2023ねん 2がつ 14にち(かよーび、晴れ)
お酒絶ってもたくさん食べたら太る!( ・Д・)
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今回の考古学・歴史ニュースは「テオティワカンって何?( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ
前回はマヤ文明史概観と言っておきながら、ほんとにさらっと流して、ガチ勢向けの部分的な細かい説明をしてしまいました( -д-)ノ
まぁというのも、次回の「マヤとテオティワカンの関係」について書く際に、どうしてもマヤ文明史を見直す必要があるからなのです。
と言い訳をしつつ、今回はテオティワカンの話!
でもまずは「クイクルコ」から始めましょうヾ(´ω`=´ω`)ノ
さて、まずは「クイクルコ」です。
これは遺跡名です。
当サイトに初めて来訪される方もいるかと思い、分かりやすい図を上に用意しました。
一般の方と話してるとメキシコの位置が分からない人が多いので、まぁこれならわかるでしょう!
北米と南米の間の細いとこら辺で、アメリカ合衆国の南にあるやつです!
上の2枚の図にあるポイントの位置は両方ともクイクルコの位置です。
2枚目の地図を見て分かるように、クイクルコ遺跡はメキシコシティの中にあります。
南の外れですし、さして見栄えも良くないので(アステカの首都テノチティトランやテオティワカン遺跡に比べたらそりゃあそう(/TДT)/)、観光客はほとんどいません。
古代遺跡を観光名所として、外貨獲得源としてメキシコ政府は多額のお金を投資しているのですが、そんな中にありながらクイクルコ遺跡は全然力が入っておらず、博物館内の説明文も印刷された「紙」の状況でした(2014年時;下の写真参照)。
まぁそれはさておき、遺跡の位置関係を整理すると、メキシコシティの南部にクイクルコ遺跡があって、メキシコシティの北東部にテオティワカン遺跡があって、更に北にいくとパチューカ山地があります。
パチューカについては後からテオティワカンの話の際に出てくるので気に留めておいてくださいな(*・ω・)ノ
なんでこんな撮り方したのか大いに謎ですが、ピラミッドの基壇が円形であることが分かるかと思います( ・Д・)
(たぶん他の観光客が来る前に慌てて撮ったからパノラマじゃないのかと思われ……)
こうした円形基壇のピラミッドは古代メキシコ文化にはよく見られます。
後古典期(CE1000-1500)に特によくあるのです。
さて、なんでクイクルコ遺跡の話をしているかというとテオティワカンの前身という説があるからなのです。
クイクルコ遺跡は先古典期遺跡で、BCE800年頃に居住が開始されます。
BCE150-CE1頃に最盛期を迎え、人口は2万人と推定されており、当時のテオティワカンよりも大きな重要都市だったのです。
しかしながらCE70年頃にポポカテペトル山、CE150年頃にチチナウツィン山、CE275年頃にシトレ火山が噴火し、クイクルコは連続で被害を受けました。
特に最後のシトレ火山の噴火の際には5~8mの溶岩がクイクルコに大量に流れ込んだために放棄されてしまったのです。
上に挙げた写真のようにクイクルコに流れ込んだ大量の溶岩は都市中心部(遺跡中心部)を完全に覆い尽くしています。
壁に見えるものが溶岩が固まったもので、手前の歩道になっている面が発掘によって姿を現した当時の文化面(生活面)です。
この先古典期に一大都市であったクイクルコが度重なる噴火によって衰退したために、噴火の影響がより少ない立地にあったテオティワカンなどの別の遺跡が急成長しました。
そのためクイクルコの放棄に伴って大人口がテオティワカンに移動したのではないかという説があるのです。
↑テオティワカン中心部の測量図(Morton et al. 2012: Figure 1より転載)
テオティワカンって何?
テオティワカンはBCE200年頃から居住が始まっており、CE1年頃に都市として成立しました。
その後、上図の赤い部分の真ん中にある上下に走る直線部、「死者の大通り」が建設され、周辺部も整備されていきます。
最も人口が増えたのはクイクルコがシトレ火山の噴火で衰退した後のCE300年以降と考えられています。
一気に人口が増加したので、上図のような非常に計画的な都市建設が一気に行われたのかなとも思えます。
一方で気になるのは、クイクルコは円形基壇の神殿を造っていたわけですが、テオティワカンの建造物は上図のプランを見ての通り、方形基壇です。
大量の人口移動はあったものの、主導権はあくまで元からテオティワカンにいた集団だったということなのでしょうか?
↑タルー・タブレロ建築の構造(今泉 2019: 図3-4-1より転載)
テオティワカンの最盛期はCE200-550年頃であり、人口は10~20万人と推定されています。
この最盛期にはメソアメリカ最大の都市として広く周辺地域へ強い影響を与えており、それにはマヤ地域も含まれるのです。
他文化地域にテオティワカンに由来する遺物や図像モチーフ等が現れる現象を「テオティワカンの影響」と呼んでいます。
「テオティワカンの影響」によりマヤ地域で見られる特殊なテオティワカン様式の遺物・遺構には、三足円筒土器、蓋付き高台付き碗、シアタータイプ土器(香炉)を代表として、他に石碑や祭壇、土器、壁画などの様々な図像モチーフにテオティワカン様式の図像が出現します。
建造物装飾としてはタルー・タブレロ様式が有名です。
これは上の図・写真に挙げたようにタルー(斜壁)とタブレロ(方形壁)を交互に組み合わせた基壇装飾です。
「テオティワカンの影響」に関しては長くなるので次回の「マヤとテオティワカンの関係」の際に触れたいと思います。
↑ケツァルコアトルの神殿から見た太陽・月のピラミッド(あるけまや管理人撮影)
メソアメリカにおいて広域に影響を及ぼした大国テオティワカンは7世紀頃に急激に衰退し、放棄されてしまいます。
滅亡理由はマヤ地域と同様で複数の候補があり、恐らく複合的と考えられています。
つまり、よーわからんってことです( -д-)ノ
大干ばつ、森林伐採による環境破壊、宗教対立、異民族の侵入・・・と内容は古典期マヤと大差ありません。
メシカ人(アステカの人々)が12世紀にこの地を訪れた時にはテオティワカンは無人の廃墟でした。
しかし多数の美しい建造物が立ち並ぶ姿を見て、ナワトル語で「神々の都市」、つまりテオティワカンと名付けたのです。
メソアメリカには多数の文化・文明が勃興していますが、体系的な文字を使用し現在にまで残ったのはマヤ文字だけです。
なのでテオティワカン人に関する文字記録(文字状記録を除く)は存在せず、彼らが使用していた言語も推定はされていますがはっきりとは分かっていません。
所謂旧大陸の諸文明、ヨーロッパに代表されるそれらの事例では、大体どれもが戦争で滅びて、同じ土地が次の文明・国家の支配領域になります。
でもメソアメリカでは放棄されがちですね。
亜熱帯や乾燥気候だと、森林破壊+干ばつによる地力の弱体化があまりに著しくそう簡単には回復せず、放棄せざるを得ないのかも知れませんね( ・Д・)
この辺も新大陸文明の発達の遅れと接触時の新大陸文明の勝利・支配の要因のひとつなのだと思います。
↑テオティワカン遺跡の中(?)にある地下&洞窟内レストラン(あるけまや管理人撮影)
おわりに
上に挙げたのはレストランの写真です。
メキシコ的な原色カラフルな椅子が可愛いですよね。
テオティワカンは乾燥しつつ暑いなって感じです。
遺跡公園自体が広大ですし、ティカルのようなジャングルと違って巨大だけど背の低いサボテンくらいしかないので日陰がないのです。
だからとても暑い!
このレストランは地下洞窟内部に造られているので涼しくて快適です。
雰囲気も素敵!
ただお高いです。
ちなみに私はここで「アリの卵」と「イモムシの素揚げ」を食べました。
それぞれ100米ドル近くした気がする。
たぶん一人で食べるようじゃないので無駄に量が多くて辛かったです。
後半はビールで流し込みました(笑)
ちょっとアクセスしづらいけれど、メソアメリカの古代文明を感じる上ではとてもいいところですので、是非機会があれば行ってみてください。
その際は少し足を延ばしてティカルへもどうぞ!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!
何はともあれ、
気付けば長くなった!( ・Д・)
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