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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:レアな発見

2023ねん 5がつ 8にち(げつよーび、曇り)

今年度はめっちゃ頑張るよ!(・∀・)つ

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今回の考古学・歴史ニュースはクジラの絵が描かれた弥生土器が発見されたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は福岡県、糸島市の深江城崎(ふかえじょうざき)遺跡です!

糸島と言えば、みんな大好き「邪馬台国論争」で出てくるやつですね。

魏志倭人伝に記された伊都国があったのが糸島周辺だったとされています。

「いとこく」の名が「いとじま」の地名として残ったとする解釈から来てるものです。

これってどれだけ信憑性のあるものなのか謎だなと昔から秘かに思っているのですが、まぁきっと専門にやってる人からしたら”当然そう”なのだろうと誰にも聞けずにいます( -д-)ノ




さて、今回はこの深江城崎遺跡から弥生時代に帰属する土器が出土し、その器面に「クジラ」が刻まれていたというお話です。





出土した土器は高さ60cmの壺です。

壺のくびれ部を頸部(けいぶ)と呼びますが、そのあと器の形としては膨らみますよね?

その部分を肩部(けんぶ)と言います。




今回のクジラはその肩部に描かれていました。

日本考古学だと正確にはなんて言うのか分からないのですが(申し訳ない!)、たぶん大きく分けると沈線文として扱われるはず!

アメリカ考古学ないしマヤ考古学では大枠がないので、刻線文(incision)になりますね。

画像サイズが小さいものしか見つからなかったので見にくいですが、ちょっと「ガリガリ削った感じ」がしません?




器面が柔らかい状態で施文したのか、乾燥してから施文したのかで分類しているのです。

乾燥した状態でゴリゴリ削ると刻線文です。




このクジラは全長8cmで尾びれまで描かれています。

胴体の左右には6本のラインが伸びていますが、これは恐らく「モリ(銛)」を表現したもので、つまりは弥生時代における捕鯨を表現したものと考えられます。





これまでに見つかった同様の事例は、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡での1例のみなので今回の発見は2例目というとってもレアな発見なのです。

恐らく湾や浜辺近くに迷い込んだクジラを狩猟したのでしょうが、大量の肉や油を提供してくれるクジラはまさに豊穣の象徴だったのでしょう。

きっとこの壺にクジラに対する畏敬の念や豊穣に対する祈りを込めて描いたのだと思われます。





クジラの脳油は古代から利用されていたようですがそのお話はまた別の機会に!

あと、現在でも漂着したクジラの死骸はこの油のため危険なのでむやみに近づくことを禁止されていますのでご注意を!( -д-)ノ





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おわりに

弥生時代後期から古墳時代初頭に出現する”謎”の「手焙形(てあぶりがた)土器」というのがあるのですが、、、

クジラの脳油と関係していると考える研究者もいるようですね。

ちょっと調べてみて今度記事にしてみます。




手焙形土器自体が形態も変だし、時期も限定されてるし、何に使われたのか謎だし、面白い題材なのです。

形態が特徴的だから記事を読んで知識を得てもらえば、博物館で実際のモノを見つけた時にはきっともっと楽しめるはずです。

ということでその内ちゃんと取り組みますね(*^・ェ・)ノ



何はともあれ、

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2023ねん 4がつ 14にち(きんよーび、曇り)

みんな、私は元気だぜ!v( ̄∇ ̄)v

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今回の考古学・歴史ニュースは金箔で覆われたミイラより、なんか気になる写真見つけた!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はエジプト、サッカラです。

サッカラはよく聞く名前ですよね、インディジョーンズを始めとして冒険ものでエジプトのシーンがある時は大体サッカラが出てくる気がします。

気のせいかも知れませんが、まぁそんなサッカラは首都カイロの南郊にあります。




今回の記事はエジプト考古学庁が展示のために出し渋っているのか写真がないんですよね。

発見したお墓や出土品の写真はあるのに肝心のミイラの写真がない……

掲載されていた痕跡もあるけれどそれだけ非表示になっているので、止められたのかな~と思ったり。

記事の最後に「しかし、エジプト政府は観光客を増やすため、学術的な研究よりもメディア受けするような発見を優先しているとの批判もある」なんて書いてるしね。

まぁこれについては「おわりに」で触れます。




ということでなるべく写真を多用しようと頑張っている当サイトですが、ないものはないので今回はご了承ください。

最初に挙げた写真は関係ない写真だけれども、金箔で覆われたマスクなんですよね。




「金箔で覆われた」なんて書かれたら気になるけれど、よくよく考えたら、あれだけ黄金製品が出るエジプトでは対して目玉にならん気がするのだが気のせいだろうか……( -д-)ノ

ただ今回の発見があった墓は4300年前のもので、ファラオなど王族以外の墓としては最古かつ完璧な状態のものとしてレアな発見なのです。

未盗掘だったので保存状態が極めて良好だったようです。

盗掘されていたらミイラごと持っていかれてそうですもんね( -д-)ノ




さてさて、とりあえず私が一番気になった写真をどうぞ!





これって一般の人が見たらたぶん何の違和感も感じない写真だと思います。

ちなみにキャプションは「サッカラでの新発見発表後、発掘したものを修復する考古学者」です。





エジプト考古学のことは知らないけれど、、、

修復作業を現場でやるの!?(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

そんなことある?

なんで???

ラボが遠いの?





写真だと小さくてよく見えないけれど、黄色の箱やチューブみたいなものが瞬間接着剤的なものに見えるけれど、、、

砂埃とか大丈夫なんでしょうか。

ってか洗浄具が周りにないけれど、土に埋まっていたわけじゃないから埃を払う程度なのかも知れないけれど、、、本当にそれでいいの?

土に埋まってないから土圧などで歪んでないから接合も楽ちんなんだろうけれど、ラボに帰ってからやればいいのにと思ってしまいます。




そんな大々的に発表するほど重要な墓から出た副葬品でしょ?

きっちり落ち着いて修復した方が展示映えもするだろうに……そう思ってしまうのは専門地域が異なるせいなのでしょうかね( ・Д・)

誰か理由を知っている方がいたら是非教えてくださいね!ヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ




↓ガンガンに宣伝していくぜ!ヾ(´ω`=´ω`)ノ

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おわりに

メディア受けする調査を優先するのは世界各地でまぁ見られる現象です。

トレジャーハンターというか「許可書持ちの盗掘者」はどこにでもいます。

マヤ地域でもそういう考古学者がいますし、そういう日本人考古学者もいます。

彼らの見分け方は簡単!




論文書かない、報告書出さない、一般誌・一般書は書く、メディアに露出する。

こんなもんかな。




まぁ露出しててもしっかり研究者してる人も中にはいるようですけどね(*^・ェ・)ノ




確かに傍から見てると、そもそもエジプト考古学自体が、学術系そのものが発見至上主義に浸かってる気がしますけどね。

エジプトってあれだけ保存状態も質も良い考古遺物が大量に出て、たくさんの碑文資料もあって、周辺地域の文献史料もあってと、たぶん世界で一番データが豊富な地域だと思うんですよ。

でも世界の考古学を牽引している気がしない。




新たな考古学理論が誕生しても良さそうだけれど、何もないよね。

というかこれまでも一度もない。




私が知らないだけかな。

周りにエジプト考古学の人いないから、適当にエジプト考古学発の理論系論文を探してみるかな(*・ω・)ノ



もしかしたらデータがあり過ぎるせいで、文献史学的な世界に突入しているのかも知れませんね。

そういう可能性もある!





考古学にとって発掘調査が実験なわけで、かつ発掘調査は有限の一回性の実験なのだから、理論もなく掘りまくると間違いなく将来困りますよ。

証明も反証もできなくなる。


博物館のための、観光収入のための考古学。

どうやらエジプト考古学者は半世紀以上前の時代を生きているようですね( ・Д・)





まぁいいや、

何はともあれ、

私の研究が世界で一番!( ・Д・)



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2022ねん 12がつ 31にち(どよーび、晴れ)

もう今年最後だね!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「木製の埴輪ってあるんだね!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


今の所属の関係もあり、元々国家形成研究の一環としてマヤ文明社会と古墳時代社会の比較をやってみたかったということもあり、ちょちょちょっと古墳の勉強してましたけど、、、

木製の埴輪ってあるんですね!?




知りませんでした( -д-)ノ


まぁ木製品にあまり興味ないもので、、、マヤってほぼ木製品出ないしね( ・Д・)




……話を戻すと、やはり埴輪って土製のイメージですよね。

古墳時代には石製品で様々なものの模造品とか作ってるから、木製で埴輪作っててもおかしくはないとは思うのだけれども、

埴輪って古墳の上に並べて使用するイメージもありますよね。




だとすると、これまでの記事でも紹介してきたようにレアな遺物が残存する条件はかなり狭くて、日本の木製品の事例だと大体が水分が供給され続けて酸素の供給が滞ってる場所なんですけど、

古墳のような墳丘上の所で絶えず水分が供給されるところなんてイメージ湧かないじゃないですか。

もし古墳が滝に打たれてたら別だけど!( ・Д・)




だから木製の埴輪があっても残存しないだろうな〜って思ってたら、あるんですね!Σ(・ω・ノ)ノ

世の中知らないことで一杯ですわ(*^・ェ・)ノ



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ってことで、今回の舞台は大阪府、羽曳野(はびきの)市にある峯ケ塚古墳です。



近年、世界遺産に登録されたことで有名な百舌鳥・古市古墳群はご存知の方も多いかと思います思います。

2019年の登録ですから本当に最近の話です。

今回紹介する峯ケ塚古墳はこの百舌鳥・古市古墳群を構成する古墳の一つなのです。

見つかったのは木製埴輪で長さは352cmと日本最大の記録をおよそ90cmも更新しました。



さて、最初に挙げた写真は真上から撮影したもので、考古学的にはそのような写真がベストですね。

さすがは市教委が撮影したものです。

一般的にはサイズ感が分かりにくいですが、専門としては周りに開いているサブトレンチの形状から大体の予想がつきます。

恐らくは別撮りでスケール入りのバージョンも撮影しているはずです。



続く2枚目の写真では人間がスケールの代わりを果たしているのですが、斜めから撮影しているのでせっかくの日本最大サイズの遺物が小さく見えますよね。

まぁこれも遺物の隣にスタッフ(長い定規みたいなもの)が置いてあるので3mちょいの長さがあることは確認できます。


3番目の写真は人間がイイ感じのスケール感を出しているのでデカいってことを知る上で一般的にはこれが一番良いのかなと思います。


こう見てみると、現場写真って先入観に囚われず色々撮った方が良いようですね(*^・ェ・)ノ









さて、今回のレアな遺物の出土地点は周濠です。

先に述べたように木製品の残存には水分が必要なことが多いですが、これで納得です。

完全に濠(ほり)の存在を忘れていました( -д-)ノ



出てきた木製埴輪の形状はやや分かりにくいのですが、上に挙げたような石見型木製品(いわみがた)です。

2枚目のものは類似形状の土製埴輪の事例です。




記事を見つけた時は本当に木製埴輪ってなんぞ?って思いましたが、写真探してて、ふと、あ、これ見たことあるやつだ!ってなりました。

皆さんも知ってたやつでした?



この「石見型」の資料は権力者の玉杖を模したものとか、儀礼の際に使う杖や武器、旗を模したものと色々な解釈がなされています。

また神聖な場を区切るための結界の意味があったとも言われています。



今回のケースでは、峰ケ塚古墳の北部に祭祀の場と考えられる造り出しがあり、その周辺の周濠から石見型木製品が出土したことから、本来は造り出し部に立てられていたものかも知れません。

造り出し部の調査や、今後こうした事例が増えていく中で、石見型木製品あるいはこうした形状の遺物の役割が明らかになるかも知れませんね。






おわりに

なんだかんだ今年も終わりますね~。

今年も古墳時代とか日本の研究や勉強する時間をあまり取れなかったけども、来年は少しはなんとかしたいですね。

まぁ来年は来年で、マヤ関係の欧米研究史をガガガっとまとめにゃならんのですが、、、

記事に少し力入れつつ最低限情報収集をするよう努めますね( -д-)ノ



そんなこんなで皆様も良いお年をお過ごし&お迎えください。


良いお年を!( ・Д・)



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2022ねん 12がつ 3にち(どよーび、曇り、寒い)

他の考古学者に勧められてカルチャーセンターの講師に応募してみた!どこかで合おう!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

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今回の考古学・歴史ニュースは日本のポンペイは他にもあるよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は群馬県、渋川市金井の金井平氏裏遺跡です。

この遺跡は榛名山の北東部の麓に位置しています。

榛名山は古墳時代の後期に当たる6世紀頃に2度噴火しており、当該遺跡を含めて広い地域が火山灰などの多量の降下火砕物によって覆われました。

そのため周辺には他にも黒井峰遺跡、白井遺跡群などの火山災害を示す遺跡があります。




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↑これが激レア遺物です、「骨の鎧」Σ(・ω・ノ)ノ(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)



イタリアのポンペイ遺跡で状態の良い様々な遺物・遺構が見つかっているように、日本のポンペイこと、ここ金井平氏裏遺跡でも多数の素晴らしい遺物が出土しています。

隣接する金井下新田遺跡では鍛冶工房が見つかっており、そのためか金井平氏裏遺跡では多数の金属製の遺物、写真に挙げたような鎧や兜が見つかっています。

ちなみにRPGゲームでは鎧・兜と書くけれども、この時代・地域のそれらは甲・冑と書きます。

甲冑(かっちゅう)のそれですね。



一番最初に挙げた甲は1800枚もの鉄製小札(こざね)を絹糸で連結したもので、当時の”武器屋”では「最強の鎧」だったことでしょう。

上に挙げた白っぽい甲は実は動物骨で作られたもので国内初の発見事例です。

まさに「骨の鎧」なわけですねヾ(´ω`=´ω`)ノ



ちなみにこれらの甲の数え方は領(りょう)です。


*あとRPGに例えて一般向けに書いている時が鎧・兜表示で、考古学として書いてる時が甲・冑表示なんですけど分かりにくくてごめんなさい( -д-)ノ




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↑これが赤玉(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)




鉄製の鉾や鏃の他、馬も見つかっています。

当時、馬は飼育も大変でとても貴重なものでした。



様々なレアな発見がある遺跡ですが、上に挙げた甲を着た武人がうつ伏せになって発見された点が他に類を見ない事例だと思います。

被災されて亡くなったようですねヽ(TдT)ノ




上に挙げた赤玉は赤色顔料を丸めて団子状にしたもので100点ほど見つかっています。

当時の高級品が一堂に介した状況ですが、噴火によりパッキングされないと消費されてしまうのでこうした当時の具体的な生活の様子は分からないわけです。

災害の被害を受けたことは悲しいことですが、考古学者として感謝して余すところなくきちっとデータ化して活用する&皆さんに公開することが供養になるのかも知れませんね。



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↑これ古墳時代の人の足跡!(群馬県埋蔵文化財調査事業団作成のパンフ画像より転載)



おわりに

この遺跡、古代人の足跡まで出てるんですよね。

本当に色々出る。



ちなみに住居址も複数見つかっていて、それぞれのおうちの中に遺物が残されていました。

被災して慌てて逃げてますから当然でしょう。

そうした状態のそれぞれの遺物の配置をデータ化して、当時の一般的な”間取り”というか生活空間の利用方法の特徴について分析した研究などがあります。

事例自体は少ないので考古学としては扱いにくいことが難点ですが、火山大国でもある日本では今後こうした良好なデータを得られる遺跡、『日本のポンペイ』が多数見つかる可能性が十分にあると思います。



今後に期待ですね。

ということで、


・・・私もレアな発見したい!( ・Д・)



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2022ねん 6がつ 18にち(どよーび、晴れ)

何度でも言おう、スマホ割れた。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン

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今回の考古学・歴史ニュースは「こんなもん残る!?糸玉が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は徳島県、徳島市、南蔵本遺跡です。


サムネ画として上に挙げた写真があまりにインパクトつよつよですよね!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



時期は弥生時代前期!

長軸6.2cm、短軸4.5cmの大きさです。

見た目通り、保存状態は非常に良好です。

糸を巻き巻きしてまとめている感じがそのまま残っています。




これまでにも「まだ食べれるよ!シリーズ」とかやってきましたけど、これはまだ編み編みできるよ!って遺物です。

実際には用途は分かっていません。

現代的なイメージで、セーターを編むための糸玉ではなかったようです。

というのも、この糸玉は漆で固められているので、装飾品として機能した可能性が指摘されています。
 


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上に挙げたように、実際には小片もいくつか見つかっています。

問題は出土地点なのですが、「畑」です。




日本では「古代人の脳みそ」や「クワガタ」とかレアな発見も結構見られるわけですが、こうしたレアな発見を支えているのは「水分」です。

水場付近は絶え間なく水分が供給されるので無酸素状態が維持されて分解が進まないことがあります。

最近流行りの水中考古学で古い船舶が海底に残っているのはこのためです。




弥生時代は水耕や水の儀礼も盛んなためにこうしたレアな発見が多々見られるのですが、今回は畑(通常比較的乾燥している)なので様相が少し異なります。



1点目は湿度!

この南蔵本遺跡の出土地点は湿度が高く、乾燥するタイミングがなかったのです。

湿潤・乾燥の繰り返しでモノは分解されていくのです(*^・ェ・)ノ




2点目に漆!

縄文時代や古墳時代、それ以降も含めてですが、漆が塗られていると有機質の遺物も残り易いのですヾ(´ω`=´ω`)ノ



このような条件が整って始めて残存した超レアな今回のケース、弥生時代の糸玉は史上初の発見となったわけです!(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!



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↑縄文時代の糸玉①(「東北歴史博物館」のHP画像より転載)



さて、史上初の発見と書きましたが、これはあくまで「弥生時代の糸玉として」です!

より古い時期である縄文時代ではなんと、すでに12例も見つかっているのです。





上に挙げたのは新潟県、青田遺跡の出土資料です。

この遺跡はレアな発見が多い所謂「低湿地遺跡」で水場遺構も見つかっているのです。


そんなタイムカプセルような素晴らしい埋没環境で、かつ漆でコーティングされているため、しっかりと残存しています。




下の写真の出土情報は不明ですが、どうやら縄文時代の糸玉の出土事例は全て漆コーティングによるもののようです。

つまり「水分+漆」の組み合わせが考古学における奇跡的な発見を生み出しているといっても良いでしょう、知らんけど( -д-)ノ



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↑縄文時代の糸玉②(「日本古来の「麻」手しごと暮らし日記」)







おわりに

色んな記事見てると、特に新聞会社の記事って考古学・歴史担当の記者がいるようですね。

みんな思い思いに写真を撮るのですが、見栄えをよくするためか「斜めから撮影する」ことがほとんどです。

私は記事を眺めながら、この写真はダメ、この写真はまぁヨシ、とか勝手に評価して遊んでるんですけど、今回最も良かった写真は上に挙げた徳島新聞の写真です。





おめでとうございます(!?( ・Д・))




ガッツリ斜めから撮ってる感じがアウトなのですが、唯一スケール入ってるところが評価点です(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?



多分考古学やってない人ばかりなのでしょうが、接写に慣れてないのかピンボケばかりなんですよね。

何様ですが、プロなのだから被写体深度くらい上げて撮って欲しいものですねとか思ったり(´・ω・`)




何はともあれ、レアな発見はテンション上がるね!

うるし最強!( ・Д・)



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2021ねん 10がつ 19にち(かよーび、ぷち雨)

考古学ネタがあり過ぎて困る!( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「縄文時代に焼かれた人骨が意図的に並べられて埋められてたよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は新潟県、阿賀野市、土橋遺跡です。

この土橋(つちはし)遺跡は今からおよそ4000年前の縄文時代後期の集落が見つかっている遺跡として知られています。

立地が良いのか、この遺跡からは弥生時代、古墳時代、中世の集落跡も見つかっています。




さて、この土橋遺跡から今回は「焼けた人骨が意図的に並び替えられた状態」で見つかりました。

この発見は「焼けた人骨」と「意図的に並び替えられた状態」という2点に分けて考えることが出来ます。


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まず「焼けた人骨」と言うと、「火葬」を想像してしまいますが、今回のものはそれとは異なります。

火葬と思われる最初の痕跡は2世紀の弥生時代後半に見られ、高い蓋然性をもって火葬と推定できる事例は6世紀になります。

文字記録に残る最古の事例は700年で、元興寺の開祖である道昭が火葬されました。

その後日本では仏教の影響により度々火葬が用いられますが、現在のように火葬が一般化するのは明治期以降なのでとても新しい習俗です。




私たちの感覚だと埋葬行為は一度きりですが、かつては「再葬」という儀礼行為が行われていました。

文字通り、一度埋葬した遺体(人骨)を取り出して儀礼を行い、再び埋葬します。




再葬の定義は2回以上なので2度とはかぎらない点がポイントです。

但し基本的には2度でしょうし、以下に述べるような奇跡的・理想的な好条件でない限り考古学的には何回再葬されたか判別できません。

例えば石棺や墓穴といった明確な遺構に人骨の一部が残っていて、別の明確な遺構に再葬された人骨がやはり一部残っていて、更に別の明確な遺構に再葬された人骨が残っていて、それぞれ副葬品として時期の異なる土器などの遺物を伴っている場合です。

これならば人骨の分析から同一個体であることが判明しますから、3度埋葬されたこと、つまり2度再葬されたと言えるでしょう。




再葬はおよそ5500年前の縄文時代中期頃に始まり、弥生時代にも続きます。

同時期に人骨を焼いて再葬する「焼人骨葬」が現れ、この風習も弥生時代に引き継がれます。

なので、今回の発見の一つである「焼けた人骨」というのは珍しい事例ではないのです( -д-)ノ





これまでに人骨集中遺構の写真を2枚挙げてきましたが、小型の遺構のため薬品で固めてズボっとそのまま回収しています。

先ほど「珍しい事例ではない」と書きつつも、実際にはレアな事例のため、こうした保存方法が選ばれたのだと思います。




さて、今回の発見の2点目が「意図的に人骨が並べられていること」なのですが、これがちょっと『黒魔術』っぽい方法が取られているのです( -д-)ノ

その方法とは、一度埋葬した骨をまず取り出して、大腿骨(足の骨)で井桁状に組み、その中に他の骨を入れます。

今回の事例では、上腕骨(腕の骨)と足の脛骨を用いて四角形に組み、その中に頭蓋骨や肋骨を入れています。

挙げた写真だと分かりにくいのですが、説明を聞くとなんだかおどろおどろしくありませんか?ヽ(TдT)ノ




このタイプの埋葬方法は『盤状集積葬』と呼ばれ、愛知県の三河湾域で多数見つかっているものです。

でも愛知県の三河湾周辺域に集中している上に、他の地域では見られません。

そして愛知県の事例では「骨は焼かない」のです。

つまり今回の土橋遺跡の事例がレアな理由は、、、

愛知県の中でも限定的な地域でしか見つからない埋葬方法が新潟県で見つかり、更にオリジナルの埋葬方法では見られない「焼人骨再葬」との組み合わせの方法が取られている点です。




現在の愛知県の三河湾周辺に居住した人が遥々新潟県に移り住み、それぞれの葬制が混じり合った結果なのでしょうかね?

今後の類例の発見に期待です(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!





おわりに

今回は写真の問題で『黒魔術』っぽいおどろおどろしさが伝わらなかったと思います。

黒魔術をイメージしたサムネ画像に名前負けしたような感じがしますヽ(TдT)ノ

なので、次回、リベンジします。

「日本にもこんなのあるんだ~!?」って驚かせるのを目標にしたいなと思います( -д-)ノ




そう言えば、グーグルアドセンスに不正なトラフィックがあるって言われて、現在、広告制限受けてるんですよね。

自分でクリックとかしないし、全然身に覚えないのに・・・

グーグル稼いでるくせに・・・

黒魔術かけるぞっ!( ・Д・)



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2021ねん 10がつ 10にち(にちよーび、晴れ)

おひさ!休んでた分のノルマとか諸々終わらんよ!ヽ(TдT)ノ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今回の考古学・歴史ニュースは古代マヤ遺跡で古代の宇宙人飛行士を模した人型土製品が見つかったよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はマヤ文明の中心地、グアテマラのペテン県です。

この前、ヒストリーチャンネルのアンケート懸賞で1000円のアマギフもらったので、今日は優しく書こうと思います(*^・ェ・)ノ←チョロイ

それでは速攻問題のブツを見てみましょう!


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↑なんとも可愛らしい宇宙人(・∀・)つ(出店不明だが「MUNAE」の図録と思われる)


どうですか、これ?

私はヒストリーチャンネルの「古代の宇宙人」はYoutubeで無料配信されてる分しか観ていないんです。

もしかすると現地イギリスでテレビ放送されてるものとか、有料シリーズの中で取り扱われているかも知れません。




少なくともYoutube版では出てこないんですが、これこそ「古代の宇宙人」ぽくないですか?

やけに可愛いけども!カワ(・∀・)イイ!!

でも、、、宇宙人かも知れないけど、「宇宙飛行士ではない」って思うかも知れませんね。

そんなあなたに次の写真(。・ω・)ノ゙




どうですか?

あの宇宙人みたいな頭部はヘルメットだったのですヾ(´ω`=´ω`)ノ

これだと宇宙飛行士っぽいでしょ?

・・・

・・・・・・まぁ問題は半裸なことですけどね!( ・Д・)







正体は何なのか?

さて、問題の可愛らしい遺物はグアテマラ北部、ペテン県に所在するエル・ペルー・ワカ遺跡で出土したものです。

ひと昔前は現地でエル・ペルーと呼んでいましたが、気付けばペルー・ワカって呼ぶようになっていました。

何でかは分かりません・・・今度の調査時に覚えてたら聞いてみますね( -д-)ノ




ところで私の専門でありながら訳書の関係で日本ではなかなか知られていないのが、CE378年にテオティワカンの軍隊がティカルを征服してしまったことです。

これにより当時のティカル王は死亡し、テオティワカン系の王様が擁立されます。

ここでは分かりやすく書いているので語弊もあるかも知れません。

またこれは飽くまで一つの解釈なのですが、現在マヤ学研究では有力視されていると思いますし、私も大方支持していますのでその解釈の方向でこの先書き続けます( -д-)ノ




さて、実はこのティカルへの「異邦人の到着」というイベントの僅か10日前に、テオティワカンの軍隊はエル・ペルー・ワカを征服しているのです。

そのためエル・ペルー・ワカ遺跡は王朝としてはテオティワカン系のマヤ都市国家ということになり、古典期を通してティカルを盟主とした同盟の一都市国家として存続します。


arukemaya1647




そんなエル・ペルー・ワカ遺跡は1960年代半ばに発見されましたが、当時はティカルなどの大遺跡に調査が集中していたこと、またその後、中小遺跡が対象となったことからなかなか発掘調査が行われませんでした。

2003年からアメリカのアリゾナ大学が主導する形で長期の発掘プロジェクトが開始されました。

近年の発掘ながら、相変わらず『イイところ』を狙って掘っていて、かなりの大発見が続きました。

今回の遺物は大型建造物(Str.O14-04)の内部にあった39号墓の副葬品のひとつであり、全部で23体の小像が見つかりました。




さて、本題の「宇宙人飛行士」の正体についてですが、上に挙げた他の小像を見て分かるように、古典期後期のハイナ島で特に有名な精巧なマヤ様式の小像です。

このお墓の時期もCE600-650と考えられていますので、時期的にもピッタリです。

なのでヘルメットを着脱できる「宇宙人飛行士」もこれまで明らかにし、構築してきたマヤ歴史観の中で回答せねばなりません。




転載元の記事には何故か「ドワーフ・ボクサー(Dwarf boxer)」って書かれていますけど、、、

マヤでは所謂「小人症」の人間を特別視し、重宝していました。

23体が映っている写真をよく見ると、中央の6体(+ミニチュア土器がある)は周りの人型小像より小さいですよね。

これが写実的なものなかは不明ですが、恐らく彼らが「ドワーフ(小人)」と表現しているのは、マヤの図像から見られる小人を特別視する文化と小像のサイズの違いを根拠にしていると思われます。




一方でボクサーなのは何故でしょう?



arukemaya1640
↑再掲


まぁ左手にグローブみたいな(ドラえもんの手みたいな)丸いものに覆われているので、これが現代のボクシンググローブように見えるということでしょう。

よく見ると中央の6体の中にはもう1体の「ボクサードワーフ」が見られるんですよね。

同じように、片手を突き出してもう一方の手を引っ込めるような『正拳突き』みたいな恰好になっていて、件の『宇宙人飛行士』と対になっているのが分かります。

このこともボクサーとする根拠なのでしょう。

彼らやけに「空手」とか好きだし(いきなり「アチョー!」とか言うし)、とりあえず『カラテカ・ドワーフ』とかになってなくて良かったかな( -д-)ノ





・・・まぁ小人ボクサーの図像を観たことがありませんが、あったのでしょうかね?

私としては所謂「球技者」に見えますけども、現代的に言うとサッカー選手!

これはマヤでは超有名なモチーフで壁画や土器文様など様々な場面で登場しますし、儀礼的な意味合いを有しますし、腰のベルト(防具)を象徴した石製ベルトも出土しています。

「宇宙人飛行士」の腰のベルトはそれだと思いますが、、、

でも球技者説だとマフラーみたいなものやヘルメットが上手く説明できなくて、、、




23体全体で儀礼の場を表現しているようですから、「小人ボクサーの演武」で良いのかも知れませんね。

あるいはサッカーチームのそれぞれのキャプテンが演武しているのか、、、




ところで、マヤ的にはヘルメットを被る(被り物をする)ことは普通なのです。

マヤの神様も動物や想像上の動物の口から顔を出している様子が表現されていることから、ヘルメットは何かしらの動物や神様、その他の超自然的な生物を模していると考えられます。

その模したモデルが「宇宙人」と言われたら、、、正直、面倒ですねヽ(TдT)ノ




おわりに

小像(figurine)と表記してきましたが、豆像って言うらしいですね。

まぁ私は小像の訳を用いてますし、あとは人型土製品とか人物象形小像とかかな、使うとして。

古代ギリシャとかメソポタミア、エトルリアとかでは所謂「テラコッタ」でしょうし、まぁ用語として色々微妙に定義が異なるのでしょう。


ところでこのマヤの小像は頻繁に出土するもので、私のティカルの調査でも破片ですが出土しています。

「型取り法」で作られていますから、表情とかはかなり精巧なものが多いです。

「型」で基本的な形を作ってから、アップリケ的に粘土粒や粘土紐を張り付けて様々な洋服や髪飾りなどを付けていきます。

でも今回の事例のように取り外しできるものはとても珍しいと思います。

他に類例を知りません。



しかもあのヘルメット、先端に青い石が付属してますよね。

これも大変珍しいし、この遺物を際立たせていると言って過言ではないでしょう。

よく取れずに残ったなと感心しますね。

よほど大切に、墓室内を細かな砂などで優しくきっちり充填されたのでしょうね。

いや、それにしても可愛い、古代マヤのマスコットキャラクターにしたい( ・Д・)



・・・・・・

余談ですが、上に挙げた小像の事例でカンガルーみたいなのいませんでした?

「古代宇宙人飛行士説」論者によると、オーストラリアのアボリジニも古代の宇宙人に知恵を授かったことになってますから、その後少しのカンガルーを連れてマヤに来たんだ!とか言ってくれたら面白いのにな。

まぁ儀礼的な演武の場を表現したものなので、立ち上がってカンガルーに見えるけど、実際はシカでしょうね。

今でもティカルにたくさんいますし、運がいいと見れますよ。

うん、宇宙人がオーストラリアからカンガルーをマヤ地域に移住させた説、いいな。

採用されないかな!?( ・Д・)



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2021ねん 10がつ 3にち(にちよーび、晴れ)

午前は研究して午後は記事とか動画に使う生活にしようかと思った矢先、薬のせいか昼まで寝たヽ(TдT)ノ

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arukemaya1629
↑シカかな?文様に見られるやつだね!( ・Д・)(「Twitter」の記事内画像より転載;元の投稿は削除されている模様)


今回の考古学・歴史ニュースは最古の三種の神器はどこで見つかってるの!?( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


前回の記事で「三種の神器が見つかった!」ってだけでけっこう『おー!』ってなったという話をしました。

一方で「県内初」ってことで、『そんなに出るものなんだ!?』って驚いたって話もしました。

「三種の神器」と聞くと天皇家の伝世品だし、なんだかとても珍しい気がしてしまったのですが、よくよく考えると、考古学で所謂三種の神器と呼んでいるのは「鏡・勾玉・剣」のことですよね。

古墳時代になると皆さんもご存じの通り、弥生時代よりもずっと立派な埋葬形態、つまり古墳がたくさん造られるようになります。


↓弥生時代の埋葬方法の話にも触れてます(*^・ェ・)ノ

↑これが前回の記事(*・ω・)ノ


お墓が大きくなるに伴って副葬品も豪華になる傾向が見られるので、古墳時代、特に古墳前期には「鏡・勾玉・剣」の所謂三種の神器がセットで見つかる事例は多数確認されます。

確認されている古墳だけで全国で約16万基ありますから、その中でも有力な人物が埋葬された比較的規模の大きな古墳だけだとしても相当数あることが分かるかと思います。

前回紹介したのは弥生時代のお墓において三種の神器がセットになって出土した事例なのでレアな発見になります(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!




さて、最古の三種の神器の事例ということで、今回の舞台は福岡県、福岡市にある吉武高木遺跡です。

この遺跡は国指定史跡になっていて、最初に挙げた画像にあるように『やよいの風公園』として整備・公開されています。

発見があったのは1984~1985年の調査時で、弥生時代中期の初頭、今からおよそ2200年前の特定集団墓が見つかりました。

この墓群の内の一つが「3号木棺墓」で、上に挙げた写真のように鏡、勾玉、剣がセットで副葬されていました。

勾玉は所謂「獣型勾玉」ですね。

2枚目の写真に見られるように、三種の神器の他に銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・管玉が出土しています。

前回紹介した三種の神器は弥生時代後期でしたが、こちらの吉武高木遺跡の事例は弥生時代中期に属し『最古の王墓』の異名を冠しています。





↓ぱっと検索しただけでたくさん...古墳関係の記事は意外に多かったΣ(・ω・ノ)ノ





↑タグ検索「古墳時代」でたぶん出ると思うけどこれでも一部です( -д-)ノ


おわりに

「最古の王墓」

カッコいい響きですよね。

福岡市は大きな都市ですし、上手く復元・展示してもっとアピールしてもらいたいものです。

直接訪れたことはありませんが、ホームページを見てる限り、あまり上手な運営にはなっていないように思えます。

発見自体が昭和期なので現在のような博物館・史跡運営、文化財活用とは異なるのは仕方ないとは思うのですが、やはりここは税金を投入してリニューアルしてしっかりと回収する方策を取って欲しいなと思います。

何でも観光地化・収益化するのはいかがなものかというご意見も当然あるでしょうが、まぁ「稼げる大学」を目指すような政府ですから『お金』は大事なのです。

そう言えば、当サイトのスローガンは「お金にならない考古学をお金にする」だった・・・

思い出した。

心機一転、頑張らねば!( ・Д・)



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2021ねん 10がつ 2にち(どよーび、だいたい晴れ)

生まれ変わるぅ~( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースはお墓251基出ただけでスゴイのに、三種の神器も出たってさ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台は佐賀県、大和町の七ヶ瀬遺跡です。

弥生時代後期(1~2世紀頃)に属する遺跡で長軸61m、短軸25mの大規模な墓域遺構が見つかっています。

これまでの調査で251基の墓がまとめて見つかりました。

私が調査者なら嬉し涙半分、哀し涙半分ってくらい、231基の墓ってめちゃくちゃ多いんですけど、、、

これでも九州北部域では有数ってくらいで最多記録ではないのですΣ(・ω・ノ)ノ

縄文時代は土壙墓(どこうぼ)っていう単純に穴掘って埋葬する方式が一般的でした。

縄文時代でも後期や晩期になると所謂「甕棺(墓)」(かめかん(ぼ))のような土器棺墓が一部見られるようになります。

弥生時代になると集団としての規模も多くなるので、自然と墓の数も増えるのはなんとなく分かるでしょう?

それだけではなく、弥生時代の葬制が変わることで考古学的に墓が発見しやすい状況になるのです(*・ω・)ノ


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↑弥生時代の埋葬方法(赤穂市立有年考古館 2015の画像を一部加工)


上に挙げたようにまず弥生時代には埋葬方法が少し変わります。

土壙墓と土器棺墓は継続的に見られますが、弥生時代になると被葬者の身分によって異なる埋葬方法が取られるようになると考えられているのです。

縄文時代から見られる最も一般的な土壙墓は相変わらず一般的に見られる一方で、特に新たに見られる木棺墓や石槨墓は有力者と思われる人物に用いられるのです(*^・ェ・)ノ


arukemaya1634
↑弥生時代の埋葬方法2(赤穂市立有年考古館 2015の画像を一部加工)


弥生時代には墓域を形成しますが、上に挙げたように一般向けの墓(左)と有力者向けの墓(右)に分けられる傾向が見られるようになります。

時期差もありますし、本当に『一般向け』なのかは問題ですが、こういった方形周溝墓や円形周溝墓は考古学的に検出しやすいのです。

更にこの(恐らく家族のためのお墓だから)複数のお墓を有する方形周溝墓は墓域において集中する傾向が見られます。

単独で立地するわけではなく、すぐ隣接した他の方形周溝墓が見られるのです。

なので結果として弥生時代の遺跡において一つの墓域を検出した際に非常に多くのお墓が見つかることがけっこうあるものなのです(*・ω・)ノ


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さて、話を戻しますと、七ヶ瀬遺跡では多数の墓が見つかっているわけですが、その中の墓から三種の神器が見つかりました。

三種の神器は天皇一族の伝世品として有名なもので、日本神話において天孫降臨の際に天照大御神が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けた三種の宝物、つまり八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ;草薙剣)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指します。

三種の神器がセットで見つかる事例としてはこれが佐賀県で初の事例となります。

勾玉は翡翠製、剣は鉄製、鏡は銅製でした。

鏡は4面いずれも中国製であり、前漢に作られたものと後漢に作られたものを含んでいます。

一つの墓に鏡が複数面伴う事例は全国的にはけっこうあるのですが、佐賀県では4面も出ることは珍しく、同県の二塚山遺跡に並んで最多の事例となります。

こういう発見を見ていると、邪馬台国論争、九州説の論者の気持ちも分かる気がしますね(*^・ェ・)ノ




↑天叢雲剣(草薙剣)について触れてます(*・ω・)ノ


おわりに

「三種の神器発見!」ってだけで私は『お~!』ってなったのですが、「佐賀県で初」ってだけあって全国的にはけっこう出土例があるようですね。

私はそっちの方に驚きました、全然知らなかった!Σ(・ω・ノ)ノ

次回は国内出土の三種の神器の事例について調べて記事にしてみようかなと思います!

あ、今日誕生日だから生まれ変わって記事もYoutubeも頑張るよ!( ・Д・)



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2021ねん 8がつ 14にち(どよーび、晴れ)

完全に夏休みモードだった。。。頑張ります( -д-)ノ

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今回の考古学・歴史ニュースはイスラエルで土師器が出たのかと思ったけど違ったよ!でもレアな発見らしいよ!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


さて、今回の舞台はイスラエル南部のキルベット・エル・ライ遺跡(Kirbat er-Rai)です。

まぁここで「士師記」の文章入りの土器が見つかったよってニュースなのですが、私には「土師器」かと思ってめちゃくちゃ驚きましたΣ(・ω・ノ)ノ

考古学やってる人なら、見間違えた人、私だけじゃないはず( -д-)ノ





土師器とは?

土師器って一般的には知られていない土器だと思います。

何故かというと小中高の歴史の教科書は「縄文時代は縄文土器」、「弥生時代は弥生土器」って教えるくらいの内容ですからね。

もちろんそれぞれの時期には他にもいくつか覚えるべき単語は僅かながらあるわけですが、テストにほぼ出ないですし、日本という国が学校教育として古代に興味関心がないのは明らかですね( -д-)ノ

この弥生土器に続く土器が「土師器」です。

まぁつまりは古墳時代の土器です。

正確には古墳時代だけではなく、奈良時代、平安時代にも作られます。

ちなみにこの土師器と対になるのが須恵器で、こちらは5世紀以降に窯焼きの技術の伝来と共に登場する高温焼成土器です。

上に挙げた写真だと左側の褐色系色調の土器が土師器で、最下段から右側にかけて配置されている灰色系色調の土器が須恵器になります。



写真にもあるように、土師器や須恵器には「高坏(たかつき)」がよく見られます。

下に挙げた写真が現代の高坏の例ですが、身の回りの事例だと、ひな祭りの飾りで見ませんか?

神棚に置く容器類も高坏のような形態、あるいは類似の「脚」が付く容器だったりします。

高坏は飲食物を載せる食膳具ですが、容器にはそもそも遮断の意味があるので、高い脚部を与えることで物理的に地面やテーブルなどの「汚れ」から離すことで、「穢れ」と遮断する宗教的意味合いを持つと考えられています。

神様や王族・貴族に対して「献上」の意味合いがある場合、その容器は高坏だったり、あるいは、器形が異なるとも同様の高い脚部を有するケースが珍しくありません。

ちなみに一番最初に挙げた写真の中、イスラエルのキルベット・エル・ライ遺跡で出土した土器群の左側にも高坏が2点見られます(・∀・)つ






士師記とは? 文字入り土器の重要性

士師記はキリスト教の旧約聖書の一部です。

出エジプトや十戒、海を割った話で有名なモーセの後継者であるヨシュアの死後から、予言者サムエルの登場に至るまでの約400年間に渡るイスラエルの民に関する歴史が描かれています。

具体的には他民族の侵略を受けたイスラエルの民を、「士師」と呼ばれる歴代の英雄達(民族指導者達)が救済する内容となっています。

さて、上に挙げた写真の土器は約3100年前のものと推定されているのですが、見事な保存状態です。

見たところ、焼きもしっかりしていますし、塗料の発色も素晴らしいですね。

描かれている文字は「jerubbaal 」で、エルバアルと読みます。

これは先に述べた「士師記」に登場する士師の一人である予言者ギデオン・ベン・ヨアシュの別名として知られている名です。


この土器は地面を掘った後に内部に石を敷き詰めた貯蔵穴の中から見つかったものです。

この遺構と地層の切り合い関係から問題の土器はBCE1100年頃、つまり士師記の時代のものであり、聖書以外で士師記の記述と一致する名が考古学のコンテクストで見つかった初めての事例となります。


まぁそのため嫌でも期待が高まるのでしょう。

こうした所謂「聖書考古学」をやっている人の中には「神学」の延長としてやってる人もいるので猶更なのですが、、、

調査者によると、土器は約1リットルの容量をもつ水差しであると考えられ、かつては油や香水、薬などの貴重な液体が入っていた可能性があるそうです。

また聖書におけるギデオンに関する記述と、このキルベット・エル・ライ遺跡の位置から、この水差しがギデオン本人の所有物であった可能性もあるとしています。


もちろん可能性はあります。

しかしこの土器破片資料から推定される形態の水差しは、特に油や香水、薬などの貴重な液体だけを入れる特殊なものなのでしょうか?(*^・ェ・)ノ?

また聖書の記述とは内容が異なる事例の場合、こうした個人の所有物であることを示すた
めに土器などに持ち主の名前を記すことは一般的だったのでしょうか?( -д-)ノ

当時、エルバアルさんはどれくらいいたのでしょうか?( ・Д・)


そもそもレアな発見であり、「聖書考古学」としても重大な発見ですから、広報として意図的に盛ってる可能性もありますが、論文化されないと評価のしようがありません。

真偽については続報に期待したいと思いますヾ(´ω`=´ω`)ノ





おわりに

最後に挙げた発掘現場の写真なのですが、、、

この辺りの発掘ではこうして土嚢袋(どのうぶくろ;略して「どのう」と呼ぶ)をベルトに並べるんだな~って思いました。

写真で見ると、土嚢の白いラインでくっきりと5つの小さな調査区(グリッド)が見て取れます。

このそれぞれのグリッドを隔てている未調査部分(つまりは土嚢の白いラインの下部)を『ベルト』と言います。


さてさて、なんでこんなことするのだろう・・・・・・


グリッドやベルトの説明をする上ではとても便利に感じましたが、こういう置き方だとベルトの保護になってないんですよね(組み方違います)。

写真の左側に、グリッド内側に落ちかけている土嚢が見当たりますが、こんな風にむしろ壁を壊してしまうんですよね。

乾燥地帯のようだから壁が脆いから保護してるのかと思ったけど、保護になってないし、

乾燥地帯で雨が突然降ってくると壁がやられるので保護してるのかとも思ったけど、そもそも日除けのテント建ててるし、、、

まぁ至る所の土嚢にガッツリ踏んだ痕跡あるので、、、免罪符的なアレかな。

さすが考古学者はこんなところにまでも象徴的な意味合いを持ってくるのだなと痛く感動してます。

・・・こいつらベルトを歩いてやがるぜ!( ・Д・)



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