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歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:メソアメリカ

2020ねん 1がつ 10にち(きんよーび、晴れ)

連投で真面目な(?)考古学・歴史ブログであることを再度示そうと思うよ!( ・Д・)


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今回の考古学・歴史ニュースは大航海時代、スペイン征服期以前に白人がアメリカに到達していた!?」というお話です(*・ω・)ノ

当サイトでは「オカルト」ちっくなものは基本的に扱いませんし、扱っても科学的・論理的に批判してしまうのですが、今回のはちょっと毛色が異なります。

たぶん……他サイトでは見たことないテーマなので、日本語の記事としては初めてかな?

きっと楽しんでもらえると思います(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



「新大陸」への白人の到達時期

メソアメリカ(ざっくり言うとメキシコとかの所謂「中米」域)へのスペイン人の到達は15世紀半ばから始まる大航海時代によってなされます。

ちなみに大航海時代と言えばスペインとポルトガルが有名ですが、だからこそ現在の中南米においてブラジルだけがポルトガル語、残りは全てスペイン語の文化圏となっています。

高校の世界史Bなどでピサロによるインカの征服についてさら~っと習うと思います。

メソアメリカでは、エルナン・コルテスにより1521年にアステカ王国が滅ぼされてしまいました。

それに先立つ1492年にクリストファー・コロンブスが「新大陸を発見」するわけです。

コンキスタドール(征服者)としてのコルテスの非道さは有名なのですが、コロンブスも略奪を繰り返し、男は殺し、女は強姦するというスペイン軍のやり方(遊び方;面白半分に殺し犯していたという記録があります)を最初にアメリカで実行した十分にヤバイ人物です。

さて、ということでメソアメリカへの白人の到達は歴史上1492年ということになります。


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↑ローマ人を模した彫刻(「ABC HISTORIA」の記事内画像より転載;スペイン語)


アステカの「白い神」の神話

最初に挙げた「This is Spartaaaaa!」は正直言って関係ないんですけども、まぁ顔の濃い白人のイメージとして用いました。

上に挙げたのはローマ人を模した彫刻です。

顔立ちとして明らかに彫りが深いですし、少なくとも、「あ~白人の顔立ち」だなって思えますよね。

先に述べましたようにコルテスにより1521年にアステカが陥落するわけですが、簡単に陥落した理由の一つが「アステカの白い神の神話」の存在なのです。



 アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在した。

 帰還したケツァルコアトルが、かつてアステカに譲り渡した支配権を回復すると信じられていた。

 「一の葦」の年の10年前には、テノチティトランの上空に突然大きな彗星が現れた。また女神の神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。アステカ人たちは漠然と将来に不安を感じていた。

 そうした折であった「一の葦」の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったスペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受け取られ、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった。

(Wikipedeia より一部改変)


この神話の概要は上の参考文の通りです。

ちなみにケツァルコアトルは、マヤではククルカンと呼ばれる重要な神様で「羽毛の生えた蛇神」として顕現する至高神です。

メソアメリカにはこうした白い肌を持つ「コーカソイド(白人)」を神聖視するような伝説が見られるのです。


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白い神の神話は実話を基にしているのか?

この神話のポイントは白い肌の神が追い出されて支配権を譲渡したという点です。

元々は白い神が支配権を有していたということになるわけです。

そこで……『神話になるほど古い時代に、かつて本当に白人がメソアメリカに到達し、珍しいその肌の色から指導者として君臨し、後に在地の有力者によって排除された』なんてことがあったかも知れません。

『こういった手の解釈』はオカルト、疑似科学でよくあることですが、ただの想像であって根拠はありません。

でも今回のお話は当サイトで扱うくらいですからね、そう、根拠あるんですよ( ・Д・)



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↑報告書にある遺物の掲載写真(Garcia-Payón 1993; Figure 1より転載)


スペイン征服期以前のお墓からローマ人の頭が見つかった!?


さて、上に挙げた写真は「本物の発掘調査報告書からの転載写真」になります。

1933年にホセ・ガルシア=パヨン(José Garcia-Payón)によってメキシコの首都、メキシコシティの南西部に位置するトルーカで発掘調査が実施されました。

ここには現在はカリストラウワカ(Calixtlahuaca)と呼ばれている遺跡があります。

調査当時はマタジンカという名の古代都市遺跡として知られていました。

この遺跡は後古典期(c.a. CE1000-1500)に属しており、当時のメキシコ建築様式として代表的な円形基壇を有した建造物が多数見られます。

この遺跡でガルシア=パヨンは埋葬遺構の調査を行ったわけです。




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発掘された埋葬遺構は上に挙げた写真のような神殿ピラミッドの内部から検出されました。

この埋葬遺構は未盗掘であり、金、ターコイズ、クリスタル、陶器などの副葬品が見られ、それらと共伴して「ローマ人の頭」が見つかったのです。

この人頭像はテラコッタ製、つまり土製小像に分類されるものです。

調査結果として、遺構が未盗掘であることと、共伴する土器等の遺物の分析から、埋葬遺構の帰属時期はCE1476~1510年と推定されました。

記録上、スペイン人らコンキスタドーレスは1519年までメキシコの海岸に到達しなかったため、この遺物はスペインの征服以前の作品でなければならないことになります。





当然と言えば当然のことですが、このガルシア=パヨンによる報告は「あり得ないこと」として無視されました。

そして時は流れて1995年、理化学分析として熱ルミネッセンス法による試験のためにこの『ローマ人頭像』がドイツに送られました。

この分析結果では、なんと紀元前184年から紀元前616年の生産日であり、発見された墓よりもはるかに古く、調査報告における推定よりも古い時代にアメリカに運ばれた可能性があることを証明しました。

古典派の歴史家エルンスト・ベーリンガーは、2世紀および3世紀のローマの芸術作品に照らし合わせてこのローマ人頭像の美術様式を特定したことで、制作の日付をさらに狭めました。

更にローマのドイツ考古学研究所のバーナード・アンドレアによって、2世紀の作品とまでにさらに狭められました。

最終的には『ローマンヘッド』として知られるこの遺物について、「このヘッドは間違いなくローマンであり、研究室の分析によってそれが2世紀頃のローマの作品であり、髪型とひげの形がセビリア皇帝時代(CE193-235)の典型的な特徴を正確に表現している」と評価されたのです。



上に挙げた写真は古代メキシコの美術様式と比較したものです。

考古学調査の結果を信用するのであれば、コロンブスの新大陸発見が1492年ですので、『白い神』と思しき人物の情報がマヤ地域からメキシコまで一気に伝わって非常に写実的に土製小像が作られたとも考えられます。

ただ当時の美術様式と比較すると写実的にも程があるというか、全くの別様式であることが分かりますので、強引過ぎる解釈でしょう。

一方で理化学分析や美術様式との比較研究を信用すると、2世紀の古代ローマの遺物がメキシコに伝わり、その後『伝世品』として1300年もの間大事に保管された上で、16世紀初頭に副葬されたことになります。

まさに『考古学ミステリー』ですね( ・Д・)


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現在の解釈はこう! それでも真偽は謎のまま……


「盗掘者がバレないように細心の注意を払って丁寧に掘って、しかも服装品を盗らずに考古学者を悩ますために遺物を追加した」とはもちろん考えられませんよね( ・Д・)

となると「ローマンヘッド」自体は各種分析・研究結果から本物なのだと思います。

そうすると考えられる可能性は『いたずら』です(/TДT)/

ロミオ・H.・フリストフとサンティアゴ・ジェノベスの1999年の『ローマンヘッド』に関する出版物を出し、続いてメキシコ大学(UNAM)のポール・シュミット(Paul Schmidt)も『真実』について以下のように書いています。

「...この人形はドン・ペペ(ホセ・ガルシア=パヨンの愛称)の調査中に埋められました。ドン・ペペはそれを非常に真剣に受け止めたので、誰も彼にそれが冗談だと​​言う強い心を持っていませんでした。そのようにジョン・パドックから言われたことを覚えています。(歩けマヤ管理人、一部修正)」

しかし問題は調査実施から半世紀以上もの多大な時間が経っていて、発掘中に立ち会った人は誰も生きていませんでした。

また発掘関係者であるパイオンの息子は、父から聞いた話ではパドックやモエダノ(別の証言者)は発掘現場にさえいなかったと述べています。

さらにシュミットはこの暴露話を手紙で知ることとなったとしていますが、その手紙自体は非公開なのです。

したがって、シュミットの結論(あるいは暴露)は最も論理的ですが、それに真実があるという証拠はどこにもないのです。


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↑こんなのあるのね!( ・Д・)(「アマゾン」より転載;回し者ではありませぬ)



この『考古学ミステリー』を再度考えてみよう!( ・Д・)


もしローマンヘッドが現代における攪乱・混入ではないと仮定しましょう。

そうなるとローマンヘッドは埋葬時とヨーロッパ人が本土に到着する前に持ち込まれなければなりません。

先に述べたようにコンキスタドールは1519年までメキシコ本土に到達していませんでしたが、近くのカリブ海の島々は15世紀後半から植民地化されていました。

最初期にコロンブスらがマヤ地域のホンジュラスからパナマまでの沿岸地域に到達していたためです。

そうするとこの遺物はヨーロッパから持ち込まれ、先住民と取引された後、貿易ネットワークを介してカリストラウワカまで移動した可能性があります。

この解釈だと、小さなローマンヘッドがどのようにして埋葬地にたどり着いたのかを説明できます。

しかしスペインの植民地主義者や探検家が、何故2世紀の小さなローマンヘッドを持って取引するのか、何故アステカの貴族が死後の世界に同行させるためにローマンヘッドを選ぶのかが説明できません。

後者については多少の説明ができそうです。

先行するオルメカ文明(BCE1200~CE1)に帰属するサポテカに見られる巨石人頭像ではひげを生やした外国人風の男性像様式が使用されていました。

トルテカ文明(CE700~1200)では彼らの文明はひげを生やした白人であるケツァルコアトルという神によって設立されたという神話があります。

したがって、アステカの貴族が「髭を生やした異国人を神聖視する風習」の下で、ローマンヘッドを副葬する可能性はあるわけです。




おわりに ~考古学研究とは~


最近はあまり見かけませんが、所謂『オーパーツ』が非常にもてはやされた時期がありました。

変わったモノが見つかるとやはり注目はされます。

でも考古学という学問は、何か1つ変わったモノが見つかったからと言って直ちに定説が覆るような学問ではありません。

上に挙げた写真のように、多くの人々の地道な調査・研究によって、多くの証拠が集められてようやく何かが少し言える、そんな学問なのです。

メソアメリカにおける最初期の接触時に、ヨーロッパ勢と現地人の間で「物の交換」が行われた可能性は十分にあります。

基本的に略奪者であるコンキスタドール達の性格からすると恐らく僅かにしかそういった行為は行われていないとは思いますが、タイムマシンがない以上、『新旧大陸の先スペイン期の接触』については今回の事例のような『奇跡的な発見』をもう少し繰り返す必要があるのです( -д-)ノ

今回の記事で取り上げた『カリストラウワカのローマンヘッド(Calixtlahuaca Roman Head)』は現在、メキシコシティの国立人類学博物館で展示されており、ひとまずは植民地時代の作品としてアーカイブされています。

↓たまにはオカルト関連もあって良い(*・ω・)ノ↓

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20XXねん 3がつ 28にち(すいよーび、晴れ)

久々の歯医者。

めちゃくちゃ怒られた。

歯磨きします。酔い潰れません。


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↑お酒たくさん並んでいるよ~の図(出典不明、(m´・ω・`)m ゴメン…)


【目次】
  1. 「お酒の考古学」について
  2. 古代マヤ人が飲んだお酒
  3. 古代メキシコ人のお酒とテキーラの歴史
  4. おわりに


1.「お酒の考古学」について

今回の内容はなんちゃって考古学です。巷でよくある、例の「~の考古学」です。



考古学的な内容にはほとんど踏み込めないかなと思っています。善処致しますけども!




さて、なにも酒に限らず「食」に関する文化って考古学的にはよく分からない世界なんです。


というのも「調理」特に「煮炊き」は人類の偉大な発明ですし(食べれる物が増えたのです)、人工物(?;人が作った技術なので無形文化財か?)かも知れませんけど、少なくとも「遺物」じゃないんですよね。



食べ物・飲み物は残る可能性はあるんですけど、基本的には腐敗してなくなってしまいます。


エジプトの乾燥気候は有名でミイラとか色々残りますけど、魚の干物も残ってるそうですね。まぁ魚のミイラみたいなものですから!



一方で日本では酸性土壌が広く分布しておりまして、まぁ動植物の依存体の残りはさほどよくないです。人骨もほとんど残らないです。


貝塚の周辺だと、貝片由来のアルカリが作用して人骨など通常残らないものが残ったりします。



中米の事例ではパナマは酸性土壌が深刻らしいですが、マヤ地域の多くをカバーするグアテマラ、メキシコはあたりはどうなんでしょう。


石灰岩が母岩ですし、高温多湿で微生物の代謝速度が速いため土壌も発達しない地域なので、石灰岩の影響を受けそうですよね。




詳しく知らない上に、調べても出てきませんでした。今度現地に行く時にリトマス試験紙でも持って行こうかな。


マヤ文明で最も有名な都市の一つ、ティカル(グアテマラ北部にあります)では、母岩である石灰岩層まで現地表面から20~30cm程度のとこもけっこうありますし、土壌が石灰石粒をけっこう含んでるんです。


なので予想では石灰の影響を受けてアルカリ土壌なのではないかなと思います。




まぁ古代マヤ文明の貴族住居は石灰岩の切り石で作られていますし、立派なお墓になれなるほど、遺体は石灰岩の切り石で囲まれています。


そのためマヤ地域では人骨が残存し易いんですね。




そんなマヤ地域でさえ、食べ物は残りません!


まぁ腐る、残るどうこうの前に、基本的に食べちゃうもんね!( ・Д・)



残るとすればお墓の中に副葬された土器の中に残滓として発見されます。



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↑The Walters Art Museum所蔵の円筒形土器



主に王墓ではこういった土器が10~20個とか副葬されます(時期、都市の規模、政情等々によって数量は変化します)。


写真の土器は古典期後期(A.D.600-1000)のマヤ中部低地で典型的に見られる絵文書様式(コデックス・スタイル)の土器です。口縁部(土器の上部の口の辺り)に横走するマヤ文字帯があるのが分かると思います。



ここには土器の所有者の名前やその役職、守護霊が書かれることがあります。



その他にこの土器が何のためのものなのか、例えば、「これは~王の所有物で、ココアを飲むための器」なんて書かれている事例もあります。



土器は様々な形を有していますけど、形からその機能を推定するのはなかなか難しいのです。このような文字記録、そして中に残った残滓の化学分析によって機能が推定されることがあります。




・・・・・・あ、ちなみにカカオの原産地はマヤ地域ですね。



ココアを最初に飲んだのもマヤ人!



ただハチミツとトウガラシで味付けしたもので、現代のように甘い飲み物ではなかったようです。王族・貴族が飲む貴重な飲み物だったようですね。


つまるところ、食べ物・飲み物はもちろん、お酒に関しても考古学情報は少なく限りがあるのです!ということを確認したところで、マヤ地域、メソアメリカ地域におけるお酒について見ていきましょう。




2.古代マヤ人が飲んだお酒

古代マヤ人が飲んだお酒は記録によれば「バルチェ酒」です。バルチェと呼ばれる樹皮を使ってハチミツと水の混合液を発酵させたお酒です。蒸留の技術はなかったのでアルコール度の低い飲み物だったようです。


現代マヤ人にも作られていまして、マメ科植物の樹皮を利用して発酵させているそうです。また類似のお酒にシュタベントゥンという飲み物がありまして、これはハチミツではなく、朝顔の種の蜜を使って作っているそうです。確かこのシュタベントゥン、メキシコで普通にお土産として売っていたような…気のせいかな。



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↑お土産で見たシュタベントゥン(お酒の販売ページから画像借用したためGoogle AdSense規約に反しないようリンクを貼りません;必要な方は「Xtabentun」で検索下さい( -д-)ノ)



これだ!朝顔の種の蜜の他に、アニスを使っているそうです。アニスって香草の一種で、エジプトやギリシアなどで使われた最古のスパイスの一つです。


私はこのアニスの独特の味や香りがダメで、シュタベントゥンも全然飲めなかった記憶がございます。よかったらお試し下さい。


回し者ではないので、画像クリックしても通販サイトに飛びませんのであしからず。



さて、古代マヤのお酒の話はほとんど出てきませんでしたが、古代マヤのエリート層の人々は一種の「ハチミツ酒」なんてお洒落なものを飲用していたんですね。




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↑浣腸してアルコールを摂取する土製人形(出典不明(m´・ω・`)m ゴメン…)



ちょっとショッキングかも知れませんが、このような土偶が出土しております。



古代マヤの貴族らは自分の舌や性器を傷つけたり、トゲトゲの植物を通したりして放血儀礼を行っていたので決して楽な身分ではなかったようです(現代国家の支配階級とも言える政治家たちも自らを犠牲にする勢いで国を良くして欲しいものです)。




上の画像では植物性か土製容器で、下の画像では海産の大型巻貝の貝殻を加工した容器を用いて浣腸をしています。


直腸からアルコールを摂取するとあっという間に酩酊しますので、古代マヤの神官やシャーマンたちは、貴重なアルコールを少量浣腸して使うことで神との交信といった儀礼行為に及んでい模様です。


みなさんは危険なのでやめましょうね。ふつーに冷えたビールを飲むだけで幸せになれますから( -д-)ノ



・・・・・・ラテンだけかも知れませんが、ちなみにスペイン語の表現で「死ぬまで飲む」は「アスタ ベル マリア」=「マリア様が見えるまで飲む」です。今でもお酒で神との交信はできるようですが、お酒はほどほどに!( ・Д・)




3.古代メキシコ人のお酒とテキーラの歴史

古代メキシコのお酒と言えば、「プルケ酒」です!


リュウゼツラン(スペイン語でマゲイ)の樹液を発酵させて造る白色のお酒です。見た目は甘酒みたいな感じですね。アルコール度数も4%程度と軽いお酒です。




一般にはスペイン期の記録に残っているのでアステカ時代(14~16世紀初頭)のお酒と説明されています。


原料となるリュウゼツランはその繊維から縄、棘から針、葉の薄膜は料理用の紙として生活の様々な場面で利用され、古くから栽培されていたと考えられています。


西暦200年頃には栽培が始まっていたと考えられており、テオティワカンの南東部に位置するチョルーラではプルケ酒を飲んでいたと解釈されている壁画が見つかっています。




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↑チョルーラで発見された壁画(「Ancient Origins」の記事内画像より転載;英文)



チョルーラはテオティワカンやマヤ諸都市と同時期の都市遺跡で、タルー・タブレロ様式建造物といったテオティワカンに類似する美術・建築様式を有しています。


恐らくリュウゼツランの栽培が開始される西暦200年頃からプルケ酒も作られ始めたんでしょうね。




さて、メキシコのお酒と言えば「テキーラ」



こちらは1600年に最初の工場ができたのだとか。1521年にアステカの首都、テノチティトランがエルナン・コルテスにより陥落したと考えると結構古い歴史を有しています。世界的に有名になるのは19世紀末以降で、それまでは国内消費されていました。



こちらのテキーラもリュウゼツランから作られています。メキシコのイメージのせいか、テキーラはサボテンから作られるお酒と言われることもありますが、リュウゼツランはサボテンじゃないです。


ユリ科の植物で見た目はアロエっぽいです。棘はありますけど、棘あったらサボテンなわけじゃないので(その理屈だとバラもサボテンになります)。



シャンパンがフランスのシャンパーニュ地方で作られたものだけを指し、その他はスパークリングワインになってしまうように、テキーラも基本的にテキーラ村で作られたものを指します。


正式名称はサンティアゴ・デ・テキーラです。現在はテキーラ町です。



実際には町のあるハリスコ州とグアナファト等の周辺域で生育したテキーラ専用のリュウゼツラン(アガベ・テキラナ・ウェベル・バリエダ・アスル)を総原料の51%以上使ったものであればテキーラと名を打つことができます。


最低2回の蒸留を行うなど細かい規定はありますけどね。



ということで、日本でもお馴染みとなったテキーラは、古代マヤ文明のお酒バルチェ酒と同じくらい古い歴史をもつ古代メキシコのプルケ酒を源流にしているお酒なのです。



4.おわりに

お酒のウンチクが必要な場面は限られているかも知れませんが、考古学や古代史の方に重点を置いて話せばそこまで嫌がられることもないでしょう!


世の中、どんなことどんな物にも歴史があるものです。普段何気なく口にしているお気に入りの飲食物の歴史について調べてみるのも面白いかも知れません。


最近の各会社のサイトでは商品開発等について様々な企業努力をしていることが手軽に窺ますし、身近な日本酒の蔵やビール工場などに見学に行くのも良いかも知れませんね。


是非、身の回りにある「歴史」に触れてみてください。


↓それ、ぽちっとな!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓


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