↑川の右側の発掘区がトレンゼ遺跡(「DW」の記事内画像より転載)
これらの遺物集中は古代の土手道から約300m下流の川床の堆積物から見つかったものです。
合計31点の青銅器で、本来有機物製の入れ物に入っていたものがここに流れ着いて堆積したと推定されています。
こうした証拠から下流へと逃げながら戦闘が続いたと考えているのだと思いますが、上流で死んだ戦士の持ち物が下流へと流されたとも考えられるので、私としてはこれだけでは下流方向へと移動しながら戦闘が続いたとは言えないと思っています。
そもそも考古学は時間を扱うとは言え、「一日で終わった戦闘中の更に細かな時間の変化」なんて捉えることができません。
考古学で扱う時間とは土器などの遺物の変化に着目したもっと長期的な時間なのです(*^・ェ・)ノ
↑丸いカンカンのような青銅製ケース(「ナショナルジオグラフィック」の記事内画像より転載)
これらの青銅製の遺物はキリ、ノミ、ナイフ, 青銅のくずなどでした。
また上に挙げた写真に見られる円筒形をした青銅製の小さな丸い箱が見つかっています。
この丸い箱はベルトに取り付けられる形になっています。
同じ下流の川底の堆積物の中から人骨も見つかっているそうです。
この人骨が破片なのか全身骨格なのかで、河に流されたのか、下流まで来てここで死んだのかを考える上で大きく変わってくるポイントなのですが、それに関する情報はまだありません( -д-)ノ
他に先に挙げた写真の中に見られる青銅製の筒状の遺物が3点見つかっています。
これは個人的な持ち物を入れる袋か箱の付属品だったと想定されており、同様の品は数百キロ離れたドイツ南部とフランス東部でしか今のところ見つかっておらず、この場所では珍しい出土品だということです。
これはトレンゼ・バトルフィールドで戦った戦士たちの少なくとも一方が遥か遠くの地域からやってきた集団である可能性を示しています。
ただ新たな疑問が生まれます。
戦場へ赴く戦士が何故、キリ、ノミといった工具類や青銅のくずといった加工過程でできる副産物を携行しているのでしょう?
「考古学あるある」であり、且つ、ある意味考古学の限界とも言えるのですが、『よく分からないことは(とりあえず)儀礼行為とする』というものがあります。
トレンゼ遺跡の調査者たちも、恐らくは青銅器時代の戦士たちが儀礼的・呪術的な目的で戦闘とは無関係に思える金属加工用品を携行していたと推定しています。
繰り返しになりますが、トレンゼ・バトルフィールドのようなケースは「SSR」級ですから、今後青銅器時代の類例が見つかるまでは、こうした金属加工用品を戦士が携行することが「普通」なのかそうではないのか未定のままとなるでしょう。
また人骨のDNA分析結果では、ドイツ北部の現地人集団と、南ヨーロッパを含む遠隔地の多様な戦士の集団との戦いであったことを示しており、ドイツ南部やフランス東部でしか出土例のない金属加工用品の出土を根拠とした現地集団と遠隔地集団との戦いという類推を後押ししています。
戦士の歯の同位体分析でも2つの戦闘集団を特定しており、1つはドイツ北部出身の現地人集団、もう1つは多様な中央ヨーロッパ、ボヘミア(ドイツ南東部)などから来たと考えられる集団です。
真実はいつも土の中!( ・Д・)