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歩け、マヤ -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:レアな発見

2020ねん 11がつ 24にち(かよーび、くもり)

どこかで伏せてた分を取り返さねば(*^・ェ・)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは使い方が謎!変な囲炉裏である『複式炉』が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は岩手県、北上市にある八天遺跡です。

岩手県の新聞記事が元ネタなのですが、写真が上の1枚しかないのですΣ(・ω・ノ)ノ

これだけだと正直、何も伝わらないので、他遺跡の事例の写真を紹介しながら本記事の紹介をしたいと思います( -д-)ノ




まずは八天遺跡での発見について概要を示しますね(*・ω・)ノ

八天遺跡は縄文後期の中頃(約3800~3500年前)の直径13mにも及ぶ大型建造物址が発見されたことにより、国指定史跡として登録されている遺跡です。

また重要文化財指定を受けている遺物も多数出ている有名遺跡なのです。

今回の発見では以前の発見よりも更に古い時期に当たる縄文中期の終わり頃(約4500年前)の竪穴式住居で囲炉裏(いろり)として使われた複式炉が発見されました。

他には縄文後期の初頭(約4400~4100年前)に帰属する、1.5mの深さの貯蔵穴も発見されています。

どうやらクリなどを入れていたようです(*^・ェ・)ノ

これらの発見により大型建造物が使われた時代よりも古い時代に既に集落が形成されており、この地に長く人々が生活していたことが分かったのです(。・ω・)ノ゙ 






珍しい囲炉裏、複式炉とは?

さて、タイトルにあるように本記事では複式炉を「謎の囲炉裏」としています。

何が謎かというと使い方が良く分からないのです( -д-)ノ

上に挙げた1枚目の写真のように、普通私たちがイメージする囲炉裏は上から吊っていて、皆で囲むようなタイプではないでしょうか。

おまけに何の役に立つのか分からん「魚を模したやつ」が付いてたりします( -д-)ノ

実はアレ、自在鈎の部品で、ヤカンなどをかける鈎の部分を上下させて固定するためにある横木と呼ばれるものだそうです。

火を使う場所なので、水に関係したものを飾って火事にならないようにするおまじないの意味があるそうです。


昔はあそこに魚引っかけて干したり燻製にしてた名残なのかと勝手に思ってました( -д-)ノ


さて、話を戻しまして、囲炉裏ってやっぱり一個のヤカンをかけたり、一個の鍋をかけたりするイメージですよね?

一方で2枚目の写真はジブリの「隣のトトロ」に出てきそうな古いカマドなのですが、これは二つの焚口があるわけです。

今回発見された炉は「『複式炉』だからこれ?」と思うかもしれませんが違います。

このトトロ・タイプは現代のキッチンでもよく見られる単にコンロが2つあるタイプです。

この場合、使いやすいように横に2つ並んでますよね?

もし縦に並んでたら、奥側を扱う際に火傷してしまいそうです。

そうです、なんと『複式炉は炉が縦に2つあるタイプ』のものなのですΣ(・ω・ノ)ノ


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複式炉の写真を見ても、「これはただこの角度から撮ったから縦に見えるんじゃないか!」と思うかともいるでしょう。

なので竪穴住居内における複式炉の配置図も用意しました。

まぁ住居内は広いので横方向からも使える気もしますが、まぁ『縦タイプ』なんです!( -д-)ノ

「複式炉」自体がレアな囲炉裏の形態で、主に東北地方で検出されています。

今回の記事は岩手県ですし、上に挙げた事例は福島県のものです。

使い方は先に述べたように「不明」なのですが、恐らく、石組みになっている部分で火を焚いていて、土器が二つ埋めてある部分は種火や灰、置き火のための空間だったのではと考えられています。

下に挙げた2枚の写真で分かるように、住居の中心側に土器が埋められていて、その外側に石組みがあります。

下の写真のパターンでは更に外側に石組みのない開けた空間があり、ここには薪を置いていたのではと考えられています。

東北地方で見られるこうした『複式炉』は、単に囲炉裏として機能しただけではなく、東北の寒さに耐えるために囲炉裏の有する暖房設備機能を強化したものだったのかも知れませんね(*^・ェ・)ノ






おわりに

囲炉裏ってなんだかとっても和風な気がするのは私だけでしょうか。

でも家に囲炉裏なんてないし、私は海辺とか山でバーベキューしに行って、その際はバーベキューセットというのか、金属製の箱みたいなのを持っていくわけですが、、、

そういう時に、たまに砂浜とか地面に直接炭を置いて貝などを焼いたような痕跡に出くわすことがあります。

マナー的には「炭もゴミも捨ててくなよ」と思いますが、考古学的には人類が残した痕跡として興味深さもあります( -д-)ノ

地面で直接火を起こし続けると、地面が焼けて焼土が残ります。

レアですが、これは考古学調査でも検出されるもので古いケースが一般的です。

時期が新しくなると、炉の形態としては「三石炉」が最初期の形態です。

3つの石の間で火を焚いて、石を支えにしてその上に土器を置いたりします。

昔の人も3つの支えだと安定することに気付いていたようですね。

皆さんも特に砂浜で見かけることが多いと思うのですが、誰かの炉跡を見つけたら観察してみてください。

面白いですよ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

そしてアクシデント等でバーベキューセットが使えない時は、適当な石を3つ拾って三石炉を作ってみましょう!

それだけで「文明度(?)」がアップしますので(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

……まぁこんな風に炉ないし囲炉裏というのもすごい長い歴史があって、日本国内でも海外でも様々な地域差があって面白いものなのです(*^・ェ・)ノ

何はともあれ、

囲炉裏で美味しいもの食べたいね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 15にち(にちよーび、晴れ)

謎の頭痛は抜けたので、今週は思いっきり頑張る!(*^・ェ・)ノ


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今回の考古学・歴史ニュースは国宝級の大発見!福岡県の船原古墳から玉虫装飾の馬具が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台は福岡県、古賀市に所在する船原古墳です。

この船原古墳は7世紀初頭に帰属する古墳です。

ここから「玉虫の羽」で装飾された馬具が出土したのですヾ(´ω`=´ω`)ノ

この玉虫装飾の馬具が国宝級なわけですが、そもそも「玉虫」とは何でしょうか?




タマムシは「吉丁虫」とも書くそうです。

本記事では種として書く時は「タマムシ」とカタカナ表記で、遺物名等では「玉虫」と表記することにします。

(お気づきの方もいると思いますが、当サイトでは基本的に「種」の時は、ヒト、ウシ、ブタ、シカのようにカタカナ表記にしています(*^・ェ・)ノ 一般語として使っている時は漢字表記にしています( -д-)ノ)

このタマムシは日本国内に広く生息しており、「ヤマトタマムシ」として知られています。

見た目通り、カミキリムシの仲間(近縁種)だそうです。

このヤマトタマムシの上翅は構造色(色素由来ではなく、微細構造に対する光の干渉作用によって生じる発色効果)によって金属光沢を発しているため、死後も色褪せません。

そのため古来より装身具等に加工されて珍重されてきました。

たかだか虫なんだから珍重されるほどでもないのでは?と思うかもしれませんが、珍しさはタマムシの生態に由来しています。

タマムシの幼虫はエノキやリンゴの木の幹の中を食害するので、発見が困難です。

また成虫になると警戒心が強く人間が近づくとすぐに飛び去る上に、寿命が1か月しかありません。

古代において金属光沢自体レアなわけですが、野生のタマムシを見つけることもレアなので、その希少価値は非常に高いものだったのです。


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上に挙げた写真が古墳で見つかった玉虫装飾としてタマムシの羽が用いられてた馬具にななります。

2枚目の図で分かるように、この馬具は、馬の胸や尻などを飾る杏葉(ぎょうよう)と呼ばれる装飾品です。

短軸が約8cm、長軸が約10cmで、20枚の玉虫の羽を金属の板の全面に敷き詰めていたと考えられています。

死後も色あせない構造色と書きましたが、長期間の埋没過程の中でその微細な構造が失われているため、かつての金属光沢はありません( -д-)ノ

こうした玉虫で装飾された品は、国内ではこれまで法隆寺の国宝「玉虫厨子」や福岡県沖ノ島の金銅製帯金具を代表として僅か4例しか確認されていないのです。

ちなみに馬具として初の事例になります!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!





この日本では初の出土となる「玉虫装飾の馬具」ですが、朝鮮半島では5世紀の王陵級の古墳で見つかっており、最高級とされる遺物になります。

タマムシは日本で広く生息していると紹介しましたが、北海道には生息していません。

理由は寒いからです!

今からおよそ1500年前の朝鮮半島は今よりもやや寒冷な気候であったため、ヤマトタマムシはほとんど生息していなかったのです。

そのため当時の日本と朝鮮半島との外交関係の中で重要な役割を担ったのがこの玉虫装飾の品々だと考えられています。

先に述べたように朝鮮半島では5世紀の王陵で出土しており、一方でこの船原古墳の事例では7世紀初頭なのですが、古墳そのものではなく周囲にある墓壙から出土しています。

時代の移り変わりもあるのでしょうが、今回の遺物は朝鮮半島等との外交や交易に重要な役割を果たしていた人物に贈らたと考えられるのです


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↑最後に紹介したい写真、(「朝日新聞デジタル」の記事内画像より転載;credit: 金子 淳)

福岡県古賀市教委は13日、同市の国史跡・船原(ふなばる)古墳(6世紀末~7世紀初頭)の1号土坑で出土した馬具から、玉虫の羽を使った装飾品を確認したと発表した。古代の玉虫装飾品が国内に現存するのは法隆寺(奈良県)の玉虫厨子(ずし)(国宝)、沖ノ島(福岡県)の帯金具や正倉院中倉(ちゅうそう)(奈良県)の刀子(とうす)の3カ所で、馬具で確認されたのは初。朝鮮半島では5世紀代の王陵級の古墳などから玉虫装飾の馬具が見つかっており、朝鮮半島との交流を研究する上でも貴重で「国宝級の発見」との声も上がっている。

 船原古墳の石室入り口付近の土坑からは、2013年に6~7世紀の金銅製馬具一式や武具などが大量に出土し、市教委と九州歴史資料館(福岡県小郡市)が調査を進めてきた。

船原古墳

 今回はその中の金銅製馬具の一つで、馬の飾りに使われる「二連三葉文心葉形杏葉(にれんさんようもんしんようけいぎょうよう)」(長さ約8センチ、幅約10センチ、厚さ0・7センチ)。羽は、金銅製の板と鉄板で挟まれ、文様の隙間(すきま)から見えるようになっていた。CTスキャンで確認したところ、羽は約20枚使われ、一部には羽の先端を切断するなど加工した跡も見られるという。国産か朝鮮半島製かは不明で、玉虫の種類などから解明を進めていく。

 玉虫装飾を使った馬具は、5~6世紀代の朝鮮半島・新羅(しらぎ)の首都だった慶州の古墳5カ所などで発見されている。なかでも5世紀中ごろの玉虫装飾馬具は王陵級の古墳で見つかっており最上位階級者用の馬具とされる。

 桃崎祐輔・福岡大教授(考古学)は「新羅と、7世紀の重要な仏教工芸品である法隆寺の玉虫厨子の間をつなぐもので、その文化的意義は国際的なものに及ぶ。国宝級の発見といっていい」と話している。





おわりに

最後に再度、玉虫装飾の馬具を紹介しました。

日常的に良く目にする女性モデルの写真などは、女性だけにピントを合わせて他をボカすものがほとんどのように感じます(素人目線だと( -д-)ノ)。

一方で考古学ではモノあるいは遺構を撮るわけですが、特にモノに関しては被写体深度を限界まで深くしてどこもかしこもピントが合うようにします。

特に日本考古学では未だに写真は補助的な役割を果たし、実測図が中心なわけですが、色彩豊かなマヤ考古学では写真が中心です。

というかアメリカ人考古学者は実測図描けないので、プロの絵描きに任せちゃいます( -д-)ノ

そうした写真記録が重要なマヤ考古学で生きていると、写真と言えど実測図を描く時のようなモノの見方や、「これを映したいんだ!」という気迫が重要になってくると思います。

そういう意味で、上に挙げた写真は見事だなと思います。

国宝級の発見ということで、様々な写真が挙がっていましたが、他の記事の写真はただ全体を映しているだけのように感じます。

この写真だけは全体を捉えながら、しっかりと全体に敷き詰められたタマムシの羽の筋が分かるように撮られているんですよね。

光の当て方も実測図そのものだし、考古学関係者なのでしょうか……失礼ながら、、、

プロだな、と感じました( ・Д・)

こんな写真を撮りたいものです( -д-)ノ

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いや~、それにしても「国宝級の発見!」ってスゴイですよね。

私もいずれ、ティカルで国宝級の発見しますから期待していてくださいね!

国宝級見つけても金にはならん!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 13にち(きんよーび、晴れ)

さ、寒いよ、パトラッシュ( ・Д・)


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↑イッヌが遠い目をしている(*^・ェ・)ノ(「10MTV」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは「狩猟採集社会において、男は狩り、女は採集っていう通説が崩れる!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、アメリカを代表としてフェミニストが世間を騒がせる世の中になっておりますが、まぁヴィーガンとか捕鯨反対運動とか、所謂「欧米社会」では自分たちの意見を押し通すべくゴリゴリの活動を行う傾向が強いのかな~って個人的には思ってます。

日本を始め、アジア社会や中南米でそういったものを聞きませんからね。

もちろん、日本からすると過度だなと思えるような単発的なデモはありますけどね。

ちなみに考古学者でもフェミニストはいるんですよってお話を最後にしようかなと思います( -д-)ノ

さて、話を戻しまして、今回の話題は『これまでの通説がひっくり返るかも?』ってお話ですが、ニュースとして話題性はあるものの、実際、考古学的にはけっこう難しい問題だよって内容です(*・ω・)ノ




このニュースの元記事は上の画像のリンクに挙げたように「ナショナルジオグラフィック」です。

ペルーのアンデス山脈で発掘された約9000年前の墓域から成人のものと思われる骨に共伴して、多種多様な狩猟用の石器が出土しました。

その後の分析によって石器と共に見つかった人骨は女性のものであることが分かりました。

この結果を受けて、アメリカ大陸全域で発掘された同時代の墓の調査結果も見直したところ大型動物ハンターの30~50%が女性だった可能性が明らかとなったそうです。

*ニュースとしての記事はここまでです。この後、一気に難しくなります。「おわりに」まで飛ぶことをお勧めします( ・Д・)


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今回の発見は、普通に考えると新しい事例が見つかったということで大発見と言えるのですが、何が問題かというと現代におけるジェンダー問題に結びつく点です。

考古学は歴史の中でも古い部分(先史時代)を得意としているため、それぞれの集団のルーツに関わることも多いのです。

第二次世界大戦の事例が考古学において最も有名なものですが、グスタフ・コッシナの研究成果をナチス・ドイツが利用し、「『本来の』ゲルマン民族の領地を奪還する」ことを大義名分として戦争に突入しました。

考古学や歴史学は現代社会の役に立たないなんて思われがちかも知れませんが、実際に為政者等によって都合よく利用される事例は古今東西、後を絶ちません。

そういう意味で、考古学はなかなかに発言が難しい部分もあるのです( -д-)ノ

考古学者がニュートラルに発言しているつもりでも、受け手に都合よく曲解してしまわれますし、そういった曲解をした人々を扇動することで甘い蜜を吸う考古学者(所謂、お抱え考古学者)もいるのが実態です( ・Д・)

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さて、今回の話に戻りますと、私たちのイメージでは「男は狩猟、女は採集」ですよね?

男性の方が体格もいいし、オスが狩りを行う動物も多いわけです。

もちろん逆もあるのですが……

私たち人類を含む哺乳類は比較的子供の数が少なく、育児に手間がかかります。

特に類人猿になると子供の数は圧倒的に減少し、その分大事に育て上げるわけです。

魚類等と比べれば一目瞭然ですが、私たちは「数の勝負」、つまり数打ちゃ当たる戦法をやめたわけです。

そのため増大した育児という役割を担ったのが女性(哺乳類ですから哺乳させる必要もあります)であり、より危険の少ない採集活動も行っていたと考えられてきました。

だから「こうした役割分担はそもそも生物学的・肉体的特徴に基づくもので、本来人間にはジェンダー(社会的性差)があるのだ」という論理がまかり通っていました。

更にはこうした事例が、特に1960年代以降の人類学研究・文化人類学研究によって精力的になされた世界中の現存する狩猟採集社会の観察によって裏付けられたため、「定説」となっていました。

1960年代以降、考古学においては「プロセス考古学」が主流となっており、人類史あるいは人類の活動に対する法則定立的研究が求められていました。

1970年代以降の「ポストプロセス考古学」の台頭により、個別記述主義とそれに基づく「多様性の受容」が求められ、これは現在の考古学にも色濃く残っていると私は考えています。

で、あれば、現在では「女性が狩りに出るというパターンを多様性として認めて良いのでは?」となりますが、これまでの『定説』の反例となる発見がなかったのです。

今回の発見がまさにその反例になるのです。

そのため「ニュートラルな立場では」大発見ですし、人類活動における新たな多様性が発見されたことになります。

・・・・・・・・・・・・

ここで問題になるのが特定の考古学者の発言です。

 9000年前に埋葬されたこの女性がハンターだったという見解に、アリゾナ州立大学のヒル氏は完全に納得しているわけではない。狩猟道具などの副葬品は、象徴的あるいは宗教的な意味で埋められたとも考えられると氏は指摘する。

 新たに発見された石器は、埋葬された人物の所有物だったのだろうか? スターリング氏は、そうした疑問そのものに異議を唱える。「こうした副葬品が男性の遺骨とともに見つかったときには、こんな疑問が浮かぶことはありません」と氏は言う。「そんな疑問を抱くのは、男女の役割に関する通説にそぐわない場合だけです

 ゲラー氏も、「女性が狩猟道具とともに葬られている理由をひねり出そうとして、頭の体操をしている人はたくさんいます」と同意する。


NACIONAL GEOGRAPHICの記事より引用


「普通に」考えれば、これまでの定説とは異なる発見があったのだから、「どうしてこうのような出土状況になるのだろう?」と考察することは必要な過程です。

慎重な立場として、「儀礼的に副葬された可能性もある」と述べることも私は「普通」だと思います。

該当する遺跡や周辺の遺跡などでの追加調査によって根拠を増やして、慎重に結論を出すことは当然だと思うのですが、、、


女性が狩猟道具とともに葬られている理由をひねり出そうとして、頭の体操をしている人はたくさんいます

これは痛烈な批判ですよね。

逆に言えば、そんな必要はない、ただちに「女性が狩猟に参加していた」と結論付けよ!と言ってるわけです。

研究者としてはおかしな話に思えますが、それでもニュースはこういった内容を取り上げます。

そもそも多様性を認めるという立場ならば、南米において女性がハンターであったという事例が追加されるだけであって、定説が覆るわけではないのです。

でもこうしたフェミニスト的な考古学者は、結論を一気に普遍化し、女性と男性は対等だった、だから現在のジェンダーは不当という論理を導くのです。

そうなると考古学の問題は一気に現代社会との強い繋がりを有し、最悪の場合、歪んだ形で社会問題に利用されていくことになるのです( ・Д・)


おわりに

今回の発見自体はとても興味深いものです。

狩猟採集社会において、必要に応じて若い健康な女性が参加していたなんてことは感覚的に考えられることですし、その中でも優秀なハンターとして活躍した女性に狩猟用具が副葬されることも十分考えられることだと思います。


さて、、、

考古学は役立つよ!( ・Д・)

現代社会と関係あるんだよ!( ・Д・)

って宣伝してきたつもりですが、実際に考古学が社会に出ると「悪用」ばかりされてしまうのは何故でしょうか?

そして「真っ当な」考古学者は保身のために問題に触れないようにそっと口を閉ざすのです。


考古学のリアルな側面だね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 10にち(かよーび、晴れ)

次の休み、カモン!( ・Д・)


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arukemaya1160
↑川の右側の発掘区がトレンゼ遺跡(「DW」の記事内画像より転載)


今回の考古学・歴史ニュースは「トレンゼ・バトルフィールドで新たな発見と共に新たな謎が生まれたよ!ー後編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、ドイツ北部、トレンゼ川のほとりにあるトレンゼ遺跡(トレンゼ・バトルフィールド)の復習をさらっとしましょう。

今からおよそ3200年前の青銅器時代に4000~5000人による大規模な「戦争」があった証拠がトレンゼ・バトルフィールドから見つかっています。

これは最古の戦争の事例であり、これほど昔から大規模な闘争が起きていたことを示す重要な事例でもあります。

前の記事にも書いたように、この争いは「1日で終わった」と考えられていますが、恐らく明確な証拠はないでしょう。

戦闘規模からの類推や、兵糧の存在を示す証拠の不在から、恐らく1日で終わったと推定しているのだと思います。

最古の戦跡なのに、この頃から既に兵糧を準備し、長期の戦闘行為に備えていたとあればそれこそこれまでの歴史の常識がひっくり返されることになります( -д-)ノ

恐らく1日で終わったとは言え、こうした大規模な戦闘(少なくとも2000人 V.S. 2000人)が何故このトレンゼ・バトルフィールドで起きたのでしょうか?

誰が戦ったのでしょうか?

ドイツ北部に住む同一集団内の抗争でしょうか?

ドイツ北部に住む他集団間の抗争でしょうか?

あるいはドイツ北部の地元集団と、他地域の集団との抗争なのでしょうか?

これがトレンゼ・バトルフィールドにおける『大規模戦闘の謎』なのです(*^・ェ・)ノ




さて、トレンゼ・バトルフィールドにおける発掘調査で進展がありました。

調査範囲が拡大することで、どうやら戦いはトレンゼ河の両岸の土手道で始まり、河下へと移動していったと推定されています。

両岸の土手道で戦闘があったのは考古学的に分かるとして、河下へ移動していったと何故考えるのかはよく分かりません( -д-)ノ

もしかすると、河下で上に挙げた写真に見られる『一風変わった』遺物が出土したことに根拠を置いているのかなと思います。

これらの遺物集中は古代の土手道から約300m下流の川床の堆積物から見つかったものです。


合計31点の青銅器で、本来有機物製の入れ物に入っていたものがここに流れ着いて堆積したと推定されています。


こうした証拠から下流へと逃げながら戦闘が続いたと考えているのだと思いますが、上流で死んだ戦士の持ち物が下流へと流されたとも考えられるので、私としてはこれだけでは下流方向へと移動しながら戦闘が続いたとは言えないと思っています。


そもそも考古学は時間を扱うとは言え、「一日で終わった戦闘中の更に細かな時間の変化」なんて捉えることができません。


考古学で扱う時間とは土器などの遺物の変化に着目したもっと長期的な時間なのです(*^・ェ・)ノ



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↑丸いカンカンのような青銅製ケース(「ナショナルジオグラフィック」の記事内画像より転載)



これらの青銅製の遺物はキリ、ノミ、ナイフ, 青銅のくずなどでした。


また上に挙げた写真に見られる円筒形をした青銅製の小さな丸い箱が見つかっています。


この丸い箱はベルトに取り付けられる形になっています。


同じ下流の川底の堆積物の中から人骨も見つかっているそうです。


この人骨が破片なのか全身骨格なのかで、河に流されたのか、下流まで来てここで死んだのかを考える上で大きく変わってくるポイントなのですが、それに関する情報はまだありません( -д-)ノ


他に先に挙げた写真の中に見られる青銅製の筒状の遺物が3点見つかっています。


これは個人的な持ち物を入れる袋か箱の付属品だったと想定されており、同様の品は数百キロ離れたドイツ南部とフランス東部でしか今のところ見つかっておらず、この場所では珍しい出土品だということです。


これはトレンゼ・バトルフィールドで戦った戦士たちの少なくとも一方が遥か遠くの地域からやってきた集団である可能性を示しています。


ただ新たな疑問が生まれます。


戦場へ赴く戦士が何故、キリ、ノミといった工具類や青銅のくずといった加工過程でできる副産物を携行しているのでしょう?


「考古学あるある」であり、且つ、ある意味考古学の限界とも言えるのですが、『よく分からないことは(とりあえず)儀礼行為とする』というものがあります。


トレンゼ遺跡の調査者たちも、恐らくは青銅器時代の戦士たちが儀礼的・呪術的な目的で戦闘とは無関係に思える金属加工用品を携行していたと推定しています。


繰り返しになりますが、トレンゼ・バトルフィールドのようなケースは「SSR」級ですから、今後青銅器時代の類例が見つかるまでは、こうした金属加工用品を戦士が携行することが「普通」なのかそうではないのか未定のままとなるでしょう。


また人骨のDNA分析結果では、ドイツ北部の現地人集団と、南ヨーロッパを含む遠隔地の多様な戦士の集団との戦いであったことを示しており、ドイツ南部やフランス東部でしか出土例のない金属加工用品の出土を根拠とした現地集団と遠隔地集団との戦いという類推を後押ししています。


戦士の歯の同位体分析でも2つの戦闘集団を特定しており、1つはドイツ北部出身の現地人集団、もう1つは多様な中央ヨーロッパ、ボヘミア(ドイツ南東部)などから来たと考えられる集団です。


こうした研究成果は異なる少なくとも2つの集団が交戦したことを示唆しています。


おわりに、ー謎は謎のままー

実は新たな研究成果として、別の人骨のDNAに関する分析では戦士たちがヨーロッパ中部と北部の人々だったと結論付けています。

よくヒトとチンパンジーは2%しかDNAの違いがないなんて言い、なので人類における所謂「人種」なんてものはそれ以下の僅かな違いでしかない、だから「人種差別は不当」なんて論理展開も多々見受けられます。

ということはヨーロッパ内、特にドイツ北部を中心とした「狭い」エリアの中で、かつて住んでいた人々の間のDNAの違いはいかほどなのでしょうか?

少なくともドイツ北部の同一集団内における闘争という解釈は非常に弱まっていますが、現地人集団 V.S. 他地域集団の構図が適当にせよ、他地域集団というものが多様な複数地域出身者から成る集団なのか、そしてそれはどれだけ遠隔地なのかという点については現在も謎のままなのです。

今や、人骨に対する形質人類学的分析や、理化学的なDNA分析や歯の分析は、考古学における学際的研究として不可欠なものとなっています。

しかし地道な考古学調査も重要なわけで、やはりトレンゼ・バトルフィールドにおける調査範囲の更なる拡大によってデータを収集すること、トレンゼ・バトルフィールド周辺の「集団が居住したと考えられる拠点」の発見などがこの謎を解く上での鍵となることは間違いないでしょう。

一方で今ある状況証拠だけでも色々と考えることができると思います。

我々考古学者は「鑑識」として働きますので、皆さんも「考古学探偵」としてこの考古学ミステリーに挑戦してみてはいかがでしょうか?

(名探偵コ〇ン!)


真実はいつも土の中!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 9にち(げつよーび、雷を伴う暴風+霰)

今日は論考一気に書き終える日( ・Д・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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今回の考古学・歴史ニュースは「人類史上とても重要な発見、最古の大戦場跡が見つかったよ!ー前編ー( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


戦争は「行為」であって、土器や石器のように「道具」として残るわけではないので、その痕跡はなかなか発見されにくいものです。

そのため、人類史研究において「戦争」は重要な研究対象なのですが、その残りにくさから扱いにくいテーマでもあります。

遺体は野ざらしになる傾向が強いですから、丁寧に埋葬された場合と違って腐敗が進んで朽ちてしまいますし、戦死者が埋葬されてしまうと普通の埋葬墓との区別が付かなくなってしまいます( -д-)ノ

火事場泥棒的に、戦死者の武具などが回収されてしまう場合もありますし、どうしても戦争はその性格から考古学では取り扱いにくいものなのですヽ(TдT)ノ

そういうこともあって、今回紹介する古戦場跡はその発見自体がレアな大発見なわけですが、それだけではなく欧州最古の事例&青銅器時代に大規模な戦争の痕跡という点で重要な発見なのですヾ(´ω`=´ω`)ノ





発見の舞台はドイツ北部のトレンゼ遺跡です。

上の1枚目に挙げた写真で見られるように、河のほとりにある遺跡です。

河から供給される水分が遺物や人骨の良好な保存状態を保ち、今回の大発見に繋がったと言えるでしょう。

ここではBCE1200年頃に河岸で戦って死んだと考えられる1万2000点もの人骨や武器類が見つかっています。

上の2枚目の写真に見られるように、かなりの量の人骨が集中しており、この写真の地点では12㎡の範囲から20個体分の頭蓋骨を含む1478点もの人骨が出土しました。

人骨が集中して見つかっただけでは「戦争」があったことにはならず、乱雑に配置された合葬事例や共同墓地ということも考えられます。

この事例の場合では多数の武器だけではなく、明白な状況証拠が揃っていたため、見つかった多量の人骨は戦死者と考えられたのです。

その証拠を見ていきましょう。






これらが武器を伴う人骨よりも直接的証拠として扱われた例になります。

最初の写真では、見事なフリント製の石鏃が上腕骨に突き刺さっています。

2枚目の写真では、保存状態の良い頭蓋骨の頭頂部付近に、不自然な陥没が見られます。

これは棍棒などによる強い打撃で頭を割られたことに起因する痕跡だと推定されています。

3枚目の写真では、石鏃が頭蓋骨を貫通して脳まで到達している状態を示しています。

これに加えて発見された1万2000点もの人骨が少なくとも140人分であるとの個体数を推定する結果が出たこと、この140人のほどんどが20~30代の上記のような外傷以外で病気などの見られない健康な「男性」であったことがトレンゼ遺跡がバトルフィールドである根拠になっています(*・ω・)ノ






おわりに、ートレンゼ・バトルフィールドの謎(前編)ー

さて、最後に挙げた写真と図は「Science」誌に載ったものです。

上の写真のような出土品が多数見られ、これらが「青銅器時代の戦士」の携行品と考えられています。

こうした携行品や他に出土した武器類から推定されたのが下の図の「青銅器時代の戦士」です。

勇ましく描かれていますねヾ(´ω`=´ω`)ノ

さて、人類史は戦いの歴史であり、特にヨーロッパ史は常に戦争ばかりなわけですが、20世紀までは青銅器時代のヨーロッパは比較的平和な社会だと考えられていました。

より古い時代にヨーロッパで大規模な戦いがあったという歴史記述が、ギリシャやエジプトなどに残されていましたが、最初に述べた「戦争」の痕跡は発見されにくいため、これまでトレンゼ・バトルフィールド級の古戦場の遺跡は見つかっていなかったのです。

これまでにも青銅器時代の武器は出土していましたが、埋葬遺構における副葬品や、儀礼に伴う埋納品としての出土しかなかったのです。

トレンゼ・バトルフィールドの特徴は考古学的に認められる最古の事例というだけではなく、最大規模の戦闘行為の痕跡が残る事例だということです。

調査範囲からは140人分の人骨が出ましたが、遺跡全体の10%ほどを調査したと考えられることから、全体の死者数は1400人程度になる見込みです。

戦争は生き残りをかけたバトルロワイアルではありませんので、実際に戦争に参加したのはその2~3倍程度、4000~5000人ではないかと推定されています。

戦闘自体はおそらく1日で終わったと考えられていますが、この規模の戦闘行為は青銅器時代ではこれまでに見られない圧倒的なものなのです。

ここで問題なのは、何故トレンゼ遺跡で大規模な戦闘が起こったのかということです。


欧州各地から来た他集団同士が争ったのか、トレンゼ地方の同一集団における内紛だったのか・・・・・・


誰が、何故この地で戦ったのかは現在も謎のままなのです。


どう思いますか?ー後編へ続くー( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 7にち(どよーび、晴れ)

梅干しと食べると元気でる気がする(*^・ェ・)ノ


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arukemaya1149


今回の考古学・歴史ニュースは「2800年前の青銅製車輪付き馬車がバエるよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


元記事が分かりにくいなと、そしてこの馬車の写真は何だか見覚えあるなと思っていたら、、、

やはり今回の発見は2014年のものでした( -д-)ノ

元記事における今回のニュースは「この馬車が復元されたよ!」ってことなのですが、肝心の復元された写真がないので混乱しました。

なのでここでは単純に、「2800年前の青銅製車輪の付いた馬車の残り方がスゴイよ」って形で紹介することにします(。・ω・)ノ゙


arukemaya1148


発見の舞台は中国、陝西省にある周原遺跡です。

西周(紀元前1100年頃-紀元前771年)の末期に帰属する馬車と推定されています。

馬車の長さ(馬との連結部含み)は3.13m、幅は2.7m、高さは1.5mメートルです。

馬車の前方には馬の骨があり、4頭分あることが確認されています。

この馬の骨の一部を用いてDNAを解析した結果、4頭の馬はいずれも雄の黒馬だったことが判明したそうです(*^・ェ・)ノ



この周原遺跡では多くの奢侈性の高い遺物が出土しており、かつて大規模に盗掘が行われ、闇ルートでの遺物の売買が行われたことで知られています。

この遺跡ではそうした保存状態の良い遺物が豊富であり、またこの馬車も稀に見る保存状態の良さなわけですが、これらは意図的に黄土で埋められたことに起因しています。

埋葬形態のひとつに「陪葬(ばいそう)」というものがあり、これは主君を埋葬した墳墓の近くに近臣たちを埋葬することを指します。

一種の殉葬なわけですが、陪葬の場合は埋められた場所が異なるという点が違いです。

また例えば殉葬の場合、メキシコ、テオティワカンの事例のように多くは後ろ手に縛られていたり、斬首されていたりと強制的に生贄にされていることが多いです。

一方で陪葬の場合は、死後も主君にそのまま仕えることができるように丁寧に埋められているケースが多いのです。



さて、写真に見られるように馬車の車輪のフレームは青銅製なのですが、それだけではなく馬車の装飾も豪華で、大量のトルコ石が埋め込まれた青銅部材に薄壁青銅獣面装飾、玉細工、彩色上絵が施された部材が大量に発見されたとのことです。

残念ながらこの装飾品に関する写真はなく、元記事において考古学研究所はこのバラバラの装飾品類を復元したようですが、その写真もありませんヽ(TдT)ノ

元記事における「復元した」の意味が、下に挙げる写真のような元々の位置関係を明らかにして3D復元予想図を作ったという意味なのか、あるいはそれを基に馬車を作り上げたのか不明です( -д-)ノ

周原遺跡に関連した大きな博物館があること、中国は文化遺産の観光活用に力を入れて莫大な資金を投じる傾向にあることから、恐らくは展示用に馬車を復元していそうですね。




保存状態の良さから馬車の構造や工法について色々なことが分かっており、この馬車があまり使われていなかったことも分かっています。

「あまり」ということは陪葬用に準備した馬車ではなく、実際に君主によって使われていた可能性が高いと考えられます。

また形態的には軍事用馬車なのですが、非常に装飾性が高いことから、戦闘用ではなく当時の上流貴族の儀仗(ぎじょう)用だったと考えられています。

ちなみに儀仗というのは儀礼のために用いられる武器・武具のことです。

こうした陪葬の車馬坑は周原遺跡ではいくつか事例がありますが、今回紹介した事例はこれまでで最高の保存状態であり、各部品が最も完全な形で残っている馬車なのです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




おわりに

最後に挙げた写真の馬車の保存状態もスゴイですよね。


ポンペイで見つかった馬を思い出すレベルの保存状態の良さです。


2800年前の馬車というと当然、木製部位も多いでしょうによく残るものです。



……丁寧に扱えば、良く残る……


逆に雑に扱えば、残らない……


なるほど、それで「アカハラ万歳な」研究室では学生が残らないわけか!



考古学知識が現代社会に役立ったね!( ・Д・)



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2020ねん 11がつ 6にち(きんよーび、晴れ)

素晴らしい!

今月はタスクが順調に終わっていく(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


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arukemaya1142


今回の考古学・歴史ニュースは「粘土の塊って出るもんだね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


私の「ティカル調査速報」的な何かを読んでいる方はもうご存じかと思いますが、

私は現在、古典期(CE-250-1000)ティカルにおける土器生産体制の解明を目指して調査を行っているのです。


(リンクは記事後半のいつものところ、「おわりに」の前に貼っておきます( -д-)ノ)


先行研究によれば、土器生産の証拠として「直接的証拠(窯)」と「間接的証拠(器面調整具、彩文具、粘土塊など)」の発見が重要と指摘されながらも、

古代マヤ地域では確定的な証拠、特に両者揃っては未だ見つかっていないのです。

でも日本だとレアなケースですが今回のように見つかっているのです(*・ω・)ノ




さて、発見の舞台は佐賀県、唐津市にある黒岩前田遺跡です。

この遺跡では弥生時代後期(約2000年前)から古墳時代前期(約1700年前)にかけての集落が見つかっています。

これまでの調査で6軒の竪穴式住居跡、3棟の倉庫跡、5条の溝跡が検出されています。

この竪穴式住居の中のひとつ、古墳時代前期中頃に帰属する4号住居跡から状態の良い土器、意図的に縁や底を割った鉢類、粘土塊、土器を砕いた赤色細片が出土しました。

こうした物的証拠は先ほど述べた「間接的証拠」に当たるため、住居内で土器を製作した可能性が高いと推測されました。


*先に述べた「直接的証拠」/「間接的証拠」はアメリカ考古学、マヤ研究、ティカル研究における用語を直訳したものですので、普通の日本人考古学者に言っても何のこっちゃ?となるでしょうからご注意を!( -д-)ノ



この状況証拠に基づく推測・解釈を補強すべく、民間の分析会社に成分分析を依頼したところ、この住居から出土した土器の胎土と粘土塊とに含まれる、花崗岩や石英、長石といった鉱物組成や化学組成の類似が見られたとのことですヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

この結果を踏まえて、4号住居址で見つかった粘土塊は土器の材料である可能性が高いと推測されています。

こういったケースは古墳時代前期の事例として佐賀県内で初めてであり、九州一体でも類例がないレアなケースなのです(。・ω・)ノ゙

また唐津市内では古墳時代前期の集落遺跡が発見されること自体が稀なようですが、何よりも今回の目玉の発見は、土器製作の工程を示す痕跡であり、考古学における土器研究を推し進める上で大変貴重なものなのですヾ(´ω`=´ω`)ノ


arukemaya1144








↑あれ、、、忙しかったのかな、後半の墓見つけたやつの報告してない( ・Д・)


おわりに

最後に過去記事のリンクも載せたのでごちゃごちゃしてしまいました、申し訳ない( -д-)ノ


上に挙げた2枚の写真は「有田町歴史民俗資料館」のサイトに載っていた窯の跡なのですが、こんなレアな発見が普通にあるものなのだなと驚きました……



……あれ、「有田」?(`・ω・´)???



そう、一番最初に「可愛い有田焼」を載せましたけど、この有田は有田焼で有名な有田なのです(有ばっかりで変ですね( ・Д・))。


有田焼は佐賀県の名産品、今回の発見も佐賀県!


やはり伝統的な陶器工房が多数ある地域では古くから土器作りをしていたわけで、それにしてもレアなケースと思っていた事例がポンポン出てくるほどとは……



佐賀、有田、恐るべし!( ・Д・)



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2020ねん 10がつ 27にち(かよーび、晴れ)

「昨日」って打ったら「帰納」と出てきた、、、働き過ぎか( ・Д・)


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arukemaya1093



今回の考古学・歴史ニュースは「またエジプトか!?最古のチーズと最古の感染症が発見されたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



さて、舞台はエジプト、古代都市メンフィスです。

ここで紀元前13世紀のお墓が見つかりました。

被葬者はプタメス(Ptahmes)という名の高官です。


彼の墓は最初1885年に見つかっていたのですが、その後、砂嵐によって砂に埋もれて行方が分からなくなってしまい、2010年に再発見されたのだそうですΣ(・ω・ノ)ノ

砂に埋まるなんて映画「ハムナプトラ」みたいな話ですね( ・Д・)




さて、彼は高官ですから墓には副葬品があったわけですが、その内の一つに上に挙げたような土器が見つかりました。

中には何やら「白っぽい塊」が詰まっています。

副葬品であること、そしてその配置から、考古学者らによって発見当初より「食べ物」の可能性があると指摘されていました。

この謎の白い物体を理化学分析によって成分を判定したところ、チーズであることが分かったのです。

しかもどうやら現代の「シェーブルチーズ」に似ているそうです(*・ω・)ノ



シェーブルとはフランス語で「山羊(ヤギ)」を意味します。

こうした山羊乳を用いたチーズ作りは、私たちにとってより一般的な牛乳を用いたチーズより古いものです。

どうやら山羊乳特有の癖のある風味を有しているようです( ・Д・)



古代のチーズは地位の高い裕福な人物が食していたようです。

シェーブルチーズは水分を多く含んでいるために、日持ちせずすぐ腐ってしまうそうですが、これまでにも貴人の墓の副葬品として何例か確認されているそうです。

今回のこの事例では約3200年前の事例なので最古級のチーズの事例となります。






実は複数ある古代のチーズっぽい事例で、紀元前7000年、つまり今から9000年も前のものが確認されているそうです。

紀元前7000年というと古代エジプトで定住が開始された頃でしょうか……

ただしこの事例では土器内面の残滓から脂質残滓、脂肪残滓を抽出できたことに由来する発見であり、チーズなのかヨーグルトなのかよく分からないそうです。

また実際にその二つの区別はかなり難しいようですね( -д-)ノ


他にも紀元前3200年、今から5200年も遡る、古代のチーズではないかと疑われる物質が古代エジプトの瓶から発見された事例もあるそうです。

こちらも本当にチーズかどうかは不明ですが(*^・ェ・)ノ



さて、今回紹介している3200年前の古代チーズは、これまでに発見された中で最も古いものではない可能性もあるのですが、実は別の理由で際立っています。

成分分析の中で、何百ものペプチド、つまりアミノ酸の鎖が発見されたのです。

そのほとんどは人間の皮膚や唾液に由来する一種の汚染であしたが、少なくとも9つのペプチドは牛や卵の乳に関連していることが分かりました。

その分析の結果、ブルセラ症の原因となる細菌の証拠を発見したのです。



これは現在でも存在する発熱、頭痛、筋肉痛などの症状が再発したり、その症状が全く治まらなかったりする人獣共通感染症です。

別名は「マルタ熱」で、1887年のクリミア戦争時にイギリス軍の軍医・デイビッド・ブルース (Sir David Bruce) に発見されました。


このブルセラ属菌は敵国の兵士や住民に罹患させて能力を低下させる生物兵器としても研究・培養された歴史を有しており、アメリカは1942年、ソ連は1978年に兵器化を実現したのです。

ちなみに日本では1970年代までにほぼ撲滅されました。


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↑エジプトっぽい画像を貼ってみた、特に意味はない(・∀・)つ


おわりに

コロナウィルスの登場により、感染症と聞くと思わず反応してしまいますよね。

コロナウィルスも中国が手を加えた生物兵器ではないか、なんて噂もチラホラと聞きましたが、どうなんでしょうね( -д-)ノ


生物兵器の開発・使用は国際法で禁止されています。

でもそれくらい非人道的であり、大量の死を招くものなのです。

コロナウィルスやインフルエンザですら多数亡くなってますからねヽ(TдT)ノ


核兵器より恐ろしいかもね!( ・Д・)


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2020ねん 10がつ 19にち(げつよーび、晴れ)

ずっと記事に追われてる気がする、追い越さねば( ・Д・)


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arukemaya1047



今回の考古学・歴史ニュースは「大刀が煙突から見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


発見があったのは青森県八戸市の法霊林遺跡です。


ここでは奈良時代の竪穴住居址が9基発見されました。


歴史の教科書&試験対策では、縄文時代と言えば竪穴住居、弥生時代は高床式倉庫、なんて機械的に覚えたと思います。


しかし上に挙げた写真のように奈良時代にも竪穴式住居が使用されています。



arukemaya1045
↑奈良時代の竪穴住居の図面(「7. 奈良時代の竪穴住居跡の復元」の図7を転載)


arukemaya1045a
↑同じ図面ですが、「竈(かまど)」の部分を赤丸で示しました(「7. 奈良時代の竪穴住居跡の復元」の図7を一部改変)



arukemaya1046
↑竈(かまど)の構造を横から見た図(「新・筑紫潟の風」の記事内画像より転載;オリジナル図面は、稲葉・中山1983)



以上の3つの画像が竈の図ですが、住居内の焚口から住居の外側に向かってトンネルが掘られています。


これが「煙道」です。


タイトルに煙突と書きましたが、煙突が家屋の屋根の方に向かって伸びるのに対し、竪穴住居ではこのように地面の中を通って外側に煙が排気される仕組みになっています。


ちなみにロシアの事例などでは、煙が床下をうねうねと通って床暖のように機能してから排気されるような構造を有するものもあります(*・ω・)ノ



先ほど述べたようにこのような住居が9基見つかった中で、有力者の家であったと考えられる最も大きな住居の煙道の先(排煙部;外側の方)から、8世紀後半以降に作られたとみられる大刀が見つかりました。



arukemaya1044
↑残りの良い太刀(「Yahoo!ニュース」の記事内画像より転載)



儀礼のために入れられたと思われるこの大刀は写真で見られるようにけっこう残りが良いのです(*・ω・)ノ


写真の黄褐色部分が通常の堆積土層で、黒褐色になっている部分が煙道です。




大刀は鉄製で全長65cm、刃部の長さ48cmのサイズ、木製の鞘に納められています。


大刀は当時貴重品で、蝦夷(えみし)の有力者を埋葬したとされる末期古墳からの出土例が最も多いのです。




この出土した大刀は柄頭の形から方頭大刀(ほうとうたち)と呼ばれるものです。


大学の考古学の講義では超有名な蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれるものは北海道や東北地方で多数見つかっていますが、こうした大刀はこれまで出土した例がありません。




また竈に土器が入れられていた事例は確認されていますが、今回の事例のように煙道の排煙部に大刀が入れられていた例としても初めての事例となります。


恐らく住居を廃棄し、立ち去る際の儀礼行為としてこのようなことを行ったと考えられますが、まだまだ良く分かっていない蝦夷と呼ばれた人々の社会を知る上で貴重な発見となりました(*^・ェ・)ノ   



arukemaya1048
↑ちなみにアシタカが使っているのは蕨手刀の方です(*・ω・)ノ

↑古いジブリ作品は考古学要素がけっこう入ってたりしますヾ(´ω`=´ω`)ノ



おわりに

何だか最近やけに重要な発見が多い気がしますね。

しかし単発的に「~が見つかった!」というのは考古学研究の発展にはあまり結びつかず、やはり研究者の地道な努力が重要だと思っています。

しかしながら所謂「レアな発見」は人々の興味関心を強く惹きますし、「こういった事例がある」という知識が増えたと意味合いでは当時の社会の一端を知る上で重要だなと思います。

せっかく保存状態の良好な鉄製品ですから成分分析等にかけて、生産地の推定や、他の鉄製品との化学組成の比較を行って欲しいなと思います。

ひいては奈良時代の平城京を中心とする文化と蝦夷との経済活動の一側面の解明に繋がれば最高ですね(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


今回暑かったのは竈、、、

……竈門炭治郎効果でバズれ~!( ・Д・)


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2020ねん 10がつ 17にち(どよーび、晴れ)

片っ端から仕事片付けねば、年内に終わらんヽ(TдT)ノ


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arukemaya1040
↑浅い柱穴跡が多数見られる(「福島民友新聞」の記事内画像より転載)



今回の考古学・歴史ニュースは「色々大発見がありました!およそ4000年前の縄文人の人骨も多量に見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の発見があったのは福島県、川俣町小綱木地区に所在する前田遺跡です。



国道の改良工事に合わせ、2018年から発掘調査が行われていました。



これまでの調査で、縄文時代中期の火おこしの道具として使われていたとされる「火切り臼」を始めとしてレアな遺物が多数出土する重要な遺跡と考えられていました。




この前田遺跡では、縄文時代中期に相当する土層から、流木が積もった小川の跡が発見されており、その周辺から大量の木製品や漆製品も出土しました。


水分があると余計腐ってしまいそうなイメージがありますが、実際には酸素の供給が絶たれるため木製品等の通常は腐敗して失われてしまう遺物が残りやすい傾向にあります。



そんな当該遺跡では保存状態の良好な木製の弓も見つかっており、縄文時代の様子が良く分かる遺跡としてその重要性が増しているのです(*・ω・)ノ



arukemaya1039
↑柱穴の傍に横たわる人骨(「福島民友新聞」の記事内画像より転載)



今回前田遺跡では新たに埋甕や土壙墓が多数確認され、被葬者は縄文時代に一般的な屈葬の形態を取っていました。


この墓域では縄文時代の後期(約4400~3700年前)に相当すると考えられている人骨が約40~50体も出土したのです!Σ(・ω・ノ)ノ

40~50体と数が不確定なのは、複数個体がまとめて埋葬されている場合に骨の部位をチェックし個体数の確認を行う作業が完了していないためです。





日本の特に内陸部の場合、酸性土壌の影響で人骨はなかなか残りません。


そのためこの前田遺跡のように縄文時代の遺跡で大量に人骨が出土する事例は全国的に希少なのです(*・ω・)ノ



先ほど述べたように、前田遺跡ではその昔、河川が流れていたと考えられていますから、河川の流れによって堆積した水分を含む砂質の土が人骨を覆ったことで空気を遮断し、腐敗の進行を遅らせたと推測されます。


こうした良好な埋蔵環境の結果、全体の骨格が分かるほどに保存状態が良好な人骨が5体検出されているため、これを対象にDNAの解析を実施する予定でいるそうです(・∀・)つ




更に前田遺跡では縄文時代晩期(約3500~3000前)の地層から、全国的にあまり類のない木柱を伴う柱穴が100基以上も検出されましたΣ(・ω・ノ)ノ


木柱は直径約30~40cmが多く、最大で直径約60cmのものも確認されています。


木柱が残っているなんてレアケースですが、そこはやはり旧河川のおかげなのでしょう(*^・ェ・)ノ




上の写真で確認できるように、柱穴の掘り込みは浅いものばかりのようです。


木柱の周りに石を詰めた状態が確認されており、かつて掘立柱建物やモニュメントがあったと推測されています。




更に、墓域からは縄文時代後期に相当する状態の良いハート形土偶が1点出土しました。


高さ約20cmセンチで右腕が欠損している状態の女性像です。

全国的にも珍しいことに、この土偶は土器を布団のようにかぶった状態で出土し、祭祀と関連して意図的にこのような配置を取ったと考えられています。




おわりに

大発見ばかりなのに調べても写真が全然出てきませんでした。


まだ新しい情報なので、未報告資料ということもあり、伏せられているのでしょう。


これだけの発見があれば現地説明会はもちろん、最寄りの博物館で遺物の展示会も開催されるでしょうから、その際に今回紹介したレアな発見物の写真が見られるかなと思います。


写真を含め、また続報があれば紹介しますので、お互い楽しみにしましょうね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


これは考古学史に残る勢いだね!
……道路工事はどうなるのかな?( ・Д・)


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