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歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:メキシコ

2020ねん 6がつ 24にち(すいよーび、曇り)

明日、調査で遠出するし、山とか登るのに雨っぽい( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「メキシコのカサス・グランデス文化って知名度低いけど、なかなか面白いよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


上に挙げたのは前回に引き続きフアポカ遺跡です。

タイトルにある「絶壁に住んだ人々」ってのはこのフアポカ遺跡の人々のことです。

CE1000~1400頃まで居住していたようです。

さて、とりあえずフアポカ遺跡の写真をお見せしますね!


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さて、日本語では「カサス・グランデス文化」について調べてもほとんど情報がないのです。

スペイン語で調べるとチラホラと……

でもそのほとんどが、カサス・グランデス文化の中心地、パキメ遺跡に関するものです。




記事の見出し画像に用いたこの画像がパキメ遺跡です。

カサス・グランデス文化のカサスは「Casa(家)」の複数形+形容詞である「grande(大きい)」の複数形からなる言葉です。

上に挙げた写真のような光景を最初に見たスペイン人はきっと「大きい家」って思ったのでしょうね。

実際には「アパートメント式住居」などという呼称が用いられていて、一軒の大きな家なわけではありません。



また前回もお話したようにカサス・グランデス文化はチワワ州に位置しますが、同文化はカサス・グランデス川によって形成された渓谷に位置しています。

中心的な存在であるこのパキメ遺跡を始めとして多くの遺跡は川の近くの開けた平地部に立地しています。

なので渓谷の断崖に造られたフアポカ遺跡のような事例は珍しいのです。

恐らくフアポカ遺跡は渓谷を見渡す見張り台のような役割を果たしていたのでしょう。


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カサス・グランデス文化を中心として、後古典期(CE1000-1500)の文化は総じて、こうした土器・土製品が特徴的です。

白っぽい羊毛色(薄いベージュ…ないし汚れた白( ・Д・))を下地(化粧土;スリップ)として、その上に黒色と赤色の塗料で彩文してます

マヤ地域の方でも似たような感じになります。

特に南部側では。

分かりやすい特徴ですので、是非覚えてみてください(*・ω・)ノ




おわりに

「マヤ土器入門」として時期別の簡単な土器の見分け方を示すのも良いかも知れませんね。

ほんと、書きたい記事もたくさんあるし、企画は止まってるし、、、

Youtubeも止まってるし、、、

でも日々の仕事と、論文優先だし!( ・Д・)( ・Д・)( ・Д・)


いつものことですが、優しい気持ちで気長にお待ちくださいますようお願致しますっ!( ・Д・)

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2020ねん 6がつ 21にち(にちよーび、晴れ)

フリースペースにブログ書きに行ったら、PCの充電なくてただの散歩になった( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「メキシコにはたくさんの文化遺産があるんだよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


当サイトでは以前より、メキシコは国を挙げて考古学調査と古代遺跡の観光地化に力を注いでいるんだよ!ってお話をしてきたかと思います。


というのも、、、


メキシコの古代文明と言えば、恐らく最も有名なのは『アステカ文明』ですね。

1521年にコルテス率いるスペインのコンキスタドール達によって陥落した首都テノチティトランは現在のメキシコの首都であるメキシコシティの地下に眠っています。


次いで有名なのはきっとユカタン半島北端に位置するチチェン・イツァ遺跡ですね。

当サイトの管理するYoutubeチャンネルでもトップ画に使ってる「エル・カスティーヨ(城塞と呼ばれる神殿)」で有名な遺跡です。

こちらのチチェン・イツァに関してはマヤ文明、あるいはトルテカ文明に帰属する遺跡です。

このようにメキシコはたくさんの古代文明、古代遺跡が存在する国のひとつなのです。

なのでエジプトのように古代遺跡を中心とした観光業に力を入れています。

またエジプトのようにメキシコの北部には特に乾燥地帯がかなり広がっていますので、遺物や遺構の残りが良いというのも文化遺産活用が活発な国が有する共通点だと思います。





今回紹介するのはメキシコ北部、チワワに所在するフアポカ遺跡です。

チワワはその名の通り、あの日本でも大人気な小型犬のチワワのふるさとです(*・ω・)ノ

フアポカ遺跡はカサス・グランデス文化に属しています。

この文化は8世紀頃に生じ、その頃は狩猟採集生活が続いていました。

大きく発展し、人口も増加したのが13世紀から14世紀にかけての頃と考えられています。

このフアポカ遺跡はカサス・グランデス文化の中心地ではありませんが、断崖絶壁に造られた住居で有名です。



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メソアメリカ諸文化はかなり類似点が多いです。

恐らく長距離交易 を通じて様々な情報が行き交ったのでしょう。

建造物の壁面に見られる『T字型の窓』も類似点のひとつです。



これは古代マヤ文明の古典期(CE250-1000)に帰属する建造物壁面にも多く見られるものです。
 
例えば、私の調査しているグアテマラの世界複合遺産、ティカルでも見られます。

マヤ文明研究においては「T字」は「イク(風の意味)」を表していると考えられています。

恐らく、古代マヤの宗教観における創造神・最高神であるククルカン(ケツァルコアトル)が、雨雲を呼ぶ風の神としての性格でも崇められたため「T字」が多用されたのだと思います。

(これ私の意見、というか感想……直感?(笑) ちょっと宗教関連疎いので近いうちに先行研究を調べておきますね( -д-)ノ)

実際にこの「T字」文様は土器の図像等(彩文・刻文)にもよく現れます(*^・ェ・)ノ


 

おわりに

次回、また他のフアポカ遺跡の写真を紹介したいなと思います。

以前、カサス・グランデス文化関連について少し調べたことがあるので、カサス・グランデス文化とフアポカ遺跡について次回はもう少しだけ詳し目に記述できればと思います。


ところでちょっと行きにくいけど、こういうホテルとかいいですよね(・∀・)つ

そう言えば洞窟ホテルってどこかにあったような……



世界には様々な遺跡や博物館があります。

是非、色々と周ってみたいものです……


お金と時間に余裕があったらねっ!( ・Д・)

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2019ねん 7がつ 6にち(どよーび、晴れ)

週1の休みで十分研究していけるなと思っていたが、甘かった。

やはり2日欲しい!

だってその1日の休みを調査・研究に充ててたら休めてないじゃないか!( ・Д・)


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さて、今回の考古学・歴史ニュースは「古代マヤ文明のウシュル遺跡にて、斬首された大量の人々のお墓と、王子様のカップが見つかったよ!」というお話です。


  1. ウシュル遺跡の概要
  2. 斬首された大量の人々の墓の発見
  3. 史上初となる王子様のカップの発見
  4. おわりに


1.ウシュル遺跡の概要

ウシュル遺跡は古代マヤ文明に属する遺跡で、現在のメキシコに位置しています。

上に挙げた図で分かるようにユカタン半島の中央部付近にウシュル遺跡は所在しています。

このユカタン半島の中央部一帯は「マヤ中部低地」として所謂、最盛期である古典期(CE250-1000)の中心地として多く語られる地域です。

マヤ文明の遺跡としてよく目にするであろう「ティカル」や「カラクムル」もこの地域に属しています。

ウシュルはこの中心的な地域においてちょうど古典期に最盛期を迎えた都市国家遺跡であり、重要なマヤ遺跡のひとつとして認識されています。

(*「中心」とか「最盛期」とか表現上、ナイーブな問題を抱えていますが、ここでは割愛します( -д-)ノ)


細かく見ると、ウシュルは北東にカラクムル、南にエル・ミラドールというより大きな都市の間に立地してます。

古典期においてエル・ミラドールは既に衰退していましたが、ウシュル周辺域は古典期マヤ地域の中でも人口の集中したエリアだったと考えられます。

その他の古代マヤ都市国家と同様に、ウシュルは長距離交易に参加しており、およそ400km南方に位置する現在のグアテマラ高地や、およそ1000km西方に位置するメキシコ中央高原との諸関係が遺物・遺構から推定されています。

また残された碑文によると、ウシュルは西暦630年に近隣のより強大な都市国家であるカラクムルの支配下に入ったことが分かっています。

ちなみにウシュル(Uxul)はマヤ語であり、意味は「終わり」です。

これはオリジナルの名前ではなく、1934年にそれを再発見した2人の男性、カール・ルパート(Karl Rupper)とジョン・デニソ(John H. Deniso)によって与えられた名前です。


(↓「ティカル」も後から付けられた名前で、元々は「ムタル」と考えられています。

↑併せてどうぞ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ)




2.斬首された大量の人々の墓の発見

ウシュル遺跡における本格的な考古学調査は2009年から実施されてきました。

主導しているのはドイツのボン大学(University of Bonn)に所属するニコライ・グルーベ(Nikolai Grube)で、彼は特に碑文研究者として著名です。

調査の初期は上に挙げた測量図を作成するために時間の多くが充てられました。

上の図の上部、左右端にくすんだ水色に塗られた方形の遺構がありますが、これがアグアダ(Aguada;貯水池)になります。

それぞれおよそ250m×500mという規模であり、推定貯水量はそれぞれ2500万Lと巨大な貯水池を有していたことが分かりました。

この貯水池は調査され、水が溜まるように内面が焼成粘土で覆われていたことが確認されました。

前述のマヤ中部低地は大きな河川や湖沼といった水資源に乏しい環境にあるため、多くのマヤ都市は巨大な貯水池を造営していましたが、内面に対してセラミック化という大掛かりな加工を施していたことが確認された事例としてもウシュルは重要な遺跡です。

さて、貯水池の調査の後、2013年には付近の発掘調査によって大型の墓地が発見されました。

古代マヤの葬制では、親族の遺体を床面や新たに付加する階段の下部に埋葬して、「死者と共に暮らす」というスタイルが取られていました。

日本ではお墓は別にありますが、仏壇が家庭にある場合もありますから、「祖先と共に暮らす」という点で理解しやすい風習かなと思います。

古代マヤではそういった葬制の特徴から、住居・神殿建造物と墓が密接な関係にあり、「生の空間」と「死の空間」を区別しません。

そのため所謂「墓所」や「墓域」という空間を構成しないのが通例ですが、このウシュルの事例では24体の人骨がまとまって出土した大型の墓場が検出されたのです。

これたの人骨を調査したところ、24体の全てが埋葬前に首を切り離されていたことが分かりました。

また人骨には、頸骨への斧痕、治癒痕のない頭蓋骨折、頭骨表面の死亡時の切創痕などを含む、激しい受傷痕跡が確認されました。

これらの人骨の多くは男性であり、その何人かは栄養失調や歯が崩壊した特徴を示していました。

古代マヤ美術では土器や壁画に対してペインティングにより様々な情景が描かれていますが、有名なボナンパクの壁画では他の都市国家の敵、つまり戦争捕虜を斬首等の方法で取り扱う情景が描かれています。

そのため恐らくウシュルでのこの発見は、ボナンパクの壁画に見られるような戦争による捕虜の獲得と儀礼的処刑という文化が存在したことの物的な証拠となるでしょう。

古代メキシコ文化では戦士の殉葬が多く見られ、このような大量の人骨が一度に発見されることも珍しくありませんが、古代マヤ文化における事例としては注目に値する大きな発見だと思います(*・ω・)ノ





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3.史上初となる王子様のカップの発見

さてこのウシュル遺跡からは王子様のカップが史上初めて発見されました。

何故、王子様のカップと分かるかというと、

①王族の墓の副葬品として出土した点

②土器に描かれた文字に「王子のコップ」と書いてあった点

この2点が根拠となっています。

古代マヤ文明の地の大部分は現在のグアテマラとメキシコの熱帯雨林地帯、所謂ジャングルの中にあります。

その環境も相まって、昔から盗掘が絶えません。

グアテマラでは最近になっても「盗掘天国」として地元新聞の一面を飾ったように、現在も抱える文化財保護上の大きな問題となっています( -д-)ノ

一方で特に古典期後期(CE600-1000)の多彩色土器はマヤ文字情報を含み、「その土器の所有者や用途」について記載されていることが、近年の碑文研究成果によって明らかとなっていました。

ですので「王子や王様の器」と解読できるマヤ文字を含む土器資料はこれまでにも確認されていましたが、どれもアメリカやヨーロッパの博物館が所蔵する土器資料群、つまり過去の盗掘品だったわけです。

つまり今回「史上初」としているのは「学術的な調査で出土した資料として初めて」という意味なのです。

ウシュルでの発見は、考古学的な一次情報を全て有している資料の事例として、実は大変重要な考古学的価値があるのです(*・ω・)ノ


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さて、上に挙げた写真が実際に発見された若い王子の古代の墓です。

墓が検出されたのは宮殿と考えられる複合建造物であり、最初の測量図における「上部の白抜き部」に相当します。

この宮殿は短軸120m、長軸130mの規模であり、5つの中庭を囲む少なくとも11基の個別の建物で構成されています。

(個人的には右下に見える大きな複合建造物群も宮殿クラスじゃないかと思うのですが、まぁいいでしょう( ・Д・))

建造物の詰土から出土する土器破片資料の分析から、これらの複合建造物群(宮殿)は西暦650年頃に建てられたと推定されています。

上の写真で見て取れる人骨を分析したところ、王子の年齢は20~25歳で男性と考えられ、周辺には9点の土器が副葬品として捧げられていました。

この9点の副葬された土器の内の1点には、「これは若い男の杯/王子様」というマヤ文字表記がなされていました。

また別の土器には「西暦711年」と考えられる日付が記されており、被葬者の生きていた年代を示す資料が確認されています。

(マヤ土器の土器編年では一つの時期が200~250年程度の年代幅を有することが多いため、個人レベルの同定にはこうした文字情報による「暦年」の記載が重要なのです( -д-)ノ)




4.おわりに

この件の王子には王位継承権がなかったと推定されています。

というのも、王位継承者であれば「翡翠製の装飾品」が副葬されているはずだからです。

「王の墓」はよく話題に上がるので知っていますが、「王子の墓」って例を私はあまり知りません。

王の墓には確かに豪華な翡翠製品が見られますが、数ある王族の中で墓の副葬品の一つである翡翠製品が個人の王位継承権の有無を直接的に反映していることを証明した論文を知りません。

翡翠製品の研究をしていた知り合いもいますので、聞いてみようかな。

感覚では、それほど一対一の関係で考古学遺物が特定の事柄を直接的に反映することはなかなかないかなと思っています。

まぁそれが考古学の難しいところであり、面白いところなのです( -д-)ノ(と思います)。



・・・・・・ところでこの王子様はイケメンだったのでしょうか?

気になるところですね( ・Д・)



↓気になった方はどーぞ( -д-)ノ( -д-)ノ
↑とても古い記事ですけどね( -д-)ノ( -д-)ノ

↓微妙にフォロワー数1000人に届きそう……で届かない!( ・Д・)↓

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