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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:メキシコ

2023ねん 2がつ 14にち(かよーび、晴れ)

お酒絶ってもたくさん食べたら太る!( ・Д・)

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↑月のピラミッド、右端にタルー・タブレロ建築が見える、、、ように撮った!( ・Д・)(あるけまや管理人撮影)


今回の考古学・歴史ニュースはテオティワカンって何?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



前回はマヤ文明史概観と言っておきながら、ほんとにさらっと流して、ガチ勢向けの部分的な細かい説明をしてしまいました( -д-)ノ

まぁというのも、次回の「マヤとテオティワカンの関係」について書く際に、どうしてもマヤ文明史を見直す必要があるからなのです。



と言い訳をしつつ、今回はテオティワカンの話!

でもまずは「クイクルコ」から始めましょうヾ(´ω`=´ω`)ノ








クイクルコって何?

さて、まずは「クイクルコ」です。

これは遺跡名です。

当サイトに初めて来訪される方もいるかと思い、分かりやすい図を上に用意しました。




一般の方と話してるとメキシコの位置が分からない人が多いので、まぁこれならわかるでしょう!

北米と南米の間の細いとこら辺で、アメリカ合衆国の南にあるやつです!

上の2枚の図にあるポイントの位置は両方ともクイクルコの位置です。




2枚目の地図を見て分かるように、クイクルコ遺跡はメキシコシティの中にあります。

南の外れですし、さして見栄えも良くないので(アステカの首都テノチティトランやテオティワカン遺跡に比べたらそりゃあそう(/TДT)/)、観光客はほとんどいません。

古代遺跡を観光名所として、外貨獲得源としてメキシコ政府は多額のお金を投資しているのですが、そんな中にありながらクイクルコ遺跡は全然力が入っておらず、博物館内の説明文も印刷された「紙」の状況でした(2014年時;下の写真参照)。




まぁそれはさておき、遺跡の位置関係を整理すると、メキシコシティの南部にクイクルコ遺跡があって、メキシコシティの北東部にテオティワカン遺跡があって、更に北にいくとパチューカ山地があります。

パチューカについては後からテオティワカンの話の際に出てくるので気に留めておいてくださいな(*・ω・)ノ




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↑手作り感いっぱいの普通紙に印刷された説明文(あるけまや管理人撮影)




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↑クイクルコ遺跡にある円形ピラミッド(あるけまや管理人撮影)



なんでこんな撮り方したのか大いに謎ですが、ピラミッドの基壇が円形であることが分かるかと思います( ・Д・)

(たぶん他の観光客が来る前に慌てて撮ったからパノラマじゃないのかと思われ……)


こうした円形基壇のピラミッドは古代メキシコ文化にはよく見られます。

後古典期(CE1000-1500)に特によくあるのです。




さて、なんでクイクルコ遺跡の話をしているかというとテオティワカンの前身という説があるからなのです。

クイクルコ遺跡は先古典期遺跡で、BCE800年頃に居住が開始されます。

BCE150-CE1頃に最盛期を迎え、人口は2万人と推定されており、当時のテオティワカンよりも大きな重要都市だったのです。




しかしながらCE70年頃にポポカテペトル山、CE150年頃にチチナウツィン山、CE275年頃にシトレ火山が噴火し、クイクルコは連続で被害を受けました。

特に最後のシトレ火山の噴火の際には5~8mの溶岩がクイクルコに大量に流れ込んだために放棄されてしまったのです。



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↑クイクルコに流れ込んだ溶岩の痕跡(あるけまや管理人撮影)



上に挙げた写真のようにクイクルコに流れ込んだ大量の溶岩は都市中心部(遺跡中心部)を完全に覆い尽くしています。

壁に見えるものが溶岩が固まったもので、手前の歩道になっている面が発掘によって姿を現した当時の文化面(生活面)です。




この先古典期に一大都市であったクイクルコが度重なる噴火によって衰退したために、噴火の影響がより少ない立地にあったテオティワカンなどの別の遺跡が急成長しました。

そのためクイクルコの放棄に伴って大人口がテオティワカンに移動したのではないかという説があるのです。



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↑テオティワカン中心部の測量図(Morton et al. 2012: Figure 1より転載)



テオティワカンって何?


テオティワカンはBCE200年頃から居住が始まっており、CE1年頃に都市として成立しました。

その後、上図の赤い部分の真ん中にある上下に走る直線部、「死者の大通り」が建設され、周辺部も整備されていきます。

最も人口が増えたのはクイクルコがシトレ火山の噴火で衰退した後のCE300年以降と考えられています。




一気に人口が増加したので、上図のような非常に計画的な都市建設が一気に行われたのかなとも思えます。

一方で気になるのは、クイクルコは円形基壇の神殿を造っていたわけですが、テオティワカンの建造物は上図のプランを見ての通り、方形基壇です。

大量の人口移動はあったものの、主導権はあくまで元からテオティワカンにいた集団だったということなのでしょうか?


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↑タルー・タブレロ建築の構造(今泉 2019: 図3-4-1より転載)



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↑実際のタルー・タブレロ構造(あるけまや管理人撮影)


テオティワカンの最盛期はCE200-550年頃であり、人口は10~20万人と推定されています。

この最盛期にはメソアメリカ最大の都市として広く周辺地域へ強い影響を与えており、それにはマヤ地域も含まれるのです。

他文化地域にテオティワカンに由来する遺物や図像モチーフ等が現れる現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。




「テオティワカンの影響」によりマヤ地域で見られる特殊なテオティワカン様式の遺物・遺構には、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器(香炉)を代表として、他に石碑や祭壇、土器、壁画などの様々な図像モチーフにテオティワカン様式の図像が出現します。

建造物装飾としてはタルー・タブレロ様式が有名です。

これは上の図・写真に挙げたようにタルー(斜壁)とタブレロ(方形壁)を交互に組み合わせた基壇装飾です。

「テオティワカンの影響」に関しては長くなるので次回の「マヤとテオティワカンの関係」の際に触れたいと思います。



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↑ケツァルコアトルの神殿から見た太陽・月のピラミッド(あるけまや管理人撮影)


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↑ケツァルコアトルの神殿の基壇装飾に見られるケツァルコアトルとトラロック(あるけまや管理人撮影)


メソアメリカにおいて広域に影響を及ぼした大国テオティワカンは7世紀頃に急激に衰退し、放棄されてしまいます。

滅亡理由はマヤ地域と同様で複数の候補があり、恐らく複合的と考えられています。

つまり、よーわからんってことです( -д-)ノ




大干ばつ、森林伐採による環境破壊、宗教対立、異民族の侵入・・・と内容は古典期マヤと大差ありません。

メシカ人(アステカの人々)が12世紀にこの地を訪れた時にはテオティワカンは無人の廃墟でした。

しかし多数の美しい建造物が立ち並ぶ姿を見て、ナワトル語で「神々の都市」、つまりテオティワカンと名付けたのです。



メソアメリカには多数の文化・文明が勃興していますが、体系的な文字を使用し現在にまで残ったのはマヤ文字だけです。

なのでテオティワカン人に関する文字記録(文字状記録を除く)は存在せず、彼らが使用していた言語も推定はされていますがはっきりとは分かっていません。




所謂旧大陸の諸文明、ヨーロッパに代表されるそれらの事例では、大体どれもが戦争で滅びて、同じ土地が次の文明・国家の支配領域になります。

でもメソアメリカでは放棄されがちですね。

亜熱帯や乾燥気候だと、森林破壊+干ばつによる地力の弱体化があまりに著しくそう簡単には回復せず、放棄せざるを得ないのかも知れませんね( ・Д・)

この辺も新大陸文明の発達の遅れと接触時の新大陸文明の勝利・支配の要因のひとつなのだと思います。



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↑テオティワカン遺跡の中(?)にある地下&洞窟内レストラン(あるけまや管理人撮影)




おわりに

上に挙げたのはレストランの写真です。

メキシコ的な原色カラフルな椅子が可愛いですよね。




テオティワカンは乾燥しつつ暑いなって感じです。

遺跡公園自体が広大ですし、ティカルのようなジャングルと違って巨大だけど背の低いサボテンくらいしかないので日陰がないのです。

だからとても暑い!




このレストランは地下洞窟内部に造られているので涼しくて快適です。

雰囲気も素敵!

ただお高いです。




ちなみに私はここで「アリの卵」と「イモムシの素揚げ」を食べました。

それぞれ100米ドル近くした気がする。

たぶん一人で食べるようじゃないので無駄に量が多くて辛かったです。

後半はビールで流し込みました(笑)




ちょっとアクセスしづらいけれど、メソアメリカの古代文明を感じる上ではとてもいいところですので、是非機会があれば行ってみてください。

その際は少し足を延ばしてティカルへもどうぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



何はともあれ、

気付けば長くなった!( ・Д・)



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2023ねん 2がつ 12にち(にちよーび、晴れ)

もう暖かだ、春!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは70年ぶり?マヤ展やるらしいから概説するね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、東京国立博物館で古代メキシコ展が開催されるそうで、今回から連続で「マヤ文明の話」、「テオティワカンの話」、「マヤとテオティワカンの関係」について概観していこうと思います。

私は例によって回し者ではございませんので悪しからず( -д-)ノ



さて、今回の特別展は大阪の国立国際美術館でも開催されるそうで、国内をいくつか周るようです。

大阪は2024年開催と書いていたので、今年(2023年)から2年くらいかけてグルグルめぐるのかな~と思ってます。

私は詳しく調べておりませんので、是非公式サイト等の情報をご覧になってください。


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↑メソアメリカにおける主要諸文明・遺跡の空間・時間的分布の(今泉 2019より転載)


マヤ文明史概観(?)


古代マヤ文明と言えば、最近日本語のでの概説書や一般書が増えてきているのでその歴史展開について知る機会も増えてきたかと思います。

メソアメリカ史の変遷は石期(上表にはない)・古期・先古典期・古典期・後古典期・植民地期・独立期/現代(上表にはない)の大まかな7区分が広く用いられています。




考古学は物質文化を扱うのでモノさえあれば古代から現代まで全ての時期が射程となりますが、有名どこはやはり先古典期中期から古典期を経て後古典期の終わりまでの2500年間です。

古代マヤ文明には例の有名なマヤ文字があるのですが、そこから得られる情報はあまりに限定的です。

なので皆さんが古代エジプトや古代ローマ、日本の古代に関する歴史関係の書籍などを学んで得たイメージとは大きく異なります。

ピラミッド建造に携わった人が二日酔いを理由に欠勤した、なんて具体的に分かるような世界と比べてしまうと、マヤ文明なんてほとんどよく分かっていないじゃんと感じてしまうのは仕方ないことなのです。

だからこそ、先古典期から後古典期はマヤ文字があるものの、考古学が”強い”時期であり、対象として主流となる時期なのです。




さて、マヤ文明史概観の話に戻すと、概説書等では先古典期から後古典期までの文化的変遷について記述されることが一般的です。

その中では特に「マヤ文明は独特な素晴らしい文化を有する」ことが自然と記述されていると思います。

こうしたマヤ文明を特別視する見方は1990年代以降にマヤ考古学史の中で刷新されているはずなのですが、自分の扱う対象を持ち上げる”質(たち)”は今も昔も変わっていないようです。

だって人間だもの・・・




上表を見ると分かるようにメソアメリカ地域にはマヤやテオティワカンの他にオルメカやサポテカなど様々な文化・文明があって、同時期に存在している事例も多々あるのです。

何かと所謂新大陸文明は旧大陸文明と接触を持たずに独自に発展したというイメージがあると思いますし(そうしている学者がいるから)、新大陸文明の代表としてマヤ文明を用いるから(そうしている研究者の主対象だから)、、、

結局、一般のイメージとして「マヤ文明=独自に発展した文明」を持つようになってしまっているという構造があると個人的には感じています。




でも違います。

メソアメリカには多数の文化・文明があって、その多くが同時併存していて相互に影響し合う関係にあったのです。

つまりマヤ文明はそうした数多ある文化・文明のひとつに過ぎず、様々な相互関係の中、たまたま特に古典期に大きく華開いた文明なのです。


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もう一つよくある誤解が、マヤ文明が滅んだって話に関してです。



先古典期にマヤ文化は国家形成期として人口が増え、階層化が起き、頑張ってピラミッドなどのモニュメントを造り始めます。

古典期には複雑なマヤ文字を使用して長期暦を含む石碑を建立し、ピラミッドや宮殿などの石造りの見事な特殊建造物をたくさん建てました。

古典期の終わりには大干ばつや戦争が原因でマヤ文明は崩壊しました、、、




ここまでが ”よくあるマヤ文明の概説” です。

実際に古典期マヤの中心地であったティカル遺跡などがあるペテン地域は後古典期には空白地帯になってしまいます。

文明としては崩壊しましたが、人が完全にゼロになったわけではなく、細々と暮らし続けていました。

なので古代マヤ人が全滅したわけではありません。




むしろペテン地域(ユカタン半島の真ん中ぐらいの位置)にいた人々は南北に移動したと考えられています。

そのため後古典期にユカタンの中間部は空白っぽくなりますが、中心地が南北に移動するだけで存続はしているのです。

現代マヤ人がいるのもそのためで、やはり全滅したり、文明が完全に失われたわけではないという点が重要です。

様々な形で南北端の地域の後古典期文化に崩壊してしまった古典期文化が引き継がれているのです。




↑参考程度に…もうちょっと時間をかけたいとは思ってはいるが( -д-)ノ




おわりに

結局マヤ文明史の流れについてはすごいはしょりながら、皆さんが誤ってイメージしがちな部分を修正してみた形になってしまいました・・・

次回は「テオティワカンの話」となりますが、最後の「マヤとテオティワカンの関係」について説明する際に、今回話したような、マヤ文明が決して単独で『鎖国的』に成立・発展した文明ではないことが分かってもらえるのではないかなと思っています。



何はともあれ、

特別展いいね!( ・Д・)



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2020ねん 6がつ 24にち(すいよーび、曇り)

明日、調査で遠出するし、山とか登るのに雨っぽい( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「メキシコのカサス・グランデス文化って知名度低いけど、なかなか面白いよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


上に挙げたのは前回に引き続きフアポカ遺跡です。

タイトルにある「絶壁に住んだ人々」ってのはこのフアポカ遺跡の人々のことです。

CE1000~1400頃まで居住していたようです。

さて、とりあえずフアポカ遺跡の写真をお見せしますね!


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さて、日本語では「カサス・グランデス文化」について調べてもほとんど情報がないのです。

スペイン語で調べるとチラホラと……

でもそのほとんどが、カサス・グランデス文化の中心地、パキメ遺跡に関するものです。




記事の見出し画像に用いたこの画像がパキメ遺跡です。

カサス・グランデス文化のカサスは「Casa(家)」の複数形+形容詞である「grande(大きい)」の複数形からなる言葉です。

上に挙げた写真のような光景を最初に見たスペイン人はきっと「大きい家」って思ったのでしょうね。

実際には「アパートメント式住居」などという呼称が用いられていて、一軒の大きな家なわけではありません。



また前回もお話したようにカサス・グランデス文化はチワワ州に位置しますが、同文化はカサス・グランデス川によって形成された渓谷に位置しています。

中心的な存在であるこのパキメ遺跡を始めとして多くの遺跡は川の近くの開けた平地部に立地しています。

なので渓谷の断崖に造られたフアポカ遺跡のような事例は珍しいのです。

恐らくフアポカ遺跡は渓谷を見渡す見張り台のような役割を果たしていたのでしょう。


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カサス・グランデス文化を中心として、後古典期(CE1000-1500)の文化は総じて、こうした土器・土製品が特徴的です。

白っぽい羊毛色(薄いベージュ…ないし汚れた白( ・Д・))を下地(化粧土;スリップ)として、その上に黒色と赤色の塗料で彩文してます

マヤ地域の方でも似たような感じになります。

特に南部側では。

分かりやすい特徴ですので、是非覚えてみてください(*・ω・)ノ




おわりに

「マヤ土器入門」として時期別の簡単な土器の見分け方を示すのも良いかも知れませんね。

ほんと、書きたい記事もたくさんあるし、企画は止まってるし、、、

Youtubeも止まってるし、、、

でも日々の仕事と、論文優先だし!( ・Д・)( ・Д・)( ・Д・)


いつものことですが、優しい気持ちで気長にお待ちくださいますようお願致しますっ!( ・Д・)

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2020ねん 6がつ 21にち(にちよーび、晴れ)

フリースペースにブログ書きに行ったら、PCの充電なくてただの散歩になった( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「メキシコにはたくさんの文化遺産があるんだよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


当サイトでは以前より、メキシコは国を挙げて考古学調査と古代遺跡の観光地化に力を注いでいるんだよ!ってお話をしてきたかと思います。


というのも、、、


メキシコの古代文明と言えば、恐らく最も有名なのは『アステカ文明』ですね。

1521年にコルテス率いるスペインのコンキスタドール達によって陥落した首都テノチティトランは現在のメキシコの首都であるメキシコシティの地下に眠っています。


次いで有名なのはきっとユカタン半島北端に位置するチチェン・イツァ遺跡ですね。

当サイトの管理するYoutubeチャンネルでもトップ画に使ってる「エル・カスティーヨ(城塞と呼ばれる神殿)」で有名な遺跡です。

こちらのチチェン・イツァに関してはマヤ文明、あるいはトルテカ文明に帰属する遺跡です。

このようにメキシコはたくさんの古代文明、古代遺跡が存在する国のひとつなのです。

なのでエジプトのように古代遺跡を中心とした観光業に力を入れています。

またエジプトのようにメキシコの北部には特に乾燥地帯がかなり広がっていますので、遺物や遺構の残りが良いというのも文化遺産活用が活発な国が有する共通点だと思います。





今回紹介するのはメキシコ北部、チワワに所在するフアポカ遺跡です。

チワワはその名の通り、あの日本でも大人気な小型犬のチワワのふるさとです(*・ω・)ノ

フアポカ遺跡はカサス・グランデス文化に属しています。

この文化は8世紀頃に生じ、その頃は狩猟採集生活が続いていました。

大きく発展し、人口も増加したのが13世紀から14世紀にかけての頃と考えられています。

このフアポカ遺跡はカサス・グランデス文化の中心地ではありませんが、断崖絶壁に造られた住居で有名です。



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メソアメリカ諸文化はかなり類似点が多いです。

恐らく長距離交易 を通じて様々な情報が行き交ったのでしょう。

建造物の壁面に見られる『T字型の窓』も類似点のひとつです。



これは古代マヤ文明の古典期(CE250-1000)に帰属する建造物壁面にも多く見られるものです。
 
例えば、私の調査しているグアテマラの世界複合遺産、ティカルでも見られます。

マヤ文明研究においては「T字」は「イク(風の意味)」を表していると考えられています。

恐らく、古代マヤの宗教観における創造神・最高神であるククルカン(ケツァルコアトル)が、雨雲を呼ぶ風の神としての性格でも崇められたため「T字」が多用されたのだと思います。

(これ私の意見、というか感想……直感?(笑) ちょっと宗教関連疎いので近いうちに先行研究を調べておきますね( -д-)ノ)

実際にこの「T字」文様は土器の図像等(彩文・刻文)にもよく現れます(*^・ェ・)ノ


 

おわりに

次回、また他のフアポカ遺跡の写真を紹介したいなと思います。

以前、カサス・グランデス文化関連について少し調べたことがあるので、カサス・グランデス文化とフアポカ遺跡について次回はもう少しだけ詳し目に記述できればと思います。


ところでちょっと行きにくいけど、こういうホテルとかいいですよね(・∀・)つ

そう言えば洞窟ホテルってどこかにあったような……



世界には様々な遺跡や博物館があります。

是非、色々と周ってみたいものです……


お金と時間に余裕があったらねっ!( ・Д・)

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2019ねん 7がつ 6にち(どよーび、晴れ)

週1の休みで十分研究していけるなと思っていたが、甘かった。

やはり2日欲しい!

だってその1日の休みを調査・研究に充ててたら休めてないじゃないか!( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・




さて、今回の考古学・歴史ニュースは「古代マヤ文明のウシュル遺跡にて、斬首された大量の人々のお墓と、王子様のカップが見つかったよ!」というお話です。


  1. ウシュル遺跡の概要
  2. 斬首された大量の人々の墓の発見
  3. 史上初となる王子様のカップの発見
  4. おわりに


1.ウシュル遺跡の概要

ウシュル遺跡は古代マヤ文明に属する遺跡で、現在のメキシコに位置しています。

上に挙げた図で分かるようにユカタン半島の中央部付近にウシュル遺跡は所在しています。

このユカタン半島の中央部一帯は「マヤ中部低地」として所謂、最盛期である古典期(CE250-1000)の中心地として多く語られる地域です。

マヤ文明の遺跡としてよく目にするであろう「ティカル」や「カラクムル」もこの地域に属しています。

ウシュルはこの中心的な地域においてちょうど古典期に最盛期を迎えた都市国家遺跡であり、重要なマヤ遺跡のひとつとして認識されています。

(*「中心」とか「最盛期」とか表現上、ナイーブな問題を抱えていますが、ここでは割愛します( -д-)ノ)


細かく見ると、ウシュルは北東にカラクムル、南にエル・ミラドールというより大きな都市の間に立地してます。

古典期においてエル・ミラドールは既に衰退していましたが、ウシュル周辺域は古典期マヤ地域の中でも人口の集中したエリアだったと考えられます。

その他の古代マヤ都市国家と同様に、ウシュルは長距離交易に参加しており、およそ400km南方に位置する現在のグアテマラ高地や、およそ1000km西方に位置するメキシコ中央高原との諸関係が遺物・遺構から推定されています。

また残された碑文によると、ウシュルは西暦630年に近隣のより強大な都市国家であるカラクムルの支配下に入ったことが分かっています。

ちなみにウシュル(Uxul)はマヤ語であり、意味は「終わり」です。

これはオリジナルの名前ではなく、1934年にそれを再発見した2人の男性、カール・ルパート(Karl Rupper)とジョン・デニソ(John H. Deniso)によって与えられた名前です。


(↓「ティカル」も後から付けられた名前で、元々は「ムタル」と考えられています。

↑併せてどうぞ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ)




2.斬首された大量の人々の墓の発見

ウシュル遺跡における本格的な考古学調査は2009年から実施されてきました。

主導しているのはドイツのボン大学(University of Bonn)に所属するニコライ・グルーベ(Nikolai Grube)で、彼は特に碑文研究者として著名です。

調査の初期は上に挙げた測量図を作成するために時間の多くが充てられました。

上の図の上部、左右端にくすんだ水色に塗られた方形の遺構がありますが、これがアグアダ(Aguada;貯水池)になります。

それぞれおよそ250m×500mという規模であり、推定貯水量はそれぞれ2500万Lと巨大な貯水池を有していたことが分かりました。

この貯水池は調査され、水が溜まるように内面が焼成粘土で覆われていたことが確認されました。

前述のマヤ中部低地は大きな河川や湖沼といった水資源に乏しい環境にあるため、多くのマヤ都市は巨大な貯水池を造営していましたが、内面に対してセラミック化という大掛かりな加工を施していたことが確認された事例としてもウシュルは重要な遺跡です。

さて、貯水池の調査の後、2013年には付近の発掘調査によって大型の墓地が発見されました。

古代マヤの葬制では、親族の遺体を床面や新たに付加する階段の下部に埋葬して、「死者と共に暮らす」というスタイルが取られていました。

日本ではお墓は別にありますが、仏壇が家庭にある場合もありますから、「祖先と共に暮らす」という点で理解しやすい風習かなと思います。

古代マヤではそういった葬制の特徴から、住居・神殿建造物と墓が密接な関係にあり、「生の空間」と「死の空間」を区別しません。

そのため所謂「墓所」や「墓域」という空間を構成しないのが通例ですが、このウシュルの事例では24体の人骨がまとまって出土した大型の墓場が検出されたのです。

これたの人骨を調査したところ、24体の全てが埋葬前に首を切り離されていたことが分かりました。

また人骨には、頸骨への斧痕、治癒痕のない頭蓋骨折、頭骨表面の死亡時の切創痕などを含む、激しい受傷痕跡が確認されました。

これらの人骨の多くは男性であり、その何人かは栄養失調や歯が崩壊した特徴を示していました。

古代マヤ美術では土器や壁画に対してペインティングにより様々な情景が描かれていますが、有名なボナンパクの壁画では他の都市国家の敵、つまり戦争捕虜を斬首等の方法で取り扱う情景が描かれています。

そのため恐らくウシュルでのこの発見は、ボナンパクの壁画に見られるような戦争による捕虜の獲得と儀礼的処刑という文化が存在したことの物的な証拠となるでしょう。

古代メキシコ文化では戦士の殉葬が多く見られ、このような大量の人骨が一度に発見されることも珍しくありませんが、古代マヤ文化における事例としては注目に値する大きな発見だと思います(*・ω・)ノ





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3.史上初となる王子様のカップの発見

さてこのウシュル遺跡からは王子様のカップが史上初めて発見されました。

何故、王子様のカップと分かるかというと、

①王族の墓の副葬品として出土した点

②土器に描かれた文字に「王子のコップ」と書いてあった点

この2点が根拠となっています。

古代マヤ文明の地の大部分は現在のグアテマラとメキシコの熱帯雨林地帯、所謂ジャングルの中にあります。

その環境も相まって、昔から盗掘が絶えません。

グアテマラでは最近になっても「盗掘天国」として地元新聞の一面を飾ったように、現在も抱える文化財保護上の大きな問題となっています( -д-)ノ

一方で特に古典期後期(CE600-1000)の多彩色土器はマヤ文字情報を含み、「その土器の所有者や用途」について記載されていることが、近年の碑文研究成果によって明らかとなっていました。

ですので「王子や王様の器」と解読できるマヤ文字を含む土器資料はこれまでにも確認されていましたが、どれもアメリカやヨーロッパの博物館が所蔵する土器資料群、つまり過去の盗掘品だったわけです。

つまり今回「史上初」としているのは「学術的な調査で出土した資料として初めて」という意味なのです。

ウシュルでの発見は、考古学的な一次情報を全て有している資料の事例として、実は大変重要な考古学的価値があるのです(*・ω・)ノ


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さて、上に挙げた写真が実際に発見された若い王子の古代の墓です。

墓が検出されたのは宮殿と考えられる複合建造物であり、最初の測量図における「上部の白抜き部」に相当します。

この宮殿は短軸120m、長軸130mの規模であり、5つの中庭を囲む少なくとも11基の個別の建物で構成されています。

(個人的には右下に見える大きな複合建造物群も宮殿クラスじゃないかと思うのですが、まぁいいでしょう( ・Д・))

建造物の詰土から出土する土器破片資料の分析から、これらの複合建造物群(宮殿)は西暦650年頃に建てられたと推定されています。

上の写真で見て取れる人骨を分析したところ、王子の年齢は20~25歳で男性と考えられ、周辺には9点の土器が副葬品として捧げられていました。

この9点の副葬された土器の内の1点には、「これは若い男の杯/王子様」というマヤ文字表記がなされていました。

また別の土器には「西暦711年」と考えられる日付が記されており、被葬者の生きていた年代を示す資料が確認されています。

(マヤ土器の土器編年では一つの時期が200~250年程度の年代幅を有することが多いため、個人レベルの同定にはこうした文字情報による「暦年」の記載が重要なのです( -д-)ノ)




4.おわりに

この件の王子には王位継承権がなかったと推定されています。

というのも、王位継承者であれば「翡翠製の装飾品」が副葬されているはずだからです。

「王の墓」はよく話題に上がるので知っていますが、「王子の墓」って例を私はあまり知りません。

王の墓には確かに豪華な翡翠製品が見られますが、数ある王族の中で墓の副葬品の一つである翡翠製品が個人の王位継承権の有無を直接的に反映していることを証明した論文を知りません。

翡翠製品の研究をしていた知り合いもいますので、聞いてみようかな。

感覚では、それほど一対一の関係で考古学遺物が特定の事柄を直接的に反映することはなかなかないかなと思っています。

まぁそれが考古学の難しいところであり、面白いところなのです( -д-)ノ(と思います)。



・・・・・・ところでこの王子様はイケメンだったのでしょうか?

気になるところですね( ・Д・)



↓気になった方はどーぞ( -д-)ノ( -д-)ノ
↑とても古い記事ですけどね( -д-)ノ( -д-)ノ

↓微妙にフォロワー数1000人に届きそう……で届かない!( ・Д・)↓

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