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あるけまや -考古学・歴史ニュース-

「考古学」を中心に考古学・歴史に関するニュースをお届け! 世界には様々な発見や不思議があるものです。ちょっとした身の回りのモノにも歴史があり、「らーめん」すらも考古学できるってことを、他の考古学・歴史ニュースと共にお伝えします!(。・ω・)ノ゙

タグ:中世

2020ねん 6がつ 6にち(どよーび、晴れ)

そろそろ国内の資料調査行っても許されるだろうか?( ・Д・)

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今回の考古学・歴史ニュースは「美人考古学者を発見したよ!( ・Д・)」ってお話です(*・ω・)ノ



前回から「広報・外部用の記事タイトル」と、「記事内タイトル」を大幅に変えてみましたが、、、

さすがにこれは違い過ぎるか!( -д-)ノ

まぁある程度のおふざけは管理人のストレス発散の一環として大目に見てくださいなヾ(´ω`=´ω`)ノ




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さて、今回の舞台はイタリアのベネチアです。

上に挙げた写真のように「水の都」として有名ですね。

このベネチアにある潟(ひがた;ラグーナ)に浮かぶサン・ラザロ島にある修道院で、中世の遺物として展示されていた金属の刀剣がありました。


修道院の記録文書によると、この刀剣は1886年の8~9月にトルコのトラブゾンにある同じ宗派の聖職者組織から贈り物として届けられたものだそうです。



で、問題の刀剣がこれです(*・ω・)ノ



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↑実際に「中世」と記されていた刀剣(「CNN.co.jp」の記事内画像より転載)



長さ約43cmの金属製の刀剣です。


この「中世」との表記があった刀剣の展示を見た博士課程の学生がその年代に疑問を持ったそうです。


とういうのもこの学生は青銅器時代が専門で、自分の調査研究で知っていた刀剣と形態が類似していることから、もっと古いものだと確信したそうです。


青銅器時代であれば5000年前に遡る可能性があります。


そこで、学生の所属するベネチア大学とパドバ大学が共同で刀剣の金属の化学組成を分析した結果、ヒ素を含む銅の合金で作られていることが分かりました。




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申し訳ないことにここから先の記事の意味が理解できなかった(これまでの文章との前後関係が理解できなかった)ので、引用しておきます。



この合金は主に紀元前4世紀の終わりから同3世紀初めにかけて使われていたもので、青銅の使用が定着する前の年代であることを意味する。


同じ化学組成を持つ刀剣2本がトルコで見つかっているが、これらは形状も非常に似通ったものとなっている。


当時はコーカサス地方やアナトリア地方、エーゲ海諸島及びギリシャ本土で新たな貴族階級が勃興していた。考古学者らはこうした刀剣について、武器であると同時に権威の象徴としての役割も果たしていたとみている。


(CNN.co.jpより)


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どういうことなのか、さらっと読んだだけでは理解できないのです( -д-)ノ


(勉強不足で申し訳ない)



私なりの考えを以下に書いておきます。



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↑再掲(緑色の部分見えますよね?剣の中ほどとか特に。)



まず上に挙げた刀剣をよく見て欲しいのですが、「緑青」が見えますよね。


「緑青」は銅が酸化した際の錆で、緑色になるのはご存じの方も多いかと思います。


だから青銅製の剣だなんてパッと見で分かるやん!って思います。




そしてヨーロッパにおける青銅器時代はBCE3000年に始まります。


ヒッタイトの滅亡により鉄器の知識が広がるのがBCE1200年頃です。




ということは、参考記事の「5000年前に遡る可能性がある!」なんて記述は、青銅器時代の始まりを指しているだけなんですよね( -д-)ノ




実際の分析結果では、刀剣の素材は銅とヒ素の合金でした。


こういった合金が使用されたのがBCE300-200頃だと書いてます。




なら古く見積もっても2500年前じゃない?


二倍も違うよ?( ・Д・)





また「青銅の使用が定着する前」ってのも全く理解できないですね( -д-)ノ




青銅器時代は利器として青銅が主に用いられた時期です。

鉄器時代に入り、鉄器が普及しても青銅器はただちに消えたのではなく、祭具・儀礼品として製作が続いていました。

なので、BCE5世紀以降に青銅製品があってもおかしくはないのです。




(以降、混乱するかも知れませんので確認しておきます。CE・BCEは『共通起源』として当サイトで使用しています。

CEが西暦・紀元後;ADに相当し、BCEが紀元前;BCに相当します。

以下の記述はCEですから西暦・紀元後のお話です(*・ω・)ノ)




一方で、ヨーロッパにおける中世という使用は幅広く、CE500-1500年まで全部中世です。

中でも一番古い中世前期がCE500-1000です。

明らかに鉄器時代ですから、もちろん「中世」という緑青付き刀剣への表記は間違っています。

学生も研究成果も正しいです。


でも、なんだろう、このとてつもない違和感は……( ・Д・)


おわりに 記事の真実はいかに?

上に挙げた写真(右)がベネチア大学の博士課程で考古学を研究するビットーリア・ダラルメリーナさんです。


綺麗な考古学者もいるのですね。


ちなみに「美人・考古学者」で検索すると日本語、英語、スペイン語ではほぼヒットせず、アニメや映画のデータが見つかります。


だから「美人考古学者」は実在しないのだと思ってました( -д-)ノ



結局、この記事、よく分からないのですが・・・

原因の所在として考えられるのは、



①この記事を書いた人が歴史的なことを何もチェックしなかった

②5000年前という古さを強調して、注目されたかった

③美人だから忖度した( ・Д・)



日本とヨーロッパ、あるいは他の地域でもそうですが、「中世」なんて用語は使い方や時期が異なりますので注意が必要です。



ま、まとめると

『展示されていた刀剣が実は古かった!』、

『博士課程の院生が気付いた!』、

『美人の考古学者が実在した!』、

の3点が今回のニュースの骨子でしょうかね。



結局、実際のところ、どうしてこうなったかは不明だけど、、、

考古学でもで顔面偏差値は重要だぜっ!( ・Д・)


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2019ねん 2がつ 10にち

変な夢は見るが、怖い夢を見なくなった気がする!

いいことだ.。゚+.(・∀・)゚+.゚


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今回の考古学・歴史ニュースは「中世のお城の隠し部屋からボードゲームが見つかったよ!」というものです。


↓過去にも古代のゲームについて書いていたので紹介しておきますね( -д-)ノ↓


さて、舞台はロシア、レニングラード州にある都市、ヴィボルグです。現在はロシア領ですが、かつてスウェーデン領やフィンランド領でもあったという歴史を有しています。


この都市で最も有名な建物がヴィボルグ城です。上に挙げた写真の通り、自然に溶け込んだ美しい古城のイメージにぴったりなお城ですね。

このヴィボルグ城は13世紀にスウェーデン人によって建てられ、19世紀末に大規模な改修工事が行われたそうです。


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↑ヴィボルグ城で見つかった隠し部屋らしい(「Выборгский музей-заповедник」さんの投稿写真を転載;ロシア語)


ヴィボルグ城では発掘調査が継続して行われているそうです。上に挙げた写真は昔や現在の調査時の様子を捉えたものです。


写真から分かるように、城の下には地下通路があることが分かっており、ヴィボルグ城からヴィボルグの町まで地下道で繋がっていた可能性があるそうです。

よく物語で出てくる「秘密の抜け道」みたいなものでしょうか。


この地下道の中で隠し部屋があることが分かり、そこで中世のボードゲームが出土しました。


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出土したボードゲームは粘土のレンガに模様が刻まれており、「ナイン・メンズ・モリス」というゲームの一種と推測されています。


写真を見てみるとやけに大きなレンガブロックであることが分かります。また一部は弧状に欠損しています。

文様はレンガの横幅一杯になるように配置されています。またレンガを焼成した後にゴリゴリと削って文様を描いているようです。


となると、恐らくこの隠し部屋は地下道の通行を見張る監視所的な役割を果たしていた場所なのかなと思います。

お城に自由に行き来されても困りますからね( -д-)ノ


そしてこの大きなレンガは地下道を維持するための補修に必要な建材の内の一つであったかも知れません。

つまり見張りの兵士は暇潰しとして、蓄えられていた建材あるいは残っていた建材を利用して、表面を削ってゲームのためのボードとして使ったのでしょう(*・ω・)ノ


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まぁ恐らくそんなところ……ところでこのボードゲームは「ナイン・メンズ・モリス」という対戦型のゲームだそうです。


歴史記述として確認されている最古の例は西暦8年、帝政ローマ期のものです。


中世のイギリスで最も流行したとされており、世界中に様々なバリエーションとして広がっていったようです。


ちなみに日本では、明治初年に売り出された「石並取(いしなとり)」あるいは「十六むさし」というゲームが、このナインズ・メンズ・モリスに相当するゲームになるそうです。


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2018ねん 7がつ 18にち(すいよーび、曇り)

最近、アボガドを生ハムで巻いて食べることにハマっておる。

海外ではアボガド安いから、

よくわさび醤油付けて、おつまみにしてたなぁ。

あ~、マグロ&アボガド丼つくろーっと!(・∀・)つ

私のテンションは食べ物で変わると最近気づいた( -д-)ノ

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今回紹介するのは「毒の付いた本」です!しかも大学図書館に所蔵されていたそうです。毒が付着していたことは後から分かったようで、本当に危険ですよね!

舞台はデンマーク、南デンマーク大学図書館です。同大学の教員が16世紀~17世紀の3冊の歴史書を分析しようとしていました。

実際に分析したかったのは本の中身じゃなくて、カバーの方でした。カバーは古い他の羊皮紙製の印刷物を再利用して作られたもので、そこにはラテン語の文章が隠さていたのです。

しかしカバーとして再利用した際に塗布されたグリーンの塗料があまり厚く、読むには邪魔であったのです。

そこでまず蛍光X線分析(micro-XRF)を用い、緑の塗料の化学組成を明らかにすることにしました。蛍光X線分析は考古学でもお馴染み方法ですね。石器や土器の胎土を対象とした産地同定分析に用いられることで知られています。

私も粘土を対象に一度分析したことがありますが、非破壊の分析ですし、分析が比較的早いのでなかなかに優秀な分析法だと思います。簡単に言うと、試料にX線を照射すると、試料に含まれる元素に応じて発生した蛍光X 線を分光素子で分光し、測定するものです。

機器によって多少の差異はあるようですが20元素(Na, Mg等と化合物)と4微量元素(Rb,Srなど)といった試料の化学組成を明らかにできます。

このような手法による分析結果として、本についていた緑色の塗料には高濃度のヒ素が含まれていることが判明しました。

カバーから検出されたヒ素入りの塗料は、パリスグリーン(花緑青)と呼ばれる人工顔料であることが分かりました。様々な緑色を出せることから、19世紀には絵の具や建築用塗料として利用されていました。

後に触れると皮膚が炎症を起こす事例が多く確認され、ヒ素に由来する強い毒性があることがわかりました。そのためヒ素は殺鼠剤、殺虫剤、農薬としても盛んに用いられ、羊皮紙にパリスグリーンが使用された理由も、書物を虫やネズミなどの被害から守るためだったと思われます。

ヒ素は生物に対する強い毒性があることだけではなく、強い発がん性(最も高いグループ1に分類)を有することで知られています。

ヒ素は13世紀には知られていて、15~16世紀には暗殺用の毒として使われていました。無味無臭かつ無色、そして入手が容易だったのが主な理由ですね。このように古くから危険性が周知されていますからね、19世紀段階で塗料に混ぜ込むなよ!って思いますけどね( ・Д・)
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最初の見出しに挙げた写真のように、古い本ってなんか素敵じゃないですか? 昔、いいホテルに泊まるのが趣味で、大統領の住居だったホテルとか元総督府のホテル、元修道院のホテルに泊まってみたことあるんですけど、古く趣ある調度品に目を奪われたものです。

その時思ったんですけど、古い本ってインテリアになるな~って。それで海外の古書市で、めちゃ古い本買ってみたことあるんですよ。内容、読めないのに( ・Д・)

まぁもちろんそんなに古い本が混ざってることはないと思いますけど、混ざってても値が張るので買えない! 小さな国だとけっこう掘り出し物もあって面白いんですけどね。

これからは本の古さと装丁に気を遣ってみようかなと思います。古本触ったあとに、その辺で手づかみで何か食べたら、大変なことになるかも知れませんしねヽ(TдT)ノ

古い本や絵画には今回と同様の危険性がありますので皆さまもご注意ください!( -д-)ノ

↓安心して下さい。このボタンにヒ素は付着しておりません(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!↓

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2018ねん 5がつ 22にち(かよーび、晴れ)

暑い!めちゃくちゃ暑い!

日も長くなって、夏が来るなぁと実感する。

さて汗だくになって頑張って働きますかーい!( -д-)ノ

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今回はニューヨークタイムズの記事から紹介します。タイトルにあるように、「中世ヨーロッパの墓から赤ちゃんの骨が出土したけれど、何故か右手だけミイラ化してた!」という謎についてのお話です。良かったら、二番目の写真を確認したところまでで「何故右手だけ?」の理由を推理してみてくださいねヽ(・ε・)人(・ε・)ノ ナカマ

さて、ハンガリーのセゲド大学の生物人類学科に所属するヤーノス・ボラージュ(János Balázs)らは、2005年にハンガリー南部の村、Nyárlőrinc(にゃるろりんく…読めません!ヽ(TдT)ノ)での古い墓地で発掘調査をしていました。

この調査成果として、主に12世紀から16世紀の間に作られた500基以上の墓を検出しました。しかし、それらの埋葬のどれもがミイラ化した緑の手のようなものではなかったのです。

最初に挙げた写真で示した、ミイラ化した緑色の赤ちゃんの手を発見した当初、ボラージュは、この小さな右手の骨だけが緑色でミイラ化していた理由を分かりませんでした。

この謎にボラージュらは10年以上もの時間をかけて挑み、今回そのユニークなミイラ化のプロセスが明らかになったとのことです(=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!

下の写真に見られるように、赤ちゃんの古人骨の内、いくつかの椎骨、股関節骨および脚骨を含むいくつかの部位が緑色に変色していました。どちらの前腕も緑色ですが、右側の手は依然として乾燥した肉で覆われていました。背中の近くの皮膚もミイラ化しており、5つの椎骨片が埋め込まれたままでいたそうです。肋骨のほとんどの部分や、肩の骨および上腕骨2つは変色していませんでした。

ボラージュらは、小さな骨格を調べることによって、故人が誕生直後に死亡した死産または未熟児の早産のいずれかであると判断しました。研究者らは子供の体重が11〜13インチで、重さは1〜2ポンドと推定しています。



・・・・・・はい!(。・ω・)ノ゙推理タイムはここまでです( -д-)ノ・・・・・・



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実は、考古学的に言えば、緑色の骨は中世ヨーロッパの墓地では珍しいことではありません。ブロンズ製や銅製のジュエリーによって骨格が劣化した際に変色することが多いのです。そのため研究者らは子供の体が何らかの金属と接触していると考えました。しかしどうしてその謎の金属物体はその小さな手の近くだけに影響を与えたのでしょうか?

研究者らは遺骨の化学分析を行い、その子どもが平均よりも数百倍も高い銅濃度を有することが分かりました。実際にこれまで彼らは分析したミイラの中でも最高レベルの濃度でした。

そしてボラージュは赤ちゃんが見つかったお墓内部に収納ボックスがあることを発見しました。彼が箱を調べると、中には小さい陶器と腐食した銅のコインが入っていたのです。これがヒントになりました。

研究者らは、小さな子供が土器の中に入れられて埋葬される前に、誰かが銅のコインをその小さな手に持たせたからと結論づけました。古代の多くの文化は、魂を後世に連れて行くために神話的な「渡し守」に支払う方法として、コインを死者に捧げて葬っています。

この場合、コインの銅の抗菌性が子供の手を腐敗から保護したと考えられます。埋葬土器内の状況に加えて、赤ん坊の手をミイラ化するのを助けたのです。研究者らは、この子供の埋葬が、銅がミイラ化を引き起こすことを示した最初の科学的事例かもしれないと考えているそうです。
恐らく埋葬土器内の子供は窮屈な姿勢にあった可能性が高く、そのためコインの銅の腐食が骨格の他の部分をも変色させたと考えています。

またこのボラージュらの研究チームは未熟児の埋葬が他にもう2例あることも突き止めました。今回の事例のように 1つの墓では緑色の骨を持ち、コインと埋葬土器がある類似の事例でしたが、もう一方の墓では骨は通常の色調でコインも埋葬土器もなかったたそうです。

何故埋葬方法が皆同じではないのか? ということで、手に添えられた銅貨幣は1つの謎を解決しましたたが、別の謎を提示したのです。

赤ちゃんと一緒に発見された特定の銅貨、すなわち「Kreuzer」または「krajcár」は、1858年から1862年の間に流通していました。つまり、この事例は発掘によって多数検出された他の周りの墓とは異なり、中世の埋葬事例ではなかったのです。この期間のクリスチャンは、伝統的に死者に硬貨をつける風習はありませんでした。

ボラージュらは、この子供が生まれる前または直後に死亡したため、バプテスマ(キリスト教の洗礼)を受けていない可能性が高いと推測しています。そのためコインと土器で子供を葬った者は、亡くなった子供を宗教的に安心して送るための方法を見つけたのだと考えています。

そしてある意味で、それは機能したと言えます。主に右手だけですけども。

研究者は「150年後にまだ赤ちゃんとその葬儀の状況について話しているので、この幼児の救済に成功しただろう」と述べているそうです。確かにね(*・ω・)ノ

ちなみに現在のこの赤ちゃんの古人骨は、ハンガリーのモラ・フェレンチク博物館で遺物が展示されているそうですよ!

やはり、こういう発見ものや、謎解き系は考古学の醍醐味ですし、記事にしても面白いですよね!(。・ω・)ノ゙ 今後もこのような記事を紹介していきますので、全部読み終えるまでに推理してみるのも楽しみ方のひとつですよ(・∀・)つ

↓ここをぽちっとするのも楽しみのひとつ…だったらいいのにヽ(TдT)ノ↓

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