2018ねん 12がつ 17にち(げつよーび、雪)
一口に考古学と言っても、対象とする様々な時期や地域によって、それぞれ大きな成果を残した考古学者がいますから、たくさんの「偉大な」考古学者がいるのは当然ですね。
一週間ほど出張やなんやらで忙殺されてました。
頑張って更新しますね~(*・ω・)ノ
いや~、大した内容じゃなくても、
記事にするとなるとけっこう手間暇かかるものですね……( -д-)ノ
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【目次】
- はじめに
- 日本の事例 -相沢忠洋と岩宿遺跡-
- マヤの事例 -アルベルト・ルスとパレンケ遺跡-
- おわりに -「偉大な」考古学者になる方法-
1.はじめに
研究者に限らず、何かしらの道で「偉大な」存在として賞賛されることは人々に共通する一つの夢・願望のように思えます。私は考古学の道を往く者ですから、「偉大な」考古学者としていつの日か脚光を浴びたいなと思うわけですが、そもそも「偉大な」考古学者とは如何なる存在でしょうか?
後輩と話していると日本考古学の中でも色々な考古学者の名前が挙がりました。試しに『偉大な考古学者』で検索してみたら、弥生時代の提唱者である中山平次郎、アメリカ考古学における土器分類の基礎を築き、マヤ地域における「テオティワカンの影響」を発見したアルフレッド・キダーが出てきました。
他にはギリシア神話の伝説の都市トロイアを発見したハインリヒ・シュリーマン、クレタ島のクノッソス遺跡を発掘し線文字A・Bの粘土板を発見したアーサー・エヴァンズ、中国の兵馬俑を発見した趙康民が出てきました。
一口に考古学と言っても、対象とする様々な時期や地域によって、それぞれ大きな成果を残した考古学者がいますから、たくさんの「偉大な」考古学者がいるのは当然ですね。
ここで全員を挙げてるとキリがありませんので、日本考古学における代表例と中米、マヤ文明考古学における代表例として独断と偏見にて1名ずつ以下に取り上げることにします( -д-)ノ
2.日本の事例 -相沢忠洋と岩宿遺跡-
現在では教科書でも当たり前のように日本に旧石器時代があったとして書かれてます。
しかしこれは比較的新しいことで、20世紀半ば、つまり第二次世界大戦の終了くらいの時期までは日本の歴史は縄文時代から始まっていたのです。
火山灰が多量に堆積することで形成されている関東ローム層の時代では激しい噴火活動のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられていたのです。
つまり関東ローム層は「無遺物層」であり、人類活動の痕跡が見られない「非文化層」と考えられていました。真良信夫(なおらのぶお)らによって旧石器の発見が報告されることもありましたが、当時は強い批判を受けていたのです。
このような中、相沢忠洋は1946年に岩宿(現在群馬県に所在する遺跡)に見られた関東ローム層の露頭断面から、石器・細石器に酷似した石片を発見しました。しかしそれらの資料が旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するための発掘を独自に続けていました。
ついに1949年には相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人工品と認められる黒曜石製の槍先形石器(尖頭器)を発見しましたが、当時の学者は相手にしませんでした。
最終的に相沢の発見を重要視した明治大学の杉原荘介、芹沢長介、岡本勇によって岩宿の調査が行われ、他の旧石器群の再発見によって日本における旧石器の存在が確認されました。
ちなみに相沢忠洋は自説を学者に受け入れてもらうために東京で説明して回ったのですが、群馬県桐生市から東京まで、およそ120kmの距離を自転車で日帰り移動していたそうで、その情熱の強さを伺い知れますね。
相沢忠洋記念館は群馬県桐生市にありまして、岩宿遺跡・岩宿博物館は群馬県みどり市にあります。日本の旧石器時代を初めて認めることになった歴史的な土地ですから、良ければ訪れてみてくださいね(。・ω・)ノ゙
3.マヤの事例 -アルベルト・ルスとパレンケ遺跡-
さて、マヤ地域にはピラミッドがありますが、20世紀前半まではピラミッドは神殿だと思われていました。つまり内部には何もないと思われていたのです。
当時、エジプトのピラミッドは王の墓と考えられており(今では違います)、マヤ地域におけるピラミッドは機能が異なる(はずだ)から墓ではないと特に根拠もなく批判されていました。
19世紀から疑似科学、疑似歴史が始まり、1882年にアメリカの政治家イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリーが書いた『アトランティス―大洪水前の世界』によって超古代文明が一大ブームとなっていました。
アトランティスの説では、生き残ったアトランティス人が大西洋を挟んで両側の地域、つまりエジプトとマヤに技術や知識を伝えたために類似したピラミッドが建設されたと考えていました。
このオカルト説の批判のためにも、エジプトのピラミッドとマヤのピラミッドは違うんだと言いたかったのかも知れませんね。
アルベルト・ルスは1945年にメキシコにあるパレンケ遺跡の発掘を開始し、1948年に碑文の神殿の下に隠されていたキニチ・ハナーブ・パカル1世(パカル大王)の墓の入口を発見しました。ピラミッド内部へと続く階段を埋める土砂を取り除いていき、ついに1952年にパカル大王の棺と遺体を発見したのです。
これにより、マヤ地域におけるピラミッドは王の墓であることが分かったのです。ちなみにマヤのピラミッドは神殿ピラミッドでもあります。ピラミッドは王の墓であり、かつ上部に神殿を載せるための基壇でもあるわけです。
祖先崇拝が根強く、墓域を形成することなく死者と共に生きたマヤ人にとって、王の墓の直上に作られた神殿での儀礼行為には特別な意味があったのでしょう。
……ちなみ上に挙げた2枚目の画像は宇宙船に乗る姿を表現したものだとオカルトで扱われるパカル王の石棺の蓋に見られる図像です。スマホで見てる方は横にして見てください。左向きのロケットを操縦する人の姿のように見えませんか?
この記事では「本来の見方」として図を縦に配置しています。これはパカル王が世界樹(上方の十字の図形)の下にある地下世界(下方の頭蓋骨;オカルトではロケット噴射と捉えている)に向かって落ちていく様子を描いたものと解釈されています。
4.おわりに -「偉大な」考古学者になる方法-
具体的な事例は2つしか挙げていませんが、二人に共通して見られる特徴から「偉大な」考古学者になる方法が見えてきました。それは以下の3点になります。
- 大発見をする!
- その大発見によって歴史観が大きく変化する!
- 世界の考古学や各文化に関する概説書に名前を残す!
この3点が揃って初めて「偉大な」考古学者になれる気がします。例えばマヤ地域ではピラミッドを掘れば王墓の発見は容易ですし、名前も残りやすいでしょう。
重要な考古学的発見が考古学者として名をはせる上でひとつの要点になっていることは疑い得ませんが、それだけでは足りないのです。
学会におけるいくつかある大きな研究テーマの内のひとつを取り上げ、その中での自分の研究の立ち位置を明確にする必要があるでしょう。大テーマに対する一部の貢献として自己の調査の意義を有さないのであれば、それはほぼほぼ盗掘なのかも知れません。
掘ったら何か出るし、そこから何か分かるのは当たり前です。上に掲げた3点の内、2番目の「歴史観が変わる」ような発見や研究が最も重要なのでしょう。
この歴史観を変えるような業績とは、例示した二者のように今まで言われていた定説を覆すだけではなく、これまでの解釈・理解を一気に推し進め、当時の社会像をより具体的に鮮やかに描き出すことも含まれるでしょう。
むしろこれこそが通常研究者が目指すべき到達点であり、その目標の達成ためには地道な基礎研究の積み重ねといった並々ならぬ努力が必要であることを過去の偉人達は暗に示しているのではないでしょうか。
……あ、真面目に書き過ぎたや
……偉大な考古学者目指してが~んばろ~っと( ・Д・)
↓押すと「偉大な」人間に一歩近づ……く、こともあるようです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓