あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    ニュース

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    2019ねん 6がつ 7にち(きんよーび、曇り)

    なんだか天気がよろしくない。

    次の晴天時は絶対にお散歩する!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    いかに暑かろうとも!( -д-)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    さて、今回の考古学・歴史ニュースは、「現代の地震・津波被害を発端に、考古学調査によって約600年前の大津波の被害によって歴史から消え去った王国がスマトラ島で発見されたよ!」というお話です(*・ω・)ノ

    今回も管理人の大好きなナショナルジオグラフィックの記事を参考にしたものです。

    日本は元より地震大国なわけで、近年だけでも様々な地域で大地震による被害が出ています。

    それにしても「南海トラフ地震」のせいでしょうか、最近はやたらと騒がれているように思えます。

    さて、古代マヤ文明研究を中心として有名なリチャード・ウィルク(Richard Wilk)による「古代マヤ文明と現代政治(原題:The Ancient Maya in the Political Present)」では古代マヤ研究に関する論文と政治問題の関連性について述べています。

    同論文ではアメリカ人研究者の「古典期マヤ文明の崩壊」のテーマに関する研究に対して、アメリカの政治問題が関係していることを指摘しました。

    1960年代のベトナム戦争の頃は古代マヤ文明の衰退は「戦争・征服」が原因とされ、1970年代に環境保護運動が叫ばれるようになると古代マヤ文明の衰退は「環境問題」が原因とされました。

    つまるところ、「学者も人の子」なわけで、現在の身の回りのことに知らず知らずの内に影響を受けてしまうということですね。

    この研究事例からも分かるように、近年の考古学では地震や津波に関する研究・報告が目立つように思えます。

    単純に社会環境に影響を受けたというわけではなく、積極的に社会問題を利用している場合もありますけどね、研究費の取り易さとか諸々の下心によって( -д-)ノ


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    さて、2004年12月26日にスマトラ沖を震源とした巨大な地震が発生しました。

    マグニチュード9.1という観測史上3番目という大規模な地震でした。

    この地震により、最大で高さ30mに達する津波がインド洋各地を襲い、インドやアフリカ大陸にも被害をもたらしました。

    そして震源に近いインドネシア、スマトラ島北西のアチェ州でも大きな被害が生じ、死者は16万人に達しました。

    このアチェ州にはかつてアチェ王国が存在していました。

    16世紀に興ったイスラム教国であるアチェ王国は、東南アジアのなかでも数百年の間、植民地化に抵抗し続けた数少ない国のひとつでした。

    しかし20世紀初頭まで存続したアチェ王国は近現代の歴史記録に残っているものの、その成立・勃興期である17世紀以前に集落があった証拠はこれまでにほとんど確認されていませんでした。


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    ↑スマトラ島におけるアチェ王国の位置(「Wikipedia」の画像より転載)



    今回の考古学的発見の契機となったのは先に述べた2004年の地震と津波の発生であり、それによって損壊した文化財の保全活動でした。


    海岸部にて倒壊したイスラム教の古い墓石が数多く見つかったことから、過去においても同様の津波による被害があったのではないかと推測し、海岸部における土層の堆積状況を確認するための発掘調査が行われました。


    結果、600年以上前の14世紀末にも同様の強烈な津波がアチェ周辺を襲っていたことが分かりました。


    つまりこれまでに確認されていなかった17世紀以前の集落の痕跡は津波によって押し流されてしまっていたのです。


    古い墓石や、陶器片、古いモスクの土台といった各種の考古学的遺物の分布を記録し整理した結果、遺物群が極めて多く集中するエリアが確認できたことから、かつて10の集落がこの地域にあったと推定されました。


    陶器片から分かる時期判定によってこれらの集落はいずれも11~12世紀頃に出現したことが分かりました。


    そして過去の巨大な津波が周辺を襲った西暦1400年前後に海岸沿いの低地にあった9つの集落は放棄され、高台にあった1つの集落だけが存続したことが分かりました。


    この高台に残る遺跡からは、中国で製造された陶器やシリア産の陶器が出土しており、一方で9つの低地の村からはこうした遠方から搬入された陶器は確認されていません。


    このことから、中世の「海のシルクロード」に関する歴史文献に記されている「ラムリ」という交易の地が、この生き残った高台の集落だったのではないかと推測されているのです(。・ω・)ノ゙




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    「文系学問は金にならんし、役に立たない」と政府や企業にレッテルを貼られてから久しいですね(「令和」の改元時に手のひら返し的な復興の兆しが見えましたけども( ・Д・))。

    私も「考古学は一体何の役に立つのだろう」と真剣に悩んだこともありました。

    確かに現在のところ、考古学は単独でお金を生みません。

    例え、あと1000年経っても考古学はIT的な新商品も開発しないし、宇宙にも飛び出したりしないでしょう。

    (そういう意味では、ある種「超古代文明」に関するテーマの方が宇宙にも飛び出しそうだし、お金になる気がする( ・Д・))

    考古学は他学問の方法論は借りるのが好きですが、他に貢献できる独自の一般理論もありません。

    しかしながら今回の記事だけを見ても、文化財保護は国際協力に関する諸活動や当該国の観光資源活用に関係するし、発掘調査という手法だけでも文献史学を始めとする近隣の諸学問の発展に寄与しているように思えるんですけどね~( -д-)ノ

    「役に立つ」って一体何なんでしょうね?( ・Д・)

    皆さんはどう思いますか?

    ↓それはともかく押してくれぃ( ・Д・)!↓
    ↓それ、押してくれぃ!ほい!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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    2019ねん 6がつ 7にち(きんよーび、曇り)

    あと一週間程度で40連勤が終わる。

    久しぶりに休みの一日が来る。

    私は一日中研究に打ち込むことができるのだろうか!?( ・Д・)

    まぁブログ2時間、研究3時間、残り時間寝る&ゴロゴロするが妥当であろう!( -д-)ノ


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    今回の考古学・歴史ニュースは、「昔、土器を作っていたのは男性だったのか?女性だったのか?」というお話です(*・ω・)ノ

    考古学では一般的には「土器作りは女性の仕事」と想定しています。

    何故かというと、第一に、実際に土器を作った人が誰だったかは分からないと言うのが前提です。

    土器を観察しても通常であれば、その作り手の性別差は分かりません。

    皆さんも博物館で土器を見た時、あるいは家にあるお茶碗を見て、作った人は男性だなとか女性だなとかは判別できないと思います。

    まぁ家にある茶碗だと、中性だな(工業製品だな)となるかも知れませんが( -д-)ノ

    第二に、人類学研究、特に「民族考古学」によって集められた現代の参与観察では、土器の作り手が女性であるケースがほとんどだからです。

    土器をよく見ても分からんが、現在の土器生産を見ていると女性ばかりである、だから過去においてもきっとそう!という論理展開なわけです( -д-)ノ

    第三に、男性は外で狩りを担当、女性は採集や家事を担当というイメージがあるからです。

    これも実際には現在のアフリカを代表として世界中の民族事例で確認されています。

    日本でも同様のイメージがあって、桃太郎でもおじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行ってますからね、もしおじいさんが若ければ別の物を狩りに行っているでしょう!

    一方で面白いことに、時代がやや新しくなり精製土器が現れると、ヨーロッパの徒弟制度のイメージから、奢侈性の高い精製土器生産は職人として男性が従事したと考える傾向にあります。

    結果、土器を見てもよく分からんから、過去の歴史や近現代の民族誌情報に基づいて推定しているよということなのです( -д-)ノ


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    さて、今回のニュースはナショナルジオグラフィックの記事を参考にしていますが、アメリカの古代文化である古代プエブロ文化に属する変わった土器の分析から、土器の作り手の性別について興味深い指摘がなされました。

    (余談ですが、古代プエブロ文化に関する土器研究は非常に面白いことをやっているなと常々感じています、折を見て紹介しますね(・∀・)つ)

    舞台はアメリカ合衆国、ニューメキシコ州北西部に位置するチャコ・キャニオンです。

    今からおよそ1000年前の西暦800~1200年頃、チャコ・キャニオン一帯は文化と宗教の中心地でした。

    先に説明したように、近代までのチャコ・キャニオンでは土器製作は主に女性の役割だったことから過去においても同様であると推定され、考古学者がなんとなく意識している「土器製作は女性の仕事」というお決まりのイメージがここでも与えられていました。

    古代プエブロ人は、太い粘土紐を螺旋状に巻いて、土器の胴部全体を波状浮文で覆うような土器を製作していました。



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    ↑プエブロ文化のタイプ別の土器群(「Ancestral Pueblo Ceramic」の画像より転載;英文)



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    ↑波状浮文を有する器面(「Pueblo Indian History for Kids」の記事内画像より転載;英文)



    個人的にはプエブロ文化の土器というと、上の1枚目の写真(左上、左下、右下)にあるような、白地のスリップ(化粧土)の上に黒色彩文による幾何学文様を有しているものになります。


    しかし今回のお話に出てきている土器は右上の土器群になります。


    それらの土器の器面(表面)に、先に述べた「波状浮文」があるのですが、それがよく分かる破片資料が上の2枚目の写真になります。


    なんかパスタの一種のような波打った印象がありますよね(*^・ェ・)ノ


    粘土紐をぐるぐるっと巻いて、一定間隔ごとにその粘土紐を指で押すことで波打たせているので、指紋ががっつり残っています、分かりますでしょうか?ヾ(´ω`=´ω`)ノ


    浮文は貼付文とも言いますが、指で押すことで波打たせたり、指紋も文様のように利用したりしつつ、しっかりと粘土紐と土器を貼り付けているわけですね。


    日本や他の国の、他の文化の土器でも稀に指紋が残ることがあります。

    しかし多くの場合、器面を円滑に調整する際に指紋の痕跡は消えてしまいます。

    そのため、これだけ1個体の土器に多数の指紋が残されているケースは稀なのです(。・ω・)ノ゙

    そこでなんと、古代プエブロ文化の研究者の一人が「元警察官」で、男女の指紋の違いは法科学捜査で分かるということを利用しました。

    考古学者はよく探偵、鑑識や法科学者に例えられますが、これほどマッチした事例はないでしょうね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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    ↑土器の施文部に残るヒトの指紋②(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: John Kantner)



    海外ドラマで「CSI:科学捜査班」とか流行っていましたけど、犯罪に関する科学捜査では指紋の隆線が男性の場合は女性よりも9%太いという研究結果があるそうです。


    これを参考に、チャコ・キャニオンのブルーJというエリアで出土した985点の土器破片資料を分析したところ、47%の資料に残されていた指紋の隆線の幅が、平均して0.53mmで男性のもの、40%が平均して0.41mmで女性または子どものものと判定されました。


    また残りの13%は中間的で性別不明とされました。


    さて、指紋を分析した土器資料をを時期ごとに分けて考えると、より古い年代の土器群に残されていた指紋は66%が男性のもので、新しい土器群には男性と女性の指紋がほぼ半分ずつ残されていたことが分かりました。


    以上のことから、かつて男性も土器作りに関わっていただけでなく、男性と女性の割合は時代とともに変化したことがわかるとの結論のようですが、まぁ当たり前っちゃ当たり前な感じもします。


    100%な分業制って考えにくいですからね( -д-)ノ


    課題は多いと思いますが、古代の土器生産体制の一端を明らかにする上で非常に興味深いなと感じました(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    本当に面白い研究だと思いますが、分析結果としてけっこう性別不明がいるようですね。


    現代の男女に土器を同じように作ってもらって、実験考古学として統計を出すと尚、同定精度が上がるかも知れませんね。


    その際には粘土紐に対してどの指をどのように押し付けたかという施文技術を復元してから行うのが良いでしょう。


    それによって指紋の付き具合に影響があるかも知れませんからね。


    それ以前に土器の在地製作品・搬入品の判定、個体数推定などもやらなきゃか……


    でも面白そうですね、自分でやりたいくらいですヽ(TдT)ノ

    ↓古代プエブロ人もあんなに押してるんだから、↓
    ↓あなたがーたも、たまには押してくれてもいいのでは!?( ・Д・)↓

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    2019ねん 6がつ 5にち(すいよーび、雨)

    資料調査の際は週5~6日で一日6~8時間は土器を見ている。

    それが2週間から1ヶ月続く。

    普通に博物館を訪れて写真を撮りつつ、メモを取るだけの時も1~2日かけて限られた僅かな資料を見ている。

    今、川砂中の鉱物の同定精度に苦しんでいるが、やはり時間のかけ方が問題な気がしてきたヽ(TдT)ノ

    毎日、少しでも鉱物を観察することにする( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    【目次】
    1. 考古学遺物の修復・保存と展示について
    2. サルマタイ(サルマート文化)と古墳について
    3. おわりに -遺跡・遺物にとっての新しい歴史と考古学調査の意義-


    1.考古学遺物の修復・保存と展示について

    今回の考古学・歴史ニュースは、「バシコルトスラン共和国にて2400年前の古墳から出土した黄金製品を発掘調査の際に激しく傷つけてしまい、そのまま展示しているよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

    美術の世界ではプロフェッショナルの修復士がいて、誰もが知っているような有名な作品の修復・保存に貢献していますね。

    考古学の世界でも修復・保存は重要な課題として提起されてから決して短くない歳月が流れていますが、美術の世界に比べると特化した人材育成と考古学研究・調査への参加具合は芳しくないと思っています。

    例えば古代マヤ文明では「絵文書土器」に代表されるようなペインティング(彩文)の技法が用いられた多彩色土器が有名ですが、ほんのひと昔前までは「出土した状態のままでは『美しくない』」という理由から、オリジナルの彩文の上から現代の塗料を塗って見栄えを良くして展示するということが実際になされていました。

    現在では特に遺跡を文化財として保存・活用しようという試みから(邪推するならば観光活用と外貨獲得のため)、修復・保存の必要性を強く訴える考古学者もいますが、技術・制度面としては特別進展は見られないように思います。

    遺物の保存に関しても経済的、そして技術的理由からなかなか進展していません。

    このようなお話をしたのも、今回の古代の黄金製品は「出土した状態のまま」で展示しているからです。

    調査中にミスで大きく傷つけてしまったなら、多少の修復をして展示する、あるいはそれが分からないような展示方法を取ることが一般的です。




    上に挙げた写真が、調査中に盛大に「ガジッた」黄金製品です。

    あまりにも大きく激しく傷ついてますから、元からこういう造形なのかと思ってしまうほどです。

    恐らく小型のピッケルでがっつり一撃加えてますねヽ(TдT)ノ

    金は柔らかいとは言え、全力で振り切った感がします。

    何故、このような見事な黄金製品が出土する「古墳」でそのような発掘方法を取ったのかは謎ですが、考古学者あるいは「ガジッた」経験のある発掘調査参加者には色々な意味で面白いと思います。

    ちなみに「ガジッた」=「傷付けた」で、発掘調査中に移植ゴテやエンピ等の堀具によって遺物を掘り出す際に、遺物を傷付けてしまうことを言います。

    新しい傷は、新しい剥離、割れの断面の様相が見て取れるので、考古学者や見慣れた人には一目で「やったな」ってのがバレます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    話を戻しまして、この黄金製品はこれだけ激しく傷付いているのに、一切直さず、かつ360度見えるような展示方法を取っています。

    展示スペースを壁側にして、傷の面を壁の方に向ければ済むのですが、敢えてそれをしていません。

    何故このような展示方法を取るのかは本当のところは分かりませんが、「発掘調査中の経緯」が当事者には分かるので面白いなと思います。

    これだけ変形させられたのもこの遺物にとっての「歴史」なのであり、博物館案内でもその「歴史」を紹介することでくすっと笑えますし、考古学調査をより身近に感じる契機になるかも知れません。

    そういう意味で、出土した際のありのままの状態で展示・保存することにも意味があるのだなと考えさせられる展示でした(。・ω・)ノ゙




    2.サルマタイ(サルマート文化)と古墳について

    さて、今回の「ガジッちゃった黄金製品」が出土したのはバシコルトスラン共和国です。

    私達日本人には一般的には聞き慣れない国名だと思いますが、ロシアの首都モスクワから東に約1000kmの位置にあります。

    バシコルトスタン共和国の首都はウファであり、およそ140もの民族が居住する超多民族共和国です。

    上に挙げた写真はサルマタイ文化あるいはサルマート文化(以下、サルマタイ文化で統一して記述します)の中心部の位置を示したものです。

    このサルマタイ文化はサルマタイ人あるいはサルマティア人(以下、サルマタイ人で統一して記述します)というイラン系の遊牧民集団が紀元前4世紀~後4世紀に築いた文化です。

    中心地は黒海北岸周辺なのですが「遊牧民」なのでかなり広範に活動していたようです。

    というのもバシコルトスラン共和国は上に挙げた画像の通り、黒海からかなり離れているのです。

    計測してみると黒海北岸まで約1900km離れています。

    これだけサルマタイ文化の中心地とは離れた場所に位置していますが、バシコルトスラン共和国ではサルマタイ文化の古墳群が存在しており、そこから多くの黄金製品が出土しています。


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    さて、これまで分かり易く「古墳」として紹介してきましたが、実際の用語としては「クルガン」が用いられています。

    クルガンは日本の古墳と同様に墳丘墓であり、上の写真で紹介したように、石を積んで造られたマウンドと土を盛って造った所謂「土饅頭」状のマウンドに分けられます。

    日本の古墳には石製の玄室が見られますが、クルガンでは木製の玄室が見られます。

    クルガンも支配階級の人物の埋葬施設であり、サマルタイ文化等のクルガンを有する文化の担い手は遊牧民集団であることから、一般的に見られる豪華な副葬品の他に、弓矢(鏃)・矢筒、馬や馬で引く構造の古代戦車などが納められました。

    ちなみにサルマタイ文化の葬制では仰臥伸展葬、南枕が慣例だということで、中国思想の影響を受けた日本の古墳時代の北枕とは異なりますが、やはり方角を気にしていたという点で興味深いですね(*・ω・)ノ

    さて、今回の黄金製品が出土したのは紀元前4世紀に属するフィリポフ・クルガン群(古墳群)から発見されたものです。

    フィリポフ・クルガン群は6kmに渡って25基の古墳が建造されています。

    日本にもたくさんの古墳が密集した古墳群が見られますが、黒海を中心とした西ユーラシアから東ヨーロッパにかけてたくさんのクルガン群が確認されています。


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    またクルガンを建造するという文化は遊牧民集団の性質も相まって広範な分布を見せます。

    このことから1956年にマリヤ・ギンブタス (Marija Gimbutas)により 「クルガン仮説」が提唱されています。

    クルガンを有する文化をクルガン文化とし、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパを含めて広く伝播したと考えるものです。

    この時、サルマタイ文化の中心地である黒海周辺が原インド・ヨーロッパ語を話す人々の起源であり、遊牧民としての諸活動や文化の伝播の過程で原インド・ヨーロッパ語の方言が多数派生したことで、多様なインド・ヨーロッパ語族が生まれたとする仮説です。

    「インド・ヨーロッパ語族」については歴史、特に世界史で勉強すると思いますが、あの歴史の教科書で見た印欧語族の広い分布と彼らによる長い長い興亡の歴史はクルガンから始まっているのですね(。・ω・)ノ゙

    ・・・まぁ本記事は「盛大にガジッた黄金製品」から始まっていますけどね( -д-)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    さて、「古代の遺物は現代における調査の際の歴史をも有するんだ!」ということから始まったわけですが、うん、思い返してみても、調査者としてはガジッた思い出は忘れないですね。

    私も実は初めての発掘調査に参加した際に、最古級の石核をガジッた記憶があります。

    しかもその資料の発見は地元新聞に載ったそうで・・・古いからね!ガジッたからじゃないですからね( ・Д・)

    古代マヤ文明の調査史として聞く話は、ガジッちゃったみたいな軽いお話じゃなく、ヤバめのお話(犯罪と権力に関するお話)ばかりなので、ここでは書けないでしょうね(「象牙の塔」という言葉もありますけど、もじるなら、黒い巨塔、「黒曜石の塔」かな)。

    まぁかるーいストーリーがあれば紹介したいなと思います(。・ω・)ノ゙

    聞くところによれば、悲しいことにどこのフィールドでもどこの業界でも悪い奴はいくらでもいてピンピンしてるってことですね、世知辛い世の中だよ!ヽ(TдT)ノ

    ↓黄金製品が出土するのはやはり羨ましいな!なっ!!!( ・Д・)↓

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    2019ねん 6がつ 5にち(すいよーび、雨)

    今日は激しく雨!

    激しい雨音を聞いて、わざわざ外を見に行った。

    何故か「最後の雨」のMVみたいに土砂降りの中、外に立って雨に打たれていたい気分になった( ・Д・)


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    今回の考古学・歴史ニュースは、「京都の六波羅で、平家一門が築いた堀の跡と石垣が発見されたよ!初めての発見なんだよ!」というお話です(*・ω・)ノ

    さて、舞台は京都の六波羅です。

    歴史の勉強で習った「六波羅探題」をぱっと思い浮かべる人もいるのではないでしょうか?

    「六波羅探題」とは鎌倉時代の職名の一つであり、執権や連署に次ぐ重職でした。

    1221年の承久の乱の後に六波羅の南北に設置され、六波羅探題北方・南方のそれぞれに北条氏一族の優秀な人材が就いていました。

    実は今回の発見は、この六波羅探題と無関係ではないのです。


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    さて、発掘現場は有名な「清水寺」から西に約1kmの地点です。

    検出された堀の跡は幅が約3m、深さ約1.3mでした。

    断面形態は逆さ台形状で、堀は東西方向に伸び、その全長は約15mの規模でした。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ところで上に挙げた写真は現場説明会の際のものです。

    ぱっと見で、説明会に参加している人の数が多い!

    さすが所謂「歴史」は日本人に人気あるなと思います。

    特に戦国史とか人気は衰えることを知らないですもんね。

    「歴史」時代の考古学には疎いですが、今後なるべく取り上げるようにしますね(*・ω・)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    と言うことで話を戻しますと、写真の左下に様々な遺構(たくさんの穴ぽこがそれです)が検出されているのが分かるかと思います。

    そしてその中央部から下部に向かって2本の白線が伸びているのが分かるでしょうか?

    それがかつて掘られた溝の跡になっています。

    このようにこの遺跡では複数の時期の複数の遺構が複雑に重なっている状態なのです。




    上に挙げた写真が検出された堀の跡の写真になります。

    写真の手前の深い落ち込みが堀です。

    この堀の南側で堤防状の土塁跡が検出され、また堀の西側の約5mが土で埋められており、倒壊防止用の石垣が組まれていることが分かりました。

    上の写真で見えているのがその石垣の一部です。

    最初に挙げた写真はこの裏側から撮影したものです(下部に再掲)。




    上の写真に見られる、この石垣の建造技術としての石材の積み方は、ほぼ同時期の白河天皇陵の石垣のものと類似しているそうです。

    城郭考古学なるものを見聞きしたことがありますが、石垣の組み方を分類・類型化して編年を組んでいるということですよね。

    そう思うと、お城巡りして石垣見るのも楽しくなりますよね。

    今度調べて紹介しますね(*・ω・)ノ

    さて、以下に出土した遺物を紹介します。


    先に述べましたように、複数の時期の遺構が重なっていますから、様々な出土品が見られます。


    *写真は全て『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。(管理人:才蔵さん)の記事内画像より転載しております。



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    ↑石製の笠塔婆①(「『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。」さんの記事内画像より転載)




    以上の様々な遺物の内、出土した土器や瓦の同定作業によって、今回見つかった堀は有名な「平清盛」の祖父に当たる「平正盛」が邸宅を構えるなど六波羅に拠点を置いた12世紀前半に建造されたものと推定されています。

    この当時は世情が不安定で、平家一門を守る目的として設置されたものと考えられています。

    このような平家と関係のある遺構が京都、六波羅で発見されるのは初めての事例であり、希少な発見なのです。

    その後、1156年の保元の乱や1160年の平治の乱を経て平清盛が政治の実権を握ったことで戦乱が治まりました。

    この平正盛によって設置されたと考えられる堀は、承久の乱を経て13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に「六波羅探題」を設けた頃には全て埋め戻されたと推定されています。


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    ↑残りの良い方形周溝墓(「『京観心々』(きょうみしんしん)、京都検定1級合格、才蔵ガイドのほっこりしましょ。」さんの記事内画像より転載)


    さて、最後に、今回の発見の場である六波羅政庁跡は、音羽・五条坂窯跡でもあります。

    古くは上の写真に見られるような弥生時代の方形周溝墓が検出されています。

    上の写真の事例では発掘調査で方形周溝墓を半裁して断面が見える状態になっています。

    また江戸時代には清水焼の生産地として登り窯が設置されていました。

    このように複数の時期に帰属する遺構がいくつも重なり、六波羅は今も昔も重要な区域であったと考えられるのです(*・ω・)ノ

    ・・・・・・あ、そうだ、京都へ行こう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    ↓目指せフォロワー1000人!応援よろしく!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ↓

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    2019ねん 6がつ 3にち(げつよーび、晴れ)

    今日は暑い!

    そーめんが美味しい季節になってきた~

    ここ最近はつけ麺ばかりだけども、そうめん、ひやむぎの出番かな~( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    さて、今回の考古学・歴史ニュースは、「2000年前の古代エジプトで犬もペットとして手厚く葬られていたよ!」ってお話です。

    ペットの歴史とか、日本の縄文時代における犬の手厚い埋葬例の話も過去にありましたね。

    確か渡来人が犬を食べる風習があったけど、縄文系の人々にその風習は根付かず狩りのパートナーであり家族でもあった犬を手厚く葬っていた事例が考古学的に確認されたという紹介だったような。

    ……うむ、過去の記事が見当たらない!( ・Д・)

    ライブドアブログの記事検索は使いにくいからと人のせいにしておきます( -д-)ノ


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    さて、今回の発見の舞台は現在のエジプトの中部にあるミニヤ(Minya)県に所在する遺跡、トゥーナ・エル・ガバル(Tunah Al-Gabalです。


    遺跡はエジプトの首都カイロの南方およそ260kmに位置しています。


    この遺跡は墓地遺跡で、所謂「ネクロポリス」です。


    エジプト考古省の発掘調査によって同遺跡の地下に墳墓があることが確認されました。


    地下墳墓は、地下およそ9mの位置に造られており、墓室はこれまでに6つ確認されています。


    発見されたミイラは全部で40体以上にのぼり、内22体が成人、12体が子供、6体が動物でした(他に保存状態が良好ではないミイラが発見されている)。


    これらの大量のミイラはその多くが墓室床面に設置されており、一部の限られたミイラだけが最初に挙げた写真のように棺に納められていました。


    この棺は石棺ではなく、粘土由来の陶製棺であり、蓋がないのが特徴です。


    陶製棺に納められた人々は、より高い社会階層に属した人々であったと考えられています。



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    ↑たくさんのミイラが安置されていた(「AFP BB NEWS」の記事内画像を一部加工;Credit: MOHAMED EL-SHAHED / AFP



    古代エジプトにおけるミイラ作りの歴史は長いですが、共伴して出土したパピルスの分析から、地下墳墓とこれらのミイラは古代エジプトのプトレマイオス朝(紀元前323~30年)の時期にに帰属すると推定されています。

     

    今回発見された6体の動物のミイラのほとんどが「イヌ」であると同定されており、ヒトのミイラと共に安置されていました。


    イヌは1万5000年前頃にオオカミと分化し、当時の人々の狩猟生活を支える上で実用面で非常に重要でした。

    1万2000年前までには人間には欠かせないパートナーとなっていたと考えられています。

    今回の発見からは、2000年前の古代エジプトの人々にとって犬が実用面だけではなくペットとして家族として非常に大切な存在だったことを示しています。

    現在の私達のペットを想う気持ちと関係が、既にこの頃には誕生しており、ミイラとして共に埋葬するという形に現れているわけですね(*・ω・)ノ。


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    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ミイラと言えばやはりエジプトを思い浮かべますが、ミイラは歴史的に世界各地で見られる風習です。

    また自然環境の影響を受けて自然にミイラができる地域もありますね。

    以前、世界のミイラについてまとめて書いたような気がしますが見つかりませんでした( ・Д・)

    何の考古学・歴史ニュースに併せて書いたのだったか……ヽ(TдT)ノ

    探しておきますが、ひとまずミイラ関係の記事を紹介しておきます。


    ↓「ミイラ」関係のバックナンバー
    ↑良かったら併せてどうぞ!(。・ω・)ノ゙

    ↓あ、縄文のイヌに関する記事が見つかりました~!
    ↑こちらも良かったらど~ぞ~ヾ(´ω`=´ω`)ノ

    ↓SEO対策として「歴史」って無駄に書いてみるぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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    2019ねん 5がつ 27にち(げつよーび、晴れ)

    今晩は論文を書き始めるよ!

    誓うよ!( ・Д・)

    ……ほんとだよ!ヽ(TдT)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは「これまで最古のビールの再現って色々あったけど、今回は古代エジプトのイースト菌を実際に使ってみたのだよ!」というお話です!(*・ω・)ノ

    どうやら「お酒の考古学」は人気なようなので、バックナンバーを表示しておきますね。


    ↓『お酒の考古学』のバックナンバーです(*・ω・)ノ
    ↑良かったらど~ぞヾ(´ω`=´ω`)ノ



    さて、古代のビールを再現する研究はこれまでに世界各地で行われてきました。

    考古学が明らかにする対象の一つとして「技術」がありますが、これまでの復元研究ではビールをどのような道具を用いてどのような工程で作っていたのかということが焦点でした。

    そのため古代に使われていた道具や施設を再現して、古代と同じ材料を用意し、推定される製作工程に沿って作ってみるということを行ってきたわけです。

    今回の研究の面白いところは、材料の部分に関して実際に古代に使われていたイースト菌を使ってみたという点にあります。

    ではどうやって古代に用いられていたイースト菌を入手したのでしょうか?

    近年の考古学研究では、多くの場合、土器を対象として内部に残る残滓(ざんし;うまいこと残った内容物)を対象とした理化学分析が行われています。

    日本の事例では土器の内面に残る所謂「おこげ」の分析から、その土器を使って食べていた物が堅果類であったとか、魚介類であったといった研究がなされています。

    マヤ文明の事例では同じく残滓の分析から、ココアを飲んでいたとか、コパルというお香を焚いていたとかいった研究がなされています。

    また「内容物が~であった」という分析結果から、特定の土器の使い方、つまり「機能」について議論する研究もあります。




    ということで今回の考古学・歴史ニュースでは、イスラエル考古学庁(IAA)と、バル・イラン大学(Bar-Ilan University)、エルサレム・ヘブライ大学(Hebrew University of Jerusalem)、テル・アビブ大学(Tel Aviv University)の研究者による共同研究チームが古代エジプトのビールを再現しました。

    上に挙げた写真はイスラエル中部にあるペリシテ人の遺跡や古代エジプトと関係するネゲブ砂漠、テル・アビブ、エルサレムなどの複数の発掘現場から見つかった土器です。

    これらの土器資料の内面に残る残滓を用いて、6年もの歳月をかけて古代のイースト菌の抽出に成功しました。

    彼らは抽出したイースト菌のゲノムを解析し、液体培地で培養しました。

    この培養したイースト菌を用いてビールや蜂蜜酒の醸造したのです(・∀・)つ




    これまでの研究では古代の製法を使用しても原料は現代のものを使っていました。

    上記のように抽出したイースト菌を培養して用いることで、今回の研究は古代のビールを造るために実際にその時代の原料を使用した点で初めての事例となります。

    抽出した各種のイースト菌を分析したところ、現在のジンバブエの伝統的なビールやエチオピアの蜂蜜酒に使用されているものと類似の種も確認されたそうです。

    抽出・培養されたイースト菌を用いて、研究では数種類のビールと蜂蜜酒が造られました。

    用いられたのは約3000年前のイースト菌だそうですが、抽出できたイースト菌の中には約5000年前に遡るものもあるそうです。



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    ↑古代エジプトっぽいビールジョッキ?マグカップ?(「Amazon」商品紹介ページ内画像より転載;*現在品切れ中&当リンクは商品ページに飛びます、回し者じゃないよ!( ・Д・))



    最後に、これはラムセス3世の墓の内部に描かれた壁画の一部です。

    パン作りの様子が描かれています。

    これまでの説では、パンを作って水に浸して、それを自然発酵させることでビールを作っていたと考えられています。

    だから今回のビール作りもパン作りの酵母であるイースト菌を使っていたのですね!(*・ω・)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    さて、どうやらこの研究チームは商品化も考えているそうです。

    いいですね~!

    「お金にならない考古学をお金にする!」が、「歩け、マヤ」の掲げるモットーですからね( ・Д・)


    マヤ文明でもバルチェ酒を研究して販売したいわ!

    日本でも似たような古代酒作って、「『考古学徒』はそれ以外飲んじゃダメ!」ってルールにすればどうでしょう!?

    どうせ考古学者というかフィールドワーカーは大体みんな、お酒よく飲むでしょ?(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

    ↓た、頼むから、登録してくれぃ!!!( ・Д・)↓

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    2019ねん 5がつ 25にち(どよーび、晴れ)

    やっぱりフィールドに出てる時が楽しいな~って思えた。

    モチベーション高い内に分析終えて、論文書かなければ( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑豊平神社の本殿、お花が綺麗である(。・ω・)ノ゙(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、今回の考古学・歴史ニュース(?)は、『北海道南部の豊浦町にある豊浦神社に行って、御朱印を頂いてきたよ!』ってことですね。



    ↓関連記事のバックナンバーですヾ(´ω`=´ω`)ノ↓
    ↑「御朱印&鳥居データ集め①~⑧」も良かったら併せてどうぞ~(・∀・)つ↑


    さて、土器資料の調査の際に神社に参拝して御朱印を頂いてきた管理人です( -д-)ノ

    ずっと土日も仕事なもので、なかなか神社に参拝出来ていなかったので良い機会となりました。

    恒例の基本データから紹介しますね。


    【豊浦神社】
    住所:虻田郡豊浦町字海岸町25番地
    Tel:01428-3-2374
    駐車場:なし

    祭神:
    大國主命(おおくにぬしみこと)


    起源:慶応3年4月(1867年)
    創立:大正7年9月1日(1918年)

    例祭:9月10日


    さて、まずは頂いた御朱印のご紹介を( -д-)ノ


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    豊浦神社で頂いたシンプルな御朱印(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑豊浦神社の由緒についての記載(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑豊浦神社の本殿(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、最初に述べましたように豊浦神社は道南の豊浦町に所在しています。

    北海道の観光スポットのひとつである洞爺湖で有名な洞爺湖町の西隣に位置しています。

    豊平神社は「道の駅とようら」から国道37号線を少し北西に進んだところにあります。

    ちょうど豊浦駅の辺りですね。

    以前、近くのベンベ川に川砂サンプルを採取に来て見つけた神社です。

    駐車場はないため、最寄りのコンビニに駐車して5分ほど歩きました。

    上に挙げた写真からも分かるように樹々に囲まれた神秘的な雰囲気の神社でした。

    本殿や鳥居が木製であり、札幌の神社とは違う自然の中の神社という感想です(*・ω・)ノ

    社務所は本殿に向かって左手にありましたが、普通の一般家屋であったため撮影を控えました。

    御朱印の初穂料は無料でした。

    ちなみにチャイムを鳴らすと神社の方が現れ、スタンプを自分で押すことになります。

    朱肉があるわけでもないので上手く押せませんでしたヽ(TдT)ノ

    地方の神社に参拝する時は黒と赤の朱肉を持参した方がいいかも知れません。

    また写真には写っていませんが、日付の記載もないため、私は端っこに自分で参拝日を書き込みました。

    最近は御朱印ブームが続いてカラフルな御朱印が増える中、非常にシンプル!

    本来、「参拝の証」なのでこれで良いのでしょう!( -д-)ノ



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    ↑豊浦神社の本殿の近影(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑豊浦神社の本殿に設置された風格ある木製の扁額(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑見える?小鳥が巣を作っていてなんだかほっこりしました(・∀・)つ(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑奥に見えるのが倉庫、手前のこれは何か建設中の模様(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑境内社である金刀比羅神社(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑金刀比羅神社の扁額(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    豊浦神社はこじんまりとしているようで意外に敷地は広いです。

    敷地面積が同程度あるいはより広い札幌の神社に比べて、豊浦神社には多くの建造物が存在しているなと感じました。

    そうした多くの建造物の中で豊浦神社には境内社があり、「金刀比羅(ことひら)神社」との扁額がありました。

    金刀比羅神社にも鳥居がありましたので、豊平神社の境内には2基の鳥居があるということになります。

    では次に鳥居を順番に見ていくことにします(*・ω・)ノ


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    ↑豊浦神社の入り口の鳥居と石柱(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑豊浦神社の石柱の建立年情報(「歩け、マヤ」管理人撮影)



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    ↑豊浦神社は高台にあります(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑境内からは内浦湾(噴火湾)を一望できます(「歩け、マヤ」管理人撮影)



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    ↑豊浦神社の入り口の鳥居の上部(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑豊浦神社の入り口の鳥居の柱の接合部(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑豊浦神社の入り口の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    さて、今回も鳥居のデータを取得してきましたので紹介していきますね(*・ω・)ノ


    【豊浦神社 / 入り口の鳥居】
    ①建立:???年(石柱における記載は1957年)
    ②素材:複合型(金属製とコンクリ製)
    ③高さ:約5.6m
    ④直径:45cm
    ⑤角度:垂直
    ⑥下部構造:台石


    まず建立年に関してプレート等が付随していないので不明でした。

    鳥居の上部を見ると塗料の劣化具合から古い感じもするし、下部を見ると新しくも見えます。

    この鳥居は3段構成になっています。

    下段は表面が金属製で内部がコンクリの所謂「ドラム缶タイプ」のように見えます。

    しかし札幌の神社で確認したものよりも金属板がかなり厚いようです。

    中段は石材で出来ています。

    大理石や花崗岩ではありません。

    恐らくコンクリ製で、表面を塗装しています。

    上段は金属製になっています。

    接続部が腐食していることから金属製であることは分かりますが、内部が何で出来ているかは不明です。

    下部構造の台石がひび割れているものの、新しく感じますし、下段の厚い金属板も新しく感じます。

    そして下段と中段の接続部は「ドラム缶タイプ」のように接続部だけが溶接によって厚くなっているのではなく、下段の柱そのものが太くなっています。

    そのため元々は中下段部がコンクリ製で、補強のために下段を金属板で覆い、新しく台石を設置したのだと考えられます。

    この鳥居は古くに建立されてから建て替えを行っておらず、腐食などの要因で悪くなった部位だけを、しかも恐らくは外面だけを修繕することで保っているのかも知れません。

    だとすると「あたかも3段構成のように見える」、各部位のちぐはぐな感じの理由が分かりますね(*・ω・)ノ


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    ↑金刀比羅神社の鳥居(「歩け、マヤ」管理人撮影)


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    ↑金刀比羅神社の鳥居は木製①(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    arukemaya335
    ↑金刀比羅神社の鳥居は木製②(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    arukemaya332 (5)
    ↑金刀比羅神社の鳥居の下部構造(「歩け、マヤ」管理人撮影)


    【豊浦神社/ 境内社:金刀比羅神社前の鳥居】
    ①建立:???年
    ②素材:木製
    ③高さ:約3.5m
    ④直径:23cm
    ⑤角度:斜め(傾斜角2度?)
    ⑥下部構造:饅頭


    金刀比羅神社前にある鳥居は木製でした!

    これまで参拝した神社の鳥居として最初の事例です(*・ω・)ノ

    建立年については不明ですが、木製なのでそこまで古いものではないと思われます。

    一体どれくらい保つものなのでしょうか……

    年齢等々のこともあり、豊浦神社の宮司さんからの聞き取りはできませんでしたが、次に木製の鳥居に出会った際には訊いてみたいなと思います( -д-)ノ

    近くで観察してみると、柱に見られる割れ目は新しく、そこから塗料の上塗りをしていました。

    土と触れる部分は饅頭によって補強されていますし、木材表面は塗料で保護されていますし、こういう状態だとけっこう長持ちするのかも知れませんね(*・ω・)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑最後に、綺麗な花々と狛犬様(「歩け、マヤ」管理人撮影)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    最後に挙げた写真がお気に入りです(・∀・)つ

    豊浦神社は何だか映画やアニメ作品などの舞台になりそうな素敵な神社でした。

    調査の前に立ち寄ったので時間帯も早く、参拝者は私と猫1匹でした。

    緑の樹々と色とりどりの花々、桜、木造の本殿に囲まれ、振り返れば豊浦湾と港町が眼下に広がり、ゆったりとした時間が流れていました。

    ゆったりし過ぎて調査開始時刻に遅刻しましたけどね!(/TДT)/

    あと猫さんに写真をお断りされてしまったのが残念でしたけどねヽ(TдT)ノ

    ↓御朱印集めが趣味な方、かもーん!щ(゚Д゚щ)クァモーン!↓

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    2019ねん 5がつ 21にち(かよーび、曇り)

    ようやく書類系の仕事が終わる。

    急いで資料調査の準備をしなければ~( ・Д・)

    ……なんだかんだ5日も記事を書いてないヽ(TдT)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑美しくも恐ろしい強烈な噴火、恐らく南米、チリにおける噴火である(「Naverまとめ」の記事内画像より転載)


    今回の考古学・歴史ニュースは「破局噴火の一つであるタンボラ火山噴火の被害を受けた遺跡が発見され、まさに「アジアのポンペイ」と呼ばれるほどの残存状態だよ!」という内容です(*・ω・)ノ

    さて、考古学が関わる人類史上で巨大な噴火は幾度となく起きています。

    もっとも有名なのはトバ・カタストロフ理論で知られるトバ火山の噴火でしょうか。

    インドネシア、スマトラ島にあるトバ火山は今から7万年前から7万5千年前に大噴火を起こしたことが分かっています。

    地球の気温が平均5度も下がるという気候の寒冷化を引き起こし、この寒冷化はその後6000年も続いたと推定されています。

    このトバ火山噴火が人類の進化に大きな影響を与えたという学説がトバ・カタストロフ理論です。

    トバ火山の噴火は火山爆発指数(VEI;Volcanic Explosivity Index)で最高の8であり、ウルトラ・プリニー式噴火、つまり所謂「破局噴火」に分類されます。

    この破局噴火は地球史上で8度起きており、人類史上でも5度起きています。

    現生人類の分岐(20万年前~180万年前)をいつにするかによりますが、2~3度は経験しています。

    つまるところ、「破局噴火で人類滅亡」と騒いでいる記事も散見しますが、あり得ないと思います。

    (現在の都市文明が衰退する可能性は十分ありますが( -д-)ノ)


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    ↑過去200年間で巨大な噴火をしたタンボラ火山(「フレッシュビーンズ コーヒー日記」さんの記事内画像より転載)


    1883年に発生した有名なクラカタウ山の噴火は、その衝撃波が地球を7周もしたと推定されています。

    このクラカタウ山の噴火は火山爆発指数6です。

    最近の新たな研究成果が上がるまで、今回紹介するタンボラ火山の噴火は過去3700年間で最大の噴火であると考えられていました。

    タンボラ火山の火山爆発指数は7であり、その噴火の規模はクラカタウ山の4倍と推定されています。

    さて、インドネシア・スンバワ島に所在するタンボラ火山は1815年に噴火し、その際に10万人強が遭難しました。

    タンボラ火山は噴火した当時、マルク群島、ジャワ島、バリ島およびロンム島等を含み幅広い範囲が一瞬の内に壊滅しました。

    この際に三つの王国が灰に埋もれてしまったと考えられています。

    約1万人が高温を帯びた空気、火山灰および降りかかった砂利、火砕流に埋もれて死亡したと推定されています。

    更には噴火後の伝染病および大飢饉によって、死者が約11万7000人の大災難となりました。

    この1815年4月のタンボラ火山噴火の影響で、大量の火山灰が舞いあがり長期間にわたって、空気中に漂っていたため、太陽の光熱を遮り、世界的規模の気温下降を誘発しました。

    そのため翌年の1816年は夏季がなかったとされる規模の影響です。

    この超大規模の噴火によって「ポンペイのように」あっという間に被害に遭い、当時の状況をそのままに火山灰によって覆われてしまった遺跡が発見されました。

    タンボラ遺跡と命名された同遺跡はアメリカのロードアイランド大学、カロライナ大学、インドネシア火山研究学会の考古学者らが共同で調査を行い発見したものです。

    タンボラ遺跡からは遺体2体が往時の状態のまま保存された家屋が発見されました。

    他にも木造の宮殿が残存していることが確認されています。

    同遺跡はポンペイ遺跡の事例のように高い文化価値があり、当時の人々の生活、家屋および文化が1815年のままに保たれているため、今後は慎重に調査を行い、遺跡を完全な状態のまま保存する計画が進行しています。

    保存状態の良好な木製農機具、紡錘車、磁器、炭化した稲モミ、建物部材、ビンロウ使用具、クリス(短剣)など多種多様な品々がこれまでに出土しており、インドネシア国立考古学研究所デンパサール地方事務所(Balai Arkeologi, Denpasar)にて一般公開されています。

    これらの出土遺物等の分析からこれまでに分かっていることとして、当時の人々は非常に裕福で、ベトナム人およびカンボジア人との繋がりがあり、言語も現在の東南アジア地区に分散して使われているモン・クメール語と関連していると推測しています。




    ところで、2番目に挙げた画像が現在のタンボラ火山の様子であり、巨大なカルデラになっているのが分かります。

    現在ではタンボラ火山は2755mの標高を有します。

    大噴火により山の上部の三分の一が吹き飛んだと考えられ、噴火前には4000m級のインドネシアで最高峰の山だったと推定されているのです。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ↓ポンペイについて触れた記事(*・ω・)ノ
    ↑良かったらあわせてどうぞ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ


    タンボラ火山の噴火は本当に大きな噴火であったことが分かりますね。

    それでもこれで火山爆発指数は7です。

    トバ・カタストロフ理論のトバ火山の場合は8ですから、クラカタウ山の事例を基に単純に計算するとその衝撃波は地球を56周くらいしてる!?( ・Д・)

    カタストロフ(破滅)の名は伊達じゃないようです。

    それでも負けない人類はなんだかんだ強いですね!(・∀・)つ

    ↓どうかTwitterで拡散しておくれ!( ・Д・)↓

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    2019ねん 5がつ 30にち(もくよーび、晴れ)

    22連勤目、疲れが溜まってきたようだ。

    あと15連勤ある……

    しかし学生時代の強制参加の無給(むしろ大きくマイナス)の発掘調査(15連勤くらい?)を思うと、超余裕である。

    社畜ならぬ、「学畜」とか「院畜」という言葉はないのだろうか?( ・Д・)

    今を苦しむ学生・院生諸氏のために拡散してたもれ!

    ……「いんちく」か、「うんちく」くらいしか知らないな( ・´ー・`)ドヤぁ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya346
    ↑古墳築造のための石材運搬の様子(復元)、「木製のそり」を使用している(「エナガ先生の講義メモ」の記事内画像より一部加工)


    今回の考古学・歴史ニュースは、「国内で2例目となる古墳時代の石材運搬に用いたと考えられる木製の大きな「そり」が見つかったよ!」というお話です(*・ω・)ノ

    国内で2例目、東日本では初めての事例となり、希少な歴史的発見なのです。

    というのも、この「そり」は木製ですからね、そもそもなかなか残らないのです。

    また「そり」は石材運搬に用いたと考えられる「実用品」ですから、お墓に丁重に副葬された他の木製品とは異なり、使ってた人々の「残そうという意思が薄弱」です。

    壊れたらその辺にポイっと捨てたかも知れませんし、バラして薪として使ったかもしれません。

    後者の場合はほぼ後世に残りませんよね。

    もしそうしていたなら、古墳時代の人々よ、見事なリサイクルである( -д-)ノ




    さて、出土した遺跡は千葉県木更津市に所在する松面古墳(まつめんこふん)です。

    帰属時期は7世紀前半です。

    松面古墳は祇園・浜長須賀古墳群(ぎおん・ながすがこふんぐん)の一つで、一辺約45mの方墳であり、周濠(しゅうごう;古墳の周りにある濠(ほり)のこと)から今回の修羅の一部が出土しました。

    上に挙げた写真のキャプション、あるいは記事タイトルにあったように、「そり状の巨石運搬具」を「修羅(しゅら)」と言います。

    最初に挙げた復元図でも、あるいは恐らく皆さんが見慣れているであろう古代エジプトのピラミッド建築の復元予想でも、「コロ」の上に台を載せて、その上に石材を積んでみんなで押したり引っ張ったりしていると思います。

    その「コロの上の台」が見つかったということです。

    日本の古墳時代の例ではコロの上の台が「V字状のそりのような形態」を成しています。

    修羅と呼ばれるようになったのは近世以降とされており、その語源は「運搬する大石をタイシャクと読み、それを帝釈天に引っ掛け、帝釈天を動かせるものは阿修羅すなわち修羅であるとの語呂合わせからきたものとされている(wikiより転載;一部筆者修正)」そうです。

    上に挙げた画像から分かるように、今回見つかった修羅は長さ約140cmの破片であり、大きな修羅のほんの一部ということになります。


    分析結果から使用された木材はムクノキであることが分かっています。


    一部とはいえ、良く残ったなぁと思いますね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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    ↑しっかりと原型を留めていますね(「文化遺産オンライン」の紹介ページより画像を転載)



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    ↑下にミニのそりが見えるカワ(・∀・)イイ!!(「藤井寺市HP」の修羅紹介ページの画像より転載)



    arukemaya343
    ↑サイズが大きいのがよく分かりますね(「組積石工技能」の記事内画像より転載)



    さて、上に挙げた画像は国内で最初に見つかった修羅のものです。


    1978年(昭和53年)に大阪府の藤井寺市に所在する三ツ塚古墳で発見されました。


    こちらも周濠の底から出土しています。


    この事例では大小2つの修羅が同時に出土しており、大型の修羅は全長8.8mに及びます。


    先ほど紹介した松面古墳の事例ではおよそ三分の一が残存している状態で140cmでしたから、本来の全長はおよそ4.5mくらいと推定できます。


    三ツ塚古墳の修羅はその2倍程度の大きさということになりますね。


    まぁ個人的には小さい修羅の方が好きですけどねカワ(・∀・)イイ!!





    この大型修羅は実は一本の木を丸彫りして作っています。

    幹がちょうど二股に分かれた巨大なアカガシの樹を利用して作られているのです。

    どの写真にも綺麗に加工された「孔」を見て取れます。

    石材の固定の際に紐・縄を通すのに使用した孔であったり、あるいは前方部の孔は引っ張るための縄を通したものと考えられます。

    注意して写真を見てみると、どれも綺麗な長方形に穿孔されていて、丁寧な加工が施されていること、そして素晴らしい保存状態であることが分かりますね(*・ω・)ノ


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    さて、最後に挙げました写真のように、三ツ塚古墳にて出土した修羅は大阪府南河内郡河南町にある「近つ飛鳥博物館(ちかつあすかはくぶつかん)」にて展示されています。

    非常に貴重な資料ですから、「国宝・重要文化財」に指定されています。

    この博物館は陵墓・古墳に関する遺物を多く収蔵しており、古代の国際交流と国家の形成過程をテーマとしています。

    興味ある方は是非足を運んで、直接その大きな修羅を目の当たりにしてみてください。

    (例によって回し者ではありません、というか私も行きたい!( ・Д・))

    ↓ところで検索流入では何故か「超古代文明」が1位らしい……↓

    ↓うち専門ブログだから思いっきり批判してるけど大丈夫か?( ・Д・)↓


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    2019ねん 5がつ 19にち(にちよーび、晴れ)

    運動不足解消のためにランニングしてみた。

    軽い筋トレ、ストレッチもした。

    習慣になると良いが……

    ついでに腹筋も割れてくれると尚良いのだが( ・Д・)


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    今回の考古学・歴史ニュースは『アングロサクソンの王族の墓から鯨の骨を加工した精巧なボードゲームが見つかったけど、遊び方が分からんよ!』と言う内容です(*・ω・)ノ

    「ゲームの考古学」のテーマは以前も少々扱ったので紹介しておきますね。


    ↓バックナンバーです(*・ω・)ノ
    ↑2本しかこれまでにこのテーマで書いてないのねヽ(TдT)ノ



    6世紀のアングロサクソン王家の墓から出土したゲームに関する遺物は、木製のゲームボード、鯨の骨で作った2点のサイコロと57点のカウンターです。

    賭博も含めたゲームに関する副葬品はこれまでにも発見されているようですが、セットとして出土することは非常に珍しいのです。

    木製のゲームボードについては情報はありませんが、あまり状態が良くないのかも知れません。

    イギリスに旅行に行く人や、在住の方は是非、サウスエンド中央博物館に行って、写真撮影して情報を頂けると幸いです( -д-)ノ



    鯨の骨を使って製作されたもののため、サイコロとカウンターについては保存状態が良好です。

    上に挙げた写真がゲームに使用したカウンターと思われる資料です。

    全57点ありますが、装飾などは見られず外見に違いがありません。

    そのため「トークン」のような何らかの数を数えるために用いたのかも知れません。

    ゲームボードがどのようなものか不明なため詳細は分かりませんが、オセロのように用いた可能性もあります。

    このカウンターの特徴は片側だけが山なりになっている点なので、バランスは悪いですが、表裏のある駒として使用することもできるでしょう。



    サイコロは非常に精巧に作られています。

    特に数字記号の掘り込みは特殊な道具を使用して彫り込んだものと思われます。

    サイズも微細な特徴も深さも一定ですからね。

    ただしそれぞれの掘り込み点の配置は均等配置ではないため、「穴を一つ開ける専用の道具」があって、それを手作業で彫りこんでいったと推測されます。

    今回発見されたボードゲームセットがどのようなルールのものだったのかは最終的に不明なのが残念ですヽ(TдT)ノ

    しかしゲームカウンターの存在からチェスのような頭脳戦の戦争ゲームとも考えられますし、サイコロの存在から同時に以前に紹介したレースゲームのような偶然に左右されるゲームであったとも考えられます。

    あるいは一つのボードゲームセットでその両方がプレイできたかも知れませんね。




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    前回の記事で初めて「この遺物は何でしょう?」クイズを出してみました。

    今回は「ウォーリーを探せ」的な感じで出題してみました。

    こういうことが出来る記事内容は限られているでしょう。

    それでも考古学・歴史に興味をもってもらうためにもちょっとした娯楽性があってもいいのかな~と思うので新たな試みとして「考古学クイズ」をやっていこうかなと考えています。

    ……まぁそもそも「歩け、マヤ」の読者の皆様は、既に考古学・歴史が好きだと思いますけども!(・∀・)つ

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