石工によって製作された非常に精巧なものになります。

そして古代の初期国家に見られるような王族や神官によって独占された秘儀としての天文学が重用された時期とは異なり、個人で発注して製作・設置可能であった時代のものです(*^・ェ・)ノ




トルコで見つかったアウグストゥス帝時代の日時計

発見があったのはトルコの西部に位置する古代都市ラオディケアです。

世界遺産にも登録されている観光地となっている遺跡です。

2020年、当該遺跡の調査中に、アウグストゥス帝時代(ヘレニズム時代)に相当する約2000年前の日時計が発見されました。

ちなみにこの日時計、大理石で出来ているそうですΣ(・ω・ノ)ノ



上に挙げた写真でも僅かに読み取れますが、半球状の盤面に文字(ギリシャ語のアルファベット)が刻まれています。

この文字は、季節と月を示しています。



現代の腕時計でも季節や月、曜日、昼夜などを省略記号で示したものが不随している品がありますが、その古代バージョンですね(*・ω・)ノ

現代でもそうした時計は高級で品数は少ない傾向にありますが、当時でもこういった『時間について詳細に示した日時計』は非常に稀な事例です。

また半球状の盤面の縁には葉っぱのモチーフが連続して帯状に展開していますが、このような種のモチーフが日時計に用いられる事例もとても稀なんだそうです(*^・ェ・)ノ



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ローマの南方で見つかった日時計と碑文の意味

こちらの発見はイタリア、ローマの南方80km地点のリーリ渓谷にあるインテラムナ・リレナスという町の遺跡で発見されました。

このインテラムナ・リレナスは中規模の町で、巨大な古代ローマにおいてはありふれた町のひとつでした。

この町は紀元前300年以降に建設され、紀元後600年までには放棄されました。

今回紹介する日時計は今から約2000年前の紀元前後の遺物ですので、町の歴史としては中間期くらいに相当するのでしょう。

上に挙げた写真に見られるように、日時計の半球状の盤面には時刻を表す11本の線と、これらと交差する3本の曲線(夏至、冬至、春分および秋分との近さを表す)が刻まれています。

先に紹介したトルコの事例とは異なり、盤面に影を落とす役割を担った鉄製の棒は失われています。


この日時計はかつて、町の広場に堂々と設置されていたと推測されていますが、下部の図で示すように発見されたのは町の劇場の入り口付近でした。

西暦600年までに廃墟となってしまったこの町では、放棄前後に建築材として石材の持ち出しがありました。

その際にこの日時計も運ばれて、でも「やっぱやーめた!」と放置されてしまったようです( -д-)ノ

こうした後世の人による破壊・移動もあって、指針たる鉄の棒が欠損したのかも知れません。


さて、この日時計の重要性はその碑文にあります。

解読の結果、ローマ市民であったマルクス・ノウィウス・トゥブラという人物が護民官に当選した記念に、故郷の小さな町に日時計を自腹で購入し、寄贈したとあるそうです。


先のトルコの日時計は立派な大理石製でしたが、小さな故郷のために自腹で寄贈した日時計が石灰岩製というのも趣きを感じます(*^・ェ・)ノ


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↑町の劇場址と日時計の位置関係(「Nacional Geographic」の記事内画像より転載)



おわりに


どちらの発見も重要なものです。

特に後者については、古代ローマ社会において、周辺の中小都市からも出世可能であったということの発見に繋がり、歴史的にも考古学的にも重要です。

インテラムナ・リレナスという片田舎の町から、ローマの栄職に就くような人物が出たことは町の誇りであったでしょう。

護民官という役職は紀元前27年には権限のほとんどを失った名誉職となり、かの人物の就任はその前後となります。

なので彼が裕福だったようには思えません。



マルクス・ノウィウス・トゥブラという人物の出世、町の人たちの想い、故郷に寄贈した記念碑としての石灰岩製の日時計、、、

彼はどんな想いで、どんな状況で日時計を発注したのでしょう

英傑や勇敢な王、策略を駆使した戦とその勝敗などの際立った人物や事柄、歴史の動く瞬間に目を奪われがちな歴史ではありますが、

こういった小さな町の、小さなストーリーに思いをはせるのも歴史の面白さであると、少しでも感じて頂ければ幸いです(ノд・。) グスン

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2019ねん 3がつ 28にち(もくよーび、曇り)

ネタが尽きてきて、よーやく特集系に戻れるかと思いきや、

取り上げたいニュースが上がってくる( ・Д・)

まぁいいことなんですけどね( -д-)ノ


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↑ビュクリュカレ遺跡(中央下部)と美しき風景(「アナトリア考古学研究所」のサイト内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは『トルコで4000年前の綺麗な水晶製のヒョウとか印章とか出たよ!』ってことです(・∀・)つ

前回もちょうどトルコで4000年前の出土品の話をしましたね。


↓以前の関連記事です(*・ω・)ノ
↑トルコ4000年前シリーズ?Σ(・ω・ノ)ノ


というのも、前回の記事も今回の記事も、「アナトリア考古学研究所」の調査・研究成果なのです。

そのため遺跡は別々なのですが、時期的には同時期の資料である可能性がそもそも高いわけです。

このアナトリア考古学研究所は、東京の三鷹市にある(財)中近東文化センターの附属機関として設立されたものです。

ですので、多くの日本人研究者が活躍している場なのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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最初に紹介するのはビュクリュカレ遺跡です。


トルコの首都アンカラの南東約65kmに位置します。


現在と同様に昔から交通の要衝だったと考えられ、 ヒッタイト帝国時代(BCE2000~)以降の都市とのことです。


写真から分かるでしょうか、方形の枠が階段状に重なっているのが調査区で、そこが周辺より高い岩山になっています。

この上に重要な大型建築物が築かれ、周辺部のより低い土地に都市が形成されていました。


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この遺跡で見つかったのが、上の写真のヒョウです!カワ(・∀・)イイ!!

大きさは長軸3cm、短軸2.2cm、高さ1.3cmと小さいです。

直径3mmのラピスラズリや、青いガラス、金が象嵌されており、首には青銅製の金具が付いているそうです。

BCE2000~1800年前のアッシリア商業植民地時代の遺物と考えられます。

貴重なアフガニスタン産の青い宝石であるラピスラズリを使っていることから、笏などの先端に取り付けて儀礼に用いたのではないかと推測されています。


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次に紹介するのがカマン・カレホユック遺跡です。


トルコの首都アンカラから南東約100 kmに位置します。


サイズが直径280 m、高さ16 mあるそうですが、アナトリアでは中規模の丘状遺跡なのだそうです。


これまでの調査で4つの文化層、オスマン/ビザンチン、鉄器時代、後期・中期青銅器時代、前期青銅器時代が確認されています。


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↑カマン・カレホユック遺跡の調査風景(「アナトリア考古学研究所」のサイト内画像より転載)


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上の写真に見られるようなピット(簡単に言うと穴)が非常にたくさん検出されています。

これらは基本的に建築物遺構とのことですが、柱穴もあれば、お墓もあり、炉跡もあるそうです。

ピットは大小様々であり、かなり切り合っているので、複雑だな~という印象です( -д-)ノ

さて、この遺跡で見つかったのは紫色の水晶製の印章です。

このような光り輝く美しい円筒印章は珍しいそうです。

印章は古代メソポタミア(現在のイラク周辺)から来たアッシリア商人が居住していた時代(BCE2000~1800)のもので、先ほどのヒョウと同じくらいの時期の遺物です。


この印章の中央部にはラマと呼ばれる守護神の像(右向きの人型の姿)が刻まれており、縁に角状の突起がある三角帽を被っているなどの特徴から、印章が使用された年代を特定できたそうです。


遺物の大きさは長軸2.4cm、短軸1.4cmで、地表から約3m下の地層から見つかりました。


非常に珍しい品であることから、近くから宮殿等の重要な建造物遺構が見つかることが期待されます(・∀・)つ



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いや~、こういう素敵な遺物の発見、いいですね!

こんなものが土から顔を出したら感動ものですわ!v( ̄∇ ̄)v

↓押してくれぃ!それ、押してくれぃ!( ・Д・)↓

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2019ねん 3がつ 27にち(すいよーび、晴れ)

ダイエットを本格的に開始した。

ズボンが入らないのであるヽ(TдT)ノ

お酒もやめた。

オレンジジュースと共に生きてゆく!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは『4000年前!メソポタミア文明の儀礼用ミニチュア土器が出土したよ!』ってことです(*・ω・)ノ

出土したのはトルコ共和国の首都アンカラから南東に約170kmの地点に位置するヤッスホユック遺跡です。


写真からも想像できるように、ヤッスホユック遺跡はかなり大きな遺跡です。


南北500m、東西625m、高さ13mの丘状の遺跡で、採土や道路建設といった近現代の人間活動によって一部が攪乱・欠損していますが全体として素晴らしい保存状態を保っています。

中央部には長軸約45~50m、短軸約40mの大建造物址が確認されており、王宮または神殿と考えられるそうです。

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遺構の写真に見られる、写真の4枠と平行な四角形の掘り込みがいくつか見られますが、これが発掘調査時の掘り込み面になります。

グリッドと呼んでいますが、このように方形状に調査を進めていくわけです。

一方で中央の大きな調査区の枠に対して、斜めに伸びるラインを見て取れると思いますが、これが住居の壁の痕跡になります。

出土地点や出土状況の詳細は不明ですが、丘の頂上部の表土から50~60cmの位置で7点の土器が集中して出土したそうです


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↑出土した儀礼用土器群(「産経フォト」の記事内画像より転載)


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↑サイズの小ささが分かる(「産経フォト」の記事内画像より転載)


出土した土器群の器高は14~21cmで、一部破損している資料もあります。

帰属時期はBCE1900~1750(約4000年前)で、古代メソポタミア文明の地(現在のイラク周辺)から来たアッシリア商人が活動した時代のものと推定されています。

いずれの資料も把手が付く尖底壺の形態で、このような形態の土器は古代の中東やエジプトで見られるものです。

ただし、2枚目の写真で分かるように非常に小さいものなので、コップのように日常的に飲用に使われたとは考えられません。

世界的にこのような小型の土器、所謂「ミニチュア土器」が出土しますが、多くの場合お墓から副葬品として出土します。

本来の大きなものを作って副葬する代わりとして用いられたせいか、比較的粗雑な作りであることが多いと感じますが、今回の資料は非常に精巧な作りですね!

4000年前にこれだけ小さく精巧な土器を作り上げたとは驚きです!

……それにしてもやはりミニチュア土器は可愛い!

美しいのがさらに良い!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

4000年前のミニチュア土器は、現代の日本のガチャガチャの品に負けてませんよね(・∀・)つ

↓小さい物は可愛い!カワ(・∀・)イイ!!↓

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