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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:レアな発見

2024ねん 3がつ 5にち(げつよーび、晴れ)

ビール祭りだぁヾ(´ω`=´ω`)ノ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースはなんだかんだやっぱり凄いよね、日本!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


日本列島への人類の移動

上に挙げた画像は東京都、上野にある国立科学博物館が実施した「3万年前の航海再現プロジェクト」で使用された丸木舟です。

学術クラウドファンディングで約6000万円集めてるんですよね。



実験考古学としての成果というよりは単純に集めた額がすごいなと思ってしまうのは私だけか( -д-)ノ

まぁでもほんとすごい。

この丸木舟は長さ7.5mなので、これまでに出土した平均的な長さの中で大きめのサイズとして作られてて、最大サイズとかではないんですよね。

それでいて、台湾から沖縄県、与那国島までの約225kmを移動したんですよね。

それはすごい(*・ω・)ノ





この記事では「縄文時代の丸木舟は約5~7mで二人乗り」って書いてます。

この話は復元の件も兼ねてるのですが「移動」のことではないんですよね。

例えば、前に一人、後ろに一人、間のスペースにモノを載せて「運搬」するとか、

二人乗りで「漁労」をして、間のスペースに網などの道具や釣果を載せるとか、

そういう生業関連の話なのです。




この科博の事例だと5人で乗ったそうです。

まぁ225kmの距離を移動することが目的なので、「漕ぎ手」がたくさんいないと困るんですよね。

舟なので体重分の重量が増えることよりもパワー・スタミナの方が大事なのです。




人類の移動か・・・

でもたかだか5人来た程度じゃ生き残れなさそうですね。

意図的に船団で移動したのか、あるいは継続的に遭難など潮の流れの関係で多数流れ着いていたのか、、、




とある生物学者が文明崩壊後に人類が再生するとしたら何人必要かという疑問に対して100人と答えていました。

近親交配を繰り返すとまずいのでDNAの問題からという回答ではあったけれど参考にはなりますね。

3万年前の大陸側から列島への移動に対して、100人もの集団が船団で移動したってのは当時の社会スケールからして考えにくいので、やはり後者かなって気はします(*^・ェ・)ノ





縄文時代最古の舟

さて、では日本最古の舟の話に移りましょう。

出土遺跡は千葉県、市川市雷下遺跡です。



上に挙げた丸木舟は全長約7.2m、幅約50cm、厚み約8cmで、本来は全長7.6mを超える当時としては大型の舟と考えらます。

当時というのは今から約7500年前、縄文時代早期の終わり頃のことです。



次に古い事例は、島根県、松江市の島根大構内遺跡で出土した丸木舟で、約6000-7000年前の縄文時代前期のものです。

サイズは6m程度です。

縄文時代の丸木舟のサイズ分布が5~7m程度ですから、雷下遺跡の丸木舟は最古級にして最大級の事例ということになります。

両者ともカイ(オール)も出土していますし、後者はヤス(漁労具)も出ているので本当にレアな事例と言えます。

また丸木舟はムクノキやスギを素材として、火で焦がしながら、巨大な樹を石器で削って作ったと考えられており、上の写真でも内面が焦げている様子が見て取れると思います。



さて、縄文時代は約16000年前から2400年前の期間として定められています。

ざっと1万4000年のもの期間になります。

その期間の細分として、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と6期区分があります。



縄文時代の丸木舟と言ってもその多くの出土事例は後期・晩期に帰属するものが多いのです。

まぁ古くなると出土遺物量が減少するのは致し方ないのです( -д-)ノ



されども既に上で述べた貴重な2例があるように、縄文時代の早期の終わりから前期には既に丸木舟があったことが分かっています。




活発な遠距離海上交易はいつから?

現状、最古の化石人類は約700万年前のサヘラントロプス・チャデンシスですね。

最古の石器はまだやや古くなりそうですが、一般的には約260万年前のオルドワン石器ですね。

作ったのはホモ・ハビリスで、猿人-原人段階です。



他方で新人、ホモ・サピエンスは約20~30万年前に誕生しました。

その後、他の化石人類たちは絶滅して私たち現生人類だけが生き残りました。

つまり私たち現生人類はその誕生直後から道具を作り、使用できた、あるいは少なくとも化石人類の活動の観察から即座に学習できた環境にあったことになります。



恐らくこの最初期から人類は製作した道具の交換(交易)を行っていたかも知れません。

しかし事例が少な過ぎる他にも、活動領域での身近な石材を利用していたことから交換(交易)の実態は不明です。

産地が限定される黒曜石の利用が始まって交易が確認できるようになりますが、ニューギニアでの約1万9000年前の事例が最古です。



地中海域での海上交易の歴史も古く、約1万4000年前には1000km程度の交易網がありました。

日本では同じ約1万4000年前には2000km以上に及ぶ交易網あった可能性があるです。




丸木舟の最古の事例は約7000年前でした。

東北地方の三内丸山遺跡などの事例では約5000年前には黒曜石、翡翠、琥珀が日本各地から集められており、海を渡って北海道由来のものも伝わっています。

ではいつからこうした活発な海上交易がおこなわれていたのでしょうか?



九州南部と沖縄の事例では縄文時代前期(約7000~5500年前)に土器の海上交易があったようです。

奄美大島では金雲母を含む鉱物組成の粘土・砂がありませんが、金雲母を含む土器が多数見つかっています。

これは九州本島南部や奄美大島より南の小島、あるいは沖縄本島で生産されたものが運ばれてきた可能性を示しています。



また北海道~九州の範囲では縄文時代草創期(約16000~11500年前)の『爪形文土器』が広く分布します。

北海道~九州という広い範囲における土器の類似性は活発な海上交易に伴うモノや情報の伝播を意味していると考えられます。

最北端である北海道の爪形文土器の事例が1万4000年前ですから、そこから考えると、繰り返しになりますが、

日本では同じ約1万4000年前には2000km以上に及ぶ交易網あった可能性があるということになります。

すごいね、日本 (=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!





おわりに

経済って複雑だけれど、面白い!って最近思えるようになりました。

考古学ってデータが限られているからこそ、経済などの様々な現象をシンプルに捉えることができるかな~って思ってますが、

ほんとに交易のレベルでも十分複雑で大変です。

大変ですが、面白い!



今年度は僅かでも古代社会研究を現代社会研究と繋げられるようになりたいなぁと思う今日この頃です。

論文で書くことのない一般的な説明部分の箇所も多いので、分かり次第記事しますね~(・∀・)つ

「居酒屋の考古学」とかやりたいもの・・・

考古学研究から、現代社会の経済研究につなげて、ビジネスに役立つレベルの分析ができるようになりたい!( ・Д・)



何はともあれ、

焼き鳥食べたい!( ・Д・)



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2024ねん3がつ 5にち(げつよーび、晴れ)

やば、また三カ月さぼった、すまぬ!( ・Д・)

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↑烏帽子って売ってるのね( ・Д・)(「SHIGEMORI ONLINE STORE」の商品画像より転載;商品詳細ページに飛ぶので注意、いつも通り回し者じゃないよ)



今回の考古学・歴史ニュースは鎌倉時代の烏帽子が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



今回の舞台は滋賀県大津市にある里西遺跡です。

近くの道路工事に伴う緊急調査の際に見つかったそうです。



まぁよく残ったよね。

ひとまずモノを見てみると、、、


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↑こんな感じ、画像ちっちゃいけど(「NHK NEWS WEB」の記事内画像より転載


サイズは幅 27cmで高さ 22cm。

絹製で漆の上塗りがしてあります。



最初に挙げた画像と形が違うように思えますが、

これは「折烏帽子(おりえぼし)」です。

元の形状から二回折りたたんでいるため三角形の形になっているのです。



見つかった遺構は、長軸 1.3m、短軸 1.0mの墓穴で、その中に長軸 1.1m、短軸 0.7mの木棺がありました。

木棺内には副葬品としてこの折烏帽子1点の他に、短刀1点、土師器皿11点、青磁碗1点、鋏(ハサミ)1点が含まれていました。



「レアな発見」ばかり追うような考古学者は嫌いだけれど、やっぱり墓は情報豊かでいいよね~って再確認するような良き発見事例ですね(・∀・)つ

滋賀県埋蔵文化財センターにて2024年4月5日までの平日の間は公開されているそうなので行ける方は是非この機会に見に行ってみてくださいな。




おわりに

上に挙げたものは茶道具の水差しなんですけれど、その形状から「烏帽子箱」と名付けられています。

あの烏帽子、普段はこうした形状の箱に入れて、形が崩れないように保管していたようですね。



折烏帽子は武士の被り物として行動し易いように折り畳んでいたことから「侍烏帽子」とも言います。

ということは今回の発見の被葬者は鎌倉時代のお侍さん?

あるいは副葬の過程で折り畳む風習でもあったのでしょうかね?

そして結構コンパクトに折り畳んでいたようですが、そのサイズ感の場合、烏帽子箱は使っていなかったんでしょうかね?



ニュースひとつ取っても興味関心が広がるのはいいことですし、考えたり、調べたり、思いをはせるのも楽しいものです。

伝われ~!ヾ(´ω`=´ω`)ノ



何はともあれ、

私の古代以降の知識の無さよ!( ・Д・)



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2024ねん 3がつ 5にち(げつよーび、晴れ)

道路・水・ガス・電気・インターネット、インフラって大事よね(*^・ェ・)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースは「たくさん木製品出たよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今回の舞台は千葉県、横芝光町にある高谷川低地遺跡です。


個人的にはここ数年、”使える理論”系やってるせいで、世界各地の考古資料って補完し合えるなって思ってるんですよね。

で、日本と言えば、「低湿地遺跡」だと思います。

というのも世界的に残りにくい木製品などの有機物製品が残る傾向が強いんですよね。



そんなレアな発見のひとつが今回の発見です。


arukemaya059


これまでにも当サイトで紹介してきましたが、ずっと水分を補給されていると酸素不足になるので有機物の分解がなかなか進まないんですよね。

それが低湿地遺跡で有機物製品が残る理由です。




今回縄文時代の舟が15艘も見つかりました。

上に挙げた写真のように見つかった舟を水につけているのは上記の保存上の理由です。




上に挙げたように櫛も出ています。

赤く見える塗料は漆と思われます。

他に縄文時代後期の土器が完形で3点出土してます。



舟がまとめて出土した事例としてもレアですが、櫛などの木製品の出土自体がレアなので貴重な調査事例だと思います。

気になるのは舟など全てが縄文時代後期に帰属するものなのかな?ってとこです。

たぶん記者さんが考古学関係ではないのか全然情報がありません……

報告書の刊行を待つ他なさそうです( -д-)ノ



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↑こんな感じに使ってた?(「埋もれた文化財のはなし 34」より転載;滋賀県埋蔵文化財センター発行)



おわりに

さてさて、縄文時代の舟と言えば上に挙げたような丸木舟です。

サイズは5m~7mくらいのものが多いです。

でっかい樹木を見つけて、頑張ってくりぬいて人が乗れるようにするわけですね。



サムネ画像も上の写真もそうですが、そのサイズから二人乗りくらいだったようです。

私たちの想像する小舟でもけっこう人が乗れそうなイメージですが、準構造船が弥生時代~古墳時代に登場します。

弥生時代の土器に刻まれた文様や、古墳時代の形象埴輪でその姿を確認できます。

私たちが一般的にイメージする舟/船は小型のものでもそのレベルの場合が多いかもしれません。



さて、そんな小型の丸木舟ですが、これまで全国で120艘ほどの発見事例があります。

そのような中、今回は一気に15例も増加したのですから凄いですよね。

ここ数年は水中考古学なるものが流行りのようで、何故かこうした海や船関係の考古学関係研究って莫大な予算が付くんですよね( ・Д・)

やっぱ日本と海の関係は切っても切れないから???



まぁ今回の発見も上手く活用されて研究が進むといいなと思ってます。



何はともあれ、

どうやったら使い切れないような予算もらえるの!?( ・Д・)



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2023ねん12がつ 16にち(きんよーび、秋?晴れ)

さっき早速図書館で「米の価格の変遷」を調べてきたよヾ(´ω`=´ω`)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースはやっぱポンペイはすごいぜ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ



↓ポンペイ関連の記事はたくさんあるね

↑「日本のポンペイ」とかもあるから『ポンペイ』で記事を検索してみてね



さて、まずは基本情報を記しておきますね。



場所はイタリア、南部のポンペイ遺跡です。

有名だけれど、場所はいまいちわかりませんよね。

これまでも有名だからってことで紹介してなかった気がするので今回は場所を下に示します。



長靴形状で知られているイタリアですが、ポンペイは首都ローマの南東部に位置し、”部位”的には足首らへんにあります。





さて、ポンペイは西暦79年にヴェスヴィオ火山の噴火によって滅んでしまった都市です。

ローマ帝国の植民地で、商業が盛んな都市でした。



火山噴火により大量の灰で覆われてしまった地域って長い人類史の中ではけっこうたくさんあるものなのですが、、、

ポンペイのすごいところはこの年が滅亡してしまった点にあります。



つまるところ、放棄されてしまったのです。

多くの場合、人間って強いもので、あっという間に元の土地に戻ってきて、灰をどかしたりしてまた住み始めるものなのです。

そうした後の人類活動による再居住過程で遺跡として保存されることがあまりないのです。

でもポンペイは再居住されなかったのでとても残りの良い広大な遺跡が誕生することに繋がったということです。








さて、今回のニュースは当時のパン工房を検出するに至ったってことです。

最初に挙げた写真が調査範囲を上空から撮影したものですね。

本当に美しい!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

最近は安価なドローンも出てきているので、こうして真上から撮影できるのは非常に心強いものです。



上に挙げた写真はまさにパンを焼くところのものです。

パンを焼くためには小麦を挽く必要があるわけですが、今回見つかったのはその場所です。


密室になっていて窓はあるけれど高所にあるため外は見えないようになっていて、ドアもないそうです。

そんなところに3人の奴隷とロバを閉じ込めて強制的に小麦を挽く作業に従事させていたようです。

そういう状況を考えると上部の窓は最低限の食料を投入する場所なんでしょうね(*^・ェ・)ノ






おわりに

なんかとんでもないもの見つけましたね~って感じです(*・ω・)ノ


他サイトさんの記事だと「監獄」って書いてますけど、そんな生易しいレベルではない気がします。

私が付けるなら「地獄のパン工房」ですかね( ・Д・)



いやーほんとポンペイは古い割に残りが良過ぎてびっくりしますね。

その残りの良さ故に、私の今の理論研究の応用先候補No.1なので、もしかしたら今後めちゃくちゃ詳しく説明できる日がくるやも知れません!(・∀・)つ




何はともあれ、

やぱ建造物が残ってるって大事だな!( ・Д・)



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2023ねん11がつ 10にち(きんよーび、台風!)

仕事はバリバリ進んでいる気がする……たぶん

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↑現在のアマゾンの人々(「COURRIER Japan」の記事内画像より転載; Credit: Scott Wallace/Getty Images)



今回の考古学・歴史ニュースはもしかしてアマゾン文明!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、ここ数年のところ特に『異常気象』なんて言葉をニュースでよく目にするようになったかと思います。

やけに暑かったり、寒かったり、洪水起きたり、ハリケーンとか台風の被害甚大とか山火事凄いとか氷山溶けまくりとか・・・

『観測史上最大/最強』とかよく見るな~って気がしています。



観測史上って日本だと1876年かららしいですが、まぁ過去150年の中でってことですよね。

それでも世界各地で異常気象と言えるほどの甚大な被害をもたらしています。

やはり人類活動のせいなのか、ほんと地球はどうかしている状況なのかも知れませんね( -д-)ノ




今回の話は「干ばつ」ですが、どんな状況かというと・・・






激しいね!Σ(・ω・ノ)ノ

これは激しい!



アマゾン川ってめちゃ大河なイメージですが、記録的干ばつによってこんな状況になっているそうです。

船での航行が不可能になってなかなか物資も届けられないようですね。

こんなになってしまうと魚とか水棲生物がたくさん死滅してしまい、現地の方々にとっては食料不足に陥りますし、大量に死んだ魚によって河川が汚染されてしまうので、飲料水や生活水も不足してしまうんですよね( -д-)ノ



チグリス・ユーフラテス川とかメソポタミア関係や、古代ローマ関係でも河川が干上がって遺跡が見つかったりしていましたが、今回はこんな状況のアマゾン川の川底から石彫が見つかったということです。






arukemaya045




場所はブラジル北西部のマナウスの近くです。

マナウスはアマゾナス州の州都で、その名の通り、巨大なアマゾン川のほとりに位置する大きな都市です。

このマナウスの南東部端でネグロ川とソリモエンス川/アマゾナス川が合流するのですが、ここにポント・ダス・ラジェスという遺跡があります。



この遺跡では2010年の干ばつ時に周辺の河川の水位が13m下がった結果、複数の石彫が見つかっていました。

2023年の干ばつでは14mも下がったため、新たに複数の石彫が見つかったということです。




考古学では石材にもよるけれど、石の年代を推定することはけっこう難しいものです。

この遺跡では道具の製作場所として関連遺物が見つかっていることから、先コロンブス期の遺構だと推定されています。



周辺の遺跡での調査成果から、この辺りでは1000 BCE-1000CEにかなり大きな規模のコミュニティがあったことが分かっています。

なので石彫の年代推定はおおよそその中間である、今から約2000年前としておくのが安牌かなって気がしますね( -д-)ノ


(考古学者のスケール感だとこれくらいアバウトでもよいのす。地質屋さんとかもっとすごいよ( ・Д・))







話は変わりますが、見つかるはいいけれど記録・保存を考えないとですよね。

ずっと沈んだままならまだ良いけれど、水位の変化が激しいのならば上に挙げた写真のように水による浸食を受けてしまいますからね。

なんとかして欲しいなと思います( -д-)ノ



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↑この大きな平らな石だけ選ばれたようだね(「MSN」の動画内より転載)


おわりに アマゾン文明!?な話



ところでところで、更に話を変えると、、、

『古代アマゾン文明』って知ってます?



中米と南米ってまぁ「新大陸」研究者から見たら一緒に見えるかもしれないけれど、確かに共通点は多いんだけれど、やぱかなり違うんですよ。

なので専門外なので全然知らないんですけれど、、、

アメリカ大陸のフィールドなので学会は同じなんです。



学部3年かな?

初めて東京に出てきて学会参加した時に、どこかの学部生の人に出会って、「実は古代アマゾン文明に興味あるんです!」って言われたのを覚えてます。



20年前くらいの話ですからね。

今みたいにスマホでネット検索なんて時代でもないし、何も知らなかった私は、あくまで心の中で、

「マジか?やばいやつじゃん。ここ、オカルト学会じゃないんだぜ?」って思ったことを記憶しております( -д-)ノ


(顔も名前も記憶していないけれど、もし南米研究で残っているならばごめんなさいって謝っておきますヽ(TдT)ノ)




言い訳をすると、当時はアマゾン文明なんてあるかどうかよく分かってないレベルだった気がするんですけどねぇ。

まぁ現在の国家形成をひとつのテーマに設定する研究者としては、、、



どうだろうね?

まず植民地期初期の記録として大きなコミュニティがアマゾン川周辺にたくさんあったことが歴史記録として残っているそうです。


それぞれのコミュニティは河川を交通網として利用していた他、陸路も繋いでいたようでかなり発展していた様相が伺えます。



では先コロンブス期は?というと、

先に書いたように、1000BCE-1000CEにやはり大きなコミュニティがアマゾン川周辺に複数あったことが確認されています。



ただ、それは文明だろうか?ってことですよね。




中米の亜熱帯ジャングルは大木に覆われているけれど、地面近くは比較的スカスカなんですよ。

でもアマゾンの熱帯雨林は地面下部までもっさりで真っ暗なガチジャングルですよね。




中米と類似して暑くて湿度も高いので微生物の活動が活発で土壌が堆積しづらい環境なのかなって思います、

それだと遺構が残りづらいのです。

こうした状況では浅い地点にある小さな遺構は植物の根で壊されてしまうのです。



よって都市レベルのコミュニティがかつてあったとしても、都市の規模を推定するための遺構が確認しづらいですね。

となると、やはり残存しやすい石造の巨大な公共記念物があればいいわけですが、たぶん見つかってないんでないかなと思います。

見つかってたら有名になってそうですからね( -д-)ノ





考古学的な初期国家の定義を数理的に示すことが一つの私の研究の目標であり、物質文化における変化は常に連続的なので、

現状では、『スパッ!!!と、ここから国家!』って言いづらいのですが、

まぁアマゾン文明(?)はネーミングとして一般受け良さそうですけれど、文明ではない気がしますし、そうだったとしても多くの考古学者が認める国家の称号を得るには時間がかかりそうです(*^・ェ・)ノ



まぁあれだけのジャングルだと、踏査も大変だから遺跡発見がそもそも大変だし、あれだけ鬱蒼としてると流行りのLiDARも使えなさそうですからね(ρ゚∩゚) グスン



まぁでも、

何はともあれ、

ロマンはあるね!( ・Д・)



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2023ねん 5がつ 8にち(げつよーび、曇り)

今年度はめっちゃ頑張るよ!(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースはクジラの絵が描かれた弥生土器が発見されたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は福岡県、糸島市の深江城崎(ふかえじょうざき)遺跡です!

糸島と言えば、みんな大好き「邪馬台国論争」で出てくるやつですね。

魏志倭人伝に記された伊都国があったのが糸島周辺だったとされています。

「いとこく」の名が「いとじま」の地名として残ったとする解釈から来てるものです。

これってどれだけ信憑性のあるものなのか謎だなと昔から秘かに思っているのですが、まぁきっと専門にやってる人からしたら”当然そう”なのだろうと誰にも聞けずにいます( -д-)ノ




さて、今回はこの深江城崎遺跡から弥生時代に帰属する土器が出土し、その器面に「クジラ」が刻まれていたというお話です。





出土した土器は高さ60cmの壺です。

壺のくびれ部を頸部(けいぶ)と呼びますが、そのあと器の形としては膨らみますよね?

その部分を肩部(けんぶ)と言います。




今回のクジラはその肩部に描かれていました。

日本考古学だと正確にはなんて言うのか分からないのですが(申し訳ない!)、たぶん大きく分けると沈線文として扱われるはず!

アメリカ考古学ないしマヤ考古学では大枠がないので、刻線文(incision)になりますね。

画像サイズが小さいものしか見つからなかったので見にくいですが、ちょっと「ガリガリ削った感じ」がしません?




器面が柔らかい状態で施文したのか、乾燥してから施文したのかで分類しているのです。

乾燥した状態でゴリゴリ削ると刻線文です。




このクジラは全長8cmで尾びれまで描かれています。

胴体の左右には6本のラインが伸びていますが、これは恐らく「モリ(銛)」を表現したもので、つまりは弥生時代における捕鯨を表現したものと考えられます。





これまでに見つかった同様の事例は、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡での1例のみなので今回の発見は2例目というとってもレアな発見なのです。

恐らく湾や浜辺近くに迷い込んだクジラを狩猟したのでしょうが、大量の肉や油を提供してくれるクジラはまさに豊穣の象徴だったのでしょう。

きっとこの壺にクジラに対する畏敬の念や豊穣に対する祈りを込めて描いたのだと思われます。





クジラの脳油は古代から利用されていたようですがそのお話はまた別の機会に!

あと、現在でも漂着したクジラの死骸はこの油のため危険なのでむやみに近づくことを禁止されていますのでご注意を!( -д-)ノ





↑良かったら応援してね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


おわりに

弥生時代後期から古墳時代初頭に出現する”謎”の「手焙形(てあぶりがた)土器」というのがあるのですが、、、

クジラの脳油と関係していると考える研究者もいるようですね。

ちょっと調べてみて今度記事にしてみます。




手焙形土器自体が形態も変だし、時期も限定されてるし、何に使われたのか謎だし、面白い題材なのです。

形態が特徴的だから記事を読んで知識を得てもらえば、博物館で実際のモノを見つけた時にはきっともっと楽しめるはずです。

ということでその内ちゃんと取り組みますね(*^・ェ・)ノ



何はともあれ、

クラファン応援して!( ・Д・)



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2023ねん 4がつ 14にち(きんよーび、曇り)

みんな、私は元気だぜ!v( ̄∇ ̄)v

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今回の考古学・歴史ニュースは金箔で覆われたミイラより、なんか気になる写真見つけた!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はエジプト、サッカラです。

サッカラはよく聞く名前ですよね、インディジョーンズを始めとして冒険ものでエジプトのシーンがある時は大体サッカラが出てくる気がします。

気のせいかも知れませんが、まぁそんなサッカラは首都カイロの南郊にあります。




今回の記事はエジプト考古学庁が展示のために出し渋っているのか写真がないんですよね。

発見したお墓や出土品の写真はあるのに肝心のミイラの写真がない……

掲載されていた痕跡もあるけれどそれだけ非表示になっているので、止められたのかな~と思ったり。

記事の最後に「しかし、エジプト政府は観光客を増やすため、学術的な研究よりもメディア受けするような発見を優先しているとの批判もある」なんて書いてるしね。

まぁこれについては「おわりに」で触れます。




ということでなるべく写真を多用しようと頑張っている当サイトですが、ないものはないので今回はご了承ください。

最初に挙げた写真は関係ない写真だけれども、金箔で覆われたマスクなんですよね。




「金箔で覆われた」なんて書かれたら気になるけれど、よくよく考えたら、あれだけ黄金製品が出るエジプトでは対して目玉にならん気がするのだが気のせいだろうか……( -д-)ノ

ただ今回の発見があった墓は4300年前のもので、ファラオなど王族以外の墓としては最古かつ完璧な状態のものとしてレアな発見なのです。

未盗掘だったので保存状態が極めて良好だったようです。

盗掘されていたらミイラごと持っていかれてそうですもんね( -д-)ノ




さてさて、とりあえず私が一番気になった写真をどうぞ!





これって一般の人が見たらたぶん何の違和感も感じない写真だと思います。

ちなみにキャプションは「サッカラでの新発見発表後、発掘したものを修復する考古学者」です。





エジプト考古学のことは知らないけれど、、、

修復作業を現場でやるの!?(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

そんなことある?

なんで???

ラボが遠いの?





写真だと小さくてよく見えないけれど、黄色の箱やチューブみたいなものが瞬間接着剤的なものに見えるけれど、、、

砂埃とか大丈夫なんでしょうか。

ってか洗浄具が周りにないけれど、土に埋まっていたわけじゃないから埃を払う程度なのかも知れないけれど、、、本当にそれでいいの?

土に埋まってないから土圧などで歪んでないから接合も楽ちんなんだろうけれど、ラボに帰ってからやればいいのにと思ってしまいます。




そんな大々的に発表するほど重要な墓から出た副葬品でしょ?

きっちり落ち着いて修復した方が展示映えもするだろうに……そう思ってしまうのは専門地域が異なるせいなのでしょうかね( ・Д・)

誰か理由を知っている方がいたら是非教えてくださいね!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ




↓ガンガンに宣伝していくぜ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

↑研究がんばるから支援よろしく!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!


おわりに

メディア受けする調査を優先するのは世界各地でまぁ見られる現象です。

トレジャーハンターというか「許可書持ちの盗掘者」はどこにでもいます。

マヤ地域でもそういう考古学者がいますし、そういう日本人考古学者もいます。

彼らの見分け方は簡単!




論文書かない、報告書出さない、一般誌・一般書は書く、メディアに露出する。

こんなもんかな。




まぁ露出しててもしっかり研究者してる人も中にはいるようですけどね(*^・ェ・)ノ




確かに傍から見てると、そもそもエジプト考古学自体が、学術系そのものが発見至上主義に浸かってる気がしますけどね。

エジプトってあれだけ保存状態も質も良い考古遺物が大量に出て、たくさんの碑文資料もあって、周辺地域の文献史料もあってと、たぶん世界で一番データが豊富な地域だと思うんですよ。

でも世界の考古学を牽引している気がしない。




新たな考古学理論が誕生しても良さそうだけれど、何もないよね。

というかこれまでも一度もない。




私が知らないだけかな。

周りにエジプト考古学の人いないから、適当にエジプト考古学発の理論系論文を探してみるかな(*・ω・)ノ



もしかしたらデータがあり過ぎるせいで、文献史学的な世界に突入しているのかも知れませんね。

そういう可能性もある!





考古学にとって発掘調査が実験なわけで、かつ発掘調査は有限の一回性の実験なのだから、理論もなく掘りまくると間違いなく将来困りますよ。

証明も反証もできなくなる。


博物館のための、観光収入のための考古学。

どうやらエジプト考古学者は半世紀以上前の時代を生きているようですね( ・Д・)





まぁいいや、

何はともあれ、

私の研究が世界で一番!( ・Д・)



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2022ねん 12がつ 31にち(どよーび、晴れ)

もう今年最後だね!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「木製の埴輪ってあるんだね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今の所属の関係もあり、元々国家形成研究の一環としてマヤ文明社会と古墳時代社会の比較をやってみたかったということもあり、ちょちょちょっと古墳の勉強してましたけど、、、

木製の埴輪ってあるんですね!?




知りませんでした( -д-)ノ


まぁ木製品にあまり興味ないもので、、、マヤってほぼ木製品出ないしね( ・Д・)




……話を戻すと、やはり埴輪って土製のイメージですよね。

古墳時代には石製品で様々なものの模造品とか作ってるから、木製で埴輪作っててもおかしくはないとは思うのだけれども、

埴輪って古墳の上に並べて使用するイメージもありますよね。




だとすると、これまでの記事でも紹介してきたようにレアな遺物が残存する条件はかなり狭くて、日本の木製品の事例だと大体が水分が供給され続けて酸素の供給が滞ってる場所なんですけど、

古墳のような墳丘上の所で絶えず水分が供給されるところなんてイメージ湧かないじゃないですか。

もし古墳が滝に打たれてたら別だけど!( ・Д・)




だから木製の埴輪があっても残存しないだろうな〜って思ってたら、あるんですね!Σ(・ω・ノ)ノ

世の中知らないことで一杯ですわ(*^・ェ・)ノ



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ってことで、今回の舞台は大阪府、羽曳野(はびきの)市にある峯ケ塚古墳です。



近年、世界遺産に登録されたことで有名な百舌鳥・古市古墳群はご存知の方も多いかと思います思います。

2019年の登録ですから本当に最近の話です。

今回紹介する峯ケ塚古墳はこの百舌鳥・古市古墳群を構成する古墳の一つなのです。

見つかったのは木製埴輪で長さは352cmと日本最大の記録をおよそ90cmも更新しました。



さて、最初に挙げた写真は真上から撮影したもので、考古学的にはそのような写真がベストですね。

さすがは市教委が撮影したものです。

一般的にはサイズ感が分かりにくいですが、専門としては周りに開いているサブトレンチの形状から大体の予想がつきます。

恐らくは別撮りでスケール入りのバージョンも撮影しているはずです。



続く2枚目の写真では人間がスケールの代わりを果たしているのですが、斜めから撮影しているのでせっかくの日本最大サイズの遺物が小さく見えますよね。

まぁこれも遺物の隣にスタッフ(長い定規みたいなもの)が置いてあるので3mちょいの長さがあることは確認できます。


3番目の写真は人間がイイ感じのスケール感を出しているのでデカいってことを知る上で一般的にはこれが一番良いのかなと思います。


こう見てみると、現場写真って先入観に囚われず色々撮った方が良いようですね(*^・ェ・)ノ









さて、今回のレアな遺物の出土地点は周濠です。

先に述べたように木製品の残存には水分が必要なことが多いですが、これで納得です。

完全に濠(ほり)の存在を忘れていました( -д-)ノ



出てきた木製埴輪の形状はやや分かりにくいのですが、上に挙げたような石見型木製品(いわみがた)です。

2枚目のものは類似形状の土製埴輪の事例です。




記事を見つけた時は本当に木製埴輪ってなんぞ?って思いましたが、写真探してて、ふと、あ、これ見たことあるやつだ!ってなりました。

皆さんも知ってたやつでした?



この「石見型」の資料は権力者の玉杖を模したものとか、儀礼の際に使う杖や武器、旗を模したものと色々な解釈がなされています。

また神聖な場を区切るための結界の意味があったとも言われています。



今回のケースでは、峰ケ塚古墳の北部に祭祀の場と考えられる造り出しがあり、その周辺の周濠から石見型木製品が出土したことから、本来は造り出し部に立てられていたものかも知れません。

造り出し部の調査や、今後こうした事例が増えていく中で、石見型木製品あるいはこうした形状の遺物の役割が明らかになるかも知れませんね。






おわりに

なんだかんだ今年も終わりますね~。

今年も古墳時代とか日本の研究や勉強する時間をあまり取れなかったけども、来年は少しはなんとかしたいですね。

まぁ来年は来年で、マヤ関係の欧米研究史をガガガっとまとめにゃならんのですが、、、

記事に少し力入れつつ最低限情報収集をするよう努めますね( -д-)ノ



そんなこんなで皆様も良いお年をお過ごし&お迎えください。


良いお年を!( ・Д・)



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2022ねん 12がつ 3にち(どよーび、曇り、寒い)

他の考古学者に勧められてカルチャーセンターの講師に応募してみた!どこかで合おう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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今回の考古学・歴史ニュースは日本のポンペイは他にもあるよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は群馬県、渋川市金井の金井平氏裏遺跡です。

この遺跡は榛名山の北東部の麓に位置しています。

榛名山は古墳時代の後期に当たる6世紀頃に2度噴火しており、当該遺跡を含めて広い地域が火山灰などの多量の降下火砕物によって覆われました。

そのため周辺には他にも黒井峰遺跡、白井遺跡群などの火山災害を示す遺跡があります。




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↑これが激レア遺物です、「骨の鎧」Σ(・ω・ノ)ノ(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)



イタリアのポンペイ遺跡で状態の良い様々な遺物・遺構が見つかっているように、日本のポンペイこと、ここ金井平氏裏遺跡でも多数の素晴らしい遺物が出土しています。

隣接する金井下新田遺跡では鍛冶工房が見つかっており、そのためか金井平氏裏遺跡では多数の金属製の遺物、写真に挙げたような鎧や兜が見つかっています。

ちなみにRPGゲームでは鎧・兜と書くけれども、この時代・地域のそれらは甲・冑と書きます。

甲冑(かっちゅう)のそれですね。



一番最初に挙げた甲は1800枚もの鉄製小札(こざね)を絹糸で連結したもので、当時の”武器屋”では「最強の鎧」だったことでしょう。

上に挙げた白っぽい甲は実は動物骨で作られたもので国内初の発見事例です。

まさに「骨の鎧」なわけですねヾ(´ω`=´ω`)ノ



ちなみにこれらの甲の数え方は領(りょう)です。


*あとRPGに例えて一般向けに書いている時が鎧・兜表示で、考古学として書いてる時が甲・冑表示なんですけど分かりにくくてごめんなさい( -д-)ノ




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↑これが赤玉(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)




鉄製の鉾や鏃の他、馬も見つかっています。

当時、馬は飼育も大変でとても貴重なものでした。



様々なレアな発見がある遺跡ですが、上に挙げた甲を着た武人がうつ伏せになって発見された点が他に類を見ない事例だと思います。

被災されて亡くなったようですねヽ(TдT)ノ




上に挙げた赤玉は赤色顔料を丸めて団子状にしたもので100点ほど見つかっています。

当時の高級品が一堂に介した状況ですが、噴火によりパッキングされないと消費されてしまうのでこうした当時の具体的な生活の様子は分からないわけです。

災害の被害を受けたことは悲しいことですが、考古学者として感謝して余すところなくきちっとデータ化して活用する&皆さんに公開することが供養になるのかも知れませんね。



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↑これ古墳時代の人の足跡!(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)



おわりに

この遺跡、古代人の足跡まで出てるんですよね。

本当に色々出る。



ちなみに住居址も複数見つかっていて、それぞれのおうちの中に遺物が残されていました。

被災して慌てて逃げてますから当然でしょう。

そうした状態のそれぞれの遺物の配置をデータ化して、当時の一般的な”間取り”というか生活空間の利用方法の特徴について分析した研究などがあります。

事例自体は少ないので考古学としては扱いにくいことが難点ですが、火山大国でもある日本では今後こうした良好なデータを得られる遺跡、『日本のポンペイ』が多数見つかる可能性が十分にあると思います。



今後に期待ですね。

ということで、


・・・私もレアな発見したい!( ・Д・)



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2022ねん 6がつ 18にち(どよーび、晴れ)

何度でも言おう、スマホ割れた。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン

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今回の考古学・歴史ニュースは「こんなもん残る!?糸玉が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は徳島県、徳島市、南蔵本遺跡です。


サムネ画として上に挙げた写真があまりにインパクトつよつよですよね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



時期は弥生時代前期!

長軸6.2cm、短軸4.5cmの大きさです。

見た目通り、保存状態は非常に良好です。

糸を巻き巻きしてまとめている感じがそのまま残っています。




これまでにも「まだ食べれるよ!シリーズ」とかやってきましたけど、これはまだ編み編みできるよ!って遺物です。

実際には用途は分かっていません。

現代的なイメージで、セーターを編むための糸玉ではなかったようです。

というのも、この糸玉は漆で固められているので、装飾品として機能した可能性が指摘されています。
 


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上に挙げたように、実際には小片もいくつか見つかっています。

問題は出土地点なのですが、「畑」です。




日本では「古代人の脳みそ」や「クワガタ」とかレアな発見も結構見られるわけですが、こうしたレアな発見を支えているのは「水分」です。

水場付近は絶え間なく水分が供給されるので無酸素状態が維持されて分解が進まないことがあります。

最近流行りの水中考古学で古い船舶が海底に残っているのはこのためです。




弥生時代は水耕や水の儀礼も盛んなためにこうしたレアな発見が多々見られるのですが、今回は畑(通常比較的乾燥している)なので様相が少し異なります。



1点目は湿度!

この南蔵本遺跡の出土地点は湿度が高く、乾燥するタイミングがなかったのです。

湿潤・乾燥の繰り返しでモノは分解されていくのです(*^・ェ・)ノ




2点目に漆!

縄文時代や古墳時代、それ以降も含めてですが、漆が塗られていると有機質の遺物も残り易いのですヾ(´ω`=´ω`)ノ



このような条件が整って始めて残存した超レアな今回のケース、弥生時代の糸玉は史上初の発見となったわけです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑縄文時代の糸玉①(「東北歴史博物館」のHP画像より転載)



さて、史上初の発見と書きましたが、これはあくまで「弥生時代の糸玉として」です!

より古い時期である縄文時代ではなんと、すでに12例も見つかっているのです。





上に挙げたのは新潟県、青田遺跡の出土資料です。

この遺跡はレアな発見が多い所謂「低湿地遺跡」で水場遺構も見つかっているのです。


そんなタイムカプセルような素晴らしい埋没環境で、かつ漆でコーティングされているため、しっかりと残存しています。




下の写真の出土情報は不明ですが、どうやら縄文時代の糸玉の出土事例は全て漆コーティングによるもののようです。

つまり「水分+漆」の組み合わせが考古学における奇跡的な発見を生み出しているといっても良いでしょう、知らんけど( -д-)ノ



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↑縄文時代の糸玉②(「日本古来の「麻」手しごと暮らし日記」)







おわりに

色んな記事見てると、特に新聞会社の記事って考古学・歴史担当の記者がいるようですね。

みんな思い思いに写真を撮るのですが、見栄えをよくするためか「斜めから撮影する」ことがほとんどです。

私は記事を眺めながら、この写真はダメ、この写真はまぁヨシ、とか勝手に評価して遊んでるんですけど、今回最も良かった写真は上に挙げた徳島新聞の写真です。





おめでとうございます(!?( ・Д・))




ガッツリ斜めから撮ってる感じがアウトなのですが、唯一スケール入ってるところが評価点です(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?



多分考古学やってない人ばかりなのでしょうが、接写に慣れてないのかピンボケばかりなんですよね。

何様ですが、プロなのだから被写体深度くらい上げて撮って欲しいものですねとか思ったり(´・ω・`)




何はともあれ、レアな発見はテンション上がるね!

うるし最強!( ・Д・)



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