2019ねん 6がつ 5にち(すいよーび、雨)

資料調査の際は週5~6日で一日6~8時間は土器を見ている。

それが2週間から1ヶ月続く。

普通に博物館を訪れて写真を撮りつつ、メモを取るだけの時も1~2日かけて限られた僅かな資料を見ている。

今、川砂中の鉱物の同定精度に苦しんでいるが、やはり時間のかけ方が問題な気がしてきたヽ(TдT)ノ

毎日、少しでも鉱物を観察することにする( -д-)ノ

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【目次】
  1. 考古学遺物の修復・保存と展示について
  2. サルマタイ(サルマート文化)と古墳について
  3. おわりに -遺跡・遺物にとっての新しい歴史と考古学調査の意義-


1.考古学遺物の修復・保存と展示について

今回の考古学・歴史ニュースは、「バシコルトスラン共和国にて2400年前の古墳から出土した黄金製品を発掘調査の際に激しく傷つけてしまい、そのまま展示しているよ!」ってお話です(*・ω・)ノ

美術の世界ではプロフェッショナルの修復士がいて、誰もが知っているような有名な作品の修復・保存に貢献していますね。

考古学の世界でも修復・保存は重要な課題として提起されてから決して短くない歳月が流れていますが、美術の世界に比べると特化した人材育成と考古学研究・調査への参加具合は芳しくないと思っています。

例えば古代マヤ文明では「絵文書土器」に代表されるようなペインティング(彩文)の技法が用いられた多彩色土器が有名ですが、ほんのひと昔前までは「出土した状態のままでは『美しくない』」という理由から、オリジナルの彩文の上から現代の塗料を塗って見栄えを良くして展示するということが実際になされていました。

現在では特に遺跡を文化財として保存・活用しようという試みから(邪推するならば観光活用と外貨獲得のため)、修復・保存の必要性を強く訴える考古学者もいますが、技術・制度面としては特別進展は見られないように思います。

遺物の保存に関しても経済的、そして技術的理由からなかなか進展していません。

このようなお話をしたのも、今回の古代の黄金製品は「出土した状態のまま」で展示しているからです。

調査中にミスで大きく傷つけてしまったなら、多少の修復をして展示する、あるいはそれが分からないような展示方法を取ることが一般的です。




上に挙げた写真が、調査中に盛大に「ガジッた」黄金製品です。

あまりにも大きく激しく傷ついてますから、元からこういう造形なのかと思ってしまうほどです。

恐らく小型のピッケルでがっつり一撃加えてますねヽ(TдT)ノ

金は柔らかいとは言え、全力で振り切った感がします。

何故、このような見事な黄金製品が出土する「古墳」でそのような発掘方法を取ったのかは謎ですが、考古学者あるいは「ガジッた」経験のある発掘調査参加者には色々な意味で面白いと思います。

ちなみに「ガジッた」=「傷付けた」で、発掘調査中に移植ゴテやエンピ等の堀具によって遺物を掘り出す際に、遺物を傷付けてしまうことを言います。

新しい傷は、新しい剥離、割れの断面の様相が見て取れるので、考古学者や見慣れた人には一目で「やったな」ってのがバレます(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

話を戻しまして、この黄金製品はこれだけ激しく傷付いているのに、一切直さず、かつ360度見えるような展示方法を取っています。

展示スペースを壁側にして、傷の面を壁の方に向ければ済むのですが、敢えてそれをしていません。

何故このような展示方法を取るのかは本当のところは分かりませんが、「発掘調査中の経緯」が当事者には分かるので面白いなと思います。

これだけ変形させられたのもこの遺物にとっての「歴史」なのであり、博物館案内でもその「歴史」を紹介することでくすっと笑えますし、考古学調査をより身近に感じる契機になるかも知れません。

そういう意味で、出土した際のありのままの状態で展示・保存することにも意味があるのだなと考えさせられる展示でした(。・ω・)ノ゙




2.サルマタイ(サルマート文化)と古墳について

さて、今回の「ガジッちゃった黄金製品」が出土したのはバシコルトスラン共和国です。

私達日本人には一般的には聞き慣れない国名だと思いますが、ロシアの首都モスクワから東に約1000kmの位置にあります。

バシコルトスタン共和国の首都はウファであり、およそ140もの民族が居住する超多民族共和国です。

上に挙げた写真はサルマタイ文化あるいはサルマート文化(以下、サルマタイ文化で統一して記述します)の中心部の位置を示したものです。

このサルマタイ文化はサルマタイ人あるいはサルマティア人(以下、サルマタイ人で統一して記述します)というイラン系の遊牧民集団が紀元前4世紀~後4世紀に築いた文化です。

中心地は黒海北岸周辺なのですが「遊牧民」なのでかなり広範に活動していたようです。

というのもバシコルトスラン共和国は上に挙げた画像の通り、黒海からかなり離れているのです。

計測してみると黒海北岸まで約1900km離れています。

これだけサルマタイ文化の中心地とは離れた場所に位置していますが、バシコルトスラン共和国ではサルマタイ文化の古墳群が存在しており、そこから多くの黄金製品が出土しています。


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さて、これまで分かり易く「古墳」として紹介してきましたが、実際の用語としては「クルガン」が用いられています。

クルガンは日本の古墳と同様に墳丘墓であり、上の写真で紹介したように、石を積んで造られたマウンドと土を盛って造った所謂「土饅頭」状のマウンドに分けられます。

日本の古墳には石製の玄室が見られますが、クルガンでは木製の玄室が見られます。

クルガンも支配階級の人物の埋葬施設であり、サマルタイ文化等のクルガンを有する文化の担い手は遊牧民集団であることから、一般的に見られる豪華な副葬品の他に、弓矢(鏃)・矢筒、馬や馬で引く構造の古代戦車などが納められました。

ちなみにサルマタイ文化の葬制では仰臥伸展葬、南枕が慣例だということで、中国思想の影響を受けた日本の古墳時代の北枕とは異なりますが、やはり方角を気にしていたという点で興味深いですね(*・ω・)ノ

さて、今回の黄金製品が出土したのは紀元前4世紀に属するフィリポフ・クルガン群(古墳群)から発見されたものです。

フィリポフ・クルガン群は6kmに渡って25基の古墳が建造されています。

日本にもたくさんの古墳が密集した古墳群が見られますが、黒海を中心とした西ユーラシアから東ヨーロッパにかけてたくさんのクルガン群が確認されています。


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またクルガンを建造するという文化は遊牧民集団の性質も相まって広範な分布を見せます。

このことから1956年にマリヤ・ギンブタス (Marija Gimbutas)により 「クルガン仮説」が提唱されています。

クルガンを有する文化をクルガン文化とし、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパを含めて広く伝播したと考えるものです。

この時、サルマタイ文化の中心地である黒海周辺が原インド・ヨーロッパ語を話す人々の起源であり、遊牧民としての諸活動や文化の伝播の過程で原インド・ヨーロッパ語の方言が多数派生したことで、多様なインド・ヨーロッパ語族が生まれたとする仮説です。

「インド・ヨーロッパ語族」については歴史、特に世界史で勉強すると思いますが、あの歴史の教科書で見た印欧語族の広い分布と彼らによる長い長い興亡の歴史はクルガンから始まっているのですね(。・ω・)ノ゙

・・・まぁ本記事は「盛大にガジッた黄金製品」から始まっていますけどね( -д-)ノ


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さて、「古代の遺物は現代における調査の際の歴史をも有するんだ!」ということから始まったわけですが、うん、思い返してみても、調査者としてはガジッた思い出は忘れないですね。

私も実は初めての発掘調査に参加した際に、最古級の石核をガジッた記憶があります。

しかもその資料の発見は地元新聞に載ったそうで・・・古いからね!ガジッたからじゃないですからね( ・Д・)

古代マヤ文明の調査史として聞く話は、ガジッちゃったみたいな軽いお話じゃなく、ヤバめのお話(犯罪と権力に関するお話)ばかりなので、ここでは書けないでしょうね(「象牙の塔」という言葉もありますけど、もじるなら、黒い巨塔、「黒曜石の塔」かな)。

まぁかるーいストーリーがあれば紹介したいなと思います(。・ω・)ノ゙

聞くところによれば、悲しいことにどこのフィールドでもどこの業界でも悪い奴はいくらでもいてピンピンしてるってことですね、世知辛い世の中だよ!ヽ(TдT)ノ

↓黄金製品が出土するのはやはり羨ましいな!なっ!!!( ・Д・)↓