2018ねん 12がつ 8にち(どよーび、晴れ)

咳が止まらんと思ったら喘息気味のようだ。

なんか唇痛いと思ったらヘルペスのようだ。

ストレスと疲労って怖いね。

身体から危険信号、出まくりだ~!!( ・Д・)


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【目次】
  1. はじめに
  2. 世界五分前仮説とは?
  3. 世界五分前仮説の真意
  4. オムファロス仮説に対する知識の体系、科学の有効性
  5. おわりに ー論理展開の艶やかさー


1.はじめに
さて、今回お話するのは「世界五分前仮説」についてです。

いつもの考古学・歴史ニュースと違って、と~って~も個人的・主観的な解釈・意見で構成されてるのでエッセーに当たるのでしょうか。

エッセー書いたことないし、よく分からんのですが、まぁエッセーの定義は「自由な形式で意見や感想を述べた文章のこと」らしいので、普段とは違う!( ・Д・)ということでよろしくお願い致します。

……まぁいつも自由に書いてるか!( ・Д・) でも今回は特に専門外の内容だよってことです!

あと宗教に関わるテーマになりますので、あくまで一個人、一科学者の見解として大目に見てくださいね。熱心な信者の方は是非、汝が隣人を愛する気持ちでお願いします(・∀・)つ


あ、ちなみにちょいと長くなります(`・ω・´)キリッ


単純に「世界五分前仮説」の概要を知りたい方は前半部だけ読んでくださいね!( -д-)ノ




2.世界五分前仮説とは?
世界五分前仮説とはバートランド・ラッセルによって提唱された思考実験の一例です。ラッセルはイギリスの哲学者、論理学者、数学者であり、1950年にノーベル文学賞を受賞しています。

また11人のトップ科学者らが連名にて、アメリカとソ連の水爆実験競争という世界情勢に対して提示された核兵器廃絶と科学技術の平和利用を訴えた宣言文であるラッセル=アインシュタイン宣言の起草者でもあります。

さて、ラッセルの唱えた世界五分前仮説とは、一言で言えば「世界は五分前に創られた」という仮説です。

この仮説は反証不可能です。何をどう言おうとも、「神がそのようにして創られた」の一言で完封してしまいます。

このフレーズはとても大事ですので覚えておいてくださいね(*・ω・)ノ



試しに反論してみましょう。例えば、私たちには5分前の記憶があります。5分前、そしてそれよりずっと前から私はこの記事の文章を書いていました。その記録はこうしてデータとして保存されています。

でも「神がそのようにして創られた」のです、5分前に。つまり私には生まれ育った記憶がありますが、その記憶を持った状態で5分前に創造されたのです。

私がかれこれ小一時間書いたこの記事も、そのような書きかけの状態で、PCやネット上にデータを記録した状態で創造されたのです(神様、せめて書き終えた状態で創造してください!( ・Д・))。

もっと遡れば、私達人類には歴史がありますし、先史時代に石器や土器などの人類活動の痕跡がありますが、そのような状態になるように、私達が今後も石器や土器を発見できるような状態で「神は5分前にこの世界を創られた」のです。

白亜紀のティラノサウルスの化石を始めとして古代の生物の痕跡も見つかっており、今後も発見されるでしょうが、「そのようにして神は創られた」のです。



どうでしょうか? 何とも酷い、意地悪な仮説に思えます。でも実際に反証することができません。「神はそのようにして創られた」、この一言があまりに万能なのです。




3.世界五分前仮説の真意
さて、ノーベル文学賞まで受賞した当時の最も優秀な科学者のひとりであるラッセルは、うしてこのような仮説を打ち出したのでしょうか?


「どうだ、すごいだろ?( ・´ー・`)ドヤ」と自分の優秀さを誇示したかったのでしょうか。


もちろん違うと思います。


検索でパッと出てくる世界五分前仮説は先に述べた部分の説明に終始している傾向がありますので、天才が考えた無敵の仮説のような印象を受けます




しかしながらこの仮説の特徴は、反証不可能であること、だけではなく、実証不可能であることなのです。

なので理論ではなく仮説です。世界が5分前に創造されたことは本当かも知れないし、そうでないかも知れません。

ラッセルが述べたいことの一つは、世界が5分前に創られたかどうか分からない、つまり過去が実在するかどうか分からないということです。ある種の過去の否定なのです。



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ところで、ラッセルが創造されたタイミングを5分前に設定したことは、さすがだなと思います。これは現在ではいけないのだと私は考えます。

日本の哲学者で「世界はたった今創造された」と述べている方がいるようですが、門外漢ながら賛同しかねます。

ラッセルは懐疑主義の立場です。懐疑主義と言えば、「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我あり)」で有名なデカルトです。

デカルトは身の回りの全てを疑った結果、疑っている自分自身の存在を疑うことはできないと考えました。この思考する存在である「私」は現在の私であるのです。

ラッセルは過去を否定する必要があったので「今」に近すぎてはいけなく、かつその存在が曖昧となってしまうような「遠い過去」であってもいけなかったのでしょう。

その丁度良いタイミングが5分前だったのだと思います。



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さて、世界五分前仮説によって5分前という比較的明瞭な記憶の残る過去の実在性が揺らぐ中、現在の私たちには記憶があります。

それは自己の体験に基づく経験知であり、過去の研究成果から成る書籍等から得た知識の塊です。仮に過去が存在しなくとも、現在の私達の中には知識体系が存在します。

つまり知識とは過去の存在・非存在とは無関係であり、論理的に独立的な存在であると考えるわけです。



結果として、

「そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである 」 — ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)

という結論に至るのです。つまりラッセルの世界五分前仮説とは、敢えて過去の存在を曖昧にすることで、現在の私たちが有する知識の体系、ひいてはこれまでに積み重ねてきた科学的成果及びその知識の有効性を示しているのだと思います。




4.オムファロス仮説に対する知識の体系、科学の有効性
さて、ここで登場するのがオムファロス仮説です。これはフィリップ・ヘンリー・ゴスにより提唱された、世界の年齢(約46億年前)に関する自然科学と聖書における天地創造の時期との矛盾を解決するためにそのような古い状態で初めから創造されたのだ、という神学における創造論を支持する仮説です。


お気付きでしょうか、このオムファロス仮説の論理は世界五分前仮説とそっくりですね。ただ世界創造のタイミングが異なるだけなのです。


神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(中略)神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。(新共同訳 旧約聖書; 創世記1-3)

ラッセルが用いた「神がそのようにして創られた」という表現も聖書から来ていることが上の引用から読み取れると思います。



彼の残した記述から、ラッセルは優秀な科学者であると同時に、「無神論者」であったことが知られています。

科学的成果・知識が示す地球46憶年の歴史と、聖書が示す天地創造による創造論、この二者の対立は歴史的に古くからあるわけです。


近現代までに急速に発達してきた科学的な知識と聖書記述との間における様々な矛盾をオムファロス仮説は一挙に解決したように思えますが、ラッセルは類似の世界五分前仮説を用いることによって過去の存在を曖昧にし、科学の有効性を示しました。

そればかりではなく、世界五分前仮説は反証不可能であると同時に実証不可能であることを示し、間接的にオムファロス仮説を批判しているのです。




5.おわりに ー論理展開の艶やかさー
科学と宗教の対立は長い歴史があります。考古学的な立場から見れば、私個人としては科学も宗教も人工物です。科学的知識とその有効性が広く強く認識されるようになって以来、世界の説明原理としての役割はそれまでの宗教に対して科学が取って替わっただけなのだと思います。

一方で宗教の有効性は消えてはいません。例えば人が死んだらどうなるのか、私も念仏を唱えてもらうことで亡き人が仏になるんだと聞き、その悲しみを拭い去る助力となったように思います(。・ω・)ノ゙

これが科学だったら、人は死んだらどうなるか?に対して、「どうもなりません。最終的には肉体は全て分解されます。魂や天国の存在は証明されていません。」とか、ある意味で心なく反応するでしょう( -д-)ノ


1859年に『種の起源』を発表することで少なくとも結果的に「神を殺しにかかった」チャールズ・ダーウィンですが、その100年後にラッセルは多くの人々の目を惹く美しい仮説を提唱し、直接的に攻撃することなく鮮やかな論理展開をもって「再び神を殺しにかかった」ように思えるのは私だけでしょうか。

↓昔、押した!?きっと嘘ですよ、それ!( ・Д・)↓