あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

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    世界遺産

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    2020ねん 11がつ 17にち(かよーび、くもり)

    やる気スイッチを下さい(*^・ェ・)ノ

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    ↑天空の城ですね~(「NACIONAL GEOGRAPHIC」の記事内画像より転載;credit: PHILIPPE MICHEL/AGE FOTOSTOCK)


    今回はシーギリヤ遺跡がラピュタみたい!( ・Д・)ってお話です(*・ω・)ノ


    今回の舞台はスリランカ、マータレーにあるシーギリヤ遺跡です。

    考古学ニュースではなく、遺跡紹介なのでのんびりと写真を眺めてみてくださいな( -д-)ノ

    サムネイル画像に使ったライオンを模した入り口の写真を見かけた瞬間、「カッコイイ(・∀・)」ってなったので取り上げることにしました。

    正直、私もこれまで全然知らなかった遺跡です( -д-)ノ


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    スリランカにはアヌラーダプラを首都とした王国、「アヌラーダプラ王国」が紀元前4世紀~後11世紀まで存続していました。

    この王国の5世紀にはシンハラ王朝として栄えていましたが、477年、時の王であったダートゥセーナが息子であるカッサパ1世のクーデーターにより殺害、王権の簒奪が起きます。

    この新たな王であるカッサパ1世は、首都アヌラーダプラを離れ、より安全なシーギリヤへと遷都しました。

    484年にはマグマが固まってできたシーギリヤロックの頂上に要塞化した王宮が完成し、これが現在のシーギリヤ遺跡なのです。



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    シーギリヤはカッサパ1世の元で繁栄しましたが、弟であるモッガラーナによって攻撃を受けます。

    495年、カッサパ1世は喉を掻き切り自害し、シーギリヤは陥落しました。

    シーギリヤは13世紀~14世紀まで修道院として存続し、16世紀~17世紀にキャンディ王国によって利用されました。

    イギリス統治下の1851年にイギリス人によって再びシーギリヤロックは登頂され、1875年にイギリス人によって岩山に描かれたフレスコ画であるシーギリヤ・レディが再発見されました。

    その後、考古学的調査も進み、1982年に世界遺産に登録されました。


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    おわりに

    シーギリヤは「ライオンの岩」という意味だそうです。

    上に挙げた写真のようにかなり巨大なものなのですが、19世紀にイギリス人に再発見される時でさえ、ジャングルに覆われていてなかなか発見できなかったそうです。

    あの巨大な前足と爪がジャングルを分け入った先に出てきたらと思うと、その時の感動と興奮は只ならぬものでしょうね( ・Д・)

    「シーギリヤ・レディ」と呼ばれているフレスコ画はアプサラと呼ばれる天上界の歌い手や踊り子たちを描いたものと考えられています。

    1500年前のものなのにこの美しさですから、スリランカ芸術遺産の最高傑作に数えられているそうです。

    ただ残念ながら、元々500体以上のシーギリヤ・レディが描かれていたようですが、風化により現存するのは21体のみだそうです。

    文化財の修復・保存の必要性がここでも見られますね。

    またこうしたフレスコ画の近くの壁には、シーギリヤ陥落後から修道院時代に相当する8世紀から13世紀にかけて、この場所を訪れた僧侶や巡礼者による落書きが今も1000点以上残されており、こちらも歴史を伺える資料となっています。

    ……現代の落書きはただの破壊だからね!( ・Д・)



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    2020ねん 6がつ 24にち(すいよーび、曇り)

    明日、調査で遠出するし、山とか登るのに雨っぽい( ・Д・)

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    今回の考古学・歴史ニュースは「メキシコのカサス・グランデス文化って知名度低いけど、なかなか面白いよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    上に挙げたのは前回に引き続きフアポカ遺跡です。

    タイトルにある「絶壁に住んだ人々」ってのはこのフアポカ遺跡の人々のことです。

    CE1000~1400頃まで居住していたようです。

    さて、とりあえずフアポカ遺跡の写真をお見せしますね!


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    さて、日本語では「カサス・グランデス文化」について調べてもほとんど情報がないのです。

    スペイン語で調べるとチラホラと……

    でもそのほとんどが、カサス・グランデス文化の中心地、パキメ遺跡に関するものです。




    記事の見出し画像に用いたこの画像がパキメ遺跡です。

    カサス・グランデス文化のカサスは「Casa(家)」の複数形+形容詞である「grande(大きい)」の複数形からなる言葉です。

    上に挙げた写真のような光景を最初に見たスペイン人はきっと「大きい家」って思ったのでしょうね。

    実際には「アパートメント式住居」などという呼称が用いられていて、一軒の大きな家なわけではありません。



    また前回もお話したようにカサス・グランデス文化はチワワ州に位置しますが、同文化はカサス・グランデス川によって形成された渓谷に位置しています。

    中心的な存在であるこのパキメ遺跡を始めとして多くの遺跡は川の近くの開けた平地部に立地しています。

    なので渓谷の断崖に造られたフアポカ遺跡のような事例は珍しいのです。

    恐らくフアポカ遺跡は渓谷を見渡す見張り台のような役割を果たしていたのでしょう。


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    カサス・グランデス文化を中心として、後古典期(CE1000-1500)の文化は総じて、こうした土器・土製品が特徴的です。

    白っぽい羊毛色(薄いベージュ…ないし汚れた白( ・Д・))を下地(化粧土;スリップ)として、その上に黒色と赤色の塗料で彩文してます

    マヤ地域の方でも似たような感じになります。

    特に南部側では。

    分かりやすい特徴ですので、是非覚えてみてください(*・ω・)ノ




    おわりに

    「マヤ土器入門」として時期別の簡単な土器の見分け方を示すのも良いかも知れませんね。

    ほんと、書きたい記事もたくさんあるし、企画は止まってるし、、、

    Youtubeも止まってるし、、、

    でも日々の仕事と、論文優先だし!( ・Д・)( ・Д・)( ・Д・)


    いつものことですが、優しい気持ちで気長にお待ちくださいますようお願致しますっ!( ・Д・)

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    2020ねん 6がつ 21にち(にちよーび、晴れ)

    フリースペースにブログ書きに行ったら、PCの充電なくてただの散歩になった( ・Д・)

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    今回の考古学・歴史ニュースは「メキシコにはたくさんの文化遺産があるんだよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    当サイトでは以前より、メキシコは国を挙げて考古学調査と古代遺跡の観光地化に力を注いでいるんだよ!ってお話をしてきたかと思います。


    というのも、、、


    メキシコの古代文明と言えば、恐らく最も有名なのは『アステカ文明』ですね。

    1521年にコルテス率いるスペインのコンキスタドール達によって陥落した首都テノチティトランは現在のメキシコの首都であるメキシコシティの地下に眠っています。


    次いで有名なのはきっとユカタン半島北端に位置するチチェン・イツァ遺跡ですね。

    当サイトの管理するYoutubeチャンネルでもトップ画に使ってる「エル・カスティーヨ(城塞と呼ばれる神殿)」で有名な遺跡です。

    こちらのチチェン・イツァに関してはマヤ文明、あるいはトルテカ文明に帰属する遺跡です。

    このようにメキシコはたくさんの古代文明、古代遺跡が存在する国のひとつなのです。

    なのでエジプトのように古代遺跡を中心とした観光業に力を入れています。

    またエジプトのようにメキシコの北部には特に乾燥地帯がかなり広がっていますので、遺物や遺構の残りが良いというのも文化遺産活用が活発な国が有する共通点だと思います。





    今回紹介するのはメキシコ北部、チワワに所在するフアポカ遺跡です。

    チワワはその名の通り、あの日本でも大人気な小型犬のチワワのふるさとです(*・ω・)ノ

    フアポカ遺跡はカサス・グランデス文化に属しています。

    この文化は8世紀頃に生じ、その頃は狩猟採集生活が続いていました。

    大きく発展し、人口も増加したのが13世紀から14世紀にかけての頃と考えられています。

    このフアポカ遺跡はカサス・グランデス文化の中心地ではありませんが、断崖絶壁に造られた住居で有名です。



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    メソアメリカ諸文化はかなり類似点が多いです。

    恐らく長距離交易 を通じて様々な情報が行き交ったのでしょう。

    建造物の壁面に見られる『T字型の窓』も類似点のひとつです。



    これは古代マヤ文明の古典期(CE250-1000)に帰属する建造物壁面にも多く見られるものです。
     
    例えば、私の調査しているグアテマラの世界複合遺産、ティカルでも見られます。

    マヤ文明研究においては「T字」は「イク(風の意味)」を表していると考えられています。

    恐らく、古代マヤの宗教観における創造神・最高神であるククルカン(ケツァルコアトル)が、雨雲を呼ぶ風の神としての性格でも崇められたため「T字」が多用されたのだと思います。

    (これ私の意見、というか感想……直感?(笑) ちょっと宗教関連疎いので近いうちに先行研究を調べておきますね( -д-)ノ)

    実際にこの「T字」文様は土器の図像等(彩文・刻文)にもよく現れます(*^・ェ・)ノ


     

    おわりに

    次回、また他のフアポカ遺跡の写真を紹介したいなと思います。

    以前、カサス・グランデス文化関連について少し調べたことがあるので、カサス・グランデス文化とフアポカ遺跡について次回はもう少しだけ詳し目に記述できればと思います。


    ところでちょっと行きにくいけど、こういうホテルとかいいですよね(・∀・)つ

    そう言えば洞窟ホテルってどこかにあったような……



    世界には様々な遺跡や博物館があります。

    是非、色々と周ってみたいものです……


    お金と時間に余裕があったらねっ!( ・Д・)

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    シンクタンク作りたいけどすでに多忙過ぎる( ・Д・)

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    今回の考古学・歴史ニュースは「万里の長城の役割って、チンギス・ハーンの軍勢を止めるためじゃなかったらしいよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ


    まぁちょっとオーバーなタイトルかも知れませんが、今回分かったのはそういうことです( -д-)ノ



    万里の長城は現存する長さだけでも約6259kmもある非常に長い壁です。

    まぁ所謂「中国史」では北方の異民族との対立と彼らの侵入を繰り返してきたわけですが、その防御のために作られたのが「長城」です。



    長城といっても時代として8期に分かれていて、色々な場所に建設されています。

    BCE500頃から始まる戦国時代において各国が防御壁を作り始めたのが最初ですが、北方の異民族問題としては匈奴対策としてBCE214年に秦の始皇帝によって長大な防御壁が築かれたのが最初になります。

    その後も前漢、北魏、北斉、髄・明などで長城は建設され続けました。



    戦国時代の長城のように全ての長城が北方民族対策目的で建設されたのではなく、分裂期には隣国との境界にも造られています。

    しかしながら概ね北方の異民族の対策と言えるでしょう。



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    万里の長城について

    こうした多々ある長城の内、最も大きいことからよく知られているのが「万里の長城」です。

    先に述べたように、最初に築いたのは秦の始皇帝です。

    BCE214年に匈奴対策として建設され、その後も増改築が繰り返され、ほぼ現在のような状態になったのは明代(CE1368-1644)になってからです。

    北方の異民族集団は騎馬民族として有名なため、漢民族系である農耕民族と北方の遊牧民族の境界線として長城が説明されることが多いです。

    しかしながら実際には長城は草原の中に建っているところが多く、長城を草原側にじわりじわりと侵入して建設することで遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためと考えられています( ・Д・)

    なんかやることがセコイ気がしますが、このように万里の長城の役割は北方の異民族対策と考えられてきたのです(*^・ェ・)ノ


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    ↑説明のため再掲


    今回の発見と新解釈

    ヘブライ大学のギデオン・シェラク・ラヴィ率いる研究者グループが無人機のレーダーシステムと高解像度の衛星画像を使用して長城の北線の地図を作成しました。

    その長さは約750km!Σ(・ω・ノ)ノ

    そうした中で上に挙げたような方形構造物も発見したそうです。



    立体地図を作成してみると、長城の北方線のほとんどはモンゴルを通過しているものにも関わらず、土で造られていることが分かりました。

    しかもその高さは非常に低いものだったのです。


    一方で発見された方形構造物は関所や見張り小屋のような役割を果たした可能性を当初考えていましたが、この建造物基壇も土製で、高さはともて低く、さらに交通に便利な小道の傍に造られていました。

    つまりこのエリアの長城も関所(?)も全く防御力がないことが分かりましたΣ(・ω・ノ)ノ



    この区域が建設されたのはCE1001~1300頃で、ちょうど明が現在のような万里の長城に改築する前の頃になります。

    従来はこの頃からチンギス・ハーンによる侵略から防御するために長城が改築されていたと考えられていました。

    しかし今回の発見により、(あくまでこのエリアに関して)この時期の長城の役割は敵の侵略を抑止することを目的としていたのではなく、人や家畜の動きを監視したり、妨害したりすることで、課税するためのものだったのではないかと考られるということです。



    まぁあれだけ大きい壁を建造するにもお金たくさんかかるもんね……( -д-)ノ

    世の中、金だね!( ・Д・)






    おわりに

    高解像度の衛星画像とかLiDAR(小型航空機等を用いたレーザー測量技術)とか流行ってますけど、お金がねぇ( -д-)ノ

    無料で利用できるものも存在してはいるのですが、とりあえず今の自分のやりたい研究とはマッチしないからいいかな……



    そう言えば、(私自身は文系・理系の区別を好ましく思ってはいないが……)人文科学を中心としたシンクタンクを作りたいのですよ。

    研究助成金は獲得してくるので、獲れたら誰か適切な若手研究者に手伝ってもらいたいなと思っております。

    『子供の教育問題』とか『自然環境問題』とか色々な調査研究助成はあるものなのです。

    全国の若手研究者(アンケート調査やフィールドワーク可能であれば誰でも可能)に登録して頂いて、専門性として適切な方に調査研究の仕事を振っていく形のオープンシンクタンクを構想しております。

    興味ある方は是非ご連絡下さい(ひとまずはTwitterのDMでお願い致します)ヾ(´ω`=´ω`)ノ


    あ、気付いた?そう、今回の終わりはただの宣伝だよっ!( ・Д・)


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