- はじめに
- 発見された江戸時代の船着き場
- 江戸時代の船着き場のイメージ
- おわりに

↑手前の階段が発見された船着き場(「dmenuニュース」の記事内画像より転載)
4.おわりに

4.おわりに




また天下人となった家康が駿府城に戻った1607年以降、大御所政治を始めたころ、秀吉時代に築かせた天守閣とともにこれらの武家屋敷や道も埋められた可能性が高いとされています。
「其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」
(訳:実際、地上に道は初めからあるのではなく、多くの人が歩くから、それが路となるのだ)魯迅『故郷』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
高村光太郎『道程』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)
同じく日本書紀の推古天皇下の613年に「難波より京に至る大道を置く」とあり、これが日本における道路整備に関する最初の記述です。
上に挙げた図は、7世紀後半に律令制が制定されて広域地方行政区画として定められた五畿七道の図です。
ここから日本で最初の計画的な道路網の整備が始められることとなります。
一方で室町時代は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多くの関所を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかったようです。
さて、今回の記事と繋がる戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、軍事面の問題から領内の道路整備や峠の開削が積極的に行われました。
室町時代からの慣習で領国の境には多くの関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていたましたが、織田信長や豊臣秀吉は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視し、道路改修や橋梁整備を積極的に行い、国の境にあった関所を廃止しました。




豊臣秀吉は家康を重用し、期待に応えた家康の官位を上げ続け、羽柴姓も与えました。

城郭とは、城(または町)を敵の攻撃から守るための施設。城の囲い。くるわ。更に広く、城(wikiより転載)。


ちなみに「畦(あぜ)」とは「稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの」です。 (wikipediaより引用)





今回の考古学・歴史ニュースは、「京都の遺跡で14世紀の居館と巨大な堀が発見されたよ!」というお話です(*・ω・)ノ
発見の舞台は犬飼遺跡で、京都府の亀岡市曽我部町犬飼に所在しています。
上に挙げた写真で分かるように、かなり大きな範囲が調査されています。
それもそのはず、国営農地の整備を目的として約1400㎡もの範囲を調査したのですΣ(・ω・ノ)ノ
発見されたものは大きく3つです。
それでは、ひとつずつ見ていきましょう(。・ω・)ノ゙
1.堀で区画された方形居館
まず検出された居館は「方形居館」と呼ばれるもので、中世の時代に武士や有力者が居住したと考えられる建造物です。
出土遺物から帰属時期は13世紀後半~14世紀前半と推定されています。
つまり鎌倉時代の終わり頃から室町時代の前半期、南北朝時代の頃のものと考えられます。
方形居館が立地する敷地の周囲は堀で囲まれており、その堀によって敷地は明瞭に2つに区画されています。
大きな区画は約500㎡、小さな区画は約350㎡のサイズだそうです。
この2つの区画内からそれぞれ1棟ずつの建造物が検出されました。
検出された柱の跡(柱穴遺構)から、大きい区画に存在した大きな建造物は居住用の板張りの建物(母屋)であったと考えられます。
一方で小さい区画に存在したより小さな建物は太い柱が使用されており、用途の異なる建物であったと推定されています。
2.近畿最大級の巨大な堀
さて、堀は全部で3本確認されました。
最大幅が約8m、深さ約2mのV字形で、当該時期としては最大級の規模です。
当時、この堀には1m程度の深さで水が張られていた跡も確認されました。
3.様々な遺物、当時の高級品が出土した!
詳しいことは分かりませんが、堀が埋まらない程度に簡易のゴミ捨て場としても機能していたのかも知れませんね。
堀埋まっちゃうからダメ!って言われても楽して近場に捨てたくなるのが昔も今も人の心でしょうかΣ(・ω・ノ)ノ
この堀の中からは口径12~13cm程度の瓦器椀(がきわん)やわらじといった日常品が多く出土しました。
更には漆器や中国製の白磁や緑釉(りょくゆう)陶器といった高級品も出土しました。


