あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    トルコ

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    2026ねん 7がつ19にち(にちよーび、晴れ)

    今日もなんだかんだのんびりしてしまた( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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    ↑考古学系の画像暗いのばかりになりがちだから、青は映えるぜ!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「トルコ西部の古代都市トラレイスで、約300人が利用できたと推定されるローマ時代の巨大な冷水プールが完全に発掘され、保存整備が終われば約2000年ぶりに水を張る計画が進められている!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    トルコ西部の丘の上で、土に埋もれていた巨大な長方形が、少しずつ姿を現した。

    長さ37メートル。

    幅12メートル。

    深さは約1.5メートル。

    その大きさは、周囲にある部屋や通路を圧倒している。

    かつて、この場所には冷たい水が満たされていた。

    暑い夏の日には、市民たちが身体を沈め、運動を終えた少年たちが泳ぎ、競技者たちが別の都市で開催される大会に向けて身体を鍛えていたらしい。

    そして、約2000年の時を経た現在、考古学者たちはこの巨大プールへ再び水を張ろうとしている……


    それでは今回は、古代都市トラレイスの歴史、ギリシア世界のギュムナシオンとローマ浴場が合体した巨大施設、古代人にとっての入浴と水泳、そして山地から約56キロメートルもの水供給網を築いた技術を見ながら、今回姿を現した巨大プールへと近づいていきましょう!( ・Д・)


    🏔️ 現代都市アイドゥンを見下ろす、丘の上の古代都市

    トラレイス遺跡は、トルコ西部エーゲ海地方のアイドゥン県にある。

    現在のアイドゥン市街地から北へ数キロメートルほど離れた、ケスタネ山地南斜面の高い台地上に築かれた古代都市である。

    眼下には、古代にマイアンドロス川と呼ばれた大メンデレス川の肥沃な平野が広がる。

    山地から流れ出す水と、広い農耕地、エーゲ海沿岸へ続く交通路を見渡せるこの場所は、人々が都市を築くには極めて恵まれた土地だった。現在も遺跡からは、アイドゥンの町と広大な平野を一望できる。

    トラレイスの地域区分は、古代の資料でも一様ではない。

    マイアンドロス川や山地を境界として見るかによって、カリア地方の都市とされる場合もあれば、リュディア地方に含められる場合もあった。

    古代都市は現代の国境のような明確な線で分けられていたわけではなく、交易、言語、政治支配、宗教圏が重なり合う境界地域に存在していたのである。


    🏛️ トラキア人とアルゴス人が築いた町?

    トラレイスの起源については、古代から複数の伝承が残されている。

    トルコ文化観光当局の紹介では、都市はアルゴス人とトラレイス人によって築かれたとされる。トラレイス人は一般に、バルカン方面から移動したトラキア系集団と関連付けられてきた。

    ただし、これは後世の古代著述家が伝えた都市創建伝承を含んでおり、特定の年にひとつの民族集団が無人の土地へ都市を建設した、という単純な出来事だったとは限らない。

    実際には、周辺に存在した先行集落へ、エーゲ海世界やバルカン方面から来た人々が加わり、長い時間をかけて都市共同体が形作られた可能性がある。

    紀元前334年にはアレクサンドロス大王の支配下へ入り、その死後はセレウコス朝やペルガモン王国など、ヘレニズム諸王国の間で支配者が変化した。

    やがてペルガモン王国最後の王アッタロス3世が領土をローマへ遺贈すると、トラレイスもローマの属州アシアへ組み込まれていった。






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    ↑プールの遠景、プールだけじゃないから素敵な観光向け遺跡になりそうだね!( ・Д・)(「AA」の記事内画像より転載)


    💰 ストラボンも驚いた、裕福な都市

    紀元前1世紀から紀元1世紀頃の地理学者ストラボンは、トラレイスを豊かな住民が暮らす都市として記録した。

    都市が見下ろすマイアンドロス川流域は、農業生産に適した肥沃な地域である。

    さらに内陸部とエーゲ海沿岸を結ぶ道にも接しており、農産物、陶器、皮革、金属製品などを集め、別の地域へ送り出すことができた。

    古代のトラレイスは、皮革製品と赤色系の陶器でも知られていたとされる。

    その富は、劇場、競技場、広場、神殿、舗装道路、浴場、ギュムナシオンなど、都市生活に必要な巨大公共建築へ投じられた。

    都市の豊かさは、単に裕福な個人が豪邸を建てられたというだけではない。

    数千人が利用できる公共施設を建設し、維持し続けるには、税収、寄付、建築資材、職人、清掃員、燃料、水道設備など、都市全体を動かす仕組みが必要になる。

    今回の巨大プールは、その繁栄を水という形で見せる施設だったのである。


    🌍 ローマ帝国の都市になっても、ギリシア文化は消えなかった

    トラレイスがローマの支配下へ入ったからといって、住民が突然ラテン語だけを話し、ローマ式の生活だけを送るようになったわけではない。

    小アジア西部の都市では、ギリシア語とギリシア式の都市制度が引き続き大きな役割を果たした。

    その一方で、皇帝崇拝、ローマ法、属州行政、大規模浴場、アーチやヴォールトを用いた建築技術などが都市へ加わった。

    トラレイスの浴場・ギュムナシオン複合施設は、まさにその文化的融合を示している。

    身体教育を行うギリシア系のギュムナシオンと、温水・熱気・冷水を組み合わせたローマ式浴場が接続され、教育、運動、入浴、社交をひとつの建築群の中で行えるようになったのである。


    🌎 紀元前26年、都市を襲った大地震

    トラレイスは繁栄する一方で、地震の危険と隣り合わせの都市でもあった。

    アナトリア西部は複数の活断層が走る地震多発地域である。

    紀元前26年頃には大地震が発生し、トラレイスの建築物も甚大な被害を受けたとされる。

    当時のローマ皇帝アウグストゥスは都市の復興を支援した。

    その援助への感謝から、都市は一時的に「カエサレイア」、すなわち皇帝の都市を意味する名で呼ばれたとも伝えられている。

    今回プールが発見されたギュムナシオンも、もともとはヘレニズム時代に起源を持ち、地震で損傷した後に修復された建築だった。

    さらに紀元2世紀になると、ギュムナシオンへローマ式の浴場部分が増築され、巨大な浴場・ギュムナシオン複合施設へ再編されたと考えられている。





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    ↑別の角度からプールの遠景、人気は出そうだけど入場制限とか遺跡保護の問題が大きくなりそうだね!( ・Д・)(「AA」の記事内画像より転載)


    🏋️ ギュムナシオンは、現代の体育館ではない

    ギュムナシオンという言葉から、器具が並ぶ現代のスポーツジムを想像してしまうかもしれない。

    しかし古代ギリシア・ローマ世界のギュムナシオンは、身体だけでなく、都市市民となる若者を教育する施設だった。

    若者たちは走る、跳ぶ、投げる、格闘するといった運動を学び、場合によっては音楽、詩、哲学、修辞、政治的教養などにも触れた。

    そこは将来の兵士や競技者を育てる場所であると同時に、都市共同体の価値観を次世代へ伝える場所でもあった。

    トラレイスの施設には、運動用の広場、教育空間、皇帝に関係する儀礼空間、浴場、そして水泳用プールが備えられていたと考えられている。

    ただし、利用できた人々が都市住民すべてだったとは限らない。

    ギュムナシオンで正式な教育を受けた若者は、主として自由身分の男子市民だったと考えられる。

    女性、奴隷、貧困層、外部から来た人々が、施設のどこまで利用できたかは、都市や時期によって違っただろう。

    巨大な公共建築は都市全体の繁栄を象徴する一方、誰がその恩恵を受けられたのかという社会的な差も映し出すのである。


    ♨️ 入浴だけではなかったローマ浴場

    ローマ浴場は、汚れを落とすためだけの施設ではない。

    人々は運動後に身体へ油を塗り、垢や汗をこそげ落とし、温度の異なる部屋と浴槽を移動した。

    一般的には、比較的温かいテピダリウム、熱いカルダリウム、冷水を利用するフリギダリウムなどが設けられた。

    そのほかにも更衣室、運動場、庭、休憩室、講義や会話のための空間が組み合わされることがあった。

    入浴者は友人と話し、政治や商売の情報を交換し、運動を観戦し、食事を取り、時には詩や演説を聞いた。

    浴場は身体を洗う場所であると同時に、都市社会へ参加する場所だったのである。

    トラレイスの浴場・ギュムナシオン複合施設は、約4万平方メートルに及ぶとされる。

    参考までに、小アジアを代表するサルディスの巨大浴場・ギュムナシオン複合施設は約2万3000平方メートルである。

    単純な面積比較だけで建物の重要度を決めることはできないものの、トラレイスの施設が並外れた規模だったことは確かである。


    🗿 浴場を飾った神々と怪物たち

    ローマ浴場の内部は、現代の簡素な公共プールとは大きく異なる。

    床には大理石やモザイクが敷かれ、壁には色鮮やかな石材が貼られ、柱、噴水、彫像、浮彫が空間を飾った。

    トラレイスの浴場・ギュムナシオンからも、健康を司る女神ヒュギエイア、野性的な自然と結び付くパンやサテュロスなどの彫刻が発見されている。

    ヒュギエイア像は、清潔、健康、治癒と結び付く浴場空間に適した主題だった。

    パンやサテュロスは、裸身、自然、酒、音楽、欲望といった世界を想起させる。

    入浴者たちは、裸の身体を洗い、運動し、会話を交わしながら、こうした神々や神話的存在の像に囲まれていたのである。






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    ↑修復作業っぽいね、水張るまでは暑そうで辛そう!( ・Д・)(「AA」の記事内画像より転載)


    👁️ 「三つの眼」と呼ばれる巨大な壁

    現在のトラレイスで最も目立つ遺構は、巨大な三連アーチを持つ建造物である。

    地元では、三つの大きな開口部から「ウチ・ギョズレル」、すなわち「三つの眼」と呼ばれている。

    かつては凱旋門のようにも見られたが、現在では浴場・ギュムナシオン複合施設に属する巨大建築の一部と理解されている。

    これは建物の正面だけが残ったものではなく、複雑なヴォールトや大空間を支えていた構造体の一部である。

    壁の向こう側には、運動場、浴室、廊下、プール、儀礼空間などが広がっていた。

    近代の訪問者は長いあいだ、この三連アーチを孤立した廃墟として眺めてきた。

    しかし周囲の発掘が進んだことで、それが巨大施設全体のほんの一部分にすぎなかったことが明らかになりつつある。


    🎵 世界最古級の「完全な歌」も、この町の近くから現れた

    トラレイス周辺を有名にした資料には、巨大建築だけでなく、ひとつの短い歌がある。

    19世紀、アイドゥン周辺の鉄道建設に伴って、セイキロスの墓碑と呼ばれる石柱が発見された。

    石にはギリシア語の歌詞とともに、音の高さや長さを表す記号が刻まれていた。

    古代の音楽断片はほかにも残されているが、歌詞と旋律をほぼ完全な形で演奏できる資料として、セイキロスの歌は極めて重要である。

    その歌詞は、人生の短さを受け入れ、生きているあいだ輝くように語りかける。

    運動、入浴、彫刻、音楽、教育。

    トラレイスは、身体と精神の双方を都市文化の中で育てた場所だったのだろう。


    ⛏️ 19世紀から続いてきたトラレイス研究

    トラレイスの遺構は、18~19世紀にアナトリアを旅行したヨーロッパ人によって記録された。

    19世紀末には、ペルガモン発掘で知られるカール・フーマンや建築考古学者ヴィルヘルム・デルプフェルトらが調査を行った。

    20世紀初頭にはオスマン帝国側の研究者による調査も実施されたが、都市全体を長期間にわたって発掘するには至らなかった。

    現代的な発掘調査は、アイドゥン博物館とアドナン・メンデレス大学の協力によって1996年に始まった。

    それから約30年にわたり、劇場、道路、浴場、ギュムナシオン、商業施設、墓地などの調査と保存が進められてきた。

    現在の発掘を率いるムラト・チェキルメズ教授は、学生時代からトラレイス調査へ参加してきた人物である。

    近年はトルコ文化観光省の「未来への遺産」事業の一環として、発掘だけでなく、建物の修復、遺跡内の見学路、景観整備、一般公開へ向けた作業も進められている。


    🏊 土の下から現れた、長さ37メートルの水泳プール

    今回注目されたプールの発掘は、2025年の調査シーズンに本格化した。

    プールは、浴場・ギュムナシオン複合施設の中央部付近に設けられた大規模な冷水施設である。

    発掘では、長さ約37メートル、幅約12メートル、深さ約1.5メートルの長方形の構造が完全に確認された。

    発掘責任者は、同時に約300人が利用できた可能性を示している。

    ただし「300人」は座席数を数えた結果ではなく、プールの面積と想定される利用方法から導かれた概算と見るべきだろう。

    プールの上には、古代にも屋根がなかったと考えられている。

    太陽の光を受ける屋外プールとして使用され、アイドゥン地方の暑い夏には、浴場へ来た人々が身体を冷やす場所となった。

    隣接するギュムナシオンで教育を受けた若者や競技者も、水泳訓練に使用した可能性がある。






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    ↑上空から、美しいね!( ・Д・)(「AA」の記事内画像より転載)


    🥇 本当に「古代のオリンピックプール」なのか?

    多くの報道は、この施設を「オリンピック級」「古代のオリンピックプール」と表現している。

    しかし、現代のオリンピック競泳用プールは長さ50メートル、幅25メートルを基本とする。

    長さ37メートル、幅12メートルのトラレイスのプールが、現代と同じ規格に従っていたわけではない。

    そもそも古代の競技世界には、国際水泳連盟が定めるような世界共通のプール規格は存在しない。

    ここでの「オリンピック」という言葉は、現代の競泳会場と同じだったという意味ではなく、古代の施設として極めて大きく、競技者の訓練にも用いられた可能性があるという比喩的な表現である。発掘責任者自身も、近隣都市の類例より大きく、競技者を育成した施設だったという文脈でこの言葉を用いている。

    また、古代オリンピックの中心競技に、現代のような競泳種目が存在したわけでもない。

    古代世界で水泳能力は、健康、軍事、教育、日常生活に有用な技能だったが、トラレイスのプールがオリンピック競泳大会の会場だった証拠はない。

    魅力的な見出しと、考古学的に確認できる事実は分けて考える必要がある。


    👦 少年たちは本当に全員泳げたのか?

    発掘責任者は、ギュムナシオンで教育を受けた子どもたちにとって水泳が重要であり、競技者として他都市の大会へ参加する者もいたと説明している。

    それは、プールが単なる冷水浴槽ではなく、一定の距離を泳げる訓練施設だった可能性を示す。

    ただし「すべての子どもが必ず泳げた」とまで断定するには、慎重であるべきだろう。

    古代都市の子どもたちは、身分、性別、財産、家族の地位によって受けられる教育が異なった。

    ここでいう子どもとは、主としてギュムナシオンへ通うことのできた若い男子市民を指している可能性が高い。

    それでも、約37メートルという長さは、身体を浸すだけの浴槽とは明らかに異なる。

    若者たちが端から端へ泳ぎ、速度や持久力を競い、教官がそれを見守っていた光景は十分に想像できる。


    🚿 水は約56キロメートル先から運ばれた

    巨大プールを造るだけでは、水泳施設は機能しない。

    大量の水を安定して供給し、汚れた水を外へ排出しなければならない。

    発掘調査では、トラレイス北方の山地から湧水を都市へ運んだ、総延長約56キロメートルに及ぶ水供給システムが確認されているという。

    水は地形の高低差を利用し、導水路や管を通って都市へ到達した。

    さらにプール周辺では、水を短時間で排出するための排水路も発見された。

    水が汚れればプールを空にし、清掃した後に再び新しい水を入れることができたのである。

    現代のプールには、循環ろ過装置や消毒設備がある。

    古代の施設では、水を化学的に消毒するのではなく、比較的新鮮な水を導入し、汚れた水を排出して入れ替えることが重要だった。

    それには豊富な水源だけでなく、勾配計算、測量、石造・煉瓦造の水路、漏水防止、防水仕上げ、定期的な清掃が必要になる。

    巨大プールは、ローマの建築技術だけでなく、日々それを管理した無数の労働者の存在によって維持されていた。


    🧱 土の重みが、逆に遺構を守っていた

    2025年の報道では、プール付近を覆っていた堆積土は、場所によって約6メートルの厚さに達していたとされる。

    その土を取り除くと、ローマ時代から東ローマ時代にかけての建築層が良好な状態で現れた。

    遺跡にとって、土は敵であると同時に保護層でもある。

    建物を覆い隠す一方で、風雨、植物、人間による石材の持ち去り、急激な温度変化から遺構を守る。

    ところが発掘によって地表へ露出すると、石材や煉瓦、モルタル、防水層は再び雨、日射、乾燥、塩類、植物、微生物の影響を受け始める。

    そのため発掘の終了は、保存作業の始まりでもある。


    💧 では、本当に2000年ぶりに水を張るのか?

    結論からいえば、再び水を張る計画は実際に存在する。

    2025年には、発掘と修復を終え、同年末までにプールへ水を入れることが目標として発表されていた。

    しかし作業は予定より長期化し、2026年7月になってプール全体の発掘完了が報じられた。

    最新の説明では、発掘と保存処置が完了した後に水を張る方針が改めて示されているものの、具体的な実施日は明らかにされていない。

    したがって、

    「2025年中に水を張る予定だった」

    という情報は、すでに達成された出来事ではなく、当初の目標である。

    現段階では、

    「プールの全体発掘は完了し、今後の保存整備を経て水を張る計画がある」

    と表現するのが最も正確だろう。


    ⚠️ 古代のプールへ水を入れるのは、簡単ではない

    水を張れば、訪問者は古代の空間を理解しやすくなる。

    乾いた石の窪みだけを見るよりも、水面が光を反射し、周囲のアーチや柱が映り込む姿を見れば、この場所が本当にプールだったことを直感的に感じられる。

    しかし、保存の観点では慎重な準備が必要である。

    発掘後の石材や煉瓦へ水が繰り返し浸透すると、内部の塩分が移動し、乾燥時に結晶化して表面を傷めることがある。

    水中では藻類や微生物が繁殖しやすくなり、目地や防水層を変色・劣化させる可能性もある。

    水の重さや漏水が、地下の構造へ影響を与えることも考えなければならない。

    そのため実際に水を張る場合には、古代の床面へ直接水を触れさせるのか、現代の保護層を設けるのか、どの水を使い、どの頻度で交換し、どのように排水するのかといった保存計画が必要になる。

    今回、発掘責任者が「保存作業の完了後」と繰り返しているのも、そのためだろう。


    🏊 観光客も泳げるようになるのか?

    報道されている計画は、古代プールへ水を張り、当時の景観を再現するというものである。

    現代の観光客が実際に泳げる施設として開放するとは発表されていない。

    遺跡のプールへ人を入れれば、転倒事故、水質管理、石材への接触、摩耗、監視、着替え設備など、まったく別の問題が生じる。

    したがって水を張ったとしても、基本的には見学用の復元展示になる可能性が高い。

    古代人が泳いだ場所へ現代人が飛び込める「2000年前の公共プール復活」と考えるのは、少し早そうである!( ・Д・)


    🏙️ 1日に3000~5000人が集まった巨大施設

    発掘責任者は、浴場・ギュムナシオン複合施設全体を、1日に3000~5000人ほどが利用した可能性を示している。

    この数字も厳密な入場記録から得られたものではなく、施設規模に基づく推定である。

    それでも、約4万平方メートルの建築群が、一部の王族だけのために建てられた私的空間ではなかったことは明らかである。

    朝から若者が運動し、教師が指導する。

    商人や役人が入浴しながら情報を交換する。

    競技者が泳ぎ、観客がそれを見る。

    燃料を運ぶ者、水路を修理する者、床を掃除する者、衣服や所持品を管理する者、食べ物や油を売る者もいたかもしれない。

    浴場を中心に、都市のさまざまな仕事と人間関係が動いていたのである。


    🔎 巨大プールが見せる、都市の本当の豊かさ

    古代都市の豊かさは、出土した金貨や大理石像の数だけでは測れない。

    毎日大量の水を都市へ運べること。

    数千人が利用する建物を維持できること。

    若者を教育し、競技者を育てる制度を持つこと。

    壊れた水路、床、屋根、炉を修理し続けられること。

    トラレイスの巨大プールは、こうした都市全体の能力を目に見える形で示している。

    その水面には、単に泳ぐ人々だけが映っていたのではない。

    水を引いた技術者。

    石を積んだ職人。

    薪を運んだ労働者。

    施設を寄進した富裕層。

    教育を受けた若者。

    都市大会へ向かう競技者。

    そして浴場へ集まった何千人もの市民の姿が映っていたのである。


    🌊 2000年前の水面が戻る日

    現在、プールの水は失われている。

    残っているのは、土の中から現れた床、壁、排水路、導水設備である。

    しかし保存作業が成功し、実際に水が張られれば、トラレイスの風景は大きく変わる。

    乾いた遺構の底に水面が広がり、古代のアーチと現代の空が映る。

    もちろん、その水は約2000年前に山から流れてきた水そのものではない。

    失われた屋根、柱、彫像、人々の声まで元に戻るわけでもない。

    それでも水は、遺跡が静止した石の集合ではなく、かつて流れ、満たされ、排出され、清掃され、毎日使われていた施設だったことを思い出させてくれる。

    トラレイスの巨大プールに再び水が入ることになれば、それは単なる観光用の演出ではない。

    古代人が水をどのように都市へ運び、身体を鍛え、社会を作り、公共空間を維持したのかを、現代の私たちが水面を通して想像する試みになる。

    約2000年ぶりに戻るかもしれない水面は、古代ローマの技術と都市生活を、もう一度空の下へ映し出そうとしているのだ!( ・Д・)




    なにはともあれ……

    マヤ遺跡でも水あるとこは不思議と人気だよ!( ・Д・)







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    2026ねん 6がつ5にち(きんよーび、くもり)

    明日は横浜出張だ!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya_y693

    ↑そーいや最近チャッピーと研究について語り合ってないなぁ!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは「トルコ中央部のキュルテペ遺跡で、約5300年前の巨大円形建築を囲む周壁らしきものが見つかって、都市の始まりの説明がちょっと面白くなってきたぞ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに


    「都市のはじまり」って聞くと、だいたいメソポタミアを思い浮かべるよね。

    チグリス川とユーフラテス川のあいだで、灌漑農耕が発達して、人が集まり、神殿や役人や支配者が出てきて、都市が生まれた。

    これが、かなり定番の説明だ。

    もちろん、この説明はとても強い。実際、南メソポタミアのウルクは、紀元前3200年ごろには巨大な日干しレンガ建築をもつ大都市になっていたとされる。いわば「世界最古級の都市」の代表選手だ。

    でも、今回の話はそこから少し外れる。


    舞台はメソポタミアそのものではなく、トルコ中央部、カッパドキア地域にあるキュルテペ遺跡。

    ここで、紀元前3300年前後、つまり約5300年前の大規模建築址と、その周囲をめぐるような周壁の一部が見つかったというのだ。

    これ、単に「大きな建物が出ました!」という話ではない。

    もしかすると、都市は「農耕だけ」で生まれたわけではないかもしれない。

    そんな問いを、かなり真面目に突きつけてくる発見なのだ( ・Д・)


    🏺 キュルテペ遺跡ってどんな場所?

    キュルテペ遺跡は、トルコのカイセリ近郊にある大遺跡だ。

    古代名ではカネシュ、あるいはネシャとも呼ばれ、後の時代にはアッシリア商人たちの交易拠点として非常に有名になる。遺跡は上部の大きなマウンドと、下部の交易地区からなり、カイセリの北東約20キロに位置する。

    特に有名なのが、紀元前2千年紀前半のアッシリア商人文書だ。

    キュルテペからは、およそ2万3500点もの楔形文字粘土板が出土していて、商取引、家族関係、契約、法律問題などがびっしり記録されている。これは古代近東における最大級の私文書群であり、ユネスコ「世界の記憶」にも登録されている。

    つまりキュルテペは、もともと「交易都市」としてめちゃくちゃ重要な遺跡なのだ。

    ただし、今回の発見が面白いのは、アッシリア商人たちの時代よりずっと古いところにある。

    紀元前3300年前後。

    アッシリア商人たちが活躍するより、1000年以上も前の世界だ。






    🧱 今回見つかったもの

    今回の発表によると、ノートルダム清心女子大学、徳島大学などの研究グループは、キュルテペ遺跡で2015年から発掘調査を続けてきた。

    研究グループは、2021年に紀元前3300年前後の大規模建築址を確認していた。これは一辺26メートル以上、厚さ約1.3メートルの日干しレンガ壁をもつ、ジグザグ形の特異な建物だった。

    そして2025年度の調査で、その建築址の東側から、深さ3メートルを超える周壁の一部が確認された。

    周壁の斜度は約25度。さらに、この周壁は円形を描く可能性があり、直径100メートル規模のプランになるかもしれないという。


    直径100メートルというと、ざっくり内側の面積だけでも約7850平方メートル。

    ほぼサッカーコート級の空間だ。

    しかも、それが約5300年前の中央アナトリアにあったかもしれない。

    これはなかなか、とんでもない( ・Д・)


    🌀 周壁は「城壁」なのか?

    ここで大事なのは、「周壁」と聞いてすぐに「城壁だ!」と決めつけないことだ。

    発表でも、現段階ではこの周壁が防御を目的としたものかどうかは判断できないとされている。つまり、敵を防ぐための壁だったのか、儀礼空間を区切る壁だったのか、巨大建築の外周を整える構造だったのか、まだ慎重に見る必要がある。

    ここが考古学っぽいところだよね。

    大きい壁が出た。

    円形っぽい。

    古い。

    じゃあ城壁だ!

    ……とはならない。


    むしろ今回のポイントは、「防御施設かどうか」よりも、「これほど大きな空間を計画し、造り、維持する社会的な力があったかもしれない」というところにある。

    巨大建築は、ただの家ではない。

    そこには、労働力を集める仕組み、材料を集める仕組み、設計する知識、そしてその建物を必要とする社会的な理由がある。

    その意味で、この周壁らしき遺構は、都市的な社会の気配を示している可能性があるわけだ。



    ⛏️ 農耕だけではない都市の始まり?

    これまで都市誕生の説明では、農耕、とくに灌漑農耕が大きな役割を持つとされてきた。

    南メソポタミアでは、川の水を引いて農地を管理し、多くの人びとを支える食料生産を行う。そのためには、労働力の組織化、水の管理、倉庫、神殿、支配者、役人のような仕組みが必要になる。

    だから農耕が都市を生んだ、という説明はとてもわかりやすい。

    一方で、北メソポタミアのテル・ブラクのように、天水農耕を基盤とした早期都市化の研究も進んでいる。つまり、都市化のルートは南メソポタミアの灌漑モデルだけではない、という議論はすでにあった。

    そして今回のキュルテペは、さらに別の可能性を見せてくる。

    研究グループは、カイセリ県周辺で2008年から遺跡分布調査を行い、約130遺跡を発見・登録してきた。その分析から、スズなどの希少資源や鉱物資源の交易が、中央アナトリアにおける都市社会の成立に関係したのではないか、という仮説を提示している。


    つまり、都市の始まりは、

    農耕で食料をたくさん作ったから

    だけではなく、

    鉱物資源を動かしたから
    交易ネットワークの要になったから
    儀礼的・政治的な中心が必要になったから

    という複数の道筋があったかもしれないのだ。

    これはかなり重要だと思う。


    🏛️ 巨大建築は何を語るのか

    今回の大建築址には、埋納土器が多く付随し、何らかの儀礼と関わる特徴が見られるという。

    これも面白い。

    もしこれが単なる防御施設なら、「守るための壁」として理解しやすい。

    でも、埋納土器や儀礼的性格が関わるなら、この場所は、政治・宗教・社会統合の中心だった可能性もある。

    都市って、単に人がたくさん住む場所ではない。

    人びとが集まり、モノが集まり、記憶が集まり、儀礼が行われ、権力や共同体の形が見える場所でもある。


    その意味で、キュルテペの巨大円形建築は、「都市の人口」そのものよりも、「都市的なふるまい」の出現を示しているのかもしれない。

    しかも時期は紀元前3300年前後。

    これは、南メソポタミアでウルクが巨大都市化していく時期とかなり近い。

    もし中央アナトリアでも、同じころに別の仕組みで大規模な社会統合が起きていたなら、都市誕生の物語はかなり複線的になる。


    🌍 キュルテペは“後の交易都市”だけじゃなかった

    キュルテペといえば、どうしても紀元前2千年紀のアッシリア商人、カールム、楔形文字文書のイメージが強い。

    でも、近年の研究では、それ以前のキュルテペもかなり重要だったことが見えてきている。

    紀元前3千年紀後半のキュルテペでは、長距離交易や金属資源との関わり、そして大規模な公共建築の存在が指摘されている。トルコ語圏の研究でも、紀元前3千年紀後半のキュルテペが、金属を中心とする遠隔地交易に参加していたことや、記念碑的建築が中央集権的な権威を示すことが論じられている。

    今回の紀元前3300年前後の発見は、それよりさらに古い段階に光を当てるものだ。

    つまりキュルテペは、

    後にアッシリア商人が来て栄えた場所

    ではなく、

    アッシリア商人が来るずっと前から、中央アナトリアの重要拠点だった可能性がある。

    ここがめちゃくちゃ熱い。





    🤔 何がまだわからないのか

    もちろん、まだ確定していないことも多い。

    まず、直径100メートル規模の円形プランは、今回の周壁確認で可能性が高まった段階だ。全体が発掘されたわけではない。

    次に、この周壁が何のためのものだったのかも、まだ決定できない。

    防御かもしれない。
    儀礼空間の境界かもしれない。
    高台を囲む建築的な外周施設かもしれない。
    あるいは、複数の機能をもつ構造だったかもしれない。

    そして、「都市」と呼べるかどうかも慎重に考える必要がある。

    巨大建築があることは、都市的要素の重要な証拠になる。

    でも、都市というには、人口規模、居住域、階層性、分業、交易、儀礼、行政、周辺集落との関係など、いろいろな要素を合わせて見る必要がある。


    だから今回の発見は、「ここに都市がありました、終了!」という話ではない。

    むしろ、

    都市とは何か?
    都市はどうやって生まれるのか?
    農耕以外の力で都市は立ち上がるのか?

    という問いを強くする発見なのだ。


    ✨ おわりに

    今回のキュルテペ遺跡の発見は、「100メートル級の大きな建物らしい!」という見た目のインパクトもすごい。

    でも、本当に面白いのはそこだけじゃない。

    この発見は、都市の始まりをめぐる物語を、メソポタミア中心の一本道から、もっと複雑なネットワークへ広げてくれる。


    農耕の都市。
    交易の都市。
    儀礼の都市。
    鉱物資源の都市。
    そして、それらが重なり合ってできる都市。

    キュルテペの丘をぐるりと囲んでいたかもしれない周壁は、ただの壁ではない。

    それは、約5300年前の人びとが、中央アナトリアでどんな社会を作ろうとしていたのかを考えるための、大きな円なのかもしれない。

    まだ全体像は見えない。

    でも、その円の一部が見えた。

    考古学って、こういう瞬間がいちばん楽しいんだよね( ・Д・)




    ……なにはともあれ
    やっぱMME宣伝のためにトルコらへんのデータも必要だなって気がした!( ・Д・)






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    2025ねん 2がつ 26にち(もくよーび、晴れ)

    あ”~とりあえず1年耐久ゲームだな!( ・Д・)
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    ↑保存状態の良いゼウスの神殿!( ・Д・)(「Smithonian magazine」の記事内画像より転載;credit:  Dosseman via Wikimedia Commons under CC BY-SA 4.0)



    今回の考古学・歴史ニュースは「泥の中から女神出てきた!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに


    古代ギリシャの愛と美の女神アフロディーテ。
    その像(または像の一部)が、現代トルコの発掘で泥の中から掘り出された――というニュースが出回っていて、こういうのは一撃で心を持っていかれるやつ。

    泥まみれで顔だけ転がってるとか、あるいは地中深くからぬるっと出てくるとか、絵面が強すぎるんよ( ・Д・)


    今回の「泥」っぽさに一番近いのは、トルコ西部の古代都市アイザノイ(Aizanoi)で、川(小川)の川床から女神アフロディーテの石像頭部が回収された話。まさに泥の中からの回収だ。
    一方で、黒海沿岸の古代都市アマストリス(Amastris / 現アマスラ)で、地中約3mの地点からアフロディーテ像が見つかり、最初はニンフ(精霊)と誤認されていたという別のニュースもある。

    ネットで拡散している一文だけだと「どっちの話?」が混ざりやすいので、この記事では“泥から出た感”が強いアイザノイを主軸にしつつ、アマストリスの話も補助で触れるね。




    🏺 どこで見つかった?

    アイザノイは、現在のトルコ西部(キュタヒヤ県)にある古代都市遺跡。ローマ時代の建築がよく残り、ゼウス神殿でも有名な場所だ。

    この遺跡で、アフロディーテとディオニュソスの石像頭部が、遺跡内の小川(クリーク)の川床から回収されたと報じられている。川床=泥。つまり「泥の中から出てきた」という表現はかなり正確。



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    ↑泥の中の女神!( ・Д・)(「Smithonian magazine」の記事内画像より転載;credit:  Aizanoi Excavation)


    🗿 出てきたのは何?

    報道で目立つのは、顔の造形がはっきり残っているアフロディーテの頭部。
    石像って、首から上が残ると途端に“人間の気配”が濃くなる。泥の中から目が合う感じ、ちょっと怖いまである。

    しかも、この頭部は「以前に見つかっていた像の一部」だとされ、今回の回収で関連づけが進む可能性がある。





    🧠 なんで川(泥)の中に像があるの?

    これ、いちばん気になるところ。

    答えはシンプルで、候補がいくつかある。

    • 古代の洪水や地形変化で流された

    • 建物が崩れて土砂に埋まったあと、水路が変わって露出した

    • 破壊・廃棄された石像が、後世の土木で動かされた

    「神殿の中に鎮座していた像」が、時代を経て川床で転がってるのは、文明の時間の流れそのものなんよ。




    🌊 泥の中から出る像が与える、いちばん強い印象

    泥まみれの女神像って、何がいいって、

    保存のドラマが一枚で伝わる。

    地上に出ていたら、風化する。壊される。運び去られる。
    でも泥の中にいたからこそ、何百年、何千年も“顔”が残る。

    文明が滅びるとき、建物は壊れるけど、泥は残す。
    泥って、わりと優秀なタイムカプセルなんだよね。




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    ↑こっちの女神の方がほぼ完形だね!( ・Д・)(「Greek Reporter」の記事内画像より転載;credit:  Directorate of Excavations and Research, Turkey.)




    おわりに

    🖤 ちなみに「もう一つのアフロディーテ」もいる

    さっき少し触れたけど、アマストリス(アマスラ)の発掘でもアフロディーテ像のニュースが出ている。こちらは地中深くから出て、最初は水場の文脈で「ニンフ」と紹介されていたが、再検討でアフロディーテと判断されたという話。像の高さは約1.53m、年代は2世紀ごろと推定されている。

    泥から出たアフロディーテ、地中3mから出たアフロディーテ。




    なにはともあれ・・・・・・

    トルコ、女神が出すぎ!( ・Д・)







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    2025ねん 12がつ 4にち(もくよーび、晴れ)

    東京は今日から冬!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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    ↑ドローン欲しいな!( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは「トルコ料理は日本人に合うらしいね!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    灰色のコンクリートに囲まれた現代の住宅街。その地面の奥深くで、千年以上の時を経てひっそりと眠っていたのは――湖を擬人化したとされる古代の女神像だった。水と人、自然と都市の境界線がぼやけたその像は、2025年における考古学界の最大級のサプライズのひとつ。「湖に祈る民」がいた――そのメッセージは、石ではなく、生きた信仰として刻みこまれていたのかもしれない。




    🏛️ どこで、どんなふうに見つかったか

    発見地はイズニク。2024年からこの住宅街で進められていた発掘調査中、ある住居裏手の地中から、古代ローマ期と思しきモザイク床や遺構とともに、女神と思しき石像が土の中から姿を現した。遺構全体は「ただの古びた屋敷」どころではなかった。かつてこの地は、湖や水域と直結し、“水の神聖地” として参拝や信仰の対象だった可能性が高いとされる。つまり現代の住宅街は、かつての聖地の上に築かれていた――そんな事実が静かに浮かび上がる。


    女神像は、肌の黒ずみや破損はあるものの、顔立ち、身体のライン、水を司る女神らしい表情が確認でき、彫刻の技法やスタイルから「湖または水域の守護者」を意識したものとみられている。




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    ↑サイズ感が分かるね!( ・Д・)



    💧 なぜ “湖の女神”? ― 水と人を結んだ象徴

    今回 “湖を擬人化した女神像” と紹介された背景には、発掘された遺構の配置と出土状況が関係している。

    • 女神像が見つかった地は、かつて湖畔または湿地と接する地域だった可能性があり、水位変動や人の居住域の移動にも見える痕跡がある。

    • また、モザイク床、建物の基礎構造、水路や排水溝のような遺構も合わせて確認されており、「単なる住居」ではなく「儀式あるいは礼拝のための構造」だった可能性が高い。

    • こうした複合的な証拠から、研究者たちはこの像を「湖・水域を擬人化し、人々が敬意を払った女神」とみるに足る――と評価している。

    つまり、この像は単なるアート作品ではなく、水と人と信仰を結ぶ “橋”――古代の人々の精神世界を映す鏡だったのだ。



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    ↑美しいぜ!( ・Д・)



    🔎 そもそも、なぜこのような像が造られたのか?

    古代トルコからギリシャ、ローマ帝国、オスマン帝国にいたるまで、水は生と死、日々の暮らしと宗教、通商と交易、あらゆる営みの中枢だった。湖や水域は飲料、漁、農耕、水運という実用の場であると同時に、神聖な領域でもあった。水を司る女神、河の精霊、湖の守護者――こうした信仰は、地中海世界に広く見られる。今回の女神像も、おそらくそんな信仰の産物だ。人々は「水に感謝し、水を恐れ、水と共に生きる」。そしてその敬意が、石に、人々の祈りに刻まれたのだ。




    🏙️ 現代との交差点 ― “遺跡の上の生活”

    このような発見が、なぜ住宅街の下で起きたか――それもまた、私たちの時間感覚と歴史観を揺さぶる。

    現代のコンクリートとアスファルトの下には、古代の信仰と暮らしが眠っていた。それを掘り起こすのは、ただの発掘ではない。「過去との対話」、あるいは「忘れられた文化との再会」だ。また、この発見は、考古学、都市計画、文化保存、住民の記憶──さまざまな軸を同時に問い直す契機となる。私たちは、今、古代と現代の境界線の上に立っているのかもしれない。



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    ↑一度はこういう現場を掘ってみたい!( ・Д・)




    おわりに

    日本人にとってトルコ料理は美味しいらしい。ケバブとトルコアイスしか知らんがまぁ合いそうな気がする!今後、短期間的にエジプトやイタリアを調査地に選ぶとして、ついでにイギリス、フランス、スペインの博物館を見に行くとして、長期滞在するとやっぱり食は大事だよね。トルコは調査地にならないけれど、いいなぁって思う。治安は不安だけど、グアテマラよりマシでしょ(笑) だから食が大事!

    私のメインフィールドはグアテマラだぜ? 知り合いの関係でアルマジロやら何やら変わったものたまに食べてるけど、基本的に一日三食ほとんど同じものを食べるんだぜ? トルティーヤ、豆、卵、焼きバナナ、ボソボソのチーズ、以上!!!グアテマラで何度叫んだことか・・・




    グアテマラ人「なぁ日本人の主食って米なんだろ???」⇒


    私『日本人は肉食だ、肉食わせろ~!!!』( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 11にち(かよーび、くもり)

    一度抱えた負債を返すのは困難だな( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑場所は意外と住宅地!( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは「昔からみんなアイドル好きだね!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは、「あるけまや」風にじっくりとお届けします。今回はトルコ西部、デニズリ(Denizli)近郊の遺跡で、なんと約2,700年前(紀元前約700~500年)に遡るとされる“祭祀遺跡”が発見され、宗教・信仰の歴史を塗り替える可能性が出てきました。


    発見されたのは、岩をくり抜いた洞窟‐遺構、双子の岩刻像、そして液体を流すための排水溝など――いずれも「儀礼・奉献」の場を示す明確な証拠と言えます。しかも、その場はこれまでの学説が想定していた「フェリギア文明の中心域」から遥か西、アナトリアのこの地に位置していたのです。この発掘は「宗教が発達・拡大してきた地域の想像図」を大きく揺さぶる可能性を秘めています。では、その発見内容、社会的背景、そして私たちが見落としてきた“信仰の風景”を、一緒に深掘りしていきましょう。



    🏛️ 発見の舞台:デニズリ近郊、アトトゥダ(Attouda)遺跡

    発掘が行われたのは、デニズリ県サライキョイ(Sarayköy)地区、古代都市アトトゥダの旧市街近く。研究チームによれば、岩盤をくり抜いた洞窟構造や、双子の岩刻像(ツイン・ロック・アイドル)、流路・湯鉢状の岩皿が確認され、「母なる女神祭祀」の場として明確に機能していたと考えられています。


    この発見は、「フェリギア王国」が栄えた時期(およそ紀元前1200~650年)以降とされる宗教遺構が、これまで想定されていた範囲(現在トルコ中部・東部)よりも西側に広がっていた可能性を示唆します。また、洞窟や水を流す構造から、単なる「祭壇」ではなく「儀式場としての機能」が想定されており、発見地が平地部ではなく山岳・岩盤帯である点も注目です。




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    ↑近くの子供の秘密基地になってそう!( ・Д・)




    🔮 儀礼の構造:洞窟・岩刻像・液体奉献のための設備

    研究報告によると、この遺跡から出てきた構造・遺物は、以下のような特徴を持っています:

    • 岩盤に刻まれた「双子の岩刻像(ツイン・ロック・アイドル)」。フェリギア宗教圏で女神を象徴する形態とされており、この地域で発見されるのは極めて希少。

    • 湯鉢状の岩皿・流路・排水溝。これらは液体奉献(リバティオン)用の構造と解釈され、たとえばオイル・ワイン・香料などを捧げたと見られています。

    • 洞窟‐岩盤祭祀場というロケーション。自然岩盤を利用し、洞窟という“神秘の空間”を祭祀場とした点が、地形と宗教が密接に関わった創造的な儀礼空間といえます。 

    これらの構造が示すのは、単なる「祠」や「神殿」ではなく、継続的・組織的に行われた祭祀活動の場だったという可能性です。その点で、「宗教史を塗り替える」という表現にも十分な重みがあります。



    🌍 宗教・文化拡散の新しい地図:フェリギア宗教の西限?

    この発見が重要なのは、宗教・文化拡散の地理的範囲に関わる点です。これまで、フェリギア文明の神格(特に女神マタル/マテラン/キュベレ)崇拝は、主として現在の中部トルコから東部にかけて確認されてきました。しかしこの遺跡は、デニズリ近郊という海岸平野・山麓地域に位置し、宗教の地理的拡がりを“より西・より低地”にまで押し広げる証拠となる可能性があります。 


    さらに、石刻像・洞窟祭祀・液体奉献構造といった“祭祀の共通装置”がここでも機能していたことから、「宗教形式が環境や地理を超えて普遍的に展開された」あるいは「地方特異化された変形を伴っていた」という視点も浮上しています。つまり、この発見を通じて、私たちは「宗教の拡散」だけでなく「宗教の変形と地方化」という二重の流れを見直す必要が出てきたのです。




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    ↑遊び場にはちょうどいい感じのサイズだよね!( ・Д・)




    🧭 社会・技術・環境:なぜこの場所が祭祀場になったのか?

    では、なぜこの地域・この岩盤帯が祭祀場に選ばれたのでしょうか?いくつかの視点から考えてみます。

    • 地形・岩盤の特性:岩盤の傾斜・洞窟・天然流路など、自然そのものが「神聖なる場」に転換可能な環境だった。岩=神、洞窟=冥界/神域という古代的象徴がここで機能した可能性があります。

    • 交通・交流の拠点:デニズリ地域は、内陸の山岳部と海岸部を結ぶルートに位置しており、交易・移動の通路であった可能性があります。祭祀場としてのアクセス性も含めて機能的だったかもしれません。

    • 自然資源・人間活動:岩盤採掘・トラバーチン層の存在、温泉地パムッカレ(Pamukkale)近くという地理も含め、「人と自然の交錯点」として常に注目されてきた場所。祭祀はこのような“交錯地”を選ぶ傾向があります。

    こうした要因が重なったことで、この地が「地方的祭祀場」ではなく「広域的な宗教拠点」の可能性を持ったわけです。



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    ↑これがアイドル・・・素朴だぜ!( ・Д・)





    おわりに

    考古学やってると「心の目」が必要な瞬間がけっこうあるんですよね。経験で養われるものだと思うんですけどね。例えば、この時期の穴の並びだから、柱穴判定、この時期のこの規模の建造物の柱穴だからこれくらいの大きさで形状はこんな感じになるはず、、、だから、えいや!ってなります( -д-)ノ

    まぁもちろん広がりが不明瞭な時に行うものですが、今行政発掘に参加してる経験からすると、みなさん「えいや」しまくりですね。時間がないのか、面倒なのか、いい加減がこの業界のスタンダードなのか、、、たぶん自分の名前が載って業績になる素敵な報告書を書くのに一生懸命過ぎて他は期限守ればそれでいいという感じなんでしょうね。日本考古学の未来は暗いなと思います( ・Д・)

    あ、脱線したけど、最後に挙げた画像は「双子の岩刻像(ツイン・ロック・アイドル)」です。この場合の「アイドルは偶像の意味」ですけども、思った以上に素朴な加工で驚きました。まぁ加工痕あるからってことなんでしょうけども、「すごいの見つけたぜって無理やりにでも言いたい感」と「えいや感」が凄まじいですね(*^・ェ・)ノ

    それと、緊急で保護しないとあっという間に失われるレベルの文化財だなって思います!



    何はともあれ、、、

    作業BGMとしてアイドル曲聴くけどライブは楽しみ方が分からない!( ・Д・)







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    余裕もって早めに寝たのになんだかねむい!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「5000年前のパンが出た!だから作って食べさせてみた!?( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ




    📰はじめに


    ── 土の中で眠っていた一片のチャコール化したパンが、現代の食文化と気候変動対策に新たなヒントを投げかけている。──


    ある日、トルコ中部、キュルリュオバ・ホユック(Küllüoba Höyük)の発掘現場で、約紀元前3300年頃に焼かれ、さらに埋められたまま5000年近く地中に残っていた、まるで“パンの化石”とも言える焼き菓子状のパンが発見された。


    これを契機に、古代の製粉・発酵・焼成の技術が蘇り、しかもその技術が“乾燥・水不足”という現代の農業・食の課題ともリンクしているというのだ。





    🏺 発見の現場:Küllüobaで何が見つかったのか

    発見地はトルコ中部アナトリア、Eskişehir近郊のKüllüoba Höyük。ここでは銅器時代初期〜中期の集落遺跡の発掘が行われており、2024年9月に発掘された“焼かれて埋められたパン”が注目を浴びている。

    形状は直径約12センチ、円盤状、チャコール化・炭化しており、「パンらしき塊」がそのまま住宅基壇の下に敷かれていた。 

    発掘主任の Murat Türkteki 氏は「通常パンは出土時にはパンくずに過ぎないが、今回は形が残っていた。焼かれて埋められたという構造が保存を可能にした」と語っている。 

    このような“まるごとのパン”という出土は極めて稀であり、発掘・分析対象としても一次資料の価値が非常に高い。




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    ↑これが発掘現場!( ・Д・)(「ZME Science」の記事内画像より転載)



    🔍 原材料と製法:古代パンはどう作られたか

    分析の結果、このパンには次のような特徴が見られた:

    • 粗挽きのエンマー小麦(古代小麦)を主原料としていた。

    • レンズ豆(lentils)の種が混入されていた。

    • 未同定植物の葉が酵母代替として用いられていた可能性がある。

    • 直径12センチ程度、円盤状、平たく焼かれており、焼成後に一部が裂かれ、その後焼かれたのち住宅の敷居下面に埋設されていた。裂かれた痕跡から、儀礼用途(豊穣・家屋完成祈願)で使用されたと研究者は推定している。 


      また、再現実験として、トルコの地方自治体によるパン製造ベーカリーが、古代品に近い材料(例えば近縁品種の「カビルカ小麦」、ブルグル、レンズ豆など)を用い、「キュルリュオバ・パン」として現代に復活させ、大衆にも提供を始めている。





    🌍 温暖化・食料適応へのヒント:古代技術が現代に効く?

    この発見で注目すべきは「ただ古いパンが出た」「再現した」という点だけではない。実はこの古代パンとその原料が、21世紀の気候変動・水不足・農業適応というテーマに直接リンクしているのだ。


    例えば、研究では「このパンの原料小麦は、現在トルコ中部で深刻化している乾燥・水不足状況の中でも生育可能な古代品種に近い」と報じられており、自治体の市長も「我々の祖先は少水量作物を使っていた。今こそその知恵に戻る時だ」とコメントしている。 


    具体的には:

    • エンマー小麦や近縁古代小麦は、現代の高収量品種に比べて雑草耐性・低水量適応性が高い可能性がある。

    • レンズ豆など豆類の混合栽培・混合焼成という形は、たんぱく源・窒素固定源としても優れ、農業多様化のモデルとなりうる。

    • 焼成・保存技術という観点からも、少加工・保存料不使用・栄養豊富という“持続可能な食”の設計モデルになる。


      パンの再現ベーカリーでは、「低グルテン・保存料不使用・栄養価が高いパン」として販売され、消費者も多数並んで購入している。これが“食品遺産活用”ד食料問題解決”という新たなパラダイムを生みつつある。




    🧭 社会・儀礼の視点:パンが持つ意味と古代文明の営み

    発掘されたパンは、単なる食料の残片ではなく、古代社会の儀礼・社会構造・日常生活を映す鏡となっている。研究では以下のような見立てがなされている:

    • パンが住宅の敷居下に埋設されていたという事実:これは家屋建築完了時の豊穣祈願・引越儀礼として、パンを断片化・焼成・埋設する慣習があった可能性を示唆しています。

    • 焼成後に裂かれた痕跡:これは“共有・分かち合い”あるいは“儀礼的分割”を示す行為と見る研究者もいます。

    • 集落はただ農耕をするグループではなく、商工・手工・採掘活動まで含む“複合機能都市”だったという分析も。パンのような加工品の存在は、単なる生産ではなく加工・保存・流通というステージを含んでいたことを示しています。 

      こうして、パンという“日常の食”が、古代文明の社会構造、儀礼、経済活動、環境適応までも映し出しているのです。








    おわりに

    パンでも米でもビールでも酒でも、「古代なんちゃら」ってたまに見るよね。

    研究費かけて古代ビールを再現して、一時的に販売するなんてこともやってるよね。



    ・・・私もマヤの酒再現したい!(笑)

    研究費ちょーだい!


    冗談はさておき(半分冗談はないが)、再現したものが現代社会問題の解決に寄与する可能性があるのは素晴らしいなぁと思います。

    その点でこれまでの類似研究とは一線を画すなと思います。

    地元の市長も協力的なのも素晴らしい。

    まぁそれほどに乾燥を始めとした環境問題・食糧問題が大きいのかも知れないけれど( -д-)ノ



    ところで気付いた?

    この小麦、「Kavilca小麦」なのさ。

    保存料なくても保存性が強いらしいが、まぁ確かに小麦自体に『カビるか!』って強い意志を感じるもんね!( ・Д・)




    何はともあれ、

    久々にパン食べたいな!( ・Д・)



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    2025ねん 10がつ 10にち(きんよーび、晴れ)

    これ昨日の分!借金返済完了!あ、Youtube負債あった!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「どこでも顔付きの土器とかつくるよね!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに


    このニュースを聞いたとき、私は瞬時に吸い込まれた。地中から、石片から、人の“顔”がこちらを見つめていた──5000年という時間の壁を越えて。トルコ・コンヤ近郊の遺跡で、なんと早期青銅器時代(Early Bronze Age)に属するとみられる壺の破片に描かれた顔が発見された、という報道が流れたのだ。


    写真を見れば、眉から眼、鼻梁までをしっかりと刻んだその顔は、生き写しというにはあまりに幽玄だ。


    “あれはただの装飾か”“いや、これは儀式を語る道具じゃないか”──歴史好きなら、想像が止まらないだろう。この記事では、発見の文脈、似た表現と比較される古代モニュメント、そしてこの「人面」が語るものを、あるけまや流に時間と空間を行き来しながら紡いでみたい。






    🏺 発見されたその断片 — コンヤ県ゴークホユク(Gökhöyük)の人面破片

    2025年9月、トルコ・コンヤ県セイディシェヒル地区のゴークホユク遺跡で、考古学者たちは 約5,000年前 の陶器破片を発掘。その表面には、眉・目・鼻が立体的に刻まれた人の顔 が浮かび上がっていた。これがただの日用品の一部とは考えにくく、むしろ「儀礼用具」的な意味合いを帯びていた可能性が高い。


    発見があったのは、長く調査が継続されてきた既知のマウンド地層(古代集落・廟祭層)で、新たな発掘活動の一環として壺片群の整理中だったとのこと。破片には、「眉が曲線で湾曲し、瞳はアーモンド形、鼻梁は中央に隆起」といった特徴が見て取れる。


    この種の表現はトルコ/アナトリア地域では比較的珍しく、特に「顔」を明確に表現した例はさらに稀とされる。考古学界ではこの発見が、初期文明における「自己認識・人像表現」の起点を示す可能性を含むと興味を持たれている。




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    ↑見つかったのこれ!( ・Д・)(「Arkeonews」の記事内画像より転載; credit: AA)



    🗿 類例との比較 — 地下・壁面・柱に刻まれた“顔たち”

    この「5000年前の人面破片」が突出しているのは「陶器片」という素材による点だ。しかし、「顔を刻む」行為そのものは、トルコ・アナトリア地域のネオリシック期・先古典期遺跡でも複数例が知られている。






    ⚖️ Karahantepe の人面柱

    なんと 12,000年前の遺跡、Karahantepe では、T字柱(T-shaped pillar)に彫られた人面 が発見されたという報道がある。これはこれまで「抽象的象徴性」が強いとされてきた T字柱表現を超えて、「顔を刻む表現性」を明示した例として注目されている。


    この柱の顔彫刻は、深い眼窩、明瞭な輪郭、鼻すじの張りなどが報じられており、この表現が「象徴 → 人性の表現」へと跳躍した“境界点”として位置づけられている。




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    ↑カラハンテペのT字人面!( ・Д・)(「Today」の記事内画像より転載; credit: Ministry of Culture and Tourism)


    🧍 Urfa Man(ウルファ・マン)像

    また、シャンルウルファ近郊で発見された Urfa Man(ウルファ・マン)と呼ばれる巨像も参照される。これは前土器時代ネオリシック期の作品と見られ、身体像を具象的に示したものだが、顔彫刻はより様式化・抽象化された形をとっている。


    こうした例と比べたとき、ゴークホユクの陶器破片は「小片でありながらリアル性を保持」している点で異彩を放つ。






    🧬 顔が語るもの — 儀式、美、存在の意志

    では、この顔破片は何を語っているのか?いくつかの仮説を見ておこう。

    🔮 儀礼・祈祷的な機能

    多くの考古報道は、この破片を「儀礼用具」と見ている。つまり那須畅日用品として使われる壺とは別系統で、神聖性を付与された象徴的器具であった可能性。顔を刻むことは、おそらく「人(あるいは神霊)をそこに宿す」表現手段だったのかもしれない。

    ✒️ 美の追求、モノとしての意匠

    もう一つの仮説は、これは日常器具に美意識を込めた表現であるというもの。ただし、5,000年前という時代を考えれば、精密な顔彫刻を施すには技術と時間コストが必要だっただろうから、単なる装飾ではなく意味が伴っていたと考える向きが強い。

    🧠 自己認識・記憶の痕跡

    さらにロマンを込めて言えば、この顔は「ある誰か」を記憶する痕跡、あるいはその社会の「人とは何か」という根源的思索の断片かもしれない。人は顔によって識別され、記憶される。顔を刻むという行為は、時間を越えてその記憶を留めようとする意思の表れかもしれない。






    🔍 調査の現状と課題

    こうした発見には常に、調査と保存の課題が付きまとう。

    • 断片の来歴把握:壺片がどの層から出たか、周辺出土物との同層性、成層解析がカギ。

    • 放射年代測定と化学分析:顔彫刻の層位や顔の彫り込みに使われた道具・顔料の分析が、時代と技術水準の比較を可能にする。

    • 文化的・地域的連関:Karahantepe/Göbekli Tepeなど近隣遺跡との様式的連関を探ること。

    • 保存・劣化対策:小片という性格上、保存環境・取り扱いの丁寧さが問われる。

    現時点では、この発見を報じた記事数は限られているが、報道はその象徴性・芸術性に高い関心を寄せている。ゴークホユク遺跡を担当するセリュク大学などから、今後の論考発表が待たれるところだ。






    🌱 歴史の縫い目としての顔

    遺跡から現れる「顔」は、ただの彫刻ではない。「時間」が刻み込み、「記憶」がそこに宿る。トルコの地下から紛れもなく眼差しが現れたことで、私たちは、はるか古の文明と無言で対峙することを許された。顔の彫られたその一片が、5000年を隔てて語るのは、美と儀礼、そして人間という存在を刻んだ記憶そのものの名残ではないか。



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    ↑実寸サイズ?( ・Д・)(「Arkeonews」の記事内画像より転載; credit: AA)




    おわりに

    日本でもマヤでも顔付きの土器とか土版はあります。

    たぶんどこでもある。

    そしてどこでも呪術的な意味合いが強いと思われる。



    現代もキャラもののコップや食器類があるよね。

    呪術的な意味はもうないけれど!( ・Д・)



    今の私のマヤ研究だとね、顔付きだと価格が高いと思われるの。

    上位層しか持ってないんだよね。

    同じ壺でも、ちょっとした顔付いてるだけなのに……

    まぁもちろん立派な造形のものもあるけどね。




    考古学者はよく分からないものに対して、「儀礼的」とか「呪術的」とか解釈しがちだけれど、

    現代感覚で普通の皿よりも流行りのキャラクターが描かれた皿の方が高いように、神様とか人・動物が描かれた土器の方が高くても自然なのかもね。

    つまり顔付きの遺物は『当時のキャラもの』なのかな?




    何はともあれ、

    やぱ可愛いキャラがいいな!( ・Д・)



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    2025ねん 9がつ 25にち(もくよーび、晴れ)

    やりたいことたくさんある~!、、、が少しずつ研究借金減らしてるからいつか余裕できる!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「なんかちいさくてかわいいやつがたくさん出た!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ




    🏺新発見!トルコ西部遺跡で4500年前の「炉を囲む小偶像」列隊

    トルコ西部、クタヒヤ県タヴサンル高地、タブサンル・ヒュユク(Tavşanlı Höyük) 遺跡で、なんと 約4500年前 のヒト型偶像(人をかたどった小像)が炉(囲炉裏・炉床想定)を囲むように並べられて出土した。


    トルコ文化観光省によれば、出てきた偶像は 大理石、骨、粘土 の素材で、未完成品も混じるとのこと。
    特筆すべきは「7体が炉を取り囲むように配置されていた」点。これが意図的な儀礼配置だった可能性が高いと、発掘側は見ている。


    この発見は、従来の「偶像は単体で捧げられるもの」「屋外に置かれることが多い」という通念を揺さぶる手がかりになるかもしれない。炉という生活空間の中心に祈りの存在を据えたという解釈は、日常の中の儀礼・信仰を透かし見るようなロマンを含んでる。





    🔎発掘現場と文脈:Tavşanlı Höyükってどこ?

    • 遺跡名:Tavşanlı Höyük(タヴサンル・ヒュユク)

    • 所在:トルコ西部、クタヒヤ県近辺

    • 時代:青銅器時代初期あたり、約 4500 年前(紀元前約 2500年ごろ)に相当

    • 出土物:偶像(大理石・骨・粘土)、未成形・素焼きの粘土器、炉床構造の遺構など


    遺跡は暮らしと宗教空間が混在する複合用途地区と考えられており、発掘は限定的な範囲ながら宗教・経済・工房の手がかりを含む材料が混在しているとの発表もある。


    この配置の発表により、炉周囲という「炉=聖なる炉床」的な空間が、当時信仰儀礼における中心的舞台だった可能性が議論されている。




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    ↑こんな遺跡!丘陵みたいに残ってるのかな?( ・Д・)(「Finestresull'Arte」の記事内画像を転載)



    ⚖️偶像を囲む炉:どういう意図か?

    この「炉を囲む」配置には、少なくとも以下のような仮説・意味が考えられる:


    1. 祖霊・先祖崇拝
       炉は“家”の中心であり、生活と密接な場所。そこに先祖や守護霊を配し、生活と信仰を重ねる意義を持たせた可能性。

    2. 炉火(火神・火の儀礼性)との関係
       火は清浄・変化・再生を象徴する要素として、炉を中心に儀礼が行われたという構造。

    3. 小偶像群像+炉=象徴的物語の演出
       7体という数字も意図的で、各偶像が物語や象徴性を持っていた可能性。未完成像も混じる点から「制作と祈りが並行した場」であったとも考えられる。

    4. 住居兼儀礼空間
       この遺構は生活の場と宗教空間が重なったもので、この炉配置が“日常と儀礼の融合”を示している可能性もある。


    発掘側も「未完成品があることは、ここが偶像制作現場と信仰・祈祷の場が重なっていたことを示す証拠になりうる」とコメントをしている。






    🧩比較事例・先行類例:似たモチーフを探す旅

    こうした炉を中心にした偶像配置という類例は、他地域・他時代でほとんど知られていないからこそ、この発見が注目されてる。だが、関連するものを比べてみると、ヒントはある:


    • 近代以前の炉祭祀:ケルト圏やバルカン、ローマ期・中東でも炉祭祀(炉前での祈祷・供犠)は記録されており、炉近傍に聖なる像あるいは聖所標識を置く習俗が断片的に確認されることがある。

    • 小像群像・列像配置の信仰遺構:シュメール・メソポタミアやエジプト近東などでは、女神像や守護神像の「並べられた配置」が寺院内外で見られるが、生活炉との結びつきは希。

    • 炉床発見例 in 他遺跡:時に炉遺構が“祭祀炉”として解釈されるケースもあるが、そこに小像が組み込まれた形はあまり報告されていない。

    この新発見は、炉祭祀や信仰像配置のあり方に「もっと身近で生活と混ざった構造」を想定させる可能性を示す点で斬新だ。




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    ↑小さくて可愛すぎて私ならトバシちゃう!(気付かずに捨てちゃうこと)( ・Д・)(「Anatolian Archaeology」の記事内画像を転載)





    🧪発掘方法・解析視点:どこを見ているか

    発掘および研究で注目されている技術・観点を見ておこう:


    • 配置観察と空間解析
       偶像同士、および偶像と炉との距離関係・向き関係を精密に測定することで、意図的な配置かどうかを検証。

    • 材質・制作段階の分析
       大理石・骨・粘土での素材差、未完成像の存在、ツール痕・削り跡・研磨痕などから制作過程の断片を復元。

    • 層序・層位との関連
       偶像と炉を取り囲む堆積層(灰・炭・土砂など)の関係を上下層で分析し、儀式/通常使用の時間差を見極め。

    • 顕微鏡分析・残留物分析
       偶像表面や炉床・周辺地域に残された炭化物・顔料・有機残留物を化学分析して、燃焼物や供物成分を割り出す。

    • 比較地域同期性の調査
       周辺の遺跡・時代層で同様の偶像列像配置がないか、文献・発掘報告を照合。

    これらを統合することで、「この炉偶像列像配置が偶然なのか、信仰意図的なのか」を議論できるようになるし、信仰構造・住居構造の再構成へとつながる。






    🤔課題と慎重視点――証拠と解釈の間で

    もちろん、考古学には常に慎重さが必要で、この発見にも議論の余地は多い:


    • 偶像7体という数はところによって壊れたり消失した可能性があるから、もともはもっと多かったかもしれない。

    • 偶像の配置がたまたま炉近傍にあった可能性、あるいは後世の移動・撹乱も排除しきれない。

    • 未完成品の混在は「制作途中の放棄」など単純な理由かもしれず、それを即「祈祷場兼制作場」と結び付けるには慎重な補証が要る。

    • 炉と偶像の時間的重なり(炉使用と偶像配置の同期性)を示す層位・年代の精密測定が不可欠。

    こうした注意を前提に、今回の発見は確実に議論を刺激するタイプのものだ。






    おわりに


    想像してみて――

    夜、炉の火が静かに燃える。家人は小さな偶像を前に香を焚き、水や穀物を捧げる。偶像たちは静かに囲み、火と語らう。風が吹けば影が揺れ、偶像の輪が炎に揺らぐ。


    「今日は収穫を感謝しよう」「子らと家を守ってくれ」――そんな言葉が、何千年も前の火のまわりで交わされていたかもしれない。


    この炉と偶像は、ただの遺物じゃない。日常と信仰が入り混じる小宇宙。私たちが見ているのは、過去の祈りと生活の交錯点だ。





    ……ってことで、最近アナトリア考古学も面白いな~と思ってるんですけども、、、


    やぱ乾燥地域は残りもいいしね~(・∀・)つ


    まぁそんなこんなで今回のちいさくてかわいい遺物は青銅器時代のものなんですね~。


    ぱっと見、旧石器かな~なんて思いましたが。


    まぁでも可愛くていいですよね。




    マヤにも小さい偶像ありますけれど、造形がリアルなので、シルバニアファミリー感ありますね。


    それはそれでいいんですけど、


    今回のような抽象度のものも可愛いなって思うんですよね。




    あ、最後に言い訳程度に、、、わたしちいかわ大好きです。


    押しははちわれ!


    以前、Xで考古学を広めるためのちいかわパクリ漫画描いてたレベルですからね!


    まぁ途切れましたけど、それもその内再開します!





    何はともあれ、

    やぱ小さくて可愛いものは正義!( ・Д・)



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    2024ねん 9がつ 27にち(きんよーび、雨)

    結局睡眠時間削って研究時間確保してるけどヤバい眠い( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは「青銅器時代の盾と兜が素敵な保存状態で見つかったよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はトルコ東部、ヴァン県のアヤニス城です。

    上に挙げた画像で分かるように山というかけっこうな高さの丘?の上に立地しています。



    ウラルトゥ王国が築いた城で、古代より前の先史時代に相当する遺跡です。

    時期的には900 BCE-585 BCEで、アジアの最西端の位置するアナトリア地域(アナトリア半島域)に栄えたのがウラルトゥ王国です。

    近くにヴァン湖があるためヴァン王国とも呼ばれていました。



    ウラルトゥの呼称もアッシリア人によるもので、ウラルトゥ語ではビアインリ王国という名前でした。

    このビアインリがヴァン湖のヴァンの語源になっていて、またウラルトゥの名は聖書の洪水伝説で有名なアララト山と関係があるそうです。

    知らないことで一杯です!( -д-)ノ



    arukemaya_z052


    最初に挙げた画像から近づいてみると、こんな感じです。

    柱なのか右側に方形の遺構が並んでいます。

    右側上方にはガラス張りみたいな新しい建造物がありますが、恐らくこの中に保護すべき特別な遺構があるのでしょう。

    レリーフとか壁画みたいなものでしょうか。




    さて、その新しい建物の更に上方と左側には何やら四角い窪みが見られますが、これらは全て発掘で開けたグリッドでしょうね。

    今回の遺物の発見場所は左下の赤丸を加えた箇所です。




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    で、発見した遺物がこちら!

    同じものを別の角度で撮影しています。

    大きな丸い円盤状のものが青銅製の盾で2点写ってます。

    盾は内側が上向きになっていて、中に置かれているものが青銅製の兜です。




    これで2700年前!

    凄い良い出土状態ですよねΣ(・ω・ノ)ノ




    でも落ち着いて考えてみると、、、



    青銅と言えば、日本だと銅鐸とかがパッと浮かびますが、やはり鉄器時代以前のものの方が遺物として残りは良いですね。

    新しい技術のものって使い勝手は良いけれど、遺物として残りにくいんですよね。

    現代社会のデジタル情報なんて最たるもののような気がします( -д-)ノ




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    おわりに

    私、RPG好きなんで、「青銅の盾」とか「青銅の兜」って聞くだけでうぉ~!ってテンション上がります。

    実は大学に入るまではヨーロッパの考古学をやりたかったので、、、

    なんでかマヤ文明やってますけどね(笑)



    ところでこの地域の兜ってとんがりコーンみたいな形なんですね。

    受け流すには良い形状なのかも知れませんが、それにしてはかなり薄い感じがします。

    防御力低そうですね・・・

    いや~、趣味で古代・中世の武器・武具のレプリカ作って、能力値のデータ化したいけど、、、お金も時間もないから無理だな~ヽ(TдT)ノ



    ほんと、一般ウケするような面白い研究するから、誰か超金持ちにスポンサーになってもらいたいよ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    知り合いに富豪がいたら紹介&説得してね!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ





    何はともあれ、

    やぱヨーロッパ(?)史はどこ取っても不思議な風情があるね!( ・Д・)



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    2024ねん 8がつ 10にち(どよーび、晴れ)

    良く寝て程良く研究してるヾ(´ω`=´ω`)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは「忘れない内にチャタル・ヒュユクについて紹介するよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    前にチャタル・ヒュユクに関して記事を書いた時に、「この遺跡面白い!」って思って、「今度紹介しますね~」って言ってたのが今回の記事です!

    覚えてる内にやらないと忘れちゃうんですよね( -д-)ノ

    モチベ高い内に色々やらんとダメなのです( ・Д・)



    ↓件の前回の記事(*・ω・)ノ
    ↑読んでない方は是非!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


    ということで、今回の舞台はトルコのチャタル・ヒュユク遺跡です!

    時期はBCE 7500年~6300年に帰属します。

    チャタル・ヒュユクの名が「分岐した丘」を意味し、東と西の丘に分かれています。

    東の方が古く、西の丘の上層部はBCE 4300年頃に帰属し、青銅器時代の遺構となっています。




    日本で言うならばチャタル・ヒュユクの古い時期はおおよそ縄文時代の前期(1万1000~7000年前)に相当します。

    この時期は両者共に新石器時代です。

    チャタル・ヒュユクの西の丘は上に述べたように約6000年前にはすでに青銅器時代に突入していますので日本よりも遥かに人類社会の発展スピードは速いですねΣ(・ω・ノ)ノ

    弥生時代のスタートが約2000年前なので4000年も先行していることになります( ・Д・)




    ……あ、格差の人類史を数式と動画で描くのが今の研究の目標だけれども、『社会の発展度合い』って尺度で描いても面白そうですね。

    まぁ現代社会まで描くと問題が起きそうですが( ・Д・)

    産業革命までなら・・・問題ない?( -д-)ノ




    arukemaya_z009


    さて、チャタル・ヒュユクの住居は保存状態が良く、構造も調度品の配置も判明しています。

    これが面白いところです。

    上に挙げた画像の左端に梯子がありますが、なんと屋根から入る構造の家屋だそうです。

    変わってますねΣ(・ω・ノ)ノ




    この保存状態がとても良い住居群ですが、何故かというと古い住居の内部に土と瓦礫を詰めて埋め、その上部に新たな家を造る慣習があったようです。

    そのため東の丘では18層もの住居が積み重なっていて、高さは21mにもなるそうです。




    これってマヤ文明の重層建築のもっと凄いバージョンですよね。

    めちゃくちゃ良質なデータが獲れるじゃない!( ・Д・)




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    ↑古い時代の家屋なのに保存状態いいよね( ・Д・)(「TURKISH Air & Travel」の記事内画像より転載)



    しかもチャタル・ヒュユクでは亡くなった家族をベッドの下や床下に埋葬する文化を持っていました。

    祖先崇拝の一種ですね。




    これもマヤ文明と同じ!

    年代ごとの埋葬遺構と副葬品のデータが得られる!

    凄すぎる!

    考古学的に超重要遺跡ですね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ





    arukemaya_z007



    さて、更なるチャタル・ヒュユクの面白いところは、、、

    新石器時代なのに「都市構造」を有している点です。




    下に挙げた画像のように物凄い数の住居が密集しています。

    住居と住居の間の隙間はなく、人々は屋根伝いに移動していたようです。

    ちなみに人口は平均で5000~8000人程度で、最大で10000人に達していたようです。




    都市構造を持っていて、1万人の大人口、、、

    初期国家の定義からして、もうこれ国家レベルの規模なんですけど、

    なんとチャタル・ヒュユクは平等な社会と考えられています。




    なので国家じゃないのです、たぶん、今のところ( ・Д・)




    先行研究によれば、各住居のサイズは一定で大小の差はほとんどないそうです。

    また墓には副葬品が含まれ、木製容器、籠、食べ物が共通してみられ、男性の場合は木製・骨製柄付き剣、石製棍棒、土製印章、銅製腕輪、S字状骨製バックル、女性の場合は、化粧用石製パレット、各種装飾品、黒曜石製鏡が出土しています。

    またタカラガイを目にはめ込んだ頭骨も検出されています。


    ・・・でもこうした副葬品を伴う事例は”例外”であるそうです( ・Д・)

    そしてこれまでには分業化の証拠も見つかっていないのです。



    つまりチャタル・ヒュユクは人類社会の発展史の中で国家形成2歩(?)くらい手前の最後の平等社会の状態だったのかも知れないのです(*・ω・)ノ






    おわりに

    いやー、こんな遺跡あるの知らなかった!(*・ω・)ノ

    ほんといいもの見つけましたわ。



    考古学者ってやはり人の子というか、自分がやってる地域・時代のものが最高と考えがちなんですよね。

    マヤ研究でも「あるある」です。

    だからここ、チャタル・ヒュユクでも、この遺跡が”理想の平等社会”として描かれている可能性があります。



    私は最近数理考古学をやってるせいか、やはり物事は連続的に変化すると考えがる傾向にあります。

    そうした視点に立つとチャタル・ヒュユックの18層の中で、平等な社会から階層化社会への変化が見て取れてもおかしくないかなと思ってしまいます。




    ”例外的”に広い居間を持つ住居もあるそうですし、”例外的”に副葬品を伴う墓もあるわけです。

    そうした点が階層化の兆候かもしれませんよね。



    建造物の重層性と埋葬遺構の特殊性から明らかに発掘が大変な遺跡ですから、現段階でどれだけのデータが取れるか謎ですが、今度頑張ってみようと思います(・∀・)つ




    何はともあれ、

    やぱ考古学は楽しいぜ!( ・Д・)



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