あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    マヤ文明

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    2026ねん 7がつ23にち(もくよーび、晴れ)

    ゆっくりとでも歩いてるのが大事と信じるほかない!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y854

    ↑やぱ墓はいいよね、考古学者的に!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「エルサルバドルの首都郊外で、約3000年前の人骨がうつ伏せの状態で見つかり、海亀形の土器や火山灰に覆われたキャッサバ畑まで現れたけれど、この人物を早くも『最古の生贄』と呼んでよいのかは、まだ分からないぞ!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    火山灰の下から現れたのは、家でも神殿でもなかった。

    人間の骨だった。

    身体は、仰向けではない。

    顔を地面へ向けた、うつ伏せの姿勢で葬られていた。

    その傍らには、海亀をかたどった小さな土器。

    さらに周囲の地層からは、かつてキャッサバを栽培していた畝や溝の痕跡まで見つかった。


    場所は中米エルサルバドル。

    首都サンサルバドルに隣接するアンティグオ・クスカトランの「パサヘ4遺跡」である。

    人骨は2026年7月2日、発掘区の一つから発見され、同月21日に慎重な取り上げ作業が行われた。

    人骨が埋まっていた層は、近隣のプラン・デ・ラ・ラグーナ火山活動による灰の下に位置しており、文化当局は暫定的に紀元前850年頃、すなわち今から約2900年前の埋葬と推定している。

    しかし、まだ放射性炭素年代測定は終わっていない。

    性別も分かっていない。

    死因も分かっていない。

    そしてもちろん、誰かに殺され、神々へ捧げられた人物なのかどうかも、現段階では証明されていない。

    それにもかかわらず、この発見が「最古の生贄遺跡と関連か」と報じられているのは、エルサルバドル西部のチャルチュアパ遺跡で、過去に33人分の人骨が発見されているからである。

    その多くは、うつ伏せで、手足を縛られたような姿勢を取り、集団的な人身供犠の犠牲者と解釈されてきた。

    では今回の一人も、同じような犠牲者なのだろうか。

    およそ700年以上も異なる二つの発見を、どこまで結び付けてよいのだろうか。

    今回は、火山とともに生きた古代エルサルバドルの人々、キャッサバ農耕、ウスルタン様式土器、そしてメソアメリカ最古級の人身供犠研究を見ながら、このうつ伏せの死者へ近づいていきましょう!( ・Д・)


    🗺️ 小さな国の地下に、巨大な歴史が重なっている

    エルサルバドルは、太平洋に面した中央アメリカの国である。

    国土は九州のおよそ半分ほどしかなく、アメリカ大陸の大陸部では最も小さい国だが、その狭い土地に火山、湖、肥沃な盆地、海岸平野が密集している。

    古代の人々にとって、火山は恐ろしい災害の原因である一方、農作物を育てる肥沃な土壌を生み出す存在でもあった。

    エルサルバドルの遺跡を発掘すると、住居、畑、墓、神殿の間に、何枚もの火山灰層が挟まっていることがある。

    人々が土地を開き、作物を育てる。

    噴火が起き、集落や畑が灰に覆われる。

    しばらく後、別の人々がその上へ戻り、新しい生活を始める。

    さらに別の噴火が、その生活を再び覆う。

    地層には、人間の歴史と火山の歴史が交互に積み重なっているのである。

    今回の発見場所であるアンティグオ・クスカトランは、現在では首都圏の市街地に組み込まれている。

    住宅、道路、商業施設が並ぶ現代都市の地下に、紀元前の農地と墓が残されていた。

    遠い密林の奥に放棄された遺跡ではない。

    多くの人々が毎日歩き、車で通過する都市空間の下に、約3000年前の生活面が眠っていたのである。


    🏺 紀元前850年は、「古典期マヤ文明」よりはるかに古い

    暫定年代とされる紀元前850年頃は、メソアメリカ考古学では先古典期、あるいは形成期と呼ばれる時代に当たる。

    ティカル、パレンケ、コパンなどで王たちが石碑を建て、マヤ文字で歴史を刻んだ古典期より、1000年以上も前である。

    当時すでにメソアメリカ各地では、トウモロコシや豆、カボチャ、キャッサバなどを利用する農耕社会が成立していた。

    メキシコ湾岸ではオルメカ文化が発展し、巨大石頭像や儀礼空間が作られていた。

    グアテマラ高地、太平洋岸、エルサルバドル、ホンジュラスの間でも、土器、黒曜石、ヒスイ、儀礼様式などが動いていた。

    小さな農村が存在する一方で、人口を集め、大規模建築を築く中心地も形成され始めていた時代である。

    ただし今回の人骨を、すぐに「マヤ人」と呼ぶのは慎重でなければならない。

    現在の国境はもちろん、16世紀に記録された民族名や言語集団を、そのまま紀元前9世紀まで遡らせることはできない。

    当時のエルサルバドル中部に、どのような言語を話し、どのような自己認識を持つ人々が住んでいたのかは、文字記録から確認できない。

    考古資料から分かるのは、周辺地域と技術や土器を共有しながら、地域固有の生活を営んでいた人々が存在したということである。

    エルサルバドルの先古典期、特に紀元前1000年頃から紀元後数世紀までの社会は、重要性に比して発掘資料が不足しており、文化的な境界や集団形成には未解明の部分が多い。




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    ↑人骨・・・思いの外インパクト弱い!( ・Д・) (「The Standard」の記事内画像より転載;credit: EL SALVADOR'S PRESIDENCY PRESS OFFICE / AFP)


    ⛏️ パサヘ4遺跡で見つかった一人の死者

    人骨が発見されたのは、パサヘ4遺跡の「トレンチ1」と呼ばれる発掘区だった。

    「パサヘ」は通路や小道を意味する一般的な地名であり、巨大なピラミッドや王宮として知られてきた観光遺跡ではない。

    今回の調査によって、現代都市の一角にも、古代の埋葬と農耕地が残っていることが明らかになった。

    文化当局が公開した写真では、発掘坑の深い位置に人骨が横たわっている。

    頭蓋骨、脊椎、腕や脚の骨が確認され、身体は腹部を下にした腹臥位、考古学用語では「伏臥伸展葬」に近い状態だったと報告されている。

    発掘現場から人骨をそのまま持ち上げれば、骨が崩れ、位置関係が失われてしまう。

    そこで周囲の土ごと固め、支持材と帯を使って大きなブロックとして取り上げる作業が行われた。

    今後は室内で土を少しずつ除去し、骨の配置、損傷、埋葬姿勢、付着物などを詳しく調べることになる。


    🌋 年代を教えた、プラン・デ・ラ・ラグーナの火山灰

    文化当局が紀元前850年頃という暫定年代を示した大きな根拠は、人骨の上を覆っていた火山灰層である。

    アンティグオ・クスカトランには、プラン・デ・ラ・ラグーナと呼ばれる火口地形がある。

    かつて地下のマグマと水が接触し、激しい水蒸気爆発を伴う噴火が起きた場所である。

    その噴火で飛散した灰や火山砕屑物が周辺を覆い、噴火以前の地面を封じ込めた。

    人骨がこの灰層より下にあるならば、少なくとも噴火より前に埋葬されたことになる。

    文化当局は噴火を紀元前850年頃と見積もり、埋葬も同時期か、それ以前に位置付けている。

    これは、地層の上下関係から年代を決める層位学的な推定である。

    灰より下の物は噴火より古い。

    灰より上の物は噴火より新しい。

    非常に強力な方法だが、これだけで人が死亡した年を一点まで決められるわけではない。

    埋葬から噴火まで数日だったのか、数十年だったのかは、さらに検討が必要である。

    そのため、人骨や関連する有機物を用いた放射性炭素年代測定が予定されている。

    測定結果が出れば、暫定的な紀元前850年という位置付けが支持されるのか、それとも修正されるのかが分かるだろう。


    🌱 墓の近くには、キャッサバ畑まで残っていた

    今回の調査では、人骨だけでなく、キャッサバ栽培に関係するとみられる畝や溝も発見された。

    しかも、異なる火山灰層に覆われた二つの時期の耕作痕が確認されている。

    古いものはプラン・デ・ラ・ラグーナの噴火に、新しいものは数百年後のイロパンゴ巨大噴火に関係すると説明されている。

    つまり同じ土地では、一度だけ偶然キャッサバが植えられたのではない。

    火山災害を挟みながら、人々が繰り返し土地を耕し、地下に芋を作る作物を育てていた可能性がある。

    キャッサバは、熱帯アメリカで重要な根菜である。

    しかし考古学的には、トウモロコシより発見しにくい。

    トウモロコシの穂軸や種子は炭化して残る場合があるが、キャッサバの食用部分は地下の柔らかい根であり、普通は腐って消えてしまう。

    そのため、キャッサバを食べていた社会でも、遺跡から直接証拠が出ないことがある。

    火山灰が畑を一気に覆うと、畝、植穴、根の空洞、作物の配置が地面の形として保存される。

    古代農耕を知るうえで、灰に封じられた畑は、人骨や美しい土器に負けないほど重要な資料なのである。

    エルサルバドルでは、火山灰に埋まったホヤ・デ・セレン遺跡でも、住宅とともに畑、庭、果樹、作物配置が保存され、一般住民の食生活や農作業を復元する研究が進められてきた。





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    ↑頑張って取り出してるね!( ・Д・) (「The Standard」の記事内画像より転載;credit: EL SALVADOR'S PRESIDENCY PRESS OFFICE / AFP)


    🔥 火山は生活を奪い、生活を保存した

    エルサルバドル考古学では、火山灰は破壊の痕跡であると同時に、年代を測り、生活を保存する鍵でもある。

    プラン・デ・ラ・ラグーナの噴火から千年以上後には、イロパンゴ・カルデラが巨大噴火を起こした。

    いわゆるティエラ・ブランカ・ホベン噴火である。

    噴火年代については、西暦431年頃とする研究と、西暦539~540年頃とする研究があり、現在も議論が続いている。

    いずれにしても噴火は広範囲へ厚い灰を降らせ、エルサルバドル中部の居住や農耕へ大きな影響を与えた。

    パサヘ4遺跡では、この異なる噴火の灰が、別々の時代の生活面を仕切る目印となった。

    古い灰の下に紀元前の墓と畑。

    さらに上の層には、後代の耕作痕。

    火山によって土地利用が断絶し、それでも人々が戻って再び作物を育てた過程が、断面の中に保存されているのである。


    🐢 死者に添えられた、海亀形の小さな器

    埋葬坑からは、海亀をかたどった小型土器も発見された。

    文化当局はこれを「ウスルタン様式」の器と説明している。

    ウスルタン様式土器は、オレンジ色や赤褐色の表面に、波線、縞、斑点などの装飾を作ることで知られる。

    表面へ液体や顔料を塗り分け、焼成時の化学変化を利用して文様を生み出す「レジスト技法」と関係する土器群である。

    後の時代にはエルサルバドルだけでなく、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグアなどへ広がり、地域間交流を示す代表的な資料となった。

    ただし、海亀形の器があるからといって、ただちに「海の神へ捧げた生贄」と解釈することはできない。

    器は飲食物を入れる容器だったかもしれない。

    個人が生前に使った品かもしれない。

    死者の旅に必要な品として添えられた可能性もある。

    海亀が水、海岸、生命、祖先などを象徴した可能性は考えられるが、今回の器だけから具体的な神話を復元することはできない。

    器の内部に残る微量物質、表面の摩耗、煤、破損状態を調べることで、実用品だったのか、埋葬専用品だったのかを検討できるかもしれない。

    また、一般に整理されてきたウスルタン様式土器の主要な展開時期と、今回の紀元前850年という暫定年代との関係も注目される。

    正式な土器型式の判定や放射性炭素年代が確定すれば、既存の土器編年を再検討する資料となる可能性もある。


    🙇 なぜ死者は、うつ伏せにされていたのか

    人間を普通に寝かせるなら、顔が上を向く仰向けの姿勢を想像しやすい。

    それだけに、うつ伏せの遺体は目を引く。

    過去の社会では、うつ伏せ葬が、処罰された者、共同体から排除された者、身分の低い者、戦争捕虜、危険視された死者などと関連付けて解釈されることがある。

    顔を地面へ向ける姿勢が、尊厳を奪う行為だった可能性もある。

    そのため今回の人骨も、「生贄だったのではないか」という見方につながった。

    しかし、うつ伏せという姿勢だけで生贄と判定することはできない。

    チャルチュアパの人骨を分析した研究者自身も、伏臥位が供犠犠牲者に指定された姿勢だった可能性を示しながら、低い社会的地位を示す姿勢だった可能性も認めている。

    遺体が自然に回転した可能性も調べる必要がある。

    棺や布が腐った結果、身体の一部が崩れたのか。

    最初からうつ伏せに置かれたのか。

    墓を後から開けた際に動かされたのか。

    洪水、地震、動物の活動は影響していないか。

    墓坑の形、関節のつながり、骨の位置を丁寧に記録しなければならない。

    「うつ伏せだから生贄」という推理は、魅力的だが、考古学的にはまだ一段階目の仮説にすぎない。





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    ↑現場は街中なのね!( ・Д・) (「The Standard」の記事内画像より転載;credit: EL SALVADOR'S PRESIDENCY PRESS OFFICE / AFP)


    🔪 考古学者は、何を見て「人身供犠」と判断するのか

    人身供犠とは、単に誰かが暴力で死亡したことではない。

    宗教的・政治的・儀礼的な目的のため、人間の生命や身体を意図的に差し出す行為を指す。

    しかし骨だけを見て、殺した人間の思想まで直接読むことはできない。

    そこで考古学者は、複数の証拠を組み合わせる。

    死亡前後についた切創や刺創。

    首を切断した痕跡。

    手足を縛った姿勢。

    通常の墓とは異なる投げ込まれ方。

    神殿、祭壇、建物の基礎など、儀礼的な場所との関係。

    特定の性別や年齢だけが繰り返し選ばれていること。

    一度ではなく、建物の改築ごとに同じ埋葬行為が行われていること。

    武器、顔料、ヒスイ、動物、香など、儀礼用品との組み合わせ。

    これらが重なって、通常の葬儀、戦闘死、処刑、虐殺、供犠のうち、どの解釈が最も妥当かを考えるのである。

    今回発表された情報の中に、明確な切創、斬首、手足の拘束は含まれていない。

    発表されているのは、うつ伏せの姿勢と、海亀形土器を伴う埋葬だったということまでである。

    したがって現時点では、

    約3000年前の珍しい埋葬が見つかった

    とは言える。

    しかし、

    約3000年前の生贄が見つかった

    と断定することはできない。


    🏛️ 比較対象となった、チャルチュアパの33人

    今回の発見と関連付けられたチャルチュアパは、エルサルバドル西部にある巨大な考古学遺跡群である。

    エル・トラピチェ、カサ・ブランカ、タスマルなど、異なる時代の神殿、広場、住居が広い範囲へ連なっている。

    少なくとも約3200年にわたる居住の歴史を持ち、先古典期後半には、エルサルバドルを代表する大規模な祭祀・政治中心地へ成長した。

    1977~1978年、開発に伴う緊急調査で、エル・トラピチェ地区のE3-7号建造物が発掘された。

    この建物は、紀元前200年頃から紀元後200年頃にかけて、何度も増築された土製基壇だった。

    その建築土の中から、合計33人分の人骨が発見された。

    研究では、26体の比較的完全な骨格、4体の部分骨格、3点の単独頭蓋骨が区別された。

    性別を判定できた人物は成人男性で、多くがうつ伏せに置かれ、手足を縛られていた可能性があった。

    一部には切断や斬首を思わせる状態も確認された。

    建物は一度に完成したのではなく、複数回の建築工事によって大きくなった。

    人骨も、すべて同じ日にまとめて埋められたわけではない。

    異なる増築段階の盛土へ繰り返し納められていた。

    この反復性が、偶然の集団墓や疫病墓ではなく、建築儀礼の一環として人間が供えられたという解釈を支えている。

    分析者は、彼らがチャルチュアパ外部から連れてこられた戦争捕虜だった可能性を示した。


    ⏳ 今回の死者とチャルチュアパでは、700年以上も違う

    ここで、年代を並べてみよう。

    今回のパサヘ4遺跡の人骨は、暫定的に紀元前850年頃。

    チャルチュアパE3-7号建造物の集団埋葬は、主として紀元前200年頃から紀元後200年頃。

    両者の間には、少なくとも600~700年ほどの開きがある。

    同じ国の中で見つかり、どちらもうつ伏せの人骨を含むからといって、同じ王国、同じ宗教、同じ儀礼制度に属していたとはいえない。

    現在のエルサルバドルという国家は、古代には存在していない。

    二つの遺跡は地域も年代も異なり、直接の連続関係はまだ示されていない。

    今回の人骨が「チャルチュアパと似た埋葬である可能性がある」というのは、今後比較すべき仮説であり、同じ生贄集団が別の場所で見つかったという意味ではない。

    もし今回の人骨に拘束痕、致命傷、儀礼的な身体処理が確認され、本当に人身供犠だったと結論付けられれば、エルサルバドルの供犠儀礼をチャルチュアパより数百年さかのぼらせることになる。

    それは非常に大きな発見である。

    だからこそ、結果が出る前に結論を急いではならないのである。




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    ↑副葬品はウスルタン土器らしいけどよくわからんね!( ・Д・) (「The Standard」の記事内画像より転載;credit: EL SALVADOR'S PRESIDENCY PRESS OFFICE / AFP)


    🥇 「メソアメリカ最古の生贄」という言葉は簡単ではない

    チャルチュアパの33人は、報道では「メソアメリカ最古の人身供犠の証拠」と紹介されることがある。

    しかし「最古」は、何を確実な供犠証拠と認めるかによって変わる。

    メキシコ湾岸のエル・マナティ遺跡では、紀元前1600~1200年頃の湿地祭祀遺構から、木製胸像、石斧、ゴム球、植物束とともに、胎児や新生児の骨が発見されている。

    これらを幼児供犠の証拠と見る研究者もいる。

    一方、子どもたちがどのように死亡したのかは分からず、自然死した乳幼児を儀礼的に埋葬した可能性も残る。

    つまり、

    最も古い「人骨を伴う儀礼遺構」

    最も古い「供犠の可能性がある人骨」

    最も古い「殺害痕を伴う供犠」

    最も古い「集団的人身供犠」

    では、該当する遺跡が異なる可能性がある。

    チャルチュアパの重要性は、単に古いことだけではない。

    成人男性が選択的に埋められ、拘束姿勢を取り、建築の増築に合わせて反復的に納められたという、複数の証拠がまとまっている点にある。

    今回の一体がその比較対象になり得るかは、これからの分析次第なのである。


    🧬 DNA分析で、何が分かるのか

    今回の人骨については、DNA分析を行い、まず生物学的性別を調べる計画が発表されている。

    骨格が完全で、骨盤などが良好に残っていれば形態から性別を推定できる場合もあるが、保存状態や年齢によっては難しい。

    DNAが得られれば、性染色体に基づく判定が可能になる。

    さらに保存状態と研究計画が許せば、血縁関係や集団の遺伝的特徴を検討できる可能性もある。

    ただし、DNAが取れたからといって、その人が「マヤ人」「レンカ人」など、後世の民族名へ簡単に分類できるわけではない。

    遺伝的な近縁性と、言語、政治的所属、文化的アイデンティティは同じものではない。

    また、一人のDNAだけで地域全体の人口史を語ることもできない。

    最も確実なのは、この人物の性別を確認し、将来ほかの人骨が見つかった場合に比較資料とすることだろう。


    🦴 骨に残る傷は、生前のものか、死後のものか

    生贄説を検討するには、骨の表面を詳しく観察する必要がある。

    刃物が生きた骨へ当たると、骨がまだ水分と弾力を持っているため、乾燥後の破損とは異なる割れ方をする。

    首の骨に鋭い切創があれば、斬首や喉の切断を検討できる。

    肋骨や胸骨の傷は、胸部を開いた行為と関係する場合がある。

    手首や足首を縛った痕跡は、骨そのものには残らないことも多いが、不自然に寄せられた姿勢や、土中に残る紐の痕跡から推測できる可能性がある。

    一方、発掘時のスコップ、土圧、植物の根、動物、火山活動でも骨は傷つく。

    傷を見つけただけでは、生前の暴力と断定できない。

    傷の断面、色、治癒反応、位置、周囲の骨との関係を調べ、死亡前、死亡時、埋葬後のどの段階で生じたのかを分ける必要がある。

    生贄という結論は、発見時の印象ではなく、こうした地味な骨表面の分析から導かれるのである。






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    ↑ちなみにウスルタン文様というのはこういうネガティブ文のこと!( ・Д・)(McCafferty 2009; Fig. 3より転載)


    🍠 この人物は、キャッサバを育てた人だったのか

    墓の近くにキャッサバ畑があると、この人物も畑を耕して暮らしていたように想像したくなる。

    しかし、墓と耕作痕が正確に同時代であるかは、まだ確認が必要である。

    墓地が作られる前は畑だったのかもしれない。

    墓を作った後も、少し離れた場所では農耕が続いたのかもしれない。

    火山灰が降る直前に葬られた人物かもしれないし、数世代前の人物かもしれない。

    層位、土器年代、放射性炭素年代を合わせることで、墓と畑の時間関係が明らかになる。

    もし埋葬と耕作面がほぼ同時期なら、約3000年前の地域社会について、死者の扱いと日常の食料生産を同じ遺跡から研究できる。

    神殿や王墓だけでは見えにくい、普通の人々の暮らしへ近づける発見となるだろう。


    🌾 人身供犠の歴史だけでなく、農村史の発見かもしれない

    「最古の生贄」という言葉は強い。

    恐ろしく、謎めいていて、記事を読みたくなる。

    しかし、今後の分析で外傷も拘束も確認されず、通常とは少し異なる埋葬だったと判明する可能性も十分にある。

    その場合、この発見の価値がなくなるわけではない。

    むしろ紀元前9世紀頃のエルサルバドル中部では、人骨資料そのものが貴重である。

    年齢、性別、身長、歯の状態、病気、骨への負荷を調べれば、人々が何を食べ、どのように働き、どのような健康状態にあったのかを研究できる。

    同じ地層から畑と土器が出ているため、身体、農業、食器、火山災害を一つの生活史として結び付けられる。

    劇的な殺人の証拠ではなくても、約3000年前の一人の生活と死を復元できること自体が重要なのである。


    🔬 今回の発見で、これから確かめるべきこと

    まず、放射性炭素年代測定によって、埋葬年代を確定する必要がある。

    紀元前850年頃という推定は支持されるのか。

    プラン・デ・ラ・ラグーナ噴火の直前なのか、さらに古いのか。

    次に、骨格から年齢、性別、病気、外傷を確認する。

    死亡時または死の直前についた傷はあるか。

    手足を縛られた配置は認められるか。

    遺体は最初からうつ伏せだったのか。

    そして、海亀形土器の型式、製作技術、内容物を調べる。

    墓へ意図的に置かれた副葬品なのか。

    土器と人骨は完全に同時代なのか。

    周囲のキャッサバ畑とは、どのような時間関係にあるのか。

    さらに調査範囲が広がれば、ほかの墓が見つかる可能性もある。

    一人だけが特殊な姿勢で葬られたのか。

    同じ姿勢の人物が複数並ぶのか。

    通常の仰向け葬と混在しているのか。

    単独の特殊墓なのか、墓地全体の慣習なのかによって、解釈は大きく変わる。





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    ↑これもウスルタンの事例、美しいぜ!( ・Д・)(「THE MET」の収蔵品画像より転載)


    📚 一体の人骨が、古い研究を問い直す

    チャルチュアパの33人が発見されたのは、1970年代である。

    当時の研究は、発見現場で骨を観察し、姿勢、性別、年齢を記録することを中心としていた。

    現在では放射性炭素年代、DNA、安定同位体、顕微鏡による切創分析、三次元記録など、利用できる方法が増えている。

    今回の人骨を新しい方法で調べることで、将来的にはチャルチュアパ資料も再検討されるかもしれない。

    本当に外来の戦争捕虜だったのか。

    どの地域で育ったのか。

    33人は同じ集団から来たのか。

    異なる建築段階で選ばれた人々に共通点があるのか。

    新発見は、それ単独で歴史を書き換えるだけではない。

    過去に掘られ、博物館へ保管されている資料へ、新しい質問を投げかける役割も持つ。


    🌋 灰の下で、死者と畑が同じ時間を待っていた

    約3000年前、一人の人間が地面へ葬られた。

    顔は下を向いていた。

    傍らには、小さな海亀の器が置かれていた。

    近くでは、人々が土を盛り、キャッサバを植えていた。

    やがて火山が噴火した。

    灰が降り、墓と畑を覆った。

    その上で別の世代が暮らし、再び土地を耕した。

    さらに数百年後、イロパンゴの巨大噴火が別の灰を積もらせた。

    墓の存在は忘れられ、土地は現代都市の一部となった。

    そして2026年、発掘坑の底で人骨が再び姿を現した。

    この人物が、生贄だった可能性はある。

    チャルチュアパで後に行われた集団的人身供犠へつながる、古い儀礼の証拠かもしれない。

    けれども、今はまだそう言い切れない。

    うつ伏せの姿勢は、死者の身分を表したのかもしれない。

    共同体から外された人物だったのかもしれない。

    あるいは、この地域では当時、それほど異常ではない埋葬方法だった可能性さえある。

    考古学で大切なのは、強い言葉へ飛び付くことではない。


    骨の傷。

    関節の位置。

    灰の上下。

    土器の年代。

    畑との重なり。

    一見地味な証拠を積み上げて、最も無理のない物語へ近づくことである。

    「最古の生贄」という答えが出るかもしれない。

    まったく別の答えが出るかもしれない。

    それでも、火山灰の下で約3000年待ち続けたこの人物は、エルサルバドルの古代史が、巨大な神殿や有名な王だけではできていないことを教えてくれる。

    一人の死者。

    一個の海亀。

    一本のキャッサバの畝。

    その小さな組み合わせが、メソアメリカにおける農耕、葬送、暴力、火山災害の歴史を、もう一度考え直させようとしているのだ!( ・Д・)



    なにはともあれ……

    私も研究したい気持ちが強くなったぜ!( ・Д・)








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    2026ねん 7がつ15にち(すいよーび、くもり)

    昨晩も5km走って元気!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    arukemaya_y806

    ↑完全な数式ってなんなのかね!?( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは

    「グアテマラのシュルトゥン遺跡で、約1200年前の壁面文字から、マヤの天文学者・数学者とみられる人物の名前が初めて特定されたぞ! しかも、その名前は“完全な数式”のような暦算・天文計算の末尾に書かれていたらしいぞ!( ・Д・)」

    ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに


    これは、かなり面白い。

    舞台は、グアテマラ北東部ペテン県にある古典期マヤ都市、シュルトゥン。

    サン・バルトロ遺跡の近くにあり、現在はサン・バルトロ=シュルトゥン地域考古学プロジェクトのもとで調査が続けられている地域である。

    今回話題になっているのは、シュルトゥン遺跡の建物10K-2。

    ここには、王、書記、専門家たちの姿や、暦・天文計算に関わる小さな文字列が描かれた部屋がある。


    その壁面に残された「Text 19」と呼ばれる小さな文字列を詳しく調べたところ、最後に、

    che-he-na

    つまり、

    「かく語る」「そう言う」

    のような引用・帰属の表現があり、その後に、

    Sak Tahn Waax

    という個人名が続くことがわかった。

    訳せば、

    「白い胸のキツネ」

    である。

    いや、名前がかっこいい( ・Д・)

    そして、この名前は単なる落書きの署名ではない。

    その直前にあるのは、260日暦、365日太陽年、金星周期、火星周期などを結びつける、かなり高度な暦算・天文計算だった。

    つまり、マヤ世界で初めて、天文・数学的な仕事に個人名が直接結びついた可能性があるのだ。


    🗺️ サン・バルトロとシュルトゥンはどう関係するのか

    まず、場所を整理しておきたい。

    今回の発見地点は、正確にはシュルトゥン遺跡である。

    ただし、調査プロジェクトとしては、サン・バルトロ=シュルトゥン地域考古学プロジェクトの一部である。

    サン・バルトロは、先古典期後期の美しい壁画で有名な遺跡である。

    マヤ最古級の文字や、神話的な壁画で知られている。

    一方、シュルトゥンは、より大きな古典期マヤ都市である。

    古くは20世紀初頭に知られていたが、長いあいだ本格的な調査は限られていた。

    近年の調査によって、王朝、都市構造、壁画、暦算、書記活動が少しずつ明らかになってきた。

    つまり、サン・バルトロは先古典期の神話的・王権的世界を見せる遺跡。

    シュルトゥンは古典期の都市社会と知的活動を見せる遺跡。

    この二つが、同じ地域プロジェクトの中でつながっているのである。


    arukemaya_y808
    ↑シュルトゥンの位置!( ・Д・)(Rossi et al. 2026の図(fig. no.なし)より転載)


    🏛️ シュルトゥンとはどんな都市だったのか

    シュルトゥンは、グアテマラ北東部のマヤ低地にある古典期都市である。

    有名なティカルからも比較的近い。

    この地域は、古典期マヤの政治的・軍事的・儀礼的ネットワークの中で、非常に重要な場所だった。

    王たちは石碑を建てる。

    戦争や同盟を行う。

    神々や祖先と結びつく儀礼を行う。

    暦を読み、時間を整え、王権を宇宙の秩序に接続する。

    そうした古典期マヤ世界の中で、シュルトゥンもまた一つの都市国家として機能していた。

    特に7世紀から9世紀は、マヤ低地の都市王朝が強く動きながら、同時に大きな政治的変化へ向かっていく時代である。

    今回の壁面文字が関わる8世紀後半は、まさにその激動期にあたる。


    🏠 建物10K-2は、ただの部屋ではなかった

    今回の舞台となる建物10K-2は、シュルトゥンの住宅地区にある小さな部屋である。

    しかし、ただの住居ではない。

    壁には人物像が描かれている。

    王の前で儀礼や書記活動に関わる人物たちが描かれている。

    さらに、壁のあちこちに小さな文字や数字が書かれている。

    これらは、普通の王碑文のように大きく整えられた公式記念碑ではない。

    むしろ、作業メモに近い。

    暦の計算。

    天体周期の計算。

    数字の配列。

    補助的な注記。

    そうしたものが壁に書かれている。

    まるで、現代の研究室や数学者のオフィスにあるホワイトボードのようである。

    もちろん、実際にはマヤの部屋であり、ホワイトボードではない。

    でも、壁に計算を書き、検討し、整理していたように見える点が非常に面白い。

    ここは、古典期マヤの知的作業の現場だった可能性がある。


    📚 マヤの本はほとんど残っていない

    この発見が重要なのは、マヤの本がほとんど残っていないからである。

    古代マヤには、樹皮紙で作られた折本、つまりコデックスがあった。

    そこには暦、神々、天文、儀礼、占い、歴史などが記されていた。

    しかし、スペイン植民地化以降、多くのマヤの本は失われた。

    現存するマヤ・コデックスは非常に少ない。

    ドレスデン絵文書、マドリード絵文書、パリ絵文書、そしてメキシコ・マヤ・コデックスなどが知られるが、いずれも後古典期以降の資料である。

    つまり、古典期マヤの書物文化そのものは、ほとんど直接残っていない。

    だからこそ、シュルトゥン10K-2の壁面文字は重要である。

    紙の本ではない。

    しかし、そこにはコデックスに似た暦・天文計算が壁に書かれている。

    失われた古典期マヤの本作りや知識生産を、壁が代わりに見せてくれているのである。



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    ↑こんな感じの壁画!( ・Д・)(Rossi et al. 2026のFigure 1.より転載)


    🌙 2012年、最古級の天文表として注目された

    シュルトゥン10K-2は、今回いきなり有名になったわけではない。

    すでに2012年に大きな注目を集めている。

    そのとき報告されたのは、壁面に描かれた古典期マヤの暦・天文表である。

    月の周期に関わる表。

    金星や火星に関わる可能性のある数表。

    非常に大きな日数計算。

    こうしたものが、部屋の壁に書かれていた。

    それまで、マヤの天文表といえば、後古典期のドレスデン絵文書などが有名だった。

    しかしシュルトゥンの発見によって、古典期にもすでに高度な天文計算が行われていたことが、壁面資料として見えてきた。

    これは大きかった。

    シュルトゥン10K-2は、古典期マヤの天文学者・暦算専門家たちの作業場のように見える部屋だったのである。


    🧑‍🏫 王だけでなく、専門家がいた

    マヤ碑文研究では、王の名前や戦争、儀礼、即位、捕虜、神々の話がよく出てくる。

    それは当然である。

    石碑や建造物の碑文は、王権を示すための公式記録であることが多い。

    しかし、実際の社会は王だけで動いていたわけではない。

    王の背後には、書記がいる。

    絵師がいる。

    暦算専門家がいる。

    儀礼専門家がいる。

    天体や暦を読み、王の行為を宇宙の秩序に接続する人びとがいた。

    今回の発見が面白いのは、まさにそこだ。

    王の名前ではない。

    戦争の勝利者でもない。

    暦と天文計算に関わる人物の名前が、壁面の計算文に結びついている。

    これは、マヤ社会の知的専門家を、初めて個人名としてかなり具体的に見せてくれる資料なのである。


    🦊 その名はサク・ターン・ワーシュ

    今回特定された人物名は、

    Sak Tahn Waax

    である。

    日本語で書くなら、

    サク・ターン・ワーシュ

    くらいが近いだろう。

    意味は、

    「白い胸のキツネ」

    とされる。

    この名前は、Text 19の最後に現れる。

    直前には、

    cheheen

    つまり、

    「そう言う」「かく語る」

    のような表現がある。

    そのため研究者たちは、この部分を、

    「……そうサク・ターン・ワーシュは言う」

    あるいは、

    「……サク・ターン・ワーシュによる」

    のような帰属表現として解釈している。

    つまり、この計算文がサク・ターン・ワーシュ本人の作業だったのか、あるいは後の書記が彼の計算を引用したのかは、まだ完全には決められない。

    でも、いずれにしても、数学的・天文学的な仕事が個人名に結びつけられている。

    ここが非常に重要である。


    arukemaya_y807
    ↑これが彼の名前!( ・Д・)(Rossi et al. 2026のFigure 5.より転載)


    ⚠️ 「天文学者・数学者」は現代の呼び方である

    ここで少し注意したい。

    サク・ターン・ワーシュが「天文学者」「数学者」と呼ばれているが、これは現代の説明用語である。

    古典期マヤの人びとが、現代の大学のように、

    「私は天文学者です」
    「私は数学者です」

    と名乗っていたわけではない。

    マヤ社会では、暦、神々、王権、儀礼、天体、占い、政治が深く結びついていた。

    だから、この人物は現代的な意味での科学者というより、

    暦算専門家。
    天体周期を読む人。
    書記。
    儀礼に関わる知識人。
    王権を時間の秩序に接続する専門家。

    そう考える方がよい。

    それでも、現代の読者にわかりやすく言えば、彼はマヤの天文学者・数学者だったと言える。

    ただし、その中身は、現代の理系研究者とはかなり違う。


    🧮 では「完全な数式」とは何なのか

    ここが今回のいちばん気になるところである。

    「完全な数式」と聞くと、私たちは現代数学の式を思い浮かべる。

    たとえば、

    x + y = z

    とか、

    E = mc²

    のようなものだ。

    でも、今回のText 19はそういう数式ではない。

    マヤ文字で書かれた、暦の日付と日数の連鎖である。

    つまり、

    ある日付から、
    何日進み、
    次の日付に到達し、
    さらに何日進み、
    また次の日付に到達し、
    最終的に大きな周期を完成させる。

    そういう形をしている。

    マヤ碑文研究でいう「距離数」、つまりDistance Numberを使った暦算である。

    だから、現代的な式ではなく、

    暦・天文周期を日数で束ねた計算文

    と考えるのがよい。


    📆 Text 19の骨格を簡単に言うと

    Text 19の骨格は、おおよそ次のようなものである。

    まず、ある暦日から始まる。

    そこから20日進む。

    次に260日進む。

    さらに1560日進む。

    最後に1080日進む。

    すると、全体で2920日になる。

    この2920日が重要である。

    なぜなら、

    2920日 = 365日 × 8

    であり、

    同時に、

    2920日 = 584日 × 5

    でもあるからだ。

    365日はマヤの太陽暦ハアブに対応する。

    584日は金星の会合周期に対応する。

    つまり2920日は、8太陽年であり、5金星周期でもある。

    太陽年と金星周期が、同じ数の中で再び合う。

    ここに、マヤ暦算の美しさがある。


    arukemaya_y810

    ↑前のローマの巻物もそうだけど画像解析技術はすごいね!( ・Д・)(Rossi et al. 2026のFigure 2.より転載)



    🔥 さらに火星も入ってくる

    Text 19がすごいのは、太陽年と金星だけではない。

    途中に1560日という間隔が入っている。

    これは、

    780日 × 2

    である。

    780日は、火星の会合周期に近い。

    つまり1560日は、火星周期2回分である。

    さらに、1560日は260日暦を6回分でもある。

    つまり、この一つの間隔の中に、火星と260日暦が重なっている。

    そして全体は2920日。

    金星5周期。

    太陽年8年。

    その中に、260日暦、20日単位、360日単位、火星周期が組み込まれている。

    これは単なる日付メモではない。

    複数の時間のリズムを、ひとつの計算文にまとめたものなのである。


    🧩 具体的にはどんな並びなのか

    研究論文の復元に従うと、Text 19はおおよそ次のような流れになる。

    4 Akbal 6 Muan
    そこから20日後、
    11 Akbal 6 Pax
    そこから260日後、
    11 Akbal 1 Zac
    そこから1560日後、
    11 Akbal 1 Pax
    そこから1080日後、
    12 Akbal 6 Muan

    そして最後に、

    「そう言う、サク・ターン・ワーシュ」

    と続く。

    もちろん、実際のマヤ文字はもっと複雑で、一部は欠けており、研究者による復元も含まれている。

    しかし、重要なのは、この流れ全体が2920日という大きな周期に収まっていることだ。

    この中に、20日、260日、360日、365日、584日、780日という複数の時間単位が組み込まれている。

    これが「完全な数式」と呼ばれる理由だと思う。


    📐 “完全”とはどういう意味か

    ここでいう「完全」は、少し注意が必要である。

    完全というのは、

    「全部が完全に保存されている」

    という意味ではない。

    実際には、Text 19には傷みや欠損がある。

    また、一部の日付や数は省略されており、研究者が暦の整合性から復元している。

    それでも、Text 19は、他の壁面メモよりも自己完結した構造を持っている。

    始まりがある。

    複数の間隔がある。

    終わりがある。

    合計2920日の大きな周期がある。

    そして、最後に個人名による帰属がある。

    つまり、これは単なる計算の断片ではなく、ひとつのまとまった計算文として読める。

    その意味で「完全な公式」「自己完結した式」と言えるのだろう。

    現代的な数式ではない。

    しかし、マヤ暦算の文法の中では、かなり美しく閉じた計算である。


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    ↑肉眼じゃよくわからんのにね!( ・Д・)(Rossi et al. 2026のFigure 3.より転載)


    🌞 260日暦と365日暦

    この計算を理解するには、マヤの暦を少し知る必要がある。

    マヤには複数の暦があった。

    有名なのが、260日のツォルキン。

    これは儀礼暦・祭祀暦として重要だった。

    20の日名と13の数字が組み合わさり、260日で一巡する。

    もう一つが365日のハアブ。

    これは太陽年に近い暦である。

    18か月×20日と、最後の5日からなる。

    260日暦と365日暦は同時に動く。

    そして、同じ組み合わせの日付が再び現れるまでに52年、つまり18,980日かかる。

    これがカレンダー・ラウンドである。

    マヤの暦は、一つの時計ではない。

    いくつもの歯車が同時に回る仕組みだった。


    ♀️ 金星はなぜ重要だったのか

    マヤ天文学で特に重要な天体の一つが金星である。

    金星は、明けの明星、宵の明星として非常に目立つ。

    空に現れ、消え、また現れる。

    その周期は、戦争や王権、儀礼と関係づけられることがあった。

    ドレスデン絵文書にも、金星表が残されている。

    金星の会合周期は約584日。

    Text 19の全体である2920日は、その5倍である。

    つまり、サク・ターン・ワーシュに帰属された計算は、金星の動きと太陽年をきれいに接続している。

    金星の空のリズムと、人間社会の暦のリズムを結びつける。

    それが、この計算の大きな意味の一つである。


    ♂️ 火星も見ていたマヤの暦算専門家たち

    さらに面白いのが火星である。

    火星は金星ほど単純ではない。

    動きが複雑に見える。

    明るさも変わる。

    空の中での位置も大きく変わる。

    それでもマヤの暦算専門家たちは、火星の周期にも関心を持っていた。

    火星の会合周期は約780日。

    Text 19では、その2倍である1560日が重要な間隔として現れる。

    これは、シュルトゥンの専門家たちが火星周期を理解し、それを他の暦周期と組み合わせていたことを示す。

    しかも、1560日は260日暦6回分でもある。

    つまり、火星と祭祀暦が重なる。

    マヤの時間世界では、天体と暦と儀礼が分離していなかった。

    それらは一つの複雑なシステムとして扱われていたのである。


    🧠 これは占いか、科学か

    ここで現代人は、

    「これは科学なのか、占いなのか」

    と考えたくなる。

    でも、古典期マヤの世界では、その区別自体が現代的すぎるのだと思う。

    天体を観測する。

    周期を計算する。

    暦に合わせる。

    王の儀礼の日を決める。

    戦争や即位や奉献のタイミングを考える。

    神々や祖先との関係を整える。

    これらは分かれていない。

    つまり、マヤの天文学は、純粋な自然科学ではなく、社会と宇宙を結びつける知識体系だった。

    だからこそ、天文計算は政治的にも重要だった。

    時間を読むことは、王権を支えることでもあった。


    arukemaya_y812

    ↑見つかったマヤ文字列!( ・Д・)(Rossi et al. 2026のFigure 4.より転載)

    👑 王のための知識だったのか

    10K-2の壁画には、王や専門家たちの姿が描かれている。

    シュルトゥンの王ヤシュ・ウェネル・チャン・キニチに関わる新年儀礼の場面も知られている。

    つまり、この部屋の知識は、ただ専門家たちが趣味で計算していたものではない可能性が高い。

    王権と関係していた。

    暦算専門家たちは、王の儀礼、暦、天体、政治的時間を支えていたのだろう。

    マヤの王は、ただ人間の世界を支配するだけではない。

    神々、祖先、暦、宇宙秩序と結びつく存在である。

    その王権を成立させるためには、時間の専門家が必要だった。

    サク・ターン・ワーシュは、そうした知的・儀礼的専門家の一人だったのかもしれない。


    🖌️ 誰が書いたのかはまだ完全にはわからない

    ただし、ここも慎重に見たい。

    Text 19の最後にサク・ターン・ワーシュの名前がある。

    だからといって、彼本人が筆を持って壁に書いたと断定できるわけではない。

    可能性はいくつかある。

    彼本人が計算し、書いた。

    彼本人が計算し、別の書記が書いた。

    後の書記が、彼の計算を引用して書いた。

    あるいは、サク・ターン・ワーシュは有名な数学・天文専門家で、その名を権威として記した。

    現時点では、完全には決められない。

    しかし、どの場合でも重要性は変わらない。

    なぜなら、数学的・天文学的な計算が、個人名に帰属されているからである。

    これは、マヤ文字資料の中で非常に珍しい。


    🧑‍🎨 壁には複数の手があった

    10K-2の壁面文字には、複数の書き手が関わっていた可能性がある。

    うまく整った文字もあれば、より粗い文字もある。

    漆喰の重なりから、壁面が繰り返し使われたこともわかる。

    つまり、この部屋は一度だけ美しく飾られて終わった空間ではない。

    何度も書かれ、消され、重ねられ、使われた可能性がある。

    そこには、学びや訓練の場のような性格もあったかもしれない。

    熟練者の文字。

    見習いの文字。

    計算の下書き。

    完成した式。

    そうしたものが同じ壁に残っている。

    これは、古典期マヤの教育や専門知識の伝達を考えるうえでも非常に重要である。


    arukemaya_y813

    ↑さっきの文字列の中身!( ・Д・)(Rossi et al. 2026のTable 1.より転載)


    📖 ドレスデン絵文書との関係

    マヤ天文学で欠かせないのが、ドレスデン絵文書である。

    後古典期のマヤ絵文書で、金星表や月食表などが含まれている。

    長いあいだ、マヤ天文学を考える中心資料の一つだった。

    しかし、ドレスデン絵文書は古典期より後の資料である。

    そのため、古典期にどのような天文計算が行われていたのかは、石碑や断片的な碑文から考えるしかなかった。

    シュルトゥン10K-2は、そこに大きな窓を開けた。

    壁に描かれた暦・天文表は、後のコデックスに見られる計算伝統の古典期の姿を示している可能性がある。

    今回のText 19も、ドレスデン絵文書の火星・金星・月の表と直接同じではないが、同じような知的世界に属している。

    つまり、マヤの天文知識は、後古典期の本だけで突然現れたのではない。

    古典期の宮廷や専門家集団の中で、すでに複雑に発展していたのだ。


    📜 なぜ壁に書いたのか

    なぜ、こんな計算が壁に書かれていたのか。

    これも面白い問題である。

    紙の本に書けばよいではないか。

    そう思うかもしれない。

    でも、壁には壁の意味がある。

    作業中の計算を共有するため。

    教育や訓練のため。

    儀礼空間として見せるため。

    王や専門家集団の権威を示すため。

    コデックス作成の下書きや参照用として使うため。

    いろいろな可能性がある。

    10K-2の壁面文字は、まるで本の中身が壁に広がったようにも見える。

    あるいは、紙の本を作る専門家たちが、壁を使って計算していたのかもしれない。

    この部屋は、マヤの知識生産の現場だった可能性が高い。


    🧮 マヤ数学は、抽象だけではなく時間の実務だった

    マヤ数学というと、ゼロの概念や二十進法がよく紹介される。

    それはもちろん重要である。

    でも、今回のText 19が示すのは、もっと実務的な数学である。

    日数を数える。

    周期を重ねる。

    天体の動きを暦に合わせる。

    複数の周期が再び合う地点を探す。

    これらは、抽象数学だけではない。

    社会を動かすための時間管理である。

    いつ儀礼を行うのか。

    いつ王が記念碑を建てるのか。

    いつ神々と関わる日と考えるのか。

    いつ天体現象が意味を持つのか。

    こうした問いに答えるための数学である。

    マヤの数学は、時間を扱う社会技術でもあった。


    🌌 数式というより、宇宙の時間を束ねる装置

    だから、Text 19を「数式」と呼ぶなら、少し詩的に言えば、

    宇宙の時間を束ねる装置

    である。

    20日単位。

    260日暦。

    360日単位。

    365日太陽年。

    584日金星周期。

    780日火星周期。

    これらが、2920日という枠の中で関係づけられる。

    人間の暦と、天体のリズムが合わされる。

    しかも、その計算の最後に個人名がある。

    つまり、サク・ターン・ワーシュは、時間をただ数えたのではない。

    複数の時間を美しく重ね、意味ある形にまとめた。

    それが、この発見のすごさだと思う。


    🧑‍🔬 研究史として何が新しいのか

    今回の発見は、完全にゼロから出てきたものではない。

    研究史の積み重ねの上にある。

    まず、サン・バルトロの壁画発見によって、この地域の先古典期マヤ王権・神話・文字研究が大きく進んだ。

    次に、シュルトゥンの本格調査によって、古典期都市としての重要性が見えてきた。

    2012年には、10K-2の壁面天文表が報告され、古典期マヤの暦算・天文学の現場として注目された。

    2015年ごろには、10K-2がコデックス制作や専門知識の政治性と関わる場所として議論された。

    そして2026年、Text 19の再検討によって、サク・ターン・ワーシュという名前が、数学的・天文学的な計算と結びつけられた。

    つまり、これは一発の派手な発見ではない。

    20年以上の調査、保存、撮影、碑文解読、画像処理、比較研究の積み重ねから出てきた成果である。




    🔍 画像処理が文字を見せた

    Text 19は、肉眼で簡単に読める状態ではなかった。

    かなり小さい。

    かすれている。

    欠けている。

    部分的に損傷している。

    そこで研究者たちは、写真、スキャン、マルチスペクトル画像、デジタル画像処理を使って、文字の輪郭を復元した。

    見えにくい黒い線を浮かび上がらせる。

    色調を変える。

    損傷部分を比較する。

    類似する字形と照らし合わせる。

    そうして、11個の文字ブロックの構造が読めるようになった。

    考古学は、土を掘るだけではない。

    いまは、壁のかすかな筆跡をデジタル技術で読み直す時代でもある。

    今回の発見は、マヤ碑文研究とデジタル画像処理の協力によって生まれた成果でもある。


    ⚠️ それでも慎重に見るべき点

    今回の発見は非常に重要だが、いくつか慎重に見るべき点もある。

    まず、サク・ターン・ワーシュが本人の署名なのか、後の書記による帰属なのかは完全には決まっていない。

    次に、Text 19には欠損や省略があり、研究者の復元を含む。

    また、「数学者」「天文学者」という呼び方は現代的な説明であって、古典期マヤの職名そのものではない。

    さらに、「完全な数式」といっても、現代数学の方程式ではない。

    これは、暦日と距離数によるマヤ式の暦算・天文計算である。

    このあたりを押さえておかないと、少し誤解しやすい。

    でも、慎重に見てもなお、この発見は大きい。

    マヤの知的専門家の名前が、初めて具体的に見えてきたからである。


    ✨ おわりに

    今回のシュルトゥンText 19の発見は、非常に美しい。

    大きな神殿でもない。

    巨大な石碑でもない。

    王の戦勝記録でもない。

    壁の片隅に残された、小さな暦算の文字列である。

    しかし、その中には、マヤの宇宙が詰まっている。

    260日暦。

    365日太陽年。

    金星。

    火星。

    20日単位。

    360日単位。

    2920日という大きな周期。

    そして最後に、

    「そう言う、サク・ターン・ワーシュ」

    という個人名。

    これは、古典期マヤの知の現場を一気に人間らしくしてくれる。

    これまで、マヤ天文学はすごいと言われてきた。

    マヤの暦は精密だと言われてきた。

    でも、それを作った人びとの名前は、ほとんど見えなかった。

    王の名は残る。

    神の名は残る。

    戦争や儀礼の記録は残る。

    しかし、計算した人、暦を組み立てた人、天体の周期を束ねた人の名前は、歴史の奥に隠れていた。


    今回、その一人が姿を現した。

    サク・ターン・ワーシュ。

    白い胸のキツネ。

    彼が本当に自分で壁に書いたのか、あるいは誰かが彼の仕事を引用したのかは、まだわからない。

    それでも、彼の名は、古典期マヤの数学的・天文学的な仕事に結びついた。

    これはすごい。

    「数式」と呼ばれているものも、現代的な方程式ではない。

    でも、だからこそ面白い。

    それは、マヤの時間世界を束ねる計算文だった。

    太陽と金星と火星と儀礼暦を、2920日の中で結びつける知的な構造だった。

    マヤの天文学は、空を眺めるだけではなかった。

    時間を数え、重ね、王権と儀礼と社会の中に組み込む知識だった。

    そして、その知識を担った人間がいた。

    今回の発見は、マヤ文明の偉大さを抽象的に語るだけでなく、

    その知を作った一人の名前

    を私たちに返してくれたのである。

    いやあ、これは本当に良い発見だね。

    マヤ碑文研究、まだまだ壁の片隅から世界を変えてくるぞ( ・Д・)




    なにはともあれ……


    技術革新によってマヤの碑文情報も増えていくといいな!( ・Д・)









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    2026ねん 6がつ29にち(げつよーび、ちょいあめ)

    市民講座以外、土日しっかりと休んでしまった!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    arukemaya_y740

    ↑マヤの記事は緊張するけど、今回気を遣ってない気がする!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは「メキシコ・カンペチェ州のマヤ遺跡エル・パルマルで、マヤ低地最古とみられる長期暦の日付が確認されたぞ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに


    確認された可能性が高い日付は、

    長期暦 8.7.1.0.0

    西暦に直すと、

    180年8月31日

    である。


    これまで、マヤ低地で最古の長期暦をもつ石碑としてよく知られていたのは、グアテマラのティカル石碑29だった。

    その日付は西暦292年。

    つまり今回の発見は、それより112年も古いことになる。


    これは、かなり大きい。

    でも同時に、マヤ考古学的にはちょっと面倒くさい( ・Д・)


    なぜなら、マヤ文明の「古典期」という時代区分そのものが、長期暦をもつ石碑と深く関係しているからだ。

    では、西暦180年の長期暦がマヤ低地で見つかったら、古典期は180年から始まるのか。

    それとも、従来通り250年ごろからでよいのか。

    あるいは、原古典期の中に吸収して考えるべきなのか。

    今回は、この面倒だけど面白い問題を見ていきたい。


    🏛️ まず、エル・パルマルとはどこなのか

    エル・パルマルは、メキシコ南東部、カンペチェ州にある古代マヤ都市である。

    現在のメキシコ南部からグアテマラ北部に広がるマヤ低地の一角に位置する。

    この地域は、古典期マヤの王国や都市国家が数多く展開した場所である。

    ティカル。
    カラクムル。
    ナランホ。
    ヤシュハ。
    エル・ミラドール。
    ベカン。
    そしてエル・パルマル。

    こうした都市は、それぞれ独自の王朝、神話、政治関係、戦争、同盟、祭祀を持っていた。

    つまり、マヤ文明といっても、ひとつの統一国家ではない。

    多くの都市国家が並び立つ世界だった。

    だから、マヤ文明の始まりや発展を考えるときも、「マヤ全体が一斉に同じ段階へ進んだ」と考えると危ない。

    都市ごとに、国家形成の時期も、王権の形も、石碑建立のタイミングも違っていた可能性が高い。

    今回の発見は、まさにそのことを思い出させてくれる。






    📜 長期暦とは何か

    今回の主役は、長期暦である。

    長期暦は、マヤ碑文を読むうえで非常に重要な暦である。

    ざっくり言えば、神話的な起点からの日数を数え続ける暦だ。

    だから、長期暦が石碑に刻まれていると、現代の西暦に換算して、その出来事がいつ起きたのかをかなり正確に考えることができる。

    これは考古学的には非常にありがたい。

    土器型式や建築段階だけではなく、碑文に具体的な日付が出る。


    王が即位した。
    戦争があった。
    儀礼が行われた。
    石碑が建立された。

    そうした出来事を、暦の上に置くことができる。

    だから長期暦は、単なるカレンダーではない。

    歴史を記録する道具であり、王権を示す道具であり、時間そのものを政治化する道具だった。

    王は、自分の行為を宇宙の時間の中に刻む。

    これがマヤの石碑文化のすごいところである。


    🗿 石碑は、王の広告塔でもあった

    マヤの石碑、つまりステラは、ただの記念碑ではない。

    そこには王の姿が彫られる。

    豪華な衣装をまとい、神や祖先と関係し、儀礼を行い、戦争や即位を記録する。

    そして、その横には長期暦や暦日、称号、出来事が刻まれる。

    つまり石碑は、王の広告塔であり、歴史記録であり、神話的な演出装置でもあった。


    現代風に言えば、

    「私はこの日に、この儀礼を行った」
    「私はこの王朝の正当な支配者である」
    「私の権力は、神聖な時間の中に位置づけられている」

    というメッセージを、公共空間に立てるものだった。

    だから、長期暦をもつ石碑の登場は、単なる文字文化の発展ではない。

    王権の発展でもある。

    王が時間を使い始めた、ということなのだ。


    arukemaya_y742





    🔍 今回の発見は何が新しいのか

    今回調査されたのは、エル・パルマルの石碑20、45、46である。

    このうち特に重要なのが、石碑46だ。

    石碑46は以前から知られていたが、風化が激しく、碑文の読み取りがとても難しかった。

    そこで研究チームは、フォトグラメトリーと高解像度3Dスキャンを組み合わせ、石碑表面のわずかな凹凸をデジタルモデル化した。

    その結果、肉眼では読み取りにくかった文字の輪郭が見えやすくなった。

    そして、石碑46に長期暦 8.7.1.0.0 が刻まれていた可能性が高いことが示された。

    西暦180年8月31日である。


    ただし、ここで大事なのは、「完全に疑いなく確定」というより、「現時点で最も妥当な読み」ということだ。

    碑文はかなり傷んでいる。

    研究者たちも、別の読みの可能性を完全には排除していない。

    それでも、この石碑がマヤ低地における非常に早い長期暦の記録であることは、かなり重要である。


    🐆 王は神の頭を抱えていた?

    石碑46は、日付だけでなく図像も面白い。

    そこには、支配者が描かれていたとされる。

    しかも、その人物は、冥界と関係するジャガー神の頭部のようなものを抱えている可能性がある。

    これは、かなりマヤっぽい。

    マヤの王は、ただ政治的な支配者だったわけではない。

    神々と関わり、祖先と関わり、儀礼を行い、宇宙の秩序を保つ存在でもあった。

    王が神の頭部を抱える姿は、その王が神聖な力と関係していることを示す可能性がある。

    つまり、石碑46は単に「古い日付がありました」という資料ではない。

    王が神聖な儀礼を行い、その出来事を長期暦で記録した可能性がある。

    ここが重要である。

    長期暦は、ただの数字ではない。

    王の身体、儀礼、神話、権力と結びついていたのだ。


    👑 西暦131年の即位も見えてくる?

    さらに興味深いのは、石碑46の碑文が、180年の出来事だけではなく、それ以前の王権継承にも関わる可能性があることだ。

    研究では、エル・パルマルの王アハウ・カアル・ウバーが、西暦131年に即位した可能性が示されている。

    そして、その49年後に、石碑46が建立され、王が儀礼を行った可能性がある。

    もしこれが正しければ、エル・パルマルでは2世紀前半にはすでに王権が成立していたことになる。

    これはかなり早い。

    しかも、後の石碑20や石碑45も、エル・パルマル王朝の継承や称号の連続性を示している。

    つまり、エル・パルマルは一時的に古い日付を刻んだだけの場所ではない。

    長く続く王朝の歴史を持っていた可能性がある。

    西暦180年の石碑は、その始まり近くにある記録なのかもしれない。


    arukemaya_y743



    🧩 ここで古典期の定義が面倒になる

    さて、ここからが面倒な話である。

    マヤ考古学では、古典期はだいたい西暦250年から900~1000年ごろとされる。

    この時代は、マヤ低地で長期暦をもつ石碑が盛んに建立され、都市国家が発展し、王朝史が碑文に記録される時代である。

    つまり、かなり乱暴に言えば、

    マヤ低地で長期暦付きの石碑が本格的に建てられる時代

    が古典期なのである。


    そして、これまで古典期開始を考えるうえで重要だったのが、ティカル石碑29だった。

    ティカル石碑29の日付は西暦292年。

    そこから、古典期の開始を少し前倒しして、だいたい250年ごろとする考え方が使われてきた。

    ところが、今回エル・パルマル石碑46で西暦180年の長期暦が出てきた。

    では、古典期は180年から始まるのか。

    うーん、面倒である( ・Д・)


    🌀 古典期を180年開始にすればよいのか

    単純に考えるなら、こう言いたくなる。

    「最古の長期暦付き石碑が180年なら、古典期も180年開始でいいじゃん!」

    でも、話はそんなに簡単ではない。

    時代区分は、ひとつの発見で機械的に変えるものではない。

    古典期とは、単に最古の日付を示すラベルではない。

    都市国家の発展。
    王権の制度化。
    石碑建立の広がり。
    碑文記録の一般化。
    大規模建築の展開。
    政治的ネットワークの形成。

    こうした複数の現象をまとめるための時代区分である。

    だから、エル・パルマルで180年の長期暦が見つかったとしても、それだけでマヤ低地全体が古典期に入ったとは言いにくい。

    むしろ、こう考えた方がよいかもしれない。

    西暦180年のエル・パルマルは、古典期的な王権表現をかなり早く始めていた。

    しかし、それがマヤ低地全体に広がるのは、もう少し後だった。

    つまり、古典期的なものは、ある日突然始まったのではない。

    原古典期の中で、少しずつ準備され、地域ごとに異なる速度で現れたのだ。


    🏺 原古典期に吸収するのが現実的かもしれない

    今回の発見をどう整理するか。

    個人的には、原古典期(1~250 CE)、あるいは終末先古典期から古典期初頭への連続的変化の中に位置づけるのが、現実的な理解ではないかと思う。

    つまり、

    「古典期の開始が180年に早まった!」

    と単純に言うより、

    「マヤ低地の一部では、原古典期の段階ですでに古典期的な王権表現と長期暦の使用が始まっていた」

    と考える方がよい。

    この方が、マヤの実態に合っていると思う。


    そもそも、古代マヤにはたくさんの都市国家がある。

    それぞれが同じタイミングで国家になったわけではない。

    それぞれが同じタイミングで滅んだわけでもない。

    ティカルの歴史。
    カラクムルの歴史。
    コパンの歴史。
    パレンケの歴史。
    エル・パルマルの歴史。

    それぞれ違う。

    だから、国家成立期もバラバラでよい。

    むしろ、バラバラである方が自然だ。


    arukemaya_y744



    📌 もっと古い長期暦はある、でも問題はそこではない

    ここで注意したいのは、今回の発見が「メソアメリカ全体で最古の長期暦」ではないということだ。

    もっと古い長期暦の例や候補は、マヤ南部高地、太平洋岸域、あるいはマヤ外のメソアメリカ世界にもある。

    だから、今回の発見を、

    「マヤ文明そのものにおける長期暦の最初」

    と単純に言うと少し危ない。

    (そもそもマヤ文明の定義も面倒である( ・Д・))


    今回の重要性は、あくまでマヤ低地にある。

    マヤ低地で、王権の出来事と結びついた長期暦が、西暦180年までさかのぼる可能性が出た。

    ここが問題なのだ。

    なぜなら、古典期マヤの中心的特徴は、まさにマヤ低地の王たちが長期暦を使って自分たちの歴史を石碑に刻むことだからである。

    つまり、今回の発見は、長期暦の起源そのものよりも、

    マヤ低地の王権が、いつから長期暦を政治的に使い始めたのか

    という問題に関わる。

    ここが重要である。


    ⏳ 歴史は、きれいな線では区切れない

    時代区分は便利である。

    先古典期。
    原古典期。
    古典期。
    後古典期。

    こう分けると、説明しやすい。

    でも、現実の歴史は、そんなにきれいに線で区切れるわけではない。


    多くの変化は連続的である。

    王権は少しずつ制度化する。
    文字は少しずつ使われる。
    石碑は少しずつ政治化する。
    都市は少しずつ拡大する。
    儀礼は少しずつ変化する。

    そして、ある地域では早く進み、別の地域では遅く進む。

    その結果、後から見ると「古典期の始まり」のような境界があるように見える。


    でも、実際にはその境界の前後に、たくさんの中間的な状態がある。

    エル・パルマル石碑46は、まさにその中間的な状態を見せているのかもしれない。

    まだ古典期と呼ぶには早い。
    でも、すでに古典期的な王権表現がある。

    そういう、境界の上にある資料である。


    👀 ティカル中心史観から少し離れる

    今回の発見は、ティカル中心の見方を少し揺さぶる。

    もちろん、ティカルはものすごく重要である。

    マヤ低地最大級の都市であり、古典期マヤを考えるうえで外せない。

    ティカル石碑29が、古典期開始を考えるうえで重要だったのも当然である。

    でも、ティカルが最初だったとは限らない。

    ティカルがすべての基準になるわけでもない。

    エル・パルマルのような都市が、ティカルより前に長期暦を使い、王権を表現していた可能性があるなら、マヤ低地の政治発展はもっと多中心的に考える必要がある。

    古典期マヤは、ひとつの中心から広がった文明ではない。

    複数の都市が、それぞれのタイミングで王権を発展させ、互いに影響し合いながら、マヤ低地全体の政治文化を作っていった。

    今回の発見は、その多中心性をよく示している。


    🧠 王はなぜ時間を使ったのか

    では、なぜ王は長期暦を使ったのか。

    これはとても重要な問題である。

    王が石碑に日付を刻むという行為は、ただの記録ではない。

    それは、自分の行為を宇宙の時間に接続することでもある。

    マヤの王は、儀礼を行う。

    神や祖先と関わる。

    政治的な権威を示す。

    そして、その出来事を長期暦に刻む。


    これは、

    「私の支配は一時的なものではない」
    「私の王権は、神聖な時間の中に位置づけられている」
    「この出来事は、忘れてよいものではなく、石に刻まれるべき歴史である」

    という主張でもある。

    つまり、長期暦は王権の道具だった。

    時間を記録することは、時間を支配することに近い。

    エル・パルマル石碑46は、その政治的な時間支配が、マヤ低地でかなり早く始まっていた可能性を示している。


    🌆 国家成立は、一斉には起こらない

    今回の発見を考えるうえで、もう一つ大事なのは、国家成立の地域差である。

    マヤ地域には多くの都市国家があった。

    だから、マヤ国家の成立も一斉ではないはずだ。

    ある都市では、早くから王権が制度化した。
    別の都市では、少し遅れて石碑文化が発達した。
    また別の都市では、巨大建築はあっても、長期暦碑文はまだ少ない。
    ある地域では、先古典期の大規模社会が崩れた後に、新しい王権が現れる。

    こうしたバラつきは、むしろ当然である。

    現代の研究では、マヤ文明を一枚岩のように見るよりも、都市ごとの発展史、地域ごとの政治動態、ネットワークの変化として見る必要がある。

    エル・パルマル石碑46は、その意味でとてもよい資料である。

    それは「古典期の開始日を変える資料」というより、「国家成立の速度が都市によって違ったことを示す資料」として重要なのだと思う。


    ⚠️ ただし、まだ慎重さは必要

    もちろん、今回の読みには慎重さも必要である。

    石碑46はかなり風化している。

    3Dスキャンによって見えやすくなったとはいえ、全ての文字が完全に明瞭なわけではない。

    研究者たちも、別の日付の可能性を完全には排除していない。

    また、日付が180年だとしても、それがマヤ低地全体の時代区分を即座に変えるわけではない。

    重要なのは、今回の発見を大げさにしすぎないことだ。

    「古典期が完全に書き換わった!」

    というより、

    「古典期的な王権表現が、従来考えられていたより早く、少なくとも一部地域で始まっていた可能性が強まった」

    くらいに見るのがよいと思う。

    その方が、研究としては誠実である。


    ✨ おわりに

    今回のエル・パルマル石碑46の発見は、かなり面白い。

    西暦180年の長期暦。

    マヤ低地最古級の日付。

    王の儀礼。

    ジャガー神の頭部。

    エル・パルマル王朝の長い歴史。

    そして、古典期の始まりをめぐる面倒な問題。

    単に「古い日付が見つかった!」というだけではない。

    この発見は、マヤ文明の時代区分そのものを考え直すきっかけになる。

    ただし、答えは単純ではない。

    古典期を180年開始にすれば解決、という話でもない。

    むしろ重要なのは、マヤ低地の各都市で、王権や長期暦や石碑文化が、異なるタイミングで発展していたことを認めることである。


    歴史は、教科書のようにきれいに区切れない。

    先古典期が終わった翌日に、古典期が始まるわけではない。

    社会は連続的に変化する。

    でも、その中で、ある都市が早く新しい政治文化を取り入れることがある。

    エル・パルマルは、その一例かもしれない。

    西暦180年。

    マヤ低地のどこかで、王はすでに時間を石に刻んでいた。

    それは、古典期の始まりを告げる鐘だったのか。

    それとも、原古典期の中で静かに生まれた、古典期的王権の先触れだったのか。

    どちらにしても、石碑46は、マヤ考古学を少しややこしく、そしてかなり面白くしてくれる資料である。

    こういう面倒くささこそ、考古学の醍醐味なんだよね( ・Д・)




    なにはともあれ……


    科学技術が進展してることだけは間違いないぜ!( ・Д・)






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    2026ねん 5がつ28にち(もくよーび、晴れ)
    1日が過ぎ去るのが早すぎる気がする!( ・Д・)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya_y676

    ↑久々にマヤ文明ネタだぜ!( ・Д・)





    今回の考古学・歴史ニュースは「マヤ文明の石板がアメリカからメキシコに返還されたのに、直後にグアテマラが“それ、うちの文化財では?”と所有権を主張したらしい! しかもこれ、ただの外交トラブルじゃなくて、古代マヤ世界そのものの複雑さまで見せてくるかも?( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに

    文化財返還の話って、ふつうは
    「盗まれたものが元の国へ戻る」
    で終わることが多いよね。


    でも今回の件は、そこがぜんぜん簡単じゃない。
    2026年4月中旬、ニューヨークで一枚のマヤ石灰岩製まぐさ石がアメリカからメキシコへ返還された。ところがその数時間後、この作品は実際にはグアテマラのペテン盆地に由来する可能性が高いとして、グアテマラ側が正式に返還を求める流れになったんだ。つまり今回は、「返還された」こと自体が終点じゃなく、「そもそもどこから来たのか」が再び問題になってしまったわけだね。


    しかも厄介なのは、この作品がただの無銘の石板ではないことだ。
    時代は古典期マヤ、だいたい西暦600〜900年ごろ。複雑な儀礼場面が彫られ、チェレウ・チャン・キニチという支配者に関わる図像と文字を持ち、さらにマユイという彫刻家の署名まで入っている。古代アメリカでも、作者の名前がここまではっきり残る作品はかなり珍しい。小さいニュースに見えて、中身はかなり大物なんだよね。


    🌿 まず、マヤ文明ってそもそも一枚岩じゃない

    ここ、かなり大事です。

    「マヤ文明」と聞くと、ついひとつの巨大国家みたいに思ってしまいがちだけど、実際にはそうではない。

    古典期マヤ世界は、いくつもの都市国家が並び立ち、同盟したり戦ったりしながら動いていた。地域によって王朝も美術もかなり違うし、ひとつの中心から全部を支配していたわけでもない。だから「マヤの文化財」と一口に言っても、それがどの都市国家圏に属するかで意味はかなり変わってくるんだよね。


    しかも今回の問題の舞台は、まさにその“境界”に近い場所だ。
    ウスマシンタ川流域は、古典期マヤの中でも彫刻表現がとくに洗練された地域として知られ、現在のメキシコとグアテマラの国境にまたがっている。つまり現代の国境線はずっと後のものだけれど、古代の王国圏はその両側に広がっていた。今回の返還騒動がややこしいのは、最初からこの地域自体が「どちらの側にもつながる世界」だったからなんだ。



    arukemaya_y677
    ↑ヤシュチランの位置!( ・Д・)(「Scherer et al. 2019」のFigure 1を加工)



    🏛️ その中でヤシュチランは、かなり強い王国だった

    今回メキシコ側が最初に想定したのは、チアパス州ヤシュチラン周辺の作品だという理解だね。
    ヤシュチランは古典期の重要なマヤ都市で、ウスマシンタ川南岸に位置し、王たちが多数の石造建築や彫刻を残したことで有名だ。とくに入口上部に据えられるまぐさ石の彫刻で知られ、王と王妃の儀礼、捕虜の提示、放血儀礼の場面などが精緻に刻まれている。要するにヤシュチランは、「まぐさ石文化がめちゃくちゃ強い都」なんだよね。


    しかもヤシュチランの王たちは、自分の支配圏をかなり広く外側へ伸ばしていたらしい。
    現在のグアテマラ側にも、ヤシュチラン王国に従うサハルたちの拠点や、ヤシュチラン風の彫刻を持つ遺跡が広がっていたことが分かっている。つまり「ヤシュチラン系の彫刻だから現代メキシコ側の出土」とは、実は簡単に言えないんだね。ここが今回の混乱の根っこでもある。



    🪟 そもそも“まぐさ石”って何なのか

    今回の遺物は、よく「石板」と言われるけれど、厳密には建物の出入口や窓の上に渡されるまぐさ石だ。
    マヤの王宮建築では、このまぐさ石が単なる構造材ではなく、政治儀礼や王権の記録を刻む最高のキャンバスになっていた。ヤシュチランがとくに有名なのも、建物の入口をくぐるたびに、王家の儀礼や血の儀式、戦争の成果を見るような空間が作られていたからなんだよね。


    だから今回の遺物も、単体の彫刻ではあるけれど、本来はどこかの建物の入口に組み込まれていたはずだ。
    つまりこれは、ただの鑑賞用オブジェではなく、もともとは王権建築の一部だった可能性が高い。
    ここを考えると、一枚の石でも、その背後に王宮、儀礼、都市国家の政治が全部ついてくる。かなり強い資料なんだよね。


    🌳 そして問題の作品は、もともと“ラクストゥニッチ”という謎の遺跡から来たらしい

    今回の遺物の話がややこしい最大の理由は、出土地が長年ちゃんと分かっていなかったことだ。
    1950年、探検家ダナ・ラムが北部グアテマラの熱帯林で「ラクストゥニッチ」と呼ぶ遺跡を記録した。ところが彼は、その正確な場所を残さなかった。その後、そこで見つかったまぐさ石群は略奪され、闇市場に流れ、いくつかは個人コレクションや美術館へ分散していったらしい。今回の作品も、その流れの中にあったと考えられている。


    ここがほんとうに痛いところなんだよね。
    発見された瞬間にちゃんと位置が記録されていれば、今ごろ「メキシコかグアテマラか」で揉める必要はなかったかもしれない。
    でも場所が消えたせいで、作品だけが一人歩きする。
    考古学って、物そのものも大事だけど、どこから出たか(考古学情報;地図上の空間情報、帰属建造物情報、出土状況等)が消えると一気に話が難しくなる。その典型みたいなケースなんだ。


    arukemaya_y678
    ↑ヤシュチランが川を越えてグアテマラ川にも広がってそうな図!( ・Д・)(「Scherer et al. 2019」のFigure 2を転載)



    ✍️ それでも近年は、「たぶんグアテマラ側では?」という見方がかなり強くなっていた

    近年の研究では、文献、探検記録、地形条件、作品の比較、政治的文脈を組み合わせて、ラクストゥニッチの位置をかなり絞り込もうとしてきた。
    その結果、作品群はウスマシンタ流域のごく限られた範囲、しかも現代国境でいえばグアテマラ側の小区域で作られた可能性が高い、という議論が積み上がってきている。今回グアテマラ文化省が、文献調査・比較研究・考古学者との協議をもとに「ペテン盆地起源」と判断したのも、この蓄積の上にあるわけだね。


    つまり今回の問題って、
    「突然グアテマラが言い出した」
    ではないんだよね。

    むしろ長いあいだ、
    この作品はどこから来たのか、
    ラクストゥニッチはどこなのか、
    という研究が続いていて、
    その延長で今回の異議申し立てが起きている。
    だから外交ニュースとしてだけ見ると見落とすけど、中身はかなり研究史に根ざしている。


    👑 しかもこの作品、かなり“ただものではない”

    今回のまぐさ石には、チェレウ・チャン・キニチという支配者に関わる儀礼場面が彫られている。
    さらにマユイという彫刻家の署名があり、この人物は古代アメリカでも名前をたどれる数少ない芸術家の一人とされる。作品世界には神々の秩序、王朝政治、儀礼、宇宙観まで重ね合わされていて、いわば「文字を読める人にとっても、見た目だけで見る人にとっても強い」タイプのモニュメントなんだね。


    しかも関連研究では、この作品群が西暦769〜783年ごろ、ヤシュチラン王国とその従属拠点の政治関係の中で作られた可能性が高いとされている。
    要するにこの作品は、ただ美しいだけではなく、王が誰で、誰が従属し、どんな儀礼が行われたかを刻んだ政治の石でもある。
    だからこそ、「どこの文化財か」は単なるラベル問題ではなくなるんだよね。





    🚨 そして今回、アメリカからメキシコへ返還された

    4月16日、ニューヨークのメキシコ総領事館では、この石灰岩製まぐさ石の返還が大きく扱われた。
    メキシコ側はこれをヤシュチラン地域由来の重要文化財として公表し、メソアメリカ古典期の傑作であり、国家の文化的主権を回復する出来事だと位置づけた。持ち込んだのは匿名のニューヨークの実業家で、作品は自発的返還という形で領事館に渡されたらしい。


    ところがそのすぐ後、グアテマラ側が正式に異議を申し立てた。
    「その作品はペテン盆地に由来し、グアテマラの文化遺産である」という主張だね。
    そして外交ルートを通じて、メキシコ政府へ返還要請が出された。
    つまりこの作品はいま、「アメリカからメキシコへ戻った」のに、なお最終的な帰属先が揺れているという、かなり珍しい状態にあるわけだ。


    🌎 あるけまや的に、ここがいちばん面白い

    あるけまや的に今回おもしろいのは、この話が「文化財返還は正義」で終わらないところなんだよね。

    もちろん、略奪された作品が市場を流れ続けるより、元の地域へ戻るほうがいい。
    でも今回見えてくるのは、その「元の地域」が、現代国境できれいに切れないことなんだ。
    古代マヤの王国圏は、いまのメキシコとグアテマラの境界をまたいでいた。
    しかもヤシュチランの王権は、グアテマラ側にも従属拠点やモニュメント分布を広げていた。
    だから現代国家の返還手続きと、古代世界の広がり方が、ここで少しズレてしまう。

    このズレ、かなり考古学っぽくていいんだよね。

    要するに今回の騒動は、
    「どちらの国が正しいか」
    だけじゃない。

    むしろ、
    古代世界の境界は今の国境よりずっと曖昧で、
    それでも現代は国家単位で文化財を返さなければならない、
    というかなり難しい問題を、マヤの一枚の石が露出させてしまった。
    そこが今回のいちばんおいしいところなんだと思うのさ。


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    ↑ちなみにヤシュチランの有名なまぐさ石はこんな感じでどれも素晴らしい!( ・Д・)(「wikipedia」と「Smarthistory」の記事内画像より転載)


    📝 あるけまや的まとめ

    今回の話を雑に言うと、

    アメリカからメキシコへ返還されたマヤの石灰岩製まぐさ石は、古典期マヤの傑作で、チェレウ・チャン・キニチに関わる儀礼場面と、マユイという彫刻家の署名を持つかなり重要なモニュメントだった。メキシコ側はこれをヤシュチラン、チアパス地域の文化財として受け取ったが、返還直後にグアテマラ側が、文献調査や比較研究に基づき、実際の起源はペテン盆地にあるとして所有権を主張した。問題の背景には、1950年に記録されたものの正確な位置が残されなかった「ラクストゥニッチ」という略奪遺跡の存在と、ウスマシンタ川流域がもともとメキシコ・グアテマラ両側にまたがる古代マヤ政治圏だったことがある。


    だから今回の発見と返還騒動は、

    「マヤ文明の石板をアメリカがメキシコに誤返還したかもしれない」
    だけじゃなく、

    「古代マヤ世界の境界は、現代国家の線引きよりずっと複雑で、その複雑さが文化財返還の現場でいま噴き出している」

    というところまで見せてくる。


    一枚の石。
    でもその中に入っているのは、王権、芸術、略奪、国境、そして“帰るべき場所”の難しさそのものなんだよね( ・Д・)



    なにはともあれ・・・・・・

    文化財って、戻れば終わりだと思いがちだけど、ほんとうは「どこへ戻るのか」がいちばん重たい問題なのかもしれないね!( ・Д・)



    ↑ま、そもそも返す前に複数の研究者グループをぶちこんで多角的に検討しろよとは思うよね!( ・Д・)







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    2025ねん 5がつ 8にち(もくよーび、晴れ)

    眠りが浅い!今度こそ酒やめる!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    テオとティカル、サムネ

    ↑専門ど真ん中だぜ!( ・Д・)



    今回の考古学・歴史ニュースは「色々ヤバい香りがする!②( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    前回からめちゃくちゃ時間あきましたね、ごめんなさい。

    そうこうしている内に、今回話題にしているニュースに続報がありました!

    そのことも踏まえて今回は色々と”突っついて”いこうと思います( -д-)ノ



    ↓前回の記事



    ↑続報の参考元記事


    ②とりあえず発見されたものについて説明してみる





    新しい記事の方には上に挙げた復元図が載っていました。

    中南米のモチーフって似通って見えると思うのでちょっと分からないかも知れませんが、専門家らするとこれは明らかにテオティワカン様式のモチーフです。

    そしてタルータブレロ建築の建造物(祭壇と言っている)もテオティワカン様式ですね。

    この祭壇(?)の下から2体の人骨が見つかり、更に祭壇(?)周辺からは3体の幼児の人骨が見つかったそうです。



    計5体の人骨ですが、これがテオティワカン人のものなのかどうかはDNA分析などが必要になってきますので結果が出るまでには時間がかかりそうです。

    マヤ地域は石灰岩台地ですし、更に漆喰を使って床面を形成するし、重層建築だから幾層も床面作るので、人骨は浸食から守られて残存しやすいのです。

    なのでマヤ地域における人骨資料は多いです。




    ただ昔の探検時代や植民地考古学時代に見つかった資料が多いため、DNA分析できる状態で保管されているかは謎ですね。

    他方でテオティワカンの方は後世の盗掘被害が激しく、人骨はほとんど残っていません。

    こうした状況下で今回発見された人骨からDNAデータを抽出できたとして、マヤ人かテオティワカン人かを高レベルで判別可能かどうかはちょっと分かりません。



    ちなみに378年1月31日にシャフ・カック(テオティワカンの将軍?)がティカルに「到着」し、同日にティカル王朝第14第王チャク・トク・イチャーク1世が「水に入る」(死亡)します。

    その後テオティワカン様式の装束で即位するヤシュ・ヌーン・アイーン1世と続くシャフ・チャン・カウィール2世の埋葬遺構だけが殉葬を伴います。

    殉葬とは高貴な人が死んだ際に、家来や付き人といった関係者、あるいは生贄として他人?を葬る行為です。

    この殉葬はテオティワカンの文化であって、マヤには見られません。

    明らかにテオティワカンによって征服されて(どのような社会変化であったのかは詳細不明)テオティワカン文化を受け入れた限られた期間のみティカルに出現するものです。



    なので今回の祭壇(?)の周りで3体の幼児の骨が見つかったそうですが、これが殉葬なのかどうかは分からないものの、そのような見方はされているようです。

    まぁ一気に三人もの幼児が一斉に死ぬとは考えにくいですからね( -д-)ノ




    ③で、祭壇なの!?


    記事ではずっと祭壇って書いてるんですよね。

    私はずっと祭壇(?)って書いてるんですけども、気付きました?



    テオティワカンにおいてこうしたタルータブレロ建築様式が見られる建造物のほとんどが建造物基壇です。

    なので上部に有機物製の建物があったのだと思われます。

    なので大きいです!




    他方で確かに小さいものも僅かにですが事例があるんですよね。

    ちなみにティカルにもムンド・ペルディード地区に1基あります。

    サイズは確かにこんな感じに小さいものですが、、、

    儀礼を行う場なので『背が低くて』、『階段が付いてて』上に登れるようになってるんですよね。


    それに比べて、今回発見されたこれは背が高過ぎでしょう。

    乗れんもん・・・ロイター板欲しいレベルです( -д-)ノ



    マヤはステラ-アルター信仰という石碑と祭壇をセットにした建立物が北のアクロポリスを代表として様々な神殿の前で見られます。

    でもその場合のアルター、つまり円形祭壇は背が低いですよ。

    捧げ物を載せたりするのでしょうから、背が高いと困りますよね。




    ・・・だから、これほんとに祭壇って言っていいのか私には分かりません。

    祭壇の定義を教えてくれ!( ・Д・)

    まぁ階段もないし、基壇にするには小さ過ぎるので、考古学者がお得意の『儀礼的な行為に使ったもの』から派生して祭壇って言ってるんだろうな~て気持ちです( -д-)ノ




    ④てか、壊し過ぎじゃね?

    先ほど挙げた写真と比べてみてください。

    ぼろぼろですね!( ・Д・)



    宝探し大好きだから、祭壇(?)の下も掘って、埋葬遺構見つけたんだから、まぁ多少は仕方ない。

    が、、、

    こんなに複数の面壊す必要ある???




    1面でいいでしょうよ。



    あとでも話しますけれど、漆喰の上塗りが薄いんですよね。

    その辺、テオティワカンっぽい。

    だからこそ保存には気を付けなきゃなのに、、、



    たぶん長期調査の中でバリバリに剥げたんだと思います。

    祭壇(?)下部のタルー部(斜壁部)は石の積み方がテオティワカン的かどうかとか、古代コンクリの痕跡があるかどうかを見るために一部は漆喰を取らざるを得ないけれど、、、

    やっぱ剥げ過ぎやろ!( ・Д・)



    ……でもまぁもし自分で発見して、且つ、調査期間が長い場合はどうしようか悩みますね。

    まぁとりあえず保存科学の人に方法訊いて、発掘に関係ない3面を決めて埋めると思う(*^・ェ・)ノ





    ④結局、テオティワカンとの関係ってどんな感じなのか?

    とりあえず記事に書いてあることを抜き出してコメント付けておきますね。

    赤字は私の着目点!


    【第1報】

    これは、(マヤの)人々がテオティワカン文明に精通していた可能性があることを示す、これまでで最も強力な証拠だ。


    ⇒「精通していた」って、、、マヤ人がタルー・タブレロ様式の祭壇造って、テオティワカン様式のモチーフ描いたって意味???( ・Д・)


    ⇒「最も強力な証拠」、まぁ意見は尊重しよう……『統計学が最強の学問』みたいな感じ?( ・Д・)

    そういうよく分らん本が出ているのです、読んでないけどw

    みなさん、『最強』がお好きなようで( ・Д・)

    ほんと、『強い』の定義を教えてくれ!




    鮮やかな装飾と不気味な内容物が、当時の複雑な政治情勢を解き明かす手がかりとなる可能性がある。


    ⇒『複雑』って言えば何とかなるって思うなよ!( ・Д・)




    しかし考古学者は、祭壇に装飾を施したのはマヤ人ではないとみている。装飾は、現在のメキシコ市近郊に位置し、当時強大な影響力を及ぼしていたテオティワカンの町で訓練を受けた芸術家によるものと考えられるという。テオティワカンはティカルから約1000キロ離れている。


    ⇒これは難しい!( -д-)ノ


    考古学的に難しい!




    一番簡単なのは『ティカル人?(マヤ人でもいいけど)がテキトーに模倣して作った場合』!


    これは見た目だけ似てて技術が異なるから!


    情報量の少なさなどの条件から、見た目すらもテキトーになることもあるのでイージー!





    次は『テオティワカン人が直接やってきて作った場合』!


    だって技術同じになるもの!


    それでも材料が同じものを揃えられるとは限らないのでやや難しいが、それでも他よりイージー!




    で、最悪なのが『マヤ人が現地で学習してきて作った場合』!(ほんとはもっと細かくパターン分けできます)。


    遺物だと動かせてしまうからより複雑になるんだけれど、今回は遺構だから動かないのでまだマシです。


    だけど、、、はっきり言ってこれらの区別をするのは難しい!





    今回はテオティワカン人(少なくとも現地学習した人、人を断定してない辺りがずるっこいがマヤ人ではないと言っている)が造ったらしいですね。


    イージーパターン!


    私の研究だと、テオティワカンの影響下でティカルには土器工人を含む大規模人口の移動はなかったことになってるんだけど、


    まぁテオティワカン人エリートが移住する際にお抱え芸術家が一人付いてきてもおかしくないか( ・Д・)



    まぁ写真見た感じだけでも、薄い漆喰に淡い色彩とテオティワカンモチーフだから、テオティワカン人?が施した装飾と考えるのは当然かなと思います。






    あとは、、、

    テオティワカンの裕福な指導者たちがティカルにやって来て、彼らの本拠地である町にあったであろう祭儀の複製を製造した



    ⇒まぁ前者はいいとして、『指導者』は気になるけども!


    祭壇を造ったのはマヤ人ぽい気がするんですけどね。


    建造物自体が小さいから判断が難しいけれども、漆喰が剥がれたところを見た限り、石材の組み方がタルー・タブレロと異なる気がします。


    タブレロ部の内部構造がほとんど確認できないけれど、角しか見えないけど、違う気がする!


    あと古代セメントの痕跡がない気がする・・・・・


    だからティカル人が形だけ聞いて建築したんじゃないかなって気がします。


    こればかりは報告書読まないとしっかりと判断できません( -д-)ノ






    最後に、


    今回の発見は、ただの軽い接触や交易だけではなく、好戦的な勢力が地元の王宮の近くに飛び地を築いていたことと関係していたことを裏付けるものだという。




    ⇒『飛び地』っ「テオティワカンの影響」に関する研究でよく使うんだけれども、ティカルとか都市自体が橋頭堡的に使われて『飛び地』って解釈するのは理解できるんだけれども、


    個別の建造物、住居に対して飛び地っていうのはどうなのかなって思いますね~。


    「好戦的」って表現もよくわからない。

    何を根拠にそんな解釈してるのかほんとに謎です( ・Д・)









    おわりに

    長くなったな~、時間もかかったな~ヽ(TдT)ノ


    さて、今回はなんだかんだ避けがちなマヤ文明ネタでした。

    悪口祭りになるからね( ・Д・)

    まぁでもこれだけ専門ど真ん中では避けては通れないでしょう!

    今後も続報があればコメント入れていきますね、激辛なのを( -д-)ノ




    最近たくさん新たな大きな考古学的発見が相次いでいて、記事にしたら面白そうなんだけど、時間ないんですよね~。

    Xには書いてるんですけど、強制最低時給200日連勤チャレンジ中なんですよね。

    まぁどのみち、更新速度はばか遅いんですけど、ぼちぼち頑張っていきます!



    何はともあれ、

    人生、金も時間も大事!( ・Д・)



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    2025ねん 4がつ 14にち(げつよーび、雨)

    アルコールとコーヒーの飲み過ぎで脱水症状出て、起き抜けに上半身つって死ぬほど痛かった!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    テオとティカル、サムネ

    ↑専門ど真ん中だぜ!( ・Д・)



    今回の考古学・歴史ニュースは「色々ヤバい香りがする!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    いつもは同じ考古学分野とは言え、時期・地域的に専門外だから書きにくいな~て思っていますが、

    今日は専門ど真ん中ですね。

    ど真ん中だと、悪口ばっかになる気がするので、結局書きにくいんですけど・・・

    心を鬼にして(?)何も気にせず、自由に書きなぐりたいと思います( -д-)ノ



    arukemaya_z047


    1.「証拠」がおかしい!


    今回の記事はAFP BB Newsのものを使用しています。

    英語版はこちら。



    日本語への翻訳がダメダメなのかと思いきや、元の英文がもうダメなので、取材した人物がスペイン語に不慣れなのか、グアテマラ人考古学者が英語が不慣れなのかかな。

    あるいは、、、というか、取材した人物がマヤ考古学を全く知らないってのが実際のところでしょう( ・Д・)

    ほんと、ツッコミどころが多過ぎてどうしてくれようか悩むレベルなんですけども、、、



    まず記事のタイトルが、

    マヤ遺跡でテオティワカンの祭壇 両文明のつながり示す「証拠」

    なんですよね。



    これくらいでキレ散らかしてる自分もどうかとは思うんですけれど、

    ”「証拠」”って強調するのは良くないです。

    まぁインパクト取るために「最古!」「最大!」って言っちゃうノリだとは思うんですけどね。



    問題① そもそもマヤとテオティワカンのつながりは遅くとも1960年代くらいから自明

    これ、昨日今日分かった話じゃないんですよね。

    所謂「テオティワカンの影響」っていう古典期前期マヤ遺跡の物質文化面にみられる現象です。

    これだけでもいくらでも書ける気がする、書かんけど( ・Д・)




    問題②? てかこの発見、3年前くらいでない?

    たぶん、私のティカルでの調査研究報告の記事のとこで、本件については問題にならない程度に軽く触れてるんですよね。

    まぁ内部情報だったので私は漏らしてないですけども。 

    公開までけっこう時間かかるもんですね、よく知らんけど( ・Д・)



    問題③ 証拠という言葉は日常語?

    これね、言語の問題だと思うのだけれど、スぺイン語で証拠=Evidenciaは良く使うのよ。

    めちゃくちゃ普通に使う!

    だって、考古学データって全部物的証拠だもの!( ・Д・)

    (状況証拠もあるか( -д-)ノ)




    日本人は慎ましいので、証拠は使わないですよね、あまり。

    まぁ一部の宣伝大好きな研究者もどきは置いておくとして……


    日本人ならば、「これこれの遺物が出土したことを踏まえると~と解釈できると思います」とか「~と考えられます」なんて遠慮がちに話すのよね、普通。


    日本語の特徴なのか、日本人の気質なのか、証拠って強い言葉な気がするから多用することはない、、、と思う、私は。



    でもグアテマラでは日常的に使うのよ。

    私も現場出てれば一日10~20回くらい使うと思う。

    「a la mierda !」「a la gran p… !」の次くらいに使う!(汚い言葉なのでいい子は真似しないでね( ・Д・))



    でもニュアンス的には全然強くなくて、たくさんある証拠の内のひとつだよね~くらいの特に意識してないレベルで使ってます。

    少なくとも私の周りの研究者や調査員はね。

    みんな、ティカル関係者だけれども。




    だから「証拠」みたいに鍵括弧まで付けて強調するのはダメ。

    ドラッグといじめの次くらいにダメ、絶対!( ・Д・)



    だって、なんか物凄い発見したみたいに感じる。



    ちなみに元の英語記事では、タイトルにevidenceって使ってないし、文中でも強調していない。

    この点に関しては明らかに翻訳者が戦犯ですね( ・Д・)



    ↓こんなのも書いたね~( ・Д・)



    おわりに

    あれ、1. しか書いてないのに文量増えたし、悪口しか書いてないし、、、

    普段なら『今後の発見/成果に期待ですね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!』とか、書いてるのに、、、

    専門ど真ん中となった途端これだぜ( ・Д・)



    元の英語記事読み返してみたけれど、プロジェクト指揮してる現地考古学者も、取材した記者もまともそうな気がしてきた。

    言葉使い的にはね。

    けど、調査としては問題ありかな~って気がする。

    次回は僅かな写真を頼りに叩いていくことになるのか、、、性格悪くなりそう( ・Д・)



    あ、良かったら上の記事読んでみてくださいね、

    テオティワカンとマヤの関係について書いてるから!



    何はともあれ、

    元気に生きたい!( ・Д・)



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    2023ねん 2がつ 19にち(にちよーび、晴れ)

    今日はもう春!(・∀・)つ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    arukemaya1768
    ↑マヤとテオティワカンって遠い、1000km離れてる!( ・Д・)(「Google Map」の画像を一部加工)


    今回の考古学・歴史ニュースは「マヤとテオティワカンってどんな関係?( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台はグアテマラ、北部ペテン県にあるティカルと、前回説明したメキシコ、メキシコシティからやや北に位置するテオティワカンです。

    両方ともメソアメリカ文化領域の遺跡ですが、ティカルはマヤ文明、テオティワカンはテオティワカン文明に帰属します。

    上に挙げた地図で分かるように両者は直線距離でも約1000kmも離れています。




    このシリーズの第1回「マヤの話」の中でも書いたように、旧大陸文明は独自に発展したというイメージが付いて回りますが、実際には様々な文明が興亡し相互に関係し合っていました。

    マヤとテオティワカンもそうした相互関係にあった事例のひとつなのです。



    ↓以前の記事はこちらヾ(´ω`=´ω`)ノ


    ↑以前の記事はこちら(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



    arukemaya1764
    ↑テオティワカンのタルー・タブレロ様式建造物(あるけまや管理人撮影)


    arukemaya1769
    ↑テオティワカンの三足円筒土器(Griffith 2018の発表画像より転載)


    arukemaya1770





    マヤ文明に与えた「テオティワカンの影響」

    前回の「テオティワカンの話」のところでも少し書きましたが、、、

    テオティワカンは古代メキシコ文化のひとつですから土器や建築などの物質文化要素に独自の特徴があるわけです。

    そうしたテオティワカン的特徴をもつ遺物・遺構、つまりテオティワカン様式遺物・遺構が異文化であるマヤ地域において広く見られるようになる(出土する)現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




    この「テオティワカンの影響」の指標となる遺物・遺構の代表例は上に挙げた写真のものになります。

    つまりタルー・タブレロ様式建造物、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器です。

    (『蓋付き高台付き碗』って碗に色々付いてるなっていう長い名前なんですけど「おわりに」で少し触れますね)

    少々細かいですが他にも、メキシコ的なモチーフ、三足形態と浅スタンプ文、土器器面への単位文配置、焼成後漆喰画技法、エメラルドグリーン色塗料などけっこうたくさんのテオティワカン要素がマヤ地域で見られるようになります。



    arukemaya1774





    テオティワカン-マヤ VS 純粋なマヤ?

    では何故1000kmも離れた異文化であるテオティワカンの要素がマヤ地域に現れるのでしょうか?

    実は、マヤ地域は当時最大の都市であったテオティワカンに侵略を受けて支配されてしまった、という説があります。

    マヤ地域がテオティワカンによって支配された/されていないという両説は常にあって、振り子のようにどちらかの説が有力な時期が行き来するような状況にあります。

    現在はどちらかというと支配されていた説が強いと思っています。

    かく言う私も支配されていた説を指示しています(一部のアッパークラスの入れ替えのみであった説を唱えています)。




    この「テオティワカンの影響」について語る際に絶対に外せないのがティカルです。

    マヤ地域の一大中心地であったティカルがテオティワカンの支配を受けることで、その後『影響』がマヤ地域に広がっていくことになるのです。




    ここで碑文学成果としてサイモン・マーティンらによる著名な研究を紹介することにします。

    伝統的な学説として、マヤ地域は個別の都市国家が林立したとする説と、有力国家を中心とする広域国家であったとする説があります。

    一方で彼らの説ではマヤ地域は王の神聖性に基づく緩い統合状態であった、つまり従来の2説の中間をいく説明をしています。




    マヤ地域は元々都市国家が林立する状態でした。

    378年にテオティワカンの軍隊が遠征してきてティカルを征服し当時の王を殺害、メキシコ系の王を擁立して新王朝を打ち立てます。

    その後、ティカルを始点として周辺の首長レベル集団あるいは初期国家レベル集団に遠征し、各地に新王を擁立していきます。

    結果として新たなメキシコ系ティカル王を頂点とした王朝間の連携、ティカルを宗主国とする都市国家同盟のような連携が誕生します。

    他方で別の一大都市国家であったカラクムルも都市国家同盟のような周辺集団との連携を図り、ティカル同盟との長きにわたる対立・武力抗争を行っていくことになります。



    マヤ文明史とテオティワカンの関係は簡単に述べるとこんな感じです。

    私見ではありますが、ティカル同盟の方はテオティワカンの力を背景にしたテオティワカン-マヤのような血統集団で、カラクムル同盟の方は純粋なマヤ系集団だったのかなと考えています。

    この辺は今やってる研究のずっと後に向かい合うものなので、証明はライフワークになりそうです( -д-)ノ




    ちなみに上に挙げた土器と下に挙げた土器は、マヤ地域で出土する三足円筒土器の典型例です。

    先に挙げたテオティワカンの三足円筒土器とはなんだか違いますよね?

    マヤ地域で見られるものの方が縦長で直線的で、蓋が付いてて、蓋の取っ手部に人物などを模した造形があります。




    これはテオティワカン産とマヤ産の土器の簡単な見分け方なので、是非博物館展示の際に着目してみてください。

    ちなみにこうした『マヤ的なテオティワカン様式』の遺物・遺構がティカル周辺域には多いこと、もっと南の南部高地域などでは様相が異なり『Theテオティワカン!』の遺物・遺構が多いことを根拠に、私はマヤ地域の中でもティカル及び周辺域では土器工人を伴うようなテオティワカン系人口の大量流入はなく、王を含む支配層の一部が入れ替わったのみであると考えています。






    おわりに 『蓋付き高台付き碗』って?

    さて、最後に『蓋付き高台付き碗』という長ったらしい名前の土器について簡単に説明しますね。

    実はこれ私が付けた名前です。

    あくまで仮なんですけどね・・・




    まずは高台についてなんですけど、これは現代のお茶碗の底に付いている環状の少し高さを出すような部位の名称です。

    この高台は元々マヤ地域には見られないものだったのです。

    テオティワカンの方にはあって、それがマヤ地域にもたらされたと考えられています。




    ちなみにオリジナルであるテオティワカンの方の高台は高く、マヤ地域のものは低い傾向にあります。

    それでおおよその見分けが付くので『古代メキシコ展』で両者の土器を見た際には着目してみてください。



    あと、「碗」って表現してますが、これも実は微妙なのです。

    マヤ地域の研究での一般的な形式分類で「浅皿(plate)」「深皿(dish)」「碗(bowl)」というのがあります。

    口径と器高の比率で機械的に分けているものです。

    テオティワカンの高台付き”土器”は深皿形のものですが、マヤ地域の高台付き”土器”は深皿形が多数派としつつ碗形もあるのです。




    それなら「深皿」と呼べよ!って思うかもしれませんが、、、

    この時期のマヤの”高台が付きそうな形状の土器”は鍔付き(flange;また『付き』が出てきた)である事例が含まれ、時期の変遷を見る上でこの鍔の位置が重要なのです。

    ちなみに位置はどんどん下がっていきます。

    鍔の位置に着目すると「テオティワカンの影響」の時期は碗が主流で、次時期に深皿形に変わっていきます。

    なのでこの時期は『碗の方が都合がいい』のです( -д-)ノ




    さあ最後に「蓋付き」ですが、、、

    実は蓋付き&高台付き碗はマヤ地域でしか出土しません。

    テオティワカンの高台付き碗(本当は深皿形で正式な名称は薄手オレンジ色土器)は蓋を伴わないのです。




    つまりマヤの人々としては土器に『土製の蓋があること』が『異文化っぽい / 異国情緒感じる』ということだったのか、オリジナルを知らないのか、分かりませんが、、、

    古典期前期後半(CE350-550)の時期はマヤ人は蓋付けたがりだったのです( -д-)ノ




    こういった状況があって、長ったらしい例のあの名前、「蓋付き高台付き碗」という名前を当てていました。

    この土器群には先ほど出てきた「鍔付き」のものとそうでないものがあるということになります。




    部位に着目すると地域性や時期の指標になるので面白いですし、展示資料を見てて見方も変わると思うので是非試してみてくださいね!



    そう言えば展示会も楽しみだけど、、、

    インディジョーンズ新作6月末公開!( ・Д・)



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    2023ねん 2がつ 14にち(かよーび、晴れ)

    お酒絶ってもたくさん食べたら太る!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑月のピラミッド、右端にタルー・タブレロ建築が見える、、、ように撮った!( ・Д・)(あるけまや管理人撮影)


    今回の考古学・歴史ニュースは「テオティワカンって何?( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    前回はマヤ文明史概観と言っておきながら、ほんとにさらっと流して、ガチ勢向けの部分的な細かい説明をしてしまいました( -д-)ノ

    まぁというのも、次回の「マヤとテオティワカンの関係」について書く際に、どうしてもマヤ文明史を見直す必要があるからなのです。



    と言い訳をしつつ、今回はテオティワカンの話!

    でもまずは「クイクルコ」から始めましょうヾ(´ω`=´ω`)ノ








    クイクルコって何?

    さて、まずは「クイクルコ」です。

    これは遺跡名です。

    当サイトに初めて来訪される方もいるかと思い、分かりやすい図を上に用意しました。




    一般の方と話してるとメキシコの位置が分からない人が多いので、まぁこれならわかるでしょう!

    北米と南米の間の細いとこら辺で、アメリカ合衆国の南にあるやつです!

    上の2枚の図にあるポイントの位置は両方ともクイクルコの位置です。




    2枚目の地図を見て分かるように、クイクルコ遺跡はメキシコシティの中にあります。

    南の外れですし、さして見栄えも良くないので(アステカの首都テノチティトランやテオティワカン遺跡に比べたらそりゃあそう(/TДT)/)、観光客はほとんどいません。

    古代遺跡を観光名所として、外貨獲得源としてメキシコ政府は多額のお金を投資しているのですが、そんな中にありながらクイクルコ遺跡は全然力が入っておらず、博物館内の説明文も印刷された「紙」の状況でした(2014年時;下の写真参照)。




    まぁそれはさておき、遺跡の位置関係を整理すると、メキシコシティの南部にクイクルコ遺跡があって、メキシコシティの北東部にテオティワカン遺跡があって、更に北にいくとパチューカ山地があります。

    パチューカについては後からテオティワカンの話の際に出てくるので気に留めておいてくださいな(*・ω・)ノ




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    ↑手作り感いっぱいの普通紙に印刷された説明文(あるけまや管理人撮影)




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    ↑クイクルコ遺跡にある円形ピラミッド(あるけまや管理人撮影)



    なんでこんな撮り方したのか大いに謎ですが、ピラミッドの基壇が円形であることが分かるかと思います( ・Д・)

    (たぶん他の観光客が来る前に慌てて撮ったからパノラマじゃないのかと思われ……)


    こうした円形基壇のピラミッドは古代メキシコ文化にはよく見られます。

    後古典期(CE1000-1500)に特によくあるのです。




    さて、なんでクイクルコ遺跡の話をしているかというとテオティワカンの前身という説があるからなのです。

    クイクルコ遺跡は先古典期遺跡で、BCE800年頃に居住が開始されます。

    BCE150-CE1頃に最盛期を迎え、人口は2万人と推定されており、当時のテオティワカンよりも大きな重要都市だったのです。




    しかしながらCE70年頃にポポカテペトル山、CE150年頃にチチナウツィン山、CE275年頃にシトレ火山が噴火し、クイクルコは連続で被害を受けました。

    特に最後のシトレ火山の噴火の際には5~8mの溶岩がクイクルコに大量に流れ込んだために放棄されてしまったのです。



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    ↑クイクルコに流れ込んだ溶岩の痕跡(あるけまや管理人撮影)



    上に挙げた写真のようにクイクルコに流れ込んだ大量の溶岩は都市中心部(遺跡中心部)を完全に覆い尽くしています。

    壁に見えるものが溶岩が固まったもので、手前の歩道になっている面が発掘によって姿を現した当時の文化面(生活面)です。




    この先古典期に一大都市であったクイクルコが度重なる噴火によって衰退したために、噴火の影響がより少ない立地にあったテオティワカンなどの別の遺跡が急成長しました。

    そのためクイクルコの放棄に伴って大人口がテオティワカンに移動したのではないかという説があるのです。



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    ↑テオティワカン中心部の測量図(Morton et al. 2012: Figure 1より転載)



    テオティワカンって何?


    テオティワカンはBCE200年頃から居住が始まっており、CE1年頃に都市として成立しました。

    その後、上図の赤い部分の真ん中にある上下に走る直線部、「死者の大通り」が建設され、周辺部も整備されていきます。

    最も人口が増えたのはクイクルコがシトレ火山の噴火で衰退した後のCE300年以降と考えられています。




    一気に人口が増加したので、上図のような非常に計画的な都市建設が一気に行われたのかなとも思えます。

    一方で気になるのは、クイクルコは円形基壇の神殿を造っていたわけですが、テオティワカンの建造物は上図のプランを見ての通り、方形基壇です。

    大量の人口移動はあったものの、主導権はあくまで元からテオティワカンにいた集団だったということなのでしょうか?


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    ↑タルー・タブレロ建築の構造(今泉 2019: 図3-4-1より転載)



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    ↑実際のタルー・タブレロ構造(あるけまや管理人撮影)


    テオティワカンの最盛期はCE200-550年頃であり、人口は10~20万人と推定されています。

    この最盛期にはメソアメリカ最大の都市として広く周辺地域へ強い影響を与えており、それにはマヤ地域も含まれるのです。

    他文化地域にテオティワカンに由来する遺物や図像モチーフ等が現れる現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




    「テオティワカンの影響」によりマヤ地域で見られる特殊なテオティワカン様式の遺物・遺構には、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器(香炉)を代表として、他に石碑や祭壇、土器、壁画などの様々な図像モチーフにテオティワカン様式の図像が出現します。

    建造物装飾としてはタルー・タブレロ様式が有名です。

    これは上の図・写真に挙げたようにタルー(斜壁)とタブレロ(方形壁)を交互に組み合わせた基壇装飾です。

    「テオティワカンの影響」に関しては長くなるので次回の「マヤとテオティワカンの関係」の際に触れたいと思います。



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    ↑ケツァルコアトルの神殿から見た太陽・月のピラミッド(あるけまや管理人撮影)


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    ↑ケツァルコアトルの神殿の基壇装飾に見られるケツァルコアトルとトラロック(あるけまや管理人撮影)


    メソアメリカにおいて広域に影響を及ぼした大国テオティワカンは7世紀頃に急激に衰退し、放棄されてしまいます。

    滅亡理由はマヤ地域と同様で複数の候補があり、恐らく複合的と考えられています。

    つまり、よーわからんってことです( -д-)ノ




    大干ばつ、森林伐採による環境破壊、宗教対立、異民族の侵入・・・と内容は古典期マヤと大差ありません。

    メシカ人(アステカの人々)が12世紀にこの地を訪れた時にはテオティワカンは無人の廃墟でした。

    しかし多数の美しい建造物が立ち並ぶ姿を見て、ナワトル語で「神々の都市」、つまりテオティワカンと名付けたのです。



    メソアメリカには多数の文化・文明が勃興していますが、体系的な文字を使用し現在にまで残ったのはマヤ文字だけです。

    なのでテオティワカン人に関する文字記録(文字状記録を除く)は存在せず、彼らが使用していた言語も推定はされていますがはっきりとは分かっていません。




    所謂旧大陸の諸文明、ヨーロッパに代表されるそれらの事例では、大体どれもが戦争で滅びて、同じ土地が次の文明・国家の支配領域になります。

    でもメソアメリカでは放棄されがちですね。

    亜熱帯や乾燥気候だと、森林破壊+干ばつによる地力の弱体化があまりに著しくそう簡単には回復せず、放棄せざるを得ないのかも知れませんね( ・Д・)

    この辺も新大陸文明の発達の遅れと接触時の新大陸文明の勝利・支配の要因のひとつなのだと思います。



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    ↑テオティワカン遺跡の中(?)にある地下&洞窟内レストラン(あるけまや管理人撮影)




    おわりに

    上に挙げたのはレストランの写真です。

    メキシコ的な原色カラフルな椅子が可愛いですよね。




    テオティワカンは乾燥しつつ暑いなって感じです。

    遺跡公園自体が広大ですし、ティカルのようなジャングルと違って巨大だけど背の低いサボテンくらいしかないので日陰がないのです。

    だからとても暑い!




    このレストランは地下洞窟内部に造られているので涼しくて快適です。

    雰囲気も素敵!

    ただお高いです。




    ちなみに私はここで「アリの卵」と「イモムシの素揚げ」を食べました。

    それぞれ100米ドル近くした気がする。

    たぶん一人で食べるようじゃないので無駄に量が多くて辛かったです。

    後半はビールで流し込みました(笑)




    ちょっとアクセスしづらいけれど、メソアメリカの古代文明を感じる上ではとてもいいところですので、是非機会があれば行ってみてください。

    その際は少し足を延ばしてティカルへもどうぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



    何はともあれ、

    気付けば長くなった!( ・Д・)



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    2023ねん 2がつ 12にち(にちよーび、晴れ)

    もう暖かだ、春!( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースは「70年ぶり?マヤ展やるらしいから概説するね!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、東京国立博物館で古代メキシコ展が開催されるそうで、今回から連続で「マヤ文明の話」、「テオティワカンの話」、「マヤとテオティワカンの関係」について概観していこうと思います。

    私は例によって回し者ではございませんので悪しからず( -д-)ノ



    さて、今回の特別展は大阪の国立国際美術館でも開催されるそうで、国内をいくつか周るようです。

    大阪は2024年開催と書いていたので、今年(2023年)から2年くらいかけてグルグルめぐるのかな~と思ってます。

    私は詳しく調べておりませんので、是非公式サイト等の情報をご覧になってください。


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    ↑メソアメリカにおける主要諸文明・遺跡の空間・時間的分布の(今泉 2019より転載)


    マヤ文明史概観(?)


    古代マヤ文明と言えば、最近日本語のでの概説書や一般書が増えてきているのでその歴史展開について知る機会も増えてきたかと思います。

    メソアメリカ史の変遷は石期(上表にはない)・古期・先古典期・古典期・後古典期・植民地期・独立期/現代(上表にはない)の大まかな7区分が広く用いられています。




    考古学は物質文化を扱うのでモノさえあれば古代から現代まで全ての時期が射程となりますが、有名どこはやはり先古典期中期から古典期を経て後古典期の終わりまでの2500年間です。

    古代マヤ文明には例の有名なマヤ文字があるのですが、そこから得られる情報はあまりに限定的です。

    なので皆さんが古代エジプトや古代ローマ、日本の古代に関する歴史関係の書籍などを学んで得たイメージとは大きく異なります。

    ピラミッド建造に携わった人が二日酔いを理由に欠勤した、なんて具体的に分かるような世界と比べてしまうと、マヤ文明なんてほとんどよく分かっていないじゃんと感じてしまうのは仕方ないことなのです。

    だからこそ、先古典期から後古典期はマヤ文字があるものの、考古学が”強い”時期であり、対象として主流となる時期なのです。




    さて、マヤ文明史概観の話に戻すと、概説書等では先古典期から後古典期までの文化的変遷について記述されることが一般的です。

    その中では特に「マヤ文明は独特な素晴らしい文化を有する」ことが自然と記述されていると思います。

    こうしたマヤ文明を特別視する見方は1990年代以降にマヤ考古学史の中で刷新されているはずなのですが、自分の扱う対象を持ち上げる”質(たち)”は今も昔も変わっていないようです。

    だって人間だもの・・・




    上表を見ると分かるようにメソアメリカ地域にはマヤやテオティワカンの他にオルメカやサポテカなど様々な文化・文明があって、同時期に存在している事例も多々あるのです。

    何かと所謂新大陸文明は旧大陸文明と接触を持たずに独自に発展したというイメージがあると思いますし(そうしている学者がいるから)、新大陸文明の代表としてマヤ文明を用いるから(そうしている研究者の主対象だから)、、、

    結局、一般のイメージとして「マヤ文明=独自に発展した文明」を持つようになってしまっているという構造があると個人的には感じています。




    でも違います。

    メソアメリカには多数の文化・文明があって、その多くが同時併存していて相互に影響し合う関係にあったのです。

    つまりマヤ文明はそうした数多ある文化・文明のひとつに過ぎず、様々な相互関係の中、たまたま特に古典期に大きく華開いた文明なのです。


    arukemaya1750



    もう一つよくある誤解が、マヤ文明が滅んだって話に関してです。



    先古典期にマヤ文化は国家形成期として人口が増え、階層化が起き、頑張ってピラミッドなどのモニュメントを造り始めます。

    古典期には複雑なマヤ文字を使用して長期暦を含む石碑を建立し、ピラミッドや宮殿などの石造りの見事な特殊建造物をたくさん建てました。

    古典期の終わりには大干ばつや戦争が原因でマヤ文明は崩壊しました、、、




    ここまでが ”よくあるマヤ文明の概説” です。

    実際に古典期マヤの中心地であったティカル遺跡などがあるペテン地域は後古典期には空白地帯になってしまいます。

    文明としては崩壊しましたが、人が完全にゼロになったわけではなく、細々と暮らし続けていました。

    なので古代マヤ人が全滅したわけではありません。




    むしろペテン地域(ユカタン半島の真ん中ぐらいの位置)にいた人々は南北に移動したと考えられています。

    そのため後古典期にユカタンの中間部は空白っぽくなりますが、中心地が南北に移動するだけで存続はしているのです。

    現代マヤ人がいるのもそのためで、やはり全滅したり、文明が完全に失われたわけではないという点が重要です。

    様々な形で南北端の地域の後古典期文化に崩壊してしまった古典期文化が引き継がれているのです。




    ↑参考程度に…もうちょっと時間をかけたいとは思ってはいるが( -д-)ノ




    おわりに

    結局マヤ文明史の流れについてはすごいはしょりながら、皆さんが誤ってイメージしがちな部分を修正してみた形になってしまいました・・・

    次回は「テオティワカンの話」となりますが、最後の「マヤとテオティワカンの関係」について説明する際に、今回話したような、マヤ文明が決して単独で『鎖国的』に成立・発展した文明ではないことが分かってもらえるのではないかなと思っています。



    何はともあれ、

    特別展いいね!( ・Д・)



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    2022ねん 10がつ 9にち(すいよーび、くもり/雨)

    予定組んだ12月末まで埋まった( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    ↑現場はこんな感じ( ・Д・)(筆者撮影)


    今回の考古学・歴史ニュースは「2022年調査の内容紹介するよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    さて、今回の舞台はグアテマラ、ペテン県のティカル遺跡です。

    あくまで「調査内容の紹介」であって成果紹介ではないのは論文発表の関係があるからです。

    なので、簡単になら紹介してもいいかな~っていうものについては今回紹介していきますね。

    とりあえず私が実施している研究の概要と、これまでの調査報告としてあげていた記事を載せておきます。











    小さなマウンドの調査の結果について

    今回紹介するのは小さなマウンド群を掘った時のお話です。

    2022年の調査では大きいマウンド群も掘っていますが、それはまた次回にお話します。

    ちなみにマヤ地域で言うのところの「マウンド」とは昔の建造物が崩れて風化・浸食を受けた結果、土饅頭のようになっている状態のものを言います。

    「小さな古墳」だと思えばイメージは大体合ってます。

    他の地域だと指す内容が異なるのであくまでこれはマヤ地域でのお話です。




    ちなみに最初に挙げた写真のところが現場なのですが、真っ平でマウンドが分からない状態になっています。

    これはこの地点にかつて存在した建造物がとても小さく、また遺構として残りにくい木材などの有機物製の建物であったからです。

    なのでマウンドってどんなものかを視覚的に理解してもらうには、大きなマウンド群について話す次回の記事の方が良いと思います。



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    ↑Str.4F-26、27の傍にある大きな穴(筆者撮影)


    ティカル遺跡の中心部(9㎢)には約2400基のマウンドが確認されています。

    これらのマウンドにはそれぞれ名前が付いていて、建造物(Structure)の略称としてStr.が付いています。

    今回紹介する小さなマウンド群はStr.4F-26と27です。

    4Fというのは測量図の図面番号のようなもので、26、27というのはその4Fというエリアの中での26番目、27番目の建造物マウンドであるという意味です。




    このマウンド群の地点はあまりに平らでマウンドとしての土の高まりを確認することが困難でしたが。すぐ近くに現代遺構である大きな掘削痕があるために位置を特定することができました。

    ちなみにこの大きな穴は、1950~60年代のアメリカ、ペンシルベニア大学の調査が実施される際に滑走路を造るために掘ったものです。

    この大穴から取り出した土や石灰をばら撒いて滑走路予定地を平らにならしたのです。

    最後に紹介するYouTube動画でも説明で出てきますが、この滑走路の一部は現在、駐車場として利用されています。




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    ↑堀り始めの状況(筆者撮影)

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    ↑手帚がなかったので自作(筆者撮影)

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    ↑地表面のすぐ下から当時の石列が出てくる(筆者撮影)


    ラテンあるあるですが、面会の約束とかしててもすっぽかされるんですよね。

    そんなこんなで時間を無駄に取られて調査用の備品を一部購入できないままスタートしました。

    まぁお手製の杭とか箒を自作して使ってますが、こんな風景もラテン考古あるあるかなと思います。

    水糸だけは日本から運んでいて、それできっちり計測して実施しているので問題はほとんどありません。

    まぁ見栄えが悪いってことくらいでしょうかねヽ(TдT)ノ




    上の三枚目の写真で掘った範囲の内側の壁に小さな切り石が見えます(とても分かりにくいと思うけれど)。

    壁のほとんどが切り石だと思っていいです。

    問題は切り石が現地表面から僅か数センチの位置にあるってことです。




    亜熱帯ジャングルの中にあるティカルでは、微生物の活動がとても活発なので所謂腐植土が発達しません。

    全部あっと言う間に分解されてしまいます。

    なのでほぼ「現地表面=旧地表面」です。

    つまりティカルを散策するとほぼほぼ古代マヤ人が歩いていた台地上を歩いているということになるってことです。



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    ↑母岩の石灰岩(筆者撮影)

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    ↑石灰岩層直上に土器片を発見(筆者撮影)



    Str.4F-26と27は小さなマウンドなので、かつては木製の小さな家だったと思われます。

    きっと農民のような一般層の人が暮らしていたのでしょう。




    調査区を掘り進めるとあっという間に母岩である石灰岩層に到達してしまいます。

    古代マヤの建築法として有名な「重層建築」はここでは見られません。

    重層建築は”お金持ちの家”にしか見られないものだということが分かります。




    家の中の床面も漆喰で覆われていません。

    土の表面を平らにして硬く押し固めたような床面しか見られませんでした。

    使用している石灰岩の切り石も小さく、加工が甘いものです。




    現代で言うならばお金持ちが鉄筋コンクリート製のマンションに住んでいる一方で、低所得層は木造アパートに住んでいるようなものです。

    そう考えると技術的な違いを除けば、古代マヤも現代日本社会も根本的には類似してるなぁと思います(*^・ェ・)ノ




    ……ちなみに、石灰岩層上面から土器が1点出土しました。

    近い内、YouTube動画の「考古学講座」で取り扱おうかと思っていますが、、、

    これは古代マヤ人が建物を建造する際に最初に石灰岩を露出するレベルまで掘って広場の広がりを確定させたことによるものです。



    ↓今年の調査の記録をアップしていますヾ(´ω`=´ω`)ノ

    ↑今後も毎週5本くらいずつ投稿していきます(*・ω・)ノ


    おわりに

    かつての調査動画も今回の動画もそれぞれ1本の動画あるいはまとめて1本の動画としてちゃんと作りたいのですが、時間がねぇ……

    論文とか大学の仕事だけで11月末まで予定埋まってるので、kindke出版用に本書いたり、報告書書いたりしたら12月末まで使っちゃうんですよね( -д-)ノ

    燃料費高騰とか記録的円安の影響を受けて、今年の調査は小規模になる予定なので、1月~3月の中でもしかしたら時間を作ることができるかも知れません。



    まぁしゃーなし、、、



    いつも通りのんびりやるさ!( ・Д・)



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