あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

    お金にならない考古学をお金にしよう╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ ! 考古学・歴史ニュースの決定版╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

    レアな発見

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    2025ねん 11がつ 16にち(にちよーび、晴れ)

    締切明日だが間に合わん気持ちでいっぱい!( ・Д・)

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    今回の考古学・歴史ニュースはあ~モーセの開いた海の道みたいなもんね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    エーゲ海──今では美しい島々と青い波が広がる観光地として知られていますが、数万年前にはかつて陸続きだった場所があった、という驚きの研究成果が報じられました。西トルコ、アイワルク(Ayvalık)の海岸線沿いで、考古学者たちは 138点もの旧石器時代の石器 を発見。これらはかつて海面が低かった氷河期に、アナトリア(現在のトルコ)とヨーロッパ本土をつなぐ陸橋が存在したことを示すものです。もしこの発見が描く通りであれば、人類がヨーロッパ大陸に拡散したルートの通説を大きく書き換える可能性があります。




    🔍 氷河期に現れた、もう一つの人類の道

    氷河期には地球規模で水が凍結し、海水面が現在よりも 100 m以上も低かった と推定されています。その頃、現在は島や半島として点在しているアイワルク周辺の地形は、連続した陸地を形成し、人の移動を可能にしていたのです。この「陸橋仮説」は、アイワルクの新しい調査によって裏付けられつつあります。



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    ↑これがどこなのか全然分らん地図も珍しい、元論文見ても分らんかた!( ・Д・)

    (Mazza et al. 2013: Fif.2より転載)

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    ↑とりあえずエーゲ海はここ!( ・Д・)

    (「Google Map」の画像より一部加工)


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    ↑右側がトルコで左側がギリシャでヨーロッパなんだけど、エーゲ海の中で一番距離が短くて島が今でもあるのはこの辺りでない!?( ・Д・)

    (「Google Map」の画像より一部加工)



    🗿 海岸線で発見された、旧石器の証拠

    考古学チームはアイワルクの 10か所 にわたる調査地点で、138点の石器を収集しました。
    出土した道具の内訳は以下のように多様です:

    • ルヴァロワ(Levallois)方式 のナイフ状の破片 — 中石器〜旧石器時代で高度な技術を示唆。

    • ハンドアックス(手斧)クリーバー(割る道具) などの大型石器。

    • 原材料として 燧石(フリント)カルセドニー (玉髄)を利用した石器が含まれ、地元資源の活用も示唆される。

    これらの道具は、ネアンデルタール人やホモ・サピエンスの活動と結び付けられる典型的な旧石器遺物であり、単なる通過点というより 居住や長期利用の痕跡 を示す可能性があります。



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    ↑海の中、調べてるわけじゃないのね。このレキ群の中から拾うのね!( ・Д・)
    (「Popular Science」の記事内画像より転載;Credit: Kadriye, Göknur, and Hande)



    🌐 新たな人類拡散モデルへの挑戦

    従来、ヨーロッパへの人類進出は、バルカン半島やレヴァント(中東)経由が中心的なルートと考えられてきました。しかしこのアイワルク陸橋仮説が正しければ、 エーゲ海を横断する別ルート が古代から機能していた可能性が出てきます。研究者たちは、単なる移動経路ではなく「技術と文化の交差点」として、この地域の重要性を指摘しています。




    🌿 地形の復元と生活の場としての陸橋

    古地理学的解析によれば、かつてのアイワルク地域は島々ではなく 内部陸地をもつ大きな平原 だった可能性があります。これは単なる通過地ではなく、 定住や道具づくりが行われた「暮らしの場」 であった可能性を示唆しており、研究チームはこの場所を移動経路以上の意味を持つ「ハビタット(生息地)」とみなしています。さらに、原材料の採集地点と道具製作地点の地理的な関係から、石器技術がローカルな資源を反映していたことも読み取れます。




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    ↑この石材は割り方が分かり易いね!( ・Д・)

    (Karahan et al. 2025より転載)




    👩‍🔬 女性研究者チームとその情熱

    この発見を主導した調査チームは 完全女性メンバー という点でも注目を浴びています。Hacettepe大学の Göknur Karahan 博士らは、アイワルク地域の未踏性に挑み、小さな海岸沿いの草地や池などを丹念に調べました。彼女たちは発見した石器を手にした瞬間を「感動的で忘れられない」と語っており、これまで見過ごされてきた古代世界の扉を開いた喜びが伝わってきます。




    📈 今後の考古学・地質学へのインパクト

    • 人類史の教科書を書き換える可能性:これまで主流だった移動モデルとは異なるルートが、学術議論を再構築するターニングポイントとなりうる。

    • 水没地形の再評価:今後、沈んだ沿岸地形に対する地形復元や海底考古学の重要性がより認識される。

    • 技術伝播の新視点:レヴァロワ石器が示す技術共有や地域間交流の経路について、新たな比較研究が期待される。

    • 多分野協働のモデル:考古学・地質学・古地理学が融合するパイオニア的な研究アプローチとして注目される。



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    ↑こう見ると島近いんだよな、いったいどこなんだ!( ・Д・)
    (「Popular Science」の記事内画像より転載;Credit: Kadriye, Göknur, and Hande)

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    ↑地域名で調べたらまさかのここ?( ・Д・)

    (「Google Map」の画像より一部加工)



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    ↑いやそりゃ隣のレスボス島までは近いけども・・・!( ・Д・)

    (「Google Map」の画像より一部加工)





    おわりに

    今回の発見は面白いんだけど、タイトルからしてまた水中考古学かぁ。流行ってるなぁと思ったけど、全員女性メンバーだから水着かぁとか思ったけど、海の中調べたわけじゃないみたいですね。そして場所が全然分からなくて、あんなに不親切な図面久々に見たわ。1970年代の図面を修正したらしいんだけど、全体図入れないのね。きっとトルコやヨーロッパの人々にとっては当たり前の図面なんだろうな。

    で、最後に調べた地図を上に載せたけども、、、どこに陸橋あったのだろう。広大な平野だった可能性もあるって言ってるから、確かにこのアイワクから直線的にギリシャを繋ごうとするとエーゲ海ほとんど陸地になる気がするよね。それはもう橋じゃないよ!考古学者なんだから橋の定義を考えろよ!記事用で注目集めるための言葉選びなんだろうけどさ!( ・Д・)





    何はともあれ、、、

    そういえばロシアから北海道まで泳いで逃げてきた人いたね!( ・Д・)







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    2025ねん 11がつ 15にち(どよーび、晴れ)

    頑張って2日で論文書いてる!( ・Д・)

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    ↑たまたま原体踏んだまま焼いちゃったんだろうね( ・Д・)
    (「石岡市定例記者会見」用のPDFの画像より転載)




    今回の考古学・歴史ニュースはあ~原体の痕跡ね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    白久台(しらくだい)遺跡から、考古学界をざわめかせる発見がありました。縄文時代中期(およそ5,000年前)と推定される土器の破片、その底に残されたわずかな凹み──しかしその痕は、ただの傷ではありません。研究チームはそれを「縄文原体(じょうもんげんたい)」、つまり土器の文様をつけるために実際に使われた縄の形跡だと断定しました。


    これが何を意味するかというと、人類学・考古学ファンだけでなく、縄文文化のロマンを追うすべての人にとって大きな意味を持つのです。なぜなら、土器に縄目模様をつける技術は縄文文化を象徴する特徴のひとつですが、実際にどんな縄が使われていたかを示す物理的な証拠は非常に希少です。今回の発見は国内でわずか3例目であり、しかも加曽利貝塚(千葉市)より古い可能性が指摘されていて、「国内最古」の縄文原体の証跡となる可能性が高いのです。




    🧭 白久台遺跡とは?

    茨城県石岡市所在の白久台遺跡は、縄文時代の集落として報告されており、小さな土坑や縄文土器などが出土しています。2025年2月の定例記者会見で、市教育委員会などの共同調査グループが、土器片から縄の圧痕(痕跡)を確認したことを発表しました。




    🔍 “縄文原体” 圧痕の発見 — その中身

    • 圧痕は長さ約 50ミリ、幅 3ミリ

    • 推定年代は縄文中期、約 5,000年前

    • これが意味するのは、土器の底面に、縄を転がして文様を付ける際に使われた「縄」の物理的な痕跡。

    • 実際の縄(縄文原体)は発見されていないケースが多く、その圧痕だけを頼りに縄の形を復元するレプリカ調査が行われています。

    • 圧痕はこれまで国内で 3例目

    • 研究グループはこれを、加曽利貝塚(千葉)での同様の痕跡より古い可能性があるとみています。



    🧶 技術の復元とその意義

    この発見を受けて、考古・文化財研究の現場では再現実験が始まっています。記者会見資料や学会発表では、圧痕から型を取り、樹脂を使って縄を復元。また、将来的にはその縄文原体を使って、実際に縄で模様付けした土器を再現するプロジェクトも視野に入れられています。


    このアプローチは、単なる「痕跡」の確認を超えて、縄文時代の土器製作技術や生活空間、道具の使われ方をよりリアルに理解するための強力な手がかりになります。




    🌍 縄文の文様技法をめぐって — ほかの事例との比較

    • 同じ石岡市の東大橋原遺跡からは、土器底部に敷物や編組(あみくみ)の圧痕が見つかっており、地域特有の編み技術が推定されてきました。

    • 学際研究では、縄目・網代・編組といった装飾技術を通して、地域間の技術伝播や衣食住のスタイルの違いを探る動きもあるようです。

    • また、縄文文化全体を俯瞰すると、縄目模様の土器は日本列島ほぼ全域で見られ、縄文時代の土器文化を象徴する技法となっています。


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    ↑原体の復元もあるね~( ・Д・)
    (「茨城新聞クロスアイ」の記事内画像より転載)



    おわりに

    縄文原体って考古学の実習で作ったな~って想い出がありますね。記事の性質上、今回の発見も大事って書きましたけども、確かに大事には大事。でももう遥か昔の研究でたくさん実験的に作られて製作過程復元されてるから、そういう意味では大きな意義は内かなって思います。特にね、実際に原体作って縄文土器の実寸復元作ったこともありますが、あれって短いとけっこう大変なんだよね。

    かといって、長い原体作るのも大変なのさ。元々の紐がめちゃくちゃ長くないといけないからさ。まぁ折り返して作らないで紐を複数用意すればいいんだろうけども。でも長くつくると今度は回転させてる時に手で押せてない部分がぶんぶん暴れて器面に変な圧痕残したりするし困ったさんなんだよね。そう思うと原体って大体どれくらいの長さだったんだろうな~って個人的には思います。その意味で今回の発見は一部しか分からないから全体の長さは分からないよね。やっぱ完形で出てくれないとだめなのかな。


    何はともあれ、、、

    レプリカ法流行ってるね!( ・Д・)







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    2025ねん 10がつ 29にち(すいよーび、晴れ)

    もう10月も終わる、急ぎ論文かかにゃ!( ・Д・)

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    ↑シリコン製の鋳型だってさ!( ・Д・)




    今回の考古学・歴史ニュースは「そりゃあめんどいからまとめて作るよね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



    📰はじめに

    こんにちは。久々に日本の話題を取り上げます。今回のテーマは、福岡県春日市に所在する「奴国(なこく)」の王都とされる須玖遺跡群で出土された、なんと一度に3面の青銅鏡を鋳造できる石製鋳型――弥生時代後期(約2000年前)の新たな技術展開を示すこの発見は、鏡という「象徴性ある器物」の生産変化を浮かび上がらせます。


    「鏡」というと、貴人の副葬品や儀礼用具として私たちはまず「一点もの」的印象を抱きます。しかし、ここで出たのは“量産するための石板=鋳型”。これは、鏡の利用や流通、あるいは社会階層・交易・技術の変化を示す可能性を孕んでいます。さあ、鏡の向こう側にある、弥生後期の物質文化の動きを覗いてみましょう。




    🏺 発見:一度に3面鋳造可能な石製鋳型

    福岡県春日市、須玖遺跡群より報告された発見では、石製の鋳型(直方体形・約9cm四方・厚さ約4cm)が出土。片面には直径4 cmほどの鏡型が3面彫られ、溶融金属を流し込む湯口とそれらを連結する溝が確認されています。 


    この鋳型は弥生時代後期とみられており、石材で鏡を同時に複数製造できる構造という点で、全国的にも「鏡量産の証拠」として初めてのものとされています。 


    銅鏡製造というと個別・儀礼的というイメージが強かっただけに、「同時に複数」=“生産ライン的”という発想がここに出てきたことは、弥生後期の社会・技術観を刷新するものです。



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    ↑見つかったのコレ!( ・Д・)



    ⚙️ 技術・社会背景:なぜ“鏡量産”だったのか?

    鋳型の発見は技術側面だけでなく、社会・流通・象徴という広い視野を提示します。

    • 鏡は当時、豪族・王の権力象徴・儀礼用具として重視されており、量の確保・流通の拡大が進んだ可能性があります。

    • 奴国の王都とされるこの地だからこそ、「対外交渉」「権威誇示」「流通拠点」という三位一体の機能があったと推測できます。

    • 鋳型が石製という点も興味深く、金属鋳型ではなく石で複数面を彫るという技術選択は、維持・再利用・コスト面などを考慮したローカル・プロダクションの工夫を示唆します。

      このように、「量産」という言葉が示すのは単なる数の問題ではなく、鏡という物の持つ意味・流通・社会階層・技術ネットワークが変化した可能性を含んでいます。




    🌏 広域視点:弥生後期鏡・量産化のグローバル文脈

    この発見を春日市というローカル遺跡だけで終わらせるのはもったいない。鏡量産化というテーマを広域的視点でも捉えてみましょう。

    • 日本列島では、弥生時代後期~古墳時代初期にかけて、銅鏡の量・分配・副葬化が顕著に増加しています。これは社会階層化・王権形成・広域交流の現れとされます。

    • 同時代の東アジア大陸でも、鏡の鋳造や流通が進展しており、鏡生産の“地域的プロダクション”化という潮流があったと考えられています。

      このように、春日市の鋳型出土は、国内史だけでなく東アジアの金属器生産・流通史ともリンクする発見であり、鏡という器物の意味が「一点豪華」から「量と流通」にシフトしつつあった転換点と捉えられるのです。


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    ↑こんな風に作れちゃうようだ!( ・Д・)


    🧱 考古学的インパクト:何が変わるのか?

    この新発見が持つ意味を、少し整理します。

    • 鏡一個ではなく「複数同時鋳造」という設計思想があった痕跡=鏡の“在庫化・流通化”可能性。

    • 鋳型が出土したという事実により、鏡は単なる権威象徴ではなく、日常的・準儀礼的な物質としても位置づけられ始めていた。

    • 遺跡の立地(王都である可能性)と量産用鋳型という構造から、「国家的・部族的プロダクション拠点」の可能性も考えられる。

      この発見によって、弥生後期が「鏡のあり方を変えた時代」、技術・社会・象徴が交錯するターニングポイントとして再評価される可能性が大きままっています。




    おわりに


    3年前くらいかな、私のティカルにおける財の社会不均衡分布に関する数理モデルを日本研究に応用しようと思って、まずは古墳時代か!と思った時にやはりまず銅鏡のデータから取り始めたのを覚えています。でも私にとっては出土数とか数値さえあればそれで良いので全然鏡について知らないんですよね( -д-)ノ

    で、舶載鏡(中国産)と仿製鏡(国産)があって、仿製鏡の方がサイズがかなりデカいってデータがあったので、「今でいうマウント取るための装置」だからデカい方が目立っていいかぁ、古墳もデカいしね!とか思ってたんですけど、今回発見された銅鏡は全部ちっこいですね。直径10cmくらいだもんね。


    そういう小さい鏡とか、銅鏡模したチョコレートとかって博物館がやってる体験講座用だと思ってたけれど、実際小さいのあるんですね。もう手鏡じゃん!って思いましたダイソーとか100均で売って欲しい!まぁミュージアムショップでは売ってるのか・・・





    ん、何か・・・

    鏡欲しくなってきた!( ・Д・)







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    2025ねん 10がつ 22にち(すいよーび、雨)

    今日は超久しぶりの日中ずっと雨予報!(*・ω・)ノ

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    今回の考古学・歴史ニュースは「なんか薄い板が出たんだけど実はレアものだた!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    📰はじめに


    こんにちは、今回のテーマは、なんと南トルコ、古代都市 Sagalassos(サガラッソス)の浴場遺跡から発見された、ローマ時代のエジプト神の図像。


    ローマ帝国の辺境、アナトリア山岳地帯に、なぜエジプトの神々が? 考古学的発見が投げかける「遠く離れた文明どうしの意外なつながり」に迫ります。


    アート、宗教、交易、装飾美術……さまざまな角度から読み解くこの発見は、歴史好きにも旅好きにも“ゾクッ”と響くネタ。どうぞお楽しみください。





    ✨ 出発点:サガラッソスで出土した驚きのレリーフ

    南トルコ、現在のブルドル県アーグラシュン(Ağlasun)近郊の山岳都市、サガラッソス。古代ローマ期にはピシディア地方の有力都市として栄え、現在でも優れた保存状態の遺跡群が残っています。
    2025年10月に発表された研究によれば、この都市のローマ期浴場(特に北部フリギダリウム=冷浴室)から、薄い大理石パネルに刻まれた、いわゆる「エジプト神」図像が確認されました。

    具体的には、

    • 中央にスフィンクス風の神格 Tutu が描かれ、

    • 左右に王冠を戴いた人間像(上・下エジプトの象徴か)や、鷹頭の神 Horus、ワニ頭の神 Sobek らが配置。

      興味深いのは、マーブル(大理石)はトルコ西部のアフヨンカラヒサル産(Afyon marble)であり、素材も技法もエジプト直輸入ではなく「ローマ期アナトリア的制作」であった点です。
      さらに、発見者である考古学者 Peter Talloen 氏らは「この図像プログラムが装飾目的に使われており、信仰対象というより“デコレーションとしてのエジプト風表現”である」旨を指摘しています。
      この段階で、すでにワクワクする事実が詰まっています:ローマ帝国が地中海を取り囲むだけでなく、エジプト→アナトリアの“アイコン”がやってきていたという。どうして? 以下で深掘りします。


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    ↑なんか薄い板!( ・Д・)(「Anatorian Archaeology」の記事内画像より転載)


    🏛️ なぜエジプト風図像が? ローマ帝国における“エジプト主義”

    ローマ帝国では、征服地・交易路を通じてさまざまな宗教・理念が移動しました。なかでも、エジプトの神々はギリシア・ローマ文化圏において「奇異で魅力的なエキゾチック要素」として受け入れられてきました。例えば、合成神 Serapis(ギリシア・エジプトの神)は、プトレマイオス朝エジプトからローマ世界に広がった代表例です。


    しかし、「装飾」としての利用、しかも純粋に視覚的モチーフとして、エジプト神像がローマ期アナトリアの浴場に出てくるというのは、非常に稀少なケース。実際、研究者らは「エジプト外でこの図像が装飾目的で用いられた例はほかに知られていない」と述べています。
    ではなぜ、サガラッソスでこのような“エジプト風装飾”が生まれたのか? 幾つかの要因が重なっていると考えられます:

    • 交易・文化交流:サガラッソスはローマ期においてワイン・農産物などをエジプトなどへ輸出していた可能性があり、異文化接触があり得るという記録があります。

    • 装飾トレンドとしての“エジプト風”:ローマ時代、美的な理由でエジプト的モチーフ(王冠、スフィンクス、神格など)が好まれ、シンボルとして用いられた可能性。

    • 地域エリートのステータス表現:浴場という公共・社交の場において、異国的・知識的なモチーフを採用することで、地域都市の「世界とつながっている」感を出したかったのかもしれません。

    • 宗教的ではなく「象徴的使用」:先述の通り、このパネルは信仰対象ではなく、装飾目的と考えられているため、図像が“意味を超えて見せるもの”として機能した可能性があります。

    このように、「なぜここに」という問いには明確な単一解答はありませんが、“交易・装飾・文化的沸点”という三方向が交差していたことは明らかです。




    🛁 浴場という空間が持つ特異性

    今回発見されたパネルが用いられていたのは、浴場の“北部フリギダリウム(冷浴室)”という空間。なぜ浴場がこのような図像を伴う場だったのかも、考えてみる価値があります。


    浴場はローマ世界では単なる入浴施設ではなく、社交・衛生・リラクゼーション・美的演出が融合する公共施設でした。そこに装飾・図像が付加されることは珍しくありませんが、異国の神像をあえて取り込んだケースは非常にめずらしい。

    • フリギダリウムという“冷”の空間において、守護や転換のイメージを持つ神像(例えばスフィンクス‐Tutu)が置かれた可能性。図像が「外界からの守り」「異文化の知恵の象徴」として作用したかもしれません。

    • 浴場を利用する市民・エリートに対して、「世界がつながっている」「最前線だ」という感覚の演出。異国の神が現れることで、空間の“格”が上がる。

    • 装飾パネルという形式は、信仰儀礼の場ではなく“日常を彩る”場であり、浴場という“日常×社交”の場にふさわしい。

    つまり、この発見は「神殿」「祭祀場」ではなく「公共浴場」というありふれた空間に、遥かエジプトの神像が持ち込まれていたという点で、私たちの歴史観をぐっと揺さぶるのです。







    おわりに

    考古学ニュースはほとんど「なんちゃらを発見!」って感じだけれど、

    私は今回のような発見の方がいいな~って思います。



    ただ単に珍しいものが出たとか、「最大」とか「最古」とか、まぁそれらも重要なんだけれど、『ふ~ん( ・Д・)』って感じ。



    それよりは今回のように一見ただの「なんか薄い板」だし、装飾や造形が際立って美しく美術的価値があるわけでもない。

    でも考古学的価値はとても高くて、今後の研究の進展に繋がる・・・そんな発見の方が好きですね。




    まぁ単に、中南米における発見至上主義が嫌いなだけかも知れないけれど。

    たくさんの資本で、大きい神殿やら宮殿だけ掘って、”イイモノ”出すだけ。それが調査研究だと思ってる研究者とそれをよしとする学界と社会が嫌いなのだと思う( -д-)ノ



    あ、ふざけて始めて少し真面目に書いて、最後はふざけて終わる「あるけまやStyle」がぁぁああ( ・Д・)




    何はともあれ、

    やぱローマ・エジプト研究したいな!( ・Д・)



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    2025ねん 10がつ 21にち(かよーび、くもり)

    余裕もって早めに寝たのになんだかねむい!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは5000年前のパンが出た!だから作って食べさせてみた!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    📰はじめに


    ── 土の中で眠っていた一片のチャコール化したパンが、現代の食文化と気候変動対策に新たなヒントを投げかけている。──


    ある日、トルコ中部、キュルリュオバ・ホユック(Küllüoba Höyük)の発掘現場で、約紀元前3300年頃に焼かれ、さらに埋められたまま5000年近く地中に残っていた、まるで“パンの化石”とも言える焼き菓子状のパンが発見された。


    これを契機に、古代の製粉・発酵・焼成の技術が蘇り、しかもその技術が“乾燥・水不足”という現代の農業・食の課題ともリンクしているというのだ。





    🏺 発見の現場:Küllüobaで何が見つかったのか

    発見地はトルコ中部アナトリア、Eskişehir近郊のKüllüoba Höyük。ここでは銅器時代初期〜中期の集落遺跡の発掘が行われており、2024年9月に発掘された“焼かれて埋められたパン”が注目を浴びている。

    形状は直径約12センチ、円盤状、チャコール化・炭化しており、「パンらしき塊」がそのまま住宅基壇の下に敷かれていた。 

    発掘主任の Murat Türkteki 氏は「通常パンは出土時にはパンくずに過ぎないが、今回は形が残っていた。焼かれて埋められたという構造が保存を可能にした」と語っている。 

    このような“まるごとのパン”という出土は極めて稀であり、発掘・分析対象としても一次資料の価値が非常に高い。




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    ↑これが発掘現場!( ・Д・)(「ZME Science」の記事内画像より転載)



    🔍 原材料と製法:古代パンはどう作られたか

    分析の結果、このパンには次のような特徴が見られた:

    • 粗挽きのエンマー小麦(古代小麦)を主原料としていた。

    • レンズ豆(lentils)の種が混入されていた。

    • 未同定植物の葉が酵母代替として用いられていた可能性がある。

    • 直径12センチ程度、円盤状、平たく焼かれており、焼成後に一部が裂かれ、その後焼かれたのち住宅の敷居下面に埋設されていた。裂かれた痕跡から、儀礼用途(豊穣・家屋完成祈願)で使用されたと研究者は推定している。 


      また、再現実験として、トルコの地方自治体によるパン製造ベーカリーが、古代品に近い材料(例えば近縁品種の「カビルカ小麦」、ブルグル、レンズ豆など)を用い、「キュルリュオバ・パン」として現代に復活させ、大衆にも提供を始めている。





    🌍 温暖化・食料適応へのヒント:古代技術が現代に効く?

    この発見で注目すべきは「ただ古いパンが出た」「再現した」という点だけではない。実はこの古代パンとその原料が、21世紀の気候変動・水不足・農業適応というテーマに直接リンクしているのだ。


    例えば、研究では「このパンの原料小麦は、現在トルコ中部で深刻化している乾燥・水不足状況の中でも生育可能な古代品種に近い」と報じられており、自治体の市長も「我々の祖先は少水量作物を使っていた。今こそその知恵に戻る時だ」とコメントしている。 


    具体的には:

    • エンマー小麦や近縁古代小麦は、現代の高収量品種に比べて雑草耐性・低水量適応性が高い可能性がある。

    • レンズ豆など豆類の混合栽培・混合焼成という形は、たんぱく源・窒素固定源としても優れ、農業多様化のモデルとなりうる。

    • 焼成・保存技術という観点からも、少加工・保存料不使用・栄養豊富という“持続可能な食”の設計モデルになる。


      パンの再現ベーカリーでは、「低グルテン・保存料不使用・栄養価が高いパン」として販売され、消費者も多数並んで購入している。これが“食品遺産活用”ד食料問題解決”という新たなパラダイムを生みつつある。




    🧭 社会・儀礼の視点:パンが持つ意味と古代文明の営み

    発掘されたパンは、単なる食料の残片ではなく、古代社会の儀礼・社会構造・日常生活を映す鏡となっている。研究では以下のような見立てがなされている:

    • パンが住宅の敷居下に埋設されていたという事実:これは家屋建築完了時の豊穣祈願・引越儀礼として、パンを断片化・焼成・埋設する慣習があった可能性を示唆しています。

    • 焼成後に裂かれた痕跡:これは“共有・分かち合い”あるいは“儀礼的分割”を示す行為と見る研究者もいます。

    • 集落はただ農耕をするグループではなく、商工・手工・採掘活動まで含む“複合機能都市”だったという分析も。パンのような加工品の存在は、単なる生産ではなく加工・保存・流通というステージを含んでいたことを示しています。 

      こうして、パンという“日常の食”が、古代文明の社会構造、儀礼、経済活動、環境適応までも映し出しているのです。








    おわりに

    パンでも米でもビールでも酒でも、「古代なんちゃら」ってたまに見るよね。

    研究費かけて古代ビールを再現して、一時的に販売するなんてこともやってるよね。



    ・・・私もマヤの酒再現したい!(笑)

    研究費ちょーだい!


    冗談はさておき(半分冗談はないが)、再現したものが現代社会問題の解決に寄与する可能性があるのは素晴らしいなぁと思います。

    その点でこれまでの類似研究とは一線を画すなと思います。

    地元の市長も協力的なのも素晴らしい。

    まぁそれほどに乾燥を始めとした環境問題・食糧問題が大きいのかも知れないけれど( -д-)ノ



    ところで気付いた?

    この小麦、「Kavilca小麦」なのさ。

    保存料なくても保存性が強いらしいが、まぁ確かに小麦自体に『カビるか!』って強い意志を感じるもんね!( ・Д・)




    何はともあれ、

    久々にパン食べたいな!( ・Д・)



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    2025ねん 10がつ 1にち(げつよーび、晴れ)

    8月9月大学休みだからって図書館閉館時間早くて死ぬ!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースはやぱこの遺跡はレベチ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    中国の三星堆遺跡はこれまでも扱ってますね~。

    「古代の宇宙人」とかで大好きそうな見た目なのに使ってるの見たことないや~(*^・ェ・)ノ








    ってことで以下が今回の記事!(*・ω・)ノ




    ✨ 魅惑の序章:埋もれた文明が、今、目覚める

    地中から顔を出す巨大な青銅仮面。刻まれた幾何学模様と複雑な文様。かつて「失われた王国」と呼ばれた古蜀の遺産・三星堆(サンシンデイ)。その出土品は、その奇異さゆえに、世界中の考古学者と好奇心を掻き立てる人々を魅了してきた。

    しかし、近年の発掘と分析は、それらをただの“奇怪な美術品”と見るにはあまりに多くの手がかりを与えている。金・玉・絹・象牙・水路遺構……3000年前の宗教、技術、都市構造、外交関係。それらをひとつの文明として編み直そうとする試みが、今まさに進行中だ。

    この記事では、最近公開された国内外の記事を元に、三星堆遺跡の新たな発見と、それが投げかける新たな謎を「あるけまや」風に、じっくり、長めに、読み応えある語りでお伝えする。






    🏺 出土品の数と“保存形態”がもたらす意味

    まず驚くことに、2022年–2024年の新発掘では、6基の新たな「祭祀坑(さいしこう)」から、1万5,109点以上の文化財が発見され、そのうち4060点ほどがほぼ原型をとどめていたと報じられている。


    また、これまでの祭祀坑と併せて整理された出土品は、金、青銅器、玉石器、象牙、絹布など多岐にわたる。 特に注目すべきは、青銅製品が“完全な形”で出てくる例が増えてきたという点だ。


    これまでは、祭祀坑内に“破壊・焼却・意図的な破片化”された遺物が混在することが多く、「あえて壊して祭祀に使った」「再生できないかたちで捧げられた」とする仮説が唱えられてきた。


    しかし、原型を保つ出土品の増加は、「破壊だけが目的ではなかった」可能性を示している。たとえば、ある青銅仮面や神獣像が保存された状態で遺跡から出てきたことは、それらが“遺物としての役割”を超えて、ある種の恒常的な信仰対象や権威の象徴だったことを示唆するかもしれない。




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    ↑黄金はいいぜ~( ・Д・)(「Smithonian Magazine」の記事内画像より転載;credit: China’s National Cultural Heritage Administration



    🛠 玉石器工房の発見:技術と流通の地平を変える

    もっとも衝撃的な発見の一つが、「玉石器(ぎょくせっき)」の生産・加工を行った工房跡である。


    この発見は、出土品を「輸入品」「贈与品」などと片付けがちだった過去の見方を揺さぶる。なぜなら、これによって「玉器・石器は三星堆地域で生産されていた可能性」が具体的裏付けを持つからだ。


    この工房は祭祀坑が稼働する時期よりも古く、約3500~3400年前、商(殷)代中期に位置する可能性が示されている。 出土したのは、原料、未加工品、破片、完成品といった品々。これらを通じて、当時の技術構成・原料供給・流通経路・部門分業の実態が浮かび上がろうとしている。


    この「手工業チェーン」の発見は、これまで断片的にしか語られなかった三星堆文明の“ものづくり力”を、初めて系統立てて描くチャンスとなる。






    🌌 絹の発見と「天–地」信仰の復元

    2024年、考古学者たちは三星堆の祭祀坑遺構から、「絹(シルク)」の存在を直接示す証拠を発見したと発表した。これは、三星堆における初の絹の確証であり、約3000年前の儀礼において絹が用いられていた可能性を示すものだ。


    この発見が特に魅力的なのは、絹という「飛翔する素材」が、天と地をつなぐコミュニケーション手段として祭祀に用いられた可能性を示唆する点だ。当時の人々が、「見えない世界」と「具体的世界」を結びつけようとした儀礼文化を、物質面から裏付ける手がかりになりうる。


    過去には、絹の産地や流通経路が謎とされてきたが、三星堆での絹の実証は、その交流圏の拡大、交易ルート、技術伝播という大きなテーマを呼び起こす。




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    ↑ほんと黄金はいいぜ~( ・Д・)(「Smithonian Magazine」の記事内画像より転載;credit: China’s National Cultural Heritage Administration



    🌊 都市構造と水路遺構:古代都市を再構築する手がかり

    三星堆遺跡の発掘は、もはや「出土品」を超え、古代都市の骨格を浮かび上がらせる段階にまで来ている。


    特に2024年初めの発表によれば、玉工房近傍から、6000平方メートルを超える三段階のテラス、木竹構造の基壇遺構、水路・堀・排水構造群が発見され、東南部では水路が町全体を貫く可能性が示されている。 これによって、三星堆が単なる礼拝空間ではなく、計画性をもった集落あるいは都市としての側面を備えていた可能性が高まった。


    また、水路遺構の解析では、自然水流と意図的な排水・堀構造を区別できるという報告もあり、都市インフラとしての水管理が行われていた可能性が浮上している。


    このような構造証拠は、三星堆を“宗教空間”以上に、生活と儀礼が混在する多機能な中核拠点として見直す方向を後押しする。






    🐘 象牙と隠蔽の戦略:象との関係、権力の象徴

    近年の出土報告では、青銅器などが「象牙の下に隠されていた」ケースが複数あり、意図的な埋蔵という視点が注目されている。 象牙は「高貴な副葬物」「交易品」「象徴性の高い素材」として認識されており、それを覆って器物を埋めるという行為は、戦略的・宗教的な意味合いが強いと考えられる。


    また、象牙そのものの出土は、当時の交易圏が遠方に及んでいた可能性を示唆する。アジアゾウのものと推定される大型の象牙が、三星堆首長圏に持ち込まれていた、という分析もある。


    このような重層的な“隠蔽戦略”と“物質の象徴性”を解きほぐすことは、三星堆の社会構造と宗教構成を理解するうえで避けて通れない編成要因となっている。





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    ↑これ自分の現場で出たら泣き叫ぶと思う……( ・Д・)(「Smithonian Magazine」の記事内画像より転載;credit: China’s National Cultural Heritage Administration



    ❓ 新たな謎:金の産地、青銅工房、統合文明

    ここまで見てきたように、三星堆研究は発展を続けながらも、多くの謎を抱えている。特に注目すべき未解決課題を、以下に整理しておこう。

    1. 金製品の供給源と量の謎
       修復が進んだ金製出土品の総重量はすでに1.5 kgを超え、未修復品を含めれば約2 kgに達すると報じられている。 この量は、同時期の他文化圏と比較して異例だとされ、金の採掘や流通ルートの所在が大きな謎になっている。

    2. 青銅工房の所在と体系性
       玉石器工房は発見されたが、青銅器(器具、仮面、神獣像など)の製作拠点がまだ確認されていない。出土品をただ輸入・交換の結果とみなす仮説も多いが、青銅器製作用の冶金・鋳造施設を発見できなければ、この仮説は揺らぎ続けるだろう。

    3. 多文明融合と固有性のバランス
       三星堆出土品には、中原(黄河域)との類似性を示す形制も見られるが、それらをどう位置づけるかは議論の余地がある。中原文明の影響なのか、同時代別文明の交流の結果なのか。三星堆文明を「中央王朝の一部」とみるか、「並存する独自文明」とみるか、その曲線上の位置をめぐる見解が揺れている。

    4. 象徴表現の意味論
       大きな目、奇怪な顔、神獣、動植物の混合モチーフ――これらの造形表現には、信仰儀礼、超自然への意志、政治的表象など複数の意図が重なっている可能性が高い。これを読み解く鍵は、類例文明(如く殷・周時代)との比較と、三星堆自身の文脈統御だが、まだ明確な一貫構造は見えていない。

    5. 都市統治・インフラ機能の実態
       水路・排水施設、テラス基壇、都市配置……これらは都市域の骨格を形作るものであり、三星堆が実際の都市機能を持っていたかどうかを問う重大な証拠になる。現段階では部分的な発見にとどまり、全体像再構成には至っていない。

    6. 時間軸の複層構造
       祭祀坑に埋蔵された時期と、工房稼働時期、都市構造整備期が必ずしも一致していない可能性がある。時代を重ねて機能が変化したのか、重層文明が折り重なっていたのか。時間軸をどう重ね合わせるかは、研究者たちの肝となる課題だ。





    🧭 終わりに向けて:まだ見ぬ声を聞くために

    この記事では、三星堆遺跡の最近の発見と、それが示す可能性・謎を可能な限り紡ぎ出してみた。だが、出土品が語りかけてくるその「声」は、まだ完全には解読されていない。

    研究の最前線では今日も修復、分析、比較、試論が繰り返されている。次の発表では、金の産地が特定されるかもしれない。青銅工房が見つかるかもしれない。形象表現の「意味論」が新たに書き換えられるかもしれない。

    三星堆の3000年前の出土品は、私たちにこう問いかける──「失われた声を、どう聞くか」。その答えは、これからの考古学と人文学の叡智に委ねられている。




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    おわりに

    遺物の出方がエグいのよね~。

    青銅器も金も他の遺物に比べて保存されやすいからってのもあるんだけれど、こんな組み合わせは例を見ないと思う。


    まぁ考古学者ってたくさん遺物を見てるせいか、遺物出ても嬉しくないのよね。

    感情死んでるw

    身の周り見ててもそういうパターンは多い。



    ま、たまには喜ぶけどね!ヾ(´ω`=´ω`)ノ



    私の場合は、自分で作ってる数式上、ここの建造物をこの堆積で掘ればこれこれの遺物がそれぞれこれくらい出るはずっていう予測が立ってるからそれに即して出てくれるとめちゃ嬉しい。

    でも膨大に出る土器破片群を見て、「もういいよ( ・Д・)」ってなる。




    だって、洗浄とか注記はやってもらうけれど、基礎分類・計量・撮影とかの記録は独りでやるんだもん。

    期間短いから(限られた予算内で発掘の方に時間を当てたいから)、なまらつらい。

    最近はモノ出過ぎて実測図書く余裕もない。

    大事なことだからもう一度言う、なまらつらい!( ・Д・)




    何はともあれ、

    やぱ黄金だけでウラヤマなのに組み合わせとかずるいな!( ・Д・)



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    2025ねん 9がつ 26にち(きんよーび、晴れ)

    今日は発掘現場で送別会あるんだけどお金ないから出費つらいぜ!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





    今回の考古学・歴史ニュースは「埴輪に鳥のアップリケが付いてるぜ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    🔍発見の構図:松江・八幡鹿島山古墳で“鳥が舞う”朝顔形埴輪

    松江市の 八幡鹿島山古墳 で、古墳時代中期(5世紀前半あたりとされる)に作られた 朝顔形埴輪 に、翼を大きく広げて滑空する鳥の装飾が付いたものが発見されたと市が発表した。これは 国内初 の事例とされている。


    この鳥形装飾、口縁部(朝顔の「縁」のところ)に取り付けられていたもので、ほぼ完全な状態で、縦 14.3 センチ・横 13.9 センチ・高さ 5 センチ、尾部の造形などから「タカ」可能性が高いとされている。また、線刻で複雑な文様も刻まれていたとのこと。


    この発見は「これまで知られていない装飾的な意匠」が埴輪に付加されうるという点で、古墳時代の埴輪研究にとって画期の一歩になりそうだ。






    🧱朝顔形埴輪とは何?── 伝統と変化のフォルム

    朝顔形埴輪は、円筒埴輪が上部で口縁を広げ、朝顔のようなシルエットを持つ形態を指す。その起源・発展には次のような論点がある:


    • 円筒埴輪が器台の役割を兼ねた形(壺や器を載せるなど)から発展 → 朝顔形の拡がり部分が装飾性を帯びていったという流れが指摘される。

    • 多くは無装飾で、文様や穿孔(透孔)を施す例はあるが、鳥の装飾という具象モチーフを加える例は極めて稀。

    • 出土例:例えば埼玉・さきたまの朝顔形埴輪など、典型的な形状例はある。

    今回の発見は、朝顔形埴輪という枠を越えて「装飾付き具象モチーフ併設型埴輪」の可能性を示唆するものになる。




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    ↑朝顔形埴輪ってこんな感じ!( ・Д・)(「明治大学博物館」「本庄早稲田の杜ミュージアム」の画像を転載)





    🔄近似事例・比較視点:鳥形埴輪との接点

    装飾付き朝顔形埴輪という具体例が極めて少ない中、以下の類例情報を押さえておくと文脈が見えてくる:

    • 鳥形埴輪そのもの:日本各地で鳥をモチーフにした埴輪(飛翔・止まる鳥など)が出土している例もある。MIHO MUSEUM の「埴輪 鳥」もその一例。

    • 翼を広げた鳥形装飾の報道:松江市の出土例が「国内初・翼を広げ滑空する鳥の装飾付き埴輪」としてニュースになっている。

    • 埴輪列や形態変化:朝顔形埴輪は多くの場合無装飾型が中心。よって装飾付き形態の発現時期・地域差を探ることが重要。

    • 他地域の象徴動物モチーフ:古墳時代には馬や鹿、鳥などがしばしば陪葬品や埴輪モチーフに使われており、鳥形モチーフには象徴性(霊的・導き手・守護など)があった可能性。

    比較を通じて、「この松江例が孤立例か、ある系譜の一端か」を議論できる土壌が出てくる。






    🧪発掘・解析の視点:どこに注目してるか

    この発見で注目されている研究・検証視点を整理しておこう:

    • 装飾部材の接合痕・継ぎ目観察
       鳥装飾が本体にどう取り付けられていたか(接合部分、接合粘土痕、接着土痕など)が鍵。

    • 線刻文様・彫り込み手法分析
       装飾の線刻の深さ、彫法、文様パターンから製作者の技術・流派を推測できる。

    • 粘土組成・土質分析
       朝顔形部分と鳥装飾部分で粘土の性質(含水率・粒度・成分など)が一致するか、別素材併用かを化学的に見る。

    • 層位・出土状況の関係
       発見された層位と周囲の出土物(副葬品・器物破片など)を総合して、制作時期や使用時期を絞り込む。

    • 類例比較・地域的分布調査
       他の古墳で未記録の装飾付き埴輪がないか、古報・未発表遺構報告を洗い直す。

    • 象徴解釈との結びつけ
       鳥モチーフが持つ意味(霊鳥・守護・来訪者象徴など)を、出土古墳の傾向や被葬者推定と絡めて議論。



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    ↑これ見つかったこ!( ・Д・)(「山陰中央新報」の記事内画像を一部雑に加工)


    💬意味と波紋:古墳文化・王権との関係を問う

    この発見にはさまざまな含意がある。いくつか考えられる論点を並べてみる:

    1. ヤマト王権との結びつき
       松江市という位置から、当地豪族が大和政権と関係を持っていた可能性が、こうした先進的・装飾的埴輪制作を通じて浮かぶという論点。報道ではこの点も注目されてる。

    2. 地方独自性 vs 形式継承
       装飾付き形態の出現は、地方の工房が意欲的に造形を試みた可能性を示唆する。中央の形式に従うだけでなく、地域性を発揮する方向性を見る手がかりになる。

    3. 守護象徴としての鳥モチーフ
       翼を広げて滑空する鳥=空を制する存在、霊界と現世を媒介する象徴とした意味づけは古代世界でよく見られるテーマ。そうした象徴性を埴輪という静物に込めた試みと解釈できる。

    4. 意匠進化のタイミング
       無装飾型朝顔形から装飾付き型への変遷タイミングを把握することは、埴輪文化進化の年次軸を補強する可能性がある。

    5. 普及と希少性のはざま
       この例が“記念碑的例外”なのか、他にも潜在例があるかを探すことによって、装飾付き埴輪の普及度・方向性を議論できる。






    おわりに

    今回の鳥も可愛いよね。

    てか動物系は大体可愛い!



    でもできればまんまるにデフォルメされていると尚良い!

    が、今回は復元図がめちゃ可愛いので良き!



    動物系遺物ばっか集めた「動物の考古学」もいいね~ヾ(´ω`=´ω`)ノ





    何はともあれ、

    やぱ鳥はまんまるおでぶがいいな!( ・Д・)



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    2025ねん 9がつ 19にち(きんよーび、くもり)

    昨日散財した上にずぶ濡れになた( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースはカノプスのもう一つの声 — 150年ぶりの“完全な”カノプス勅令石碑がナイルデルタで顔を出す!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 はじめに


    「また見つかったよ、あの石文(せきぶん)が――」と発掘チームが息を呑んだのは、砂埃舞うテル(遺跡丘)で見つかった一枚の厚い砂岩板。


    刻まれていたのは、紀元前238年にプトレマイオス朝の祭司会が可決した有名な勅令――カノプス勅令(Decree of Canopus)の“完全版”に匹敵する、これまでに見つかったものの中で最も整った一例だった。


    150年以上ぶりに“完全な”写しが発見されたとして、考古学界とメディアは沸き立っています。






    🔎 発見の現場:どこで、誰が、何を見つけたのか?

    今回の石碑はエジプト北東部、シャルキーヤ県(Sharqia governorate)にある遺跡 テル・エル=ファライン(Tell el-Pharaeen)で、エジプト考古当局と現地調査チームが行った発掘の成果として公表されました。


    石板の寸法はおよそ高さ約127.5cm、幅約83cm、厚さ約48cmと報告されており、保存状態は非常によいとのこと。






    🪙 何が「新しい」のか:150年ぶりの「完全な」写しの意味

    カノプス勅令はプトレマイオス3世(Ptolemy III Euergetes)年の祭儀・暦改正その他を扱う重要文書で、かつては複数の遺跡に写しが配られたことが知られていました。


    19世紀以降、断片や写しが散見されてきたが、ここ150年で“完全な写し”と評価される保存の良い一枚が見つかるのは極めて稀――今回の発見はその希少性ゆえに大きな注目を集めています。


    しかも報告によれば、この写しは“ヒエログリフのみ”で彫られており、これまで知られていた三言語(ヒエログリフ/デモティック/ギリシア語)形式とは異なる単一書体の写しである点が興味深い。





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    ↑すごい!よく壊れなかったね!( ・Д・)(「LBV」の記事内画像より転載; Credit: Ministry of Tourism and Antiquities of Egypt




    🧭 歴史的インパクト:暦改正と王権礼拝の素材としての価値

    カノプス勅令は単なる誇示文書ではありません。そこには太陽暦への補正(閏日導入の言及)や王室の神格化、祭儀の整備など、プトレマイオス王朝の政治・宗教政策が端的に示されており、当時の国家が「言葉を石に刻んで全国の神殿に掲示した」政治手法を物的に伝える重要な史料です。


    新たに見つかった写しは、勅令の伝播過程、地域ごとの表現差、そして公式儀礼の地域適応を検討するための貴重な一次資料となります。






    🧪 素材・書体・モチーフ:石碑の“顔”を読む

    上部には翼を広げた太陽円盤と左右のウラエウス(王権を示す蛇)をあしらう典型的な王権モチーフが彫られており、本文は整然と並ぶヒエログリフの列が読み取れます。


    研究者はまず保存処理を行ったうえで、石材の組成分析、彫刻手法、書記群の表現差を詳しく調べ、既知のカノプス写本と逐語比較する予定だと発表しています。


    これにより写しの“ローカル版”としての性質や、どの祭祀共同体がこの石を依頼・設置したかを推定できる可能性があります。






    🌍 世界の反応:学界とメディアはどう騒いだか

    国際的な考古ニュースメディアや学術系ウェブは、今回の発見を「ロゼッタ石に次ぐ言語史上の重要素材かもしれない」、「プトレマイオス朝研究に新たな地平を開く」と報じています。


    同時に批判的・慎重な声もあり、「写しの正確な年代測定、本文の完全な解読、現地出土層の文脈確認なしに結論を急ぐべきではない」といった点が指摘されています。


    つまり注目度は高いが、結論はまだ“検証の段階”です。






    🔍 研究で狙える“おいしい”問い

    • この写しはどの程度オリジナル文と一致するのか(文言差があれば政治的意図やローカライズの痕跡が見える)。

    • ヒエログリフのみで刻まれている理由は何か(地域的な読み手層への配慮か、ギリシア語文が失われた完全版か)。

    • 石材の産地・運搬経路や、設置場所の宗教的役割(なぜそのテルに掲げられたか)。

    これらはすべて、「発見はニュースだが学問はじっくり」という古典的だが重要な手順を踏むことでしか解けません。








    おわりに

    私は発見至上主義的な考古学者大嫌いな人ですけども、

    こういうのはいいね!

    私が嫌いなのは発見しただけで終わる研究者モドキだから!(゚Д゚≡゚Д゚)ゴルッホー!!!

    今後の研究の進展に期待です。



    ん~私もティカルで石碑見つけたいな~。

    できれば研究に役立つ内容のがいいけれど我儘は言ってられないね( ・Д・)



    ・・・てか、こうしてみると石碑に刻まれたヒエログリフかっこいいよね。

    まぁマヤ文字も負けてないけどね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!





    何はともあれ、

    やぱ石碑はカッコいいな!( ・Д・)



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    2025ねん 9がつ 18にち(もくよーび、晴れ)

    8時間睡眠、12時間拘束、1日の自由時間4時間程度、研究しよ( ・Д・)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    今回の考古学・歴史ニュースはその『せいどうのかぶと』、まだ使えるよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    🔎 発見の要点:何が見つかったのか

    • 回収されたのは「Montefortino(モンテフォルティーノ)型」とされる青銅製のローマ式ヘルメット。本体に頬当て(cheekpieces)がほぼ完璧な形で残っているという点が特筆されます。

    • 出土場所はシチリア西岸のエガディ諸島周辺の海底で、これまでに約30点ほどの金属製遺物(剣、槍、矢じりなど)とともに見つかっています。

    • 発掘回収はSociety for the Documentation of Submerged Sites(海底遺跡記録協会)とシチリア州の海洋監督当局による潜水調査の結果です。





    🧭 年代と歴史的文脈:なぜ「ポエニ戦争の戦士」と結びつくのか

    発見物は、時期・場所・周辺出土物の組合せから、紀元前241年のエガディ諸島海戦(Battle of the Aegates / Aegates Islands)に結び付けられる可能性が高いと報告されています。


    この海戦は第一回ポエニ戦争を終結させ、ローマがシチリアを掌握する転換点となった歴史的事件です。海底に残された軍装は、当時の戦闘で船から落ちたり回収されずに沈んだ軍具である可能性が高いと考えられます。



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    ↑この子も防御力高いぜ!( ・Д・)(「Greek Reporter」の記事内画像より転載)



    🛡️ ヘルメットの特徴:モンテフォルティーノ型とは何か

    「モンテフォルティーノ型」ヘルメットは、鉄器時代からローマ期にかけて広く流通した様式で、ケルト系影響を受けた単一の鋳造あるいは打製の碗状クラウン、中央のつまみ(boss)、広がる縁、そして頬当てを持つのが典型です。


    今回の標本は頬当てが完全に残っている点が稀で、研究的価値が非常に高いとされています。保存状態が良いことから、材質や製作技術、装飾の痕跡、修理の跡などを詳細に調べることで、兵士の装備や兵站、さらには職人技術の地域差まで読み取れる可能性があります。






    🔬 保存と解析:何ができるのか(考古学的意義)

    保存状態が良い遺物は、表面の微細な摩耗パターン、つなぎ目、金属組成、付着物(海洋付着物や有機残留物)を調べることで、次のような問いに答えられます。


    このヘルメットは軍の正規装備か私物か?

    どの地域の鋳造技術か?

    使われた青銅はどの産地由来か?

    海中長期埋没に伴う腐食過程は?


    研究チームはCTスキャンやX線、同位体分析、金属組成分析などを進めると報じられています。



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    ↑一緒に出たやつ!( ・Д・)(「II Vomere」の記事内画像より転載)


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    ↑この子が今回のやつ!( ・Д・)(「II Vomere」の記事内画像より転載)



    🌊 海底が語る“戦争の現場”――なぜ単体で落ちていたのか

    海戦では、衝突や火災、船体損壊で軍具が海中に散乱します。あるいは獲得物が海上で没収され、その後に放棄されたりといった経緯も考えられます。


    今回の遺物群は、船舶が沈没した現場か、海上での混乱時に投棄された場所に集中しているとみられ、戦闘のダイナミクスや船上での装備の扱われ方(たとえば、戦闘直後に何が残されたか)を実証的に示す重要な手がかりを提供します。






    🧾 公的コメントと発掘体制

    シチリア州の文化財担当者や海底監督部門は、今回の発見が地域の文化遺産価値を高めると強調しており、遺物は保全措置の後、適切な研究機関で管理・解析される予定だと発表しています。


    発掘は海中考古学の専門家と協働で行われ、既に回収された遺物のCT撮影や掃除・保存処置が進んでいると報じられています。



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    ↑やぱもうそのまま装備できるよ!( ・Д・)(「Live Science」「MACM」の記事内画像より転載)



    おわりに

    Youtubeやらにゃやらにゃと思ってはいるのだが!

    今週末絶対やる!

    で、「文明の方程式」関係の数理考古学関係はぼちぼちやっていくとして、メインはブログやってて個人的に大好きな「それまだ食べれるよ?シリーズ」をやっていこうと思ってたんですよね。

    でもそんなに数もないし、今回のような「まだ使えるよ?シリーズ」もいいかもな~て思いました。

    RPG好きなんですけど、木の盾の他、革の兜は完形であるはずなんですよね。

    勝手に防御力・攻撃力を付加していくとドラクエ的で個人的には面白いなと思うんですけどね~。

    あと私が好きなのは「ミニチュア遺物」と「可愛い系遺物」かな。

    とりあえずなんかやる!!!( ・Д・)





    何はともあれ、

    やぱRPGいいな!( ・Д・)



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    2025ねん 9がつ 17にち(すいよーび、晴れ)

    なんか昨晩からびみょ~に左こめかみのあたりが痛い!( -д-)ノ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




    今回の考古学・歴史ニュースは🏺🔥 🪨王家の炉か、古代の工場か— シナイ半島ワディ・アル・ナスブ遺跡で見つかった銅精錬複合遺構!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ




    📰 冒頭


    砂漠の陽光が照らす谷間で、石と土の匂いの中に古代の“火”が眠っていた――。エジプト南シナイ、Wadi al-Nasb(ワディ・アル=ナスブ)で発表された最新の発掘は、単なる小規模な採掘跡ではなく、銅を大規模に処理した「精錬工房(industrial complex)」の痕跡を明らかにした。


    炉(ろ)、熔解用の道具、銑塊(所謂インゴットのこと)、管理施設と思しき砂岩建築群――これらは、古代エジプトが“金属を作る国家”としての顔をどのように現地で組織していたかを示す生々しい証拠だ。






    🔎 発見の概要:何が出たのか

    発掘隊はWadi al-Nasbで次のような主要遺物・構造を確認しています:

    • 複数の精錬炉(smelting furnaces)や工房の跡

    • 銅の銑塊や熔解で出るスラグ、吹管(tuyères)用の焼成粘土ブロックなど、製錬に直接関わる道具類。

    • 監視や管理を想定させる砂岩の建物群(観測所・管理棟)

    これらは単一時期の一過性の作業場ではなく、長期的・組織的な製錬活動を示す特徴を持つ、と現地発表は述べています。




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    ↑銅のスラグとか( ・Д・)(「Ministry of Tourism and Antiquities 」の画像より転載)



    🧭 なぜ重要なのか — 歴史的・経済的インパクト

    シナイ半島は古代からトルコ石(ターコイズ)や銅資源で知られ、エジプト国家はここを供給源として長年にわたり管理してきました。


    今回の発見は、鉱石採掘だけでなくその場で金属生産(熔解・精製)を行っていたことを示し、原料採掘→現地精錬→ナイル平原への輸送、という“供給チェーン”の一端を具体化する重要な証拠となり得ます。こうしたインフラは、工具・武器・装飾品の生産を支え、国家統治・軍事・技術流通に直結します。






    🧪 出土物の“顔ぶれ”:炉・銑・吹管・粘土製品

    報告によれば、炉の跡や銑(1kg超の塊も含む)、吹管用の嘴(tuyère)をつくるための成形粘土ブロック、炉床に付着するスラグなどが確認されました。これらは精錬の工程(還元→熔解→鋳造)を段階的に示す典型的な痕跡であり、現場が“炉で銅を作る”実作業地点であることを強く示唆します。




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    ↑色々なものが出てるね、木製品は部材かな。上のやつはゴリゴリしたやつだろうね( ・Д・)(「Ministry of Tourism and Antiquities 」の画像より転載)




    📜 年代と期間性:いつの活動か?

    発表では、層位と出土物の特徴から古代エジプトの古王国~中王国~新王国期にかけての長期的な採掘・製錬活動の痕跡が示唆されています。


    多くの研究者は、シナイにおける採掘・陶器・建築の変遷を通じて、紀元前3千年紀から第1千年紀にかけた持続的な活動を想定してきましたが、今回の複合遺構はその時間的な深みをよりはっきり示す材料になります。






    🏗️ 建築と“組織”の痕跡:観測所と管理棟

    興味深いのは、単なる炉群だけでなく観測所・管理施設と思われる砂岩建築が確認された点です。


    発掘チームは一部建物を「入り口の監視・遠望用」や「採掘隊を統括する拠点」として解釈しており、これは採掘・製錬が単なる民間活動ではなく、国家(王権)による管理下に置かれていた可能性を示唆します。こうした施設は採掘遠征の組織、労働者の宿営、物資の管理といった“運営”の痕跡です。




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    ↑これ復元じゃないっぽいよね。写真測量か3次元測量の図っぽいんだけど、こんな残り良いことある?( ・Д・)(「Ministry of Tourism and Antiquities 」の画像より転載)




    🌍 比較事例:他の類似遺跡との連続性

    中東域内には既に大規模な銅産業遺跡(イスラエルのTimna、ヨルダンのKhirbat en-Nahasなど)が知られており、これらは国家的あるいは王国的な鉱工業のモデルを示しています。


    そのため今回のワディ・アル・ナスブの発見は、同地域における“古代の鉱工業ネットワーク”を補強する一例であり、東地中海域の金属経済を再構築する手がかりになります。






    🛠️ 技術的な注目点:燃料と環境負荷の可能性

    古代の銅精錬は高温を得るため大量の木材・炭を消費します。ティムナ(Timna)の研究などは古代の製錬が植生や環境に与えた影響(燃料枯渇・土壌変化)を示唆してきました。


    ワディ・アル・ナスブでも大量の燃料痕跡(灰・炭)や焼成土器の集中が報告されており、地域的な資源管理や長期的な環境影響を考える上で重要なデータとなりそうです。






    🧾 当局の公式コメントと今後の展望

    エジプト観光・古代遺跡省は今回の発見を公表し、ワディ・アル・ナスブが銅とターコイズの古代採掘地としての重要性を再確認するものだと述べています。関係者は発掘を継続し、出土物の分析(鉱石の同位体分析、精錬工程の追跡、詳細な年代測定)を進めるとしています。これにより、作品に使われた銅がどこで採られどのように運ばれたか、より精密に復元できる見込みです。




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    ↑これもスキャ二バースとかで作ったものに見えるんだけれど、やぱ『復元ぽい』な。さっきの図もそうだけど出土した状態としてはおかしいもんね!( ・Д・)(「Ministry of Tourism and Antiquities 」の画像より転載)


    ✍️ あるけまや的まとめ

    想像してみてください――朝霧の立ち込めるワディで、老人が鉄の棒を振るい、若者が吹管に息を入れる。噴き上がる火花と、技術者の血となり肉となる金属の匂い。古代国家は単に兵器や器具を欲したのではなく、国家運営のための“供給線”を地の果てまで張り巡らせていた。その痕跡が今、砂と岩を割って姿を現した。読者の想像力を掻き立てる──それが、考古学ニュースの最大の魅力でしょう。





    さてさて、

    ・・・古代エジプトの勉強はまだ始めていないけれど、ほんとにこの時期・地域は考古学的証拠も文字資料も豊富だよね。

    古代マヤとは比較にならないほどに豊富。

    世界広しと言えど、たぶん世界ナンバーワンだね。



    で、結果として、古代エジプトってどれだけ分かってるんだろうね。

    予測ではむちゃくちゃ具体的に良く分かっていそう。

    でも考古学理論も歴史理論も成立していないよね。



    まぁ古代ローマもデータ膨大そう!(文献史データに偏ってそうだが)

    結局、考古学理論も歴史理論も成立していないよね。

    ・・・やぱデータ多過ぎると複雑過ぎて規則性を見出そうなんて気にならないのかもね




    ってことは、

    やぱティカルがNo.1!( ・Д・)



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