あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    ヨーロッパ

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    2025ねん 9がつ 22にち(げつよーび、晴れ)

    やはり月末は忙し過ぎて死ぬ!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





    今回の考古学・歴史ニュースは🐎✨黄金に眠る騎士——サカルの主、戦馬とともに甦る2,100年の物語!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰 はじめに

    泥と石の間から、金が微かに光った――。


    ブルガリア南東部サカル(Sakar)山地で発見された1基の墳墓は、青年戦士を囲むように置かれた豪華な副葬品と、戦馬を飾る金銀の装具を明らかにした。


    発掘チームは被葬者を「サカルの主(Lord of Sakar)」と仮名し、その歯車のように精緻な技術と国際的なモチーフが、当時の東バルカンが地中海世界と濃密につながっていたことを雄弁に物語る。





    🔎 発見の概要:どこで何が見つかったのか?

    考古学チームはブルガリア、トポロヴグラード(Topolovgrad)周辺、サカル山地の一帯で複数の墓丘(tumuli)を調査中、紀元前2世紀ごろ(およそ2,100年前)の高位の戦士墓を発掘した。


    墳丘のなかから、ほぼ完全な人骨とともに戦馬の副葬、銀張りの金冠(銀に金箔を施した冠)、宝石嵌めの短剣、金銀の首飾りや繊細な纏足具(馬具)など、きらびやかな品々が何点も出土した。


    出土品の豪華さは、ブルガリアで近年発見された中でも屈指の“豊かさ”であると報告されている。




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    ↑銅のプレートが副葬品なのね!( ・Д・)(「Heritage Daily」の記事内画像より転載)


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    ↑黄金でいっぱいだぁ!( ・Д・)(「EPA TB」の記事内画像より転載)





    🛡️ ヘッドラインになる理由:戦士と馬の“並葬”は何を示す?

    トラキア(Thrace)の文化では、馬は社会的地位と戦闘力の象徴であり、有力な戦士や首長が馬とともに埋葬される例が知られる。


    今回の遺構では、馬そのものに豪華な鞍金具や装飾用メダリオンが付されており、馬にも“栄誉”が捧げられていたことが分かる。


    副葬品中にギリシャ的モチーフ(ヘラクレスとアンタイオスの場面等)が見えることから、地域的なトラキア文化がヘレニズム世界の美術・儀礼と交錯していた実態も浮かび上がる。






    🔬 どのように保存・分析が進められているか(科学的処置)

    発掘後、遺物は国立考古学研究所(NAIM-BAS)へ運ばれ、CT撮影、金属組成分析、顕微鏡下での装飾技法の検査など保存・分析処置が行われている。


    冠や帯金具の金箔・鍍銀(めっき)痕、宝石の産地推定、馬具の製作技法は、当時の国際交易や工房ネットワークを復元する重要資料になると考えられている。


    調査チームは、出土地の文脈(近隣の祭祀跡・別墓群)と合わせて、この一帯が後期ヘレニズム期の有力な権力拠点であったことを示唆している。



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    ↑現代感覚でも素敵すぎる!( ・Д・)(「EPA TB」の記事内画像より転載)



    🌍 比較と意義:東バルカンの“ヘレニズム化”をどう読むか?

    今回の墓は、単なる「金持ちの墓」を超えて、地域的アイデンティティの複層性を示す。


    トラキアの土着的慣習(馬と並葬する慣習、戦闘的シンボル)と、ヘレニズム圏から流入した装飾言語(ギリシャ神話的図像や金細工技術)が同一空間で混在している。


    これは、紀元前2世紀頃のバルカンが、武力・富・交易を媒介にして“文化的交流”を深化させていた証拠である。学術的には、地方的権力構造と地中海世界の関係を再検討する格好の材料となる。









    おわりに

    想像してほしい。

    ――戦士は緑の丘陵を越え、馬にまたがり、太陽を背にして帰らなかった。

    彼の手には短剣、首には銀と金の煌めき。

    葬列は静かに夜に消え、翌朝に石が積まれ、金属は地の中へ――

    だが2000年後の私たちは、その“煌めき”を再び目撃する・・・・・




    ってことで、「ロード・オブ・サカル」かっこいいな!

    こんな大それた仮名付けるなんて海外勢らしいな~って感じです。

    日本人考古学者は少しでも不安があれば明言を避けに避けまくるけども、海外ではそもそもかなりテキトーに「あだ名」付けますからね。

    それも明らかにノリで付けたり、ジョーク的にも付けます。

    そしていつの間にか何故かそのテキトーなあだ名が通称になっちゃうんですよねΣ(・ω・ノ)ノ



    かく言う私は、半分は日本人らしく真面目に掘ってデータ取って研究して、残り半分はラテン人らしく明るくテキトーにふざけて生きていきたい!ヾ(´ω`=´ω`)ノ



    何はともあれ、

    やぱ金銀財宝いいな!( ・Д・)



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    2025ねん 7がつ 1にち(にちよーび、晴れ)

    寝るのは大事だね、最近寝れんけど!( ・Д・)

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    今回の考古学・歴史ニュースはアイス屋さん掘ったら1000年前の騎士の墓に当たったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    🍦路地角の“甘い記憶”のさらに下で──グダニスク旧市街、アイスクリーム店跡に眠っていた騎士


    ポーランド北部の港町・グダニスク。1960年代から地元で愛された名物アイスクリーム店が移転し、更地になった街角で、発掘チームが見つけたのは、なんと中世の騎士の墓でした。しかも、墓石は長さ約1.5メートルの石灰岩板に鎖帷子をまとい、剣と盾を構える騎士の姿が線刻された“図像墓碑(エフィジー・スラブ)”。13〜14世紀ごろの作とされ、都市のど真ん中に潜んでいたタイムカプセルがいきなり開いたような衝撃です。


    墓碑の石材はスウェーデン・ゴットランド島産の石灰岩と分析され、流通網にアクセスできる相当位階の人物だった可能性が高いとの見立て。周辺は11〜14世紀に使われた墓地で、都市誕生期の“エリート層”の姿を映す希少例だ、と研究者は強調します。




    🧭 発掘のいきさつ:アイスの次は、考古学の“当たり”が出た

    現地では再開発に先立つ予防発掘が2023年から進行。まずは店内床下でこの図像墓碑が見つかり、慎重に持ち上げたその真下から、全身ほぼ完全な成人男性の骨格が現れました。図像墓碑と完全遺骸の組み合わせが保たれた例は稀で、専門家は「近年のポーランド考古学で最重要級の出土」と評しています。


    年齢・身長・出自などは解析中ですが、報道によっては40歳前後・身長およそ167cmという暫定推定が伝えられています(最終学術報告で更新の可能性あり)。




    🛡️ 墓碑のディテールが語る“この人は何者だったのか”

    墓碑に刻まれた騎士像は、鎖帷子(メイル)に剣と盾という堂々たる構図。盾の紋章部分は摩耗して判読不能で、所属を断定する手がかりは失われていますが、テウトニック騎士団や地域領主勢力との関係を示唆する説が挙がっています(現時点では確証なし)。石材の舶来性都市中心墓地への埋葬という二点は、軍事・行政の要職にあった人物像と整合的。市民のあいだでは早くも“グダニスクのランスロット”の愛称で呼ばれているのも納得の存在感です。




    🧪 3Dスキャンからゲノムまで──“顔”が見えてくるプロセス

    遺骸と墓碑は現在、グダニスク考古学博物館に移送され、高解像3D記録同位体・遺伝学的解析、さらには顔面復元の計画まで走っています。たとえば歯や骨の同位体比は、子ども時代の飲水や食生活、移動歴を示しうるし、DNAは親縁・体質・疾患リスクのヒントを与えます。図像に刻まれた“理想の騎士”と、骨が語る“現実の人間”がどれくらい重なるのか──想像が一気に具体になるフェーズ。




    🏙️ 都市の地層をめくる:木造教会、広がる墓域、そして日常

    この街角は、中世の教会と墓地が広がった一角。12〜14世紀の埋葬が重なり、同地区では200体以上の遺骸や複数の墓碑が段階的に確認されてきました。今回の“騎士の墓”は、その集積の中でも図像・保存状態・階層的示唆の三拍子が揃った“決定打”。“ふつうのカフェ”の床下に、静かに何百年も眠っていたという事実が、都市考古の醍醐味をそのまま体現しています。




    🌍 どこから来て、どこへ向かったのか:バルト海のネットワーク感覚

    ゴットランド石灰岩が物語るのは、バルト海交易圏のスケール感。グダニスクは古来、琥珀や毛皮、木材、穀物が行き交う海のハブでした。北欧の石を材料に、ポーランドの都市で、ラテン文化の象徴である“騎士”が葬られる──それ自体が、多層的な“境界の街”の肖像。港町の息遣いは、墓碑の素材という小さな断片にも、確かに刻まれているんですね。




    📚 報道の“差”も含めて読む:確かなこと/まだわからないこと

    • おおむね一致しているポイント
       場所(グダニスク旧市街/元アイス店跡)年代(13–14世紀)図像墓碑と完全遺骸のセット石材の舶来性・高位性の示唆今後の分析・公開準備

    • 報道に揺れがあるポイント
       推定身長・年齢テウトニック騎士団との関係周辺遺構の細部(古教会の年代など)。これらは暫定として扱われ、最終報告で更新される見込みです。




    📝 おわりに

    アイスを買いに通った、あの路地角の“日常”。そこの地面をほんの少し剥いだだけで、**700年前の“非日常”**が、まるで息を吹き返したように立ち上がる。
    剣と盾を掲げた騎士の姿が刻まれた石。その下に眠っていた、ひとりの人間の骨。理想像と実像が、たしかに一つの身体を共有していたんだ──そう思うと、胸の奥がきゅっと熱くなります。

    “どこの家の人だったのか”“どんな食べ物を好み、どんな海風を吸い、何を守ろうとしていたのか”。3Dの線や数字になっていくほど、想像は逆に柔らかく膨らんで、一個人の時間へそっと触れられる気がする。
    そして、アイスの甘さの記憶のさらに下に、都市の地層が静かに重なっている──この発見は、街と人の物語がどれほど分厚い本なのかを、やさしく教えてくれます。

    また続報が出たら、“騎士の顔”が見えてくるまで一緒に追いかけましょう。あの路地角で、時間はちゃんとつながっていました🍨🛡️




    何はともあれ、

    暑い日のアイス旨い!( ・Д・)



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    2024ねん 9がつ 16にち(げつよーび、晴れ)

    首と腰治ってきた!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

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    ↑ケルト系民族のイメージ!( ・Д・)(「???」の記事内画像より転載;なんだかリンク先がおかしくなっているので明記しません( -д-)ノ)


    今回の考古学・歴史ニュースは古代ケルトの兜がポーランド北部で出土したよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はポーランド北部マゾフシェ地方のウィサ・グーラ遺跡です。


    ケルトと聞くとなんだか神秘的なイメージがありますよね。

    ゲームやアニメなどの作品でケルト神話が題材にされているケースもありますし、RPGのBGMでもケルト民族調の音楽が使用されていたりして、、、

    ケルトって何?って本当に具体的なことは何も知らないのに、名前は知ってるし、なんとなくイメージも掴めるんですよね。

    不思議なものです( -д-)ノ



    さて、ケルトとはそもそも古代ローマで「未知の人」を指す言葉です。

    ケルトは民族かというとそうでもなく、全体として民族意識はないそうです。

    なのでケルト語を話す集団を「ケルト系」としてくくっているだけで、文化的にはケルト系小集団として多様な状態にあります。





    arukemaya_z044



    さて、今回の記事ではケルト由来の兜がポーランド北部で出土したことが問題になっているので、地理情報を提示しますね。

    まずは上に挙げたケルト系集団の分布図です。

    青色が1500 BCE - 1000 BCEにおける分布です。

    ピンク色がそれ以降、400 BCEまでにケルト系集団が拡大した分布になります。



    見ての通りヨーロッパに広がる集団なのですが、文化的にはケルト系としておおよそまとめられるのですが、後のヨーロッパ史における戦争の歴史/侵略・征服の歴史によって使用言語が変わったり、文化・風習が変化して現在の多様なヨーロッパの人々に変質しています。

    他方で、もちろん現在でもケルト系言語を話し、ドルイド(司祭)を中心とした多神教の自然崇拝を行うケルト系文化を継承している人々もヨーロッパ各地に広がっています。


    さて、上に挙げた分布図でポーランドがどこかというと、、、




    arukemaya_z043




    上に挙げた2枚の画像の内、1枚目がポーランドの位置です。

    今回の遺跡があるポーランドのマゾフシェ県の位置が2枚目の画像の赤色の位置です。

    ケルト系集団の分布との位置関係を捉えると以下の図のようになります。




    arukemaya_z045

    ↑今回の発見位置(先の画像を一部加工)



    作ってから、申し訳ないなと感じたのですが、面倒なので修正しませんでした( ・Д・)

    そう、赤色で塗ったので見にくい!ヽ(TдT)ノ




    マゾフシェ県の位置をおおよその地点で示したものですが、ケルト系集団の分布の北限より北に位置しているんですよね。

    だからここで見つかったケルト系の兜は新発見ということになるのです。

    まぁ今回の発見だけでケルト系集団の分布図が変わるとは思いませんが、今後この地域での発掘調査を通して再考されることは間違いないでしょう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!









    おわりに

    「文化」って一般語として使いますけど専門用語としては超難しいと思ってます。

    専門によって定義が異なり、更に各分野の研究者によっても異なります。



    考古学でももちろん「文化」の意味は異なるのですが、あまりにも他分野とは異なるので「考古学的文化」と記述することがあります。

    (私はいつもそのように書き分けています( -д-)ノ)



    で、簡単に言うと、『考古学的文化とはモノの組み合わせのこと』です。

    この場合のモノとは「特定の時期における遺物・遺構のこと」です。

    だから古代ケルト系集団の分布とは考古学的には特定の期間に帰属する彼らの残した遺物・遺構の組み合わせのことってことになります。



    今回、分布範囲外のウィサ・グーラ遺跡において上に挙げた古ケルト系の青銅製の兜が出土したことは新たに判明した事実です。

    問題となるのは組み合わせです。

    兜の時期は400 BCE頃となっていますが、この古ケルト系集団の最大範囲の外でこの兜が見つかったとして、、、



    何かしらの要因、つまり経済的に搬入されたとか、略奪された持ち込まれたとか、モノの出土には色々な要因が考えられます。

    つまり兜単体で出土したのか、古ケルト系集団が有する物質文化の組み合わせとして出土したのか、、、

    組み合わせとして出土したとしてもどれだけの量なのか、単一ならばたまたま一人のケルト人が流れ着いただけかも知れません。

    つまり組み合わせとしての出土量に加えて、分布範囲外としてのウィサ・グーラ遺跡の周辺域において、どの程度の古ケルト系集団に特徴的な考古学的文化の分布があるのかも問題になってきます。



    だから今回の発見は重要な新発見だけれど、古ケルト系集団の分布を見直すために、考古学的な手続きとしての道程はとても長いのです。




    やっぱ考古学は一回性実験という名の穴掘りが必要だから時間かかるよね( ・Д・)

    いつもながら続報に期待です!ヾ(´ω`=´ω`)ノ





    何はともあれ、

    やぱ新発見ってなんだかいいね!( ・Д・)



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    2020ねん 11がつ 4にち(すいよーび、くもり)

    お酒をやめる!( ・Д・)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    今回の考古学・歴史ニュースは「ロイヤルパープルを作ってた都市はめちゃひどい悪臭が漂っていたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    前回の記事に関係していますので、まだ読んでない方はこちらからどうぞ!




    さて、今回紹介するケルクアンは、前回の記事と同様にチュニジアのボン岬の近くにあったカルタゴの都市です。


    ケルクアンは紀元前4世紀から紀元前3世紀の間に居住されていた都市で、第一次ポエニ戦争(紀元前264年 - 紀元前241年)の間にローマ軍に攻撃され放棄されたと考えられています。


    この戦争時に都市の一部分が破壊されるにとどまったことで、ケルクアンは古代フェニキアの当時の街並みを知る上で最良の遺跡となりました。




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    ↑壁材がしっかりと残る街並みが広がっている(「いなももの日記*ももログ」の記事内画像より転載)


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    ↑モザイクの床面(「前向きに楽しく生きる為にする事」の記事内画像より転載)



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    ↑タニト神(地母神、豊穣神、軍神)のマーク(「旅倶楽部「こま通信」日記」の記事内画像より転載)



    最初に挙げた写真は神殿で、柱列がしっかりと残っています。


    上に挙げた写真の1枚目では住居の壁が残っており、建造物の見取り図や街並みがしっかりと分かる状況にあります。


    2、3枚目の写真に見られるように、細かなモザイクが施された床面も残っています。


    住居以外には先に述べた神殿の他、公衆浴場があり、陶工、石工、ガラス職人、金細工師などの様々な工房が確認されています。



    こうした保存状態の良いケルクアンは1.5キロほど離れた墓地(ネクロポリス)とともに世界遺産になっています(*・ω・)ノ

    前回も紹介したようにフェニキア人の最重要の特産品と言えば巻貝から作る赤紫の染料、いわゆる「貝紫」を用いた製品です。


    貝紫は王者の紫、ロイヤルパープル、フェニキアのティルスで多く生産されたことからティリアンパープル、フェニキアの紫、古代紫と様々な呼称があります。



    上に挙げた写真のアッキガイ科の巻貝シリアツブリの内臓(分泌腺)から取る分泌液を化学変化させてつくる特殊な染料のため1つの貝からほんのわずかしか採取できません。


    染料1gを得るのに100kg、おおよそ1000~2000個の貝が必要とされています。


    そのためこの染料で染めた布は古代地中海世界で大変珍重され、富と権力の象徴にもなっていました。


    貝紫で染められた物には「力が宿る」と信じられており、多くの権力者たちが禁色として、一般の人々の使用を禁じました。


    特にローマ帝国では皇帝だけがこの色をまとうことを許されたことから、「紫衣(しえ)」という言葉はのちに皇帝位や王権の代名詞となりました。




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    ↑巻貝を投げ込んだ穴らしい(「LINEトラベルjp」の記事内画像より転載;credit: 澁澤 りべか)



    さて上の写真の円形のくぼみは、染料を取りだす過程で貝を腐らせるために入れておいた穴と推測されています。


    土器工人の工房や窯も発見されていますが、それとは異なるのです。


    貝の内臓を溜めて腐らせておくということはつまり、ケルクアンは高価な特産品の代償として常に悪臭に悩まされていたと考えられます。




    何故、そう言えるかというと、ケルクアンの住居の多くが浴室を備えていることから推測されています。


    当時はローマでも公衆浴場が一般的であり(映画「テルマエ・ロマエ」のイメージ)、個人の家にお風呂があるなんてのは王族クラスや有力貴族くらいでした。


    ケルクアンも同様に公衆浴場があるのですが、多くの住居はお風呂を備えていたのです。


    超高級な貝紫で栄えていたので、みんなお金持ちだから個人宅にお風呂を備えていたとも考えられますが、、、


    恐らくは体についた染料や髪についた臭いを、自宅のお風呂でしっかりと洗い落としていたのではないかと考えられています( -д-)ノ


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    ↑個人住宅内の浴槽(「旅倶楽部「こま通信」日記」の記事内画像より転載)




    おわりに、貝紫製品の現代価格を計算してみた!

    英語の表現で、"born in the purple"(または "born to the purple")は「王家に生まれた」という意味を指します。


    それほどまでにロイヤルパープルは王権の象徴だったわけです。


    しかし乱獲のためか原料の貝が減少したことにより、後には王家の色といえばロイヤルブルーと呼ばれる濃い青に変わっています( -д-)ノ



    さて、そんなとっても貴重なロイヤルパープルですが、CE1世紀頃の記録によると、ローマ人はロイヤルパープルで二度染めした羊毛およそ1ポンド(約450g)に対して、1,000デナリウスを支払っていたようです。



    現代の価格と当時の価格を比較することは困難ですが、おおよそでいくと、CE1世紀に1デナリウスで購入できるパンの量で換算した場合、21USドル(約2200円)に相当します。


    この「パンの量換算」で計算すると、ロイヤルパープル2度染め羊毛(450g)は220万円になりますね( ・Д・)



    また、歴史記録によると、共和政ローマ後期とローマ帝国初期の単純労働者や兵卒の日給が税抜きで1デナリウスだったそうです。


    アメリカ合衆国での最低賃金は8時間労働で税込み58USドル(約6000円)だそうで、この「日給換算」で計算すると、ロイヤルパープル2度染め羊毛(450g)は600万円になりますね( ・Д・)



    ちなみに羊1頭からは3~4kg程の羊毛が取れるそうで、ちょうど羊毛掛け布団は1頭分の3.5kg前後あるそうです。


    とある羊毛掛布団ブランドの詰め物重量を見てみると、シングルサイズに比べてキングサイズは0.8kg重いと表記されていました。


    やはり王家としてはキングサイズ一択でしょう!( ・Д・)



    ということで、高い方の「日給換算」で、何故かふと、とっても高貴なロイヤルパープル羊毛キングサイズ掛け布団を作ってみたらとしたら、そのお値段は・・・


    およそ5730万円!!!( ・Д・)

    ↑せめてここだけでも高貴な色合いを!

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    2020ねん 6がつ 8にち(げつよーび、曇り)

    調査地のコロナ問題より、人種差別問題の方がやっかいだ( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「ノルウェーで古代のゲームが発見されたよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    今回発見されたのは古代ローマ時代(CE100-400)に帰属するゲームの一部です。

    上に挙げた4本の棒は、サイコロだそうです。

    記述を確かめていないので不確かですが、恐らくこの写真は『展開図』として加工された画像です。

    なので、実際に出土したのはサイコロ1個(1本?)で、4面あるということだと思います。

    (写真をよく見ると形態や損傷部から同一資料の別の面のように思えます……違ったら申し訳ないっ( -д-)ノ)

    素材に関する記述もありませんが、遺物として残ったという事実と色調や表面の状態から恐らく動物骨や鹿角等を用いて作られたものでしょう。

    私たちが一般的に使うサイコロって六面体のダイスですからね。

    4面の棒状ダイスってだけで「レア感や古さ」を感じます(*・ω・)ノ



    ちなみに各面には「0、3、4、6」って刻まれています。

    刻線による円形(〇)とその中心に刺突/穿孔(・)があって、1つの単位を示しているのが写真から読み取れると思います(*・ω・)ノ

    4面なので当然ですが、数字が現代の一般的なサイコロとは異なるというのが面白いですよねヾ(´ω`=´ω`)ノ





    上に挙げたような駒も共に出土したそうです。

    これもサイコロと同様に動物骨等で出来ているようですね。

    この写真も「展開図」になっていますので、左側が表面、右側が裏面になります。

    裏面には刺突(やや穿孔)が見られます。

    全部で18個の駒が出土したそうですが、いずれも2点の刺突があるのでしょうか?

    であれば、単に表裏を示すためのマークでしょうね(*・ω・)ノ




    この発見はベルゲン大学博物館の考古学者モーテン・ラムスタッド博士らによってルウェー西部のイトレフォッセ村近くの墓地遺跡で行われた調査でなされました。


    彼らによるとこのゲームのプレイ方法は古代ローマの戦略ボードゲーム「Ludus latrunculorum」に基づいている可能性があるそうです。

    「Ludus latrunculorum」は上に挙げたようなチェスやチェッカー(ドラフツ)と似た盤と駒を使ったボードゲームだと考えられています。


    チェスは、インドのチャトランガを発祥としているのは有名ですね。


    前にも触れたでしょうか……


    世界史でも有名な東インド会社の植民地期にチャトランガがイギリスに持ち込まれ、「女王陛下」が強くあらねばならぬイギリス社会の影響で、本来最弱の駒であった「宰相」が最強の「クイーン」になったという歴史があります。


    私もチェスやりますけど、クイーンの動きは将棋の飛車+角行です。


    どこまでも全方向に飛んでけます(ば、化け物かっ!( ・Д・))。




    まぁチャトランガ、チェス、将棋のような戦略ゲームは世界中に類似ゲームがあります。


    歴史書に残らないレベルの古代ではその発生については不明ですが、交易等を通じて伝播したのかも知れません。


    あるいは古代社会において「ゲームは貴族の遊び」です。


    こうした世界各地に見られるボードゲームの基本が「戦略ゲーム」だというのも、いざとなれば戦わねばならぬ貴族の軍事教育目的に由来して、後世に影響し合ったとは言え、本来的には各地でその必要性から自然発生したのやも知れません。




    ・・・・・・・・・・・・・


    今回発見されたゲームのルールについては不明です。

    というのも古代のゲームの一端を発見するのは考古学者ですが、ルールについて議論するのは文献史学者(所謂、歴史学者)であることが多いのです。



    今回の発見は貴族層の墓の副葬品として出土していますから、保存状態は良好のはずです。

    だとすれば18個の駒は全て揃っているはず。

    ならば二人でプレイするならば、1プレイヤーは9駒を扱うことになります。



    盤面は残っていませんから、木製でしょう。

    正方形ならば、横方向に9マス×縦方向にも9マスでしょうか。

    ……このようにして考古学ではプレイ方法を推測していきます。

    あくまでモノから推測していきますから(*・ω・)ノ



    さて、今回の発見のポイントは鉄器時代であったノルウェーにも古代ローマ文化が届いていたということですね。

    ということは出土品の真のプレイ方法の秘密は、本家ローマの出土品や歴史書、今後の発掘調査成果の中に隠れているのかも知れませんねヾ(´ω`=´ω`)ノ




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    ↑以前にも載せたティカルのボードゲーム、欲しい!( ・Д・)(確か、「Amazon」の商品ページからの転載だった気がする……毎度のことながら回し者ではありません( -д-)ノ)



    おわりに


    なかなかこういった遺物の出土は「レア」なので、久々の『ゲームの考古学/趣味の歴史』となります。

    以下に、これまでに取り上げた『ゲーム』に関する記事を載せておきますね。


    ↓『ゲームの考古学』シリーズです(*・ω・)ノ







    ↓その他の、ゲームに関連した記事です(*^・ェ・)ノ









    無料なのでライブドアブログ利用させて頂いてますけど、

    けっこう検索が使いにくいなって思ってます。

    変に広告が反応するし(ノ`Д´)ノ


    なので、関連記事がある場合はこうしてリンクを貼るようにしますので、良ければ是非読んでみてください(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


    『発見至上主義』な考古学者は好きではありませんが、レアな発見にはワクワクしてしまうというのもヒトの性でしょうね。


    ……古代マヤ文明、あるいはメソアメリカ文化領域には「パトリ」というゲームがあります。

    これまでに建造物の床面・壁面に刻まれた盤面だけが見つかっています。


    王族・貴族が遊んだ石製 / 土製駒付きのパトリを見つけたいよっ!( ・Д・)


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    2020ねん 6がつ 6にち(どよーび、晴れ)

    そろそろ国内の資料調査行っても許されるだろうか?( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは「美人考古学者を発見したよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



    前回から「広報・外部用の記事タイトル」と、「記事内タイトル」を大幅に変えてみましたが、、、

    さすがにこれは違い過ぎるか!( -д-)ノ

    まぁある程度のおふざけは管理人のストレス発散の一環として大目に見てくださいなヾ(´ω`=´ω`)ノ




    arukemaya894


    さて、今回の舞台はイタリアのベネチアです。

    上に挙げた写真のように「水の都」として有名ですね。

    このベネチアにある潟(ひがた;ラグーナ)に浮かぶサン・ラザロ島にある修道院で、中世の遺物として展示されていた金属の刀剣がありました。


    修道院の記録文書によると、この刀剣は1886年の8~9月にトルコのトラブゾンにある同じ宗派の聖職者組織から贈り物として届けられたものだそうです。



    で、問題の刀剣がこれです(*・ω・)ノ



    arukemaya892
    ↑実際に「中世」と記されていた刀剣(「CNN.co.jp」の記事内画像より転載)



    長さ約43cmの金属製の刀剣です。


    この「中世」との表記があった刀剣の展示を見た博士課程の学生がその年代に疑問を持ったそうです。


    とういうのもこの学生は青銅器時代が専門で、自分の調査研究で知っていた刀剣と形態が類似していることから、もっと古いものだと確信したそうです。


    青銅器時代であれば5000年前に遡る可能性があります。


    そこで、学生の所属するベネチア大学とパドバ大学が共同で刀剣の金属の化学組成を分析した結果、ヒ素を含む銅の合金で作られていることが分かりました。




    ・・・・・・


    申し訳ないことにここから先の記事の意味が理解できなかった(これまでの文章との前後関係が理解できなかった)ので、引用しておきます。



    この合金は主に紀元前4世紀の終わりから同3世紀初めにかけて使われていたもので、青銅の使用が定着する前の年代であることを意味する。


    同じ化学組成を持つ刀剣2本がトルコで見つかっているが、これらは形状も非常に似通ったものとなっている。


    当時はコーカサス地方やアナトリア地方、エーゲ海諸島及びギリシャ本土で新たな貴族階級が勃興していた。考古学者らはこうした刀剣について、武器であると同時に権威の象徴としての役割も果たしていたとみている。


    (CNN.co.jpより)


    ・・・・・・・・・



    どういうことなのか、さらっと読んだだけでは理解できないのです( -д-)ノ


    (勉強不足で申し訳ない)



    私なりの考えを以下に書いておきます。



    arukemaya892
    ↑再掲(緑色の部分見えますよね?剣の中ほどとか特に。)



    まず上に挙げた刀剣をよく見て欲しいのですが、「緑青」が見えますよね。


    「緑青」は銅が酸化した際の錆で、緑色になるのはご存じの方も多いかと思います。


    だから青銅製の剣だなんてパッと見で分かるやん!って思います。




    そしてヨーロッパにおける青銅器時代はBCE3000年に始まります。


    ヒッタイトの滅亡により鉄器の知識が広がるのがBCE1200年頃です。




    ということは、参考記事の「5000年前に遡る可能性がある!」なんて記述は、青銅器時代の始まりを指しているだけなんですよね( -д-)ノ




    実際の分析結果では、刀剣の素材は銅とヒ素の合金でした。


    こういった合金が使用されたのがBCE300-200頃だと書いてます。




    なら古く見積もっても2500年前じゃない?


    二倍も違うよ?( ・Д・)





    また「青銅の使用が定着する前」ってのも全く理解できないですね( -д-)ノ




    青銅器時代は利器として青銅が主に用いられた時期です。

    鉄器時代に入り、鉄器が普及しても青銅器はただちに消えたのではなく、祭具・儀礼品として製作が続いていました。

    なので、BCE5世紀以降に青銅製品があってもおかしくはないのです。




    (以降、混乱するかも知れませんので確認しておきます。CE・BCEは『共通起源』として当サイトで使用しています。

    CEが西暦・紀元後;ADに相当し、BCEが紀元前;BCに相当します。

    以下の記述はCEですから西暦・紀元後のお話です(*・ω・)ノ)




    一方で、ヨーロッパにおける中世という使用は幅広く、CE500-1500年まで全部中世です。

    中でも一番古い中世前期がCE500-1000です。

    明らかに鉄器時代ですから、もちろん「中世」という緑青付き刀剣への表記は間違っています。

    学生も研究成果も正しいです。


    でも、なんだろう、このとてつもない違和感は……( ・Д・)


    おわりに 記事の真実はいかに?

    上に挙げた写真(右)がベネチア大学の博士課程で考古学を研究するビットーリア・ダラルメリーナさんです。


    綺麗な考古学者もいるのですね。


    ちなみに「美人・考古学者」で検索すると日本語、英語、スペイン語ではほぼヒットせず、アニメや映画のデータが見つかります。


    だから「美人考古学者」は実在しないのだと思ってました( -д-)ノ



    結局、この記事、よく分からないのですが・・・

    原因の所在として考えられるのは、



    ①この記事を書いた人が歴史的なことを何もチェックしなかった

    ②5000年前という古さを強調して、注目されたかった

    ③美人だから忖度した( ・Д・)



    日本とヨーロッパ、あるいは他の地域でもそうですが、「中世」なんて用語は使い方や時期が異なりますので注意が必要です。



    ま、まとめると

    『展示されていた刀剣が実は古かった!』、

    『博士課程の院生が気付いた!』、

    『美人の考古学者が実在した!』、

    の3点が今回のニュースの骨子でしょうかね。



    結局、実際のところ、どうしてこうなったかは不明だけど、、、

    考古学でもで顔面偏差値は重要だぜっ!( ・Д・)


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