あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    ニュース

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    2019ねん 7がつ 15にち(げつよーび、曇り)

    今週末は後れを取り戻すべく記事を一気に書いた。

    次は報告書だな( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    【目次】
    1. はじめに
    2. 発見された江戸時代の船着き場
    3. 江戸時代の船着き場のイメージ
    4. おわりに

    1.はじめに

    今回の考古学・歴史ニュースは「佐賀県の民家の下から江戸時代末期の船着き場が検出されたよ!」というお話です(*・ω・)ノ

    上に挙げた図は大阪府立中之島図書館に所蔵されている『浪花名所図会』の内の一つです。

    初代歌川広重によって描かれたもので「八軒家着船の図」という現在の大阪市の天満橋の当時の様子がモチーフとなっています。

    この船着き場は同じ江戸時代のものとは言え、今回紹介する船着き場より大きいです。

    しかしながら参考として江戸時代の船着き場のイメージはこんな感じなのです( -д-)ノ



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    ↑手前の階段が発見された船着き場(「dmenuニュース」の記事内画像より転載)






    2.発見された江戸時代の船着き場

    さて、写真にて今回発見された船着き場を紹介しましたが、保存状態が良好ですよねΣ(・ω・ノ)ノ

    もしコーンとコーンバーが無ければ、「現在でも使われている古い階段かな?」とか思ってしまいそうです( -д-)ノ

    発見場所は佐賀県、佐賀市の柳町です。

    旧長崎街道沿いにある民家の下から見つかったそうです。

    何でも、家屋を取り壊していたら下から階段が見つかったそうで、連絡を受けた佐賀市教育委員会が発掘調査を実施したのです。

    報告によると幕末期に築かれたと考えられる近代的な石段の船着き場の遺構であり、雁木(がんぎ)と呼ばれる船荷の積み卸しをするための石段や石垣の護岸、側溝、建物の礎石が出土しました。

    石段は計12段あり、高さ約1.6m、幅約1.8mで、石段の最上部には扉を開け閉めしたような跡があり、蔵があった蓋然性が高いとのことです。

    また今回の発見は、船着き場が佐賀城下で見つかった初めての事例だそうです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    この船着き場の検出場所付近には紺屋川が流れていて、周囲には呉服屋などの商人の家が立ち並んでいたとする歴史記録が残っています。

    紺屋川を利用した水運によって様々な物資が商人宅に運ばれ、そして近くに位置する旧長崎街道を通して広く商品が伝わったのかも知れませんね(*・ω・)ノ

    今回の発見は幕末における佐賀城下町の街並みがわかる貴重な資料であるとともに、こうした船着き場が船荷の流通として活用された歴史を知る上で非常に重要な発見と言えるでしょう。




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    3.江戸時代の船着き場のイメージ

    さて、最初に江戸時代の絵画でイメージを掴んでもらいましたが、やはりサイズ感が異なるので、他に適切なものがないかなと思っていたところ発見しました!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

    これは千葉県香取市にある佐原の風景です

    “北総の小江戸”と呼ばれる水郷の町として有名な観光地なのだそうです。

    小江戸というだけあって、さすがに江戸時代の町並みの感じがします。

    また船着き場のサイズが、ちょうど今回佐賀県で発見された遺構のサイズ感とぴったりだと思います。

    下に別の写真で示したように佐原では「さっぱ舟」という観光遊覧船に乗れるそうです。

    ちなみに「さっぱ舟/サッパ舟」は陸中海岸の漁師がウニ漁やアワビ漁、その他、小規模な刺し網漁などに使用する小型の磯舟のことだそうですが、まぁここでは水運用ですので底が平たい小型の和船のことと理解しておきましょう(*・ω・)ノ

    佐賀県と千葉県では遠いんですけど、佐賀県で本物の江戸時代の船着き場を見た後に、佐原で実際にさっぱ舟に乗って江戸風の船着き場を利用したり、古民家が立ち並ぶ江戸情緒溢れる町を散策してみたりできると最高ですね(・∀・)つ


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    ↑現代だからモーター付いてるけどね!(´・ω・`)(「Browse Instagram content with Picdeer」の画像より転載)


    4.おわりに


    今回の発見のポイントは、学術調査等ではなく、工事の際に普通の民家の下から見つかった!という点でしょうね。

    民家の敷地内における発見なのですが、貴重な発見故、なんとか保存・活用してもらいたいなと思いますね。

    全国の調査説明会にはおおよそ平均何人が来るのか知りませんが、今回の調査説明会には150人もの歴史ファンが駆け付けたということで、やっぱ「みんな幕末大好き(・∀・)つ」だなと感じました。

    (新聞記事には「説明会に何人が来た!」って書いてるから、毎度データ化したら平均数が分かりますね……やってみようかな( -д-)ノ)

    さて、まとめとしまして、『身近なところに歴史はある!』ということで、当サイトに来る人はみんな既に多かれ少なかれ「歴史好き」だと思いますが、身の回りの「身近な歴史」についてもアンテナを張ってみる良い機会かも知れません(*・ω・)ノ

    ↓フォロワー数1000人突破!今後とも宜しくお願い致します(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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    2019ねん 7がつ 14にち(にちよーび、曇り)

    今月やることが3つあるのだが、どれも中途半端になっている。

    まぁ仕方ない。

    ひとつずつ片付けていきましょ~!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑住宅街に佇む本殿(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『札幌市の住宅街にある苗穂神社に行ってきたけど、休み(?)だったから御朱印を頂けなかったよ!』ってことですね( -д-)ノ



    ↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

    【鳥居の考古学①】鳥居の構造と分類のお話……鳥居の起源ってよく分からないそうですよ( ・Д・)【神社の歴史】

    ↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑨」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


    さて、またまた久しぶりに神社に参拝してきた管理人です( -д-)ノ

    どうも「行こう!」と思ったら時間的に間に合わない日々が続いていました。

    札幌市だけでもまだまだ御朱印を頂ける神社があるのでぼちぼちと頑張っていきたいなと思っております(*^・ェ・)ノ

    では恒例の基本データから紹介しますね。


    【苗穂神社】
    住所:北海道札幌市東区本町2条3丁目5−35
    Tel:011-781-5622
    駐車場:あり(6台)

    祭神:
    少彦名神(すくなびこなのかみ)
    ;国造りの神、農業神、薬神、禁厭の神、温泉の神

    創設:明治31年(1898年);札幌神社(現北海道神宮)から少彦名神の分霊を受け神社創立

    例祭等:不明


    さて、いつものように、「まずは頂いた御朱印のご紹介を」といきたいところですが神社が閉まっていました( -д-)ノ


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    シャッターが下りた社務所(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    参拝する前に事前に調べた情報によると、苗穂神社は三吉神社の宮司さんが兼任しているとのことで、御朱印は書き置きになるそうです。

    日曜日の午後一番で参拝したのですが、残念ながら不在のようでした。

    近い内に平日の昼間に再チャレンジして、密かに追記&御朱印upしておきますね( ・Д・)

    また、下に挙げましたように、神社の裏手から入れる駐車場がありまして、おおよそ6台程度駐車できるスペースがあります。

    立派な樹々もあって素敵な雰囲気でした(*・ω・)ノ


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    ↑左手に僅かに駐車場の端が見えている(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑苗穂神社の石碑(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑苗穂神社の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑苗穂神社の鳥居の建立年情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    苗穂神社の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、今回も鳥居のデータを取得してきましたので紹介していきますね(*・ω・)ノ


    【諏訪神社 / 入り口付近にある鳥居】
    ①建立:1977年(昭和52年)
    ②素材:金属製(中空)
    ③高さ:約5m?
    ④直径:36cm
    ⑤角度:斜め(斜度2°)
    ⑥下部構造:円形台石(11cm)


    まず建立年に関して久々にプレートがあるタイプでした。

    ここずっと建立年不明だったので、どうしようかなと思っていたところでした(/TДT)/

    台石は円形のもので、やや高めでした。

    以前、非常に高い台石のことを新しく「台座」として下部構造属性を設定しましたが、これには相当しないかな~という難しい高さです。

    数が増えれば検討できるのですが、まだできそうにないですね( -д-)ノ

    また、比較的新しい鳥居は、中空の金属製の傾向があるのかなとも思っています。


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    ↑苗穂神社の入り口の門(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑上部はこんな感じ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑建立年情報と下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、これまでの参拝では初となると思うのですが、苗穂神社の入り口には屋根付きの鳥居状の構造物がありました。

    調べてみたところ、「簡易の楼門」に分類されるのかなと思います。

    詳しい方がいらっしゃいましたら、是非コメントをお願い致しますヾ(´ω`=´ω`)ノ

    屋根が付いている点と柱が島木を抜けて屋根部にまで到達している点、島木が柱から外に飛び出していない点から、鳥居というよりは通常の「門」としての構造だろうと思います。

    一応データは取っておきましたが、新たな情報が入るまではひとまず鳥居としてカウントしないことにします( -д-)ノ


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    ↑苗穂神社の手水舎(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑苗穂神社のお賽銭箱は金属製だった(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑古い木製の電柱がイイ感じ(「歩け、マヤ」管理人撮影)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    おわりとしてまして……最後の写真、上手く撮れたかな~なんて思ってます( ・Д・)

    最近天気悪かったので、青空が少し見えただけでハッピーですね。

    ところでこの昭和風な電柱、イイ感じですよね。

    木材はかなり劣化していますが、まぁまだかなり立っていられるでしょう。

    今度、苗穂神社を訪れた際には、是非忘れずにいつから立っているものなのか?」を訊いてみたいなと思います。

    木製の鳥居に出会うことも稀にありますからね、正直、材質が何であれ、それぞれどれくらいの期間が限度なのか、あるいはどれくらいの期間ごとに再建立するものなのか、取り換えられた古い鳥居はどうなるのかを知りたいなと思います(。・ω・)ノ゙

    ↓御朱印集めが趣味な方、かもーん!щ(゚Д゚щ)クァモーン!↓

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    2019ねん 7がつ 13にち(どよーび、雨)

    毎週土曜日は徹夜の日にしようかなと考え中。

    時間の確保のために( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
    一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
    一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
    一乗谷朝倉氏遺跡復原町並
    福井県、「一乗谷朝倉氏遺跡復原町並」における戦国時代の城下町の様子(「毎日新聞」の記事内画像より転載)


    今回の考古学・歴史ニュースは、『駿府城にて国内でも非常に珍しい戦国時代の「道」が見つかったよ!』というお話です(*・ω・)ノ

    1. 駿府城における「戦国時代の道」の発見
    2. 日本における「道の歴史」
    3. おわりに


    1.駿府城における「戦国時代の道」の発見

    つい先日、静岡県、駿府城公園の天守にて大きな発見があったばかりですが、更なる重要な発見がありました。


    ↓瓦の歴史】安土桃山時代、徳川家康の駿府城から豊臣秀吉の金箔瓦が大量に出土したよ!( ・Д・)【歴史考古学・城郭考古学】↓



    上に挙げた写真は福井県にある「一乗谷朝倉氏遺跡復原町並」で行われたイベントの様子で、戦国時代の城下町に武士や町人に扮した人々を配置して当時の雰囲気を味わってもらうというものです。

    この「朝倉氏遺跡」では国内でも数例しかない「戦国時代の道」が検出されており、「復原町並」ではその調査成果を活かした復原がなされています。

    写真には復原された「武家屋敷の石垣と道」が写っていますが、けっこう道幅が広い印象を受けます。

    一方で今回、駿府城周辺にて検出された「石垣に囲まれた道」はイメージとしては同様のものですが、道幅はより狭いものになります。



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    上の1枚目の画像で分かるように、前回の発見の舞台は駿府城公園内の天守台でしたが、今回の発見場所は公園の周辺に当たります。

    この位置に歴史文化施設を建設すべく、事前に調査がなされていたところ今回の発見に至りました。

    「戦国時代の道」は貴重な発見ですから、博物館展示の目玉の一つとして、床面をガラス張りにして遺構を確認できるような方法を取るのかなと私は予想しております( -д-)ノ

    さて、最初に挙げた朝倉遺跡の写真は当時の道の様子をイメージしてもらうのに最適で、上に挙げた2枚の画像は実際の遺構の状態と道の様子をリンクさせるのに適切かなと思って載せました。

    次に実際の遺構の写真を挙げますが、「よく分からないよ!ヽ(TдT)ノ」という方はこれまでの3枚の画像と比較してみると理解が深まるかと思います(。・ω・)ノ゙




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    これが検出された道なのですが、お分かり頂けたでしょうか?

    現地表面から60~100cm掘り下げた位置にて検出されたとのことで、けっこう浅目ですからね、よく残っていたなと思います(・∀・)つ

    検出された道の全長は約30m、幅は約2.7mでした。

    この「戦国時代の道」の検出場所は三の丸であり、この一帯には駿府城の本丸、二の丸を囲むように、重臣級の武家屋敷が立ち並んでいたと考えられます。

    武家屋敷の石垣と考えられる石列に挟まれた道は、表面が土で固められており、その表層部分は厚さ約10cmとなっています。

    検出された石垣の高さは約30cmであり、天然の石がそのまま積まれる技法の「野面積み」です。

    これは前回の記事で紹介した駿府城の「旧」天守台における技法と同じものになります。

    この石垣に用いられた技法と出土品から、「旧天守台」と類似の時期(家康期~中村一氏期;1585~1606年頃)に造営されたものと推測されています。

    また天下人となった家康が駿府城に戻った1607年以降、大御所政治を始めたころ、秀吉時代に築かせた天守閣とともにこれらの武家屋敷や道も埋められた可能性が高いとされています。



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    2.日本における「道の歴史」

    「其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」
    (訳:実際、地上に道は初めからあるのではなく、多くの人が歩くから、それが路となるのだ)

    魯迅『故郷』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)

    僕の前に道はない
    僕の後ろに道は出来る

    ああ、自然よ
    父よ
    僕を一人立ちにさせた広大な父よ
    僕から目を離さないで守る事をせよ
    常に父の気魄を僕に充たせよ
    この遠い道程のため
    この遠い道程のため

    高村光太郎『道程』より引用、一部改変(着色・太文字化のみ)

    さて、上に引用したように「道」に関するカッコイイ表現があります。

    これらの場合の道は「物理的な道」のことのみを取り扱っているようには思えませんが、字義通りに捉えるとすると、まぁ確かに道は元々あるわけではないですし、人が歩くことで道は出来ますね。

    「獣道」っていうんですど( -д-)ノ

    獣道は実際にイノシシなどの大型の哺乳類が頻繁に通ることで形成されますが、一部の林道・山道など整備することなく人がただ歩くことで形成される場合も獣道と呼びます。

    考古学の性質上、人類を対象とした場合、こうしてヒトによって踏み固められることで自然と出来上がった所謂「獣道が最初の道」と言えるでしょう。

    こういった最初期の道は原始的な生活を送っていた文化に見られるものというイメージがありますが、青森県の三内丸山遺跡では縄文時代に帰属する全長約12mの舗装された道路が検出されており、国内における道路の歴史はかなり古いものと言えます。

    また日本書紀における神武東征の箇所で、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」という記述が見られます。

    これが国内における道路に関するの最も古い記述であり、当時の道路は人が2列で行進することができないほど狭いものであったようです。

    同じく日本書紀の推古天皇下の613年に「難波より京に至る大道を置く」とあり、これが日本における道路整備に関する最初の記述です。


    上に挙げた図は、7世紀後半に律令制が制定されて広域地方行政区画として定められた五畿七道の図です。


    ここから日本で最初の計画的な道路網の整備が始められることとなります。


    鎌倉時代には、源頼朝が支配圏を拡大していくために道路整備を積極的に行っており、特に東国の関東武士が鎌倉へ集結するための関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が切り開かれました。

    一方で室町時代は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多くの関所を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかったようです。


    さて、今回の記事と繋がる戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、軍事面の問題から領内の道路整備や峠の開削が積極的に行われました。


    室町時代からの慣習で領国の境には多くの関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていたましたが、織田信長や豊臣秀吉は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視し、道路改修や橋梁整備を積極的に行い、国の境にあった関所を廃止しました。


    「全ての道はローマに通ず」とありますけども、あちらでも古代の道路網は軍道の整備として充実していきますから、「道の歴史」として共通性を感じますね。

    何はともあれ、物流の効率化を図ること、そのための道路整備は国家段階の集団にとって重要だったのだろうと思います(*・ω・)ノ



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    3.おわりに

    静岡市では駿府城公園を文化資源として活用しようという動きが活発であり、現市長が全面的に支援しています。

    そうした中、このように立て続けにニュースになるような発見がなされることは市長だけではなく、静岡市民、関係者らにとっても嬉しいことだろうなと思います。

    戦国時代好き、歴史好きな皆さんにとっても、貴重な「戦国時代の道」を博物館で生で見ることができるようになるかも知れないと思うときっと喜ばしいことだと思います。

    ふるさと納税など様々な試みがなされている中、こういった各市町村が有する具体的な文化財をしっかりと調査して歴史的意味付けを行い、上手に活用していくことで、「真の地元愛」を育てたり、歴史ファンを含む多くの観光客を惹き付けることに繋がるんだろうなと思います(。・ω・)ノ゙

    ↓あ~それそれ!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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    2019ねん 7がつ 13にち(どよーび、曇り)

    本を買いたい欲が凄い。

    自分が本当にやりたい研究のために、様々な勉強が必要だと実感した今日この頃。

    今年は有意義な一年になりそうだ( -д-)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    さて、今回の考古学・歴史ニュースは『古代ローマ、ポンペイで出土した「最後の晩餐」はまだ食べれますよ?』ってお話です(*・ω・)ノ

    【目次】
    1. 世界最古の博物館と、イベントの紹介
    2. 驚きの保存状態の食べ物を見よ!
    3. おわりに

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    ↑ハリー・ポッターでお馴染みのグレートホール(「Google」の画像検索結果より;*元ページが存在しないようです)


    1.世界最古の博物館と、イベントの紹介

    ということで、まず上に挙げた画像たちはイギリスにある超名門大学、「オックスフォード大学」の様子です。

    オックスフォード大学は英語圏で最古の大学であり、記録では11世紀の終わりには講義を行っていたそうです。

    当時の学生は弓矢等の武器類を携えて受講したのだとかΣ(・ω・ノ)ノ

    そんな世界一の大学が有する博物館はぱっと数えたところ、5つもあるようです。

    特に考古学博物館を二つも有しており、その所蔵数も莫大な量を誇ります。

    今回紹介するアシュモレアン博物館(Ashmolean Museum of Art and Archeology)はその内のひとつなのです。

    今回新たに開催される特別展、「Last Supper in Ponpeii(ポンペイにおける最後の晩餐)」は、2019年7月25日より2020年1月12日までの日程で行われます。

    イギリスなので気軽に行けるわけではありませんが、よろしければどうぞ!

    今回の記事では日本在住の方はなかなか気軽には行けないので、特別展と展示物の一部を紹介したいと思います。





    2.驚きの保存状態の食べ物を見よ!





    先にも述べたように、この特別展のタイトルは「Last Supper in Ponpeii」です。

    レオナルド・ダ・ヴィンチの名画で有名な「最後の晩餐」にかけて訳してみましたが、実際に「Supper」は「晩餐」という意味の他に、「軽食」の意味があるそうです。

    昼に正餐(しっかりとした夕食)を取った場合に軽く夕食を取ることをサパーというようです。

    昼に夕食というのは何だか妙な感じがしますが、中世ヨーロッパではそれが普通だったようです。

    当時は一日2食が一般的で昼と夜に食べていました。

    (朝ごはん抜きの文化は古いんですね( -д-)ノ)

    そして一番エネルギーの必要な昼に正餐を取り、夕食はサパーで軽く済ましていたようです。

    なんだか健康的な食習慣ですよね?Σ(・ω・ノ)ノ

    ということで、ポンペイから出土した今でも食べれそうな遺物はこちらです!


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    一気に紹介しましたがいかがでしたでしょうか?

    パンはたくさん出土しています。

    丁度、サパーを取る時間帯に噴火したのでしょうね(/TДT)/

    一番最初に挙げたパンが本当に、その辺で売ってそうなパンですよね。

    実際に古代ローマのフレスコ画に残るパンも形状が一致していますし、驚きの保存状態です。

    色調だけは変わってしまっていると思いますが、チョコレートパンにしか見えませんね。

    触れることのできる展示なら、私は間違えて食べます( ・Д・)

    たくさんパンが出土する中で、やはりヒビが入っていたり、押しつぶされているものも実際には多数ありました。

    そのような中で、半分に切ってある状態のパンは上に挙げた写真しかありませんでした。

    まさに夕食を取っていた際に起こった悲劇なんだなと痛感させられますヽ(TдT)ノ





    3.おわりに

    まぁ今回、勝手に「まだ食べれるよ?( ・Д・)シリーズ」と題しましたけど、以前にもまだ食べれそうな遺物の話があったと思います。


    ↓【「ラーメンの考古学」番外編】人類史上最古の麺が今でも食べれそうな件について。4000年前の麺はお湯かけて3~5分でイケそうである( ・Д・)【むしろこっちが正当な考古学】



    上のこれがライブドアブログの新機能である「リッチリンク」なんですけど、当サイトのタイトルは基本的にバカ長いので内容分かりませんね( ・Д・)

    しかも書き出しが「幼稚園児の日記風」にしてあるので猶更中身が分からんという事態になってますヽ(TдT)ノ

    しょーがないので、上の例みたいにタイトルを併記したいと思います( -д-)ノ


    他にも食べれそうな保存状態いいやつと言えば、こんなのもありましたね。


    ↓【中国の奇跡】2500年前の古代中国にも『超卵好き』がいた!?墓から大量の卵が無傷で見つかったよ!( ・Д・)【考古学】


    ↓お酒の考古学~フィンランド編~】最古のビールシリーズ④!古代人も現代人も世界中みんなビールが大好き過ぎる!【お酒の歴史】
     


    他にも「弥生人の脳みそ」とかポンペイネタでも色々ありましたけど、今後このシリーズではあくまで食べれる系を紹介することにします。

    まぁ滅多にないでしょうけどね!( ・Д・)

    ↓食べれそうだと思ったらぽちっとな!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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    2019ねん 7がつ 11にち(もくよーび、晴れ)

    予定していた統計学、データ分析に関する基礎的な勉強を終えた。

    ひとまず手持ちのデータを使っての考古学への導入実践も成功した。

    だからずっと記事書いてなかった!

    ごめんねっ!!!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは、「史実として家康の居城であった駿府城から、何故か秀吉の金箔瓦が大量に見つかったよ!」というお話です(*・ω・)ノ


    【目次】
    1. そもそも徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?
    2. 金箔瓦の出土状況からの推測
    3. 金箔瓦の歴史
    4. おわりに


    1.そもそも徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?

    1582年に起きた「本能寺の変」によって織田信長の死後、家臣であった羽柴秀吉は天下人としての道を突き進んでいきます。

    この本能寺の変はドラマや漫画でもよく題材として取り上げられ、とても有名ですね( -д-)ノ

    このビッグイベントの後すぐに、羽柴秀吉は家康を家臣にしようと考えますが、家康はこれを拒否します。

    しかし秀吉が僅か3年後である1583年に関白となり、翌年1584年には正親町(おおぎまち)天皇から豊臣の姓を賜って豊臣秀吉として名実ともに天下人となります。

    これを受けて家康は豊臣秀吉の家臣となります。

    豊臣秀吉は家康を重用し、期待に応えた家康の官位を上げ続け、羽柴姓も与えました。


    1598年に豊臣秀吉が病死した後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位となります。

    また豊臣秀吉から息子の秀頼が成人するまで政事を家康に託すという遺言を受けていたため五大老筆頭として認められるようになります。

    その後、家康は自身の権力を利用し、豊臣秀吉が禁じた大名同士の婚姻を成立させるなどの行為から反発を買い、結果として豊臣家と対立して滅ぼしてしまいます。

    まぁこれがよく「家康は狸」と言われる所以ですね( -д-)ノ






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    2.金箔瓦の出土状況からの推測

    さて、今回の発見があった場所は駿府城(すんぷじょう)です。

    この駿府城は静岡県、静岡市葵区に所在しています。

    上に挙げた1つ目の画像に見られるように、駿府城は1635年の火災により天守が焼失しました。

    その後は天守台(天守の下の石垣造りの土台)だけが残っていましたが、1896年(明治29年)に当時の軍部の下で天守台は取り壊され、その土砂で本丸堀が埋め立てられました。

    静岡市では、かつて天守が建っていた跡地の整備方針を決定するため、事前に天守台の正確な位置や大きさ、石垣の残存状況などの学術的データを得ることを目的として発掘調査が計画されました。

    この発掘調査は、2016年に開始し、2020年まで実施予定となっています。

    駿府城は駿府城公園として公開されており、上の2つ目の画像のように公園敷地内の一部が発掘調査対象区域なのです。

    まぁ恐らくは静岡市が観光資源として活用するために学術調査を行った上で天守閣の復元を行うのかなと個人的に思っています( -д-)ノ




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    さて、先ほどの年表にもあったように、駿府城は2度、築城されています。

    この2度目の築城の際に、天守を完成させたのが家康です。

    この時の天守台(復元)の写真が上の1枚目のものになります。

    今回のより古い天守台は家康期の天守遺構と重なる配置から検出されており、3枚目の写真のように旧天守台の一部が残存しているのが確認されました。

    2枚目の写真から分かるように2つの遺構は南東角で重なっています。

    この天守台は南北約37m×東西約33mで新天守台(家康期)のものよりも一回り小さいものであり、旧天守台を壊すことでその周囲の堀を埋め立てて、その後に新天守台が建造されています。

    この埋め立てられた旧天守台周辺の堀から、330点もの大量の金箔瓦が出土したのです。

    この旧天守台の石垣を建造する技術は新天守台とは異なっており、旧天守台の石垣では自然石を積み上げた野面積みの技術を用いていることが豊臣期の特徴です。

    また金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しています。

    公式の発表では、発見された旧天守台は1590年に江戸に向かった家康の代わりに入城した中村一氏が築城したものとされています。

    でもそうなると、「1585年に築城が開始された1度目の家康の天守台はどこなのか?」という問題に突き当たるのではないかと思います。

    この時代に関して門外漢ではありますが、出土した遺物と遺構から、今回発見されたのは家康による一度目の天守台ではないかと思います( ・Д・)

    一氏が入城したのが1590年であり、この最初の天守台は1588年に完成したばかりですから、そのまま利用した可能性もあるでしょう。

    戦国時代で城主が変わると天守が変えられることが一般的でしたが、この駿府城の場合、落城したわけではありませんし、元の城主である家康は秀吉のお気に入りなわけですから、一氏が天守に手を加えたとしても一部であり、天守台の石垣などの基礎部分はそのまま利用したと考えられるのではないでしょうか。

    家康が天下統一を果たしてから駿府城に戻り、二度目の築城を行ったのは過去に自分が豊臣家に仕えていた際に築造した天守を、あるいは豊臣側の一氏が少し手を加えた天守(どのみち豊臣期様式)を変えたかったからかも知れません。

    やはり史料として中村一氏が築城したということが記載されておらず、かつ考古学的にも3期に渡る遺構が確認されていない以上、今回発見された旧天守台を中村一氏の城とするのは飛躍があるかなと思います( -д-)ノ

    (もしかしたら史学的根拠があるのかも知れません。知っている方は是非コメントお願いします!)


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    3.金箔瓦の歴史

    金箔瓦は1576年に信長が築いた安土城で初めて本格的に導入されました。

    元々、掘立小屋のような簡易な建造物しかなかった城に、礎石を用いた瓦葺きの本格的な建造物が全面的に採用されたのもこれが初めてと考えられています。

    この織田信長によって始められた金箔瓦の採用を含む新しい建築様式は、「使用制限」があり、織田政権の財力・権力の象徴的として機能しました。

    一方で続く豊臣秀吉は自身が金箔瓦を用いた城を築城するだけではなく、豊臣家の一門や重臣たちの間で普及させました。

    そしてその後、近世城郭の普及に伴ってに金箔瓦も全国に広まっていきました。

    ですので金箔瓦を有する城は多数あるわけで、近年の城跡の調査によって全国の広域に渡って金箔瓦が出土することが確認されています。

    上に挙げた写真の京都府にある聚楽第(じゅらくだい)跡や、宮崎県の佐土原城、福島県の会津若松城など全部で41の城郭で確認されています。


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    ↑金箔瓦を有する城郭の分布(「攻城団」の記事内画像より転載;*上述の41の金箔瓦を有するお城について分かり易く整理されていますので、興味ある方は是非覗いてみてください(*・ω・)ノ)






    さて、上に挙げましたように、金箔瓦には大きく2つの様式があります。

    信長時代の金箔瓦は装飾瓦の凹んだ部分(地の部分)に金箔が貼られ、模様部分を黒く浮かび上がらせるという方法が取られていました。

    一方で秀吉時代の金箔瓦は、凸部分である紋様部分や縁の部分に金箔が貼るという方法が取られていました。

    また金の純度は信長時代の方が高かったようです。

    秀吉の時代は豪華に飾り立てる「見せる」お城の重要性が高かったため、たくさん金箔を使うには純度を落とす他なかったのかも知れませんね( -д-)ノ




    4.おわりに

    たまたま瓦の研究をしていた先輩がいたため、瓦の分類や編年が存在することは知っていました。

    まぁ瓦から時期や帰属する武将が分かるのは、土器の専門としてすっと理解できるんですよね。

    似ている(?)と言えば似ているので( -д-)ノ

    一方で城郭考古学なるものもTwitterという文明の利器のおかげで最近知りました。

    詳しくはもちろん知りませんが、対象を「城郭」を中心にしているということなのでしょうか……

    (では土器を扱っていれば「土器考古学」なのかという疑問も残りますが、『~(なんちゃら)考古学』あるあるなのでそっとしておきます( ・Д・))

    城郭とは、城(または町)を敵の攻撃から守るための施設。城の囲い。くるわ。更に広く、城(wikiより転載)。

    論文に当たっていませんが、さらっと調べたところ、やはり城郭を対象とした考古学のようですね。

    私には「城郭考古学」としてカテゴリー化する必要があるほど、この分野が中近世の歴史学・考古学に強い影響を与えるのか、その評価はできません。

    しかしながら石垣等の遺構の築造技術からの分類と編年作成は面白いなと思います。

    城郭の総数が気にかかるのと、編年といっても築造年代は史学で大体分かっているのではないか、よほど特徴的な技術でければ同時多発的に発生するのではないか、予算等の事情で築造方法を簡易化する(旧技法を用いる)可能性もあるのではないかと諸々の疑問が溢れます。

    批判しているかに見えるかも知れませんが、ぱっと疑問が溢れるということは「面白い」ということです。

    どれも検討する必要があり、その複雑さが研究をより一層面白くするわけですからね(注:ドMではない( ・Д・))

    さて、古代マヤの建造物に関するこの手の研究は比較的進んでいませんし、応用できるかは分かりませんが、建造物遺構に対する視点として是非加えておきたいなと思いました。

    お城好きな方々も多いと最近身に染みて分かるようになりましたが、私も石垣を見れば時期と築造方法を同定できるようになりたいものです。

    次の記事は「石垣の分類」かな!?

    ・・・・・・ところで世界も広いし、歴史の範囲も広いねっ!( ・Д・)

    苦手ながらも専門外のこういう記事を書いていけば、慣れるだろうし、見識も広がるかと思っていましたが道程はほんとに長いなと思います。

    でもまぁのんびり頑張ります!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    ↓ぽちっとな!……ぽ、ぽちっとな!!!( ・Д・)↓

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    2019ねん 7がつ 6にち(どよーび、晴れ)

    週1の休みで十分研究していけるなと思っていたが、甘かった。

    やはり2日欲しい!

    だってその1日の休みを調査・研究に充ててたら休めてないじゃないか!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    さて、今回の考古学・歴史ニュースは「古代マヤ文明のウシュル遺跡にて、斬首された大量の人々のお墓と、王子様のカップが見つかったよ!」というお話です。


    1. ウシュル遺跡の概要
    2. 斬首された大量の人々の墓の発見
    3. 史上初となる王子様のカップの発見
    4. おわりに


    1.ウシュル遺跡の概要

    ウシュル遺跡は古代マヤ文明に属する遺跡で、現在のメキシコに位置しています。

    上に挙げた図で分かるようにユカタン半島の中央部付近にウシュル遺跡は所在しています。

    このユカタン半島の中央部一帯は「マヤ中部低地」として所謂、最盛期である古典期(CE250-1000)の中心地として多く語られる地域です。

    マヤ文明の遺跡としてよく目にするであろう「ティカル」や「カラクムル」もこの地域に属しています。

    ウシュルはこの中心的な地域においてちょうど古典期に最盛期を迎えた都市国家遺跡であり、重要なマヤ遺跡のひとつとして認識されています。

    (*「中心」とか「最盛期」とか表現上、ナイーブな問題を抱えていますが、ここでは割愛します( -д-)ノ)


    細かく見ると、ウシュルは北東にカラクムル、南にエル・ミラドールというより大きな都市の間に立地してます。

    古典期においてエル・ミラドールは既に衰退していましたが、ウシュル周辺域は古典期マヤ地域の中でも人口の集中したエリアだったと考えられます。

    その他の古代マヤ都市国家と同様に、ウシュルは長距離交易に参加しており、およそ400km南方に位置する現在のグアテマラ高地や、およそ1000km西方に位置するメキシコ中央高原との諸関係が遺物・遺構から推定されています。

    また残された碑文によると、ウシュルは西暦630年に近隣のより強大な都市国家であるカラクムルの支配下に入ったことが分かっています。

    ちなみにウシュル(Uxul)はマヤ語であり、意味は「終わり」です。

    これはオリジナルの名前ではなく、1934年にそれを再発見した2人の男性、カール・ルパート(Karl Rupper)とジョン・デニソ(John H. Deniso)によって与えられた名前です。


    (↓「ティカル」も後から付けられた名前で、元々は「ムタル」と考えられています。

    ↑併せてどうぞ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ)




    2.斬首された大量の人々の墓の発見

    ウシュル遺跡における本格的な考古学調査は2009年から実施されてきました。

    主導しているのはドイツのボン大学(University of Bonn)に所属するニコライ・グルーベ(Nikolai Grube)で、彼は特に碑文研究者として著名です。

    調査の初期は上に挙げた測量図を作成するために時間の多くが充てられました。

    上の図の上部、左右端にくすんだ水色に塗られた方形の遺構がありますが、これがアグアダ(Aguada;貯水池)になります。

    それぞれおよそ250m×500mという規模であり、推定貯水量はそれぞれ2500万Lと巨大な貯水池を有していたことが分かりました。

    この貯水池は調査され、水が溜まるように内面が焼成粘土で覆われていたことが確認されました。

    前述のマヤ中部低地は大きな河川や湖沼といった水資源に乏しい環境にあるため、多くのマヤ都市は巨大な貯水池を造営していましたが、内面に対してセラミック化という大掛かりな加工を施していたことが確認された事例としてもウシュルは重要な遺跡です。

    さて、貯水池の調査の後、2013年には付近の発掘調査によって大型の墓地が発見されました。

    古代マヤの葬制では、親族の遺体を床面や新たに付加する階段の下部に埋葬して、「死者と共に暮らす」というスタイルが取られていました。

    日本ではお墓は別にありますが、仏壇が家庭にある場合もありますから、「祖先と共に暮らす」という点で理解しやすい風習かなと思います。

    古代マヤではそういった葬制の特徴から、住居・神殿建造物と墓が密接な関係にあり、「生の空間」と「死の空間」を区別しません。

    そのため所謂「墓所」や「墓域」という空間を構成しないのが通例ですが、このウシュルの事例では24体の人骨がまとまって出土した大型の墓場が検出されたのです。

    これたの人骨を調査したところ、24体の全てが埋葬前に首を切り離されていたことが分かりました。

    また人骨には、頸骨への斧痕、治癒痕のない頭蓋骨折、頭骨表面の死亡時の切創痕などを含む、激しい受傷痕跡が確認されました。

    これらの人骨の多くは男性であり、その何人かは栄養失調や歯が崩壊した特徴を示していました。

    古代マヤ美術では土器や壁画に対してペインティングにより様々な情景が描かれていますが、有名なボナンパクの壁画では他の都市国家の敵、つまり戦争捕虜を斬首等の方法で取り扱う情景が描かれています。

    そのため恐らくウシュルでのこの発見は、ボナンパクの壁画に見られるような戦争による捕虜の獲得と儀礼的処刑という文化が存在したことの物的な証拠となるでしょう。

    古代メキシコ文化では戦士の殉葬が多く見られ、このような大量の人骨が一度に発見されることも珍しくありませんが、古代マヤ文化における事例としては注目に値する大きな発見だと思います(*・ω・)ノ





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    3.史上初となる王子様のカップの発見

    さてこのウシュル遺跡からは王子様のカップが史上初めて発見されました。

    何故、王子様のカップと分かるかというと、

    ①王族の墓の副葬品として出土した点

    ②土器に描かれた文字に「王子のコップ」と書いてあった点

    この2点が根拠となっています。

    古代マヤ文明の地の大部分は現在のグアテマラとメキシコの熱帯雨林地帯、所謂ジャングルの中にあります。

    その環境も相まって、昔から盗掘が絶えません。

    グアテマラでは最近になっても「盗掘天国」として地元新聞の一面を飾ったように、現在も抱える文化財保護上の大きな問題となっています( -д-)ノ

    一方で特に古典期後期(CE600-1000)の多彩色土器はマヤ文字情報を含み、「その土器の所有者や用途」について記載されていることが、近年の碑文研究成果によって明らかとなっていました。

    ですので「王子や王様の器」と解読できるマヤ文字を含む土器資料はこれまでにも確認されていましたが、どれもアメリカやヨーロッパの博物館が所蔵する土器資料群、つまり過去の盗掘品だったわけです。

    つまり今回「史上初」としているのは「学術的な調査で出土した資料として初めて」という意味なのです。

    ウシュルでの発見は、考古学的な一次情報を全て有している資料の事例として、実は大変重要な考古学的価値があるのです(*・ω・)ノ


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    さて、上に挙げた写真が実際に発見された若い王子の古代の墓です。

    墓が検出されたのは宮殿と考えられる複合建造物であり、最初の測量図における「上部の白抜き部」に相当します。

    この宮殿は短軸120m、長軸130mの規模であり、5つの中庭を囲む少なくとも11基の個別の建物で構成されています。

    (個人的には右下に見える大きな複合建造物群も宮殿クラスじゃないかと思うのですが、まぁいいでしょう( ・Д・))

    建造物の詰土から出土する土器破片資料の分析から、これらの複合建造物群(宮殿)は西暦650年頃に建てられたと推定されています。

    上の写真で見て取れる人骨を分析したところ、王子の年齢は20~25歳で男性と考えられ、周辺には9点の土器が副葬品として捧げられていました。

    この9点の副葬された土器の内の1点には、「これは若い男の杯/王子様」というマヤ文字表記がなされていました。

    また別の土器には「西暦711年」と考えられる日付が記されており、被葬者の生きていた年代を示す資料が確認されています。

    (マヤ土器の土器編年では一つの時期が200~250年程度の年代幅を有することが多いため、個人レベルの同定にはこうした文字情報による「暦年」の記載が重要なのです( -д-)ノ)




    4.おわりに

    この件の王子には王位継承権がなかったと推定されています。

    というのも、王位継承者であれば「翡翠製の装飾品」が副葬されているはずだからです。

    「王の墓」はよく話題に上がるので知っていますが、「王子の墓」って例を私はあまり知りません。

    王の墓には確かに豪華な翡翠製品が見られますが、数ある王族の中で墓の副葬品の一つである翡翠製品が個人の王位継承権の有無を直接的に反映していることを証明した論文を知りません。

    翡翠製品の研究をしていた知り合いもいますので、聞いてみようかな。

    感覚では、それほど一対一の関係で考古学遺物が特定の事柄を直接的に反映することはなかなかないかなと思っています。

    まぁそれが考古学の難しいところであり、面白いところなのです( -д-)ノ(と思います)。



    ・・・・・・ところでこの王子様はイケメンだったのでしょうか?

    気になるところですね( ・Д・)



    ↓気になった方はどーぞ( -д-)ノ( -д-)ノ
    ↑とても古い記事ですけどね( -д-)ノ( -д-)ノ

    ↓微妙にフォロワー数1000人に届きそう……で届かない!( ・Д・)↓

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    2019ねん 6がつ 22にち(どよーび、激しく雨)

    ここの日記スペースに何を書くべきかをいつも悩む(´・ω・`)

    下手すると本文以上に悩んでいる( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya443
    ↑仙台市、沓形遺跡の所在(「Googleマップ」より画像を転載)


    今回の考古学・歴史ニュースは、「仙台市、沓形(くつかた)遺跡で弥生時代に水田を廃絶してしまうほどの大津波の痕跡が見つかったよ」というお話です(*・ω・)ノ

    さて、前回スマトラ島沖地震を発端とした過去の大津波被害について考古学調査が明らかにしたよというお話を紹介しましたが、今回は日本の事例です。


    ↓これです(*・ω・)ノ
    ↑もう読みました?ヾ(´ω`=´ω`)ノ


    上に挙げた図から分かるように、沓形遺跡は,宮城県、仙台市の東部にある遺跡です。

    標高2~4mの後背湿地に立地しており、現在の海岸線から約3.8~4.km内陸に位置しています。

    この沓形遺跡では最も新しい層では近現代の水田造営の痕跡が見られる層が確認されていますが、古くは縄文時代から弥生時代、古墳時代、平安時代と水田が営まれ続けた地点であることが分かっています。








    この遺跡は2007年にに地下鉄東西線建設に伴う試掘調査が実施され、調査面積は213,600㎡にも及びます。

    上の1枚目の写真から分かるように広大な遺跡であり、良く見ると「白いライン」が無数に走っているのが見て取れます。

    これは2枚目の写真で分かるように、古代の「畦(あぜ)」を示したラインになります。

    ちなみに「畦(あぜ)」とは「稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの」です。       (wikipediaより引用)

    分かり易い図を探していたら「畦カバー」なる商品の紹介画像を見つけたので、貼っておきました(いつものように回し者ではありません( -д-)ノ)。

    上図の中で「ピンク色の矢印が付いている部分」が畦に相当する箇所であり、植えてある稲の周囲にある盛り上がった部分のことを言うわけです。


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    さて、この沓形遺跡の地点は先に述べたように、現在の海岸線から4kmほど内陸に位置していますが、今からおよそ2000年前の弥生時代には2kmほど内陸に位置していたようです。

    発掘調査から弥生時代に1度、この一帯が大きな津波被害を受けたことが確認されました。

    上に挙げた写真で見られるように、水田を覆う「砂の層」が確認されたのです。

    この砂は粒度組成分析などによって海浜起源の砂であることが明らかになりました。

    この砂の層によって弥生時代中期の水田跡は完全に覆われており、津波被害によって廃絶したことが推定されました。

    そしてこの場所に再び水田が営まれるのは古墳時代前期であり、つまり約400年後にようやく再開したことから確認された津波被害は当時のの集落に大きな影響を与えたことが推測されます。

    この発見に伴い、沓形遺跡を中心とする周辺地域での津波堆積物の分布調査が実施されました。

    それによって約2,000年前に生じた津波の遡上距離は当時の海岸線から約4.2㎞と算定され、2011年に発生した東日本大震災の津波(遡上距離約4㎞)と同規模の大津波が弥生時代に仙台平野を襲ったことが明らかになりました。

    また沓形遺跡は2014年まで複数回の発掘調査が実施され、弥生時代中期に営まれていた水田域は東西約300m、南北約1.2km、面積20haを超える広範囲に及ぶことが判明しました。

    これが全て約2000年前の津波被害で廃絶されてしまったことが分かったのです( ・Д・)



    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    ここ最近、多忙を理由に記事の紹介ができていませんでした。

    時間が取れてもサクッと書けるような記事を選択していたので、特に考古学関係のニュースには触れていなかったです。

    「考古学・歴史ニュース」という副題に恥じぬよう善処していきますね( ・Д・)( ・Д・)

    前回のスマトラ島沖地震・津波関連記事を書いていた時から、日本における事例の紹介をしようと思っていたので、ようやく紹介できてよかったなと思います。

    この事例では「東日本大震災と津波被害の前に」この範囲まで津波が到達して大被害をもたらしていたことが考古学的に分かっていたわけです。

    こういった古代の地震や津波の被害が判明している事例は他にもたくさんあると思いますが、現代の地震・津波に対する避難対策といった防災にどうにか役立てることはできないものかと思いますね(。・ω・)ノ゙

    ↓応援よろしくお願いしますっ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ↓

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    2019ねん 6がつ 20にち(もくよーび、激しく雨)

    太ももが激しい筋肉痛である

    筋トレし過ぎた( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑本殿周辺はまだ明るく、普通の神社に見える(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『道南、豊浦町にある住吉神社に行ったら、御朱印の代わりに朝から肝試し体験を頂いたよ!』ってことですね。



    ↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓
    ↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑨」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


    さて、またまた久しぶりに神社に参拝してきた管理人です( -д-)ノ

    今回も資料調査の際に参拝してきました。

    見込みが甘過ぎた結果、資料調査はあと2か月以上続きそうなので、今後は調査地に着くまでに見かけた神社に参拝していこうかなと考えています。

    では恒例の基本データから紹介しますね。


    【住吉神社】
    住所:北海道虻田郡豊浦町礼文華
    Tel:???
    駐車場:なし

    祭神:
    ???

    創設:???

    宵宮祭:6月29日(推測)
    例祭:6月30日(推測)


    ということでほとんど情報が得られませんでした。

    2013年~2015年まではお祭りの情報も散見されましたが、最新情報はありません。

    町おこしイベントで2015年の正月までは活用されていたようですね( -д-)ノ

    御朱印を頂けなかったこともあり、今回はいつもとは異なる形式で記述していきます。

    つまり私が実際に参拝し、撮影した順に従って紹介していきたいと思います。


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    住吉神社の入り口にある鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑住吉神社の入り口の鳥居の柱(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑住吉神社の入り口の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    【住吉神社 / 入り口の鳥居】
    ①建立:???年
    ②素材:金属+コンクリ製(ドラム缶タイプ)
    ③高さ:約4.7m
    ④直径:30cm
    ⑤角度:斜め(斜度4°~8°)
    ⑥下部構造:円形台座(22cm)


    まず住吉神社の入り口にはドラム缶タイプの鳥居が1基ありました。

    これまでに見た鳥居よりも柱の斜度が強いなという印象でした。

    計測してみると左右でかなりバランスが異なるので大丈夫なのかなと心配になってしまいました( -д-)ノ

    この鳥居は札幌市の神社でよく見かけた「ドラム缶タイプ」の鳥居ですが、表面を覆うために使われている金属板が非常に薄かったです。

    建立年の手がかりになる情報は一切ありませんでしたが、金属の劣化具合から察するにそう古い物ではないようです。


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    ↑けっこうな高さの石段(「歩け、マヤ」管理人撮影)



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    ↑植物が繁茂している(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑石段中腹部でもかなりの高さです(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑下からはファインダーに収まらないため上から撮りました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑住吉神社の2番目鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    最初の入り口の鳥居を抜けて少し進むと石段が見えてきました。

    中腹部に次の鳥居が見えているのですが、かなりの高さにありました。

    住吉神社は漁の盛んな沿岸部に所在するため、入り口の鳥居周辺では独特の「潮の香」が強かったです。

    しかし石段は植物が繁茂して鬱蒼としているので、上り始めるとすぐに「山の匂い」に変わりました。

    ほんとに虫と草でいっぱいな石段でした(/TДT)/


    【住吉神社 / 石段中腹部の鳥居】
    ①建立:???年
    ②素材:金属+コンクリ製(ドラム缶タイプ)
    ③高さ:約3.37m
    ④直径:24cm
    ⑤角度:垂直
    ⑥下部構造:方形台座(13cm)


    石段の中腹部にある鳥居もドラム缶タイプでした。

    ただこちらはやや小型であり、支柱の角度が垂直のものでした。

    こちらの金属板も薄いものでしたが、入り口の鳥居よりは厚かったです。

    厚みまでは計測していませんが札幌市の神社でこれまでに見てきたドラム缶タイプに近いかなという印象です。

    そしてやはり建立年に関する情報はなかったです。

    緑青(?)のような着色は見られましたが、これだけ多量の植物に近接していて、常時水分にさらされている割には大きな劣化は見られないため、この鳥居も比較的新しいものかと思います。

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    ↑ようやく頂上が見えてきました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑本殿まであと少し(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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    ↑破損した御手洗の石彫(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑住吉神社の狛犬様(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑本殿に到着(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    数えていませんが石段はかなりの段数がありました。

    石段は下部・中腹部に・上部で様子が異なり、中腹部の石段だけが角が丸く削れていて危険でした。

    上るにはさして問題はありませんでしたが、やはり植物の関係で濡れていて滑るため、降りる際が非常に危険でしたヽ(TдT)ノ

    ですので、もし住吉神社に行く際は足元にご注意ください。

    社殿は非常に真新しく綺麗でした。

    社務所はなく、御朱印はいただけませんでした。

    本殿の手前部分以外は多量の植物に覆われていました。

    本殿の前方部だけは日が差し込んでいるので明るく、雰囲気が良かったです。

    御手洗の石彫は破損していました。

    写真を撮ろうとすると何故か「バーコードを読み取りました」って表示されて「!???」ってなりましたね(TДT)

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    ↑狛犬様と奉納の日付……奉納者の名前が削り取られている?(´?д?;`)(「歩け、マヤ」管理人撮影


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    ↑分かりますかね、本殿の右手はいきなり真っ暗になるのですヽ(TдT)ノ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑立派な樹木がた~くさんありました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑スーツパンツじゃなきゃ問題ないのに( -д-)ノ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑本殿の真後ろに隠れるようにあったお社(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、社務所がないので御朱印を頂けず、建立年情報もないので帰ろうかなと思っていたら、奥に建物が見えるんですよね。

    資料調査の関係でそれなりにびしっとした服装&革靴だったので辛かったですが、周辺を散策してみました。

    すると本殿裏手にひっそりと赤いお社があるのを発見しました。

    小さなお社ですが、まさに「畏怖」と言いますか、神々しさと共にちょっと何だか怖いなと感じました。


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    ↑奥に建物が続く……(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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    ↑3基目の鳥居①(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑3基目の鳥居②(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑2つ目の社殿の裏手に石碑がありました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑石碑の横には廃棄された石材がありました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    奥に鳥居が見えたので、行かないわけにはいかず、頑張って突き進んでみました( -д-)ノ


    【住吉神社 / 入り口の鳥居】
    ①建立:???年
    ②素材:木製
    ③高さ:約4.5m
    ④直径:19cm程度
    ⑤角度:垂直(?)
    ⑥下部構造:なし


    2つ目の社殿には「金比羅大権現」とありました。

    木製の鳥居は珍しいですね。

    「貫(ぬき)*」の部分は方形に整形された木材ですが、その他の部分は丸太の状態で使用しています。

    よく腐敗しないな、と感心してしまいました。

    新しい感じもしないんですけどね( -д-)ノ


    ↓*鳥居の構造、部位名称については以下を参照

    何故か、ここの神社ではお社や石碑が社殿の真裏に位置していて、正面からは見えないようになっています。

    これまで他の神社を参拝した際には気付きませんでしたが、そういう配置もあるということで今後は気にしてみようと思います(。・ω・)ノ゙


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    奥にまだ建造物が続く……(「歩け、マヤ」管理人撮影)

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    ↑3つ目の社殿(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑3つ目の社殿の右手奥に青いお社と別の建造物(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑植物に埋もれた青いお社(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑トイレがありました(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    更に奥には青いお社がありました。

    鳥居とか赤色が使われているのはよく目にしますが、青色はちょっと珍しいなと思います。

    私、怖いのダメなんで、この時にはもう帰りたいなと思っていましたヽ(TдT)ノ

    青いお社の奥にはまた別の建物が見えましたが、ぱっと見で使われていなさそうな雰囲気だったので、近づくのをやめました(/TДT)/

    青いお社から斜面を少し降りると別の小型の建造物があったので、確認してみたらトイレでした。

    新しく見えますが、電気は通っていませんでした。

    ちなみにこの記事の最後に、トイレのドアを開けてみた動画を載せておきました。

    見渡す限り山だし、木と草と普段使われていない建物しかなく、鳥の声が響くだけなので何か怖くなり、全ての社殿とお社の前で手を合わせて帰ってきました。

    資料調査の無事もお祈りしてみました。

    結果、この後すぐの暇つぶしの河川調査で川に落ちました(ρ゚∩゚) グスン


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    ↑綺麗に撮れた!ヾ(´ω`=´ω`)ノ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑帰り道、清々しい頂上からの眺め(「歩け、マヤ」管理人撮影)



    ↑これで私もユーチューバー……ば~っ!!!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    写真にあるように、本殿の傍にある樹にはおみくじが縛り付けられていました。

    一人っきりで植物をかき分けて歩いていたのでなんだか怖かったですけども、おみくじはけっこう新しいものに見えますので、きっとお正月やお祭りといった行事の際には整備されるのかなと思います。

    最後に挙げたのは境内の様子を撮影した動画です。

    面白味はないかも知れませんが、短い動画ですので良かったら雰囲気を感じてみてくださいヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

    (チャンネル登録も是非してね!(*^・ェ・)ノ)

    ということで今回はイレギュラーでしたが、次回辺りそろそろ鳥居のデータを一度整理してみて、紹介したいと思います(*・ω・)ノ

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    2019ねん 6がつ 13にち(もくよーび、ちょい雨)

    明日は3週間ぶりの資料調査。

    資料調査に1ヶ月なら短いなと感じていた頃が懐かしい。

    今では最大でも月に2日、計12時間程度しか資料を見れないのだから( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    今回の考古学・歴史ニュースは、「京都の遺跡で14世紀の居館と巨大な堀が発見されたよ!」というお話です(*・ω・)ノ


    発見の舞台は犬飼遺跡で、京都府の亀岡市曽我部町犬飼に所在しています。


    上に挙げた写真で分かるように、かなり大きな範囲が調査されています。


    それもそのはず、国営農地の整備を目的として約1400㎡もの範囲を調査したのですΣ(・ω・ノ)ノ


    発見されたものは大きく3つです。


    1. 居館
    2. 各種遺物


    それでは、ひとつずつ見ていきましょう(。・ω・)ノ゙




    1.堀で区画された方形居館


    まず検出された居館は「方形居館」と呼ばれるもので、中世の時代に武士や有力者が居住したと考えられる建造物です。


    出土遺物から帰属時期は13世紀後半~14世紀前半と推定されています。


    つまり鎌倉時代の終わり頃から室町時代の前半期、南北朝時代の頃のものと考えられます。


    方形居館が立地する敷地の周囲は堀で囲まれており、その堀によって敷地は明瞭に2つに区画されています。


    大きな区画は約500㎡、小さな区画は約350㎡のサイズだそうです。


    この2つの区画内からそれぞれ1棟ずつの建造物が検出されました。


    検出された柱の跡(柱穴遺構)から、大きい区画に存在した大きな建造物は居住用の板張りの建物(母屋)であったと考えられます。


    一方で小さい区画に存在したより小さな建物は太い柱が使用されており、用途の異なる建物であったと推定されています。


    下に挙げる写真のように、柱穴の保存状態は極めて良好であり、希少な発見と言えます。



    2.近畿最大級の巨大な堀


    さて、堀は全部で3本確認されました。


    最大幅が約8m、深さ約2mのV字形で、当該時期としては最大級の規模です。


    当時、この堀には1m程度の深さで水が張られていた跡も確認されました。


    検出された3本の堀の内、2本はL字型のもので、前述の大小2棟の建造物を囲んでいたものです。

    区画している堀の内、大きい堀は南北27m、東西約30mで、小さい堀は南北27m、東西約20mの規模でした。

    当該時期は鎌倉幕府の力が弱まる一方、楠木正成ら地方の武士が力をつけ始めた時代でもあります。

    また犬飼遺跡の東約7kmには、室町幕府・初代将軍の足利尊氏(1305~1358年)が、鎌倉幕府を倒すため挙兵した篠村八幡宮があるそうです。

    よってこの方形居館の帰属時期は南北朝時代への移行期に当たること、最大級の巨大な堀は戦乱に備えた防御用だったと考えられます。




    3.様々な遺物、当時の高級品が出土した!


    堀の中からは多数の遺物が出土しました。


    詳しいことは分かりませんが、堀が埋まらない程度に簡易のゴミ捨て場としても機能していたのかも知れませんね。


    堀埋まっちゃうからダメ!って言われても楽して近場に捨てたくなるのが昔も今も人の心でしょうかΣ(・ω・ノ)ノ


    この堀の中からは口径12~13cm程度の瓦器椀(がきわん)やわらじといった日常品が多く出土しました。


    更には漆器や中国製の白磁や緑釉(りょくゆう)陶器といった高級品も出土しました。


    このように中国産の天目茶碗を始めとする高級品が出土したことから、犬飼遺跡で検出されたこの方形居館は中世の武士などの有力者の住まいであったと推定されています。



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    4.犬飼遺跡と方形居館の歴史的位置付け

    今回の事例のように、堀と建物の遺構が両者共に良好な状態で検出されることは珍しいことです。

    特に方形居館内部の全体構造が分かる点で重要な意義を有しています。

    また丹波と摂津を結ぶ交通の要所に地元の有力者が居館を構えていたが、堀の規模と建造物の造りから、当該時期が動乱期であったことを具体的に示す事例となるでしょう。

    当時の時代背景から、有力な武将が一時的に設けた陣の可能性もあるようです。

    方形居館遺構の居住者が、足利方か南朝方、鎌倉幕府なのかも含めて、課題は多いですが成果が楽しみな調査研究ですね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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    2019ねん 6がつ 11にち(かよーび、晴れ)

    新たな試みにより、心身共に快復傾向にある。

    その結果、どうやら再び疲労を自覚できるようになった。

    そのため、眠い!ひたすら眠い!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑緑豊かな環境にある本殿(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『札幌市中心部にある諏訪神社に行って、御朱印を頂いてきたよ!』ってことですね。



    ↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓
    ↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑨」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


    さて、久しぶりに神社に参拝してきた管理人です( -д-)ノ

    前回の資料調査の際に参拝したのが最後だったので3週間も開いてしまいました。

    連勤も終わるので、またぼちぼちと再開したいと思います。

    恒例の基本データから紹介しますね。


    【諏訪神社】
    住所:北海道札幌市東区北12条東1丁目1番
    Tel:011-711-0960
    駐車場:なし

    祭神:
    建御名方命(たけみなかたのみこと)
    八坂刀売命(やさかとめのみこと)

    創設:明治15年(1882年)に多賀大社より札幌護国神社へと鎮

    宵宮祭:9月11日
    例祭:9月12日


    さて、まずは頂いた御朱印のご紹介を( -д-)ノ


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    諏訪神社で頂いた「書き置き」の御朱印(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑諏訪神社の由緒についての記載(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑巨大な樹が立ち並ぶ諏訪神社の境内(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑札幌市の保存樹に指定されているご神木の一つ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、諏訪神社は札幌駅から少し離れてはいますが、最寄りの神社であり、かつ夏祭りで賑わう神社だと思います。

    御朱印収集を始めて、札幌市街地には想像以上に多くの神社があるんだなと思い知ったわけですが、個人的に夏祭りと言えばここな気がします。

    ちょっと外れにあって、緑もあって、伝統的なこじんまりとしたお祭りが催されている感じが良いです。

    実際にはどこの神社も例大祭を行っていますし、北海道神宮祭や中島公園のお祭りが有名ですが、人が多過ぎますしね( ・Д・)

    諏訪神社の比較的近くには小学校、中学校、高校、大学と揃っていることから、特に若い層の家族連れで諏訪神社の夏祭りは賑わっているイメージです。

    また諏訪神社の御利益として「子宝」と「縁結び」が特に有名ですから、それも若い層の人々に人気の理由かも知れませんね(*・ω・)ノ

    あ、本殿裏手や社務所裏手には交通量等の問題で一時的に停車できますが、駐車場はないので徒歩での参拝をお勧めします。

    さて、上に挙げた写真からも分かるように諏訪神社は大きな樹々に囲まれた神社でした。

    鳥居を抜けてすぐに更に大木の間を抜けていく感じが良かったです(・∀・)つ

    本殿や社務所が古い木造の建物で、ある種の「旧校舎」のような趣を感じましたね。

    本殿に向かって左手に社務所があります。

    御朱印の初穂料は300円でした。

    たまたま御朱印を書ける方(恐らく普段書いている達筆な方)が不在のため、初めて「書き置き」の御朱印を頂きました。

    調べてみると、どうやら御朱印帳に「糊付け」すればよいみたいですね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


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    ↑本殿の正面(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑諏訪神社の入り口の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)



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    ↑諏訪神社の石碑(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑諏訪神社の石碑の建立年情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑諏訪神社の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、今回も鳥居のデータを取得してきましたので紹介していきますね(*・ω・)ノ


    【諏訪神社 / 入り口の鳥居】
    ①建立:???年(石碑における記載は1957年)
    ②素材:石製(花崗岩製)
    ③高さ:約5m
    ④直径:36cm
    ⑤角度:斜め(斜度4°)
    ⑥下部構造:饅頭


    まず建立年に関してプレート等が付随していないので不明でした。

    狛犬様の石材は見るからにより古い印象を受けます。

    それに対して、入り口にある鳥居や石碑群はいずれも花崗岩製で同じ真新しさを感じます。

    そのことから恐らく石碑に刻まれた建立年が鳥居のものと一致するでしょう。

    前回の豊浦神社の鳥居も建立年が不明でしたが、今後建立年が不明な資料が増えていきそうな予感ですね。

    何か対策を考えねばと思います( -д-)ノ

    石製の資料も増えてきましたが、高さはいずれも5~6m程度な気がしますね。

    今回の諏訪神社の鳥居の特徴は久々の饅頭という下部構造を有している点と、支柱の斜度がキツイという点です。

    諏訪神社の鳥居は1基ですし、他に特徴を見出すことはできませんでした( -д-)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya381
    ↑諏訪神社の入り口にあった看板(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑やはり木製の造りは良いなと思う(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑諏訪神社の境内の様子(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑社務所の裏手に転がる石材群(「歩け、マヤ」管理人撮影)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    さて、上の写真のように社務所の裏手で石材が転がっているのを確認しました。

    多くは古い「石灯篭」の破片かと思います。

    役目を果たして、本来の場所から移動させられて、廃棄される。

    それでもテキトーにごちゃっと捨てているのではなく、完形の部位は右端に集めていたりして、廃棄の際の石材の配置にも何等かの意味を感じ取れる気もします。

    こういうの、なんだか考古学っぽいですね~・・・・・・なんて!( ・Д・)

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