
↑そーいや最近チャッピーと研究について語り合ってないなぁ!( ・Д・)
今回の考古学・歴史ニュースは「トルコ中央部のキュルテペ遺跡で、約5300年前の巨大円形建築を囲む周壁らしきものが見つかって、都市の始まりの説明がちょっと面白くなってきたぞ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ
📰 はじめに
「都市のはじまり」って聞くと、だいたいメソポタミアを思い浮かべるよね。
チグリス川とユーフラテス川のあいだで、灌漑農耕が発達して、人が集まり、神殿や役人や支配者が出てきて、都市が生まれた。
これが、かなり定番の説明だ。
もちろん、この説明はとても強い。実際、南メソポタミアのウルクは、紀元前3200年ごろには巨大な日干しレンガ建築をもつ大都市になっていたとされる。いわば「世界最古級の都市」の代表選手だ。
でも、今回の話はそこから少し外れる。
舞台はメソポタミアそのものではなく、トルコ中央部、カッパドキア地域にあるキュルテペ遺跡。
ここで、紀元前3300年前後、つまり約5300年前の大規模建築址と、その周囲をめぐるような周壁の一部が見つかったというのだ。
これ、単に「大きな建物が出ました!」という話ではない。
もしかすると、都市は「農耕だけ」で生まれたわけではないかもしれない。
そんな問いを、かなり真面目に突きつけてくる発見なのだ( ・Д・)
🏺 キュルテペ遺跡ってどんな場所?
キュルテペ遺跡は、トルコのカイセリ近郊にある大遺跡だ。
古代名ではカネシュ、あるいはネシャとも呼ばれ、後の時代にはアッシリア商人たちの交易拠点として非常に有名になる。遺跡は上部の大きなマウンドと、下部の交易地区からなり、カイセリの北東約20キロに位置する。
特に有名なのが、紀元前2千年紀前半のアッシリア商人文書だ。
キュルテペからは、およそ2万3500点もの楔形文字粘土板が出土していて、商取引、家族関係、契約、法律問題などがびっしり記録されている。これは古代近東における最大級の私文書群であり、ユネスコ「世界の記憶」にも登録されている。
つまりキュルテペは、もともと「交易都市」としてめちゃくちゃ重要な遺跡なのだ。
ただし、今回の発見が面白いのは、アッシリア商人たちの時代よりずっと古いところにある。
紀元前3300年前後。
アッシリア商人たちが活躍するより、1000年以上も前の世界だ。
🧱 今回見つかったもの
今回の発表によると、ノートルダム清心女子大学、徳島大学などの研究グループは、キュルテペ遺跡で2015年から発掘調査を続けてきた。
研究グループは、2021年に紀元前3300年前後の大規模建築址を確認していた。これは一辺26メートル以上、厚さ約1.3メートルの日干しレンガ壁をもつ、ジグザグ形の特異な建物だった。
そして2025年度の調査で、その建築址の東側から、深さ3メートルを超える周壁の一部が確認された。
周壁の斜度は約25度。さらに、この周壁は円形を描く可能性があり、直径100メートル規模のプランになるかもしれないという。
直径100メートルというと、ざっくり内側の面積だけでも約7850平方メートル。
ほぼサッカーコート級の空間だ。
しかも、それが約5300年前の中央アナトリアにあったかもしれない。
これはなかなか、とんでもない( ・Д・)
🌀 周壁は「城壁」なのか?
ここで大事なのは、「周壁」と聞いてすぐに「城壁だ!」と決めつけないことだ。
発表でも、現段階ではこの周壁が防御を目的としたものかどうかは判断できないとされている。つまり、敵を防ぐための壁だったのか、儀礼空間を区切る壁だったのか、巨大建築の外周を整える構造だったのか、まだ慎重に見る必要がある。
ここが考古学っぽいところだよね。
大きい壁が出た。
円形っぽい。
古い。
じゃあ城壁だ!
……とはならない。
むしろ今回のポイントは、「防御施設かどうか」よりも、「これほど大きな空間を計画し、造り、維持する社会的な力があったかもしれない」というところにある。
巨大建築は、ただの家ではない。
そこには、労働力を集める仕組み、材料を集める仕組み、設計する知識、そしてその建物を必要とする社会的な理由がある。
その意味で、この周壁らしき遺構は、都市的な社会の気配を示している可能性があるわけだ。
⛏️ 農耕だけではない都市の始まり?
これまで都市誕生の説明では、農耕、とくに灌漑農耕が大きな役割を持つとされてきた。
南メソポタミアでは、川の水を引いて農地を管理し、多くの人びとを支える食料生産を行う。そのためには、労働力の組織化、水の管理、倉庫、神殿、支配者、役人のような仕組みが必要になる。
だから農耕が都市を生んだ、という説明はとてもわかりやすい。
一方で、北メソポタミアのテル・ブラクのように、天水農耕を基盤とした早期都市化の研究も進んでいる。つまり、都市化のルートは南メソポタミアの灌漑モデルだけではない、という議論はすでにあった。
そして今回のキュルテペは、さらに別の可能性を見せてくる。
研究グループは、カイセリ県周辺で2008年から遺跡分布調査を行い、約130遺跡を発見・登録してきた。その分析から、スズなどの希少資源や鉱物資源の交易が、中央アナトリアにおける都市社会の成立に関係したのではないか、という仮説を提示している。
つまり、都市の始まりは、
農耕で食料をたくさん作ったから
だけではなく、
鉱物資源を動かしたから
交易ネットワークの要になったから
儀礼的・政治的な中心が必要になったから
という複数の道筋があったかもしれないのだ。
これはかなり重要だと思う。
🏛️ 巨大建築は何を語るのか
今回の大建築址には、埋納土器が多く付随し、何らかの儀礼と関わる特徴が見られるという。
これも面白い。
もしこれが単なる防御施設なら、「守るための壁」として理解しやすい。
でも、埋納土器や儀礼的性格が関わるなら、この場所は、政治・宗教・社会統合の中心だった可能性もある。
都市って、単に人がたくさん住む場所ではない。
人びとが集まり、モノが集まり、記憶が集まり、儀礼が行われ、権力や共同体の形が見える場所でもある。
その意味で、キュルテペの巨大円形建築は、「都市の人口」そのものよりも、「都市的なふるまい」の出現を示しているのかもしれない。
しかも時期は紀元前3300年前後。
これは、南メソポタミアでウルクが巨大都市化していく時期とかなり近い。
もし中央アナトリアでも、同じころに別の仕組みで大規模な社会統合が起きていたなら、都市誕生の物語はかなり複線的になる。
🌍 キュルテペは“後の交易都市”だけじゃなかった
キュルテペといえば、どうしても紀元前2千年紀のアッシリア商人、カールム、楔形文字文書のイメージが強い。
でも、近年の研究では、それ以前のキュルテペもかなり重要だったことが見えてきている。
紀元前3千年紀後半のキュルテペでは、長距離交易や金属資源との関わり、そして大規模な公共建築の存在が指摘されている。トルコ語圏の研究でも、紀元前3千年紀後半のキュルテペが、金属を中心とする遠隔地交易に参加していたことや、記念碑的建築が中央集権的な権威を示すことが論じられている。
今回の紀元前3300年前後の発見は、それよりさらに古い段階に光を当てるものだ。
つまりキュルテペは、
後にアッシリア商人が来て栄えた場所
ではなく、
アッシリア商人が来るずっと前から、中央アナトリアの重要拠点だった可能性がある。
ここがめちゃくちゃ熱い。
🤔 何がまだわからないのか
もちろん、まだ確定していないことも多い。
まず、直径100メートル規模の円形プランは、今回の周壁確認で可能性が高まった段階だ。全体が発掘されたわけではない。
次に、この周壁が何のためのものだったのかも、まだ決定できない。
防御かもしれない。
儀礼空間の境界かもしれない。
高台を囲む建築的な外周施設かもしれない。
あるいは、複数の機能をもつ構造だったかもしれない。
そして、「都市」と呼べるかどうかも慎重に考える必要がある。
巨大建築があることは、都市的要素の重要な証拠になる。
でも、都市というには、人口規模、居住域、階層性、分業、交易、儀礼、行政、周辺集落との関係など、いろいろな要素を合わせて見る必要がある。
だから今回の発見は、「ここに都市がありました、終了!」という話ではない。
むしろ、
都市とは何か?
都市はどうやって生まれるのか?
農耕以外の力で都市は立ち上がるのか?
という問いを強くする発見なのだ。
✨ おわりに
今回のキュルテペ遺跡の発見は、「100メートル級の大きな建物らしい!」という見た目のインパクトもすごい。
でも、本当に面白いのはそこだけじゃない。
この発見は、都市の始まりをめぐる物語を、メソポタミア中心の一本道から、もっと複雑なネットワークへ広げてくれる。
農耕の都市。
交易の都市。
儀礼の都市。
鉱物資源の都市。
そして、それらが重なり合ってできる都市。
キュルテペの丘をぐるりと囲んでいたかもしれない周壁は、ただの壁ではない。
それは、約5300年前の人びとが、中央アナトリアでどんな社会を作ろうとしていたのかを考えるための、大きな円なのかもしれない。
まだ全体像は見えない。
でも、その円の一部が見えた。
考古学って、こういう瞬間がいちばん楽しいんだよね( ・Д・)
……なにはともあれ












































