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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:ミステリー

2020ねん 11がつ 10にち(かよーび、晴れ)

次の休み、カモン!( ・Д・)


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arukemaya1160
↑川の右側の発掘区がトレンゼ遺跡(「DW」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは「トレンゼ・バトルフィールドで新たな発見と共に新たな謎が生まれたよ!ー後編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、ドイツ北部、トレンゼ川のほとりにあるトレンゼ遺跡(トレンゼ・バトルフィールド)の復習をさらっとしましょう。

今からおよそ3200年前の青銅器時代に4000~5000人による大規模な「戦争」があった証拠がトレンゼ・バトルフィールドから見つかっています。

これは最古の戦争の事例であり、これほど昔から大規模な闘争が起きていたことを示す重要な事例でもあります。

前の記事にも書いたように、この争いは「1日で終わった」と考えられていますが、恐らく明確な証拠はないでしょう。

戦闘規模からの類推や、兵糧の存在を示す証拠の不在から、恐らく1日で終わったと推定しているのだと思います。

最古の戦跡なのに、この頃から既に兵糧を準備し、長期の戦闘行為に備えていたとあればそれこそこれまでの歴史の常識がひっくり返されることになります( -д-)ノ

恐らく1日で終わったとは言え、こうした大規模な戦闘(少なくとも2000人 V.S. 2000人)が何故このトレンゼ・バトルフィールドで起きたのでしょうか?

誰が戦ったのでしょうか?

ドイツ北部に住む同一集団内の抗争でしょうか?

ドイツ北部に住む他集団間の抗争でしょうか?

あるいはドイツ北部の地元集団と、他地域の集団との抗争なのでしょうか?

これがトレンゼ・バトルフィールドにおける『大規模戦闘の謎』なのです(*^・ェ・)ノ




さて、トレンゼ・バトルフィールドにおける発掘調査で進展がありました。

調査範囲が拡大することで、どうやら戦いはトレンゼ河の両岸の土手道で始まり、河下へと移動していったと推定されています。

両岸の土手道で戦闘があったのは考古学的に分かるとして、河下へ移動していったと何故考えるのかはよく分かりません( -д-)ノ

もしかすると、河下で上に挙げた写真に見られる『一風変わった』遺物が出土したことに根拠を置いているのかなと思います。

これらの遺物集中は古代の土手道から約300m下流の川床の堆積物から見つかったものです。


合計31点の青銅器で、本来有機物製の入れ物に入っていたものがここに流れ着いて堆積したと推定されています。


こうした証拠から下流へと逃げながら戦闘が続いたと考えているのだと思いますが、上流で死んだ戦士の持ち物が下流へと流されたとも考えられるので、私としてはこれだけでは下流方向へと移動しながら戦闘が続いたとは言えないと思っています。


そもそも考古学は時間を扱うとは言え、「一日で終わった戦闘中の更に細かな時間の変化」なんて捉えることができません。


考古学で扱う時間とは土器などの遺物の変化に着目したもっと長期的な時間なのです(*^・ェ・)ノ



arukemaya1157
↑丸いカンカンのような青銅製ケース(「ナショナルジオグラフィック」の記事内画像より転載)



これらの青銅製の遺物はキリ、ノミ、ナイフ, 青銅のくずなどでした。


また上に挙げた写真に見られる円筒形をした青銅製の小さな丸い箱が見つかっています。


この丸い箱はベルトに取り付けられる形になっています。


同じ下流の川底の堆積物の中から人骨も見つかっているそうです。


この人骨が破片なのか全身骨格なのかで、河に流されたのか、下流まで来てここで死んだのかを考える上で大きく変わってくるポイントなのですが、それに関する情報はまだありません( -д-)ノ


他に先に挙げた写真の中に見られる青銅製の筒状の遺物が3点見つかっています。


これは個人的な持ち物を入れる袋か箱の付属品だったと想定されており、同様の品は数百キロ離れたドイツ南部とフランス東部でしか今のところ見つかっておらず、この場所では珍しい出土品だということです。


これはトレンゼ・バトルフィールドで戦った戦士たちの少なくとも一方が遥か遠くの地域からやってきた集団である可能性を示しています。


ただ新たな疑問が生まれます。


戦場へ赴く戦士が何故、キリ、ノミといった工具類や青銅のくずといった加工過程でできる副産物を携行しているのでしょう?


「考古学あるある」であり、且つ、ある意味考古学の限界とも言えるのですが、『よく分からないことは(とりあえず)儀礼行為とする』というものがあります。


トレンゼ遺跡の調査者たちも、恐らくは青銅器時代の戦士たちが儀礼的・呪術的な目的で戦闘とは無関係に思える金属加工用品を携行していたと推定しています。


繰り返しになりますが、トレンゼ・バトルフィールドのようなケースは「SSR」級ですから、今後青銅器時代の類例が見つかるまでは、こうした金属加工用品を戦士が携行することが「普通」なのかそうではないのか未定のままとなるでしょう。


また人骨のDNA分析結果では、ドイツ北部の現地人集団と、南ヨーロッパを含む遠隔地の多様な戦士の集団との戦いであったことを示しており、ドイツ南部やフランス東部でしか出土例のない金属加工用品の出土を根拠とした現地集団と遠隔地集団との戦いという類推を後押ししています。


戦士の歯の同位体分析でも2つの戦闘集団を特定しており、1つはドイツ北部出身の現地人集団、もう1つは多様な中央ヨーロッパ、ボヘミア(ドイツ南東部)などから来たと考えられる集団です。


こうした研究成果は異なる少なくとも2つの集団が交戦したことを示唆しています。


おわりに、ー謎は謎のままー

実は新たな研究成果として、別の人骨のDNAに関する分析では戦士たちがヨーロッパ中部と北部の人々だったと結論付けています。

よくヒトとチンパンジーは2%しかDNAの違いがないなんて言い、なので人類における所謂「人種」なんてものはそれ以下の僅かな違いでしかない、だから「人種差別は不当」なんて論理展開も多々見受けられます。

ということはヨーロッパ内、特にドイツ北部を中心とした「狭い」エリアの中で、かつて住んでいた人々の間のDNAの違いはいかほどなのでしょうか?

少なくともドイツ北部の同一集団内における闘争という解釈は非常に弱まっていますが、現地人集団 V.S. 他地域集団の構図が適当にせよ、他地域集団というものが多様な複数地域出身者から成る集団なのか、そしてそれはどれだけ遠隔地なのかという点については現在も謎のままなのです。

今や、人骨に対する形質人類学的分析や、理化学的なDNA分析や歯の分析は、考古学における学際的研究として不可欠なものとなっています。

しかし地道な考古学調査も重要なわけで、やはりトレンゼ・バトルフィールドにおける調査範囲の更なる拡大によってデータを収集すること、トレンゼ・バトルフィールド周辺の「集団が居住したと考えられる拠点」の発見などがこの謎を解く上での鍵となることは間違いないでしょう。

一方で今ある状況証拠だけでも色々と考えることができると思います。

我々考古学者は「鑑識」として働きますので、皆さんも「考古学探偵」としてこの考古学ミステリーに挑戦してみてはいかがでしょうか?

(名探偵コ〇ン!)


真実はいつも土の中!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 9にち(げつよーび、雷を伴う暴風+霰)

今日は論考一気に書き終える日( ・Д・)


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arukemaya1161


今回の考古学・歴史ニュースは「人類史上とても重要な発見、最古の大戦場跡が見つかったよ!ー前編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


戦争は「行為」であって、土器や石器のように「道具」として残るわけではないので、その痕跡はなかなか発見されにくいものです。

そのため、人類史研究において「戦争」は重要な研究対象なのですが、その残りにくさから扱いにくいテーマでもあります。

遺体は野ざらしになる傾向が強いですから、丁寧に埋葬された場合と違って腐敗が進んで朽ちてしまいますし、戦死者が埋葬されてしまうと普通の埋葬墓との区別が付かなくなってしまいます( -д-)ノ

火事場泥棒的に、戦死者の武具などが回収されてしまう場合もありますし、どうしても戦争はその性格から考古学では取り扱いにくいものなのですヽ(TдT)ノ

そういうこともあって、今回紹介する古戦場跡はその発見自体がレアな大発見なわけですが、それだけではなく欧州最古の事例&青銅器時代に大規模な戦争の痕跡という点で重要な発見なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ





発見の舞台はドイツ北部のトレンゼ遺跡です。

上の1枚目に挙げた写真で見られるように、河のほとりにある遺跡です。

河から供給される水分が遺物や人骨の良好な保存状態を保ち、今回の大発見に繋がったと言えるでしょう。

ここではBCE1200年頃に河岸で戦って死んだと考えられる1万2000点もの人骨や武器類が見つかっています。

上の2枚目の写真に見られるように、かなりの量の人骨が集中しており、この写真の地点では12㎡の範囲から20個体分の頭蓋骨を含む1478点もの人骨が出土しました。

人骨が集中して見つかっただけでは「戦争」があったことにはならず、乱雑に配置された合葬事例や共同墓地ということも考えられます。

この事例の場合では多数の武器だけではなく、明白な状況証拠が揃っていたため、見つかった多量の人骨は戦死者と考えられたのです。

その証拠を見ていきましょう。






これらが武器を伴う人骨よりも直接的証拠として扱われた例になります。

最初の写真では、見事なフリント製の石鏃が上腕骨に突き刺さっています。

2枚目の写真では、保存状態の良い頭蓋骨の頭頂部付近に、不自然な陥没が見られます。

これは棍棒などによる強い打撃で頭を割られたことに起因する痕跡だと推定されています。

3枚目の写真では、石鏃が頭蓋骨を貫通して脳まで到達している状態を示しています。

これに加えて発見された1万2000点もの人骨が少なくとも140人分であるとの個体数を推定する結果が出たこと、この140人のほどんどが20~30代の上記のような外傷以外で病気などの見られない健康な「男性」であったことがトレンゼ遺跡がバトルフィールドである根拠になっています(*・ω・)ノ






おわりに、ートレンゼ・バトルフィールドの謎(前編)ー

さて、最後に挙げた写真と図は「Science」誌に載ったものです。

上の写真のような出土品が多数見られ、これらが「青銅器時代の戦士」の携行品と考えられています。

こうした携行品や他に出土した武器類から推定されたのが下の図の「青銅器時代の戦士」です。

勇ましく描かれていますねヾ(´ω`=´ω`)ノ

さて、人類史は戦いの歴史であり、特にヨーロッパ史は常に戦争ばかりなわけですが、20世紀までは青銅器時代のヨーロッパは比較的平和な社会だと考えられていました。

より古い時代にヨーロッパで大規模な戦いがあったという歴史記述が、ギリシャやエジプトなどに残されていましたが、最初に述べた「戦争」の痕跡は発見されにくいため、これまでトレンゼ・バトルフィールド級の古戦場の遺跡は見つかっていなかったのです。

これまでにも青銅器時代の武器は出土していましたが、埋葬遺構における副葬品や、儀礼に伴う埋納品としての出土しかなかったのです。

トレンゼ・バトルフィールドの特徴は考古学的に認められる最古の事例というだけではなく、最大規模の戦闘行為の痕跡が残る事例だということです。

調査範囲からは140人分の人骨が出ましたが、遺跡全体の10%ほどを調査したと考えられることから、全体の死者数は1400人程度になる見込みです。

戦争は生き残りをかけたバトルロワイアルではありませんので、実際に戦争に参加したのはその2~3倍程度、4000~5000人ではないかと推定されています。

戦闘自体はおそらく1日で終わったと考えられていますが、この規模の戦闘行為は青銅器時代ではこれまでに見られない圧倒的なものなのです。

ここで問題なのは、何故トレンゼ遺跡で大規模な戦闘が起こったのかということです。


欧州各地から来た他集団同士が争ったのか、トレンゼ地方の同一集団における内紛だったのか・・・・・・


誰が、何故この地で戦ったのかは現在も謎のままなのです。


どう思いますか?ー後編へ続くー( ・Д・)



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2020ねん 3がつ 12にち(もくよーび、晴れ)

帰国し始める前に記事をもう一本書いておこうかと(*・ω・)ノ


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arukemaya816


今回の考古学・歴史ニュースは「北海道、洞爺湖の湖底に謎の木が立ってるよ!」ってお話です(*・ω・)ノ


何故、今、湖底の大木がニュースなのか?

考古学ではないけれど、大地の歴史ということで( -д-)ノ

また、知り合いがジオパーク関連で働いているので応援も兼ねまして、、、

この話題は特別新しくはなく、地元の人は昔から知ってるらしいですね。

まぁ札幌民の私は全然知りませんでした。

資料調査で何度も洞爺湖の周りを車で走りましたけど当然噂を聞くことも直接目にする機会もないわけで、まぁ多くの人にとってはニュースということです(*^・ェ・)ノ

どうやら調査としてしっかりと確認されたのは2009年頃のようです。




その上で何で今更なのかというと、洞爺湖有珠山ジオパークとして頑張ってるからですね。

このジオパークは洞爺湖及び有珠山を中心とし、伊達市、豊浦町、壮瞥町、洞爺湖町に広がるもので、2009年にユネスコに認定されました。

ちょうどその時の調査でこの湖底に佇む大木の状態が確認されたわけです。

20~50年周期で噴火を繰り返す有珠山に対して防災のために火山マイスター制度を導入したりと頑張っているので、今一度注目して欲しい!という意味合いで、この湖底の大木が地元の新聞記事に掲載されたわけです。






大木は何故、水深30mの湖底に立っているのか?

上に挙げた図はジオパークの公式サイトからの転載ですが、絵面が可愛いので採用しました(*・ω・)ノ

この図では有珠山の山体崩壊のことを説明しているので、海側に流れ込んでいます。

何度も噴火している有珠山の一部は、同じように湖側にも土砂として流れ込んでいるのです。

今回の記事にある高さ10mの大木はこうした火山活動の一部として土砂とともにスライドするような形で湖底まで運ばれたのです。

なので湖底には他にもこのような樹々が見つかっています。

ただ少なくとも100年も経過した中で直立しているのはこの大木のみです。

大きいのでよっぽど根がしっかりしているのでしょうね!(*^・ェ・)ノ




おわりに

ジオパークでは今後しっかりとした調査を行い、いつ、どれくらいの規模でどのようなことが起きたのかを明らかにしていくようです。

万人にとって特別新しいニュースではありませんでしたが、、

どんなところにでも歴史はあり、現在のどんなことにもそれなりの理由があるのだなと感じて頂ければ幸いです。

過去と現在は繋がっていて、決して無関係ではないのですから(*・ω・)ノ レキシ,ダイジ!

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2018ねん 11がつ 19にち(げつよーび、晴れ)

久々に更新した。

ネタに溢れてはいるが時間が溢れていない( ・Д・)

12月は頑張るから許して~( -д-)ノ


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは、中国の巨大人工洞窟、龍游石窟(ロンユーせっくつ)です!

この遺跡における発見はミステリーに溢れていて、世界9番目の不思議と名高いそうです(世界的には七不思議じゃないのね、今度他のも調べますね( -д-)ノ)。

場所は中国の浙江省(せっこうしょう)です。東シナ海に面していて、上海のすぐ南(南西約400km)に位置しています。

龍游石窟は1992年6月9日、地元の村人が「底なし池」の水を抜いたことで偶然発見されたという経緯を有しています。「底なし池」というのは地元の人々がそう呼んでいたというだけです。が、なんかオカルト的にはウケそうな響きだからか、どの記事にもその呼称が用いられて書かれてますね。

この龍游石窟が有するミステリーは簡単に述べると以下の通り!


①生命が存在しない

龍游石窟は元々水没していたわけで内部は水浸しになっていたにも関わらず、不思議なことにそこには魚はおろか、あらゆる生物が一切存在しなかった、そうです。


②巨大な空間

龍游石窟は36個の大小の人工石窟群からなります。一つの空間の高さは30メートル、広さは1000㎡で、合計すると3万㎡という面積になります。掘削・採取された石材は東京ドーム約1個分に相当する100万㎥になり、1000人の人間が昼夜問わず作業にあたったとしても6年もの歳月がかかると試算されている、そうです。


③歴史に残っていない

これだけ大規模な労働力を投下できるのは地方の有力者では不可能であり、王のクラスであったと考えられます。しかし歴史記録として一切残っておらず、そのため莫大な石材が何に使われたのか、あるいは石窟自体に用途があったかも知れませんがその用途も不明です。


④暗闇での作業方法が不明

洞窟内は暗いです。上に挙げた写真のように入り口付近には太陽光が差し込みますが、奥の空間には当然光が届かず完全な暗闇になります。しかし松明やランプ等の採光手段を使った際の煤の残滓が一切発見されていません。写真に見られるように、天井や壁、残柱には縞状の文様が付けられているため、暗い中での作業は不可能だったでしょう。


⑤高精度の測量技術

36個ある石窟の内部はそれぞれ完璧な対称性があり、正確な製図・測量技術があったことを意味するとのこと。またそれぞれの空間は互いに独立しており、連絡通路は存在しません。場所によってはわずか厚さ50cmの壁で区切られており、意図的に連結しなかったことは明らかだ、そうです。


⑥保存状態が素晴らしい

少なくとも2000年以上前の構造物にもかかわらず、一切の崩落や損傷がなく、完璧な状態で保存されていたそうです。この石窟のある地域では歴史上、何度も洪水や地震に襲われており、近隣の山は形を変え、外気に曝された岩石には浸食がみられるにもかからず、石窟内はまるで完成したばかりのような状態とのこと。


⑦建造年代は少なくとも2000年前

建造年代については諸説あるようです。

A:紀元前500年~紀元前800年説
B:中国最初の王朝である秦朝(紀元前221年~206年)以前に建設された説
C:春秋戦国時代(紀元前770~221年)、特に春秋時代(紀元前770~500年)

これらの説を参考に、多くの記事では「2000年前」、「少なくとも2000年前」、「2500年前」と記述しているようです。


以上のように7つの不思議なことがまことしやかに様々なサイトで散見されます。まぁ基本的にオリジナル記事から参考・引用してるのでしょうから、似たような内容に落ち着くのでしょうね。


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☆検討!( ・Д・)

ではここで先に述べた7不思議について検討していきたいと思います。


①生命が存在しない件について

存在しないわけないですね。水を放置しておくだけで植物プランクトンとか増えますしね、お魚類を飼育したことがある人でグリーンウォーターを作ったことのある人なら経験的に分かるでしょう。そうなると当然それを餌とする動物プランクトン、昆虫類、水鳥も生息しているでしょう。つまり明らかに誇張です。

これは『村人が水を抜く前に発見した大きな魚を、水を抜いた後に発見できなかった』という内容が膨れ上がってます。

元々、何故村人は水を抜いたのか? 実は放流していたコイ類を捕獲するためです。だから普通に生命いますよ。

では何故発見できなかったのか? 石窟は発見当時は24か所の空間だけしか見つかっていませんでした。その内、水を抜いたのは6か所だけです。現在までに36か所が発見されていますが、現在でも水を全部抜いているわけではありません。つまり水を抜いている間にお魚さんは水の残るより深い部分に逃げて行ったからですね、水ないと困るからっ!( ・Д・)

結論:生命はいたと思います( -д-)ノ




②巨大な空間、③歴史に残ってない、⑦建造年代

巨大な空間、確かに広い。石材・空間の用途不明、歴史に残ってない。まぁこれらは謎ですね。

建造年代については、A:紀元前500年~紀元前800年説は、天井とか壁に描かれた縞模様が該当する時期の土器に見られるというのが根拠だそうです。このような模様の建造物が他に残って発見されているなら分かりますけど、土器の模様と同じと言われてもかなり単純な模様ですからね、根拠として薄いでしょう。

B:中国最初の王朝である秦朝(紀元前221年~206年)以前に建設された説は、龍游石窟について歴史に一切残ってないからというのが根拠みたいですが、根拠になってないですね。いつだろうが残るものは残るし、残らんものは残らんと思います。

C:春秋戦国時代(紀元前770~221年)、特に春秋時代(紀元前770~500年)については、これが唯一の考古学的根拠に基づいた説です。

2001年に行われた学際的調査の際に、ひとつの石窟空間の中心部にある貯水場らしき構造物に堆積した泥土の中から半完形の土器資料が出土し、その土器が春秋時代に属する遺物だったのです。

しかし考古遺物が1点のみであり、後世に古い時期の土器が持ち込まれた可能性も否定できないとして、プロジェクトでは可能性の一つとして扱い、時期の断定を行いませんでした(谷本 2003: 1394)。



*引用文献
谷本 親伯
2003 「岩盤工学の最近の話題 4.古代遺跡保存と岩盤力学」『材料』Vol.52、No.11、pp.1391-1397、日本材料学会、京都市



上記論文で紹介されている説では、呉王が越王を征服し、越王が20年後に復讐し呉国を滅ぼした事件、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と関連する遺構である可能性を一例として指摘しています。

「史記」によれば、越王が急いで復讐しようとしたところを部下に止められ、製造した大量の兵器を山中に隠したとする伝説が残っており、これが相当する可能性があります。

石窟の用途としては上記の倉庫の他に、秘密裏に軍人を訓練する空間との指摘もありますが、谷本は地形・地質条件から否定的な見解を述べており、この石窟が食糧庫であった可能性を指摘しています(谷本 2003: 1395)。

四字熟語として国語で習うこの「臥薪嘗胆」と龍游石窟が関係しているのであれば、時期は紀元前6世紀末~5世紀初頭となるでしょう。



それにしてもただの食糧庫なら、何故、壁や残柱、そして天井まで縞状文様が付けられているのでしょうね。元々他の装飾を伴う必要のある用途で造られていた空間を食糧庫として利用したのか、あるいは一定のノミ痕を残すような掘削技術が用いられていたためで意図的な装飾ではないのか、この辺りは謎ですね( -д-)ノ

手の届かないような高い部分に鳥・馬・魚の模様が描かれているそうですが、元々は儀礼的な意味合いがあった空間なのかも知れませんね。まぁデータがないので模様の精巧さや量が分かりませんが、採掘場の壁って往々にして作業員のいたずら書きがあったりしますからね。

あと各空間の中央には貯水池状の長方形の掘り込み遺構があるということで、やっぱり備蓄庫? 気になるところですね(。・ω・)ノ゙



④暗闇での作業方法が不明

確かに松明とか使うと煤が残りますね、天井とかに。ノミを用いて手作業で削るわけですし、天井までは30mもあるし、梯子とかを組んで手元を照らすとしたら、やはり壁や残柱にも煤が付着するでしょうね。

1000人程度で寝ないで作業して6年間かかる……まぁ1000人動員したという数字に根拠があるのか分かりませんけど、仮に1000人働いて、ちゃんと寝てもらったら18年くらい? 越王は20年後に復讐してるからまぁもうちょっと急いで空間作って欲しいよね、軍事用の備蓄庫だとすると。

私の疑問①:約20年働いたことで溜まる煤ってどれくらいなのか?
私の疑問②:2000年以上水没してる間になくならないものなのか?

この辺はちょっと分かりません( -д-)ノ

あともし食糧庫として使われる前に儀礼用に使用されていたなら、完成した後に煤を取り払っていたかも知れませんよね。

(まぁ個人的には吞気に泳いでるコイが煤をツンツンして食べちゃったことに一票入れたいけど( -д-)ノw)



⑤高精度の測量技術

正確な製図と測量技術によって空間同士がわずか厚さ50cmの壁で区切られており、意図的に連結しなかったことは明らかだってことでしたが、この50cmの壁ってNo.1、No.2と名付けられた2空間の間のことだけなんですよね。

他の大多数である34空間の間は普通にがっつり距離あるようです。だから、言うほど各空間は左右対称じゃないし、偶然の産物でしょう。

壁の分析によると、地層と既往の割れ目を利用して掘削されていることが分かっています。製図したプランに基づいて正確な測量によって掘削したのであれば、複数個所で均一な薄い壁が造られるはずですね(谷本 2003: 1394)。


⑥保存状態が素晴らしい

確かに綺麗ですよね。写真で見ると。ここは観光地化された空間ですけどね。

奥の方がどうなっているのかは分かりません!

完全に水没したのがいつかは不明ですが、掘削を行ってからは少なくとも2000年は経ってそうです。でも「底なし池」ということで恒常的な水の流れはありませんし、洞窟内は完全に水没していますから風の影響も少ないですよね。

この状態でどれだけ風化・浸食されるのでしょうか? 日本の研究者、特に岩石学や地質学の方々も実は現地に赴いて様々な理化学分析を基に僅かに見られる浸食の度合いから時期判定を行っているようですが、なかなか時期決定の決め手となるような成果は上がっていないようです。

考古学でもそうですけど、石材の加工に関する時期判定って難しいと思います。地質年代じゃなくて、比較的短い人類史の中で判定していかなければなりませんからね。

奥まで全部水抜いて、時期判定に繋がるような遺物を発見することの方が早い気もしますね( -д-)ノ


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さて、ここまで書いておいて、違う記事見つけてしまいました。最初から中国の記事を読めば良かった。現地の記事だもんね~ヽ(TдT)ノ

ということで2017年4月に龍游石窟の近くでより巨大な石窟群が見つかったそうです。

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龍游石窟の事例で縞状文様と表現されていたノミ痕はこの画像からすると装飾というよりはただのノミ痕に見えますね。

あと龍游石窟で空間の中央に配置されていた貯水池状遺構ですけど、ここではレンガブロックを積み上げたような背の低い構造物が林立してますね。

これって現代でも見られる、セメント作るために材料こねて混ぜ合わせる水槽では?とか思うんですけど。砂岩等の堆積岩はセメントの原料に使われますから、採掘された大量の石材とかズリは古代コンクリのようなセメント状の接着剤として加工して使われたのかも知れませんね。

あるいはここにあるようなレンガブロックに姿を変えたかも知れませんね。分析によると龍游石窟の壁は砂岩でできていて、モンモリロナイトという粘土鉱物を多く含んでいますから、砂岩ブロックの素材として有用だったでしょう。

地面も洞窟壁面もレンガも赤っぽいですよね。これは龍游石窟を含むこの辺りの砂岩が赤鋏鉱を含んでいるからで、たぶんここにあるレンガの素材と洞窟を構成している砂岩は同じものな気がします。

……なんか分かっちゃった!?( ・Д・)

まぁ新聞記事なので詳しい情報は書いてませんが、このような分かり易い遺構が見つかっているなら、共伴する遺物も含めて、龍游石窟の時期判定もできそうな気がしますね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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↑奥はこんな感じだった。水溜まってますね(「Japanese.CHINA.ORG.CN」の記事内画像より転載;;日本語!)


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あー、久々だからか、気合入って長くなりましたね( -д-)ノ

お付き合い頂きありがとうございました。まぁ検討してみたら、7つの不思議については色々と胡散臭い部分も出てきたわけですが、それでも考古学・歴史学的な謎と浪漫はしっかりと残ります!

今後の調査で龍游石窟の時期や性格の解明に繋がるような遺物が発見されることを祈ってます(。・ω・)ノ゙

↓お久しぶりです。ほい、ぽちっとな(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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